光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

2010年08月

中部太平洋での日米両軍の死闘とサイパン島「玉砕」の悲劇について(太平洋戦争の一断面)

太平洋戦争の緒戦における日本軍の連戦連勝は長くは続かず、開戦後半年あまりで形勢は逆転して米軍が攻勢に転じた。
とくにミッドウェイ海戦での日本の敗北はその転機となり、アッツ島守備隊2500名の全滅を大本営が「玉砕」の美名にすりかえて発表したのに続き、ガダルカナル戦での22000名の戦死と餓死という悲惨な事実をも隠蔽した。
そして、かろうじて退却脱出に成功した将兵一万余命をめぐっては「目的を達成し転進せり」と虚偽の発表をおこなった。

さらに1943年(昭和18年)になると戦局はさらに悪化し、中部太平洋の島々では優勢な兵力と圧倒的な火力を保持し、制海権と制空権を手中に収めた米軍の猛攻により日本軍守備隊が次々と全滅していく。
だが、大本営はこれらの無残な敗北をも「玉砕せり」と美化し続けた。

images3401これらのなかでも、ギルバート諸島のタラワ環礁での血みどろの戦闘は凄惨を極め、米軍が3000トンの砲弾を撃ち込んで上陸をした際には、砲爆撃で壊滅したと思われた海岸線の日本軍の陣地からの猛烈な射撃を受け、水際の戦闘で米軍には2千名に近い多大な死傷者が続出した。

地雷を抱えて戦車の下にもぐりこもうとする者、命運尽きたと判断したときには手榴弾で自決する者、最後の万歳突撃と、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)という死の哲学で日本軍将兵は武装しており、勇敢であっても民主主義思想にたち、出血を極力避ける戦術を叩き込まれていたアメリカ海兵隊の将兵には日本軍の将兵の捨て身の戦いぶりは恐怖の的であった。

しかし、さすがのタラワの日本軍守備隊も11月25日には全滅(玉砕)したが、その後の中部太平洋の孤島をめぐる戦いでの日本軍の抵抗ぶりも多かれ少なかれこのようなものであったという。
さらに1944年(昭和19年)にはマーシャル諸島のクエゼリンやルオット両島の日本軍守備隊8700名が全滅し、同年の4月下旬までにマーシャル諸島の19の島々は米軍の手に落ちた。

こうしてガダルカナルを奪回した米軍はここを起点として「蛙飛び」上陸作戦を太平洋に展開しながら、機動部隊を先頭に北に向かって進撃をすすめていく。

サイパン島攻略に踏み切った米軍と多数の非戦闘員の住んでいたサイパン島!
さて、米国が「空の要塞」との異名を持つ重爆撃機B29の開発に成功したのはこの頃であり、5600kmの航続距離を超高空で飛行できるB29の性能を持ってすればサイパンからの日本本土空襲が可能となった。
それゆえ米軍は44年の6月15日にはサイパン島の攻略へと歩をすすめたのである。

一方、サイパン島で米軍を迎え撃ったのは日本陸海軍の将兵4万3千有余名であったが、日米両軍の戦力を比較するとその圧倒的な格差は一目瞭然であった。
例えると日露戦争時に使用した三八式歩兵銃を持った日本兵一人と最新式自動小銃・カービン銃で武装した米兵10人が戦っているような状況であり、さらに制空権と制海権をも米軍が握っていたのである。
勝敗の行方は最初から明白であったことは言うまでもない。

また、それまでの中部太平洋での珊瑚礁の孤島とは違って、サイパン島は面積185平方キロ、中央に473メートルのタッポーチョ山をもつれっきとした島であり、日本資本による産業の開発もすすみ、製糖工場やサトウキビ栽培・水産などが営まれ、約二万名の非戦闘員が住んでいた。
彼らのなかには沖縄から出稼ぎに来た人が多く、また現地住民のチャモロ族やカナカ族および朝鮮人なども含まれていた。

さて、守備隊と非戦闘員は米軍が上陸した直後には劣悪な状況の下でも勇敢に戦ったが、頼みの日本の機動部隊が壊滅したため、守備隊はじりじりと島の北部への後退を余儀なくされた。
そして、いよいよ戦局が絶望的なものとなった7月6日にはサイパン島守備隊の最高指揮官である南雲中将と斉藤中将が自決し、残りの守備隊も最後の万歳突撃を敢行して全滅(玉砕)していった。
こうして米軍がサイパン島を制圧したのは7月9日である。

非戦闘員に一万人近い死者をだしたサイパン戦の問題点とは!
だが、このとき約4千名の非戦闘員の日本人も島の北端へと追いつめられていた。
逃げ場を失った彼らのなかにはあっちこっちで車座になって手榴弾で自決をする者、我が子を殺して後を追う者など自ら死を選ぶ者が後を絶たなかった。
また、野戦病院にいた患者と看護婦は服毒自殺を遂げ、慰安婦たちは自決をした。
untitled3122さらに島の最北端のマッピ岬の断崖からは女性を含む多くの非戦闘員が投身自殺をおこない、この悲しい光景を目撃したアメリカ軍の将兵たちはこの断崖を「バンザイ・クリフ」ないし「シュイサイド・クリフ」(自殺の崖)と名づけたという。

さて、これらの悲劇は指揮官たちが非戦闘員にかんしてなんの手もうたずに、なりゆき任せの無責任な態度をとったことから惹き起こされており、ここにサイパン戦の最大の問題点があった。
非戦闘員のうち16歳から45歳の男子は招集されて家族から切り離され、残された女子と老人と子供の多くも戦闘に巻き込まれて死んでいった。
こうして戦死した非戦闘員の犠牲者数は総計で一万人にも達するという。

指揮官たちは将兵には玉砕命令を出して自決したものの、非戦闘員に対しての指示はなにもなく、「居留民の保護」に当たるべき軍隊の使命を放棄し、軍人の論理のみを優先させた彼らの態度はきわめて無責任であったというしかない。
おなじことはグアムでもテニアンでも沖縄でも繰り返されたのであるから、なおさらにその思いを強く感ずる。

サイパン戦と時を同じくして、ヨーロッパではソ連軍が敗走するドイツ軍を急迫するなかで連合国軍が6月6日にノルマンディー上陸作戦を成功させ、西ヨーロッパに待望の第二戦線を開いた。
こうして東西からナチスドイツを挟み撃ちにする態勢が整ったのである。
欧州のノルマンディー作戦と同時期の太平洋のサイパン戦も枢軸国側に大きな打撃を与えた第二次世界大戦の転換点であった。
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近衛上奏文および国体の護持(天皇制の維持)のための捨石とされた沖縄戦の惨状

近衛上奏文に見られる国体護持の思想と「捨て石」としての沖縄戦!
images3259アジア太平洋戦争での日本の敗北がもはや決定的となっていた1945年(昭和20年)の2月に、元首相の近衛文麿は昭和天皇に戦争終結を上奏した。
「敗戦は遺憾ながらももはや必至なりと存候。国体護持の立場より最も憂うべきは、敗戦よりも敗戦に伴うておこることのあるべき共産革命に候」

つまり、もはや敗戦は避けられず、これ以上戦争をして国内を混乱させると敗戦後に革命がおこるので、国体すなわち天皇制を守るためにはまだ余裕のある今のうちに戦争終結へと動くべきであると近衛は天皇に進言したのだ。

だが、共産党は30年代の弾圧によって組織的に壊滅しており、この上奏文に見られる近衛の心配に現実的な根拠はなかったが、彼が対米強硬論を貫き本土決戦まで唱える軍部強硬派などの背後に「共産主義革命」の幻影を見ていたと解釈することは可能だ。
軍部指導者の中に日本の社会主義化を目指す共産主義者が密かに入り込んでいるかも知れず、彼らが意図的に日本を破局的な敗戦に追いこみ、その混乱のなかで日本を革命に導きいれようとしているのではあるまいかという妄想を近衛が抱いていた。

だが、軍事的なリアリストであった昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと話は難しいと思う」と反論して、近衛のこの戦争終結の進言を拒絶したという。
天皇はこの近衛の進言のあった45年の2月の時点では米軍にもう一度大打撃を与えてから停戦交渉のきっかけをつかみたいという意思を持っており、大本営も本土防衛のための軍隊の温存を図りながら、わずかな戦力で沖縄戦を国体護持(天皇制の維持)のための「捨石」にする賭けにでようとしていた。

44年の3月には大本営直轄の第32軍(司令官牛島満中将)が沖縄戦を目的として首里に設置されていたが、本土からの増援部隊の派遣はされず、逆にその一部が台湾に転出しており、戦力の温存を図りながら沖縄での人的消耗戦によって本土決戦の準備をするための時間を稼ごうとした軍部指導者の意図は明らかであった。

沖縄戦での県民に対する根こそぎ動員の実態と米軍による無差別殺戮戦!
こうして増援のないまま、戦力不足に見舞われた沖縄の第32軍はそれを補うために17歳から45歳までの沖縄男子二万数千人を根こそぎ動員して防衛隊や義勇隊に組織した。
そして在郷軍人会を中心に市町村単位に部隊を編成し軍の指揮下に組み入れていったが、この召集はずさんであり15歳以下の少年や60歳以上の老人まで動員されたという。

また、戦闘協力者として師範学校や中学校生徒をも鉄血勤皇隊として銃を持たせ、また女子師範学校や高等女学校の生徒もひめゆり部隊などの通称で従軍看護婦として戦場に動員した。
こうして生徒や学生たちも例外なく根こそぎ動員の対象となった。

さて、沖縄戦での戦闘は軍人や軍属の戦死者が9万4136人であるのに対し、一般住民や戦闘協力者が9万4000人も亡くなっており、多数の非戦闘員が犠牲になったところにその特徴がある。
そして軍人・軍属や非戦闘員すべてを含んだ沖縄県人の戦死者は約12万人におよび、さらにマラリアによる病死や餓死などをふくめると15万人に達するとされ、実に県民60万人のうち四人に一人が戦死したという。

images3077また、米軍は通常爆弾だけでなくナパーム弾を投下して民家を焼き払い、ロケット弾や毒ガスをも使用して激しい砲爆撃を敢行した。
45年4月1日の米軍上陸から組織的な戦闘が終結したといわれる6月末までに51万発の艦砲弾と177万発の野砲や銃砲弾が雨あられのよう地上に降り注ぎ、これは一平方メートルあたり一発の砲弾というほどのすさまじさであった。(これは後に「鉄の暴風」と名づけられた。)

さらに米軍は沖縄上陸後に「馬乗り作戦」と称して日本軍や県民のたてこもる洞窟やトンネルに爆弾を投げ込み、ガソリンを流し込んで火炎放射器で焼き払った。
こうして米軍が沖縄戦を本土決戦の前哨戦として位置づけ、住民を巻き込んでの無差別殺戮戦を展開したことが大量の非戦闘員の殺戮をひきおこした。

友軍」による虐待と虐殺の発生も県民を苦しめた!
また、住民の犠牲は米軍との戦闘に留まらず、味方であるはずの日本軍による住民の犠牲も多発した。
沖縄本島や石垣島、宮古島、南大東島などに飛行場を建設する際の食料や資材・労働力が現地調達とされ、すべてが民間供出となったことで住民の間には飢餓地獄が蔓延した。

さらに日本軍による住民殺害も多数発生した。
それがピークに達したのは、南部の摩文仁の丘に追い詰められた3万人の日本軍と10万人の一般住民が、直径7キロの円内にすっぽりおさまるような狭い地域に押し込められた沖縄戦の最終段階である。
後からやって来た日本軍により銃剣や軍刀で避難壕を追い出された住民が砲弾の犠牲になったり、米軍に投降する住民が後ろから射殺されたり、米軍に保護された住民がスパイ・非国民として殺害されたり、乳幼児が泣くと米軍に見つかって攻撃されるので乳幼児が刺し殺されたりという事件が無数におきた。

images3195さらに日本軍が県民に集団自決を直接間接に強要したことも県民に悲劇をもたらした。
伊江島での約100名、座間味島での171名、渡嘉敷島での329名などがその代表的な例であり、手榴弾によるものが多かったが、死に切れない場合には鍬や棒でお互い同士が殴りあったり、男性が妻子や老親を手にかけた後に首をつるなどの惨劇が頻発した。
米軍の虐殺と並び、多くの県民を苦しめたものが「友軍」による虐待と虐殺であった。


追記
大本営の本土決戦計画によると、相模湾や九十九里浜など米軍の上陸の想定される地点では民間人が義勇軍となり、背中に爆弾を背負って相手戦車に突っ込むという「特攻作戦」が大規模に想定されていた。
そして、本土決戦の防衛計画をみると住民の避難計画はほとんどなく、そのための場所や食料の準備さえもなかった。
いわば本土決戦計画にあって国民は抗戦部隊の盾になることが想定されていたのであり、これが戦争末期にかかげられたスローガンの「一億総特攻」の実態だった。

また、米軍の「鉄の暴風」による無差別殺戮と日本軍による住民虐殺は本土決戦の前哨戦であった沖縄戦の特徴であり、もし本土決戦となったら沖縄戦の惨状が本土でもその数倍の規模で繰り返されていただろう。
沖縄戦は1945年(昭和20年)8月15日をすぎてもなお戦争が継続された場合の「本土決戦」そのものであり、たんに太平洋戦争末期の一戦闘にとどまるものではなかった。

アジア太平洋戦争開戦の決定に見られる天皇制ファシズム体制の無責任さについて

欧州ではヒトラードイツの侵略にイギリスが対抗し、アジアでは日本の侵略に中国が抵抗戦争を戦っており、アメリカは参戦していなかったが、これらの侵略に反対しイギリスや中国を援助する立場に立っていた。

これがアジア太平洋戦争開戦直前の日本をめぐる世界情勢であり、日本の戦争継続を助ける戦略物資の対日輸出を次第に制限し始めたアメリカは1941年(昭和16年)の8月1日に日本への石油禁輸へと踏みだした。
また、ドイツの侵略に本国が蹂躙されていたオランダ政府が蘭印(現インドネシア)からの日本への石油輸出に応じなかったのも、ドイツと軍事同盟を締結した侵略国である日本の地位を考えれば当然であっただろう。

これにたいして日本は南方(東南アジア)の資源を武力で奪取しようとくわだて、フランスがドイツに降伏した三ケ月後の40年の9月には仏印北部(ベトナム北部)に軍隊をすすめ、翌41年の7月には仏印南部(ベトナム南部)へと日本軍を進駐させて、公然と「南進」作戦の体制を整えた。
こうして対米英開戦へと一瀉千里の勢いで日本はなだれ込んでいった。

最高指導者たちの主体的な判断と責任で決定されたアジア太平洋戦争の開戦!
さて、41年の7月2日から12月1日までの五ヶ月間に、天皇を頂点とした軍部や政府の首脳部の間で4回の御前会議をふくむ多くの正式の会議が積み重ねられており、アジア太平洋戦争の開戦は天皇を頂点とする日本の最高指導者たちが主体的な判断にもとづき、自らの責任においてこれを決定したことはこの経過からも明白である。

これが出先の軍部の暴走によってひきおこされたとされる満州事変や日中戦争などとは決定的に異なる点であり、国民には事前の相談もなしに惹き起こした対米英開戦の責任を当時の軍・政府の首脳部は免れることはできない。

また、太平洋戦争の開戦を決意した彼ら最高指導者の間には戦争に勝つ見通しを持っていた者もいなかった。
歴史的な経過を振り返ると、対米開戦の三ヶ月前、9月6日の御前会議において「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意のもとに概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」との方針が確認され、開戦という重大な国策が決定されている。
そして、この御前会議の前日に開戦に不安を持った天皇は陸軍の杉山参謀総長と海軍の永野軍令部総長らを宮中に呼び出し、作戦計画について質問をした。

5af74e121c6c14baだが、「絶対に勝てるか」と大声で詰問した天皇に対し、杉山参謀総長は「絶対とは申しかねます。しかし勝てる算のあることだけは申しあげられます。必ず勝つとは申し上げ兼ねます」とあやふやな返事しかできなかった。

このように軍部の最高指導者さえも勝利の確信を持っていなかったのであり、まして他の者が確信など持っているはずもなかった。

開戦を決意せしめた三つの理由と論理とはなにか!(無責任性のきわみ)
では、勝利の確信がないのにもかかわらず、当時の最高指導者たちが開戦を決意したのはなぜか。
今日の歴史学によれば主に三つの理由が彼らをして開戦に踏みきらせたという。

第一は日本が米国の要求に屈して中国から撤兵すれば満州事変や日中戦争の“成果”はすべてふいになり、数十万の戦死者(英霊)や幾多の犠牲を強いられてきた国民に申し訳がないというものであった。
東条首相は「支那事変は数十万の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍人と一億国民に戦場と内地で辛苦を積ましており、なお数百億の国帑を費やしておる。・・・・米国の圧迫に屈する必要はないのである。」と閣議で“力説”した。

第二は彼らが物言わぬ国民にいいしれぬ恐怖感を感じていたことであり、戦争回避へと政策転換すれば国民の不満が爆発して内乱や暴動が起こるかもしれないことを恐れたことだ。
「もし、米国の要求を呑んで支那事変を放棄すれば、何をもって国民の憤激を抑えることができるか、勢いの激するところいかなる事態にたちいたるやもしれないのである」

これは強硬な開戦論者であった海軍省の某参謀の回顧録の一節であり、国民に多大の犠牲を払わせ、戦争政策をすすめてきた彼ら最高指導者は日中戦争には勝てないし、おまけに対米戦争はできぬということになれば、国民は不満を爆発させ、場合によっては内乱や革命を惹起しかねないことを恐れた。
体制の安泰のためには革命の危険を避け、戦争を選ぶという論理であり、戦争によって惹き起こされる国民のおびただしい犠牲になんの痛みも感じない無責任さが、対米戦争を引き寄せたのである。

第三は合理的で科学的な判断を欠いた恐るべき楽観主義が横行したことだ。
「吾人は二年後の見通し不明なるがゆえに、無為にして自滅にいたらんよりは難局を打開して将来の光明を求めんと欲するものなり。・・・・」と東条首相は開戦の前月(11月)に断言している。
座して死を待つより、一か八か打って出るべきであり、戦争によって「死中に活」をもとめるべきだというのである。

関が原後の豊臣家が豊臣の勢いを削ごうとする徳川方の理不尽なやり方に抵抗せずに、無為な日々を過ごし、結局は滅ぼされてしまった歴史上の故事を天皇に持ちだす軍首脳もあった。
images3166また、対米慎重論者の海軍大将米内光政は天皇と居並ぶ重臣たちを前に「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならぬようご注意願いたい」と発言したというが、後の事態はこの発言が的中する結果となった。

戦後、当時の海軍首脳部がアメリカの実力をよく知っており、内心では対米戦争に反対であったという風説が流布した時期がある。
だが、当時の軍や政府の首脳部のなかに自らの地位や身命をなげうって戦争を断固阻止しようと行動した者は結局一人もいなかったのであり、天皇制ファシズム体制の無責任さがここにきわまっていた。

参考 昭和の歴史7 太平洋戦争 木坂順一郎 (小学館)

15年戦争のもとにおける朝鮮半島の兵站基地化と皇民化政策(植民地支配後期の特徴)

朝鮮半島にたいする日本による植民地化のプロセスはきわめて野蛮なものであった。

日本は1905年に当時の韓国から外交権を剥奪して「保護国」とし、07年には韓国皇帝を退位させ、軍隊を解散させた。
そのうえで、日本は10年に軍隊を動員し、首都のソウルに戒厳令を布告したうえで「韓国併合条約」を調印させたのである。
これは相手の外交権をあらかじめ剥奪したうえで武力を背景に強要したものであり、「韓国併合条約」が不法であることはこの歴史的経過に照らしても明白である。

images3889そして、19年の3月1日には植民地支配からの独立を求める「3・1独立運動」が始まり、たちまちのうちに朝鮮全土へと広がっていったが、日本はこの動きに対し徹底的な弾圧を加えた。この日本の弾圧により8千人以上が命を落としたといわれている。

植民地支配の後半期を特徴づけた皇民化政策(「創始改名」、神社参拝の強制、徴兵制)!
以上が日本による朝鮮植民地支配35年の前半期のあらましであるが、植民地支配の後半期を特徴づけたことは、中国大陸への日本の侵略拡大とともにすすんだ朝鮮半島の兵站基地化・後方基地化である。
とりわけ日中戦争が始まると朝鮮人を強制的に日本人と同化させるという皇民化政策の徹底が図られた。

この政策は日本語の使用の強制から始まったが、これは38年の朝鮮教育令によって朝鮮全土の学校で朝鮮語の使用が禁止されるまでに拡大した。
だが、日本語の強制以上に朝鮮の人々にはかりしれない苦痛を与えたのは「創氏改名」であり、これは朝鮮民族固有の姓名制を廃止し、戸主に日本式の氏名を定め届けさせるというものであった。
images3991また、「創氏改名」は強制でないとされたものの、実際には官憲や学校の教師などを動員して脅迫と圧力が加えられ、また、創氏しないものには子弟の入学や進学の拒絶、就職の拒否や解雇、「非国民」や「不逞鮮人」呼ばわり、食糧の配給の停止など悪辣で陰険な圧迫が加えられた。

朝鮮の人々のなかには断固として拒否する者、死をもって抗議した者が多く、なかには「創氏改名」には応ずるものの、ふざけた名前をつけて抵抗を試みる者もあったが、最終的には全戸数の8割に当たる322万戸が届け出た。
images3911また、朝鮮総督府は朝鮮半島のすべての村々に神社をつくる方針をうちだし、山間僻地の村にまで神社や祠をつくり、朝鮮の人々にそれへの参拝を強制した。
そればかりか、朝鮮半島のすべての家庭に神棚をつくらせ、天皇家の祖先である「天照大神」をも拝ませたのである。

また、アジア太平洋戦争の開始直後から朝鮮での徴兵制の実施が検討され始め、それは日本人の消耗を極力回避するための「外地民族の活用」として位置づけられていた。
これは換言すれば日本人の弾よけに朝鮮人を利用しようとしたものに他ならず、戦争末期の44年4月に朝鮮半島での徴兵制が実施され、45年8月の敗戦までの短期間に20万人以上の朝鮮人青年が徴兵されて強制的に戦場へと送られた。
徴兵された朝鮮人兵士たちは日本語を話す「神兵」とおだてられたが、その実態は日本人将兵の弾よけでしかなかったのである。

さて、これら皇民化政策の根底にあったものは内地と朝鮮は一体であるべきで、朝鮮人を日本人に仕立て上げるべきだという「内鮮一体」論である。
だが、これも日本の支配層からみれば現実に存在する朝鮮人に対する差別を温存したままで、朝鮮人の民族性を奪って日本人に同化させることを意味し、けっして朝鮮人と日本人を対等平等に扱うことではなかった。

また、差別と同化を混在させたこの政策は「朝鮮人の民度の低さ」なるもので植民地支配を合理化しながら、かたや朝鮮人には「差別からの脱出」という幻想を抱かせるものであり、朝鮮の人々を日本の支配体制のなかにまきこんでしまうことを狙った巧妙な帝国主義支配の論理でもあった。

日本の戦争経済のもとに組み込まれた朝鮮半島の実態!
また、朝鮮半島は日本の戦争経済に組み込まれ、経済の軍事化による生産増強は日中戦争からアジア太平洋戦争にかけて著しく伸長した。
とくに軍需生産と密接なつながりの深い重化学工業部門や鉱業の発展はめざましく、戦時下の朝鮮経済は日本の独占資本の経済軍事化の方向にそって発展したが、その半面でそこで働く朝鮮人労働者には過酷な労働条件が強いられ、低賃金と長時間労働や食料の不足が常態化した。

また、農村には強固な地主支配が温存され、高額の小作料を納めねばならない小作農の生活は貧しく、それにくわえて太平洋戦争中には収穫高の六割の米の供出が強制されたことが朝鮮の農村に飢餓を広げた。
朝鮮農民は日本による米の略奪を恨み、皇民化政策をすすめる日本の支配層の思惑とは逆に、朝鮮の民衆の間には供出の拒否や官憲との対立、反日思想の拡大などの動きが広がった。

ところで現在、日本は植民地(朝鮮・台湾)に学校をつくって教育水準を高め、道路や橋などのインフラの整備をおこなったので、それらが戦後のこれらの地域の経済発展の基礎となったという意見が流布している。
だが、道路・橋梁などインフラの整備は基本的には統治しやすくするためのものであり、教育の普及も基本的には皇民化の促進を目的にしたものであった。

それはけっして住民福祉増進を目的にしたものではなく、同化政策と統治政策の一環として教育の普及やインフラの整備がおこなわれたことに事柄の本質がある。
表面的に教育の普及やインフラの整備がおこなわれたことから、「日本は良いことをした」と判断することはあくまでも支配していた側の論理であり、支配されていた側の事情をまったく考慮していないところにその問題点がある。

財政危機の打開は暮らし応援の経済政策に転換してこそ可能(最近の消費税増税キャンペーンに思う)

untitled34662010年度における国と地方の財政赤字は44兆8千億円に達し、さらにまた年度末における借金の累積残高は862兆円にも達するであろうことが予測されている。
また、この借金の累積額は対GDP比で181%にも相当し、現在の日本の財政事情を単純化して言えば「年収の1・8倍の借金を抱えた借金漬け世帯」であるといってよい。

巨額の財政赤字は国民の政治社会への大きな閉塞感の最大の要因となってたちはだかっているが、かたや国民の間では社会保障や暮らしに関する願いはいよいよ切実なものとなっていることも間違いない。

「財政再建」にことごとく失敗した歴代政権の足どりと財政危機の根源!
さて、90年代の公共事業の異常膨張や軍事費の拡大は国や地方の借金をどんどん増やした。
そうしたなかで累積債務が400兆円、対GDP比で80%を超えた1995年に日本政府が“財政危機宣言”をおこなって以降、15年間にわたって「財政再建」に歴代内閣が取り組んできたが、いずれもことごとく失敗し、逆に財政危機は深刻化の一途をたどってきた。

まず、97年に橋本政権が消費税の税率を3%から5%に引き上げて「財政再建」にとりかかったが、これは家計に打撃を与えることで当時弱々しいながらも回復しつつあった景気を不況のどん底へと突き落とした。
そのため増税したにもかかわらず大幅な税収減をまねくこととなり、橋本政権による「財政再建」への最初の取り組みは失敗に終わってしまった。

untitled3009また、小泉内閣がすすめた「構造改革」の政策は「痛みに耐えよ」の掛け声のもとに社会保障のあいつぐ改悪を強行することで国民生活を徹底的に痛めつけ、労働法制の規制緩和は非正規労働者を急激に増加させることで「働く貧困層」を増大させた。
こうして一部の大企業や富裕層を除いた国民の所得は低下していき、家計は冷え込んで経済成長が長期間にわたって止まってしまったことが財政危機をいよいよ深刻化させた。
かくして小泉「構造改革」のもとでの「財政再建」も破たんしてしまったのである。

また、このような「弱い経済」の矛盾が08年のリーマンショックによって巨額の税収減となって一気に噴出し、そこへ麻生内閣の「景気対策」の名による総額15兆円の空前のバラマキがおこなわれたことで、財政危機はいっそう拍車がかかってしまった。
さらに、この間に一貫して続けられた大企業や富裕層への減税が、税収に大穴を開けつづけてきたことも大きな失政であった。

こうして国民の暮らしを犠牲にする政治を一貫しておこない、大企業や富裕層の負担を減らし続けた「財政再建」の15年間はことごとく失敗に終わり、財政危機はいよいよ深刻なものとなってしまったのである。

95年からの15年間で国と地方の借金の累積残高は410兆円から862兆円へとほぼ倍増したが、同じ時期に日本のGDPは497兆円から492兆円へとまったく増えず、逆に縮小した。
こうして日本は「経済成長の止まった国」となり、この15年間のあいだに対GDP比でみると借金の累積残高は82%から181%へと急速に高まり危機的な水準へと達したのである。

このように増え続ける借金と「成長の止まった経済」が今日の深刻な財政危機の根源であり、この危機から抜け出すためには破綻が明確となっている従来の政策からの根本的な転換が必要であることは論を待たない。

対GDP比での累積債務残高を減少させることに財政危機克服の本質がある!
まず、財政危機の打開のためには「暮らし優先の経済成長戦略」へと切り替えることが必要であり、大企業や富裕層応援の経済政策から、国民の暮らし応援の経済政策へと転換することで安定した経済成長を実現してこそ危機打開の道を開くことができる。

そのためには大企業の莫大な内部留保を国民と社会に還元させ、国の予算を暮らし優先へと組み替えることが必要であり、国民の懐を暖めて家計・内需主導の経済成長を勝ち取っていくことを目指すべきだ。
健全で安定した経済成長を実現させれば必然的に税収が増えていくこととなり、対GDP比での借金の累積残高を押さえる道が切り開かれる。

また、それと同時に歳入と歳出の抜本的な改革をおこない、無駄使いの一掃と大企業や富裕層への減税のバラマキの是正に「聖域」を設けずに取り組むことも必要だ。
こうして「暮らし優先の経済成長戦略」を実践しながら、歳入と歳出のゆがみを大胆に是正することで、たとえ借金の総額の劇的な減少は難しくとも、借金残高を対GDP比、経済の規模との関係で圧縮しながら減少させていくことが可能となる。
借金の問題で一番肝心なことは経済の規模との関係、対GDP比の問題であり、現在この比率が180%を超えるものとなっているところに財政危機の本質がある。

暮らし優先の安定した経済成長と、歳入・歳出の抜本的な改革でこの比率を抑え、さらには減少する展望が開けてくれば財政危機から抜け出す道が開け、財政破たんの危機を押さえ込んでいくことができるだろう。

財政危機打開によって消費税増税を合理化できるか!
現在、マスメディアや自民党などを中心に消費税増税キャンペーンが展開され、消費税増税をめぐって巨額の借金を前に「子や孫の代に借金を残すのは忍びないから増税はしかたがないのではないか」という思いが国民の間に広がっている。

だが、消費税の増税は劇薬であり、国民の暮らしに大きな打撃を与えるとともに、深刻な現在の経済状況を考えると景気の底を突き破ってしまいかねない。
そして、これがいっそうの大不況を招き、増税がかえって大幅な税収減をもたらす結果となる。
また、大不況による経済のいっそうの縮小と大幅な税収の減少は現在でも深刻な財政危機を留まるところを知らないレベルまでエスカレートさせるだろう。

北東アジアでの平和的環境をつくることこそが核のない世界への道(米国の核の傘からの離脱の現実性)

untitled2244日本列島の隅々で記録的な猛暑が続く2010年の夏、核兵器廃絶の機運が高まるなかで8月6日の広島平和記念式典が開かれた。
記念式典で「広島宣言」を読み上げた秋葉広島市長は、米国の「核の傘」からの離脱を日本政府に求めるスピーチをおこない、核兵器廃を願う広島市民の願いを日本中のみならず全世界に向けて発進した。

それにたいし菅首相は式典挨拶で、わが国は唯一の被爆国として核兵器廃絶のリーダーになること、また被爆者を政府の非核特使として海外に派遣するなど、あたかも地球上から核兵器を廃絶したいという広島のこころ、被爆者の願いに応えるかのようなスピーチをおこなった。
そして、この首相あいさつは被爆者の間に、これほど自分達の気持ちを考えてもらったことはいまだかって一度もなかったという感激をもたらしたのであった。

だがこの舌の根も乾かぬうち、記念式典直後の記者会見で菅首相は「核兵器をはじめとする大量破壊兵器の拡散もあり、核抑止力はわが国にとって引き続き必要である」と発言したことで、菅首相の本心は「核を残そう、いや残すべきだ」というものであったことがはからずも露呈されてしまった。
また、記念式典でおこなった首相スピーチとまったく矛盾した記者会見での発言内容は核兵器を廃絶したいという広島のこころとは反対の方向であり、「二枚舌」との怒りを多くの広島市民の間にひきおこした。

核抑止力は“核兵器を使うぞ”との脅しによって成り立っているものであり、この「核抑止」の論理では脅しの対象とされた国がまったく同じ論理で核兵器を保有することを妨げることができず、核兵器拡散の元凶ともなる。
もし、本気で「核兵器のない世界」を実現しようと思えば核抑止力という立場から抜け出していく外はない。

この菅首相の発言は日米軍事同盟(日米同盟)が当然であり、米国の核兵器に依存し続けようという点では歴代自民党政権となんら変わらないばかりか、史上初めて米国やイギリス、フランスといった核保有国の政府代表や国連事務総長が広島での記念式典に参加し、「核のない世界」への気運が盛り上がっているなかでのものだけにいっそう重大なものであることは疑いない。

東南アジアの平和の流れを北東アジアにも及ぼす外交努力こそ求められること!
だが、こういう声をあげる人もあるだろう。
「広島や長崎の人たちには申し訳ないことであるが、日本のまわりの北東アジアの情勢や中国・ロシアなどの行動をみればやはり核兵器は必要であり、核のない世界といっても現実性がないではないか」

だが、今日本に求められることは米国の核兵器にしがみついて虎の威を借りることではなく、東アジアに平和的な環境をいかに作り上げていくかという外交戦略であり、それをやり遂げることのできる外交力ではなかろうか。

untitled2310かって冷戦時代に東南アジアではタイやフィリピンなどを中心として米国の軍事同盟網が張り巡らされ、米国の介入によりベトナムをはじめとしたインドシナ三国ではベトナム戦争の戦火が絶えることがなかった。
だが、米国のベトナムへの介入戦争が破綻してインドシナから米軍が撤退し、またこの地域の軍事同盟網も消滅した跡に生まれてきたものがASEAN(東南アジア共同体)という平和共同体である。

そして、このASEANを軸に紛争の平和的な解決のための地域的な枠組みが作られ、人的な交流と経済的な交流が盛んになった東南アジア一帯は今では世界で最も経済発展の目覚しい地域として生まれ変わっており、世界からも注目の的となっている。
また、ASEANを中心に東南アジア友好協力条約(TAC)がつくられ、今年はカナダやトルコが加入し、EU(欧州連合)の加入によって、加入国は54カ国、人口の面でも世界人口の7割までが参加するほどまでに拡がった。

このように平和の流れが東南アジアを基点として澎湃と湧き起こっているのであるが、この流れをいまなお、緊張と紛争の要因が残されている北東アジアにまで拡げるための外交努力こそ、いま日本にもっとも求められていることではなかろうか。

人的・経済的交流の進む日中米の現状と抑止力から抜け出す現実性!
また、日本と中国は「戦略的互恵関係」を確立し、米国と中国も「戦略的パートナーシップ」を確立している。
そして、それぞれが経済的、人的交流をいよいよ深めているのであり、さらに中国は米国の国債の最大の保有国であり、日本にとって中国は最大の貿易相手国である。こうした現状はこれらの国々の間での紛争をもはやおこしえないものにしていることは明らかであろう。

また、ロシアとも領土問題での息の長く粘り強い交渉を続けながら、人的交流や経済的交流を飛躍的に発展させることは可能であり、そうであるならばその現実にたって軍事力で対抗する思考から脱却をはかるべきである。
日本政府は軍事の呪縛から抜け出して、北東アジアに平和的な環境を作り出す外交戦略をもち、そのための外交努力を払うべきであり、そうやって進んでいくことの向こう側に核抑止力や核の傘からの脱却の道が見えてくるであろうし、核のない世界への道が切り開かれるはずである。

21世紀は軍事大国や経済大国など少数の「大国」が世界を動かす時代ではなくなりつつあり、すべての国が対等・平等の資格で世界政治の主人公となる世界への道が切り開かれつつある。
このような世界にあっては大事なものは軍事力でも経済力でもなく、その国がどのような主張をしているかによって国の値打ちがはかられることとなるだろう。
道理にたった主張をする国は尊敬されるようになり、自分の主張のない国は相手にされなくなる。

政権が変わっても米国との軍事同盟(いわゆる日米同盟)が神聖不可侵とされ、なにかというと軍事で身構え、米国言いなりであって自分の主張はまるでない。
日本がこのような国であり続けていいはずがない。


追記
もちろん、平和外交の努力を尽くしながらも、さしあたってはいかなる場合でも必要最低限にして自主・自立の“防衛力”(実力組織)の整備が前提であることは言うまでもない。
筆者は非武装中立の立場にたつものではなく、また帝国主義軍隊の解体という前衛的な空論に与するものではない。
だが、対米従属で米軍の補完部隊である安保体制化の自衛隊の現状を肯定はしない。
いずれにしろ従前の“左翼”的な発想の枠組みは通用しない時代であることは間違いない





日中戦争から生み出された“英霊”という名の戦争継続合理化論の果たした役割

日中戦争のもとでの戦時統制経済と国民生活の窮乏!
日中戦争が拡大し長期化していくと、その影響は国民生活にまで及ぶようになった。

untitled1245すなわち、膨大な戦費を支出して軍備拡大をおこなうためにはあらゆる物資を軍需に集中せねばならず、とくに資源の乏しい日本の場合は重要な軍需物資のほとんどを輸入に頼っていたため、必要な外貨の獲得のために民需品の輸入をおさえて輸出を奨励するほかはなく、そのためにも国民の消費生活を極度に抑制し、国内の民需を徹底的に圧縮することが必要となった。

こうして物資の需給に関して国家による大規模な経済の統制が避けられないものとなり、1938年(昭和13年)には経済統制が強化され、鉄、石油、羊毛、木材などの重要物資の国内消費が制限され、国民は深刻な生活必需品の不足に見舞われるようになる。

とくに鉄製品は一般向けの使用が禁じられ、代用品による以外には製造ができなくなった。
また、衣料品も羊毛や木綿にかわって品質の悪いスフ(人造繊維)製品しか新調できなくなり、皮革も同様に靴に変わって下駄履きが奨励され、百貨店では宣伝を自粛し、顧客に対しては「一人一品販売主義」をとらされた。

また、戦場へ動員された兵士のほとんどは農村から供給されていたために、農村における労働力不足は深刻化し、戦争への大量の馬の徴発などともあいまって、農業生産力は大幅に低下し、米不足が深刻な問題となったのである。
また、1938年には日本陸軍の師団数は33個にたっして日中戦争開始前の時点と比較しても二倍に膨れあがり、軍事費も国家予算の64%を占めるようになった。

こうして長期化した日中戦争のもとでの軍備一点張りの政策は米不足と物価の高騰を招来し、インフレも急激にすすみ、いくら「聖戦」を叫んでも戦争をこれ以上拡大させることは経済的にも財政的にも非常に困難な状況をむかえたのである。

行き詰った戦争をやめようと提案した陸軍参謀たち(中南支放棄論)
こんななかで軍部の一部には拡大する一方の戦争に批判的な見方が生まれており、その具体的な動きの一つに「中南支放棄論」があった。

images1335当時、日本政府は軍事的に行き詰った日中戦争の政治的解決をはかるために、国民政府のナンバー2であった汪兆銘を担ぎ出して日本の言いなりになる傀儡政権の樹立を図り、これとの和平交渉の推進をくわだてようとしていた。
そこで陸軍の参謀本部の中でもこれを機会に、南京におかれる汪兆銘の政府に長江(揚子江)より以南の中支(長江沿岸一体)と南支(中国の南部:広東省以南)はまかせて、日本軍は黄河の線まで撤退してはどうかと考える幕僚たちが現れはじめたのである。

これが「中南支放棄論」であり、彼らの考え方には合理的で客観的な理由があった。
それはあまりにも急激に膨らんだ軍事予算が国家財政を破綻させようとしており、また軍需一本やりの戦時経済は国民の生活を圧迫し、国民の不満を募らせる一方であったからである。

ところが、参謀本部内のこの中支・南支からの撤退論は陸軍省の強い抵抗にあってうやむやのうちに消え去っていった。そして、そこで陸軍省が振りかざした理由もかなり深刻な観念論であり精神論であったという。
放棄論を進言した参謀本部の幕僚に陸軍省の阿南次官は顔を紅潮させてこのように言い放ったらしい。

「君は部下を率いて戦場に立ったことがない。それだからそのような“暴論”を吐きえる。君には数万、数十万“英霊”にたいする感謝も責任も持ち合わせていない。君の意見には一顧にも値するものはない」

このようにして、客観的合理的な判断としては日中戦争を日本の側から自主解決(自ら兵を引く)すべき時期に立ち入っていたにもかかわらず、“英霊”のためにそれができないという妙な理屈がまかりとおってしまったのである。

“英霊”とは戦死者の尊称であったが、いつのまにか“英霊”という言葉はたんなる戦死者にとどまらない特殊な意味合いをもつようになっていた。
こんなにも戦死者が出たのだから、もうこれ以上戦死者を出さないためにも戦争はやめようという正論が通らなくなっていったのであり、逆に“英霊”の死を無駄にしないために、もっと戦おうという妙な理屈が大手を振ってまかり通るようになっていったのである。

戦争をやめて“英霊”の死を犬死にするのか、“英霊”の死を無駄にするのかという論理が圧倒的な力を持つようになり、それに反論することを許さない時代の空気が形作られていった。

対米英開戦へと踏み切った東条首相の決意と靖国神社の“英霊”たち!
そして、“英霊”論は「聖戦」と銘打った戦争のもたらす戦争合理化のための悪しき屁理屈として濫用された。
対米開戦前に日米交渉がおこなわれたが、米国との戦争に及び腰であった当時の近衛首相は東条陸軍大臣に、中国から少しでも兵を引いて米国に譲歩して欲しいと頼んだという。
だが、東条はたくさんの戦死者(英霊)を引き合いに出して近衛のこの頼みを拒絶し、閣議の席でこう言い放った。

「支那事変は聖戦であり、この4年余りで数十万の戦死者があり、この数倍の遺家族がおり、数十万の戦傷者がいる。
これまで数百万の軍人と一億の国民が戦場と内地で辛苦を重ね、数百億円の国費を費やした。・・・・・駐兵によって事変の成果を結果付けることは当然であり、世界に対してなんら遠慮することはない」

untitled1443閣議でのこの“東条演説”は近衛首相をして内閣を投げ出させ、演説をぶった本人もびっくりの東条内閣を誕生させた。
そして、首相に任命された東条はただちに靖国神社を参拝したが、このときに“英霊”に対して支那事変の犠牲を無にはすまいと誓ったという逸話が東条の腹心であった軍人(佐藤賢了)が戦後に語ったこととして伝えられている。

こうして対米英開戦への道は後戻りのきかないものとなっていった。
このように見てくると、“英霊”論は日中戦争という「聖戦」が生み出した屁理屈であり、戦死者が多すぎるから戦いをやめようではなく、戦死者に申し訳ないから戦いを続けようという戦争継続合理化論として利用された。

日中戦争は「政治の延長」としての戦争ではなく「聖戦」だったから「もう戦争はやめよう」という声を上げることできなかったのである。
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