光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

2010年05月

福島社民党党首は政治不信の時代が生みだした時代のヒロインなのか?

鳩山政権による沖縄県民への裏切りと背信!
鳩山政権は普天間基地の移設先を名護市辺野古にすることを明記した日米合意を発表し、自ら「国外、最低でも県外」という選挙公約を破り、4月25日の沖縄県民大会に示された「県内移設絶対反対」という沖縄県民の総意を踏みにじった。

また、今回の日米合意は2006年5月に普天間基地を辺野古に移設すると合意した自公政権下における現行案に限りなく近いものであるが、基本的に自民党案に戻ってしまっただけにとどまらない中身を含んでいる。

つまり今回の日米合意は鹿児島県の徳之島や日本本土にも海兵隊の訓練の移転をおこなって全国に分散させることで、「沖縄の負担軽減」という建前とは裏腹に基地被害を全国に拡散しかねない危険性さえはらんでおり、この部分が加わった分だけ自公政権時代のもとの案よりもいっそう悪いものへと改変されてしまっている。

鳩山首相による福島大臣の罷免がもたらしたもの!(「ヒロイン」の誕生)
images2309ところで、このとんでもない結末をもって普天間劇場の第一幕が終わろうとしているところへ、思いもかけないヒロインが登場してきた。言わずと知れた福島瑞穂社民党党首である。

普天間基地の移設先を辺野古と明記した政府方針をめぐって、鳩山首相は署名を拒否して閣議を欠席した福島瑞穂消費者・少子化担当大臣を罷免したのだが、これは福島氏が「最低でも県外」という選挙公約をあくまでも守り、自らの発言に従い政治家としての信義を貫いたがための理不尽なものであった。

これまで自民党政治のもとで長い間、有権者は政治家の言葉に裏切られ続けてきた。そこで有権者は昨年の総選挙でこのような政治を変えたはずであったが、またしても鳩山政権に手ひどく裏切られてしまった。
「最低でも県外」、「辺野古の海を埋め立てることは自然への冒涜」、「沖縄の負担軽減」などこれらの政治家の言葉もウソであったことがつぎつぎと明らかとなった。

だが、このようなやり場のない閉塞した状況にあって福島瑞穂氏の発した次の言葉が鮮烈で清新なメッセージとして響き渡った。
「私は言葉に責任を持つ政治をやりたいと思います」
長年の間、政治家の言葉に裏切られ続けてきた有権者の傷ついた心にこの言葉は強烈なインパクトをもって響き渡ったに違いなく、これで今回の参議院選挙は彼女をヒロインとする普天間劇場の第二幕の幕開けかとの強い印象を残した。

「福島さんはよく頑張った。自らの言葉を裏切って国民をだました鳩山首相による更迭は彼女にとって政治家としての名誉であり、誇りとすべきものである。」
このような手放しの賞賛を福島氏に捧げる人々は、常に“時代の顔”を探し求めるマスメディアを筆頭としてさぞやその数が多いことであろう。

福島社民党も加担した「移設先」探しの頓挫がもたらした辺野古への回帰!
だが、今回のことで福島氏をヒロインとして褒め称えることが彼女に対しての的を得た正しい評価なのであろうか?ここで、いま一度これまでの過程をふりかえって再考する必要があるのではないか?

ご存知のごとく海兵隊「抑止力」論の呪縛にとらわれた鳩山政権による普天間基地の「移設先」探しは、徳之島をはじめ「移設先」にあげられた自治体や住民の強い反対にあい頓挫した。
それゆえ、今回鳩山政権が自公政権時代の「辺野古」に回帰したうえで、訓練を日本全国に拡散するという自公政権の時代よりさらに悪い案にたどり着かざるを得なかったのは、この「移設先」探しにおける頓挫がもたらした必然的な帰結に他ならない。

また、これは同時に「引越し先」を決めたうえでなければ移転できないという「条件つき移設論」が破綻したことでもあり、「抑止力」論の呪縛を乗り越えた普天間基地の無条件撤去こそが唯一の合理的な解決方法であることを浮き彫りにしたものでもあった。

だが、この「条件つき移設論」を民主党などとともに推進してきたのは他ならない福島社民党であり、福島氏自身も「移設先」探しは閣僚全員の責任と言い放ち、「移設先」を検討する協議機関の設置をも提唱している。

images2100そして、社民党としても長崎県の自衛隊大村基地や佐賀空港などの「九州移設案」を提唱し、それぞれの地元で手厳しい批判にあっていたことも忘れてはならない。
こうして福島社民党も加担しながら推進してきた「移設先」探しが行き詰った結果、もとの自公案に回帰したうえで、さらに悪い案へと変質したところに事の真相がある。

福島瑞穂を「ヒロイン」化することへの疑問!
それゆえ、福島社民党がこの顛末に対してその責任の一端を担っていることは否定することはできず、福島氏への手放しの賞賛や「ヒロイン」扱いにはこの観点からも大きな疑問を持たざるをえない。

今回の福島氏の罷免は「最低でも県外」という公約を踏みにじった裏切りに対する有権者の怒りと、アメリカ言いなりの鳩山政権との矛盾が行き着くところまでいって爆発した結果であり、たまたまその頂点に福島氏が立っていたことが生み出したものである。
それゆえ今回のことで福島瑞穂氏が時のヒロインとして脚光を浴びるにいたったことは一種の「怪我の功名」と言えなくもないだろう。

だが、これまでの事実経過からして公約違反という重い十字架の責任の一端を福島社民党も背負わなければならないし、政権を離脱してもなおかつ、今後とも民主党との選挙協力に依存しなければならない社民党の姿には哀歓さえ感ずる。

追記
日本共産党の志位委員長が先日に米国を訪問し、国務省の高官達にむかって沖縄の怒りは沸騰点を越えており「ポイント・オブ・ノーリターン」(後戻りできない)であって、唯一の解決の道は普天間基地の無条件撤去しかないことを正面切って堂々と伝えたという。

だが、社民党は重野幹事長が「党としてグアムやサイパン、テニアンへの移設をも提案して政府に検討して欲しいと申し上げてきた」と言うだけであり、米国政府に面と向かって堂々とものを言えなかった現実がある。

はたして、福島氏も大臣として毎週の閣議の場で鳩山首相や平野官房長官、岡田外相などの対米従属派にたいして「国外移設」を堂々と提起してきたのだろうか?


韓国併合にいたるプロセスをめぐる史実について(一貫していた軍隊による“脅かし外交”の展開)

「相手からお願いされた」という韓国併合をめぐるフィクションについて!
1910年の日本による韓国併合に関して、「韓国併合は相手からお願いされたのだ」とか、「韓国併合は朝鮮人が願ったことだ」などと主張する論者は今でも少なからず存在しており、日韓併合は韓国側が選択したものであるかのような言説が後を絶たない。

images2272また、日韓併合は韓国側からお願いされたものだとの論理は1910年の韓国併合に際して締結された「韓国併合に関する条約」に盛り込まれたものであり、条文自体が韓国のほうからお願いされたのだから日本が併合してあげるのだとのロジックで書かれており、条約の冒頭の書き出しは次のようになっている。

第1条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
第2条 日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す。

つまり、韓国皇帝が日本国皇帝(天皇)に韓国の統治権を譲り渡したいと申し出たので天皇はそれを受け入れて、韓国を日本に併合してあげるよというのである。

だが、条約の文面におけるこの論理は虚構であり、歴史学の分野では韓国併合は日本側が段階的に韓国の主権を奪っていき、最終的には軍事力による威嚇をもって併合条約に調印させたという事実経過が明らかになっている。
すなわち、韓国併合へのプロセスは1875年(明治8年)の開国要求から1910年(明治43年)の韓国併合にいたるまで、そのすべてが軍隊を動員した“脅かし外交”によってすすめられていったのである。

1875年の開国要求から閔妃殺害事件にいたるまでの一連の“脅かし外交”!
1875年に日本は清国の統治下にあった朝鮮の支配権を清国と争うために、“鎖国”に固執していた朝鮮に「日朝修好条規」によって開国を認めさせた。
しかし、このときの交渉は特派全権大使に任じられた陸軍中将黒田清隆が軍艦や歩兵、騎兵多数を引き連れて朝鮮に乗り込むといったすさまじいものであったらしく、日本は朝鮮にたいし最初の開国要求から武力の威嚇を用いての野蛮な外交交渉を展開したのである。

また、1894年には朝鮮の南部で東学の乱と呼ばれる農民暴動が発生した。
そのため、わずかな兵力しかもたない朝鮮王朝は清国に暴動鎮圧のための出兵を公式に要請したが、日本側も公式の要請もないのに朝鮮政府の意思を無視し暴動鎮圧を名目とした大軍を朝鮮に送ったのである。

こうして、朝鮮の首都ソウルで両国軍が互いに相対峙する状況が生まれたために、日清の開戦を目の前にして朝鮮の内部ではどちらにつくかが問題となった。
だが、朝鮮が清国側についたら「開戦」の大義名分がなくなると考えた日本は先手をうって朝鮮の王宮を占領し、国王を虜にしたうえで“清国の軍隊を追っ払ってくれ”との要請を無理やり取り付けて「開戦の口実」をつくりだしたのである。

こうして日清戦争に勝利し清国の影響力の排除に成功した日本は朝鮮支配の足場を固めようとしたが、当時の朝鮮の王妃(閔妃)が日本の朝鮮支配に反対する反日派の中心人物として日本の朝鮮支配への最大の障害として立ちはだかっていた。

images2270そこで、日本から派遣された公使(大使)が軍人や無頼の浪人などに命じて、深夜朝鮮の王宮を襲撃し王妃を殺してしまったのである。(閔妃殺害事件 1895年)
日本から派遣された大使が邪魔になる王妃を平然と殺すという無法な手段に訴えてまでも朝鮮政界の反日派を押さえ込んだのであった。

日露戦争後の「保護国」化と1910年の韓国併合による植民地化の完成!
また、1904年の日露戦争の際には戦争の局外にたとうとした大韓帝国(1897年に国名変更)に対し、日本は開戦と同時に首都ソウルを占領し、戦争への協力を無理やり引き出している。
そして、日露戦争後の1905年に日本は事前協議もなしに外交権などの取り上げを含んだ「保護条約」を韓国に押し付け、韓国を日本に従属する「保護国」に変えてしまったのであった。

また、この条約の調印は伊藤博文と韓国駐在司令官が憲兵を引き連れて王宮に押し入り「保護条約」を突きつけての強引なものであったが、このとき王宮の外では日本陸軍の大軍が「演習」と称して威嚇行動をとっていたという。

そして、いよいよ日本はその5年後の1910年には韓国併合へと突き進むが、「保護条約」体制の下で日本の韓国支配が重大化していたとはいえ、民族の主権と独立を完全に奪う植民地化の強行には韓国の政府と人民の全体を武力で威嚇することが避けられなかった。

こうして韓国を決定的に日本の植民地とする19010年8月の「日韓併合条約」締結の際に日本は陸海軍を大規模に動員し、陸上では二千名以上の騎兵と歩兵、海上では艦隊が示威行動を展開し、さらに首都ソウルには戒厳令をしくといった騒然とした状況のもとで「併合条約」の調印が強行されたのである。

このように、日本の朝鮮にたいする植民地化政策はその一歩一歩が武力による威嚇と武力行使によって押しすすめられており、日本はその支配を押し付け維持するためにも、朝鮮の全土に野蛮で残酷な武断統治の体制をしいたのであった。

以上の事実経過を踏まえれば韓国併合が朝鮮の要請を受けてのものであったという議論が成り立つ余地はない。


追記
「ゴーマニズム」や「戦争論」で有名であり、歴史修正主義の立場にたった小林よしのり氏は「韓国併合は当時の韓国最大の政党である一進会の要請を受けたもの」と主張しており、事実「合邦上奏文」がこの一進会の手によって提出されたことは事実である。

だが、当時の韓国に政党政治はなく、一進会が希望したといってもそれが国家の意思(韓国政府)を反映したものではないし、最大政党が希望したというとそれが国民の多数派の意見であるように聞こえるが、けっしてそういう性質のものではない。
当時、日本の右翼国粋主義団体であり、明治政府の侵略政策の下請け運動体でもあった黒竜会を率いた内田良平という人物は、同時に一進会の顧問をしており一進会を裏から操縦していたのである。

そして、「合邦上奏文」は黒竜会の重鎮である武田範之という人物が起草しており、それを一進会の名で発表させたのであった。
ここでも韓国併合が朝鮮人の要請によるものという議論が成り立つ余地はないのである。

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アジア・太平洋戦争は当時の日本軍部指導者による「アジア解放」をめざした戦争であったのか?(大東亜会議の虚構から)

「アウシュビッツのウソ」(ガス室による組織的虐殺などなかったとする論)や「南京大虐殺まぼろし論」など、歴史上実際におこったことをあえてなかった出来事だと強弁したり、侵略戦争や植民地支配あるいは軍隊による住民の組織的な虐殺などという今日では批判的な評価が定着している歴史的な事象について、その評価を180度逆転させて支持や擁護をおこなう主張や立場のことを歴史修正主義という。

「新しい歴史教科書」に書かれた「アジア解放」と大東亜会議の実態とは!

そして、この歴史修正主義の立場で書かれたものが「あたらしい歴史教科書をつくる会」による扶桑社の「新しい歴史教科書」であったが、この教科書はアジア・太平洋戦争が日本の軍部指導者による「アジア解放」の戦争であったことの何よりの証拠として1943年(昭和18年)に開かれた大東亜会議をもちだして、こう述べている。

「日本の指導者の中には、戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下においておくほうがよいという考えも強かった。
しかし、これらの地域の人々が日本によせる期待にこたえるため、日本は1943年(昭和18年)にビルマ、フィリピンを独立させ、また自由インド政府を承認した。
さらに日本はこれらの地域の代表を東京に集めて大東亜会議を開催した。会議では各国の独立、各国の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。
これは連合国の大西洋憲章に対抗することを目指していた」

この記述の中で触れられている大西洋憲章とは、1941年(昭和16年)の8月14日にルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相が大西洋上で会談をおこなって明らかにした戦後の世界が立脚すべき基本原則のことであるが、八項目からなりたっており、民族の自決といかなる国にも不当な領土拡大を許さないという立場を宣言したところにその特徴があった。

だが、一方でこの大東亜会議はそこで謳われる“独立”や“人種間の平等”という美しい言葉とは裏腹に、日本軍占領下の地域をいかに効率的に戦争に協力させるかというところにポイントがあり、占領下の地域の物的・人的資源を全面的に戦争へと動員するところにその主眼がおかれた。

そして、大東亜会議は1943年(昭和18年)の5月に天皇の前でおこなわれた御前会議ですでにそのもととなるシナリオがつくられており、その内実はこのシナリオに沿った大規模なパフォーマンスでしかなかったのである。

images2450また、この御前会議で決定されたシナリオには「大東亜政略指導大綱」という正式名が冠せられ、ビルマとフィリピンの独立を承認する一方で、はっきりと「マレイ」(現マレイシア・シンガポール)と「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」(現インドネシア)を帝国領土、すなわち日本領土とすることを決定していたのである。

だが、ビルマやフィリピンの独立を承認したといっても、その「独立」はアジアの解放という観点からのものではなく、その地域の人々を戦争に動員するためにいかなる形式が適当かという立場からのものにすぎなかった。
すなわち、フィリピンやビルマに与えることが決まった「独立」とは「満州国」でおこなったことと同じく、傀儡政府をつくらせて米国や英国に宣戦布告させ、その国の人民を日本の戦争に動員することを目的にしたものであり、まさしくゴマカシの独立でしかなかったのである。

こうして、当時の日本政府と軍部指導者は1943年5月の御前会議によって東南アジアの大部分を「帝国領土」とする方針(大東亜政略指導大綱)を決定したが、そこには「帝国領土」拡張の項目については「当分発表しない」という方針もふくまれていた。
このため、同年の11月に東京で開催された大東亜会議には、「満州国」や中華民国の日本傀儡政権、タイ、及び日本が独立を認めたビルマ、フィリピンの指導者を集めたのであったが、インドネシアの指導者は呼ばれず、領土拡張を狙う日本政府の野望は伏せられた状態にあった。

このように大東亜会議は“独立”や“人種差別撤廃”などの美しい言葉を掲げながらも、本当の目的はアジア諸国の人々をだまして戦争協力に引き込もうという汚い「政治謀略」でしかなかったのであり、日本の領土拡張主義を世界の世論からごまかすための隠れ蓑でしかなかったところにその実態があった。
また、この会議ではアジア諸国の独立への道筋が明らかにされるどころか、「大東亜各国は相連携して大東亜戦争を完遂する」といった宣言が発せられ、戦争協力一色に塗りつぶされてしまったのである。

日本軍部指導者による「アジア解放」は過酷な軍政をごまかすプロパガンダだった!

images2901このように大東亜会議に象徴される日本軍部指導者による「アジア解放」とは、戦争遂行のための資源や食料などの獲得を目的とした南方占領地での過酷な軍政を覆い隠すためのプロパガンダでしかなく、けっして当時の日本がアジア諸民族の「解放」や「独立」を目的として戦争を始めたわけではない。

また、当時の日本に植民地を解放しようという考えがなかったことは、台湾や朝鮮などの古くからの日本の植民地を「解放」しようなどと日本政府が一度も考えなかったことからも明らかである。

追記
戦争はおこなったけれども我が国には「領土的野心はなかった」という議論があるが、これはそもそも、「大東亜政略指導大綱」によって東南アジアの大部分を帝国領土とする決定をくだした史実と反する。(これも歴史修正主義に立ったものに他ならない。)

「領土的野心なし」という議論は天皇による終戦の詔書に「他国の主権を排し領土を侵すが如きは固より朕が志にあらず」とあり、この論理が戦後の日本社会に浸透したものであろうが、この詔書を発表した当の昭和天皇が一方で、旧イギリス領・オランダ領(現マレーシア・シンガポール・インドネシア)のかなりの地域を帝国領土と決定した御前会議にも立ち会っていた。
それゆえ、終戦の詔書のこの論理は虚構である

アジア・太平洋戦争は当時の日本軍部指導者による「アジア解放」をめざした戦争であったのか?(東南アジア占領地での実態から)

緒戦での東南アジア作戦の華々しい「大戦果」と日本軍政の実態!
ハワイ真珠湾への奇襲攻撃、マレー半島上陸作戦とシンガポール陥落、フィリピン、オランダ領東インド(インドネシア)の占領等々

images2269以上はアジア・太平洋戦争の初期の段階で日本軍のあげた「大戦果」であるが、これらの緒戦での日本の勝利が「アジア解放」を促がすきっかけとなったとする歴史認識が、今にいたるまで根強く残っている。

「ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。フィリピン・ジャワ・ビルマなどでも日本は米・英・蘭を打ち破り、100日ほどで大勝利の内に緒戦を制した。
これは数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた、現地の人々の協力があってこその勝利であった。この日本の緒戦の勝利は東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と希望をはぐくんだ。」
(扶桑社版の新しい歴史教科書(中学校用)より)

さて、扶桑社版の歴史教科書は過去に日本のやってきた戦争のすべてを日本の安全保障と「自存自衛」のための“やむにやまれぬ戦争”、アジア解放をめざした正義の戦争と描きだすものとして有名であるが、ここに引用した記述もこれらの描写の例に漏れず、その内容は歴史の真実から遠くはなれた断言でしかない。

むしろ日本の戦争目的はこれらの地域から欧米諸国という植民地支配者を追いだして、日本が新しい植民地支配者としてとってかわろうとしたところにあり、政府・軍部がこれを「東亜の解放」という美辞麗句でごまかそうとしたところに歴史の真相がある。

シンガポールなどでの住民への無差別大量虐殺について!
ところで、日本軍は東南アジアの占領地でただちに厳しい軍政を敷き、野蛮な行為を各所でおこなったが、なかでも代表的なものはシンガポールでの数万人の華僑住民にたいする皆殺しであり、1942年の2月15日にシンガポールを占領した日本軍はその3日後の18日に18歳から50歳までの中国系の男子全員を呼び集めて、一挙に虐殺をおこなった。そしてそれを手始めに、同年の2月から3月にかけて華僑住民の大量抹殺作戦を継続している。

この出来事は1962年の宅地造成工事の最中に虐殺された大量の遺骨が建設現場で発掘されたことがきっかけで全貌が明らかになったが、残念ながらいまだに犠牲者の数は明確に把握できていないのが現状だ。
(この出来事はシンガポール市のラッフルズ広場に建てられた「血債の塔」碑文に刻まれている)

当時、満州事変以来の日本による中国侵略の拡大に心を痛めた華僑住民の間で本国と連帯する運動が盛んにおこなわれており、それを熟知する日本軍は東南アジアの占領地では虐殺の矛先を華僑系住民に集中したのである。

そして、このことは華僑系住民にとどまらず日本の占領地では日本軍による気ままな殺人が横行し、特に占領に反対する機運の強いところでは住民への報復的な虐殺がおこなわれ、その無残な記録はマレーやフィリピンなどをはじめとした多くの地域に数多く残っているという。

「労務者」(ロームシャ)の大量強制動員と大量飢餓の発生!
また、東南アジアの住民を苦しめた日本軍の蛮行は住民への虐殺にとどまらず、「労務者」の強制動員と食料の大量挑発による大規模な飢餓なども彼らを苦しめた。

なかでも「労務者」動員で被害の大きかったところは東南アジアであったが、特に人口の多いジャワ島に集中し、1943年1月のシンガポールでの日本軍の「労務者」対策の特別の会議ではジャワ島の労働力をマレー半島やスマトラ、ボルネオなどに大量に移動させる計画が決定された。
こうしてジャワ島の16歳から40歳までの男子全員と16歳から25歳までの女子全員が強制徴用の対象とされ、占領下の行政組織を総動員しての「労務者」の強制動員が展開されていったのである。

だが、動員された人々の運命は過酷をきわめ、ジャワ島で徴募された50万人の苦力(労務者)のうちの30万人は東はソロモン群島から西はビルマまで海を越えて送られていき、嫌悪すべき労働条件のもとで奴隷的労働を強いられた彼らはとりわけ過酷な取り扱いを受け、そのうちの多くが「労務者」として果てたという。
(ヤン・M・ブルヴァーイ:「東南アジア現代史」:東洋経済新報社)

また、「労務者」をめぐる悲劇のなかで象徴的なものは「死の鉄道」と呼ばれた「泰麺(タイ・ビルマ)鉄道」の建設であろう。
images2310これは岩場やジャングルを切り開いて全長450キロの鉄道を半年間(通常は5年かかる)で建設するという無謀な計画であったが、これには「労務者」がジャワ島やマレー、ビルマなどから強制連行で動員され、その数は20万人から30万人にのぼったと推計されている。

そして、この鉄道の建設工事では炎熱地獄と食糧不足、日本軍指揮下の過酷な強制労働などによって大量の「労務者」の命が失われ、「まくら木1本に死者1人」と呼ばれる凄惨な状況が生じた。

また、日本軍による大量の食料の挑発は農村の労働力を「労務者」として動員していたこともあり、東南アジアの各地において大変な食糧不足をひきおこした。
なかでも日本軍が軍の必要にあわせて、稲作からジュート(黄麻)への転作を強要したベトナムでは1945年に北部で史上空前の大飢饉が発生し、大量の餓死者があふれる「飢餓地獄」の様相を呈した。

黒を白と言いくるめる扶桑社版の新しい歴史教科書!

住民に対する無差別の大量虐殺、「労務者」の強制的な動員、食料の挑発による大規模な飢餓の発生等々・・・・・・・

これが日本軍の東南アジア占領のもたらした現実であり、扶桑社版の新しい歴史教科書が記述するように、日本の東南アジア作戦とその後の占領が「東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と希望をはぐくんだ」などと賛美することは、いまや批判的な評価が定着している歴史的事象についての評価の逆転であり、黒を白と言いくるめ歴史を汚すものと言わなければならない。


追記
「なおインドネシアでは現在でも「Roumsya」(ロームシャ)など日本語をそのまま使用しているのは、この言葉には特別のフィーリングがあって英語でもインドネシア語でもずばりと表現できず、適切な訳語がないのです。
私は実際100万人以上が労務者として果てたと思います。そうしたこともあって別の言葉には訳したくありません。もう二度と労務者はごめんです。」
*インドネシアで文部大臣をつとめたヌゴロホ博士の談(「どう映っているか日本の姿 世界の教科書から」に収録 日本放送出版協会)


*「血債の塔」とは
シンガポールのラッフルズ広場で1967年に建てられた日本の占領下で殺された人々の記念碑のことであり、そこには次の碑文が刻まれている。
「1942年2月15日から45年8月18日まで日本軍がシンガポールを占領した。我が市民で罪もないのに殺されたものの数は数え切れない。20余年たってようやく遺骨を納棺してここに丁重に埋葬し、また高い石碑を建て心が痛むほどの悲しみを永遠に記憶に留める」

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「ABCD包囲網」の真相とアジア・太平洋戦争が「自存自衛」の戦争であったとする論について

「ABCD包囲網」をめぐっての当時の日本政府や軍部指導部による説明とは!

1941年(昭和16年)12月8日に戦前の日本政府・軍部がハワイ真珠湾の米艦隊に奇襲攻撃をおこない、さらにそれに続くマレー半島上陸作戦の開始によって対米英戦争の戦端を開き、わが国がアジア・太平洋戦争に突き進んでいったことは誰でもご存知の歴史の事実である。

ところで、この対米英戦争はなにゆえにおこったのか、真珠湾攻撃にいたるまでの道筋についての戦前の日本政府・軍部の説明はこうであった。
「アメリカAmerica(A)、イギリスBritain (B)、中国China(C)、オランダDutch(D)の四カ国が“ABCD包囲陣”という日本包囲網をつくって日本を経済的に追いつめてきたのであり、対米英戦争と東南アジアへの進攻はその「経済封鎖」を打ち破るための「やむにやまれぬ戦争」であり、日本の自存自衛の戦争である。」

開戦理由についてのこの説明には当時の日本が連合諸国によって包囲され、追いつめられてゆく「被害者国家」としてのイメージが込められ、この戦争がやむにやまれぬ自衛戦争であったことを色濃く描き出したものとなっている。

さらに、この話は開戦直前の日本国内において新聞やラジオや学校で国民に対米英戦争を覚悟させるものとして繰り返され、「日本が危険な敵に包囲されており、今これを打ち破らないと危ない」ということが子どもの間でさえも常識となるぐらい国民の頭に叩き込まれたのであった。

だが、この「ABCD包囲網」論なるものは侵略する側とそれに反対する側との関係をまったく逆に描き出したものであり、当時の日本政府・軍部の戦争用プロパガンダのための議論であったことにその本質がある。

中国侵略戦争の泥沼化と欧州での戦争が日本の南進を方向付けた!

当時の日本は1931年(昭和6年)の“満州事変”によって中国東北部を略取し、かいらい国家「満州国」を樹立していたが、さらに華北や内モンゴルなどにたいする日本の支配権を中国に認めさせ、中国全体をも日本の軍事的・政治的・経済的な影響下におくための大規模な侵略戦争(日中戦争)をおこなっていた。

だが、日本側は一撃すれば相手は屈服するであろうという甘い見通しで中国への全面戦争に踏みきったものの、予想に反して中国側の抗戦の意思は強固であり戦争は長期化し、「泥沼化」の様相を呈していたのである。

そこへ1939年9月にナチスドイツがポーランドに進攻したことでヨーロッパの戦争が始まり、緒戦においてドイツの破竹の進撃が展開されていたことを見てとった当時の日本政府は、この国際情勢をうまく利用して対中戦争の処理を促進しようと図り、重大な方針を決定する。(対外施策方針要綱と呼ばれる)

それはヨーロッパの戦争のなりゆきのなかでイギリスやフランス、オランダなどの力が弱まったら、そのすきにつけこんで東南アジアに進攻し、この地域のこれら諸国の植民地を奪い取り、中国への侵略戦争を継続するために必要な石油をはじめとした戦略的な資源を獲得しようという計画であった。
そして、この計画にもとづいて第二次近衛内閣は日本の「生存圏」についての決定をおこない、1940年の9月にナチスドイツとファッショイタリアとのあいだで三国軍事同盟を締結するにあたり、三国それぞれの「生存圏」を決めてお互いに確認しあうという関係を樹立するにいたったのである。

images2279また、この「生存圏」という言葉は日本が自国の「生存」に必要と判断した領域を勝手に線引きし、自分の独占的な支配下に置くことを意味しており、それがドイツと連携して南進しようという武力南進論に結びつき、また日本が積極的にドイツといっしょになって既存の世界秩序を変えようという行動の最大の推進力ともなった。

日独伊三国軍事同盟と武力南進論がアジア・太平洋戦争の引き金となったこと!(ABCD包囲網の虚構)

こうして、ヨーロッパで戦争をしている独伊との軍事同盟の締結と「生存圏」論にもとづく日本の武力南進は日本がはっきりと反英米仏の側についたことを鮮明にし、日本のあからさまな南進によって自らの植民地と権益が脅かされつつあると痛感したイギリスやアメリカとの関係をも決定的に悪化させることにつながっていく。

そして、これらのことはアメリカによる石油など戦略物資の厳しい対日輸出制限という経済制裁を引き出し、また、ドイツ政府によって本国を占領されたオランダもオランダ領東インド(インドネシア)からの石油の対日輸出には応じようとはしなかった。
また一方で当時の日本はこれに対抗して「生存圏」内の資源を武力で奪取しようと企て、フランスがドイツに降伏した直後にフランス領インドシナ(ベトナム)へと軍隊を進出させて公然たる南進作戦の体制を整え始めたのである。

以上が「ABCD包囲網」の形成とそれに追いつめられる「被害国日本」という当時の軍部指導部のプロパガンダに隠された史実であり、日本が中国への侵略戦争を継続するための石油資源などの獲得をめざし、戦争でインドネシア(オランダ領東インド)の石油を手に入れようして開始したのが東南アジアへの進攻であり、対米英戦争であったというのが歴史の真相である。

対米英戦にいたる日米関係の悪化は日本だけに責があるわけではないが、開戦にいたる主な要因がヒトラードイツと連携した日本の武力南進路線にあることは明白であり、それゆえ「被害国」は日本であり、対米英戦争は自衛のためにやむにやまれぬ戦争であったという「自衛戦争論」は史実を無視した歴史認識であるといってよい。

追記
1941年(昭和16年)の時点での「ABCD」諸国と日本との矛盾や対立は、当時のわが国が中国への侵略に固執し、対中戦争継続の条件をあくまでも確保しようとしたことからひきおこされたものであり、日米会談を決裂させ、当時のわが国の戦争を対中国との戦争から東南アジア侵略と対米英戦争へと拡大させた最大の要因が、当時のわが国があくまでも中国への侵略戦争の継続に固執した態度にあったことは明白である。


★なお、日独伊軍事同盟締結に当たって三国間で確認しあった日本の「生存圏」は下記のごとく広大なものであった。

「独伊との交渉において、皇国の大東亜新秩序建設のために生存権として考慮すべき範囲は日満支(日本と中国の全域)を根幹とし、旧ドイツ領委任統治諸島(マリアナ諸島)、フランス領インド及び同太平洋島嶼(インドシナ半島・フィリピン)、タイ国、英領マレー(マレーシア・シンガポール)、英領ボルネオ、蘭領東インド(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)、豪州(オーストラリア)、ニュージーランド、ならびにインド等とす」

1940年9月大本営政府連絡会議決定文書:「日独伊提携強化に対処する基礎要件」
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「抑止力」という言葉の意味について(海兵隊「抑止力」論を笑うために!)

純軍事的な意味の「抑止力」とは何を意味しているか!
「抑止力」という言葉がその中身がきわめて曖昧なままに、沖縄の普天間基地移設問題をきっかけとした安全保障論議の高まりの中で一人歩きをしている感が強いが、この「抑止力」という言葉の持つ意味を純軍事的な観点から考えてみたい。

第二次大戦以降の基本的な軍事戦略においては他国の武力攻撃を防止する最終的担保は、攻撃を企てた国にたいして攻撃した以上の被害を与えることのできる能力の保持にあるといわれている。
言い換えれば、軍事的に相手に耐えられないような報復を与える手段を保持することが武力攻撃をおこなわせないための唯一頼りにできる手段だということだ。

それゆえ、「抑止力」とは攻撃国に対して攻撃した以上の被害を与えることのできる能力のことを意味するのであり、純粋に軍事に特化して「抑止力」を万全なものにしようとすれば、現代の国際環境の下では核兵器の保持へとたどり着かざるをえない。

そして、核兵器の強大な破壊力こそ相手にとって耐えられない最大の報復の手段にほかならず、この意味で現代の安全保障問題の核心は核兵器の保有にある。
(筆者は核兵器即時廃止論者であるが、御用マスコミなどに空疎で俗流な「抑止力」論が横行している現状を等閑視できない。それゆえ、核武装論にも敢えて踏み込む)

純軍事的には日本の核戦力保有こそ究極の「抑止力」だが!
日本の核保有・・・・これは様々な歴史的・社会的な制約が存在し、現実的にはその実現はほぼ不可能である。
唯一の被爆国としての国民感情があり、「核を待たず、使わず、持ち込ませず」の非核三原則が日本の国是でもあり、憲法9条は核兵器の保有を認めないなどの政治的要因が存在するもとでは、わが国の安全保障をめぐり核武装が選択肢として浮上することは実際にはありえない。

だが、これらの政治的要因を棚上げし、現実から離れて軍事に特化するという想定のもとで、わが国の核武装が決定的な「抑止力」となりえるかということにつき私見ではあるが考察してみたい。
しかし、そうは言うものの核兵器の保有を想定してわが国の安全保障をイメージした場合でも、きわめて困難で不利な要因が横たわっていることを見いだすのである。

具体的に言い直せば核保有国であるロシアや中国が相手の場合、わが国が核武装によってこれらの国からの安全保障をまっとうすることはきわめて難しいという結論にたどり着かざるをえないのである。
核保有国のA国とB国とが存在している場合、A国がB国を核で攻撃した際にB国側に必ずある程度の規模の核戦力が生き残らなければならず、攻撃したA国はB国の生き残った核による報復で致命的な打撃を受けるという前提がなければB国側に「抑止力」は存在しないということになる。

だが、日本の場合には東京などのわずかな都市に政治経済などすべての集中が進んでおり、周辺国と比較しても核攻撃に対してはきわめて脆弱であることが特徴だ。
それゆえロシアや中国は一撃でわが国に壊滅的な打撃を与えることが可能であるが、ロシアや中国側はといえば国土が広大であり、日本側からの一撃だけでは壊滅的な打撃を受けることはありえない。

そして、この核戦争におけるわが国の脆弱性という点にわが国の核武装による安全保障を想定した際の最大の弱点が存在する。
すなわち、周辺の核大国にたいしては最大の報復能力である核戦力をもってしてもわが国の安全保障を全うすることは困難なのであり、純軍事的には核兵器をもってしてもわが国の場合には「抑止力」とすることはできない。

「米国の核の傘」や海兵隊の駐留は「抑止力」の名に値しない!
それゆえ、日本独自の核戦力でさえわが国の安全保障を全うしえず、「抑止力」たりえなければ、いわゆる「米国の核の傘」なるシロモノにいたってはまったく当てにはならないことを理解してもらえるだろう。

imagesCAWJP7IZなぜなら、米国が自国内の都市へのロシアや中国からの核攻撃を受ける可能性がある場合に、米国はまずは自己保全を最優先するはずであり、このようなケースでは米国がわが国にその核の傘が提供することなどありえないからだ。
昔から歴代保守政権が金科玉条のごとく崇め祭ってきた「米国の核の傘」なるものの実体は、周辺の核大国が想定されるケースでは実際には機能することなどなく、純軍事的に考えれば日本には「核の傘」などないことを前提に安全保障政策を考えなければならないだろう。

このように軍事面に特化して考えれば日本はきわめて不安定な状況のもとに置かれており、日本の安全保障を核兵器を含む軍事力のみによって全うすることは事実上不可能であって、わが国を軍事力のみを頼って抑止することはできないのである。

ましてや、アフガニスタンやイラク、ソマリアなどへの戦力投入部隊であり、日本防衛を任務としているわけではなく、沖縄の基地を格好の中継地点、補給と休養の地としているだけの米国の海兵隊などは、いかなる意味でもわが国にとっての「抑止力」ではありえない。
そして、このことは沖縄や岩国の海兵隊に限らず、安保条約にもとづいて駐留する陸海空3軍にわたるすべての在日米軍についても当てはまる議論であるだろう。

非軍事的な抑止に重点をシフトする時代にあること!
images2249よって、わが国は軍事以外による抑止を重視すべきであり、実際にも国際社会におけるグローバリズムの深化が実は戦争の抑止に重要な役割を果たす時代となっているのである。
その具体例をあげれば近隣の国々と緊密な貿易関係の形成であり、相手国の国民がわが国との経済関係に死活的な利益を見いだす状況を作り出すことが抑止の重要な手段となりえることだ。(すでにグローバル化の中で実現しているが!)

そうすれば、わが国への軍事攻撃の際にはこの経済関係が途絶え相手国が重大な打撃を被り、わが国との経済関係に死活的な利益を見いだす相手国の国民が政権指導部を揺さぶり政権の存立を脅かす。すなわち相手国経済への打撃という迂回手段が大きな抑止効果を生むのである。

そして、これは非軍事による抑止の一例であり、非軍事の抑止手段は国際政治や外交の面にも多様に存在することは言うまでもない。

参考:「日米同盟の正体」 孫崎享著 講談社現代新書

追伸
再度お断りするが、文中で日本の核武装にコメントしたからといっても筆者は核兵器肯定論に立っているわけではない。
筆者はあくまでも反核であり、理想は残虐兵器である核兵器の早期廃絶にある。
また、核保有国が核兵器の廃絶を目標として国際会議を開始することを望んでいる。

日米同盟が日本の平和と安全を守る「抑止力」であると言われることについて

「日米同盟:未来のための変革と再編」という取り決めに取って代わられた安保条約!
今、普天間問題をめぐって、マスメディアを筆頭に日米同盟は日本の平和と安全を守る大事な「抑止力」であり、かげがえのない“公共財”であるというイデオロギーが繰り返される状況にあるが、ではその基礎となる文書はなんですかと聞かれれば、ほとんどの人は1960年に改定された日米安全保障条約であると答えるだろう。

images1214たしかに安保条約はその第6条に「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和および安全の維持に寄与するため」という極東条項を持っており、在日米軍が日本とその周辺地域の安全保障の要の存在であるかのごとき文言が挿入されている。
だが、2005年に日米の外交防衛のトップ同士が署名した「日米同盟:未来のための変革と再編」という取り決めが実質的に安保条約にとって変わったために、日米安保条約は実質的に終わっていることは一般にはほとんど知られていない。

日米安保条約は日本および極東地域の安全保障を確保することを目的としたものであったが、この「未来のための変革と再編」において両国間の同盟関係は「世界における課題に効果的に対処するうえで重要な役割を果たしている」と位置づけられ、日米間の安全保障協力の範囲が極東から世界へと飛躍的に拡大されているのである

さらに「未来のための変革と再編」では「共通の戦略目標を達成するため、国際的な安全保障環境を改善する上での二国間協力は、同盟の重要な要素となった」と謳いあげ、日米同盟の目的を攻撃されたからとか、攻撃が迫っているから共同で脅威を排除しようということから「国際的な安全保障環境を改善する」ことに切り替え、ほとんどの国民の知らないうちに重大な変更を持ち込んだ。
そして、この日米同盟の目的とされた「国際的な安全保障環境を改善する」という文言は一見誰もが受け入れられるような印象を持っているのであるが、これを具体的な政策に置き換えてみると、容易ならぬ深刻な意味合いを帯びていることが浮かび上がる。

米国は冷戦後も圧倒的な軍事力を維持することを目的として、イランやイラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と決めつけ、これらの諸国が核兵器ほかの大量破壊兵器を所持することを阻止するためにこれらの諸国への軍事力使用計画を考えてきたが(実際にイラクでは軍事力の行使へと踏み出している)、これは当然に米国にとっては「国際的な安全保障環境を改善する」ことに該当するのであり、アフガニスタンにおけるタリバンのようにテロリストをかくまう政権を排除する、これも同様に米国にとって「国際的な安全保障環境を改善する」ことの内に含まれるのである。

そして、重大なことはその際の軍事力の使用は敵が軍事行動をおこなった時に限らず、先制攻撃も選択肢として含んでいるのであり、このことはすでにブッシュ政権下での「先制攻撃ドクトリン」として米国の軍事戦略の柱となっているのである。

「米軍再編」の進行と並行して進む日米安全保障関係の変質!
また、米国はイラク戦争のような先制攻撃の戦争をたたかうために、世界のどこでも迅速に展開でき、より機動的な軍隊へと作り変えるために地球的な規模で米軍の再配置をすすめており、これにともなう一連の動きが「米軍再編」と呼ばれているものの実体だ。

images2207そして、この動きの中で日本においてすすめられていることが在日米軍基地の強化であり、自衛隊が米軍の補完的な戦力の役割を果たす計画や米軍と自衛隊の基地機能の統合であって、重大なことは米国が地球的な規模で進めている「米軍再編」のなかで「日米同盟」の強化はその中軸的な位置づけが与えられているということである。

そして、前述の「日米同盟:未来のための変革と再編」という取り決めが実質的に安保条約にとって変わった時期と、この日本をめぐる「米軍再編」の動きが顕在化してきた時期とは重なっており、日米安全保障関係の変質が米軍基地の強化や自衛隊と米軍との本格的な軍事協力体制や海外派兵の進展という具体的な形態をともなって急激に進んでいるのである。

さて、かって小泉元首相は基地強化の受け入れは「平和と安全の代価だ」と言い放っているが、米軍再編に伴う基地強化などの動きは日本の「平和と安全を守る」こととはまったく無縁という性質を持っており、「平和と安全」どころか、日本を地球規模での殴りこみ戦争の一大根拠地としたうえで世界とアジアの平和を脅かす震源地に変えるものに他ならない。

日米同盟における「抑止力」という名の箱の中身は何か!
よく昔から「同盟の非対称性」ということが言われ、「米国は日本を守る、だが日本は米国本土を守らない、これでは不公平だ、これを補うために日本は他の分野でできるだけ米国に貢献しなければならない」という論がある。

imagesCAA9EWXTだが、米軍の世界戦略の展開には米軍基地の前方展開は不可欠の事柄であり、その際に日本の基地は中核的な役割を果たしている。
岩国と沖縄を拠点とした海兵遠征軍、横須賀を母港とした第7艦隊(空母打撃群)、三沢などを本拠とした航空宇宙遠征軍などの在日米軍は米国がテロとのたたかいを戦略上の最重要課題とした今日、その重要性は高まるばかりだ。

また、ケント・カルダーというかって駐日米大使特別補佐官を勤めた米国の高官は海外の米軍基地の中で将来を考えても最も深い意味を持つのがドイツと日本の施設であり、日本における米軍の施設の価値は米国外で最高であるとの評価を与えているという。
このように日米安全保障関係の取り引きでは米国が日本国内に基地を持ち、日本が米国の陣営につくことで米国は圧倒的な利益をすでに得ており、これだけで取り引きは米国側が有利なうちに成立しているのであり、非対称性なるものはなりたたない。

おまけに、日本政府は米軍駐留経費の75%を負担しており、この比率は米国の同盟国中でダントツに高い。
これだけの頂き物をしているのであるから、米国もさすがに“タダもらい”はできずに「米国は日本を守る」と約束をしているが、いざ事が起こったときに自らの国益を優先してこれが単なる口約束に終わってしまうことは十分にありえる。・・・・・
これが米軍の「抑止力」といわれるものの箱の中身に他ならないだろう

参考:日米同盟の正体 孫崎亨(現代新書)

「共産主義ダメ論」の厚い壁の中で低迷する日本共産党の現状を憂う!

「共産主義ダメ論」は不可逆性を持った冷厳な現実である!
1990年前後におけるソ連や東欧の社会主義国家の崩壊は今もなお、というより歳月の経過によって増幅されながら、国民の政治意識のなかに「共産主義ダメ論」を定着させている。

imagesCA0NDP51これは日本共産党指導部の言う戦前来の「反共主義」が強まったものではけっしてなく、社会主義世界体制の崩壊という世界史的な大事件が生起したことにもとづくものであり、戦前のいわゆる「アカ攻撃」などと異なり、ロシア革命以来80年近くにもわたる社会主義体制の破綻と失敗という世界史的な事実にもとづいた理性的なものという他はない。

この結果、国民の意識のなかではイデオロギーとしての共産主義は命脈が尽きたものとして認識されており,共産主義イデオロギーを政治綱領に掲げた政党に政権を託することは、過半の国民にとって破綻した社会主義国家のような一党専制の強権政治に日本の政治を託することに他ならないのであり、困ったことには近隣国家で北朝鮮がその失敗の無惨な姿をこれ見よがしに日々晒しているのである。

この国民の認識は小林多喜二の「蟹工船」が世間で広く読まれるようになったとか、ソ連は本来の意味の社会主義でなかったとか、ソ連の崩壊は巨悪の崩壊でありこれにはもろ手をあげて賛成したなどと日本共産党指導部が説明したみたところでけっして覆せるものではないし、日本共産党の綱領や未来の社会主義像を日本全国津々浦々にわたり世間の隅々にまで説明して廻ったところでできない相談なのである。

なによりも社会主義体制の崩壊という世界史的な事実を国民がその眼で見ているのであり、この見聞にもとづく認識を日本共産党指導部の口舌でひっくり返すことはできないという冷厳な事実を受け入れることができなければ、これからの日本社会における同党の運動方針を正確で正しいものにしていくことは困難だ。

問題は社会主義について国民の意識のなかに普及している理解と日本共産党のそれと、どちらが正確であり、より正しい認識なのかということではなく、「共産主義ダメ論」が同党の説明や口舌ではもはやひっくり返すことのできないほど国民の意識のなかに定着しており、それを不可逆性をもった冷厳な現実として同党が受け入れることだ。

自らの口舌で「共産主義ダメ論」を乗り越えようとしている日本共産党指導部!
だが、日本共産党の指導部はこの国民の意識の奥でおこっている重大な変化を認識することができず、話せばわかるという根拠のない幻想にとらわれ、そこから抜け出すことができない。

また、この国民の意識の変化を反共主義の強まりとしかとらえることのできない同党の指導部は、「綱領を語る」大運動で同党の“未来社会像”を語ることにより国民の誤解を解いてこれを乗り越えようとしているが、この同党指導部の試みは遅かれ早かれ頓挫せざるをえない。

そして、もはや同党幹部の演説や社会主義の理想を語るだけでは国民は聞く耳など持たず、話せばわかるという幻想から抜け出せなければ、たとえ数億枚のチラシやパンフレットを国民のなかに普及したとしても国民の支持は集められないことを何度でも繰り返し経験するだけに終わってしまうだろう。

これが現在の日本共産党がぶち当たっている大きな壁なのであり、国政選挙での凋落をもたらしている大きな要因であるが、ここから抜け出して国政における同党の信頼を回復し、新たな成長の軌道に乗せるためには、さしあたって早急に何が必要とされるのであろうか。

地方の日本共産党の堅調ぶりから学ぶべきものとは!
だが、問題の性質は比較的単純なものであり、我々の身近に見られる小さな事例を参考にすべき時が来ていると筆者は考えるのである。

ちなみに地域における日本共産党の党員や党所属の議員は地域の住民の厚い信頼を勝ち得ている場合が多いが、これは党員や議員諸氏が地域や近隣の問題に誠実に取り組み市町村などを動かして、その要求を各地で実現していることにもとづいている。

imagesCAOQ2NP5実際にも日本共産党の地方議員は最新のデータによると全国で三千人を超え、この数は自民党や公明党の地方議員数とほぼ拮抗するものであり、民主党や社民党のそれをはるかに上回っている。
また、全国の自治体で同党が議席を持っている自治体の割合を見るとほぼ80%に届こうとしており、これは自民や公明、民主、社民など他党のそれと比べるとダントツの1位であるともいう。

これは地方の同党議員が党員諸氏と力をあわせ住民の切実な要求の実現に献身的に取り組んで勝ち得てきた信頼がその根底にあるからであり、この構図が同党の有用性を日々実証しながら地方における日本共産党の堅調を支えているのである。

だが、国政における日本共産党にはいまのところその有用性を示すものは見当たらず、将来に「民主連合政府」や「国民が主人公の社会主義」を作りますという約束を繰り返すだけであり、残念ながらそれがいっこうに実現性のない「空手形」の振り出しに終わっているのである。

そして、このことは社会主義体制崩壊後の国民意識のなかでの「共産主義ダメ論」の定着もあり、「空手形」の濫発では国民からますます信用されなくなるという悪循環のなかに落ち込んでしまっていることに党指導部はいっこうに気づかない。

それゆえ、この局面を転換するには「基本政策の一致」がなければ国政選挙での他党との共闘や協力はやらないという「ドグマ」を捨て去り、柔軟な選挙戦術の採用で国政選挙での多様な選挙共闘を実現させて“友軍”を国会の中に多数送り込み、他党派との幅広い協力により庶民の利益を実際にひとつひとつ実現していくという道を採用する他はない。

そして、地方での日本共産党が住民の信頼をその有用性を実証してきたことで勝ち得てきたように、国政での日本共産党も国民のさしあたりの利益の実現に持てるすべての力と知恵を投入することで取り組み、その有用性を実証する必要がある。

国政での日本共産党をダメにしているドグマとは!
だが、この筆者の論に同党の多くのものはこのように言うだろう。

「一例として日本共産党国会議員団は労働者派遣法を踏みにじった不法な派遣切りや、大手企業での偽装請負を摘発是正しており、また違法なカラ残業を各所で告発し残業代を払わせている。」

imagesだが、はっきり言ってこれでは実績としては小さすぎるし、一部の関係者でもない限りこれに気づくものはない。実績は国民のほとんどが感じ取れるほど目につく大きなものでなければならず、またそういうレベルでの大きな活動を国政上でしていかなければ国民のなかに定着した「共産主義ダメ論」の厚い壁を崩していくきっかけを掴むことはできない。

だが、日本共産党は「基本政策の一致」がなければ国政選挙で他党との共闘や協力はしないという杓子定規の「ドグマ」をいたるところで繰り返しており、国政での同党の周辺には“援軍”も“友軍”も誰一人いないという状況を自ら作り出している。

これが国政での同党の現状であり、この結果として実効性のあるどのような行動の提起もできず同党のマニフェスト中のいかなる政策も実現できない。
当然旧来の支持者からの「空手形」を濫発する同党への信頼は失われていく一方となり、国政選挙での大規模な基礎票の逃避がおき始めている。

こうして、国政での日本共産党は独善的なセクト主義に凝り固まって自己を無力化と孤立化の道へと自ら追い込んでおり、「共産主義ダメ論」の厚い壁のなかで先細っていく一方である。


追記
厚生官僚に取り込まれてしまった長妻大臣が後期高齢者医療制度の廃止に及び腰となり、はては対象年齢を下げていっそうひどい改悪の道へと迷い込もうとしているが、ここで日本共産党が民主党との選挙協力と引き換えにこの制度の即時廃止を約束させてはどうか。

民主党は支持率低下に悩んでおり、これが実現すれば民主と共産双方にとってメリットがあり、国民も歓迎するだろう。

これは一例であるが、このような柔軟な選挙戦略の大胆な採用が必要なのであり、また各選挙区での共闘は地方の党組織の自治に任せるべきなのである。

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