光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

2010年12月

日露戦争によってうみだされた「関東軍」と満州の権益、そして満州事変への道について

images12291甚大な犠牲を生んだ日露戦争の講話交渉が米国の斡旋によりボストンの北にある軍港ポーツマスでおこなわれたのが1905年の8月から9月にかけてである。
この交渉で韓国に対する完全な支配権とサハリン南部の領有権を獲得した日本は、ロシアが清国から得ていた二大権益の割譲をも実現させた。

それは遼東半島先端部の租借権と旅順から長春までの南満州鉄道をめぐる権益であったが、もともとの権利者である清国とは何の相談もない乱暴極まりないものであった。
だが、力関係ではいかんともしがたい清国はこのやり取りを受け入れるほかはなく、満州に関する日清条約(北京条約)によってロシアが満州で得ていた権益がそっくり日本のものとなったのが1906年12月のことである。

「関東軍」の由来と条約によって認められた「関東軍」の本来の行動範囲について!
さて、ポーツマス条約で日本が租借権を獲得した遼東半島先端部とは大連と旅順をふくんだ埼玉県より少し小さめの土地であり、ここを新たに「関東州」と名づけた日本政府は日露戦後の段階で二個師団、約一万の兵を配置した。
また、鉄道については旅順から長春までの430キロ余りの線路と、それに付随した線路の左右約30メートルずつ、合計62メートルの鉄道用地が付属地として自由に使える土地とされた。
そして、同時に430キロにわたるこの細長いベルト状の土地を守るために最大で6450名の兵の配置をおこなえることとなった。
こうして関東州と満鉄線路沿いに兵員が配置され、やがてこれらは分離し、「関東軍」として独立するようになっていった。

かくして朝鮮半島までも抱え込んだ「国土防衛」の最前線にたち、過剰な自信や野望で肩をいからせ、日本を戦争の淵へと引き込んでいった「関東軍」がここに誕生したのである。
だが、北京条約によっても関東軍が自由に動ける範囲は広大な満州の中にあって、埼玉県ほどの遼東半島先端部の関東州内と、満州鉄道沿いの幅60メートルの細長いベルト状の土地の中に限定されていた。

北方軍閥張作霖抹殺を企てた「関東軍」とその皮肉な結果について!
さて、1911年の辛亥革命により清王朝は打倒され、「中華民国臨時政府」が樹立されたが、その力は弱く、中国国内は私兵を率いた「軍閥」が各地に群居する状態となった。
そして日本をはじめとした列強諸国はこれにつけこんで、それぞれの軍閥と手を結んで自国の権益の拡大をはかっていた。
だが、1925年に広東で中国国民党による「国民政府」が樹立されると、中国全土にわたる反帝国主義運動の嵐はこれを全国の革命運動の中心へと押し上げていった。
さらに翌26年には国民党が北京をめざしての「北伐」を開始し、破竹の勢いで進軍した「北伐」軍は翌々年の28年6月には北方軍閥の拠点である北京への無血入城を果たすことで「北伐」を完成させた。

さて、この直前に北京脱出をはかり根拠地である満州の瀋陽へと逃げ帰った北方軍閥最大の人物がいた。
それが張作霖であり、かって軍閥どうしの争いで関東軍に助けられた張は日本に対しては協力的な人物であった。
だが、次第に自主自立へと方向転換していく張作霖が邪魔になった関東軍は、この機会に便乗して線路上に仕掛けた爆薬により彼を抹殺したのである。(満州某重大事件)
ところが、張作霖を亡きものにして満州をその支配下におこうとした関東軍の意図に反して、張作霖の後を継いだ息子の張学良は父親以上に関東軍の思い通りにならなかった。
張学良は国民政府の統治下にはいることを決意し、それ以降は満州での反日と排日の動きは日増しに強まっていったのである。

満州事変はいかにしてひき起こされたか(その謀略性について)!
もはや、満州は父を日本軍に殺された張学良が支配しており、彼は満州も「国民政府」(中華民国)に所属しており、自分もその軍隊も「国民政府」の統括下にあることを宣言してはばからなかった。
それゆえ日本が満州を奪い取るためには張学良を打倒しなくてはならず、軍事力を使って彼を圧倒する他はなかった。
だが、ここで問題があった。
それはこの行動の中心勢力となるべき関東軍は北京条約によってその行動範囲が限定されており、埼玉県ほどの「関東州」と満鉄沿線の幅60メートル余りのベルト状の土地の中でしか自由に動けなかったのである。
そして、この制約を突破しなければ、満州を奪い取ることは不可能であった。

untitled12294そこで考えついたのが「敵からの攻撃」であり、敵からの攻撃に対する反撃であれば軍事行動は「正当防衛」として認められるのである。
こうして仕組んだのが中国軍の兵営からすぐ近くの柳条湖という地点を選んでの満鉄線路爆破事件であり、これが世に言う「柳条湖事件」(1931年9月18日)となった。
自作自演で満鉄線路を爆破し、それを中国軍のしわざに転嫁して中国軍が日本の鉄道守備隊を攻撃してきたという虚構をでっちあげた関東軍は「正当防衛」を口実に、条約で定められた区域から飛び出して翌年にはハルピンを占領し、広大な満州全域を制圧した。

田母神元航空自衛隊幕僚長の史観と歴史的な事実との間に整合性はない!
さて、元航空自衛隊のトップの地位にあった田母神俊雄氏は在職中に、マンションやホテル経営を全国展開している企業「アパグループ」が募集した「真の近現代史観」をテーマとする懸賞論文で最優秀賞を獲得している。
田母神氏が最優秀賞を獲得した論文のタイトルは「日本は侵略国家であったのか」であり、そのなかで氏はこう強調しているという。

「日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになったが、相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」
では田母神氏は「満州事変」をめぐっての歴史的な諸事実とご自分の説との整合性についてどう説明されるのであろうか。
人の発言は必ずしもその正しさで評価されるわけではなく、多くは発言者の地位や役職でその重みがはかられるということなのであろうか。

参考 近代日本の戦争 梅田正巳 高文研


盧溝橋事件をめぐる歴史的真相とはなにか(田母神元航空幕僚長の歴史観の特異性の検証)

死傷者や行方不明者が一人もでていなかったにもかかわらずに発生した盧溝橋事件の特異性!
中国は北京の郊外に永定河という川が流れ、そこに盧溝橋という石造りの橋がかかっている。
この橋は13世紀の頃に建設され、北京を訪ねたマルコポーロがその美しさを絶賛したという故事にちなんで別名マルコポーロ橋とも呼ばれる。

さて、1937年(昭和12年)にはこの橋の目と鼻の先の地に中国軍の陣地があり、城壁で囲まれた苑平県城という名の小都市内に中国軍が駐屯していた。
だが、中国軍といっても蒋介石政府直属の軍ではなく、この地方における中央政府の代理にすぎず、また旧軍閥の流れを汲んだ宗哲元の軍であった.
だが、そんな場所で同年の7月7日の夜間に、この小都市から1キロと離れていない小石混じりの荒地で日本軍は夜間演習を強行した。
中隊規模で演習をおこなっていた日本軍は演習地の永定河とは反対のところに「仮説敵」を設定し、この標的を目標にして演習をおこなったのである。(中国軍陣地とはきわめて至近距離にあり、軍事的なリスクは極めて高い)

そこにたまたま命令系統の混乱が生じたことで「仮想敵」側の軽機関銃(演習用の空砲)が火を噴いたというのだが、夜間だけにその発射音が遠方へと鳴り響いていたことは疑いない。
案の定、その直後に中国軍の陣地の側から三発の実弾による砲声が響き渡り、それに驚いた日本軍が兵員の集合をかけたところ、集合のラッパ音に呼応して再度、中国軍の陣地の方向から十数発の銃声が響きわたったという。
さて、日本軍が集合した兵員を点検すると初年兵一人が行方不明になっており、この事実は軍の指揮系統にそって北京の連隊本部へと報告されたが、実は行方不明となった初年兵は20分後には原隊に戻っていた。
だが、まずかったことには戻っていたことがすぐには報告されておらず、この遅れが事態をやっかいなものとした。

こうして付近の日本軍には集結命令が下され、それと同時に日本側の将校は中国軍の陣地に入って事態収拾の交渉を始めた。
だが、この交渉は事態を丸くおさめる方向で議論がすすみ、このままでいけば何事もなく収拾されるはずであったが、運の悪いことには三度目の銃声が交渉中に鳴り響き渡ってしまった。
そして、それを聞きつけた北京の連隊本部長である牟田口廉也が「敵に打たれたら撃て」と断固たる口調で命令したことで、この交渉はつぶされてしまったのである。
かくしてこの時点では両軍ともに死傷者や行方不明者は一人も出ていなかったにもかかわらず、現地の日本軍と中国軍との間で戦端が開かれてしまったのであった。

好戦的で単細胞の軍人が引きおこした盧溝橋事件!(インパール作戦にも引き継がれた愚かさ)
imagesCAQL8CF8これが盧溝橋事件そのもののあらましであり、牟田口廉也といういたずらに好戦的で、ただ声がでかいだけの単細胞の軍人によって、交渉でまとまりかけていた「接触事件」が「衝突事件」へと拡大したことがこの事件の真相である。
また、この牟田口廉也という好戦的で単細胞な軍人はアジア太平洋戦争でもっとも無謀な作戦と言われたインパール作戦をも計画・指揮しており、補給を無視した作戦により七万人をこえる日本軍将兵の命を無駄に失わせている。
スコールのなか、ビルマの密林を撤退してゆく日本兵が飢えとマラリヤ・赤痢などで次々と倒れ、その屍体で沿道が埋められた道を兵士たちが「白骨街道」と呼んだことは有名な逸話である。

「かっての日本軍の駐留は条約にもとづくものであり、相手国の承認を受けたものであった」という田母神元航空幕僚長の史観を盧溝橋事件で検証すれば!
imagesCAE5UX72さて、ここで疑問となることは、中国は北京の近郊であるマルコポーロ橋の近辺になぜ日本軍が駐屯していたのかということである。
実は当時の北京郊外の日本軍は「北京議定書」という条約にもとづいて駐留しており、有名な義和団戦争の際に、清国と清国へと侵攻した連合国との間に締結されたのがこの条約であった。
この条約は莫大な賠償金を清国に課すとともに、北京に「公使館区域」を設定してそこへの「外国軍の駐屯権」を清国に認めさせ、駐屯する兵力も各国軍の総体で2000人を限度とした。

だが、列国の司令官会議の合意によって当初から日本は列国の駐留軍のなかでも最大兵力を送りこんだ。北京や天津を中心に1570名以上の日本軍が配置され、ここに駐屯して天津に司令部を置く日本軍はやがて「支那駐屯軍」と呼ばれるようになっていった。
ところが、1935年には歩兵を中心に1771名にすぎなかった「支那駐屯軍」が、その翌年、盧溝橋事件の前年になると、突如として兵力増強の閣議決定がなされ、駐屯軍の兵力はこれまでの三倍強、5774名へと拡大されたのである。
と同時に駐屯軍の編成も変えられ、これまでは歩兵を中心とした二個大隊にすぎなかった「支那駐屯軍」が戦車隊や騎兵隊などを加え、独力で戦闘を展開できる混成一個旅団相当へと増強された。

当初の日本軍の駐留は列国司令官の間の会議で合意されたものであったが、盧溝橋事件直前のこの駐屯軍の一挙拡大は列国に無断で実行され、もちろん中国側の意向などは最初から無視された。
これは文字通りの一方的な増強であり、まさしく「北京議定書」破りであった。
こうして、兵力増強と編成替えによりいつでも戦争に突入できる態勢を整えた「支那駐屯軍」の一部が中国軍の駐屯地からわずか一キロと離れていない所で、それも夜間、それこそ実戦さながらの攻撃訓練をやっていたことが、盧溝橋事件の最大のきっかけをつくったのである。

日本は侵略国家ではなかったと主張し、また航空自衛隊の元最高指揮官でもあった田母神俊雄氏は盧溝橋事件についてこのように説明している。
「我が軍は中国国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に進めている。1901年から置かれることとなった北京の日本軍は36年後の盧溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない。……対中融和外交こそわが国の基本方針であり、それは今も変わらない」
「36年後の盧溝橋事件のときでさえ5600人にしかなっていない」と書いているが、筆者がすでに述べたように、盧溝橋事件の前年には条約で定められていた兵力を一挙に三倍に増強したのであり、兵力の編成をも「警備」から「戦闘集団」へと変更しているのである。

これは「北京議定書」を踏みにじった条約破りの兵力増強であり、列国や中国の意向を無視した一方的なものであったことは明白である。
田母神氏の歴史観や戦争観は「かっての日本軍の駐留は条約にもとづくものであり、相手国の承認を受けたものであった」という見方に貫かれているが、これは盧溝橋事件に限定しただけでも歴史の検証に耐えられないものであることが明らかだ。


民主党支部長 谷田川はじめ様、民主党政治の劣化阻止と政権交代の原点に立ち返るためにも毅然として小沢擁護に立ち上がってください!

菅政権による民主党政治の恐るべき劣化は「国民の生活が第一」の小沢マニフェストでしか打開できない!

image12181企業による国内投資と雇用の拡大を大義名分として菅民主党政権は法人税率の引き下げを決定した。
だが、当の財界が減税による投資や雇用の拡大を拒否しており、大企業には減税の恩恵を与える一方で、国民にはそのツケをまわそうとする管民主党政権の筋書きが見えはじめている。
また、先の沖縄県の知事選挙ではどの陣営も「沖縄に新しい新基地建設は許さない」と公約し、その得票総数は60万票を超えた。
これは普天間基地の「県内移設」断固反対は明確な沖縄県民の総意であり、この意思が揺るぐことはありえないことを示している。
しかるにあろうことか、仙石官房長官は普天間基地の名護市辺野古への移設を明記した日米合意について「日米同盟『深化』の観点から沖縄の方々に甘受していただく」などと発言し、「県内移設」反対という県民総意に真っ向から敵対する姿勢を見せている。

さらに菅政権は来年度からの年金支給額の削減を決定したが、これは五年ぶりの引き下げであり、消費者物価指数が下がっていることをその理由としている。
だが、国民の生活が苦しい中で年金額が引き下げられれば、ますます内需が冷え込み、さらにデフレ不況を加速化することはさけられそうにもない。
これらはほんの一例にすぎないが、菅政権が発足してからというもの、民主党政権が政権交代の原点から離れ、問題によっては自民党政治よりも悪質になった状況を象徴した出来事といってよいだろう。

民主党は「政治を変えて欲しい」という政権交代に託した国民の期待に応えるべく、菅政権が劣化させた政治に反省を加え、民主党政治を正常化し、日本経済の一日も早い回復を実現させて「国民の生活が第一」の政治を実現すべき局面を迎えており、同党は今、最大の正念場にある。
それゆえに政権交代の立役者であり「国民の生活が第一」の民主党マニフェストを作った小沢一郎を民主党政権のど真ん中に据えることで、民主党が政権交代の原点に立ち返り、外交や内政も国民が安心して生きてゆける日本とすることが喫緊に求められているのである。
これ以外には民主党を再生する術はなく、これ以外には劣化した民主党政治を打開していく手立てはないといってよい。

小沢の「政治とカネ」は民主政治への攻撃であり、その多くが“でっち上げ”であること!
しかるに現在の菅政権は劣化した民主党政治の正常化を放置し、政権交代を阻止しようとする旧政権勢力と検察が、30億円の税金と一年数か月の歳月をかけて小沢一郎のあらゆることを捜査して不起訴とした小沢の「政治とカネ」の問題を利用しながら、あやしげな検察審査会なるものを操作して小沢一郎の政治活動を停止させようとさえしているのである。
だが、とりざたされている問題は小沢一郎の資金団体「陸山会」をめぐる政治資金報告書の記載事項に関することにすぎず、それこそ重箱の隅をつつくような問題であり、そこには裏献金も受託収賄もあっせん利得の犯罪も存在していない。

また、西松建設をめぐる事件ではダミー会社が実は実体のある企業であったことが公判の中で明らかになっており、また「ゼネコンからのヤミ献金疑惑」もそれを証明するような明確な証拠は挙がっておらず、脱税で服役中の水谷建設元会長の証言なるものも検察ストーリーに話を合わせただけのものでしかない。
かくして小沢一郎をめぐる「政治とカネ」の問題は検察によるでっち上げか、あるいは、せいぜいのところ記載上の瑕疵といった程度のものでしかないことが判明しつつある。
だが、検察が不起訴にしたこの問題に対し、正体不明の市民団体が検察審査会制度を利用して再審査の申し出をおこなったことで、多くの専門家が違法・無効と指摘する「強制起訴議決」がおこなわれた。

しかし、かくのごとく劣化した司法機関が小沢一郎を強制起訴裁判にかけることで小沢が「刑事被告人」とよばれるようになっても、小沢が内閣総理大臣になることには何の問題もない。
憲法に規定されている議員の「不逮捕特権」と「免責特権」は憲法の飾りとして存在しているわけではなく、国会議員の政治活動の自由を保障する議会制民主主義の原理の上にある。
小沢一郎の「政治とカネ」の問題とは悪質な政治勢力と一体となった検察、そして司法までもが、憲法政治をふみにじって小沢の政治活動を封じようとする悪巧みにすぎず、現在の事態が続くならば、政治家はいつでも国家権力側の都合により政治活動が封じられることとなりかねない。

それゆえに、こころある民主党員や所属議員は「民主党は政権交代時のマニフェストに戻れ」の国民の声にこたえ、「国民の生活が第一」とする小沢一郎という政治家を民主党政権のど真ん中に押し出すべく、覚醒すべきときがきているのである。
そして、小沢の「政治とカネ」の問題は旧政権勢力が指示し、検察権力が民主政治に仕掛けてきた攻撃であることを認識すべきであり、菅政権がその保身のために、小沢一郎の国会での説明を国会対策の駆け引きに利用するという事態を放置してはならないのである。

菅政権の国民への裏切りと小沢一郎をめぐる「政治とカネ」の問題への正しい見方とは

総選挙マニフェストを反故にし、軍核と大企業減税にふみだそうとする菅政権!
報道によればドイツ政府は来年の7月からの徴兵制の凍結を核とする軍縮案を閣議決定したという。
軍縮案では兵力を現在の25万人規模から18万5千人に削減することになっており、西ドイツ時代の1955年に連邦軍が創設されて以来、最大規模の改革となる模様だ。

冷戦終結や欧州統合などによりドイツをめぐる安全保障環境が大きく変化し、国防軍の主な任務が国防から海外派遣にシフトしたため、短期間しか務めない徴兵制の必要が薄れてきたことがこの改革の最大の理由とされている。
このドイツの事例は国際社会での軍事力の比重が低下しつつある時代の流れを反映したものだが、日本政府の場合は事情が違うようだ。

12月17日に閣議決定された新しい「防衛計画の大綱」は“動的な防衛力”という名目のもと、中国やロシアや北朝鮮などを「仮想敵国」として「軍事には軍事」という発想で周辺諸国に対峙しようとしており、今まで軍事基地のなかった宮古島や八重山などの先島諸島には自衛隊を配備して新たな軍事拠点を確保するものとなっている。
また、この計画には米軍の普天間基地を名護市の辺野古に移設し、最新鋭の米軍基地を建設することが当然の前提となっており、先島諸島の軍事拠点化とともに沖縄県民への新たな軍事負担の押し付けが組み込まれている。
「普天間基地は国外移設、最低でも県外に移設をする」という民主党の政権公約はもはや完全に踏みにじられ、自民党政権でさえできなかった軍拡計画を大手をふってやろうという管政権にたいしては、何のための政権交代であったのか、その存在意義すら疑われる現状だ。

また、菅政権は法人税の税率の5%引き下げを決定したが、経団連は減税と引き換えに新たな雇用と国内投資をおこなうべきとする政府要請すら「資本主義的ではない考え方を導入されては困る」として拒絶している。
こうして菅政権は財界が大喜びする大企業減税を表明してはみたものの、はしごを外された格好となった。

小沢問題をめぐる民主党内の“内紛”をどう見るか(ただの党内問題にすぎないか)!
image12182こうして、民主党の総選挙マニフェストの真髄である「国民の生活が第一」からますます遠ざかりつつある菅政権の現状は、政権交代に託した国民の期待を完全に裏切っており、もはや信頼の回復は不可能な地点にまで入りこんでしまったようである。
だが、昨年の総選挙時におけるマニフェストを実行し、国民との約束を守ることは民主党の生命線であり、それを反故にしようとする菅政権には政権交代に期待を託した国民の間からは広範な抗議の声が沸き上げっている。

そして、その声の当面の受け皿となっているのが現状では「小沢立つべし」という根強い小沢待望論であり、小沢一郎をめぐる民主党内の“内紛”は、実は「民主党は総選挙マニフェストを守り国民との約束を実行せよ」との国民多数の声と、旧政権勢力やマスメディアに支援されながら対米追随と財界奉仕に狂奔する菅政権一派との対決なのである。
また、この党内闘争の真の背景には菅政権やマスコミが「正論」とする政策路線と、「小沢立つべし」に象徴される「国民の生活が第一」の政策路線をめぐる政策対立があり、国政の革新を願う国民にとっては、ここは腰をすえて小沢支持派議員を支援すべき正念場だ。

消滅しかかっている西松裁判といまだに小沢の「政治とカネ」に固執する某革新政党!
さて、某革新政党は相変わらずに小沢一郎をめぐる「政治とカネ」の問題の真相究明を国政の焦点にすべしとの立場に固執し続けているが、小沢一郎の「政治とカネ」をめぐる問題の起点となった西松建設事件をめぐる局面は今や大きな転換を遂げている。
西松事件では同社が実体のないダミー会社を使って迂回献金をおこなった疑惑が問題だったが、法廷で西松の元部長が証言した結果、迂回献金のダミー会社とされた企業はダミーではなく実体があった事実が明らかになり、検察は訴因変更にまで追い込まれ、西松裁判そのものがもはや消滅しかかっている。

また、水谷建設から小沢サイドに渡ったとされる「一億円のヤミ献金疑惑」も小沢捜査の終焉とともにうやむやになっており、もともと別次元、別ルートの話を検察が無理やりに小沢事件と結びつけ、そこに獄中の水谷元会長が検察のシナリオに話を合わせたという構図がある。
ちなみに水谷建設の元会長は佐藤栄佐久福島県知事収賄事件で検察の取引に応じてウソの証言をした人物であり、佐藤氏はウソの証言により収賄容疑で逮捕されて知事の座を追われたが、水谷証言の信憑性が疑われて現在は実質無罪になっている。(ただ、現在も裁判は進行中であり佐藤氏の名誉回復は実現していない)

小沢一郎の「政治とカネ」の問題は多くが政権交代阻止をねらった旧政権勢力とマスメディアが作り上げたストーリーであり、現在は「国民の生活が第一」とする小沢を政界からどうしても排除したい菅政権によって政治的なカードとして使われているというのが筆者の見方だ。
にもかかわらず、小沢一郎の証人喚問をあくまで要求して、自民党や公明党などに同調し続けている某革新政党は今度こそ有権者から見放されてしまうだろう。
筆者にとってはまことに遺憾の念に堪えないところである。

野平市長(ノッシー)の市議会での「迷言」を拝聴させていただきました。

最近、筆者は銚子市政の話題には遠ざかっており、当ブログでもしばらくの間は銚子市政に触れたこともなかった。
しかし、最新の市政の現状を多少なりとも知りたくなって、数日前にしばらくぶりで12月市議会に傍聴に出向いた。

それもわずか二時間ほどであり、K議員の質問の後半部とM議員の質問の前半部、及びそれにたいする市長答弁を聞いた程度でしかなかったが、この短い時間の間に我がノッシー市長の口から飛び出したいくつかの「迷言」にはあきれ果ててしまった。
そこで筆者が直接に耳にした範囲でのノッシー市長の「迷言」を、このエントリーでぜひご紹介しようと思った次第である。

まずはノッシー市長の最初の「迷言」である。
「銚子市内の医療機関は過当競争状態にあると思っていました」

一昨年の市立病院の突然の休止により、千葉県の医療レベルが全国的にも最下位レベルにあるなかで、銚子はさらにその県の最下位レベルにまで落ち込んでしまった。
具体的な数字を挙げれば10万人あたりの数値に換算しなおした場合、医師数で銚子は116人であり、県平均の159人、全国平均の217人と比べても著しく低い現状となった。
また、入院ベッド数も同じく10万人当たりの数値に換算し直せば、銚子は698床にすぎず、県平均の1153床、全国平均の1398床などと比較してもきわめて低い数値となっている。(保健所資料など)

ここに前市長による市立病院休止にたいし市民の間に大きな怒りが湧きおこった源の一つがあり、同時にそれは市立病院の再生が市民の間で切実な願いとなっている源の一つでもある。
さらに低収入の市民でも安心してかかれる廉価な公立病院が市内になくなってしまったことは、診療面のみならず、市民生活にとっても切実な問題なのである。

しかるに、ノッシー市長はこれらの数値をあげて市立病院の早期充実の必要性を強調したK議員の質問に対して「銚子の医療は過当競争状態かと思っていました」と耳を疑うような「迷言」を口にしたのである。
口でいくら病院再生を繰り返しても銚子の医療過疎の実態も知らないノッシー市長であることが、はからずも露見してしまったのである。

銚子の医療事情もろくに知らないノッシー市長がおこなっている病院再生であるから、そこに取り組みの“本気さ”を感じとることにできなかったのであろう。
そこに切実に医者を求める患者市民がたくさんいるから病院充実や医師の確保が必要だという観点がなかったのだ。
ここにノッシー市長の病院再生が混迷をきわめる大きな原因の一つが垣間見えたような気がするのである。

さらにノッシー市長の第二の「迷言」である。
「太く短く生きるという漁民の気質が市民のなかにある」

これは銚子市民の平均寿命が全国平均よりも低く、かつガンなどの成人病による死亡率も全国平均よりも高い理由は何かと、K議員が市長の認識を問いただした際にノッシー市長の口から飛び出した「迷言」である。
K議員にしてみれば銚子の貧弱な医療事情という答えを期待したのであろうが、これは「迷言」というよりも「暴言」に近いかもしれない“すれすれ”のところの答弁だ。

さて、このノッシー発言を聞いて筆者が思い出した歴史的な逸話がある。
時は明治20年代の中頃、日本資本主義の発達により都市の中産階級が安定してくるにしたがい、その子弟への教育熱が全国的に高まった時期があった。
彼らの教育熱は中学校への進学ブームとなって現れ、銚子もその例に漏れず、当時県内に一つしかなかった県立中学校の誘致運動がすすめられた。
そして、銚子の有力者などの尽力により待望の県立銚子中学校が明治33年に開校したのである。

また、当時の地方の人々にとって県立中学校は今日の国立大学以上の価値を持っており、小学校卒業者で成績優秀、なおかつ裕福な家庭の子弟のエリート教育機関として大きな権威を有していた。
だが、日露戦争後の経済不況をきっかけとした県の財政窮乏により歳出削減がおこなわれ、教育面では県立中学校の数を減らすこととなったのである。
そして、不運にも県立銚子中学校がその対象となり、卒業生を出すこと僅か二回にして廃校となってしまった。
しかも、その際に当時の県議会において「東海の魚族、教育するに及ばず」という暴言を浴びせられたということが今に伝わっている。

かくして、この歴史的逸話に出てくる県議会での暴言と先日の市議会でのノッシー市長の「迷言」との間には、その心性において限りなく近いものを感ずるのである。
上から目線で市民を見下すような心性をノッシー市長には見いだすが、かくのごときノッシー氏に今後も市政を託すしかないところに“頭痛のタネ”を感ずるのは筆者だけではないだろう。
images12151

進みつつある菅民主党の「自民党化」には小沢一郎の復活がその打開のカギとなりつつあること

菅民主党の「自民党化」の現状について!
菅政権になってから「国民の生活が第一」というスローガンがすっかり影を潜めるようになって久しい。
この間に民主党の「自民党化」が急速にすすみ、国民への裏切りも相次いでいる。
「使い捨て」労働を根絶するはずだった労働者派遣法の抜本改正も骨抜きのうえに見送られ、「日米同盟の深化」をかかげて辺野古への新しい米軍基地建設を推進する「日米合意」への固執も変わっておらず、むしろ菅政権の対米追随姿勢はいっそうの“深化”をとげている。

また、介護保険の分野では高齢者に新たな負担を強いるメニューが政府から提言され、介護保険制度の大改悪をおこなう構想が打ち出された。
これも介護保険への国費投入を8000億円増やしますとの総選挙の際の民主党の政権公約に反しており、まったくの公約違反にほかならない。

そして、外交の分野にいたっては民主党の「自民党化」を象徴するような事例が頻発している。
岡田幹事長などは「日ロの領土問題や尖閣の問題などで、従来の自民党時代と同じ方針でやってきた。」とその出演したテレビ討論で述べたほどだ。
政権交代したのだから、旧政権時代における領土交渉などを根本から見直すべきであるにもかかわらず、政府民主党は自民党政権時代の方針をそのまま踏襲して恥じない姿勢なのである。

「民主党は政権交代時のマニフェストを実行しろ」との国民の根強い声に押し出されつつある小沢一郎!
さて、民主党の「自民党化」の背景には民主党自身が寄り合い世帯であり、政治を変える明確なビジョンである綱領を持つことができないという弱点が潜んでいる。
綱領を持たず、政治を変えるビジョンがないままで政権交代したらどうなるか、その危険性を十二分に実証しつつあるのが菅政権の現状である。

だが、「自公政治を変えたい」との思いを民主党への政権交代に託した国民を裏切って、急速な「自民党化」へとひた走る菅政権への批判の声は高まりこそすれ、衰えることはない。
そして、ここから常に繰り返し生み出されるのが小沢一郎への待望論であり、ここには小沢一郎に対するたんなる英雄待望といったレベルを超えて、政治を前に進めたいという国民の願いがその根底に潜んでいる。
さらには、「民主党は政権交代時の民主党マニフェストを実行し我々との約束を守れ」といった菅政権への国民の手厳しい批判もその背後には存在する。

ただ、誤解のないようにあらかじめはっきりさせておきたいことは、民主党の「政治とカネ」の問題の象徴的な存在であり、野党が一貫して求めている国会での説明責任をいっこうに果たそうとしない小沢一郎の存在それ自身が政治を前に進めるファクターではないということだ。
このような国民の声を背負わざるをえず、これに沿った政治行動をとらない限り、自身の政治的な復活がないというポジションに現在の小沢一郎が立っているが故に、その限りにおいて小沢一郎の復活が政治を前に進めるうえでの当面の決定的なファクターになりうるのである。

小沢潰しを繰り返す闇の権力によって小沢の検察審査会での強制起訴がおこなわれた!
image12061さて、失政の続く菅政権は遅かれ早かれ立ち往生することは避けられないが、その際には先の民主党代表選挙での次点候補者でもあり、国民的な人気も根強い小沢一郎が再び国政にチャレンジすることが順当であろうと、つい最近までは考えられていた。

だが、それを阻止するために闇の権力の手によって小沢追い落としの政治工作がおこなわれた。
言うまでもなく小沢の資金管理団体をめぐる土地購入疑惑での検察審査会による強制起訴であり、プロの検察官たちが長期間にわたり徹底捜査をおこなってもとうとう立件できなかった小沢一郎を、まったくの素人集団の検察審査会がろくな議論もなしに強制起訴を決定し、とうとう小沢を司直の手へと引き渡したのである。

小沢を司直へと引き渡した検査審査会とは、その構成すら不明であり、審査会がいつ開かれ、そこでどのような議論がなされたかを外側からはいっさい窺い知ることのできないという謎めいた機関である。
小沢一郎はこのような胡散臭い機関の手によって、民主党を唯一立ち直すだけの力量を持った政治家としての政治生命を失いかけているのである。

自民党などに同調し続ける某革新政党の現状について!
さて、このような政治情勢にあるにかかわらず、某革新政党は政府・民主党への党略的な攻撃に狂奔する自民党などと国政では同一歩調をとっており、自民党などが主導する野党国対委員長会談などのたびに、同党は民主党政権を攻撃して自民党やみんなの党などに同調し続けている。
国民からみると、この間の某革新政党の行動は社民党よりも自民党サイドに立ったものとしか写っておらず、直面する政治危機をどう打開するかという点で確固とした政治戦略を持たず、民主党政権の失策のたびに自民党などに同調し続けている同党に国民の支持が集まる道理もない。

また、傍から見ると自民党の追随勢力に成り下がり、右往左往しているように見えるようでは、来るべきいっせい地方選挙や、その先に控えている総選挙での同党の復活の芽などもない。
某革新政党も自らは民主党政権の悪政を批判しながらも、その悪政に拍車をかけようと企てる自民党にも毅然とした対応をしているつもりなのであろう。
だが、当面する政治危機の打開へむけた明確な政治戦略を国民に提示できない同党の最近の一連の行動は、客観的には自民党の取り巻きとしての役割を果たしつつある。まことに残念なことである。

1994年における朝鮮半島での「核危機」の教訓と生き残りのためには手段を選ばない金正日

ソ連の崩壊と自らの虚偽宣伝や民衆弾圧などで崩壊の危機に面した金王朝!
1991年8月にソ連で反ゴルバチョフのクーデターが発生し、その年の冬にはソ連邦が崩壊した。
それまで友好価格という名のタダ同然の価格でソ連から小麦や原油、兵器を援助してもらっていた北朝鮮にとって、この事態はきわめて深刻なものとなった。
このとき金正日がもっとも恐れたのはソ連に援助されていた約100万トンの食糧や、40万トンの重油が途絶えることによる餓死者や凍死者の大量発生であり、民衆蜂起による体制の崩壊であった。

北当局は「偉大な首領金日成同志のチュチェ思想に導かれ、自主経済が輝かしく達成された」とか「チュチェ農法によりわが国は万年豊作である」などと自慢していたが、実態はソ連の植民地同然であり、巨額の援助によりほとんど北朝鮮経済はソ連に丸抱えされていた。
人民に嘘をつきとおしてきた金父子はいまさら「ソ連の崩壊で餓死者がでる」とは口が裂けても言い出すことはできなかったのである。

また北朝鮮における民衆弾圧は過酷をきわめ、数十万人もの人々が何十年も、ある場合には一生涯、強制収容所に閉じ込められた。
さらに「成分」とよばれた北独特の身分制度による差別と不平等は一部の特権階層に対する深い恨みとなって民衆の間に沈殿していた。

時あたかも、ベルリンの壁の崩壊の直後にルーマニアの独裁者チャウシェスク夫妻が蜂起した市民によって逮捕され、その翌日には銃殺されたが、チャウシェスクの処刑は金父子をショック状態に投げ込んだ。
不可避とも見える体制崩壊の際の民衆による報復の恐怖に金父子はおびえることとなったのである。

体制崩壊に危機に際して金正日のとった危険な奇策とはなにか!
だが、金父子は奇想天外な策略でこの深刻な崩壊の危機を乗り切ろうとした。
それはわざと核危機をおこしアメリカとの擬似戦争状態を演出することであり、国民に「アメリカが攻めてくるぞ、腹が減ってくらいで文句を言うな。アメリカが入ってくれば命はないのだぞ」と民衆を脅しつけて食糧危機を覆い隠し、金父子に向かう怒りや反感をアメリカに向けさせ、餓死寸前の民衆を「米帝打倒」で結束させることであった。

さて、北朝鮮はこの時点で核兵器拡散防止条約(NPT)に加盟していたが、北朝鮮は条約加盟国に義務づけられたIAEA(国際原子力機関)による査察を硬く拒み続けていた。その最大の理由は同国が密かに核兵器の開発をすすめていたことである。
ところが、体制の崩壊の危機に直面した金父子、特に金正日は原発から生ずるプルトニウムで原爆を作っていることをわざとアメリカのスパイ衛星に写させることで核危機の演出を企てた。
すなわち、平壌の北90キロのところにある北朝鮮の原子力団地である寧辺の核施設をアメリカのスパイ衛星の目に故意に晒したのである。

案の定、この事態に驚愕したアメリカはただちに核拡散防止条約を楯にとって北朝鮮に国際原子力機関による特別査察を求めたが、これに対しての北朝鮮の回答は査察逃れを目的とした同条約からの脱退であった。
かたや主権侵害を口実にして頑なに査察を拒否する北朝鮮と、かたや北の核保有をあくまでも阻止したいアメリカとの間の緊張は激化し、戦争の危機が高まった。

こうして朝鮮戦争の経験から「アメリカが攻めてくるぞ」と言えば無条件に困苦欠乏に耐える北朝鮮の国民の心理を巧みに利用した金正日によるこの策略は大成功をおさめ、ルーマニア型の民衆蜂起による体制崩壊の危機と金王朝惨殺の恐怖はもののみごとに「打倒米帝」にすりかえられていった。

金正日の脅しに屈したクリントンと「ごろつき国家」への道を歩み始めた北朝鮮!
さて、この時の米国大統領はクリントンであり、彼は米軍首脳部によってアジアで発生しつつある紛争の重大性と経過について公式に説明を受けていた。
だが、クリントンは朝鮮半島での全面戦争による被害と影響の大きさに驚愕した。
朝鮮半島で戦争が勃発すれば最初の三ヶ月で米軍の戦死者が5万人、韓国軍の死傷者も49万人に達することが予想され、さらに戦争にともなう膨大な財政支出も天文学的な数字が見積もられていた。

imagesCAE198U3このような恐ろしい事態が発生すればクリントン政権が最大の危機を迎えることは避けられず、彼が実現したいと思っていた計画のことごとくが台無しになってしまうのである。
こうして金正日の捨て身の自爆攻撃の脅しに屈服したクリントンは北との対決を回避し、話し合いへと転じていき、94年の10月にスイスのジュネーブで米朝二国間の「枠組み合意」が締結された。
「枠組み合意」の内容は「核開発をやめるからその代わりの原子炉をくれ」というものであり、北はその保持する旧型の原子炉を廃棄し、その引き換えに軽水炉二基を手に入れることとなった。
また、その完成までのつなぎのエネルギーとして年間50万トンの重油を米国が北に供与するというオマケまでついた。

こうして民衆蜂起の危機を巧みに回避し、軽水炉や大量の重油をも米国からまんまとせしめた金正日の北朝鮮は、この成果に味をしめて脅しとゆすりで生き残りをはかる「ごろつき国家」へと変じていったのである。

戦争回避は最大の正義であること、および緊急の六カ国会議を呼びかけるべき日本政府!
さて今回、北朝鮮は米国に軽水炉建設現場を見せ、ウラン濃縮施設も見せて米国に多大なショックを与えることで、米国を対話の場に引き出そうと企てている。
金正日が今回は何を目的としてこのような策略を弄しているかは不明だが、脅しによって生き残りをはかろうとする金正日の手法は現在も“健在”である。

だが、今回の北による砲撃事件はこの手法とは別のものであり、単純な見方でいいのではないかという気がする。
北朝鮮の主張する領海で韓国軍が軍事演習することについては事前に北が警告しているところであり、今回の砲撃は「警告は実行される」ということと「警告に空言はない」ということを明確に示すところにその目的があったのではないか。

いずれにしても戦争を避けることが最優先されるべきであり、戦争回避がこの場合の最大の正義である。
北朝鮮の核をめぐる六カ国協議は核問題のみならず北東アジアの平和と安定をも目的としており、その問題にかかわる緊急事態がおこったのであるから参加国の緊急会議を開くことが当然であり、それは外交的解決にとって重要な意味を持つ。
平和憲法を持つ日本こそ、この緊急会議を実現させるための努力を惜しむべきでなく、米国追随ではなく主体的に行動することが求められる。

参考:拉致と核と餓死の国 北朝鮮 萩原遼
最新記事
Profile
西岡三郎
千葉県銚子市に在住
QRコード
QRコード
Recent Comments
Recent TrackBacks
  • ライブドアブログ