第二次大戦後直後、ナチスドイツを軍事的に打ち破ったソ連の勝利により、ソ連の最高指導者であるスターリンの権威と世界の共産主義運動におけるその圧倒的存在感はいやがうえにも増大していった。

この頃、世界の革命運動、共産党の運動にたいする指導権はソ連共産党に属するとするスターリンの覇権主義的戦略は、いかなる自主的な動きも許容せずにソ連への絶対服従の体制を東ヨーロッパで確立したことを柱にヨーロッパ方面でその足場を固めつつあったが、大戦が終わった時点でアジア方面にはソ連はほとんどその足場を持っていなかった。
すなわち、ソ連はアジア方面では東欧のような支配権も、他国の運動に影響を行使できるような従属的な人脈も持っていなかったのである。

そこで、スターリンは中国革命に勝利した中国共産党を引き入れてアジア方面の革命運動、共産党の運動を分担させ、この副官との協力のもとにアジアの共産党への影響力を広げ、自分の覇権主義的な支配の網の目をアジア方面に伸ばしていくという戦略を採用した。

ここに中国にアジアの民族解放運動や共産党の運動の担当はやらせるが、あくまでスターリンが全体の司令官につき、中国共産党をとおしてアジア諸国に武装闘争を呼びかけながら自分の影響力を拡げていくというスターリン覇権主義のアジア戦略が開始されたのである。

それに日本でこたえたのが野坂参三であり、彼は中国共産党の根拠地である延安から戦後日本に帰国する際にスターリンに呼び出され、秘密裏にモスクワを訪問し、そこでソ連の情報機関につながる秘密の工作者になることを誓約して日本に帰ってきたのであった。

ソ連・中国仕込みの武装闘争方針を持ち込んだ徳田・野坂分派
そして1950年1月のいわゆるコミンフォルムによる日本共産党批判をきっかけに、野坂参三は当時の党の代表者であった徳田球一らに働きかけ、党中央のなかに自分たちの仲間だけを秘密裏に集めて分派をつくり、密かにソ連や中国との連絡体制をかためながら非公然体制への準備を始めた。

さらに、彼らは同年の6月にアメリカ占領軍が日本共産党の中央委員全員の公職追放という暴挙をくわえてきた際には、その機会を利用して中央委員会や政治局といった正規の党の機関をいっさい無視して、勝手に自分たちだけで非公然体制に移行したことで、党の分裂という事態さえ生み出す。

また、この直後に徳田と野坂は北京に亡命し、そこで「北京機関」という自分たちの分派の指導機関をつくってソ連・中国仕込みの武装闘争路線の日本国内への持ち込みを始めるが、この「北京機関」の実態はソ連の出先機関であり、スターリン列席のもとにモスクワで「北京機関」のメンバーも加わって会議をやったり、そこで「軍事方針」という名の武装闘争方針の文書を作るとかそういうことをさんざんおこなった。
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「暴力革命」と日本共産党について
日本共産党がコミンフォルムから批判を受け「日本の変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのは間違いだ」とするいわゆる「51年綱領」や、「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を1951年の「第5回全国協議会」で決定し、この方針にもとづいて全国的に騒擾事件などの破壊活動を繰り広げたという反共派の指摘は、他ならないこの時期の徳田・野坂分派による行動や会議のことを指す。

すなわち、反共派がこれこそが日本共産党の暴力的破壊活動だと指摘していることは、スターリンや中国の党の言いなりになって日本共産党を分裂させ、北京に拠点を構えた徳田・野坂分派が党大会の決定にそむいておこなった一連の極左冒険主義(武装闘争方針)による分派活動のことに他ならず、日本共産党の正規の機関(党大会や中央委員会総会など)が武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは一度もない。

また、現在の日本共産党がこの分派の跡継ぎであり、「暴力革命」の方針を持っているかのように言う反共派の主張は党の歴史を無視したものであり、強い表現であるが“いいがかり”であると筆者は理解をしている。
なお、この時期に党の分裂や徳田・野坂の分派活動に反対し、彼らが持ち込んだ武装闘争の方針に真っ向から反対した中心人物は故人となった当時の政治局員の宮本顕治氏に他ならず、干渉による党の分裂の問題に決着をつけて困難な党再建の仕事の中心となったのも宮本氏であった。

徳田・野坂分派による誤った武装闘争の方針は党に深刻な打撃を与え、1949年の総選挙での党への支持298万票が、53年の総選挙では65万票へと激減し、49年総選挙当時は36人を数えた党の衆議院議員も、52年の総選挙では1人もいなくなってしまう。
この間の党の分裂や分派による武装闘争の持ち込みに反対した宮本氏の一連の活動がなければ、日本共産党は国民からの信頼を決定的に失い、党組織は破壊され、反動勢力の弾圧とあいまって政治勢力としては壊滅してしまったかもしれない。

この点でたとえ世間での毀誉褒貶は多くとも、故宮本顕治氏を高く評価すべきであると筆者は考えている。

なお、これらの一連の出来事を「50年問題」という。