光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

戦争犯罪について

南京事件とは(14)

南京事件の犠牲者数について

事件当時の南京で虐殺死体の処理に関わったのは主に二つの組織・集団であった。

一つは当の日本軍であり、日本軍自身が虐殺をおこなった死体の処理をおこなった。
日本軍の死体処理のやり方は非情に乱暴きわまりないものであった。死体を集めて山のように折り重なった状態にしたうえで、薪や燃えるものを無造作にばらまいた。
そしてそのうえからガソリンをかけた後に火をつけて、死体の折り重なった層の中にいる生存者を焼死させてトドメをさすというものであった。
そのうえで鎮火をまって焼け焦げた死体を長江まで運んで言った投棄した。当然ながら長江の水面は大量の焼死体で埋まることとなる。
一つの連隊が二日がかりで約二万人の捕虜・避難民の死体処理をおこなったという例もある。(ちなみに、この例は死体処理に関わった兵士の陣中日記にも記録されたものである)
このように処理された遺体の数については把握が難しい。南京攻略戦に従軍した日本軍の部隊や兵士たちの「戦闘詳報」や「陣中日記」などをひとつひとつ虱つぶしにあたっていくしかないのである。

研究者の中には、南京防衛軍に参加した中国軍の将兵や雑兵・軍夫約十五万人のうち、約八万人前後が捕虜・投降兵・敗残兵などの形で殺されたのではないかと推定する人もいる。

また、虐殺死体の処理に関わったもう一つの組織・集団は民間の慈善団体である。
虐殺後に南京の市街は死体で溢れかえり、交通の妨げになるし、疫病の蔓延の原因にもなった。死体の埋葬は日本軍当局の強い要求により、安全を保障する埋葬従事者の証明書を発給したうえで中国の慈善団体におこなわせた。
南京の慈善団体の崇善堂が1397年の12月26日から翌年5月1日にかけて埋葬した遺体数は南京城内で7549体,城外では10万4718体であり合わせて11万2267体になった。この大規模な死体埋葬に関わる崇善堂の資料は残されている。

また、南京紅卍会という慈善団体は同時期に城内で1793体、城外で4万2230体,合わせて4万4023体の死体を埋葬したという。
南京市内の材木商が路上にさらされる遺体の山を見て哀れに思い、人夫を雇って2万8000体余りの遺体を処理したという事例もあった。
これらの南京の慈善団体などが埋葬した遺体の数は記録によると18万8674体にのぼるという。ただし、遺体の埋め直しなどもありダブってカウントされている部分もある。

これらの事実から推定できるのは南京事件においては十数万人以上,それも二十万人に近いか,あるいはそれ以上の中国側の軍民の犠牲者がでているであろうということである。
南京事件の犠牲者数をより正確に把握するためには、日本軍側の資料の発掘公開がさらにすすみ、それにくわえて中国側の記録調査がもっと進むことを待つしかない。

南京事件とは(13)

日記には彼が安全区国際委員会の委員長として南京に滞在した1937年10月から翌年の3月までの出来事が綴られている。
日記によると、彼は日本兵によるレイプがおこなわれそうだと聞くと早速に駆けつけ、卍の腕章を見せてその“威光”で日本兵たちを蹴散らしたという。
また、日本兵がレイプしかけたところをラーベに見つかり、あわててそそくさと逃げていく様子や、略奪の証拠を消すために連日放火を続け、気まぐれに強姦・殺戮を続ける日本兵の様子などが日記に綴られており、その生々しさと臨場感はすさまじい。
この彼の日記は南京事件の現場を直接目撃した数少ない外国人の書き残したものとして歴史的な事実を証明する第一級の史料としての価値を有するものといえる。
とくに中国には武器と軍事顧問団を送り、また日本とは防共協定を結んだドイツ人による日記だという点では独自の価値を持つ。ちなみに彼の日記は現在では日本語に訳されて、書名「南京の真実」として講談社から出版されている。

南京事件とは(12)

ところで最近になって日本国内の南京事件否定派のなかにティンパリーのこの本の信憑性を頭から否定する議論がではじめていることを指摘したい。
否定派(右派論壇)は南京事件は中国国民政府(蒋介石政権)が国際世論を味方につけるプルパガンダのために作り上げた虚構であり、この事件が国際的に知られるようになった契機であるティンパレーの「戦争とは何か」は国民党国際宣伝部が宣伝文書として書かせたとする。否定派はこのような議論を通してこの本の中身の信頼性をつきくずし、自分たち否定派の主張の正当性を浮びあがらせようとしている。
だが、笠原十九司氏(都留文科大学教授)は、この議論には根拠がなく、実際にはすで書かれていたティンパレーの本の翻訳出版権を国民党が買い取って出版したという経過を最新の資料を基にして明らかにしている。
この事例に見られるように、最近になって右派論壇からの南京事件否定論が横行している状態は目にあまるものを感じるのは私だけではないだろう。この事態は否定派である“靖国派”が権力中枢を担っており、彼らの後押しにより否定論が政治的に流布されているという状況と表裏の関係にあるといってよい。

また、1995年に安全区国際委員会の委員長であったジョン・ラーベの日記が彼の孫の手により日の目を見ることとなったのは記憶に新しい。
それでは、なぜ1995年まで彼の日記が日の目を見なかったのか。
南京から本国に帰国したラーベはヒトラーの力を使って、戦場での日本軍の蛮行をやめさせようとした。そのために南京で目撃した日本軍の蛮行を詳細にしたためたヒトラー宛の上申書を作成したが、このことがかえってナチスの上層部の怒りを買うこととなり彼は処罰されてしまった。
そして、ゲシュタポの手によって南京事件に関しては「いかなる講演も,いかなる書籍も出版してはならない」と口封じをされてしまったのであった。
彼は失意と貧困のうちに1950年にこの世を去ってしまったのであったが、それゆえに彼の日記が日の目を見るのが1995年となってしまったのである。

南京事件とは(11)

しかし、悲しいかな日本大使館は軍にたいしては影響力がほとんどなく、彼らの抗議はほとんど効果がないままに終わってしまった。
さらには、日本のアメリカ大使館にも日本軍の蛮行を訴える文書を送り、アメリカ大使グルーが政府や軍部に圧力をかけてくれるように願ったのであったが、グルーは残念ながら南京における中国人への日本軍の残虐行為を問題にしようとしなかった。
南京は長江を背にしたような位置にあり、渡河手段さえ奪ってしまえば南京から外部への連絡を容易に遮断することが可能な地理的条件にあった。
日本軍はこのような南京を長期にわたって占領し、外部との連絡を遮断したうえで残虐行為をおこなっていたのであり、南京事件はいわば「陸の孤島」のなかでのできごとであったといえよう。
安全区国際委員会の人々はこの「陸の孤島」という「密室状態」で日本軍の蛮行に直面していたのであり、このおぞましき事態を何とか外部の人々、世界中の人々に知らせ国際世論を形成しその圧力をもって蛮行を阻止しようと懸命の努力をおこなった。
また、彼らはアメリカにいる家族や友人にあてた私信の中で自分たちの目撃した日本軍の蛮行を詳細に述べている。これらの手紙は家族からそのコピーが国務省に送られており、今でもワシントンにある米国の国立公文書館に保存されている。
安全区国際委員会のメンバーであり南京の金陵大学の教員であったマイナー・ベイツは密かに上海にいた英国の新聞「マンチェスター・ガーディアン」の特派員ティンパレーと連絡をとることに成功する。そして、ベイツはティンパレーに安全区国際委員会の記録文書や宣教師の手紙や日記類を送り続けることができた。
ティンパレーはこれらの諸資料をもとにして本を編集し、事件の翌年の1938年7月にロンドンとニューヨークで同時に出版した。この本の中身は欧米の人々を驚かせ、南京での大虐殺(南京アトロシティーズ)がいっきょに世界に知れわたるのに大きな役割をはたした。この本が有名な「戦争とは何か−中国における日本軍の暴虐−」であり、戦後にはティンパリー著・訳者不詳「外国人の見た日本軍の暴行」という書名で日本でも一般にでまわるようになった。

南京事件とは(10)

南京安全区国際委員会について

さてこの地獄のような南京の戦場にあって市民を戦火から守るために安全区(難民区)を設置し、難民の保護救済にあたるために“南京国際区安全委員会”を組織した外国人の一団が存在した。
彼らは南京でキリスト教の伝道をおこなっていた人々で大学教師、医師、看護婦、宣教師など職業は様々であったがアメリカ人が中心となっていた。
彼らは日本軍の南京攻略前に身の危険を感じた外国人のほとんどが南京から引き上げたにもかかわらず、戦火から中国の民衆を守ろうという宗教的な信念を持って南京にとどまっていた。

また、当時ドイツのジーメンス社の南京支社支配人であったジョン・ラーベもこの国際区安全委員会に加わった。彼はナチス党の党員でもあったが、「日本の同盟国のドイツ人でありナチスの党員なら日本当局とうまく交渉できるだろう」との理由で安全区国際委員会の委員長に選ばれた。
彼らが南京城内の西北部に設置した南京難民区(安全区)は南京城市の八分の一を占め、その広さは東京の台東区にも匹敵したという。戦火を逃れた南京城内の市民や周辺近郊区の農民などの難民がこの安全区に避難してきていた。最高時には難民数は二十五万人にも達した。また、安全区国際委員会は食べるものをまったく持たない極貧者六万五千人のために二十五の難民キャンプを設置し、食料の無償提供をおこなった。
そのうえで、安全区国際委員会はこれだけ膨大な難民のために集団収容施設の設置、食料の支給、安全確保、病院・医療機関の確保と衛生設備の設置、安全の確保等を執行する体制を組織したのである。
これを可能にしたのは、アメリカ人宣教師や教授たちが頻発する中国の大洪水や飢饉のたびに発生する難民の救済に従事してきており、中国人の組織と指導に熟達していたからだった。
また、彼ら安全区国際委員会のメンバーは南京を占領した日本軍の残虐行為を最小限に食い止めようとして懸命な活動もおこなった。彼らは南京の日本大使館に日本軍の残虐行為の数々を事実にもとづいて文書や口頭をもって告発し、日本大使館を通して憲兵や軍上層機関にはたらきかけてこれらの残虐行為をやめさせようと懸命の努力をおこなった。

南京事件とは(9)

さて、12月14日には日本国内において南京陥落を祝う大々的な行事や活動が政府・官庁はたまたジャーナリズム入り乱れて華々しく展開された。南京陥落を待ちかねたように東京ではこの日の夜に市民四十万人による祝賀の大提灯行列がおこなわれ、広い皇居周辺は大群衆で埋まった。
そして昭和天皇より南京占領を喜ぶ「御言葉」が現地軍司令官の松井石根大将に「下賜」された。
ここにおいて、さらなる功名心にかられた松井大将は南京への入場式をおこなうことを決意する。入場式をおこなえばこれに日本の朝野の注目が集まり、その先頭に立つ自分の武勲をさらに輝かすこととなると考えた松井大将は17日に南京入場式を敢行することを命じた。

また、入場式には現地軍司令部の一員である皇族の朝香宮鳩彦王中将が参加する。
−天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に万が一のことがあったら取り返しのつかない事態となってしまうだろう。そのためには入場式の当日に式場はもちろんのこと、南京の城内や城外であっても敗残兵や便衣兵などのゲリラ活動があってはならない。−

このように考えた松井大将は展開中の「残的掃討」作戦をさらに徹底しなければならないとして、14日から17日にかけて全軍あげてのより大規模な「残的掃討・殲滅」作戦を命じた。
このために14日から17日にかけては南京城内や城外はもとより近郊の広大な農村区域にかけて徹底した掃討作戦が展開された。

南京事件とは(8)

ところで武器を捨て戦意を喪失した敵兵にたいして戦時国際法はどのような処置を各国軍隊に命じているのだろうか。
ハーグ陸戦条約という戦時国際法の23条に戦闘中における敵兵への禁じ手がいくつか決められているが、そのなかに「兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」と明文をもって投降兵や敗残兵・捕虜の殺傷を禁じている条項がある。
敗残兵や投降兵・捕虜であろうとも中国兵であったもの、ないしはそのように疑われるものはすべて皆殺しにせよという日本軍の「残的掃討」はあきらかに戦時国際法を無視したものであり、ましてや南京攻防戦という戦闘が終結した段階でのそれは行き過ぎたものであった。
この敗残兵にたいする「残的掃討」という名の皆殺しの魔手は、長江渡河という絶望的な脱出方法を試み、大量の水死者をだしていた下関埠頭を中心にしたウンカのごとき数万人の軍民の群れにも襲いかかる。
本来は戦時国際法にもとづいて彼らに投降を勧告し、そのうえで捕虜として処遇せねばならないところであったが、日本軍がおこなったことは皆殺しであった。
この大量の軍民の群れにおそいかかったのは日本軍第十六師団である。彼らは装甲車を動員して軍民の大群への機銃掃射を開始した。また、この攻撃に耐えられずに長江に飛び込み、流れに浮遊する敗残兵や避難民はさかのぼってきた海軍の艦隊によって殺戮された。
様々な器材に乗り、あるいはつかまり長江の流れに漂う中国軍の将兵たちは日本軍の機銃の餌食となっていった。また、軍艦にぶつけられ漂流道具もろともにひっくり返され溺死した人もたくさんいた。軍艦上の日本兵たちは漂流する中国将兵たちを殺戮しては拍手し喜ぶ姿もあったという。長江の水は血に染まり、無残な屍体であふれかえりこの世のものとは思えない凄惨な光景となった。・・・・・・

ちなみにこの時に第十六師団の装甲車の撃ち尽くした弾丸は一万五千発に登り、海軍の殺戮とあわせると推定で一万五千人前後の軍民が殺戮されたという。
また、夜になっても闇にまぎれながら対岸へ向かって逃げていく敗残兵を海軍の軍艦がサーチライトで照らして機銃の餌食にしたという。・・・・

南京事件とは(7)

「残敵掃討」という名の大虐殺のはじまり

なだれを打って下関へと敗走をした中国兵の大群のなかには、行く手を長江にはばまれたために再び城内に戻ってくるものがあった。
しかし、背後からは日本軍が迫っており、もはやこのままでは袋のねずみも同然であった。
そこで、彼らに残された生き残りのための唯一の方法は一つしかなかった。
それは軍服や武器を投げ捨て民間人の服装に着替え兵隊に見せないようにすることである。
大勢の中国兵が軍服を脱ぎはじめ、あるものは商店から服を略奪し、またあるものは銃で脅して住民から服を奪い次々と市街に逃げ込んでいった。
そして兵たちの所持していた大量の小銃や手榴弾,剣などの武器が投げ捨てられ、南京市街の大通りにうず高く積み重なった武器の山が次々とできていく。
日付も変わった13日の深夜には中国軍の組織的抵抗は終わり、とうとう南京城市は陥落し南京は日本軍が占領するところとなった。
南京を占領した日本軍は13日の早朝から「残的掃討」を開始した。日本軍司令部はここでつぎのような恐るべき掃討作戦を兵たちに指示をする。

青壮年はすべて敗残兵または便衣兵とみなし、すべてこれを処分すること。

「便衣」とは中国語で民間人の平服のことを指す。それゆえ「便衣兵」とは軍服ではなく民間人の服装をした「私服兵」ないしは「ゲリラ兵」のことである。
だが、上海戦においてはおおぜいの住民が国民政府軍を支援して抗日戦に加わり、ゲリラ活動にも参加していたが、ここ南京では住民の抵抗はみられず「ゲリラ兵」の活動は存在していなかったのである。
それゆえ大量の敗残兵が軍服を脱ぎ捨てて市民の中に逃げ込んでいる状況下にあって、この指示は一般の青壮年すべてを敗残兵または便衣兵とみなして皆殺しにせよということを意味した。・・・・

南京事件とは(6)

長江の惨劇

さて、敗走退却する中国兵はすでに指揮系統が切断された状態であり、もはや軍隊の体をなしていない烏合の衆と化していた。彼らはパニックをおこしながら南京城市の北を目指して逃げていく。なぜならば、もはや城壁はすべて日本軍に囲まれ、アリの這い出るすき間もないほどであり、脱出の唯一の方法は市の北にある長江に面した下関(シャーカン)埠頭に逃れ、そこから船を使って長江を渡河するという水路による方法しかなかったからだ。そこで彼らは下関埠頭へと通ずる挹江門(ゆうこうもん)(下関門)へと殺到した。さらには中国軍が敗走し、日本軍の進撃に直接さらされることとなった住民もパニックに陥る。彼らも敗走する部隊の後を追って南京から脱出をはじめる。
このようにして12日の夕刻には膨大な数の敗走兵たちと、軍隊と一緒に南京を脱出しようとする避難民の群れが挹江門に向かって洪水のごとく押し寄せた。しかし、ここにおいて脱出を試みようとする彼らに最初の悲劇がおこる。
この門の手前で“南京死守”を厳命された中国兵の武装した部隊が退却する兵たちを阻止しようとし立ちはだかっていた。ここで門を突破しようとしてあせる敗走兵の大群と、それを阻止しようとする部隊との間で同士討ちがはじまり、挹江門前でおこなわれた銃撃戦で死体の山が築かれた。・・・・・
しかし、夜の9時ごろには敗走する大群の手によって門の強行突破がはかられ、この死体の山を築く同士討ちも終わり、兵士と避難民の大群が挹江門を脱出した。
だが、下関埠頭にようやくの思いでたどり着いた何万人もの敗走兵と避難民を次のさらなる悲劇がおそった。
なんと長江を渡河するのに必要な船舶が埠頭に一艘も見当たらなかったのであった。彼らより一足先に避難した南京防衛軍司令部によってすべての船舶が撤収されてしまっていた。ここにおいて逃げ場を失った何万人もの軍民の大群集が下関埠頭を中心に数キロに渡って長江沿岸を埋め尽くした。長江を背にして日本軍の進撃に追い込まれてしまった群集はここで絶望的な選択へと追い込まれる。
時はすでに深夜の12時に近く、外気の温度は零度を下まわり長江の流れは凍りつくような冷たさであったが、長江を渡って逃げるより他に日本軍の追撃の魔の手から逃れるすべはないと考えた群集は次から次へと長江の流れに身を投じはじめた。・・・・・

南京事件について(5)

さて進撃する二十万の日本軍は12月8日に南京城市の包囲を完成した。これをむかえる国民政府の南京防衛軍は前線部隊や雑兵・軍夫などすべてあわせて約十五万を数えた。また空からは海軍航空隊の空襲部隊が激しい攻撃を加え、長江からは軍艦を先頭にした海軍の陸戦隊が両岸を攻撃しながら南京に向かって進撃をした。陸と空、および川からの徹底した包囲殲滅戦が開始されたのである。また、国民政府の指導者蒋介石はすでに6日に空路により南京から脱出しており、彼に続いて南京政府や南京市政府の要人もすべて脱出した。
南京を包囲した日本軍は12月10日の午後にいよいよ南京城市の総攻撃を開始し、12日の深夜にかけて昼夜をわかたない激しい攻防戦が展開された。
12日を迎えるころには戦局は日本軍が圧倒するようになり、劣勢に立たされた南京防衛軍は次第に崩壊へと向かっていく。南京の市街を守っている城壁はあちこちに破壊口ができ、一部の日本軍の部隊は城内に退却する中国軍を追って城壁内にも突入を開始していた。敗走・退却兵があふれ混乱が発生する中で南京防衛軍はまず司令部の幹部が真っ先に撤退を始めてしまった。このために前線の兵士の間には動揺と混乱が広がりパニック的な潰走がはじまったのである。このことが南京防衛軍の崩壊に拍車をかけた。
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