光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

2009年08月

北朝鮮による日本人拉致問題と不破哲三氏

宮本議長時代における北朝鮮の「野蛮な覇権主義」との闘争
1983年に北朝鮮の手によってひきおこされた国際テロ行為として有名なものがラングーン事件である。
この事件は金正日の指令により、ビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーンのアウンサン廟にしかけた爆発物で現地訪問中の韓国閣僚21人の命を奪った血なまぐさいテロ行為であったが、日本共産党はこの事件を北朝鮮指導部による「野蛮な覇権主義」と決めつけ、朝鮮総連北朝鮮の朝鮮労働党との関係を断絶した。

また、1987年11月にも東南アジア上空を飛行中の大韓航空機が爆破され、115人の乗客の命が奪われるという爆弾テロ事件が発生したが、爆破犯人のひとり金賢姫はこれが金正日のじきじきの指示によるものと自白をし、北朝鮮によるテロ事件であることが判明する。
この非道なテロ行為にたいし、当時日本共産党議長であった宮本顕治氏はこれを北朝鮮による犯行と断定し厳しく糾弾したが、当時の社会党委員長であった土井たか子氏が北朝鮮の言い分を鵜呑みにし、この事件への北朝鮮の関与を否定したことを考え合わせると、当時の宮本氏の判断が実に的確であったことが浮かびあがってくる。

また、同時期に日本共産党は宮本氏の指導で日本人拉致事件の解明に積極的に取り組んだ。
1988年の参議院予算委員会で同党の橋本敦議員が70年代に日本海沿岸などで忽然と姿を消した5件8人の問題を詳細に追及し拉致問題を初めて国会の場で取り上げた際に、当時の梶山国家公安委員長から「これらのケースは北朝鮮による拉致による疑いが強い」との答弁を引き出し、この国会質問が拉致の問題に消極的であった政府を追い込んで解決へと向かわせる大きな転機となったことは知られている。

このように「北朝鮮の覇権主義」を厳しく糾弾し続けた当時の日本共産党は朝鮮総連との関係も断絶したうえで、「いっさい接触せず、カンパや機関紙などもいっさい受け取らず、送ってきたなら送り返せ」という方針を掲げ、それに反すれば規律違反として処分の対象にしたのである。

不破哲三氏による朝鮮総連との関係修復とは!
だが、1997年に宮本氏が引退し、文字どおり党の最高指導者となった不破哲三氏は突如として、2001年の党大会に朝鮮総連の来賓を招待し、同年の総連の大会にも志位委員長を出席させて“あいさつ”をおこなわせるなど、総連に対する党の方針を事前における何の説明もなしに転換させてしまった。

さらに、不破氏は2005年の朝鮮総連結成50年記念レセプションに駆けつけ、朝鮮総連の幹部を前に「私たちにできる仕事があれば、喜んで実行に移し、力を尽くす用意があります」と発言し、いよいよ党と総連との関係を“一心同体”と言うべき関係に押し進めていく。

北朝鮮の日本国内における事実上の工作機関であり、拉致事件への関与が疑われる朝鮮総連への不破氏によるこのような方針変更は、日本共産党が今後は拉致日本人の救出活動はやらず、過去に「帰国事業」の美名の下で朝鮮総連にだまされて北朝鮮の強制収容所へ送られた日本人妻や在日朝鮮人帰国者の救援活動も、今後はやりませんと事実上誓約することを意味していた。

そして、不破氏は朝鮮総連への突然の方針転換と機を同じくして、拉致問題はたんなる“疑惑”に過ぎないと主張し始め、宮本氏の指導の下に解明に消極的であった政府を解決へと向かわせたかっての日本共産党のこの問題に対する前向きな姿勢を転換し、拉致の問題の事実上の棚上げへと切り替えていく。

小泉訪朝で北朝鮮の犯罪が白日のもとに晒される!(同時に不破氏の誤りも)
だが、2002年9月17日の小泉訪朝の際に日本人拉致をおこなったことを金正日が自白したことが、「拉致は疑惑に過ぎない」と主張してきた不破氏の誤りを白日のもとに晒すこととなってしまう。
慌てた不破氏は機関紙の赤旗で1988年の橋本参議院議員の質問を取り上げ、我が党はどの党よりもいち早く、かつもっとも積極的に拉致の問題に取り組んできたとのキャンペーンを展開し、自らの誤りの言い訳を始めたが、この質問が切り開いた積極的な方向に水を差し、拉致問題の事実上の棚上げを主張した不破氏の誤りは明らかだ。

不破氏による党内での何の議論も無しの朝鮮総連や北朝鮮にかんする方針転換は、残念ながら国民に日本共産党は北朝鮮と“べったり”の関係にあることを印象付けたのみならず、この不破氏の拉致問題における誤りは何の検証もおこなわれないままで今日にいたっている。

それ故、拉致の問題をめぐっての不破氏の誤りによる政治的な損失は大きく、このために国民のなかに定着してしまった日本共産党の親北朝鮮・拉致問題棚上げのイメージは各種の選挙での党の連戦連敗の底流に抜きがたく存在し続けた。
2001年の参議院選挙での8議席から5議席への後退に始まり、2003年の総選挙では20議席から9議席と後退、さらには2004年の参議院選挙でも15議席から4議席へと大幅に後退し、同時に45年ぶりの選挙区での当選者ゼロというオマケまでついた。

60年代における小さな党勢の際にも参議院選挙では東京や大阪での選挙区で議席を確保していたことを思うと、これは歴史的大敗と言うほかはなく、その後の国政選挙においても党勢の停滞と党議席の後退という流れは基本的に変わっていない。

不破哲三氏には文字通りの引退を望む
不破氏はマルクスやレーニンの著作の解釈という訓詁の学では右に出るものがおらず出色の存在ではあるが、こと日本共産党の指導者、および政治家として見るとそのギャップの大きさを否定できない。
不破氏が輝いて見えたのは宮本氏という太陽があっての輝きであり、宮本氏あっての不破氏であったのか、宮本氏引退のあとに独り立ちした不破氏には失策が目立つ。

不破氏の最大の失策は拉致問題でのそれであり、それが党を各種選挙での連戦連敗へと導く大きな要因となるが、このことは戦犯政治家岸信介の孫であり極右の自民党政治家である安倍晋三がさしたる実績がないにもかかわらず、拉致問題を最大限に利用しながら首相の座に一度は登りつめたことと鋭い好対照を成している。
私は個人的には不破氏の文字通りの引退を望んでおり、不破氏は自発的に党の指導部から退き後身に道を譲っていただきたい。

朝鮮総連結成50年記念レセプションでの不破氏のあいさつの内容
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-05-25/02_02_0.html

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民主党の極端な“1人勝ち”がはらむ危険性について

自公政権ノー」の流れが止まらないという。
衆議院解散後、いよいよこの傾向が加速化し、同時にこの流れが「二大政党」の「政権選択」というマスメディアあげての長期にわたる大キャンペーンのもとで、民主党への支持増大という大きな流れとなって日本列島を覆いつくしている。

朝日・読売・毎日・日経といった新聞メディア(全国紙)が選挙告示翌日の19日から21日にかけて特別世論調査をおこない、その結果をもとに衆議院選挙予想を公表したが、いずれの予想も「民主300議席うかがう勢い」(朝日)、「民主300議席越す勢い」(読売、日経)と民主党の大躍進を予想する情勢調査のオンパレードとなり、毎日新聞にいたっては民主党が単独で320議席を獲得して衆議院の3分の2以上を占め、提出法案が参議院で否決されても単独での再可決が可能との予想を公表し世間の目をひときわ引いた。

民主党の極端な“1人勝ち”のはらむ危険性について
さて、「自公政権ノー」の今回の大きな流れを形作った要因の一つは、2005年の郵政選挙で「郵政民営化は改革の本丸」キャンペーンのもと、小泉改革を信じた有権者が自公に衆議院の3分の2を与えたことにある。
この衆議院における自公の3分の2はその後の悪政の推進に利用され、2007年の参議院選挙で民主党が大勝し自公政治ノーの民意が示されたにもかかわらず、これを無視した自公政権が財界やアメリカいいなりの悪政を推進するために再可決を重ねたことが自ら墓穴を掘る結果を招いた。

だが、一部のメディアの世論調査に見られるように今回の総選挙で民主党が衆議院の3分の2を超える320議席を獲得したら、同じような状況が民主党にも発生すると考えることは不自然ではあるまい。
民主党の極端な“1人勝ち”は自公政権の数の横暴で形骸化した議会制民主主義をさらに死に体(レームダック)化させる危険を増大させ、衆議院の圧倒的多数を握った民主党がこの間の自公政権と同じように再可決を乱発する問題がまた出て、「良識の府」である参議院の存在意義はますます形骸化してしまう。

多くの有権者が「政権交代」を望んでいることは否定しようのない事実であるが、有権者が「政権交代」を選択する理由は、自公による長年の悪政を断ち切るためにそれが必要だと思い定めたからに他ならない。

だが、財界やアメリカいいなりという自民党との共通項を有する民主党が衆議院で3分の2以上の多数を取ったら、自公政権の二の舞を舞う可能性が非常に高くなることは避けられないのではあるまいか。
このような事態になれば、ほとんどの有権者は「こんなはずではなかった」とホゾを噛むこととなるだろう。

民主党の政策上の問題点について
また、民主党のマニフェストには「官僚支配の打破」はあっても、国民を苦しめる悪政の根源にある「財界支配の打破」や「米国支配の打破」は書かれていない。
また、同党のマニフェストでは将来における消費税の増税を否定してはいないし、「憲法に、何らかの形で国連が主導する集団安全保障活動への参加を積極的に位置づける」とある。
これは同党がマニフェストにおいて軍事行動も含む国連の集団安全保障活動への参加を表明したことに他ならず、9条改憲への志向を鮮明に打ち出したものとなっている。

「自公政権を終わらせるためには、不安だけど民主党だ」という有権者は多いが、ここでいう「不安」とは、このような同党の政策上の問題点に根ざしたものであり、自公政権には不満を持つが「民主党政権で大丈夫か」という有権者のほとんどに共通したものとなっている。

今回の総選挙で「2票」をいかに活用すべきか
ゆえに、このような政策上の問題点にくわえ、民主党の衆議院での3分の2以上の議席獲得は再可決の乱発を招き、議会民主主義にとって危険水域とでもいうべき域に達してしまうことなどを考えれば、同党には断じて「2票」を入れるべきではないと思う。

「2票」とはいうまでもなく、小選挙区での1票と比例での1票のことであり、「自公政権を変えたい」という思いは、小選挙区でのもっとも有力な野党候補者(ほとんどの場合は民主党候補者)への1票として託し、「民主党にも危うさを感ずる」という思いは、比例での共産党や社民党ないしは国民新党への1票として託すことが、今回の総選挙において自公政権を変えたいと願っている有権者にとってベストな選択肢となるのではと確信している。

このような有権者の投票行動が民主党中心の政権が成立した場合において、悪いことには断固とした防波堤になってやめさせる担保となり、同時に民主党の極端な“1人勝ち”による議会制民主主義の形骸化をも食い止める最大の担保になる。

北朝鮮による日本人拉致事件について思うこと(蓮池透氏から学ぶこと)

北朝鮮による拉致問題は2002年の9月17日に当時の小泉首相が訪朝して、北朝鮮の最高指導者である金日正総書記とトップ会談をおこなった際に、金総書記が日本人拉致を認め謝罪し、再発防止を表明したことがきっかけとなって白日の元にさらされることになる。

拉致問題をめぐる政府の誤った対応の数々
このトップ会談の際に、北朝鮮側は13人の日本人を拉致したことを認め、そのうちの8人が死亡していることをなんの根拠もなく一方的に公表して拉致をおこなったことを謝罪した。
そして、これをもって「拉致問題」を終わりにさせ、国交正常化交渉にはいることで政治決着をはかることが当時の日本の外務省と北朝鮮当局が描いていたシナリオであったという。

だが、何の根拠もなしの8人死亡という結論を拉致被害者家族がそのまま受け入れることを拒否したことから、北朝鮮による日本人拉致が国民世論も巻き込んだ大きな政治問題となり、同時に北朝鮮との外交交渉も暗礁に乗り上げ、今日の膠着状態へと続いてきたことは周知のとおりである。

さらに、生存している5人の拉致被害者の「帰国問題」でも、当時の外務省はこの5人が重大な国家犯罪の被害者であるという認識を持てず「一時帰国」という北朝鮮側の言い分を鵜呑みにした。
誘拐された人を見つけ出し、誘拐犯もそこにいるというケースでは躊躇なく被害者を連れ帰るべきであるが、国交正常化を急ぐ外務省が“国益”のために被害者の人権を無視してしまったことが今も禍根を残す大きな誤りとなった。

それゆえ、北朝鮮側の言い分を鵜呑みにした「一時帰国」という結論は、当然に拉致被害者を永久帰国させて取り戻したいという被害者家族側との軋轢を生み出し、それがきっかけとなった国民世論の沸騰も加わって北朝鮮との外交交渉までも頓挫したことが、今日の拉致問題をめぐる混迷の大きな要因の一つともなる。

また、拉致問題のシンボル的な存在である横田めぐみさんの遺骨返還をめぐり、帝京大学医学部の鑑定人が返還された遺骨を別人のものであると判定したことが日本の世論に火をつけ、日本国中が経済制裁一辺倒となっていくターニングポイントとなり北朝鮮との関係を長期の膠着状態へと導くきっかけとなる。
そして、この鑑定結果に対しほどなくしてイギリスの科学雑誌「ネイチャー」から疑問の声が上がったが、不可解なことにすでにこの時点では鑑定人が大学から警察へ引き抜かれており、マスコミ関係者など外部の者が鑑定者本人と接触することが不可能とされてしまっていたことも記憶には新しい出来事だ。

このように幾多の日本政府側の対応の誤りが積み重なり、不可解なこともそれに加わったことが北朝鮮側をもかたくなにし、問題の解決を困難にしてきた。
そして、死亡とされた8人の拉致被害者、およびそれ以外にもいるとされる政府認定の拉致被害者の問題は解決のめどすら立たず、いたずらに時間が経過してきたというのが拉致問題をめぐる歴史的経緯である。

筆者のささやかな拉致問題とのかかわり!
筆者は習志野市にある某キリスト教会に出入りしていたことがあるが、2003年の頃、この教会では日曜の礼拝のたびに牧師さんを筆頭にして、筆者を除いた信徒全員がいわゆる「救う会」のシンボルであるブルーリボンを身に付けて礼拝に参加していた。
そして、毎週の礼拝の際には拉致被害者奪還のための祈りを信徒全員が心を一つにして熱心に取り組んでいたことを鮮明に記憶している。

この教会の牧師さんは当時、「救う会」ともコンタクトを持っていたらしく、信徒のなかにも横田めぐみさんの母親であり熱心なクリスチャンでもある横田早紀江氏の知人という女性もおられ、教会全体が一丸となって拉致被害者の奪還に祈りと献金をもって取り組んでいたという印象が強く残っている。

当時、彼らや彼女らは拉致被害者奪還をめぐって北朝鮮にたいして妥協せず、“拉致被害者の救出に政治生命をかけていた”当時の安倍晋三官房副長官を手放しに評価・礼賛していたが、彼らや彼女らにとっては安倍氏が政界での唯一の希望の星であったようだ。

だが、「救う会」とは正式には“北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会”の名称を持ち、北朝鮮の体制打倒という偏狭なイデオロギーを特徴とする極右の政治運動組織であり、政界では安倍晋三などタカ派として知られる自民党の右派議員集団などと太いパイプを誇っている。
たとえ、拉致被害者奪還という「人道的」な目的のためであっても、このような好戦的で偏狭なイデオロギーに凝り固まった政治組織とキリスト教会がつながりを持つことに強い違和感を感ずる筆者は、だんだんと教会から距離を置くこととなっていくが、こんなことが障害となって信徒と牧師の交わりや信頼関係に亀裂が入ったことは残念なことと思っている。

また、横田早紀江氏の所属するキリスト教会へ「救う会」との関係など筆者が抱く疑問を電子メールにしたためて質問させていただいたこともあるが、その際の反応は筆者にたいする逆恨みすら感じさせるものがあり、決して誠意あるものとはいえず、キリスト教会の政治的な蒙昧さを強く感じた次第である。

蓮池透氏から学ぶこと
しかし、最近になって拉致被害者家族連絡会(家族会)の元事務局長であり、帰国した拉致被害者の蓮池薫氏の実兄である蓮池透氏が「拉致」という著作を出版し、拉致問題をめぐる日朝交渉の行き詰まりの背景に北朝鮮打倒を主目的とする人たちの影響があることを指摘し、それを一刻も早く克服しないかぎり拉致問題を解決する展望が生まれないと断言していることを筆者は知った。
そして、それと同時に筆者がかねてから思っていたことが的外れではなかったことを確信するにいたったのである。

蓮池氏によると「救う会」は拉致がまだ「疑惑」であった97年当時から拉致被害者家族に対し「支援」という「善意」を積極的に示していたことが被害者家族にとっては大きな恩義となったという。
そして、「救う会」はこの「恩義」をテコに被害者家族のほとんどを「北朝鮮打倒ありき」の政治イデオロギーに取り込んでいった経過を蓮池氏は著書のなかで忌憚なく語っており、この運動がイデオロギーを乗り越えて被害者の救出を第一のものとしながら、右も左も垣根を越えて被害者のために連帯しあえるような運動へと転換していく必要性を語っている。

「北朝鮮打倒ありき」という立場にたち、従軍慰安婦も強制連行も否定し、日本の核武装も北朝鮮への先制攻撃も当然であるとするイデオロギーの呪縛から拉致被害者救出の運動を解放し、どのような政治的立場の人も被害者救出のために連帯しあえる文字通りの全国民的な運動にしていくためにも、この蓮池氏の問題提起は貴重であると筆者は考える次第である。

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鳩山一郎による「野球統制令」がもたらしたもの!(野球と戦争をめぐって)

戦後に首相として日ソ国交回復や国連加盟を果たした政治家が鳩山一郎であるが、同時に彼は日本の野球の歴史にも大きなかかわりがあることは意外に知られていない。

現在の民主党代表の鳩山由紀夫、および前総務大臣の鳩山邦夫両氏の祖父でもある鳩山一郎は、昭和初期の斉藤実内閣の文部大臣であった1933年(昭和8年)にいわゆる「滝川事件」をひきおこしている。
33年に京都帝国大学法学部教授であった滝川幸辰の著書や発言が「反国家的」であるとして、右翼や国粋主義派の国会議員が攻撃を始めたことがきっかけとなり、鳩山文部大臣が大学側に滝川の罷免を要求した。
この際に京大総長や教授会側は「大学の自治」を理由としてこれを拒んだものの、文部省の介入によって滝川教授の休職処分が強行されたのが「滝川事件」である。

この出来事は戦前の代表的な思想弾圧事件として有名であり、また、この事件をきっかけとして高等教育機関における大学・学生自治が急速に崩壊していく。

鳩山一郎の「野球統制令」による学生野球への迫害
また、「滝川事件」をひきおこした鳩山一郎は前年の32年には「学生野球の健全化」を口実として、すべての教育機関における野球活動を国家の統制のもとにおくことを目的とした「野球統制令」を発令しており、中等野球全国大会の開催や東京六大学野球連盟の許認可権を握った文部省は、中等野球や大学野球における入場料の徴収目的・使途や応援方法などに厳しい規制を敷き始める。

昭和初期に相次いだ「野球統制令」や「滝川事件」の背後には、大正デモクラシー運動によって高まりを見せた大学など高等教育機関における学校・学生自治機運や、学生スポーツが自治精神のもとで運営・開催されることへの軍部や文部官僚らの嫌悪感が存在していた。
神格化された天皇を頂点にして一握りの特権階級が国家機構を握り、彼らに大多数の国民を「滅私奉公」の美名の下に奉仕させる社会システムを作り出すことを目的とした「皇民教育」の推進にとって、大正デモクラシーの自由な思想の影響を受けたスポーツの自主的で自治的な興隆は受け入れがたく目障りなものでしかなかったのである。

鳩山の野球への統制をきっかけとして、野球をはじめとしたスポーツは強健な兵士を作り出すための「軍事教練」と化していき、多くの職業野球(プロ野球)の選手が徴兵されて戦場に散っていくことなる。
とくに大学野球は目の敵にされ、軍部と文部省は大学野球部潰しを狙い、軍部と文部省共催の「大学対抗教練大会」にすべての大学の参加を強要した。

これは重さ7.5キログラムの背のうをかついで40キロを3人1組で往復するといった過酷なものであり、棄権者がでたり成績が悪かった場合には野球部を解散させるという条件が突きつけられていた。
この大会に参加した早稲田野球部は最終走者が落伍者を背負ってゴールし、危うく解散は免れたものの、表彰式のあいさつにたった文部省の担当者は「もしこれが戦場だったらお前たちは全員戦死だ」と、仲間を助けた早稲田野球部員の行為を批判し冷酷な言葉を投げつけている。

そして、東京六大学野球連盟が解散へと追い込まれた43年(昭和18年)には、文科系大学生の徴兵猶予が撤廃され多くの大学生が戦場へと駆り出されていった。
この「学徒出陣」の際に慶応大学野球部が召集された部員への“はなむけ”として早慶戦の開催を当時の小泉信三塾長に直訴し、早稲田野球部の顧問であった飛田穂洲の協力も得て実現した「最後の早慶戦」は戦後になって映画化されるほどの有名な逸話として語り伝えられている。

職業野球(プロ野球)の戦時下での惨状
また、職業野球(プロ野球)も40年(昭和15年)にはタイガースを「阪神軍」に改称したり、「GIANTS」の英文字を「巨」の文字に変更するなど、球団名やユニフォームからの「英語追放」などにより戦争への協力姿勢をアピールし、さらには試合前に手榴弾投げ競争を開催したり、「ストライク」を「よし」、「ボール」を「だめ」とする野球用語の「日本語化」までおこないながら戦時下での生き残りを模索した。

だが、戦局の悪化は多数の選手の入営や招集をもたらし、44年(昭和19年)になると試合開催は週末のみに限られ、平日は選手が「産業戦士」として軍需工場などへ勤労動員されるなど、状況の悪化と選手数の激減は公式戦続行を不可能とし、同年の11月には活動休止へと追い込まれていく。
また、亡命ロシア人であり「無国籍」であった巨人の大エース・スタルヒンは、「敵性外国人」として監視を受け、ついに官憲に強制連行されて終戦にいたるまでの間、軽井沢の外国人収容所に抑留されてしまった。

このように鳩山一郎の「野球統制令」にはじまる野球人への迫害は戦争によってエスカレートし、多くの野球人の輝かしい時期や未来への可能性が失われてしまったのである。
現代における野球競技の繁栄の裏面には迫害や戦争によって野球や人生を奪われた多くの野球人たちの無念の思いがあることを記憶にとどめるべきだ。

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鳩山一郎

戦前の職業野球(プロ野球)の花形スターであった「タコ足」中河美芳をめぐる悲劇とは!

中河美芳は鳥取一中(現鳥取西高)時代の1934年、36年の夏の甲子園に出場し、37年には関西大学に入学するも、父親を失っていた実家の家計を助けるために同年の夏に中退し、この年に誕生したばかりで後楽園球場を本拠地とするプロ野球(職業野球と呼ばれた)の新球団イーグルス(黒鷲)に身を投じた。

投手として入団した中河は当時の監督に一塁手としての卓越したセンスをも見いだされ、一塁手として4番を打つかたわら、投手としてもプレーするといった大車輪の活躍を見せるが、44年の7月にフィリピンのルソン島沖で中河の乗船した輸送船が米軍の攻撃を受け戦死をとげる。
中河美芳について(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%B3%E7%BE%8E%E8%8A%B3

「タコ足」人気と超スローボールと憲兵隊の迫害
さて、投手としても通算で41勝、打者としても通算打率2割4分2厘、通算本塁打1本にすぎない彼が、後の1986年に特別表彰枠で野球殿堂入りを果たしたのは「空前絶後」と謳われた名一塁手ぶりが評価されてのことである。
イーグルスは37年秋と38年春の3位が最高で、あとは43年に解散するまですべてBクラスの弱小球団であったが、中河はアクロバチックな一塁守備で当時のプロ野球を代表する花形スター選手となっていった。

打球を取った内野手がワンバウンドや山なりの悪送球を投じ、「まずい、いくら彼でもこれは取れん」と思うような送球を、中河一塁手はまるで軟体動物のように両足を広げ、ファーストミットを目いっぱいに伸ばしてボールをハエ取り紙のようにすくい上げた。

特に横へそれた送球には、もうそれ以上開けないと思うほど両足をいっぱいに開き、尻を地面にピタリとつけて捕球するその名人芸には「タコ足」の異名がつき、ファンは内野手が悪送球をして中河が人間離れした捕球をするのを無上の楽しみとしたという。

また、投手としてはスローボールを巧みに操って打者をすいすいとかわし、「打倒沢村」に執念を燃やしたタイガースや巨人軍の強力打線を超スローボールで幻惑した。
今に至るまで投手はバッタバッタと三振を取る剛速球、打者は外野スタンドに飛び込むホームランというのが人気選手の相場であるが、中河は特異なタイプの人気選手であり、空前絶後の花形スターであったといえよう。

だが、プロ野球の花形スターであったことが逆に中河の身に不運を招くこととなる。
中河はプロ入りと同時に徴兵猶予のため大学の夜間部に籍を置くも、大車輪の活躍は彼の体に疲労をもたらし、講義にも欠席がちとなったことが「中河は兵役逃れにために大学に籍だけ置いている非国民だ」と見られて憲兵隊の不興を買った。
当時のプロ野球界では少なくない選手が徴兵猶予のために大学夜間部に籍を置いたが、中河の場合は彼が花形スターであったがゆえに憲兵隊に目をつけられたのである。
そして、監視や尾行が日常化し、下宿にも踏み込まれ、憲兵隊での取り調べも再三にわたって繰り返された。

このような日々の恐怖に耐えられなくなった中河は41年の公式戦終了後に兵役猶予の期間が残されていたにもかかわらず“志願兵”として兵役につくが、「兵役を忌避した非国民」として軍隊内でも私的制裁(リンチ)の対象とされ迫害を受けたという。
また、中河が戦死した直後に故郷の鳥取で葬儀が営まれた際にも憲兵隊が現れ、戦死の公報に記されたた戦没地が祭壇に張り出されていたことに「日本の部隊がどこにいるか分かってしまう」と難癖をつけその紙を破り捨ててしまった。
戦死してもなお、憲兵の目に追われたのが中河美芳である。

野球への執拗な迫害とその背景にあったもの!
この中河美芳のケースに典型的に現れているのが、当時の国家権力やその迎合者からの野球関係者への執拗な圧力や迫害である。
当時、軍部や文部官僚はいかなる国家社会体制であっても、それに忠誠を尽くす国民や兵士を育成する手段として「心身鍛錬」や「精神修養」を重視する武道の効用に目をつけ、軍事教練に利用するための「軍教武道」としてその奨励を盛んにおこなっていたが、すでに野球は当時の国民の心を「魅了」しており、中等野球の甲子園大会や六大学野球など、学生や市民の間では野球人気がいよいよ興隆するばかりであった。

このため軍部権力は、基本的には「遊技」「スポーツ」であり、なおかつ米国型民主主義を象徴する野球をいよいよ「敵性競技」視し、力ずくでバットを銃に、ボールを手榴弾に持ち替えさせるため「野球統制令」を発令し、小学校から大学までのあらゆる学校における野球活動を国家統制のもとに置いた。

このため太平洋戦争の開戦後に中等野球の甲子園大会は中止され、東京六大学野球連盟も解散の憂き目を見たが、敵国アメリカの国技であるとはいえ、戦時下における野球への迫害ぶりが尋常なものではなかったことの背景にはこのような歴史的・社会的な経緯があったのである。

今、中学校の保健体育授業で柔剣道など武道の必修化を2年後に実施しようとしているが、「軍事教練」の一手段として軍部権力に利用された戦前の「国家武道」への回帰に思えてならないし、その背景には武道を安倍内閣の時代に改悪された教育基本法の狙う「愛国心」教育に利用しようとの思惑が見え隠れしてならない。

中河美芳の現役時代の勇姿
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悪石島と学童疎開船対馬丸の惨劇、およびヒロシマの原爆慰霊祭をめぐる田母神騒動について

7月22日の皆既日食の際に悪石島に押し寄せた多数の観光客と報道陣
話題は少し古くなるが、去る7月22日に日本付近で今世紀最大の皆既日食が観測できることが話題を呼び、なかでも皆既帯の中心線付近に位置するトカラ列島の悪石島では6分以上の皆既日食が継続することから、島の人口の4倍以上となる400人近い観察者が同島に殺到した。

島内には5件しか民宿がないため、島では観光客に宿泊場所として学校の体育館などを提供し、さらにテント宿泊者のために島外から大量のミネラルウォーターなどを持ち込むなどして対応に大わらわだったと聞く。

だが、残念なことに皆既日食の当日はトカラ列島周辺が天候不順に見舞われ、特に悪石島では朝から大雨が降って雷も鳴り響き、竜巻の発生するおそれもあったため、日食ツアーを企画した旅行会社などが屋外で日食の観測をしていた観光客に屋内への避難を呼びかけるなど、あいにくの空模様となってしまった。
しかしながら、太陽そのものを見ることはできなかったが、皆既日食のおこる時間帯には辺り一面が暗闇につつまれ多くの人が間接的に皆既日食を体感したという。

ところで、今回の皆既日食だが、悪石島では島に滞在していた400人に近い島民や観光客だけが日食を見つめていただけであろうか。
おそらくは、65年前に悲惨で不遇の死を遂げて、今は海の底で眠りについている数多くの学童や幼子も見上げていたのではなかろうか。

学童疎開船「対馬丸」の惨劇と悪石島
1941年に始まったアジア・太平洋戦争の戦局は悪化の一途をたどり、44年の7月7日にはマリアナ諸島のサイパン島が米軍に占領され、「マリアナの次は沖縄だ」と判断した軍部は奄美大島や沖縄本島の老人や子ども、女性を島外へ疎開させる指示を発した。

この疎開の規模は大きく、政府は本土へ8万人、台湾へ2万人を送り出すことを決定したものの、「勝つ、勝つ」の大本営報道に影響されて沖縄が本当に戦場になることを信ずることもできず、また、米国の潜水艦が出没する周辺海域の危険をそれとはなしに察知していた島民の圧倒的多数は、この政府の方針に危うさを感じざるをえなかった。

そこで、44年の7月19日に県は行政命令を発して、学校単位で学童の集団疎開を推進することとなったが、これは沖縄本島での地上戦に備えて大量の兵士の移駐が必要となり、食糧確保のためには戦闘の役に立たない民間人を県外へ移すことが急務となったためであった。

このようななかで、学童疎開船の対馬丸(6754t)は本土の長崎を目指し44年の8月21日に多数の疎開学童や引率教員、一般疎開者など1788人を乗せて那覇港を出航したが、翌22日夜の10時過ぎにトカラ列島の悪石島の北西10kmの地点を航行中に米国の潜水艦による雷撃を受けて沈められてしまった。
建造から30年もたった老朽貨物船対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的となったのである。

雷撃を受けた時にはほとんどの乗船者は貨物船の船倉に取り残されていたし、海に飛び込んだ人も接近する台風による高波に飲み込まれて海の藻屑となり、後の調査によると1418名もの人命が失われたことが判明している。

さらには、いかだ等に必死にしがみついて運よく救助されたごく少数の生存者には「かん口令」がしかれて、対馬丸撃沈に関する事実を話すことも禁じられてしまったため、この悲劇の正しい情報が沖縄の遺族に伝わることもなく、同年の10月10日の那覇に対する大空襲や、4人に1人の県民が犠牲になった翌年の地上戦など急速に戦争被害が拡大していくなかでこの事件の記憶も次第に薄れていった。

それゆえ、この事件の真相が改めて知られるようになったのはようやく戦後になってからのことである。
いまでは沈没の海を臨む悪石島の海岸では対馬丸慰霊碑が建てられて、住民からのお供え物が絶えず、島の小中学生たちはボランティア活動の一環として慰霊碑周辺の清掃や毎年の慰霊祭を欠かさないという。

今回の皆既日食報道は、この忘れられつつある対馬丸沈没事件にスポットライトをあてて、改めて後世の人々の記憶にとどめる絶好のチャンスであったにもかかわらず、テレビや新聞報道でこの事件に触れるものはとうとうお目にかかることがなかった。

皆既日食当日の激しい風雨とは、歴史のかなたに忘れ去られようとしている学童をはじめとしたこの事件の犠牲者たちの「涙雨」ではなかっただろうか。

対馬丸の悲劇については対馬丸記念館に詳しい。
http://www.tsushimamaru.or.jp/

となりで慰霊祭とやらをやっていても私は核武装です(田母神氏のヒロシマ入り)
今年も8月6日に広島の平和公園では原爆死没者の慰霊祭がしめやかに執り行われたが、この慰霊祭と同時刻に平和公園のすぐそばで、あの“有名”な田母神元航空自衛隊幕僚長が「ヒロシマの平和を疑う」と題して講演会をおこなったという。
主催者は安倍晋三や中川昭一・麻生太郎など有力政治家を頂点に草の根の改憲派をも広く組織したという改憲団体の「日本会議」であり、秋葉市長が日時の変更を事前に勧告したにもかかわらず「言論の自由」を盾にこの日の田母神氏の講演を強行した。

とくに、田母神氏本人にいたっては7月21日に講演で「となりでは慰霊祭とやらをやっていても、私は核武装です」と8月6日にヒロシマの平和公園近くで「核武装」講演をすることを宣言し、またそれに輪をかけるがごとく、その場の1500人近い聴衆が盛大な拍手を送ったというのである。

遺族や生存している被爆者にとって、毎年8月6日の原爆死没者の慰霊祭はかけがいのない家族の命日であり、またあの地獄の惨状をいやでも思い返して涙する日でもあるが、「言論の自由」の美名の下で遺族や生存被爆者の悲しみと心の傷にさらに塩を塗りこむような振る舞いは人の道に反しており、とうてい容認できるものではない。

また、「被爆国として核武装すべきだ」と声高にスローガンを掲げながら原爆慰霊祭の当日に、しかも会場のすぐ近くで講演を行うというのは「核兵器を地上からなくして、二度と核兵器による惨禍をこの地上に再現させたくない」という広島市民の悲願と地域感情を踏みにじる暴挙でもある。

先月の悪石島を舞台とした皆既日食報道や広島の原爆死没者の慰霊祭をめぐる出来事は、たんなる戦争の記憶の風化として片づけられない現在の“日本人”の退廃と野蛮さを感じざるをえない。

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民主党のマニフェストに明記された米国とのFTA(自由貿易協定)締結とは!

米国とのFTA(自由貿易協定)締結は日本農業への死の宣告だ!
その背景は分からないが、一般紙やテレビなど主要マスメディアでは報道されていない重大ニュースがある。
日本農業新聞など一部の報道機関によると、日本と米国の間でFTA(自由貿易協定)を締結することが民主党のマニフェストに盛り込まれたというのだ。
http://www.nougyou-shimbun.ne.jp/modules/bulletin/article.php?storyid=2910

FTAとは協定を結んだ国を対象として関税の引き下げや撤廃などの優遇をおこなう仕組みであり、米国産の安い農産物が日本の農産物市場に無関税のノーガードで流入することを意味している。
今でも米国の農産物の日本市場におけるシェアは大きく、小麦の60%、豚肉の40%のシェアを持ち、輸入米さえも50%のシェアを米国産が占めるが、このFTA(自由貿易協定)によって、さらに米国産の農産物が日本市場を独占し、米や牛肉などの価格の暴落によって国内の生産農家が壊滅的な打撃を被ることは避けられない。

民主党のマニフェストに盛り込まれたこの“ものすごい政策”は、8月末の総選挙で民主党中心の政権が成立する可能性がきわめて高いことから、農業関係者を中心に大きな衝撃を与えており、民主党は「日本の農林漁業、農山漁村を犠牲にするFTAはありえない」とする緊急声明を出して、疑惑や批判の声を鎮静化しようとして大わらわだ。
従来から知られている民主党の農業政策の目玉は、「所得保障」と称して農家に対する一兆円の直接払いをおこなうことであったが、今回のマニフェストの公表でこれがFTAの締結とセットとなっていることが明瞭になった。

米国産の安い農産物をどんどん国内市場に引き入れることで非効率な日本農業の淘汰をさらに進めながら、いっそのこと非効率な日本農業などはやめてしまい、その代わりに日本からは工業製品をどんどん輸出して外貨を稼ぎながら輸入農産物一本でやっていこうというところにFTAの行き着く先がある。
こうなると、このFTA体制下での農家に対する一兆円の直接払いは政府がお金をやるからうるさいことは言わずに、非効率的な農民はその身の不運を嘆くことなく、そのままおとなしく安楽死をしてもらいたいという意味あいを含めたお金ということになろう。

これで、日本農業は年間で一兆円という“はした金”をもらって壊滅への道をあゆむこととなり、民主党は日本農業に死の宣告をおこなう政策をマニフェストに堂々と掲げることとなった。

FTA推進の背後にあるものとは!
また、このFTAの締結を求めているのは米国の農民でも日本の農民でもなく米国の巨大農業資本と日本の輸出大企業であり、米国の農業資本は日本の農産物市場のいっそうの解放を求め、日本の輸出大企業は自国の農産物市場を米国資本に明け渡す代わりに、自動車や家電など工業製品の輸出における関税引き下げのメリットを享受したいという両者の利害関係の一致が背後に存在する。

日米経済協議会というシンクタンクが日米FTAに伴う経済効果を試算したところによると、米や穀物、肉類で生産縮小が顕著となり、具体的な減少量として米で約82%、穀物で約48%、肉類で約15%が減少するとしている。
特に日本農業の屋台骨を支える米の生産減少が著しく日本農業は壊滅的な打撃を被ることは避けられない。

自民党がこの問題で「日本農業を売り渡すのに等しい」との民主党批判を強めていると聞くが、アメリカや大企業言いなりで食料自給率40%という深刻な状況に日本農業を追い込んできたのが過去の自民党農政であることを思えば、自民党にこんなことを言う資格はあるまい。

民主党の農業政策の“頭脳”である篠原議員に見る民主党の本音!
民主党の農業政策の“頭脳”が民主党の政調副会長である篠原孝衆議院議員だ。
ある農業者のブログにこの議員のオフレコ発言の幾つかが紹介されているのだが、以下の発言には民主党の本音が透けて見える。
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ba16.html

「1バレル100ドルを超える原油高が続けば、冬加温している施設園芸は潰れるが、旬産旬消を実現するにはそのほうがよい」
「飼料を外国から輸入しているような畜産農家は今の飼料高でどんどん縮小するだろう。大変にいいことである」

これらの発言からは、石油を炊いて冬場に頑張っているハウス農家や外国の飼料に頼らざるをえない畜産農家は淘汰されたほうがよく、米国の巨大な力を借りて日本農業をいったんリセットしたうえで、「強い国際競争力」をもった日本農業に作り変えたいという「小泉構造改革」張りの破壊的な発想を強く感じざるをえない。
これが民主党の農業に対する本音であろうし、今回の民主党マニフェストも出るべくして出たものといってよいだろう。

政府の調査でも、9割の消費者が将来の食料供給に「不安」を感ずると言い、同じく9割が「自給率の大幅な引き上げ」を望んでいるという結果が出ている。
民主党はこの民意を尊重すべきである。

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羽田空港拡張工事をめぐる林幹雄氏の口利き疑惑とは(山砂、鉄鋼スラグ、宮原社長、JFEミネラル)

自民党の林幹雄国家公安委員長をめぐっては口利き目的の土木業者から資金提供を受けた疑惑が浮上しており、同氏はこの問題に関して衆議院の内閣委員会で数度にわたって野党議員の追及を受けたが、業者からの20万円分の“寄付”があったことを部分的に認めた以外、その他の金銭授受や接待についての疑惑は一貫して否定し続けている。

羽田空港の新滑走路拡張工事をめぐるトラブルとその結末
この問題の発生はそもそもが、羽田空港に総事業費6000億円の新しい滑走路を建設するといった国家的プロジェクトが動き出したことから始まっている。
この新滑走路建設の拡張工事は首都圏にアジアのハブ空港をという航空業界の悲願の実現をめぐり、当初は首都圏に羽田、成田に次ぐ第三の空港を建設する方向ですすんでいたものが、急きょ羽田空港の拡張で対応することに切り替わったことからスタートした。

さて、羽田の滑走路拡張工事は最初からトラブルが絶えなかったことで関係者の間では有名である。
新滑走路建設に使用する埋め立て用の山砂を千葉県の業者が準備を進めてきたが、山砂は山の購入費や砂の掘削費、およびダンプや運搬船での運搬費などの経費がかさんだ。
ここにつけこんで、施工者である羽田空港側が山砂の価格を業者の予定価格の半分以下まで引き下げて採算割れに追い込み、山砂業者を羽田の拡張工事から事実上締め出した後に、JFEミネラルという会社を引き込む。

この会社は製鉄所から排出される鉱滓である鉄鋼スラグを川崎製鉄や日本鋼管から引き取って道路舗装材料などに生成しており、この業界では最大手の企業であったが、山砂の代わりに鉄鋼スラグという代用品が用いられることが決まったことで、羽田拡張工事向けの埋め立て用資材供給というお鉢がまわってきた。
鉄鋼スラグは製鉄業界にとっては産業廃棄物に他ならず、スラグの処分は業界にとっても悩みの種であり、人里離れた場所にこっそり投棄するといった問題が絶えなかったという。
ところが、羽田空港拡張工事の埋め立て用資材に鉄鋼スラグが用いられることが決まったために、産廃が価値ある商品へと一変し、JFEミネラル社には濡れ手に粟の儲け話が舞い込むこととなった。

また、その際に羽田空港側が同社側に申し出た鉄鋼スラグの買い取り価格が、その採取に多大な人力や機械力を必要とする山砂のそれよりも高価であり、山砂業者にたいしてはダンプの運転手の日当も出ないほどに買い叩いて事実上締め出しながら、産業廃棄物にすぎない鉄鋼スラグには山砂を上回る予算をつけたことは、何らかの政治的背景がなくしては考えられない。

JFEミネラルのエージェント宮原氏と林幹雄氏の裏切り
さて、この政治的背景に登場する中心人物が、現在では口利き目的の土木業者として報道されている千葉市内の宮原工業(現在は廃業)社長の宮原一雄氏だ。

実は羽田の拡張工事に鉄鋼スラグの話をもちこんだのは宮原氏であり、千葉の大物フィクサー鴨野静郎が仲介者として国土交通省副大臣であった林幹雄氏に氏を引き合わせている。
その時点で宮原氏はJFEミネラル社と2億円の売買契約を結んでおり、同社は氏に「羽田に山砂ではなく、鉄鋼スラグを納品したい」ともちかけていたという。
このことは宮原氏が同社のエージェントとして、大物フィクサーをとおして国交省副大臣であった林幹雄氏に働きかけたことに他ならないが、同社と氏の思惑はみごとに功を奏し、羽田拡張への鉄鋼スラグ納品は着々とすすんでいくこととなる。

また、“表側”でも同社の研究室スタッフが国交省副大臣であった林幹雄氏の事務所を訪ね、繰り返してのプレゼンテーションをおこなっていた。
そして、同時にJFEミネラル社のエージェントの役目を立派に果たした宮原氏には、林氏から鉄鋼スラグ1立方メートルあたり数百円のコミッションの支払いが約束されたという。
宮原氏はこの約束を信じ、採算の合わない山砂販売から撤退して自らの会社を廃業したが、かえってこのことが裏目に出てしまった。
これを見た林氏側が「宮原の会社がなくなったので、話はなかったことにしよう」と約束を反故にしたうえで宮原氏との縁も切ってしまったのである。

宮原氏は林氏の約束を信じたがゆえに、林氏のパーティ券購入の要求にも応じ、東京の高級クラブ寿司店飲み食いのツケ回しにも応じた結果、肩代わりした飲食代は1500万円にも達するという。
現在、林幹雄氏をめぐる口利き疑惑が週刊誌上をにぎわし、国会の委員会でも問題とされているが、林氏の裏切りに対する宮原氏の怒りの告発がその口火を切るきっかけとなった。

林幹雄氏をめぐる鉄鋼スラグ疑惑!
ここで林幹雄氏の疑惑について整理してみよう。

まず第一点
産廃であった鉄鋼スラグが山砂並みの高値で羽田空港側に納品されたことで、JFEミネラル社があげた濡れ手で粟の莫大な利益はどうなったか?
林氏にその一部がコミッション(リベート)として還元されていないかどうか?

そして第二点
羽田の拡張工事を担当していた国土交通省はどのような積算根拠で鉄鋼スラグの価格を決めたのか?
そこに鉄鋼スラグの採用も含めて国土交通省副大臣であった林幹雄氏が関与していないか?

これはあくまでも“状況証拠にもとづく疑惑”にすぎないが、今回の総選挙にあたり林氏側は身の潔白を明かしすべきであり、それは千葉10区の有権者に対する政治的・道義的責任でもある。

なお、この事件の経過については政治評論家山本峯章氏のWEBサイトに詳しい。
本記事も同サイトを参考にした。
http://office-ym.seesaa.net/article/123204469.html
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西岡三郎
千葉県銚子市に在住
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