光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

2010年09月

沖縄戦での「集団自決」とはなにか(防諜体制と「スパイ狩り」がもたらしたもの)

untitled9295太平洋戦争緒戦の勝利で占領した南太平洋の島々で次々とアメリカ軍に敗れていった日本軍は、1944年(昭和19年)の2月に日本軍の「真珠湾」と呼ばれた中部太平洋のトラック島を米国の機動部隊に襲撃されて大損害をこうむり、同年の7月にはマリアナのサイパンを失って将兵は壮烈な「玉砕」(全滅)をとげた。

沖縄での陣地構築の突貫工事に動員された住民と軍との雑居状態!
そこで、大本営は「玉砕」の島サイパンの次は沖縄だとの見通しのもとで、「満州」にいた関東軍と、中国にいた日本軍部隊からその一部を引き揚げ、沖縄を含む南西諸島や台湾方面の防衛を強化することを決定した。
こうして日本が米国と戦争を始めてから二年余もたって、沖縄にはじめて守備軍の「第32軍」が配備されることとなり、飛行場もなく兵舎さえなかった沖縄に、たちまちのうちに陣地や飛行場が構築されていったのである。

駐屯した日本軍は住民の家や学校などを兵舎として接収したため、軍と民間人との雑居生活が始まり、沖縄の住民は陣地や飛行場作りへと日夜駆りだされっていった。
日本軍部隊は沖縄住民を村々の男女青年団、婦人会、そして国民学校(小学校)の上級生にいたるまで駆りだして、文字通り軍民一体の共同作業をおしすすめた。

かくして「サイパンの次は沖縄だ」との緊張した雰囲気のもとで軍民一体の突貫工事がすすんだが、このような軍民雑居の状態が軋轢をひきおこさないはずがなく、風紀の乱れが蔓延した。
また、この状態で軍にとってもっとも警戒すべきは軍機の漏洩であり、本来軍機の保持のために民間人は軍の施設には近づけないのが原則であったが、軍民雑居の状態でこの原則が守れるはずもなかった。

軍事施設に近づけないどころか陣地そのものを住民がいっしょになって築いており、陣地の位置や規模、武器弾薬の種類や量、守備隊の編成にいたる軍の機密に属するすべてのことがらを沖縄住民は誰もがいやおうなしに知ってしまったのである。

沖縄守備軍がつくったすさまじい「防諜」体制と「集団自決」の強要!
そこで、軍はこのジレンマをカバーするために県と協力して「防諜」対策を徹底させ、住民の「スパイ狩り」をおこなう秘密の組織すらも密かに編成し、反戦的な機運をもたらす者、移民帰りの者、キリスト教信者からはじまって、およそ、お上や部隊に不平不満をこぼすものはただちに「スパイ」容疑者として通報する仕組みをつくった。

さらに、戦時体制のもとで全員が隣組に組織され、食糧の配給の面でも共同作業でも隣組を離れては生きていけない網の目にがんじがらめにされた住民は、軍の悪口をささやいたり、サイパン玉砕での負け戦の話などしただけで、厭戦気分を煽る「非国民」だとか「スパイ」などのレッテルを貼られ、隣組の常会でつるし上げられたり憲兵に通報されたりした。

そして、このような「防諜」体制のもとで、沖縄守備軍は知りえた友軍の軍機を敵に通報する住民を「スパイ」と決め付け、老幼婦女子にいたるまで、敵の捕虜になれば誰でも「スパイ」とみなして処刑する決定をおこない、住民への徹底をはかったのである。
こうして、根こそぎ動員で軍作業に駆りだされ、陣地や砲台や武器の性能まですべて知ってしまった沖縄住民には敵の捕虜になる道が断たれてしまった。

また、住民が敵の捕虜になることを阻止するため、軍によって「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すなかれ」という戦陣訓の規律が沖縄の民間人にも強要され、「鬼畜米英」の残酷非道ぶりが宣伝された。
さらには、「捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は強姦されて海に捨てられる」というまことしやかな恐ろしい話も軍の手でたたきこまれた。

かくして沖縄の住民には捕虜にならないように「集団自決」という美名で凄惨な集団死が強要されたのであり、これ以外の選択肢は閉ざされてしまったのである。

ハワイ帰りの一老人のおこなった軍の暴力に対する抵抗闘争(「集団自決」からの生還)!
さて、1945年(昭和20年)4月1日の米軍上陸の日に、大きな洞窟壕に逃れた住民1000人が、一人の老人の冷静な判断と勇気ある行動によって全員が整然と集団投降し、「集団自決」の瀬戸際から無事生還したという史実がある。

比嘉平治さんというハワイ移民帰りの老人が、晴れ着に着替えて自決の準備をする住民たちに「アメリカ人は鬼畜生ではない。民間人を殺しはしないから早まったことはするな」と自分がハワイで見聞きしたことをもとに説得し、壕から出て米軍将校と交渉したというのである。
そして、日本兵がいないことを確認した米軍将校の「それではあなたが先導して収容所まで移動しなさい、それまでは発砲しない、安心して出てきなさい」という指示のもと、ハワイ帰りの老人は家財道具を頭に載せた住民の列を整然と率いて米軍の収容所へ導き、住民の全員が「集団自決」という死の淵から生還したというのだ。

images9293イスラエルの民を率いてエジプトから脱出したモーゼの姿を連想させる、このハワイ帰りの老人と1000人余りの住民たちの姿は米軍の従軍映画にも記録されており、当時の軍国主義教育の洗礼を受けた人々にとっては、このハワイ帰りの老人の行為は信じられないほどの勇気ある行為であったはずである。

「生きて虜囚の辱めを受けず」とたたき込まれ、敵に寝返る奴はいないかと監視の目が光っている最中の出来事でもあり、もし日本兵に見つかれば敵側スパイとして即刻首をはねられる状況である。
この老人の命がけの勇気はまさしく奇跡ですらあっただろう。

軍隊の暴力に抵抗した史実には中国人民の抗日統一戦線や反ナチスのパルチザン闘争、南ベトナムの民族解放戦線のゲリラ闘争などが典型として想起されるが、このハワイ帰りの老人の勇気ある行動は銃を取って敵に立ち向うような積極的な形ではないが、一種の抵抗行為であり武器なき抵抗に他ならない。
沖縄にも世界の抵抗闘争に並び称されるべき軍隊の暴力への抵抗闘争が存在した。

逃げ場のない孤島の沖縄戦では、九死に一生を得るには軍名に逆らって敵の捕虜になるしか生き延びる道はなく、日本軍と米軍の間に挟まれた避難民にとっては投降を選ぶか、「玉砕」(集団自決)を選ぶかが生死を分ける究極の選択であった。

銚子市立病院私物化の一歩となる笠井医師解任劇とTV朝日「スクランブル」の提灯持ち報道

医療法人内部での突然の解任劇の経緯について!
8月12日銚子市立病院はプレスリリース(報道発表)を行い、突然の病院トップの交代を発表した。
医師不足で経営困難におちいった波崎済世会病院の再建を手がけ、その手腕を銚子市立病院の再建に生かすべく昨年の12月1日に銚子市の特別参与に就任し、病院長として5月に病院の再開を果たしたばかりの笠井源吾氏を院長職から解任し、かわりに白濱龍興副委員長をその後任にあてるというものだ。

野平市長が昨年の7月に市立病院再生を委ねる「市立病院再生準備機構」を発足させたものの、4ヶ月の間に一人の医師の招聘にも成功せず、市民の間に悲観的な空気が広がっていたときに、自ら病院再生のさきがけとなるべく笠井源吾氏が名乗りをあげたのが昨年の11月である。
野平市長はこれで病院再生の「第二ステージ」に入ったとして、今年4月の暫定開業(実際は5月)へとようやく足を踏み出すにいたったのも笠井氏がこの時に名乗りを上げたことによる。

さらに、一定規模の医師数を確保してからの再開にこだわり足踏みをしていた野平市長を、少人数の医師による外来診療から始めることで早期再開を図り、順次診療内容を充実させる手法、すなわち「小さく生んで大きく育てる」方向へと軌道修正させ、今年5月の市立病院再開へと道を切り開いたのも笠井氏の手腕によるものであったことは間違いない。

こうして市民の早期再開の願いを背負い、5月の病院再開を実現させた笠井院長に対する銚子市民の信頼は絶大なものがあり、これからどのように病院の診療内容を充実させていくのか、笠井氏のもとへ多くの市民から期待と応援のコールが送られていた。
そこへ笠井氏本人への事前の相談もなく、また本人が知らされていない状況のなかで、市立病院の経営にあたる医療法人の理事会が8月6日に開かれ、田中肇事務局長の突然の動議提出により同氏の解任が決まったというのである。

田中肇氏は同医療法人における事実上のトップとささやかれており、日本コンテンツネットワークCEOなどというたいそうな肩書きがついてはいるが、市立病院における野平市長人脈の頭であり、また院長後任の白濱氏は田中氏に近い人物と目されていた。
これは独自の経営理念によって市立病院再開への道を切り開き、またこれからの病院再建にも多くの市民が期待を寄せていた笠井氏を、「異分子」として病院経営から排除しようとした田中氏など野平グループによる事実上の“クーデター”と評価するのがふさわしいだろう。

“民間内部”の問題には口出しできないという野平市長の妙な理屈について!
さて、9月の銚子市議会では当然のごとくにこの突然の院長交代劇に議員の質問が集中したが、これらの質問に対する野平市長の答えがふるっていた。
市立病院の院長の交代は民間機関の内部の出来事であり、民間内部の問題に銚子市として関与するべきではないというのである。

だが、現在市立病院を経営する医療法人は“民間”といってもただの民間ではなく、最初に銚子市からこの法人の基本財産と当面の運転資金という名目で3200万円の出資を受けており、自らはビタ一円足りといえども出資してはいない。
また、今年度においては銚子市から1億8千万円の指定管理料をうけとることになっており、また病院再開に当たっての外壁などの修繕料1億5千万円もすべて銚子市の懐からでているのである。

すなわち、この医療法人は銚子市丸かかえの組織であり、さらには9月の市議会においても赤字補填のための補正予算5800万円が議決されたばかりだ。
なにゆえに“民間内部”の問題であるから銚子市は口出しできないのか、とうてい市民の納得の得られる理屈ではないだろう。

公立病院の指定管理者として医療法人がその経営にあたる場合にも法人の理事会に市民の代表や地元地方議員などが参画し、住民の要望や声を病院経営に反映させるための枠組みを採用しているケースは多いし、本来はそうあるべきものだろう。
だが、銚子市立病院の理事会には市民を代表する構成員は存在せず、笠井氏を除きすべて“野平市長お手盛り”のメンバーばかりというのが実態であった。

すなわち笠井氏解任は野平ファミリーによる公的病院の「乗っ取り」であり、事実上の銚子市立病院私物化への大きな一歩に等しいだろう。
聞くところによると笠井氏は9月末を持って「勇退」することになっており、その後は野平ファミリーの天下となることは間違いない。

TV朝日まで野平ファミリーの応援団になるのか!(どんな取材をしたのか)
さて、この突然の解任劇を受けてであろうか、9月23日の秋分の日にTV朝日のお昼のニュース報道番組「スクランブル」のなかで銚子市立病院に関する取材報道が放映された。
赤字経営と医師不足になった銚子市立病院の再建に取り組む人物として白濱現院長を最初から最後までクローズアップしており、まるで市立病院再開にいたるまでのすべてが白濱氏の実績であるかのごとき印象を与えるものとなっていた。

白濱氏が月曜日の早朝に東京の自宅を出てからの一週間の行動と生活ぶりを追いかけ取材しており、氏が医師のスカウトのために大病院の門をくぐる場面や、例の銚子一の高層マンションであるマークタワーの一室とおぼしき白濱氏の部屋にカメラが入るなど、テレビ画面は白濱氏一色に染まっていた。
TV朝日まで野平ファミリーとグルになって「提灯持ち番組」を制作するのかと筆者はTV朝日に異議ありの電話をしたが、その後番組担当者からの返事はなかった。
untitled9261

尖閣諸島は日本の領有が明白である。(正しい意味での国益は積極的に主張すべきだ)

images9211沖縄の尖閣諸島周辺で中国の漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、漁船の船長が逮捕されるという出来事がおこった。
だが、この日本の海上保安庁の取り締まり行為に対して尖閣諸島の領有権を主張する中国側からの抗議が続いており、尖閣諸島をめぐるトピックが連日マスメディアをにぎわしている。

筆者は尖閣諸島の日本の領有権は歴史的にも法的にも明確であり、同諸島付近の領海内での外国漁船の違法な操業にたいして、海上保安庁が取締りをおこなうことは何の問題もなく当然のことと考えている。

歴史的にも法的にも日本の尖閣諸島の領有権は明白である!
そこで、まずは尖閣諸島をめぐる歴史的経緯を振り返ってみたい。
同諸島は石垣島の北の海域にあり、古くからその存在については日本でも中国でも知られていた。
だが、いずれの国の住民も足を踏み入れることのない不毛の岩礁だらけの無人島としてその存在が注目されることもまたなかった。

そこへ日本政府が尖閣諸島の最初の領有行為をおこなったのは1895年のことである。
日本政府はそれまで無人島でどこの国の領土とも決まっていなかった同諸島の領有状況を慎重に調査し、いずれの国にも属していないことを確認したうえで同年1月14日の閣議決定によって沖縄県への編入を決定した。
その後は日本人の入植がおこなわれ、島には鰹節工場が作られるなど日本の実効支配が続き、工場が1940年に閉鎖されて再び無人島に戻った後も島には開拓者の所有する民有地は残った。

また、国際法にてらしても、誰も足を踏み入れたことのない無主の土地は最初の「先占」(最初に足を踏み入れること)による取得と実効支配が認められており、1970年代に至るまで外国から日本の領有権に対して異議が唱えられたことは一度もない。

また、1895年の日清戦争の戦勝によって日本が中国から略取した台湾や澎湖諸島などは第二次大戦の戦後処理の一環として中国へ返還されたが、それらの領域に尖閣諸島が含まれていなかったことは当時の中国が尖閣諸島を要求しなかったことからも明らかだ。
これは日本による同諸島の領有は侵略戦争による不当な領土拡張ではなく、国際法上も正当なものとして認知されていたからである。

ところで中国や台湾が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは1970年代にはいってからのことであり、69年におこなわれた国連の海洋調査で同諸島周辺海域での大量の石油埋蔵の可能性が指摘されたことがその背景には存在する。(指摘された石油の埋蔵量はイラクの埋蔵量にも匹敵すると推定された)

ところで台湾や中国側の主張する尖閣諸島の領有権の根拠であるが、同諸島が中国側の大陸棚に連なっているということの他に、中国の古文書に中国から琉球貿易に向かう船が航路の標識としてこれらの島を航海に役立てていたという記述があり、最も古くから同諸島の存在を認識していたという解釈によっている。
だが、中国の文献にも中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住したという記述はない。

また、1970年以前の台湾や中国の公文書などには同諸島は日本領であることが記載されており、沖縄が米国の施政権下にあった時代にもその領有をめぐって両国が米国当局へ抗議した事実もなく、海底油田の発見によって以前には黙認していた関係を後になって覆そうという主張には道理がない。
このように、歴史的な経過や国際法にてらしても尖閣諸島とその周辺は日本の領土・領海であることは明確だ。

日本側に理のある領土問題は国際舞台で日本の大義を明らかにすべき!
ゆえに中国漁船衝突事件がおきたときにとった海上保安庁の行動には非はなく、先手を打って抗議すべきは日本側であった。
だが、残念なことに日本側の外交は不在にも等しく、管政権は「小沢叩き」を最優先させて積極的な対応をとろうとはしていない。
そして一方的な中国の外交攻勢にたいしては「冷静に対応する」という名の「引きこもり外交」を続け、事実上外交を放棄している。これでは正しい意味での日本の国益を失いかねない。

管政権はわが国の尖閣諸島の領有権には明確な国際法上の根拠があることをもっと主張すべきであり、国際舞台で積極的に明らかにしていくべきである。
日本のほうに理のある領土問題に関する紛争でいたずらに譲歩すべきではなく、攻めの姿勢で強く出ることは「戦略的互恵関係」にある日中関係を損なうものではない。
images9212

銚子市立病院不要論について反駁する。(医療過疎地としての銚子市)

財源難を理由として一昨年に休止した銚子市立病院が5月の初旬に再開されてから4ヵ月以上が経過しようとしている。
だが、当時の笠井病院長の「小さく生んで大きく育てる」という方針のもと、常勤医が1人、診療は内科外来のみで再開した市立病院ではあったが、当初の外来患者が1日平均で10.9人という厳しい状況のなかでの再スタートという試練にいきなり見舞われてしまった。

また、銚子市立病院の再生計画によると5年後の2014年度末までに外科、小児科、産婦人科など10科目をそろえることを目指して医師の確保を進め、最終年度には入院が必要な2次救急にも対応する予定という。
赤字での運営は14年度まで続くことをも見越しており、その間は相当の出血を覚悟しての船出ではあったろうが、1日の患者数が10人余りという想定外の厳しい現状に関係者は困惑を感じているに違いない。

市立病院側では6月から月2回の整形外科の診療を始めるなどの経営努力をおこなってはいるが、8月になった時点でも1日あたり患者数は25人前後と依然として低迷を続けており、残念ながら困難な病院経営に改善の兆候はいまだに見られない。

市立病院再開を報じた日経新聞記事と某医療系技官氏の市立病院不要論!
さて、去る6月8日付けの日本経済新聞には再開直後の銚子市立病院をめぐる記事が掲載され、病院内は休止前の様子をとどめていることや、外来患者が1日平均で10.9人にとどまったことなどを報じていた。

また、そこには診療に訪れた近所の女性のことも掲載され、記事によれば、2日前に猫に手をかまれたというその女性は、看護師から「猫のかみ傷は深いですから気をつけてくださいね」との助言に「手早く処置してくれてよかった」と安堵の表情を浮かべたというのである。
一見すると何の変哲のない病院内での看護師と患者さんとの会話であり、微笑ましい情景でさえある。

だが、医系技官を名乗る某氏がこの日経記事をもとに、ご自身のブログで銚子市立病院の必要性そのものに疑問を投げかけていたことを筆者は最近になって知るにいたった。
http://ameblo.jp/keneki/entry-10557857608.html
(雪国に暮らすある医系技官の独り言)
この医系技官氏のブログ記事は銚子市立病院の存在理由そのものに疑問を投げかけたものだが、物事の本質を突いた鋭い提起でもあり、今後の方向性を考えるのに大変有益なものと筆者は考えるので、その内容をかいつまんでご紹介する。

医系技官氏は病院とはそもそも患者に医療を提供するために存在するものであり、患者がいないのであればそもそも医者も病院も必要がないという当然の前提から議論を進め、病院再開のために医師を集めることや、病院経営を安定させるために患者を集めるという「手段と目的」が逆さまになった銚子市の発想に疑問を呈している。
そして、そのうえで医系技官氏は患者がいない病院(すなわち現状の銚子市立病院)は廃止するのが良いと結論づけるのである。

たしかに市立病院の突然の休止に熱くなり「市長リコール」まで踏みきった銚子市民ではあったが、病院休止から相当期間が経過した現在、冷静になって見回してみると、市内のほかの医療機関により旧市立総合病院の機能は補われているように思えるし、いわゆる医療難民も表立っては現れていない。
また、1年7ヶ月の空白期間に別の病院で新たな主治医を見いだした人も多いに違いない。

保健所などの客観的なデータから見た銚子市における公立病院の必要性!
だが客観的な指標を保健所などのデータで洗いだしてみると、この素朴な市民の実感によって「市立病院不要論」を主張することは正しくないのである。

銚子市での“病院密度”(人口10万人対比での病院・診療所数)を保健所データなどから算出すると65.3件となって千葉県平均の65.7件を下回り、さらには全国平均の84.2件から比較すると著しく見劣りすることが明確になる。

さらには銚子市での“医師密度”(人口10万人対比での医師数)にいたっては116人にすぎず、千葉県平均の159.1人をこれまた下回っており、全国平均の217.5人からは遠く及ばない。
すなわち、客観指標は銚子市の医療の実態はお寒い「医療過疎」であることを物語っており、全国平均よりも低い平均寿命や高いガン死亡率などはこの実態を裏付けているのである。

こうして客観的な指標からも銚子市での公立病院再生は必須の政治課題であることが浮かび上がるのであり、その再建を少なからぬ市民が心待ちしているのである。
また、旭中央病院に救急医療が過度に集中し、そのキャパシティーをはるかに超えている現状を考えれば、市立病院を2次救急にも対応できる病院へと再建する必要性は増えこそすれ減ずることはない。

医師の使命感などに応えられない市立病院の現状の問題点とは!
ただ、医系技官氏の指摘する医師の使命感に応えられない銚子市立病院の現状というもう一つの問題点は正鵠を得た的確なものだ。

たしかに手段と目的が逆転したかのような市立病院の現状は、患者さんを救いたいという医師の使命感に訴えるものは乏しく、また臨床経験を豊富に積んで医師として“成長”したい研修医などの熱意と意欲に応えるものを提供できる場とはけっして思われない。
猫に手をかまれた女性の傷の手当のために銚子市立病院にわざわざ赴任したいと考える医師は決して多くはないことは間違いないだろう。

現在の市立病院の患者のすべてが猫にかまれた傷の手当レベルであるとは思わないが、1日25人前後の患者数というお寒い現状も考え合わせると、この状況は病院の財政面のみならず、医師の確保という観点から考えても早急に打開せねばならない。
医師にとってその使命感を果たせる病院、さらには医師としての研鑽を豊富に積める病院として再生する方向を早急に打ち出さなければ、医療スタッフの確保という当面の最大のハードルをクリアすることは不可能である。

photo161041

鈴木貫太郎内閣による終戦工作について(聖断はいかにして下されたか)

images91101945年(昭和20年)4月7日鈴木貫太郎内閣が成立した。
鈴木貫太郎は天皇の侍従長を7年もつとめ、さらにその任期中には2・26事件で暗殺されそうになった人物であり、それだけに天皇の信任が厚く、天皇は固辞する鈴木に対して「曲げて頼む」といって首相の座を押し付けたという。

だが、すでに太平洋戦争は絶望的な局面を迎えようとしており、同年の3月10日には東京大空襲がおこなわれて、下町一帯が焼け野原となり、10万人以上の非戦闘員が犠牲となっていた。
また、4月1日には沖縄へ米軍が上陸し、片道分の燃料で沖縄へ「特攻」出撃した戦艦「大和」が米軍の航空部隊によって撃沈されたのも鈴木内閣が成立した4月7日である。

そして、日本の敗戦を決定づけたのが5月7日のヒトラードイツの無条件降伏であり、ドイツが勝つという見込みで踏み切った対米英戦もドイツの敗北により日本が勝利する見込みは100%なくなってしまった。

本土決戦へとつきすすむ軍部と鈴木の焦り!
ところで鈴木は首相に就任した直後の記者会見で「戦争の最終内閣としたい」と、きわどい言い方である種の決意を表明したという。
そして、この言葉は間接的ながらも“米英との和平”を意味していたことは現在の時点で歴史を振り返ってみると明白であった。

だが、陸軍は着々と本土決戦の準備をすすめており、4月には国民向けに「国民抗戦必携」が配布され、銃、剣はもちろん竹槍から鎌、ナタ、かなづち、包丁、鳶口にいたるまで白兵戦用の武器として使用し、一人一殺で敵と刺し違えるように国民への抗戦指導を徹底していた。
そして、いよいよ沖縄での戦闘も敗北に終わり、南九州の航空基地から出撃していた特攻も終息に向かっていた6月8日には天皇臨席の御前会議で本土決戦の方針が決定され、時局は破滅的な方向へとすすみつつあった。

しかし、戦争の最終内閣とするという決意でスタートした鈴木ではあったが、この御前会議で鈴木らが本土決戦に反対したという記録は残っていない。
これは鈴木らがへたに和平を口に出すと陸軍がクーデターをおこすのではないかと恐れていたためであったという。

内大臣木戸幸一による天皇への説得工作と和平工作の失敗!
だが、どこかで和平開始のきっかけをつかまねばならないとの焦燥感にかられる鈴木に心強い味方が現れる。
それは内大臣の木戸幸一であり、必要があれば一日に何回も天皇に会い、また天皇の意向を聞くという内大臣というポストにあった木戸は、ことここにいたっては天皇から直接に「和平工作を始めよ」という意思表示が必要だと判断し、その立場を利用して天皇への説得工作を始めたのである。

当初は「どこかでもう一度戦果を挙げてからでないと和平は難しいのではないか」という立場にこだわっていた天皇も、鈴木と連携した木戸の熱心な説得を最終的には受け入れた。
そして、ようやく6月22日にいたって「時局収拾につき考慮」という婉曲的な言い回しながらも天皇が和平を口にしたのである。

こうして、ソ連を仲介とする米英への和平工作を開始するために近衛文麿元首相をモスクワに特使として派遣する決定がなされるが、ソ連のスターリン首相から「日本からこんな申込みがあった」と告げられたトルーマン米大統領は、日本からの和平の申し出に聞く耳さえ持たなかったという。
このとき原爆をも保有していた米国は日本の無条件降伏しか眼中になかったのであり、ソ連を仲介とした和平工作も頓挫し、近衛特使の受け入れもソ連政府から7月18日に公式に拒絶されたため、鈴木は絶望的な戦況を前に手をこまねいているしかなくなってしまった。

ポツダム宣言を受諾した8月9日および15日の天皇聖断の背景!
さて、そうこうするうちに7月26日には日本への無条件降伏を求めたポツダム宣言が発表されたが、ソ連による和平の仲介になおも一抹の期待をつなぐ日本政府はしばらく様子眺めを決め込み、ポツダム宣言には何の意思表示もしなかった。

だが、この日本政府の態度を“黙殺”と受け取った米国は8月6日には広島へ、9日には長崎へと原爆投下を行い、さらにそれまで日ソ中立条約によって中立を保っていたソ連までもが対日参戦をおこない、なだれをうって満州国へと押し寄せた。
こうして、いよいよ日本の完全なる壊滅の日も近いとの思いを抱いた鈴木は77歳の老体を押して不眠不休の終戦工作へと身を挺して乗り出した。

さらにポツダム宣言受諾もやむなしと考えた鈴木は「天皇の名でおこった戦争を衆目が納得する形で終わらせるには天皇本人の“聖断”をもってするほかはない」と考え、長崎へ原爆が投下され、ソ連も対日参戦した8月9日の深夜に天皇臨席のもとでの御前会議を召集した。すでに時局はぐずぐずと時間を引き延ばすことを許さなかったのである。

untitled9111深夜の御前会議は東郷外務大臣を筆頭とするポツダム宣言受諾派と阿南陸相を筆頭とした徹底抗戦派の間で真っ二つに割れ、平行線をたどったが、10日午前2時頃に鈴木は突然に起立し、「これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮をもって本会議の決定と致したい」という言葉を搾り出すように発した。
そして、鈴木の言葉を受けた天皇が「私は外務大臣の意見に同意する」と涙ながらに発言し、ポツダム宣言即時受諾という聖断が下されたという。

だが、一度天皇の聖断が下ったとはいえ、ポツダム宣言に記された天皇の処遇をめぐり外務省と軍部の間で紛糾がおこり、政府部内でまたも見解が分かれた。
そこで、鈴木は8月14日に再び天皇臨席の御前会議を招集し、天皇に再度の聖断を仰いだ結果、日本政府のポツダム宣言の全面的受諾が正式に決定されたのである。

こうして日本は連合国に降伏したが、このことは翌8月15日の正午に天皇自らの放送(玉音放送)によってはじめて国民の前に明らかにされた。

images9112

「小沢幻想」と結局は国民不在の不毛な権力争いにすぎない民主党代表選について

民主党代表選挙が8月26日における小沢前幹事長の出馬表明により、同氏と菅直人首相との党を二分してのたたかいとして始まった。
そして、衆目を集めたこのたたかいもすでに終盤戦へとさしかかっており、マスメディアなどによると両陣営が伯仲したたたかいを繰り広げている情勢だという。

インターネットなどにあふれる「小沢一郎待望論」とその根源!
41b9a2cf93a40d22さて、この民主党代表選をめぐってインターネット上には小沢氏にエールを送る論調が数多く見受けられ、特に政治ブログなどにはその手のエントリーが多い。
あたかも小沢一郎が国民のための政治、脱官僚の政治、そして対米自立の日本外交を実現する「救世主」でもあるかのように賞賛するものがネット上には数多く見受けられるのである。

たしかに、鳩山政権末期における普天間問題での沖縄県民への裏切りをきっかけとして、総選挙マニフェストを破り、対米追随、財界本位へと転落した民主党の惨憺たる現状を目にしたならば、このような「小沢幻想」が生まれてきても不思議ではない。

特に昨年の総選挙で民主党は「4年間は消費税は上げない」と約束したにもかかわらず、今年の7月の参議院選挙で管首相が「自民党案の10%を参考にしたい」と消費税増税を持ち出したことは、自公政治からの脱却を「政権交代」に託した国民の期待に対する裏切りを決定的なものとした。

また、小沢氏の“豪腕”を持ってすれば官僚によって牛耳られた政治の現状を「政治主導」に切り替えて、「国民の生活が第一」を約束した昨年の総選挙における初心へと民主党を回帰させることができるかもしれないとの期待を多くの人々が抱くことは、国民の気持ちの中に根強く潜在している「英雄待望論」などを考え合わせれば、これもまたなんら不思議なことではない。

鳩山前政権下での小沢氏の“実績”と「小沢幻想>」の崩れ去る必然性!
だが、この国民のなかにおける小沢氏への期待も「小沢幻想」にすぎなかったことが証明される日がやってくるだろう。
とくに小沢氏が民主党代表に選出され首相となった場合に、小沢氏のみならず民主党そのものに対する「幻想」までもが一気に崩れ去ることは避けがたいこととなるだろう。

小沢氏への期待が「小沢幻想」にすぎないことの根拠は、小沢氏がこの6月まで民主党幹事長として鳩山前首相を支えながら、後期高齢者医療制度の廃止を先送りし、労働者派遣法「改正」案をザル法化して使い捨て労働を事実容認する方向へとふみだしたこと、および米軍新基地建設をめぐっての「日米合意」など、肝心要の問題で国民を裏切ってきた民主党の最高責任者の一人であったことであり、鳩山前政権が事実上の「小鳩政権」であったことだ。

小沢系の議員が今回の民主党の代表選で掲げる大義名分は総選挙マニフェストでの「約束の実行」だが、これはすでに鳩山前政権において小沢氏の手によって反故にされているのである。

また、小沢氏は例の「政治とカネ」をめぐる疑惑を抱えており、現職の国会議員をふくむ秘書三人が逮捕されたり、検察審査会で「起訴相当」が議決されても開き直り続けたが、国民の批判を浴びてとうとう命脈が尽き、2ヶ月前に幹事長を辞任したばかりの身である。
かくなるうえは「政治とカネ」の問題を上回る「善政」をおこなう覚悟が必要であると筆者などは思うのだが、鳩山前政権のもとで幹事長であった小沢氏の“実績”をありのままに直視しさえすれば、どのような「善政」も期待できないことが見て取れよう。

“消費税増税か一括交付金か”国民の生活を直撃する財源論議!
540627738cbb3d9eまた、マニフェスト実現に必要な財源をいかに捻出するかの議論をめぐっては、消費税の早期増税推進の立場に固執する菅首相にたいして、小沢氏は「先ず行政の経費の無駄を削減し政策の財源を捻出する」として、行政の仕組みを変えさえすれば財源は出てくるとの主張を全面に押し出している。

この小沢氏が現在、ムダ削減の一番有効な方法としてあげているのが同氏らが「ひも付き補助金」と呼んでいる国からの地方への補助金の一括交付金化だ。
この「ひも付き補助金」を一括交付金にすれば無駄な歳出の削減が可能となり、財源が生み出せるというのが小沢氏の主張の目玉である。

だが、2010年度における国の地方への補助金は21兆円であり、そのうちの8割が社会保障や教育関係であって国が責任を持って地方に払うべきお金であることの視点が、すっぽり抜け落ちているのがこの主張の致命的な欠陥だ。
すなわち小沢氏の主張を文字通り実践したならば、国の地方への補助金が大幅に削減されることとなり、福祉や教育に対する国の責任放棄へとつながらざるをえず、また地方にだしている医療や介護などの経費の大幅なカットへと行き着かざるをえない。

このようにマニフェスト実現の財源づくりをめぐっては、小沢氏の一括交付金化という荒唐無稽な財源論と、かたや選挙であれだけの批判を浴びながらも消費税増税に行き着かざるをえない管首相と、その行き詰まりぶりは深まるいっぽうだ。
また、この財源論の行き詰まりを真に打開するには、軍事費などの削減や大企業・大資産家優遇の特権的な税制という「二つの聖域」にメスを入れることが必要だが、両者ともにそのような姿勢は露ほどもない。

国民の生活が第一」といっていたのが、いまや政局が第一となり、第二にもないのが国民そっちのけで権力争いを繰り広げる民主党の現状である。

軍部指導者による補給軽視と人命軽視が生んだガダルカナル奪回作戦の惨状について(太平洋戦争の一断面)

ミッドウェイでの敗北の後に大本営の講じた作戦の一つが、ニューギニア東部やソロモン諸島に航空基地を建設することであり、これには太平洋方面における連合国軍の対日反抗の拠点であるオーストラリアと米国との連絡を遮断するという目的が込められていた。

untitled9203この作戦は直接にはラバウルなどの既存の飛行場の拡充とソロモン諸島の南部に位置するガダルカナル島に新たな飛行場を建設することをめざすものであり、1942年(昭和17年)7月1日に設営隊などがガダルカナル島に上陸して着手した飛行場設営工事も、8月5日には長さ800mの滑走路ができあがり戦闘機の進出が可能となった。

だが、これと前後してミッドウェイ海戦の勝利の勢いに乗った米国は南太平洋で戦術的な攻勢を開始した。
ソロモン諸島やニューギニア東部を日本軍の手から奪回し、最後に南太平洋における日本軍最大の拠点であるラバウルを攻略する作戦に着手し始めたのである。
そして、はやくも8月7日には機動部隊に支援された一万人以上の米海兵師団がガダルカナル島への上陸を開始し、その勢いに圧倒されたガダルカナルの日本軍守備隊は飛行場を放棄して後方への後退を余儀なくされ、この地域の日本軍は制空権を失った。

米軍の圧倒的な火力の前に制圧された白兵突撃戦術と補給を軽視した作戦計画!
ところが事態を甘くみた大本営は奪回はさして困難ではないと判断し、まず南太平洋の作戦を管轄する第17軍から900人余りの先遣部隊(一木支隊)を派遣して飛行場の奪回を試みたが、戦車と自動小銃などによる米軍の圧倒的な弾幕の前に、銃剣による白兵突撃にたよる先遣部隊(一木支隊)は奮戦むなしく壊滅してしまった。

さらに大本営は続いて第17軍から6000余人の兵員(川口支隊)をガダルカナルへ投入したものの、死に物狂いの白兵突撃による夜襲も米軍の圧倒的な火力の前に制圧された。
また、生き残った将兵も飛行場からはるか東のジャングルへと逃れ、その退却の状況も悲惨をきわめたという。

こうしてガダルカナル島での緒戦の無残な敗北に衝撃をうけた大本営はその後、兵力を小出しにつぎこんでガダルカナル奪回の試みを続けたが、航空兵力を同島周辺に集中させた圧倒的な米軍の前に死傷者が続出し、失敗を繰り返した。
また、島の飛行場を米軍が使用し始めると輸送船団による兵員と物資の輸送は事実上不可能となり、足の速い駆逐艦や潜水艦などによる夜影にまみれた「ピストン輸送」方式に頼らざるを得ない日本軍は補給の困難から食糧・弾薬などの物資が極度に不足し始めた。

さらに11月には日本軍のガダルカナルでの地上兵力も逐次投入を続けた結果、3万人を数えるまでになったが、ソロモン海域での海戦の敗北などによりガダルカナル付近の制空権と制海権は完全に連合軍の手に帰していた。
こうして補給の困難が増大する中での無謀なガダルカナル奪回作戦計画の続行は日本軍の戦闘能力を日に日に奪っていき、食糧の極度の不足によりガ島は“餓島”だといわれるようになっていった。

“餓島”といわれた惨状と面子にとらわれ方針転換に手間取った軍部指導者!
さて、戦局が次第に絶望的になる中で彼我の戦力分析や補給能力を冷静に判断できない大本営は、開戦以来の最初の退却という“不名誉”をいっきょに挽回しようとの執念によりガダルカナル奪回作戦に固執し続けたが、餓えに苦しむ現地の将兵の状況は悲惨であった。

将兵一人分の米の配給は1日百グラムを切り、それを朝夕の二回にわたっておかゆに炊いて海水で味をつけた。
また、体力の落ちた将兵はマラリヤやアメーバ赤痢に苦しめられ、栄養失調でばたばたと死んでいき、ジャングルや山中に立てこもった将兵も次第に衰弱して立つこともできなくなり、生きているものと腐ったものと、白骨となったものが腐木のように動かず枕を並べる状態となった。

だが、軍部の指導者にとっては最前線で餓えに苦しむ将兵の命より自分の面子が大切であり、陸軍省も参謀本部も海軍も悪化の一途をたどったガダルカナルの戦況を前にいたずらに小田原評定を続けた結果、42年12月31日の御前会議にいたってようやくガダルカナルからの撤退が決定された。
こうして、翌年の1月22日に第一線部隊の撤退が始まり、一万余人の将兵が駆逐艦に分乗しながらの夜間脱出に成功しながらも、撤退に際して歩けない将兵には非情にも自決が強要された。

補給を軽視し無謀な作戦計画をたてたこと、面子にとらわれ方針転換に手間取ったこと、死ぬことを名誉と考え自決まで強要するという生命軽視の考え方をとり続けたことなどが上陸兵力3万1400名にたいして戦死者2万800名(66%)というガダルカナルの悲劇を招いた。
また、これらの戦死者のうち、純粋な戦死は5000〜6000名にすぎず、残りは餓死とマラリアなどによる病死であったという。

ガダルカナル戦の性格とスターリングラードの攻防戦(第二次大戦の決定的転換点)!
ガダルカナル奪回に固執した大本営が補給の困難が増大するなかで兵力を送り込み続け、作戦は長引き、将兵の間には飢餓地獄が広がるが、大本営は作戦中止、部隊撤退の決断がつかず、やっとその決断を下したときには投入兵力の半分が餓死したというのがガダルカナルでの戦争である。
かくして、ガダルカナルと東部ニューギニアを中心とする南太平洋の制海権と制空権は完全に連合国軍が握るところとなり、太平洋の戦局は連合国軍の攻勢と日本軍の守勢へと転換していった。

ところでガダルカナル上陸作戦と時を同じくして史上有名なスターリングラード攻防戦が展開されており、ソ連軍によるスターリングラード地区のドイツ軍を外側から包囲する殲滅作戦により、さすがのドイツの大軍団も43年の2月2日に降伏をしている。
時あたかも日本軍によるガダルカナル撤退作戦の真っ最中であり、独ソ開戦から300万人近いドイツ陸軍を一手に引き受け、苦戦を強いられていたソ連軍であったが、この勝利によりはじめて守勢から攻勢へと転じていった。
このようにみると時を同じくしたガダルカナル島とスターリングラード攻防戦の勝敗こそ第二次大戦の決定的な転換点であったということができるだろう。
untitled9204

最新記事
Profile
西岡三郎
千葉県銚子市に在住
QRコード
QRコード
Recent Comments
「最新トラックバック」は提供を終了しました。
  • ライブドアブログ