光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

イエスと釈迦

創価学会の信仰とは:続(宗教者の自由とこの世の幸福について)

「人間にたいしてほとけ様が抱いている最大のテーマとは何か」
この問いかけに対して凡夫であり愚者である私など、とうていその正しい答えはわかりようがないし、それは永遠の謎であろう。

だが、「あらゆる人をもれなく救う」ことがほとけ様のお考えになっておられる大きなテーマの一つであることに異論はなかろう。
だが、この場合の“あらゆる人”という範疇のなかには、狭い意味でのホモサピエンスすなわち人間にかぎらず、生きとし生けるものすべてが含まれると考えたほうがほとけ様の本意にかなう自然な解釈ではあるまいか。
ほとけ様はハエや蚊までもが、すべて幸せになってもらいたいとお考えになっておられるし、その目的を達成するための天文学的で気の遠くなるような悠久のシナリオを描いておられる。
このシナリオはぼう大な時間を要するもので、地上のすべての生き物が幸せになるためには数十億年といった時間が最低でも必要になるだろうし、このほとけ様のシナリオを読み解くことは我われ人間には不可能だ。

ほとけ様はすべての病気を地上からなくしたいとお考えになっておられるが、それゆえにこそ、ほとけ様はあなたに病気になりなさいと命ずるのである。
誰かが病気にならないと医者や看護師、薬剤師は生活ができなくなり、彼らが生活できなくなると医学や薬学の発展が止まり、病気を地上からなくそうというほとけ様の救済計画はとん挫してしまうこととなりかねない。
それゆえ、ほとけ様の救済計画においては誰かが病人となることが必要不可欠であり、そのためにあなたに病人の役目が与えられたのである。
だとすれば、ほとけ様はあらゆる人の病気をすべて治されるはずもなく、ほとけ様によって病気を治してもらえる人もいる一方で、あなたはもうしばらく病気を続けてほしいとほとけ様に頼まれる人もいなければならない。

そして、誰の病気を治してくださるかは人間にはわからないことであり、それはほとけ様が決めることなのである。
それゆえ、病気で患う人には、ほとけ様が「あなたは病気に耐える力があるから、しっかりと病人を続けてほしい」と願っておられ、けっしてあなたの性格や行いがほとけ様に嫌われてその報いとして病気を治してもらえないのだと思う必要はない。

また、競争社会における勝ち組や負け組も同じことであり、勝者がいなければ敗者は存在しない。
あなたはほとけ様に嫌われて負け組になったのではなく、むしろほとけ様はあなたを信頼して負け組の役割を与えているのであり、「あなたは負け組になっても幸福に生きる力があるから負け組の役割をしてほしい。つらいだろうが私はあなたを信頼している」とのほとけ様のメッセージをくみ取るべきなのである。
シナリオには善人ばかりではなく悪人も必要であり、金持ちだけではなく貧乏人も必要である。
その他にも病人と医者、犯罪者と警察官、ホームレス等いろいろな配役がなくてはこの世における“芝居”のシナリオは成り立たない。
また、それぞれに割り当てられる配役の価値は世間の物差しで見ると“いい役”と羨ましくなる配役もあれば、誰もなりたがらない“損な役”と忌み嫌われる配役もある。

人生は不公平であり苦しみが多く、不条理でもあり神も仏もあるものかと感じる機会は少なくない。
それはほとけ様の書かれた数十億年以上にわたる世界救済計画というシナリオの全体の意味がわからないから、自分の演じている“損な役”の意味が理解できないということにすぎないし、その意味は人間の理解力と想像をはるかに超えたものである。
ゆえに、我われは世間の物差しにとらわれて配役の価値の有る無しを判定すべきではなく、ほとけ様の物差しによればすべての配役に意義があることを信じ、ほとけ様のシナリオを信じてひたすらほとけ様に頼まれた配役を演じればよいのだ。

そのうちにこの娑婆世界での配役を終えて、ほとけの世界に戻ったときにほとけ様はきっとこのようにあなたを慈悲をもってねぎらうであろう。
「ありがとう。あなたがしっかりとあなたの配役をやってくれたおかげで、私のシナリオどおりにお芝居がすすんで素晴らしいものとなりました。あなたには娑婆世界の物差しでは忌み嫌われる損な役目を与えたが、あなたはそれをきちんとこなしてくれました。お礼を言います」

この世でいい役をもらった人よりも、損な役をもらった人のほうが、ほとけ様のねぎらいと感謝の言葉を多くいただけるだろうし、その喜びも大きいだろう。
きっとほとけの世界においてこそ以下の言葉が実現するであろう。

「貧しい人は幸いである、神の国はあなた方のものである。
今飢えている人々は幸いである、あなた方は満たされる。
今泣いている人は幸いである、あなたがたは笑うようになる。
しかし、富んでいるあなた方は不幸である、あなたがたはもう慰めをうけている。
今満腹している人々、あなたがたは不幸である、あなたがたは餓えるようになる。
今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」
(新約聖書:ルカの福音書6章より)

現世ご利益(金持ちになる、出世する、健康になる、名声を得る等)を超越し、世間(この世)の物差しを乗り越え、神様の物差しやほとけ様の物差しによって自由な心の持ち主となることに宗教者の真の自由があるのではなかろうか。
また、ここに宗教者にとっての真の希望があるのではないだろうか。

創価学会の信仰とは(現世利益と祈り)

創価学会は会員数が公称で827万世帯とされ、戦後の日本社会において最大の宗教団体に成長した。
そもそも、創価学会は初代会長牧口氏が仏法による「人間価値の創造」を目的に昭和5年に日蓮正宗の「講」、すなわち信徒の集まりとして創価教育学会を設立したことがその起源となっている。

“創価”とは「人間価値の創造」の略であるが、牧口氏は元々教員であり創価学会は当初、教員の集まりとして設立された。
しかし、第二次世界大戦がはじまってまもなく牧口氏は警察に検束され獄中死をとげる。
ところで、終戦直後の創価学会の会員数は5000世帯前後であったといわれ、周囲にはそのうちに自然消滅するものとみなされていた。

しかし、1951年(昭和26年)に戸田氏が第二代会長に就任したことが学会の飛躍への転機となった。
戸田氏は現世利益でなおかつお金のかからない宗教を謳い、本尊を拝むとお金は入るし病気も治るので、ひたすらお題目を唱え続けなさいという教えを唱えはじめた。
本尊が信徒の祈りにこたえ“幸福”をもたらすという現世ご利益のこの教えは、戦後の混沌とした世相にマッチして学会の会員数をぐんぐんと伸ばした。
学会が日本最大の宗教団体に成長した最大の理由はここにあり、戦後に創価学会が急成長したポイントがここにある。

第二代会長に就任した戸田氏は当時の世相にマッチしたカリスマ的な指導者であったらしく、自分が死ぬまでに会員75万世帯の達成を宣言し、それが達成できなければ自分の葬式は出すなと公言した。
それが会員の“やる気”をひきだしたらしく、学会は折伏大行進(かなり強引な勧誘運動)を展開した。
折伏大行進を開始した当時の学界の会員数は5万人程度と言われたが、この大勧誘運動をきっかけに飛躍的に会員を増やしていった。

その結果、目標の75万世帯は戸田氏が亡くなる前年の1957年(昭和32年)に達成されたが、このときの学会の勧誘ぶりは凄まじく、一般の人の家に入り神棚を破壊するなどの行き過ぎが全国津々浦々でおこり世間の顰蹙をかうことが多かったらしい。

戸田氏が死去した後、1960年(昭和35年)に池田大作氏が第三代会長に就任した後も学会は会員数を伸ばし続け、1960年代後半(昭和40年代)には会員数が500万世帯を突破し、その後も増え続けながら現在にいたっている。

さて、本尊を拝むとお金も入るし、病気も治るという学会の“教え”は、いわば学会のセールスポイントであり、拝むと“現世でのご利益”があるということが最大の売りである。
ところで、「自分の願い事をかなえてもらうために熱心に祈る(拝む)こと」が本当に“ほとけの教え” にかなったことなのかを、私見ではあるが簡単に分析してみたいと思う。

願い事をするために拝むことは、言ってみればほとけ様に請求書をつきつけることであり、“請求書の祈り”であることにその本質がある。
請求書の祈りには祈っている人間のエゴイズムが隠れており、自分さえよければ良い、他人は二の次であるという思いが根底に存在する。

自分が大学に合格できるように拝むことは誰かがその代わりに落ちること意味する。
自分が大学に合格したいという願いにほとけ様は「よしわかった。お前を合格させてやる。そして、お前の代わりに誰かをお前のために落としてやろう」と応えるだろうか。
そのようなほとけ様は拝んでいる本人にとっては都合のいいほとけ様であっても、落とされる立場の人間にしてみれば悪魔的な存在になってしまうだろう。
また、そのようなほとけ様は別の人間が拝んでその人のほうが気に入ったならば、あなたを落として別の人間を合格させてしまうだろう。
自分の願い事を叶えてもらうために拝むことは、お互いに他人の不幸を願いあうことにほかならずこれが“請求書の祈り”の本質であろう。

それでは、病気を治してもらうために祈ることは誰にも迷惑がかからず、自分の病気を治すために他人が病気になることを願うものではない。
それゆえに、病気が治るように祈ることはエゴイズムではないという論理も成り立たないことはない。
だが、病気があるからこそ医者や薬屋が存在し、病人のおかげで彼らが生きていけるのだと考えれば、病気を治してもらうための祈りも病気がなくなれば医者や薬屋が困るという意味では、これもやっぱり自分中心の祈りの一種ではある。

ほとけ様は願い事をする人間にたいしてこのように言うのではあるまいか。
「あなたの願いが叶えられるものならば、特別に祈らなくても叶えられよう。また、叶えられぬものであれば仏の力をもってしてもどうにもならない。
私の願いは生きとし生けるものすべてを平等に幸せにすることであり、あなたの願い事ばかりを叶えることは依怙贔屓である。そんな依怙贔屓な願い事を聞き届けるわけにはいかない。
また、私はすべての人間をわが子のように思っている。それゆえ、あなたの願い事が叶わないのは深い理由がある。たとえば、幼児が毒と知らずに食べたがっているものを親が奪い取り、それを恨んで幼児が泣いたとしよう。
その時は、不満に思ってもそれは幼児の命を救うための最善の行為である。それゆえ、仏を恨んではいけない」

ほとけ様を信ずるとは、ほとけ様を信頼しおまかせすることであり、たとえ自分の望んだようにならなくても出てきた結果が最善であり最高のものと思うことに他ならない。
たとえ、交通事故にあっても、ほとけ様がわざわざ怪我をさせてくださったと受け取ってほとけ様を信ずるのである。

それゆえ、ほとけ様に対する信心から発する祈りは、良いことや悪いことといった世間の物差しにとらわれた考え方でなしに、すべてを“ありがたいこと”と受け取る祈りとなる。
すべてを「良いことか悪いことかはわかりませんが。ありがたいことです」といって受け取ることにほとけ様にたいする信心があり、このような信心から発する祈りはいわば“領収書の祈り”に他ならず、これは自分中心の願い事の実現をほとけ様にもっぱら求める“請求書の祈り”とは本質的に異なっている。

それゆえ、本尊を拝むとお金も入るし病気も治ると言い、“現世ご利益”を強調する戸田二代目会長以来の創価学会の教えは、ほとけ様の本意であるのかはなはだ疑問に思う次第である。
ましてや、娑婆における選挙においていわゆるフレンド票を増やすことで功徳を積み、それが福につながっていくとの考え方がほとけ様の本意にかなうとは思われない。


岡野市長はみずからを「悪人」であることを自覚すべきです。

「善人なほもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」
このフレーズは有名な悪人正機の考え方を説いたものとして有名であり、浄土真宗の開祖親鸞上人の言葉であるといわれている。

このフレーズの意味は世間の常識とは180度逆説的である。
世間の常識では、このフレーズを善人が極楽浄土に往生であるのは当たり前であり、ふつうは極楽往生できない悪人を救ってくださるという仏の慈悲深さを表現したものと解釈しがちである。
しかし、このフレーズの真意は世間の常識とは異なり、仏の慈悲はむしろ悪人を救うところにあり、善人が救われることもあるかもしれないが、それはまず悪人を救ってからの話であり、善人が救われるのであれば当然に悪人がその前に救われているということを意味するという。

もともとこれは仏教の言葉であり、世間の常識という“物指し”でこのフレーズの意味を解釈してはいけないのである。

ところで、仏教の考え方にはそもそも善人などというものは存在していないのである。
この世間には「悪人」と、自分は善人だと思い込んでいる「偽善者」の2種類の人間が存在するのみと説いている。

それではそもそもからして善人とは何ぞや?

このように正面きって問われると定義が難しいが、仮に他人に迷惑をかけない人が善人だとして、他人に迷惑をかける人が悪人だとしたら、この世に他人に迷惑をかけていない人間は存在していないという現実を見つめるべきなのである。

人は人にとってお互いに迷惑な存在なのであり、迷惑をかけることで人は世間に存在しているといってよい。

会社や役所の中で自分が課長や部長になったことは、そのことで課長や部長になれなかった人たちを生み出しているのであり、その人たちに迷惑をかけているのである。
また、自分が大学の入試に合格したことは、そのときに一人が自分の代わりに間違いなく落ちているのであり、自分が学校の試験でクラスの一番になったことは、クラスの他の人は一番になれないのであり、そのことをとおして自分を除いたクラスの全員に迷惑をかけているのである。

このように考えるていくと世間に善人と呼べる人は存在しないこととなる。
自分は他人に迷惑をかけている悪人だと自覚できた人が「悪人」であり、自分が他人に迷惑をかけている悪人だと自覚できない人が善人ならぬ「偽善者」ということとなり、娑婆にはこの2種類の人間が存在するのみだ。
そして、不幸なことに偽善者は自分が善人だと思い込んでおり、世間の人も善人として認識している場合が多いことが偽善者をいっそう救いがたいものにしているのだ。

仏さまは自分が他人に迷惑をかけている悪人であることを自覚して、“申し訳ない”“すみません”といった気持ちを抱いている人を真っ先に救済しようとなされるのであり、そのことを自覚できない偽善者(善人)の救済は後回しにされるのである。

なにごとも自分が罪深い悪人であることを仏の前で自覚した謙遜な人が救われるのであり、自分の善行や功績を仏の前で主張する高慢な偽善者の救いは後回しとなる。
先にあげた”悪人正機”についてのフレーズの真意はこのことにあるといってよい。

さて、以上の論旨を踏まえたうえで、「銚子市の財政は風前のともし火であり、ここで市立病院を休止させないと銚子市が第二の夕張となってしまう。」と判断し、“不本意”にも市立病院の休止を決断された岡野市長の行いの是非を検討してみよう。

私自身はこの岡野氏の銚子市の財政事情にかんする判断が正しかったとは思っていないが、仮に市長ご自身や市議会の多数派の議員が考えているようにこの判断が正しかったことにしてみる。

それでも、私は銚子市のために一生懸命やっているのであり、私の判断で沈没しかかった銚子市を救ったのであると考えて、自分に正義があることと市長の座にこだわるかぎり、たとえその判断が財政的・政治的な見地から見て正しかったとしても、岡野市長には真の救いはないのである。

市立病院を閉鎖したことでたくさんの“医療難民”出ていることは否定のできない事実である。
岡野市長自身はこの事実を否定しているが、実際は市立病院というかけがいのない医療サービスの場を奪われた患者市民はたくさん存在している。
なかには転院がきっかけとなり病状を悪化させた方や、死期を早めた方も存在する。

そして、入院患者の中には転院先が見つからずに、家族が仕事をやめてまでも在宅で24時間の介護を強いられるケースも存在するのである。

これらの“医療難民”の存在は、転院先のお医者さんに患者さんや家族が気兼ねして表沙汰にしてこなかったという事情があって知られずにきたにすぎない。
岡野市長が自ら下した病院の休止という判断が、たくさんの“医療難民”を生み出して、その人たちの病状を悪化させたり死期を早めたりしているのである。

にもかかわらず岡野市長は医療難民の存在を公式には否定したうえで、自分は銚子市を救ったのだと自分の功績を主張し、自分の“正義”をこれらの人たちに押し付けようとしている。

これでは岡野市長には真の救済はない。

岡野市長は自身の病院休止の判断が財政的・政治的に正しかったとしても、あなたは多くの患者市民に迷惑をかけていることを自覚すべきなのである。

そして、患者の被った迷惑の中には命にかかわるようなケースも少なからずあったのであり、岡野市長はこのことを自覚して自分が「極悪人」であったことを認めるべきなのである。

このようにしてはじめて真の救いの道が開け、また病院閉鎖をめぐってひきおこされている市民との対立や軋轢が収拾に向かうきっかけがつくられはずである。

さて、岡野市長にはこのように「悪人」としての自覚を持っいただけるのなら、市長という公人としての立場ではどのように身を処すべきであろうか。

それは、市民にとってかげないのない医療サービスの提供の場であった市立病院を閉鎖したことの責任をとって、みずから職を速やかに辞すことである。

仮に昨年の病院休止の判断が正しくて、それが銚子市を沈没寸前の状態から救った“勇気ある行動”だとしても、病院休止によって被った患者市民の痛みや苦しみの責任はそれをもってしても贖うことはできないからだ。

そのうえで「病院再開」を新しい市長に託すべきである。
また、岡野市長の市を救った政治判断の正しさは将来において証明され、後の銚子市民から賞賛の誉れを受けるに違いない。

自らの悪政の口実に「ほとけの教え」を悪用しないでください!岡野銚子市長

2月3日の節分の日に立正佼成会銚子教会において恒例の「節分会」が開かれたという。
この行事に銚子市長岡野氏が来賓として招かれ挨拶のスピーチをしたらしい。
ところで、私は地元ローカル誌に掲載されたこのスピーチの中身を一読してあきれてしまった。

「私は仏の教えから病院休止という決断をした。」
「日蓮様の教えに“為政者は迫害に耐えよ”ということがある。」
「住民に対して“もっとも大切なのは自分や家族ではない、国である。”と言っている。
一番大切な民衆の道徳は国を守ること。私は市を守る選択をした。ほとけの力をお借りして本当に正しいことをお伝えして欲しい。」

このような岡野氏の発言の内容は、日蓮や“ほとけ”の教えをねじまげたものであり、自身のおかした市立病院の突然の休止という悪政を“ほとけ”の名を語って正当化しようとする試みに他ならない。
仏教徒ではない私の立場から見ても、“ほとけ”の教えを自らの悪政の合理化に使うことはほとけの教えにたいする冒涜だといっても言い過ぎではない。

ところで、日蓮は「為政者は迫害に耐えよ」などとは言ってはいない。
日蓮はシャカの入滅(死亡のこと)から2000年余が経過した末法の世、鎌倉時代に活動した。
末法は正しい仏の教えが隠れてすたり、果てしない争闘の時代が到来したことを意味する。
そして、このような時代における民衆の苦悩を助けるためには、仏の正しい教えである「法華経」を人々に説き広めることが、唯一の道であると日蓮は唱えたのであった。
しかし、同時に、仏の正しい教えである「法華経」を広め、末法の民の苦悩を助けようとする試みは、必ず謗りと迫害に会うとも述べた。

すなわち、末法の世にあっては偽善と名誉欲・私欲にふける世の輩があふれ、仏の正しき教えを広める仏の使いには、命にかかわるほどの大難が待ち受けており、それを耐え忍ぶ烈々とした覚悟がなければ仏の使いにはなりえないと断じた。
正しくは、日蓮は“為政者”ではなく、正しい教えを広める“仏の使い”(法華経の行者)が迫害されると述べたのである。

日蓮が活動した鎌倉時代初期には大地震などの天災が次々と起こり、民衆の間に飢餓や疫病などが蔓延していたにもかかわらず、時の権力者は民衆の困苦や悲嘆の解決は放置し、政治権力の保持に汲々としていた。
そして、既存の仏教各派は保身のために、このような権力者に追従していたという。(該当する宗派の方には失礼します)

このような背景のもと、日蓮は、愚かな心を改めて、「法華経」の信心にたち、民衆を安んずるために対策を速やかにたて、泰平の世を実現し、民衆の心を安らかにするべく、時の為政者にたいして「立正安国論」という諌めの書を“たたきつけた”のである。
しかし、このことがきっかけとなり、為政者たちの恨みをかった日蓮は、その後に様々な迫害や困難が降りかかることとなる。

このように、鎌倉の時代、末法の世にあって、この世の民衆の苦しみを解決するために、正しい仏の教えを説き広めようとした日蓮をはじめとした仏の使いが迫害されたのであり、迫害を加えたのは為政者たちであったというのが歴史の真実である。
そして、このことは高校の日本史の教科書に記載されるほどの幅広く知られた史実でもある。
岡野氏の日本史理解はお世辞にも正しいものとは言えず、学びなおす必要がある。

ふりかえるに末法の現代にあって、バブル経済がはじけて金融破たんを招き、不況の底知れぬ深まりはとどまるところがなく、為政者は民衆の苦しみを忘れ、数は力なりの論理によって民衆の福利を顧みることがなく、損得を尺度として功利主義のエゴイズムに走り、自己の利益ばかり追求している。
このようななかで、苦しむ民衆のいのちと健康をまもるために、損益だけで判断する金銭的な物指しやそろばん勘定におちいることなく、公的医療の灯を体を張って守りぬくことが、末法の世にあって民衆の苦悩を助け、その安穏を実現するのであり、これが仏の教えにもとづき為政者のなすべきことでないか。

岡野氏は“ほとけ”の教えをねじまげ、自らの悪政の正当化に使うことはただちにやめ、虚心坦懐に仏の真の教えを学ぶべきである。

また、岡野氏は“ほとけ”の名のもとに、民衆の一番大切な道徳は国を守ることであると発言している。
そして、もっとも大切なのは国であり、自分や家族ではないと語り、それゆえ銚子市を守るために病院をたたんだことは、たとえ医療難民が発生しようが正しいことであり、銚子市が残っていれば病院は再開できると語っている。
私は岡野氏のもとでは病院の再開はできないと思うが、そのことはさておき、この岡野氏の一連の発言には、国や市などの“公”の存続のためには、国民や市民はその生活や健康が犠牲になっても、経済的負担が増えても、耐え忍ぶべきであり、苦しみを受任するのは当然であるいう論理が見え隠れする。
“滅私奉公”という、嫌なかっての時代を思い起こさせるニュアンスを強く感ずる論理でもある。

では、この岡野氏の論理は“ほとけ”の心にかなっているのだろうか。だんじて否である。
日蓮は「国の安穏が民の安穏である」というニュアンスのことを言ってはいる。
しかし、これは当時の宗教が現実逃避主義におちいり、人生の苦悩や不安の原因を人間の内面にのみ求め、現実の民衆の苦しみに目をそむけ、ひたすら個々人の内面に沈潜している状況を日蓮が憂えたためである。
日蓮は為政者をはじめとしたこの世の人々が信心を改めて、「法華経」という正しい仏の教えに帰依すれば、あの世の極楽浄土をまたずとも、この世がそのまま「仏の国」となり、苦しむ民衆を一人残らず現世において救済し、安穏と平安の世を実現しえると説いたのである。

すなわち、日蓮は民衆のあまねく救済のためには、この世で、日本というこの国で、「仏の国」を建設しようと提唱したのであり、もっとも大切なのは国であり“公”であって、苦しむ民衆の一人一人ではないと言ったのではけっしてない。
あまねく民衆の救済のためには、正しい仏の教えが広まり、この世の“国”が「仏の国」に変わることが必要であるという救いのあり方にかかわることとして、「国の安穏が民の安穏である」という方便を述べたまでであった。

よく、戦前の国家主義者たちは日蓮を利用し持ち上げたものが多かった。
そして、そのために日蓮の誤ったイメージをつくりあげた。
特に有名なのが、日蓮が蒙古襲来の際に九州に赴いて、愛国の志士となって祈った結果、「神風」が吹いて蒙古の船団が沈没して日本が勝ったという逸話である。
しかし、この逸話は事実に反しており、日蓮は九州になど一度も行ったことがないのである。

そして、日蓮はウルトラナショナリストたちが期待するような考え方の持ち主ではなかった。
むしろ、蒙古の襲来により腐りきった鎌倉幕府は滅びても、それを契機として仏の正しい教えが広がり、この世にあらたな「仏の国」を樹立するきっかけになりえると受け止めたのである。
だが、日蓮は、侵略により犠牲になる人たちの悲しみは重く、蒙古の侵略は断固批判すべきではあることも忘れてはいない。

岡野氏は“ほとけ”の教えを悪用して、“滅私奉公”もどきの論理を展開し、自らの病院閉鎖という悪政を正当化することは謹んでいただくことをお願いしたい。


イエスとシャカの違い(仏教とキリスト教) 4

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シャカと主イエスの違いのひとつとして、シャカは死に、主イエスは今も生きておられるということにあります

あの偉大なシャカにも死ぬ日がやってきました。
シャカはその日に激しい下痢を起こし、食中毒によって死んでしまいました。彼の弟子たちは葬儀をおこない、シャカの遺体を火葬にして、その骨を分け合おうとしました。
ところが、そのとき八つの部族がシャカの骨を要求し、骨の奪い合いがおこりました。この争いは武力抗争にまで発展しましたが、その後、ドローナという人が調停にはいり「争ったりしないで、仲良く分け合おう」といって、シャカの骨は八つの部族に分けられることになりました。
その結果、八箇所に仏舎利塔が建てられ、そこに安置されるようになったのであります。
舎利とは骨のことであり、仏舎利とはシャカの骨という意味であります。仏舎利塔は日本各地にもたくさんありますが、仏教では死者を拝んでいるのであります。

けれども、イエスの場合はそうではありません。弟子たちはイエスの骨を奪い合う必要などなかったのであります。
イエスは復活されたからであります。そして、復活後も40日にわたって弟子たちと共にいて、指導してくださり、そして天に昇っていかれました。イエスは今も生きてはたらいておられます。
初代教会たちのクリスチャンたちがローマ帝国の激しい迫害に対して、いかに勇敢であったかは有名です。
彼らが殉教も恐れずに伝道をすすめることができたのは、イエスが共におられたからであります。あなたもイエスが今も生きておられる事を知ることができるでしょう。

十九世紀末にインド人でサンダー・シングという人がおりました。
彼は小さい頃から霊的に敏感で真の神を求め、七歳のころまでにヒンドゥー教の聖典を全部暗唱するほどであり、十五歳の頃にはイスラム教の聖典コーラン、インドの聖典ウパニシャッド。ヴェーダ、シャーストラ、仏典などをすべて読破していました。彼は死とはなんなのか、来世とは何なのか、永遠の幸福とは何なのか切実に追い求めました。
そして、ヨーガを極め、サマーディ(瞑想三昧)にはいる術も会得し、彼の神にたいする追及は本格的なものになっていきました。
やがてミッション・スクールに入学した彼はキリスト教に触れる機会を得ましたが、シーク教徒だった彼は宣教師に石を投げ、聖書を人々の前で焼き捨てるという暴挙にでました。
ところが、聖書を焼き捨てたことは彼の心を平和にするどころか、不安にさせたのでありました。
そして、その三日後、彼はとうとう朝まで祈り続けても神からの道がしめされなければ、日の出前に鉄道自殺をしようと、死をかけた決断をしたのです。

1904年12月18日の朝の三時から救いの道を示したまえと神に祈りはじめました。
「おお神よ、もしあなたが本当におられるなら、私に正しい道を示してください。私はあなたに対し献身者になりましょう。さもなくば自殺します。」
そして、心の中で「何も啓示がなければ死ねばよい。あの世で神を見いだせるだろう。」とつぶやいたそうです。
しばらく経ち、突如として室内が明るい光に照らされました。光は強まり、光のなかからやがて神々しい人が現われてきました。
シャカかヒンズーの神かと思った彼はその方を礼拝しようとしました。すると次の言葉が稲妻のように彼の心の中に響きわたったのです。

「お前はなぜ私を迫害するのか。私はあなたのために十字架の上で命を捨てたことを思え。」
彼の前に現われたお方は予想していたインドの神仏ではなく、彼が三日前に焼き払ったあの聖書の語る救い主、神の御子イエスキリストであったのです。
その体には二千年前にうけた傷跡がくっきりと残っていたといいます。そして、その御顔には慈愛が満ちていました。
こうして、サンダー・シングは真の神と出会い、真の心の平安と歓喜を見いだしたのです。
そして、この日を機会に彼は主イエスへの献身者となり宣教を始めました。迫害を受けること度々でしたが、彼の宣教で多くの人がキリストを受け入れました。
彼が祈ると癒される病人も続出しました。
主イエスは彼が鉄道自殺を思っていたあの日以来、常に彼と共におりました。
彼は常に主イエスを目の前に見ていたのであります。


レムナント 久保有政氏「キリスト教と仏教」参考

主イエスとシャカの違い(仏教とキリスト教) 3

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仏教とキリスト教において最も際立った違いは子供の死に関することです。じつは、仏教では子供の死は非常に罪深いとされています。仏教には「因果応報」や「自業自得」とも呼ばれる考え方があります。
子供が早く死んでしまうのは自分の前世の「業」があるためだとされます。
「業」というのは人間の行いのことで、未来に善悪の報いを招く原因となるものを言います。仏教では子供が早死にするのは自分の前世の悪行が原因であって、子ども自身の自業自得とされてしまいます。
また、さらには早死にした子は親を悲しみにくれさせたとして新たに悪い業をつむものとなります。

そのようなわけで、仏教では早く死んだ子供ほど罪が深い存在と考えられています。早死にした子供は「三途の川」のほとりにある賽の河原で鬼どもにいじめられているのだそうです。
そして、幼くして死んだ子供ほど鬼どもにいじめられて泣き叫んでいるそうです。
そこで、そういう子供たちを救ってくれるということで登場するのが「お地蔵さん」です。
また最近では「水子地蔵」というものもたくさんあり、胎児や赤ちゃんのときに死んだ子供を持った親たちは「地蔵菩薩」が死んだ子供たちを極楽へ運んでくださると思い、大金をかけて水子供養をしています。
けれども、キリスト教においては地蔵などというものはまったく必要ありませんし、水子供養などももちろんいりません。
キリスト教では仏教とは正反対に、幼くして死んだ子供ほど罪が無く、そのまま天国に入れと考えます。
主イエスはあるとき小さい子供を呼び寄せ、人々の真ん中に立たせて言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。あなた方も悔い改めて、子供のようにならない限り、けっして天の御国に入れません。」

     (マタイによる福音書18章3節)

これは言いかえれば、純真無垢な幼い子供ほど天国に近いものであって、そのまま天国に入れるものであるということです。

主イエスはさらにこうも言われました。
「あなた方は、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられる私の父の御顔をいつも見ているからです。」

(マタイによる福音書18章10節)


幼子担当の天使たちは、その顔をいつも神にむけているというのです!これはその天使たちが幼子の魂を神に結び付けようとしているということにように思えます。
“意識”というものがまだはっきりと形成されていない幼子であっても、“無意識”のうえでは心は神に結びついているのです。
生後九ヶ月で臨死体験をしたある男の子は、自分が臨死状態に入った後に暗いトンネルを抜けてから、明るい光を見たといいます。
そして、その明るい場所に出ると自分は「神様と共に遊んでいた」と語りました。(メルヴィン・モース著「臨死からの帰還」徳間書店)

幼子ほど、自分は神に属するものであるという感覚を持っているようです。
ですから、特に生まれることもなく流産してしまった胎児(水子)などは、死のあとに光の天使に迎えられ、そのまま天国に入ると信じてよいでしょう。
その子たちは賽の河原で鬼どもにいじめられてはいませんし、「地蔵」も必要ありません。

もちろん、子供とのしばしの別れという悲しみがありますが、子供がそのままで天国に入り、神のふところで休んでいるという平安のほうが長い目で見ると大きいでしょう。

さらには、やがて親である自分もこの世の生を終えた後、天国で子供に会えるという大きな希望があります。
(ただし、そのためには両親もイエス様を信ずる必要がありますが!)


*レムナント 久保有政氏の著作を参考

主イエスとシャカの違い(仏教とキリスト教) 2

f21e6e5d.gif主イエスとシャカの大きな違いのひとつは女性に対する考え方にあります。

シャカは当初の頃は、女性の弟子をひとりもつくりませんでした。
しかし、主イエスの場合、主な弟子は男性でありましたが、その周りにはたくさんの女性の弟子たちがいました。
それでは、シャカはなぜ女性の弟子を持たなかったのでしょうか。彼は女性というものをたいへん嫌っていました。そして女性はけっして仏(厳しい修行のすえ真理に目覚めた人)にはなれないと断言しています。
さらに、シャカはまた女性が仏になるためには、一度男性に生まれ変わらなければならないと説きました。男に生まれ変わってはじめて仏になれるとしました。
すなわち、シャカの教えでは女性が女性のままではけっして仏にはなれないのです。このことを仏教では「変成男子」といいます。

すなわち、一度男に生まれ変わる必要があるのです。今では、仏教関係者は女性も仏になれると説くようになりましたが、女性のままで仏になれるとは言いません。
また、シャカの教えには女性が女性としてこの世に生まれた意味や価値および目的というものは見出せません。
たとえ、あなたがいろいろな仏教の経典を読んでも、女性が女性に生まれた意味や価値に関して書かれた言葉をひとつも見出すことはできないでしょう。

だが、今は“瀬戸内寂聴さん”のような女性の修行者もいるではないかといわれる方もおられるでしょうが、しかし、仏教の教理に立つかぎり、たとえ瀬戸内さんでも、その後の輪廻転生で男に生まれ変わらなければ仏になる可能性はありません。
仏教の経典のなかに、ある立派な女性の修行者がいた話がありますが、その経典のなかでも、彼女が仏法を説いている時、シャカや皆の見ている前で男性の生殖器が生じたという話になっています。
つまり仏教の経典では、あくまで女性は男性にならなければ仏にはなれないのです。

いっぽう主イエスのほうは、はじめから女性に対して積極的に伝道されました。しかし、それは当時としては驚くべきことでありました。というのは、当時のユダヤ人の宗教指導者たちは、女性に対してはけっして挨拶はせず、ましてや、女性と話をしているところを誰かに見られでもしたら、彼らの名声の破滅とされていたからであります。

だが、主イエスはそのような当時の宗教指導者たちをしり目に男女のへだてなく伝道をされました。  
それはキリスト教においては、女性も女性のままで、信仰をとおし、神の子(信仰により罪ゆるされ、天国すなわち、神の国を受け継ぐものとされた人)になれるからです。神の子になるのに男も女もありません。
そして、神の御前では男も女も同じ価値を持っており、それぞれに尊い目的と価値を持ってこの世に生まれてきたとされます。
女性には女性に生まれた意味があり、男性には男性に生まれた意味があります。ですから、女性は男性に生まれ変わる必要などありません。

また、仏教の経典には「女は、大便と小便の詰まった汚い容器である。」というようなことが書かれています。
しかし、女がそうなら男もそうだと思うのですが、仏教の経典のなかには男に対してのそのような言葉は決してありません。
女性に対してだけ言われていて、大変失礼な話ではありますが、仏教の経典にはそのような言葉が散りばめられています。

しかし、聖書によれば、男も女も神の御前に同じように醜い罪びとです。
どちらも罪深い存在ではありますが、両者とも信仰によって救われるのであります。

「あなたがたはみな、キリストイエスにある信仰によって、神の子なのである。・・・・もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」


(新約聖書:ガラテア人への手紙3章26節〜28節)

主イエスとシャカの違い(仏教とキリスト教) 1

862292b6.gif主イエスとシャカの教えはさまざまな点で異なっていますが、その大きな違いのひとつは現世にたいする考え方の違いです。

シャカは、この世は生老病死をはじめとする苦しみと悩みで満ちていると考えました。これを四苦といいます。
ほかにも、愛するものと分かれる苦しみ(愛別苦離)、憎いものと出会う苦しみ(怨憎会苦)、求めても得られない苦しみ(求不得苦)、煩悩の苦しみ(五陰盛苦)等々、この世はいろいろな苦しみに満ちています。
生老病死とあわせてこれらを「四苦八苦」といいます。

ある意味ではシャカの言うようにこの世は四苦八苦の世界でしょう。
それではシャカはこの世界に生きる意味があるとか、意義があるとか、価値があるとか語っているでしょうか。また、この世界に目的があるとか語っているでしょうか。
シャカはけっしてそのようなことは語っていません。
ただ、この世にある苦しみから離脱して、解脱することを教えるだけです。
初期の仏典のなかでシャカは「切に世をいとうものとなれ。二度とこの世に戻ってくるな。」と語っています。

仏教の一宗派である浄土宗などでは「厭離穢土・欣求浄土」ということが語られます。「厭離」は、いとい離れること、「穢土」は、けがれたこの世、「欣求」は切に求めることであり、「浄土」は極楽世界を求めることです。
この世は仏教徒にとっては、いとい離れるべきところなのであります。

このように、シャカにとってはこの世は目的や意味を問うことさえ無意味なものでありました。そして苦しみに満ちた世界であり、いとい離れるべきところでありました。

しかし、主イエスは神のひとり子、創造主なる神と一体の方でありながら、今から二千年前に人間の肉体をまとい、神が人となって全人類の救い主(メシア)としてユダヤの地に降誕されました。
シャカはこの世から離れることばかり説いたのにたいし、主イエスは自らこの世に飛び込んでこられました。

それは私たちに神から来る幸福を与えるためでした。
私たちはこの世のものや、物質的なものでは、決して本当の意味の幸福を得ることはできません。
この世のものだけでは、飲んでは渇き、飲んでは渇き、渇いては飲むということの際限のない繰り返しであり、けっして満たされることはありません。
この世の“水”ではけっして私たちは満たされることがないのです。

人はキリストと出会ったときに、心のうちに神からの幸福(生ける水)が川のようになって流れ出ることを感じるでしょう。
この神からの幸福(生ける水)のみが私たちの渇きを本当に満たし、人を永遠の幸福へと導きます。

あなたの人生はどうでしょうか。飲んでは渇き、渇いては飲むということの繰り返しではなかったでしょうか。
あなたがキリストを救い主として心のうちに迎える時に、キリストにある“生ける水”は本当の幸福、すなわち神からの幸福をあなたのうちにもたらします。

真の人生の幸福はこの神からの幸福を得て、神と共に幸福になるところにあります。あなたは神と共に幸福になるためにこの世に生まれました。

イエスは答えて言われた。

「この水を飲むものは誰でも、また渇きます。しかし私が与える水を飲むものは誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

新約聖書:ヨハネの福音書4章13〜14節

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