光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

2011年01月

民主党内のマニフェスト維持派のたたかいは「政治を変えたい」という国民の声を背負っていること(小沢支持の理由について)

菅政権による相次ぐマニフェスト破りの数々!
菅首相は国会冒頭の施政方針演説で「税と社会保障の一体改革」の名のもとに消費税増税へと踏み出すことを表明した。
だが、民主党は一昨年の総選挙マニフェストで国の総予算207兆円の使い道を徹底的に見直し、無駄使いや不要不急な事業の根絶、あるいは税金などで溜め込んだ「埋蔵金」などの活用によって2013年度には16.8兆円の財源を生み出すと国民に約束しているのである。

imageCA124372俗な表現をすれば「逆立ちしても鼻血すら出てこないほどの徹底した無駄の削減」で「国民の生活が第一」の政策を実現する財源を捻出し、消費税の増税はすくなくとも、この無駄削減計画が完了する2013年度まではおこなわないというのが民主党の公約であった。

また民主党政権打倒の旗印を掲げ「たちあがれ日本」を自ら結党しておきながら、裏切りと変節によって菅政権にはせ参じた与謝野経済財政大臣などは「人生90年時代の日本のビジョン」として、現在は65歳である年金支給開始年齢のさらなる引き下げを言い出している。
だが、年金、医療、介護の不安をなくし、誰もが安心して暮らせる社会を実現するために年金制度を一元化し、月額7万円の最低保障年金を実現することが民主党マニフェストであったはずである。
菅政権には自公政権のもとでズダズダになった社会保障制度の「傷跡」を復元しようとする意思などこれっぽっちも見られない。

菅政権の変節に抗議の声を上げる民主党内のマニフェスト維持派(小沢支持派)!
さて、一つ一つ掲げていけばきりはないが、これが菅政権の現状であり、民主党は約束を簡単に反故にする政党となり、今後は何を言っても国民から信頼されない政党となってしまった。
そして、これらは「こんな政治は変えてほしい」との国民の願いによって実現した政権交代の原点を裏切り、政権延命のためには財界、霞ヶ関官僚群、米国、マスメディアなどの既得権益勢力に身を売って恥じることのない菅政権の変節と裏切りから生じているのである。

だが、この菅政権の変節と裏切りにたいし、政治革新を願う国民の間から厳しい批判がわきあがっており、「民主党は総選挙マニフェストに立ち返り、国民との約束を守れ」という声は日増しに高まりつつある。
また、この国民の声は政局にも反映し、民主党内では民主党政治の劣化と止めどもない「自民党化」をすすめる菅政権一派と、政権交代の原点に立ち返り「国民の生活を第一」とするマニフェストはあくまでも維持すべしとするマニフェスト維持派の間で、激しい対立と抗争が繰り広げられている。
もちろん政治革新を願う国民の声を代表しているのがマニフェスト維持派であり、その結集軸となっているのが現状では小沢一郎に他ならない。
ここに巨大なメディアを応援団とした菅政権一派による激しい小沢排除のルーツがあり、小沢一郎の「政治とカネ」の問題がその武器として用いられる理由がある。

だが、小沢一郎の「政治とカネ」の問題は西松建設事件にしても陸山会事件にしても、検察が一年以上かけて小沢の身辺を捜査したにもかかわらず、法律にふれるようなことは何一つ出てきてはいない。
そして時間が経つごとにこの問題が検察とメディアの合作によって作り上げられた「虚構」であり、村木事件と同様な「冤罪」であることが明らかになりつつある。

しかし、それにもかかわらずというよりそれゆえにこそ、小沢一郎の政治生命を絶とうとする既得権益勢力の攻撃は激化する一方であり、いまや民主党内のマニフェスト維持派は小沢の「政治とカネ」の問題を利用したマスディアや破壊的野党勢力、および民主党執行部を占拠した菅政権一派などの激しい攻撃で絶対の窮地に陥りつつあるのが現状だ。

マニフェスト維持派に敵対している日本共産党の現状について!
ところで筆者が今でも思い入れを持つ日本共産党はこの政治状況のなか、自民・公明やみんなの党などの破壊的な野党と歩調を合わせ、小沢一郎の国会への証人喚問を強硬に要求し続けている。
だが、この共産党の振る舞いには筆者ははなはだ違和感を感じざるを得ない。
なぜなら、その主観的な意図はともかく客観的な観点から眺めた場合、民主党内のマニフェスト維持派の結集軸である小沢攻撃に既得権益勢力といっしょになって“狂奔”する共産党としてしか国民の目には映らないからである。

このままでは近い将来、小沢一郎の「政治とカネ」の問題が冤罪であり、政権交代阻止と小沢排除を狙った既得権益勢力の「国策捜査」によって作り上げられた「虚構」であることが明らかになった暁には、日本共産党は国民にどのように弁明をするのであろうか。
かって自民も民主も基本政策の点で変わりはなく、同じ“穴のムジナ”だとして政権交代に反対し、政権交代派の国民に「妨害勢力」と看做されてしまった苦い経験を共産党は持っている。
そして当然のこととして前回総選挙での大幅後退という代償も払っている。

だが、この誤りへの反省と総括もおこなわず、「政治を変えたい」と願う国民の期待を背負った民主党内のマニフェスト維持派のたたかいには背を向け、破壊的野党といっしょになって小沢喚問で「敵対」しているのが共産党の現状だ。
このままでは駄目を押す形で国民から見放されてしまいかねない。
菅政権の財界べったり・アメリカいいなりぶりをいくら声高に批判してもその効果は相殺されてしまうだろう。

筆者が小沢一郎をめぐる「政治とカネ」問題に強い胡散臭さを感ずるようになった理由について!(続編)

2009年の民主党への政権交代はただ単に、有権者が自民党にお灸をすえた、あるいは、日本の議会政治史上はじめて有権者が政権交代を実現させたということにつきる出来事ではなかった。
「政治を変えたい」と願う国民の手によってはじめてつくられた政府、ある意味では国民による国民のための政府であり、民主党への政権交代はこの政府の実現を成し遂げた「無血革命」に準ずるものだったのである。

小沢民主党による政権交代に既得権益の喪失をかぎとった検察組織!
だが、この事態を黙って見過ごしているような旧体制勢力ではなかった。
検察を中心とする官僚エリート、大手マスメディア、そして自民党や財界などを中心とした「政財官癒着態勢」のなかで生きてきた勢力は、このような歴史の変化の中で既得権と既得権益を失うまいとして必死のたたかいを仕掛けてきた。
特に元民主党代表であった小沢一郎の提唱する官僚政治打破により、組織に大きなメスが入れられるのを恐れた検察組織は今のうちに政権交代の芽を摘んでしまおうと考えた。

かねてから検察には「調査活動費」という検察の予算の多くを私的に流用して遊興費に使うという“裏ガネづくり”の疑惑が指摘されており、正義感に駆られてこの実態を実名で告発しようとした現職検察幹部の三井環氏がテレビ取材の直前に微罪により緊急逮捕されるという事件すらひき起こしていた。
この緊急逮捕は発生当時、おそらくは三井氏の口封じを目的としたものだろうとささやかれ、緊急逮捕の名目とした罪状もなんと「住民票の不正取得」であった。
このようなことは住宅ローンの手続きの関係で一般的に常態化している事柄であったにもかかわらず、こんな微罪を理由として検察首脳部は三井氏の口封じを目的とした緊急逮捕をおこない、その後すぐに強制的な家宅捜査さえおこなったのである。

政権交代阻止を目的とし検察が仕掛けた西松建設ダミー献金事件の顛末!
images1251さて、このような不正行為に満ちた検察当局が大手マスメディアなどの旧支配勢力と一体となってひき起こしたのが、09年3月の小沢一郎氏の公設秘書の大久保氏逮捕劇である。
その罪状は西松建設からの献金をダミー団体を通して不正受領したというものであり、政治資金収支報告書に記載された「表献金」を問題とする前例のないものとなった。
それまでは政治資金収支報告書に記載のない「裏献金」を立件するのが政治資金をめぐる捜査の慣例であり、収支報告書に記載のある「表献金」を立件することなど一度もなかったのである。

こうして、なんとしても小沢民主党による政権交代を阻止して既得権益を死守したい検察は大久保秘書逮捕を強行したが、肝心の西松建設元幹部が公判でダミー団体の存在を否定したために鳴り物入りで始まった捜査も空振りに終わり、西松裁判も終焉へと向かったのであった。
そして、西松事件は民主党に政権交代させないための政治捜査で背後に麻生政権や大手メディアの支援があったことを見破った国民の手によって09年8月30日の総選挙での政権交代がおこったのであり、皮肉なことに検察が民主党への政権交代劇における最大の功労者となってしまったのである。

だが、政権交代後も小沢一郎の政治生命を絶って既得権益を守りたいとの検察の執念は相変わらずで、小沢を幹事長の座から引きずりおろし、あわよくば議員辞職へと追い込もうとの企ては続いた。

石川議員逮捕によっても小沢一郎を罪に陥れることに失敗した検察の政治捜査!
こうした検察がなりふり構わずに最後の賭けにうってでたのが、元小沢秘書でもあった石川議員をふくむ小沢氏の秘書3人の逮捕である。
逮捕の名目は「政治資金規正法違反」だったが、実質的には政治資金の記載ミスにすぎず、金をごまかしたわけでもなく今年書き込むものが半年間だけずれたということにすぎなかった。
この罰金刑ですむような話を糸口として、検察は「小沢の指示があった、小沢の命令があった」と小沢を共犯者に仕立て上げて、ふたたびその政治生命の抹殺をはかったのである。
しかし、3人の秘書は誰もなにも小沢氏から言われていないので、小沢の「お」の字も出ずに小沢逮捕のくわだてはまたもや不発に終わってしまった。

こうして10億円以上の国民の税金と1年以上の時間をかけておこなった検察の政治捜査は小沢を捕まえることができずに終焉し、結局小沢には法に触れるようなことは何一つ見つからず、最終的に検察は小沢の起訴を見送らざるを得ずに「不起訴」としたのであった。
また、水谷建設から小沢サイドに渡ったとされる「1億円のヤミ献金」も、もともと別次元、別ルートの話を検察が無理やり小沢と結びつけ、そこに脱税容疑で拘留中の水谷建設の元会長が検察のシナリオに話を合わせただけのものであり、それを裏付ける具体的な証拠は何一つあがっていない。

こうして小沢一郎の「政治とカネ」の問題のほとんどが政権交代阻止と小沢排除を目的として、検察と検察のリーク情報を駆使するマスメディアとが一体となって作り上げた“虚構”であり“冤罪”であることが判明しつつある。
そして今、この問題は国民との約束をやぶり、国民を裏切った菅政権によって「国民の生活が第一」とする小沢一郎を政界から排除するためのカードとして使われているのが現状である。

朝鮮王宮の占領が最初の軍事行動であった日清戦争と東学農民戦争の鎮圧

19世紀の後半に朝鮮では農民の苦難が続き、ほとんど毎年いずれかの地方で農民反乱が発生した。
とりわけ1894年(明治27年)の2月に朝鮮半島西南部の全羅道でおこった農民反乱は規模が大きく、朝鮮政府はこの反乱をもっぱら東学教徒があおったものだと決め付けて東学の信者の弾圧を始めた。
そのため農民のリーダーらは各地の東学の指導者にアピールを送って決起をうながし、反乱は農民による大規模な戦争という状態へと発展した。

日清戦争における日本軍の最初の軍事行動とは何であったか!
東学農民軍は鎮圧に向かった政府軍をつぎつぎと打ち破り、ついに5月末には全羅道の軍事・政治の中心都市である全州を占領するところとなったが、全州は朝鮮王朝を打ち立てた李氏の先祖の出身地でもあったため、朝鮮政府はおおいに驚き、それまでのためらいを捨てて清国軍の出兵を要請するにいたった。
日本政府は朝鮮政府が自力で農民反乱を鎮圧できず、援軍を清国に要請したのを朝鮮でことをかまえる絶好の機会ととらえ、清国軍の朝鮮出兵に時を移さずに出兵を強行した。
日本政府は朝鮮で清国軍は必ず日本軍に攻撃を仕掛けてくるだろうから、それを機会に平壌あたりで一戦をまじえ、勝利をおさめて和を講じ、朝鮮を日本の勢力下におこうとくわだてたのである。

images1191だが、日本の意図を察した農民軍が日清両国の干渉を避けるために政府軍と和睦を講じたことで反乱は沈静へとむかっていき、日本軍の上陸した仁川やソウル付近では農民戦争の余波さえない状況であった。
こうして朝鮮政府は日清両軍に撤兵を公式に求めるようになったが、清国との戦争準備をととのえてきた日本政府は、なんとかこの機会に清国の勢力を追い出して朝鮮に地歩を固めようとあらゆる口実を設けて駐留を続け、清国軍を挑発した。

そしていよいよ7月23日の早朝に朝鮮王宮を占領した日本軍が国王を虜にして日本政府への依頼文を強要したのである。
依頼の内容は日本軍が朝鮮政府に代わって清国軍を朝鮮国内から駆逐することであり、これをきっかけに日本軍は清国軍への攻撃を開始、佐世保を出港した日本の連合艦隊も25日には仁川の沖合の豊島で清国艦隊と放火をまじえたのである。
これが日清戦争のはじまりであり、日清戦争で日本軍が最初に武力を行使したのが朝鮮王宮であったことは日清戦争の本質をよく物語っている。

また開戦から九ヵ月後には下関で講和条約が締結され、清国は遼東半島や台湾などを日本に割譲し、二億両(当時の日本の国家予算の三年分余り)もの莫大な賠償金を日本に支払うことなどが決められた。
また遼東半島は三国干渉の結果、清国に返還することとなったが、日本は早くも台湾を植民地として獲得し、清国の影響力を朝鮮から一掃した日本は朝鮮を支配する上で重要な一歩を踏みだすこととなった。

朝鮮の東学農民軍と戦火を交えた日本軍(日清戦争の相手は清国だけではなかった)!
さて、日本軍がソウルの王宮を占領し、国王を事実上のとりこにすることで日清戦争が始まったのであるが、このことは朝鮮人の間にいきどおりを広め、第二次東学農民戦争、秋の蜂起をひきおこした。
そして、春の蜂起が全羅道での「百姓一揆」的な色彩を帯びていたのに比べ、秋の蜂起では反日の旗色を鮮明にした運動が各地で頻発したのである。

また、この蜂起に参加したのは農民にとどまらず、一般民衆や兵士、役人などにも及び、朱子学を教える儒者なども参加して抗日闘争は全国に拡大していった。
さらに軍備を整えていた日本軍は近代的な兵器などほとんど持たない朝鮮人の蜂起など簡単に鎮圧できると考えていたふしがあったが、抗日の動きはあちこちに飛び火し、一方で鎮圧されても他方でまた蜂起が起こるといった状況となった。
また、抗日運動の鎮圧は「朝鮮政府軍と日本軍との共同作戦」といった形式がとられたものの、鎮圧作戦の指揮権は日本軍が完全に掌握しており、日本軍は「東学にたいする措置は厳しく激しいものであることを要する。今後は皆殺しせよ」という基本方針で鎮圧に臨んだ。

imagesCAT510QHこうしてふたたび立ち上がった東学農民軍は日本軍・朝鮮政府軍の連合軍と大激戦をまじえたが、近代兵器で武装した日朝連合軍には力及ばずに打ち破られてしまった。
農民軍の犠牲者は三万人を優に超えたと推定されており、「皆殺し」という日本軍の基本方針によって多数の農民が見せしめのための梟首(さらし首)になったという。

ちなみに司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKの手でドラマ化され、複数年にわたって放映されているが、このドラマの日清戦争をめぐるストーリーには上記のような史実がスッポリと抜け落ちており、軍人秋山兄弟を中心とする英雄物語となっている。
故意かどうかは断定できないが、歴史の描き方としてはきわめて一面的であり、恣意的ですらある。


追伸
故金大中元韓国大統領はかって東学農民戦争を下記のように評価した。
「東学農民革命はこの国の民衆革命の頂点であるとともに、反封建と反帝国主義の先駆け的な運動でした。
東学革命の精神は3・1独立運動と4・19革命(1960年4月19日にソウルでおこなわれた学生と市民の反政府デモ、これを機に独裁者李承晩は大統領を辞任した)、そして光州民主化運動(1980年5月光州市でおきた大規模な反政府運動、80年代の韓国の民主化運動のさきがけとなった)など、この国の自主独立と民主化の歴史に綿々と引き継がれています」
韓国では大統領もこう述べるほど東学農民精神は知れわたっている。

参考 日本と韓国・朝鮮の歴史 中塚明 高文研

筆者が小沢一郎氏をめぐる「政治とカネ」問題に強い胡散臭さを感ずるようになった理由について!

KSD事件の顛末と村上正邦氏が検察にはめられた経過について!
今はもう昔のことになりつつあるが、KSD事件という出来事があったことをご記憶のかたは多いだろう。
KSDとは理事長の古関忠男氏が創設した中小企業の経営者・役員とその家族を対象に福祉共催事業を行う財団法人であり、一時は共催会費などで年間280億円もの巨額を集める事業団体にまで成長していた。
ところが、2000年を境に理事長の古関氏の乱脈経営や政界工作などが表面化し、東京地検特捜部が古関氏を業務上横領や背任などの容疑で逮捕したのである。

images1181また、これと時を同じくして当時、自民党参議院議員会長だった村上正邦氏が01年2月にKSD事件で賄賂を受け取ったと報道され、3月には受託収賄の容疑で逮捕されている。
村上氏の容疑事実は古関氏から「ものつくり大学」構想についてKSDに有利な代表質問をしてほしいとの請託をうけ、その見返りとして現金5000万円を受け取ったというものであった。
だが、この際に検察側が請託の立証のポイントとした古関氏の供述調書なるものは80歳をすぎた古関氏を100日間拘留し、出してやるから検察が書いたシナリオに署名しろと迫った検察のやり方によって作成されたもので、その任意性にきわめて疑わしいものがあった。
事実、後の控訴審で当の古関氏が「検察から村上の逮捕のために協力してくれと頼まれ、弁護士からも協力したほうがよいと言われたので、ウソの供述をした。」と述べている。

こうして検察のシナリオにもとづいた起訴事実によって村上氏は懲役2年2ヶ月の実刑判決を言い渡され、08年には最高裁で村上氏の実刑が確定している。
だが、このKSD事件に絡む村上氏の逮捕と有罪判決の証拠は古関氏による前述の供述調書だけであり、冤罪事件の可能性がきわめて高いものであることは疑えない。
当時、村上氏は自民党の参議院幹事長であり、野党対策などで自民党内での発言力はきわめて高く「参議院のドン」と称されるほどの実力者であったが、首相就任前の小泉純一郎にとっても強い遺恨を抱く政敵でもあった。
こうしてKSD事件を奇貨として政敵を追い落とそうとの小泉の思惑が村上氏の逮捕と有罪判決につながったのである。

小泉政権のもとで「政敵」排除のために多用された「国策捜査」!
imagesCA8BJR3Xまた、鈴木宗男事件もご記憶の方も多いだろうが、この事件も初期のころにマスコミをにぎわしたムネオハウス事件や国後島ディーゼル発電施設事件といった“絵に書いたような贈賄事件”に関しては鈴木氏の回りからは何一つ出てこなかった。
また、最終的に鈴木氏が起訴されたのは斡旋収賄罪などの四つの罪であり、メディアが大々的に報道した事案はそのなかにひとつも含まれておらず、かろうじて立件した事件も無理筋のものが多く、領収書を発行して政治資金収支報告書に記載した地元業者からの政治献金を賄賂と断定してのものであった。
そもそも賄賂であれば領収書をだして政治資金収支報告書に記載ずることなどなく、おまけに鈴木氏の場合には献金を受けた年にそれを返還さえしているのである。

こうして懲役1年5か月の実刑を受けた鈴木氏は冤罪をさけび、自らの身の潔白を主張しながら収監されたのが昨年の12月である。
この事件も当時の小泉政権が「構造改革」を推し進めるために“抵抗勢力”を狙い撃ちする中で、多くの人間が小泉の都合に合わせて検察によって葬り去られていったという流れに位置づければ、もっとも合理的な解釈が可能となる。

小泉の謀略によって政治の世界から葬り去られた事例はこの他にも“秘書給与流用疑惑”で議員辞職を強いられた田中真紀子氏や、日歯連ヤミ献金事件での村岡兼造氏などがあり、特に後者では起訴は免れたものの小泉と総裁選を争った橋本元首相が派閥会長を辞任し、小泉の最大の敵であった自民党橋本派は完全にその力を失ったのである。
このように権力者の政治的な意図によって恣意的に行われる刑事事件の捜査は小泉政権前後から頻繁に行われるようになり、この捜査の手法は俗に「国策捜査」と呼ばれるようになった。

小沢一郎の「政治とカネ」の問題は小泉政権からの「国策捜査」多発の流れの中でおきていること!
さて、このような流れのなかでおこったのが小沢一郎をめぐる「政治とカネ」の問題であり、西松事件によって大久保公設第一秘書が逮捕されたのが総選挙を間近に控えた09年の3月であった。
小泉政権前後から「国策捜査」が頻発する流れの中で考えた場合、これも総選挙を控えたこの時期に、政権交代を阻止する目的で旧政権勢力と検察が野党第一党の党首の政治生命を葬ろうとくわだてた「国策捜査」であったと解釈するのがもっとも自然である。

そして、西松建設が実体のないダミー会社を使って違法な迂回献金をおこなったという疑惑がこの事件の核心であったが、法廷で西松建設の幹部がダミーとされた会社には実体があることを証言し、検察は訴因の変更にまで追い込まれて西松裁判そのものが消えかかっているのが現状である。

参考 平野貞夫 「小沢一郎完全無罪」講談社
「国策捜査」にかんするシンポジウムが07年に開かれています。
(出席者 鈴木宗男氏 村上正邦氏 佐藤優氏など)
http://www.news.janjan.jp/living/0712/0712147269/1.php

こんな“賃下げ社会”であっていいのですか!この日本経済の最大のテーマから見た「公務員攻撃」などの誤謬とイデオロギーぶりについて

管首相が恒例の総理大臣年頭会見で今年の主要な政治課題を三つあげている。
それは(1)平成の開国、(2)消費税増税、(3)小沢排除である。
だが、(1)の平成の開国とはアメリカ政府の言いなりになって環太平洋連携協定(TPP)に参加する決断をすることであり、(2)の消費税増税は言うまでもなく消費税の増税を実現したいということであって、財務省や財界の言い分を丸呑みすることを意味している。
昨年の末に管政権は大企業への法人税減税を決めているが、大企業や大資産家などへの減税のバラマキをやりながら庶民には消費税の増税ではとても認められるものではない。

また、関税を100%撤廃し、徹底した貿易の自由化をおこなうTPPは無関税で自動車や電機製品を輸出できるようになる一部の輸出大企業にとってのメリットはあっても、食糧自給率を13%にまで引き下げ、日本の労働者を移民労働者の増加などで国際的な低賃金競争にまきこんでしまいかねない。
また(3)の小沢排除にいたっては、自らの公約違反の繰り返しで支持率が低下した管首相がその責任を小沢氏になすりつけることで政権浮揚を狙ったものでしかない。

こうして2011年に管内閣が掲げた中心課題が「平成の開国」「消費税」「小沢排除」では国民にとっては浮かぶ瀬のないことは明らかであり、いまは国民の暮らしと生活をどうするのかという問題を最重点にして政治は取り組むべきだ。

国民の暮らしと生活にとっても日本経済の再生にとっても最大の問題である“賃下げ社会”の問題!
さて、国民の暮らしと生活の問題にとりくむ際に何を中心課題の一つにすべきなのかは、今の日本経済の抱える最大の問題点に焦点をあてればおのずと明らかになる。
それは長年にわたって働くものの賃金が減り続けていることであり、この12年間で年収(平均)61万円が減少しているのである。
だが、その一方で大企業の溜め込み金(内部留保)は直近で244兆円へと積みあがっており、大企業サイドでは「空前の金余り」現象の様相を呈している。
こうして国民の懐は長年にわたって冷えこみ、家計が低迷して内需が伸び悩み続けた結果、日本は「成長の止まった国」となり、こんな“賃下げ社会”でいいのかという声は立場の違いを超えて国民共通の声になりつつある。

昨年の11月に連合の主催で財界のシンクタンクのエコノミストが「来年の春闘は4%の賃上げを目指せ」と題して講演をおこなったという。
そこでエコノミスト氏は「10年以上も賃金が下がり続ける国は先進国のなかでは唯一日本だけであり、その結果は内需の低迷、勤労者の労働意欲の低下など経営側にとってもけっして好ましいものではない。企業は200兆円もの現金を溜め込みながら、成長のための投資や、適切な配分などはすっかり忘れてしまっている」とずばり指摘し、今年の春闘での「経営と労働の真摯な議論」を求めたというのである。

imagesCA8YY4LR財界のシンクタンクでさえ労働組合の集会に出てきて「賃上げ」を訴える状況になっているのであり、もはや大幅な賃上げが働くものの労働条件や生活の改善のみならず、日本経済全体の立て直しのためにも避けて通れない大義ある課題になっていることをこのことは物語っている。
かくして「こんな“賃下げ社会”でいいのか」を国民的なレベルで問題にすべき時期にさしかかっており、正規労働者も非正規労働者も、民間労働者も公務員労働者も、全ての働く国民が連帯して大幅賃上げを目指すたたかいの時期がやってきているのである。
また、賃上げを「政治主導」で政治の責任によって緊急に実現すべきなのである。

「内輪もめ」どころではない国民生活と日本経済の現状、および「公務員攻撃」などの有害性について!
ところで、いま巷間に流布している俗論に「公務員の給料は高く、とうてい働きに見合ったものとは言えないので民間の賃金の水準まで下げるべきだ」というものがある。
これは全国のいたるところに流布している俗論であり、筆者の周囲でもよく聞かれるものであり、一見すると正論であるかのような様相を呈している。

だが、仮に公務員の賃金の大幅引き下げに成功し、その結果浮いた財源で福祉が良くなったとしても、この世間はけっしてそれで終わりにはならない。
間髪をいれずに企業のオーナーたちは「公務員が賃金カットをしたのだから君たちもそれに倣ってくれ」と言い出すに決まっているし、労働者の賃金はさらに買い叩かれていっそうの低賃金社会へとすすんでいくことは必至である。

さて、我々の間には対立の要素となるべき芽はいたるところに見られる。
企業の内部でも「正社員と臨時職員」「男性社員と女性社員」「管理職と一般職員」など探せばいくらでも見つかる。
また、企業の外でも「大企業と下請け」「公務員と民間労働者」「団塊の世代と若者層」などたくさんあり、それらが皆反目しあって対立していては責任者に矛先が向くことなどない。
本当の喧嘩の相手が定まらない時に発生するのが「内輪もめ」であり、「内輪もめ」の要因は企業の内外を問わずいたるところに存在している。
だが、お互いに対立を細分化させていがみ合っているだけでは何の改善もなく、マスメディアと「本当の喧嘩の相手」(大企業など)を面白がらせるだけだ。

今は公務員労働者も民間労働者も、正規労働者も非正規労働者も、団塊の世代も若年労働者もすべての働く国民が連帯して大幅賃上げを目指すたたかいを発展させるときである。
そして、「公務員は働きのわりには給料が高く、民間賃金のレベルに引き下げるべきだ」などという俗論は日本経済が当面している「異常な賃下げ社会」の克服というマクロ経済的な問題点からみれば、誤った考えであり、有害なだけのイデオロギー的な主張でしかない。
今は国民全てが力を合わせて非正規労働者の正社員化を実現すべきであり、最低賃金の抜本的な改善と雇用の7割を抱える中小零細企業への本格的な支援で大企業労働者との賃金格差をなくしていくことにその努力を集中すべき時である。
分割して支配せよ」は古代の昔から統治者たちの用いた常套手段であることを思い出すべきだ。

日中戦争とアジア太平洋戦争とのつながりと「真珠湾攻撃陰謀説」について

盧溝橋事件に端を発した日中戦争で日本軍は中国の首都南京をはじめ各地の都市を占領し、中国人口5億人のうち2億人以上が住む地域を占領下においた。
だが、それでも中国の戦争意志を喪失させることはできず、さらに中国国民の民族意識と抗日思想は戦争を続けるなかでいっそう高まり、国民政府も内部に動揺を抱えていたにせよ、最後の勝利を信じて抗戦意欲を強めていった。

一方、日本側は逆に勝利の可能性を信じられなくなって戦争意欲を次第に失っていき、とくに1939年(昭和14年)以降は軍事作戦によって中国を屈服させる見込みが立たなくなり、戦争の負担を軽減するために中国戦線の兵力を漸減する方針さえ取るようになっていった。
これは軍事的に相手を屈服させることを断念し、自主的な占領地域の縮小と兵力の削減をはかることで戦争の勝利をあきらめたことを意味した。

ヒトラードイツと手を結ぶことで日中戦争の閉塞状況の打開をはかろうとした日本政府と軍部指導部(日独伊三国軍事同盟の締結)!
untitled1061さて、日中戦争において日本の政府や軍指導部が自力勝利の可能性を見失ったことは、この問題の解決を国際情勢の転機のなかに求めようという他力依存の機運を強く醸成した。
そうした中に飛び込んできたのがヨーロッパ戦線でのドイツの電撃的勝利である。
1939年9月のヒトラードイツによるポーランドへの侵攻ではじまったヨーロッパの大戦は、翌年の4月にドイツ軍が動きだしたことでオランダやフランスは降伏し、英国もドイツによる猛爆撃を受けるようになった。

東南アジアを植民地とする列強諸国がそろって窮地に立たされるのを見た日本は、この機会に南方(東南アジア)進出の方針を打ち出し、蘭印(オランダ領、現インドネシア)の石油をはじめとした豊かな資源を手に入れ、ドイツと手を結ぶことによって泥沼化した日中戦争の閉塞状況を打開しようと企てたのである。
かくしておこなわれたのが北部仏印(ベトナム北部)への日本軍の進駐であり、日独伊三国軍事同盟の締結であった。

このうち1940年(昭和15年)の9月に締結された日独伊三国軍事同盟は日本・ドイツ・イタリア三国の共通の「敵」として米国を名指したものであり、日本はナチスドイツおよびファッショイタリアとの間で米国を「敵」とした軍事同盟を結ぶことで、対米関係において後戻りのできない地点へと踏み込んでしまった。
また、これをきっかけとして日米関係は急速に悪化していき、米国は中国への支援を強めるとともに、当時の日本の鉄鋼生産の主要原料であった屑鉄と航空機用ガソリンの対日輸出を止めてしまった。

また、米国は国内でも「選抜徴兵法」や米国の安全保障のうえで必要と看做した国に武器を与える「武器貸与法」などを制定し、参戦の態勢を固めながら次第に枢軸国(日独伊)への対決姿勢を鮮明にしていった。
さらに日本の国内では南方の資源を獲得するための東南アジア進出と、そのためには米国との開戦も辞さないとした国家の基本方針(帝国国策要綱)が1941年(昭和16年)7月2日の「御前会議」で決定された。
こうして対米開戦へとすすむ流れは後戻りのきかない決定的なものとなった.

サイゴン(現ホーチミン市)に進駐し東南アジア各地への出撃拠点とした日本軍の南部仏印進駐がもたらしたものとは!
images1062さて、1941年の7月28日に日本軍は先の「帝国国策要綱」にしたがってサイゴン(現ホーチミン市)を中心とする南部仏印(ベトナム南部)への進駐を開始した。
南部仏印は南シナ海をはさんでフィリピンと東西に向き合う位置にあり、そのフィリピンは米国の植民地であった。
また、サイゴンは英国のビルマ・マレー半島支配の拠点であるシンガポールも近く、シンガポールへの爆撃が可能な位置でもあり、また南部仏印は蘭印(オランダ領、現インドネシア)をにらむ扇の要の位置でもあった。

こうして南部仏印進駐は日本軍にとって東南アジア諸地域への出撃拠点の確保となったが、この動きを知った米国は日本への重大な警告を発した。
当時、日米衝突の回避を目的として同年の1月から日米交渉が続いていたが、米国は南部仏印進駐によって日米交渉の基礎が消滅した、つまり交渉はもはや無意味となるという警告を発したのであった。
そして日本の南部仏印進駐を確認した米国はとうとう日本の在米資産の凍結を実施し、ついに8月1日には日本への石油輸出を全面禁止したのである。

こうして石油輸入の7割以上を米国に頼っていた日本の国内では石油備蓄があるうちに相手をたたいてしまおうという「早期開戦論」が海軍を中心に高まっていき、日米開戦はもはや時間の問題となってしまった。
以上が日米開戦へのプロセスのあらましであり、日本政府と軍指導部は日独伊三国軍事同盟の締結によって日米開戦へと続く一本道へと入り込み、南部仏印進駐によって開戦への坂道を急速に滑り落ちていった。

我が田母神俊雄氏の「日本の真珠湾攻撃はルーズベルトの罠だった」は本当か!
ところで日本の真珠湾攻撃はルーズベルト政権の仕掛けた罠に日本がはまったのであり、ルーズベルト政権のなかに入り込んでいた三百人ものコミンテルンの工作員が真珠湾攻撃へと日本を引きずり込んだという「真珠湾攻撃陰謀説」なるものが古くから存在する。
この「真珠湾攻撃陰謀説」によればルーズベルト政権に入り込んだコミンテルンの工作員のトップがハリー・ホワイトという財務省高官であり、この男が日本への最後通牒ともいわれる「ハル・ノート」を書いたというのである。

そして、我が愛すべき元航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏もその論文「日本は侵略国家であったか」のなかでこの「陰謀説」をまことしやかに主張している。
だが、陰謀説で解明できるほど歴史は単純なものではなく、我々が直面している日々の政治・社会の動きも、いろいろな要素が複雑に絡みあいながらダイナミックに展開することはリアルタイムで我々自身が経験していることでもある。
また、日米開戦をめぐる諸事実とそれにいたるプロセスの中にはコミンテルンの陰謀がめぐらされる必要も余地もない。
田母神論文の虚偽はこの問題にあっても議論の余地さえない。

参考 近代日本の戦争 梅田正巳 高文研

第一次大戦での中国出兵(山東への出兵)と「21か条要求」による略奪行為について

image10311914年(大正3年)6月28日、ボスニアでおこなわれたオーストリアハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)の陸軍大演習を視察するために同帝国の皇太子夫婦がこの地を訪れた。
だが、狂信的なセルビア人民族主義者のテロ行為によって皇太子夫婦はボスニアの地で暗殺されてしまった。

このため一ヵ月後の7月28日にはハプスブルグ帝国はセルビア王国に宣戦を通告したが、セルビアの背後には同じスラブ人の大国ロシアがついており、ロシアはまたフランスおよびイギリスと軍事同盟の関係にあった。
また、一方でハプスブルグ帝国も同じ言語を使うドイツ帝国とは40年来の軍事同盟の関係にあり、ここからヨーロッパの帝国主義諸国が真っ二つに分かれて正面からぶつかり合う大戦争(第一次世界大戦)が始まった。

日英同盟を名分とした中国出兵によって横取りした山東省におけるドイツ権益!
さて、イギリスが大戦に参戦した2日後の8月7日に同国から日本にたいし、中国の山東半島の青島を拠点とするドイツ東洋艦隊を撃破してほしいという協力要請がはいった。
当時、日本はイギリスと日英同盟を結んではいたものの、日英同盟にはヨーロッパの戦争に日本が参戦すべき義務があるとは書かれておらず、当時の大隈内閣も「日本は同盟条約によって参戦すべき義務はない」と明言していた。

ところがこの機会にドイツが持っていた山東省の権益をそっくり横取りしてしまおうと考えた日本は、これ幸いとばかり対独参戦に傾き、ドイツの根拠地の東洋からの一掃をはかろうと企てたのである。
だが、それを知ったイギリスは中国をめぐる勢力圏のバランスが日本に大きく傾くことを恐れ、あわてふためいて日本への協力要請を取り消してきた。
さらに中国も大戦からの「局外中立」を宣言し、戦争に巻き込まれるのを防止しようと懸命の外交的努力をおこなっていた。

ところが、こうした動きを察知した日本はいち早く行動をおこし、8月23日に宣戦布告をおこなって山東省におけるドイツの拠点である青島攻撃を開始した。
こうして出兵を強行した日本は膠州湾の租借権をはじめとする山東省でのドイツの権益をそっくり自分のものにしてしまったのである。

袁世凱政府への「21か条要求」によって合法化をくわだてた略奪行為とは!
しかも、山東省は中国の領土でありその一部を租借しようとすれば持主である中国政府の承諾が必要だったが、日本政府はドイツを追っ払った後に我が方がこれを使わせてもらうのは当然とばかりに、一方的な通告でことを済まそうとはかった。
しかし、さすがにこれだけでは国際的には通用しないとみた日本政府は翌年の1915年(大正4年)1月に「21か条要求」を中国の袁世凱政府に突きつけ、その第一号で山東省のドイツ権益は日本が譲り受けることを認めよと迫り、それを受諾させることで前年の略奪行為の「合法化」をおこなったのである。

20100926133127さて、この「21か条要求」にたいし、米国では日本は中国を事実上の属国にしようとしているとの非難の声があがったというが、これはまさに勝手放題に中国をまるごと植民地にしようとしていると看做されてもしかたのない要求をふくんでいた。
そのため中国国内では抗日の世論が沸騰し、さすがの買弁の袁世凱政府も容易には譲歩せずに列強諸国の介入を期待したが、ヨーロッパの激化する戦況への対応に追われた列強諸国にその余裕はなく、譲歩の兆しのない中国に業を煮やした日本は同年の5月7日に若干の修正を施した最終案を突きつけ、回答期限を5月9日とした「最後通牒」を中国側に手渡したのであった。

こうして、武力に訴えるとの日本の脅しに屈服した袁世凱政府はとうとう7日に「最後通牒」を受け取って9日に受諾するが、この後に中国ではこの5月7日と9日を「国辱記念日」とし、毎年「国辱を忘れるな」をスローガンにデモや集会がおこなわれるようになったという。

列強との秘密協定による日本の支配権の拡大および田母神論文の虚構性について!
さて1917年(大正6年)に膠着したヨーロッパの戦局を打開しようとしたドイツは無制限潜水艦作戦の開始を宣言し、無差別攻撃によって一般の商船をも撃沈しはじめた。
そのため連合国は輸送船団の護衛を目的とした駆逐艦の派遣を日本に要請してきたが、広い太平洋での活動を考えて建造された日本の駆逐艦は地中海でその性能を遺憾なく発揮したのである。

こうして駆逐艦派遣と引き換えに日本はイギリスと秘密協定を結び、山東のドイツ権益を日本が引き継ぐことをイギリスに承諾させ、これにならった他の連合国からもイギリスとの秘密協定と同様の保証を得た。
また、これと併せてドイツが広大な太平洋に領有していた赤道以北の島嶼群を獲得した日本は欧米列強が第一次大戦で国力を消耗して戦っている隙に、「漁夫の利」を得て中国や太平洋にその支配権を拡大した。

さて、元航空自衛隊のトップであった田母神俊雄氏は「日本は侵略国家であったか」という懸賞論文で日本の戦争の侵略性を否定し、日本は一貫して「相手国の了承を得」て「軍をすすめた」との歴史観を披瀝している。
だが、第一次大戦時における日本の行動は英国の協力要請をいいことに出兵を強行して中国山東省のドイツの権益を横取りしたものであった。
それは警戒心を抱いた英国の協力依頼の断りを無視したものでもあり、持ち主である中国政府の承諾もない一方的な派兵でもあった。

また、「21か条要求」を中国に突きつけ、武力で脅して受諾させることでドイツ権益の略奪行為を「合法化」さえしているのである。
山東省への出兵もドイツ権益の横取りも中国の「了承を得」てどころか,頭から無視しておこなっており、ここでも史実は田母神氏の主張が偽りであることを立証しているのである。

参考 近代日本の戦争 梅田正巳 高文研
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