光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

ポルポト政権をめぐって

ポル・ポト政権の崩壊とベトナムの“侵攻?”,および裁きを免れたポル・ポト

ポト政権の特異なナショナリズムと戦争挑発!
1975年4月、カンボジアで樹立された毛沢東路線盲従のポル・ポト一派による政権(ポルポト政権)は都市住民の農村への強制移住政策などによりカンボジア人民を迫害する一方で、同年の5月にはベトナム領の一部を攻撃するなどベトナムへの国境侵犯を開始した。
そして、このような動向の背景にはポルポト一派の狂信的ナショナリズムがあった。

「人民が一生懸命に働けば国を守るための銃や弾薬がそれだけ多く買える。・・・・・・・・ベトナムはクメール人の領土の併呑者である。・・・・・クメール人民は17世紀までカンボジアの領土であった南ベトナムのメコン・デルタ一帯(カンボジア・クロム)のクメール人の土地を再び解放することを決定した。」

asi1001142255005-n11これは難民の証言によると1978年5月にシェムレアプ州のある村で開かれた政治集会でのポト派幹部の発言として伝えられたものだが、この発言に特徴的なことは「メコン・デルタ奪回」などという空想的なプランを公然と口にするポル・ポト一派のイデオロギーの極端な民族主義的色彩である。

そして、同時にこれは国民を強制労働に駆り立ててダムや水路建設をすすめ、人民が飢餓におちいっても米の輸出をすすめる強引な経済政策と、軍備を増強し、“領土奪回”をめざしてベトナムに軍事的な対決を挑む戦争政策とは表裏一体のものであることを端的に物語るものでもあった。

ポト政権はこのような狂信的なイデオロギーにもとづき、ベトナムという隣国への戦争挑発政策を繰り返し、軍隊がしばしば国境を越えてベトナム領内の村落を襲い住民の虐殺をおこなったが、この挑発政策には古くからの民族感情が利用されていた。

ポト政権の戦争挑発政策の帰結と崩壊!
そして、1977年にはベトナム側の話し合い解決の要請を拒否したポト政権は一方的にベトナムとの国交を断絶し、国境線の全線にわたる侵犯へと戦争政策をエスカレートさせた。
だが、ポト政権の虐殺政策のエスカレートはカンボジア国内に深刻な動揺をもたらし、カンボジア東部では反ポル・ポトの旗を掲げた軍隊の大きな反乱がおこった。

このようななかで、ポト政権の圧制に反対し、その打倒をめざす救国民族統一戦線がベトナムに亡命したカンボジア人を中心に結成され、いっせい蜂起が開始された。
この動きはベトナム侵攻のために国境に結集した7万人のポルポト軍にたいするベトナム軍の自衛反撃とあわせてポル・ポト軍の瓦解を惹き起し、救国戦線が1979年1月7日にプノンペンを制圧したことでポル・ポト政権は崩壊した。

このポト政権の急速な崩壊は同政権による虐殺政策が招いた国民各層の強い反発とあわせて、軍隊のかなりの部分が離反し救国戦線側に結集したことなどによるものとみられている。

さて、ポト政権に対する憎しみが充満するなかで救国戦線はカンボジア人民の支持を得て急速な勝利をおさめることができたが、もぬけの殻となったプノンペンには住民が70人ほどしかおらず、水道や電気もなく、物資もなくて住民は裸足で移動する他はない首都プノンペンには不気味さだけが残っていたという。

ポト政権崩壊時の「ベトナムの侵略」という見方は正しいか!
ところで、ポト政権の崩壊は複雑な様相を呈しており、救国戦線を中心とした人民の決起による内戦と、ポト政権軍による国境侵犯に対するベトナム軍の自衛反撃とそれに続く首都プノンペンへの追撃という二つの戦争が結びついた複雑な状況のもとにあった。

それゆえ、筆者はポト政権崩壊時におけるベトナム軍のカンボジアへの“侵攻”を、巷間よく言われるような「ベトナムの侵略」ととらえる見方には単純に与しがたいものを感ずる。

実際、ベトナムはポト政権崩壊後に成立したヘンサムリン政権と協定を結び、1989年にいたるまでカンボジア国内にベトナム軍を駐留させたが、ポト政権による虐殺や破壊的な政策で200万人以上の人民が殺害され、知識人を中心とした人的なインフラと物質的なインフラとの双方を完全なまでに失ったカンボジアが民族的な再生を果たすには、軍の駐留をはじめとした隣国ベトナムからの支援は不可避のものであっただろう。

保儀者中国と米国およびタイなどの支援により息を吹き返したポル・ポト一派!
ところで、ベトナムの“侵攻”によってカンボジアの人民はポト政権の圧制から解放されたものの、ポル・ポト派は政権崩壊直前にプノンペンから逃走し生き延びてしまった。

そして、同政権の崩壊で彼らの保護者を自認する中国は面目丸つぶれとなって激怒し、プノンペン陥落の一ヶ月後に中越国境を超え軍事行動を開始した。
これが「中越戦争」であり、二週間の激戦のあと所期の目的を達成したとして中国の軍は撤退したが、戦場は死体の山と化し、双方の犠牲者は合わせても数万人に及んだという。

また、長年にわたってベトナムとの民族的な反目をかかえたタイは隣国カンボジアの出来事にベトナムの直接的な「脅威」を感じ、隣国カンボジアが完全にベトナムの影響力のもとに置かれるのを阻止するためにポル・ポト一派支援へと傾いていった。

そして、タイは自らの領内を中国からポト派への武器援助が通過していくことを容認したが、このタイ領内のポル・ポト支援ルートはベトナム戦争中の「ホーチミンルート」にちなんで「小平ルート」とも呼ばれた。

また、米国もベトナムを通して東南アジアでのソ連の影響力が拡大することを恐れた。
それゆえ、米国は中国やタイなどのASEAN諸国と歩調を合わせてポル・ポト一派などによる「民主カンプチア政府」の正当性を支持し、国連のカンボジアの議席を彼らに与える策動を成功させた。

こうして、ポル・ポト一派は息を吹き返し、カンボジア国内には国土を実効支配するヘンサムリン政権と国連の信任を得たポル・ポト一派などによる「民主カンプチア」という“二つの政府”が存在することとなり、両者の間での血で血を洗う内戦が始まることとなった。

また、政治的な力を回復したポル・ポトはベトナムが「カンボジア人全滅作戦」をすすめていると非難し、自らのおこなった粛清と虐殺については「死者は数千人であり、大虐殺はやっていない」としたうえで、こう訴えたという。
「カンボジア国民の絶滅を阻止するため、独立を守るため、国内の幅広い団結を訴えたい」
こうして虐殺者ポル・ポトは大量の国民の死亡についてはベトナム側に責任を転嫁したうえで、侵略者から国を守る愛国者への衣替えにまんまと成功した

かくして虐殺の責任追及はこの後久しく棚上げとなった。
(また、ポルポト本人は裁きを受けることなく1998年に死亡した。)

飢餓や虐殺の恐怖に苛まされたカンボジア国民と「オンカー」による恐怖支配(ポル・ポト政権とは)

1975年の4月17日、カンボジアの首都プノンペンを「解放」した赤色クメールはすべての市民に首都からの退去を命じた。
妊娠中の女性から重病患者にいたるすべてのプノンペン市民200万人が追い立てられ、炎天下に水も食料も与えられず歩かされたことで途中に倒れるものが続出した。

images131研究者の推計によるとこの強制退去だけで10万人の人々が死亡したとされるが、この背景には単に都市に住んでいたという理由だけでプノンペン住民を敵視したポルポト政権の異常な性格があり、都市住民を農村に強制移住させ、「サハコー」と呼ばれるポト政権の“人民公社”に追い込みその支配下に置くことでしか、自らの安全を維持できないと考えたポト政権の病的な“人間不信”がその根源にあったと言われている。

しかも、首都から200万人の住民を強制退去させた後のことなどほとんど考えていなかったという。

カンボジアが「解放」後に直面した食糧問題の解決に失敗したポト政権!

ポト政権は1975年の4月17日のプノンペン「解放」の段階で「解放区」に住んでいた住民を旧人民と呼び、プノンペンをはじめとした都市からの移住者のことを新人民と呼んで明確な階層差別をおこなったが、いかんせんポト政権が「解放」後に直ちに直面した問題は食料問題であった。

なぜなら、内戦中に戦火を逃れた避難民で膨れ上がった首都の住民を養っていたのが米国の食糧援助であり、首都「解放」後にはこの援助が途絶えてしまったからである。

そこで、ポト派はこの食糧問題を無謀な米の増産でいっきょに乗りきろうと企て、大規模な灌漑と開墾によって新たな水田を作り出し、単位あたりの収穫量も飛躍的に向上させることで、米の輸入国に転落していたカンボジアを一気に農業大国に変えようした。

そして、ポト派はそのための労働力を都市から移住させた新人民に求め、プノンペン周辺に分散移動していた数十万人の新人民をさらに穀倉地帯である北西部に強制移動させて開墾作業に動員した。

だが、これがプノンペンからの強制退去につぐ、第二の悲劇の始まりとなった。
強制移住により北西部に人口が集中したため、新たに移住してきた新人民に十分な食料を供給することは到底できずに次第に大規模な飢餓が発生していった
人々は十分な食料も与えられず、奴隷のような労働が課せられたうえに、武器や弾薬を外国から購入するために収穫した米は召し上げられた。

北西部に移住した新人民はその過酷な強制労働と強引な食糧徴発により、そのほとんどが命を落とし、国家によって打ち捨てられていった。
そして、この悲劇は自力での食糧増産にもっぱら頼り、外国からの食料援助を拒絶したポト政権の“自力更生”路線により増幅されていった。

食糧問題の解決の失敗を責任転嫁したポルポト一派と大虐殺の始まり!
こうして膨大な数の新人民が飢餓や病気に苛まされたあげくに、生きる希望を失って次々と大量に死んでいった責任を誰が取るのかという問題が浮かび上がってきた。
だが、カンプチア共産党の最高幹部たち(ポト派)は自らの失敗の責任を棚に上げ、地方の幹部に転嫁したうえで、党の方針に忠実な振りをしながら方針をボイコットする幹部を「スパイ」と決めつける非難キャンペーンを開始した。

そして、党の最高指導者であるポルポトは大号令を発し、党内の“病原菌”を党、軍、人民にいたる隅々まで摘発することを目指して「内部の敵」にたいする宣戦布告をおこなった。
ここに「内部の敵を探せ」という大号令がカンボジア全土に発せられ、これが世界を震撼させた大虐殺の幕開けへとつながっていった。

さて、ここでポト政権下で「内部の敵を探せ」というような命令がどのようにして、隅々の国民にまで伝えられていったのかを簡単に触れる必要があろう。
大虐殺時代の生存者は口をそろえて当時の命令のすべては「オンカー」(カンボジア語で組織)からのものであったと証言する。

だが、それではその「オンカー」なるものが何者なのか、当時にあってそのことは誰にも知らされず、たんに上層部からの命令としてしか知りえなかったところにその命令系統の特徴があった。

そして、もっぱら「オンカー」の命令は上位の行政機関から下のそれへと淡々と伝えられるのみであり、「オンカー」の実体がカンプチア共産党であり、その頂点にはポルポト一派が存在していたことは秘密にされた。
こうして見えない支配者「オンカー」による恐怖支配のシステムがカンボジア国民のうえに君臨した。

このことは同時に、それほどまでにポト派は人民を信頼しようとはせず、猜疑心の塊であったことをも意味する。

また、北朝鮮の金日成などの「カリスマ」とは異なり、カンプチア共産党のトップの党書記であるポルポトの存在は国民にたいして秘密にされ、「国家の顔」までも秘匿した民主カンプチアという国の徹底した秘密主義の異常さは歴史上類例のないものであった。

「オンカー」による恐怖支配を支えた残忍なシステムとは!

ところで、特筆すべきことは見えない支配者「オンカー」による恐怖支配のシステムの根底にはポト政権による一連の破壊的な政策があったことである。

住民の強制移住により住民の一人ひとりを古くからの村落共同体から引き離して住民を絶えず攪拌し、カンボジア人の精神そのものである仏教までも廃止したうえで、サハコー体制に国民をひとり残らず組み込んで、夫から妻を、また親から子を引き離し家族を解体したうえで戸籍も抹殺した。
(また、野良着一枚とスプーン1本以外に“私有財産”は禁止された)

こうして国民一人ひとりが寄るべき共同体や家族が解体され、ばらばらにされたところへ「内部の敵を探せ」という「オンカー」の命令が垂直的な命令系統によって流されていった。

皿を割っただけで、スプーン1本を亡くしただけで、あるいは怠けて牛に餌を十分にやらなかっただけで“敵”とされた哀れな人々はサハコー単位に何百人と殺された。
また、サハコー長に“敵”にたいする処刑の権限が与えられ、今日は誰それを何人殺したと報告すれば上の者からよくやったと賞賛さえされたという。

もし、ある男を殺したいと思ったら、CIAだというか、ベトナムの手先というか、米を盗んだというか、とにかくいずれかの罪名でサハコーの密偵に密告すればよく、罪に問われた人々は“敵”としてどんどん処刑され「集団埋葬地」に葬られ、農村地帯はたちまちにしてキリング・フィールド化していった。
また、“敵”の処刑には証拠も不要であり、ましてや裁判などはけっしておこなわれなかったという。

imagesCAHYGRKX国中が「内部の敵」探しに狂奔したポト政権時代、「オンカー」が「内部の敵」を見つけて密告するように奨励したことで、人々の間に相手を密告しなければ自分が密告されるという恐怖が広がっていき、妻が夫を、また子が親を密告することが当たり前の空気が支配したという。

ここに人々が互いに監視しあう恐怖社会が出来上がり、家族や血縁・村落など寄るべき共同体を喪失した個人は「無力」であると同時に限りなく「残酷」になっていった。

そして、カンボジア国民がこの恐るべき血まみれの呪縛から解放されるには1979年1月のベトナムの“侵攻”を待たねばならなかったのである。

今でも謎に満ちているポルポト政権の大虐殺(カンボジアのジェノサイド)

「1975年の最大の国際的出来事はベトナム人民がアメリカ帝国主義に勝利したことであった。
73年1月のパリ協定成立後、南ベトナムでは米国が必死の軍事的経済的援助を動員して南ベトナムのかいらい政権を支えたが、かいらい政権は軍事的にも劣勢に立たされ、経済も激しいインフレーションに陥り、かいらい政権は人民から孤立した。
この南ベトナムかいらい政権を使った米国の新植民地主義の戦争にたいして、ベトナム労働党はパリ協定を実現し、南北ベトナムの平和的統一を勝ち取るためには革命戦争の継続による南ベトナム解放以外にないことを決定する。

images129ベトナムの革命勢力は75年の春に総攻撃を開始し、同年の4月30日には南ベトナムのサイゴンの大統領官邸にも南ベトナム臨時革命政府の旗がひるがえった。
そして、同日には南ベトナムかいらい政権の最後の大統領ズォン・バン・ミンがラジオ放送を通じて全面降伏を宣言した。・・・・・
これに先立ち4月17日にはカンボジアのロン・ノルかいらい政権が崩壊した。
四半世紀にわたるベトナム侵略戦争はアメリカ帝国主義の完全な敗北で終わった。・・・・・・」
(日本共産党の70年‐下巻P26〜27)

これは「日本共産党の70年」という同党の党史の中でベトナム人民の歴史的勝利を記述した一節の抜粋であり、この後にベトナム侵略に敗北した米国の混迷ぶりと、ベトナム問題が日本の国内政治にもたらした様々な影響などの記述が続くが、カンボジアの「解放勢力」についてはたった一行ほどのコメントしかなく、しかも、この後の1979年の1月のポルポト政権の崩壊にいたるまで、この間に大虐殺が起こっていたのにもかかわらずカンボジアに関する記述は見当たらない。

さて、個人的な回想で恐縮であるが、筆者はベトナム人民の勝利という出来事に感動し、リアルタイムで伝えられる報道すべてに注目し続けたが、当時にあっては、この“輝かしい歴史的勝利”がベトナムの隣国カンボジアにおける「地獄の平和」の始まりであったことをこれっぽっちも想像するさえできなかった。
それはほとんどの人がそうであったように。

赤色クメール(ポルポト派のカンプチア共産党)の異常行為をいち早く伝えたジャーナリスト!(キリング・フィールドの序曲)

だが、カンボジアの「解放勢力」が4月17日にプノンペンに入城して以来、いっさいの情報はシャットアウトされ、鎖国状態となったなかで繰り広げられた異常行為をルポし、いち早く世界に伝えたのがニューヨークタイムズ記者のシドニー・シャンバーグである。

「300万から400万にものぼるカンボジア人が都市から追放され、農村部の奥深くへと徒歩での移動を強いられたのである。「解放勢力」側の説明によると、これは彼らを農民として畑を耕させるためだというのだ。この強制移住には例外は認められず、高齢者も幼い子どもも、けが人も病人もひとり残らず“旅”を強制された。・・・・
images122プノンペンでは200万人の人々がひとまとめになってショックのあまり押し黙ったまま首都から出ていった。・・・・病院にすし詰め状態だった負傷者も、ひとり残らず立ち退かされて、びっこを引きながら、這いずりながら、松葉杖に頼りながら、身内の背に運ばれながら、あるいは病院のベットに乗せられたままで、市内から出ていった。
「解放勢力」側にはほとんど医者はおらず、また薬もなく、命が助かる見込みのない患者も多かった。・・・・

戦闘で鍛え抜かれた兵士たちが登場した。・・・・手投げ弾、ピストル、小銃、ロケット弾などで完全武装した彼らは、直ちにプノンペン市内に展開して、ラウドスピーカーを使ったり武器で威嚇しながら、市民に家を出るように迫った。・・・・・」
シドニー・シャンバーグ「プノンペンの2週間−陥落から脱出まで」
(朝日新聞1975年5月12日朝刊掲載)

このシャンバーグのルポは迫真にあふれており、事実彼は「解放」当時プノンペンに留まり、「解放勢力」による異常行為からの唯一の安全地帯であるフランス大使館に800人の外国人とともに篭城した体験を持っている。
そして二週間の篭城生活の後にタイへと命からがらの脱出に成功しており、このルポは彼のそんな実体験から生まれたという。

また、ポルポト政権による虐殺を描いた映画作品として「キリング・フィールド」は有名だが、これはシャンバーグがプノンペンから脱出した際に残してきた現地人助手のディト・ブランが「小型アウシュビッツ」と呼ばれたポルポト政権のサハコ−(人民公社)で死と隣り合わせの生活を強いられ、そこから脱出した後に白骨の野(フィールド)を踏み迷いながら、カンボジアから逃れ、ふたたびシャンバーグと劇的な再開を果たしたという実話にもとづいた作品である。

この作品は“全土刑務所化”とも言うべき異常なサハコー体制のもとでの家族や村落の強制的な解体による全国民の同質化や、「旧文化に毒された人々」の無差別の大量抹殺など想像を絶したポルポト統治下の恐怖と苦痛の様を描いている。
そして、1975年4月17日のカンボジアのロン・ノルかいらい政権の崩壊と「解放勢力」の勝利がこの「キリング・フィールド」の始まりだったのであり、ポルポト政権によって殺された200万人〜300万人の人々の無念は測り知れない。

発生当時に日本国内ではほとんど黙殺されたカンボジアの大虐殺!
ところで、米国や欧州にあっては権威あるマスメディアがこぞってポルポト政権の大虐殺をリアルタイムで報道し、当時のカーター米国大統領がポルポト政権を「現代最悪の非人道政権」と非難し、米国の有力上院議員らが虐殺からカンボジアの民衆を救済するための国際義勇軍の派遣を提唱していた1970年代後半に、この国では政党もマスコミもほとんどこのような情報に目をふさいでいたという現実がある。

1979年の1月にポルポト政権が崩壊してからようやく、日本国内でこの種の報道が解禁になったが、それまでは日本国内の大新聞を筆頭とするメディアや政党はこの問題ではほとんど沈黙したままであった。
そして、このことが「日本共産党の70年」という同党の党史の中身にも反映しており、ポルポト政権による虐殺政策については膨大な党史の記述の中でも事実上の“空白状態”となっているのが現実である。

また、当時のカンボジア国民の間で支持率が1%にも満たなかった赤色クメール(ポルポト派のカンプチア共産党)が、穏健なシアヌーク支持派を中心とするカンプチア民族統一戦線(解放勢力の正式名称)の内部で人知れずに権力を握っていった経過は謎が多く、確かなことは中国共産党内部の文化大革命推進派による全面的な後押しと支援がなかったらこの事は起こり得なかったという事であろう。

世界第二位の経済大国にのし上がろうとしており、市場経済のもとでの社会主義建設を謳歌する現在の中国共産党がこの歴史上の重大事実に口をつぐんだままでよいはずがない。
いまだに問題の解明と責任の追及がほとんど手付かずの状態にあるのがポルポト政権によるジェノサイド問題である。
最新記事
Profile
西岡三郎
千葉県銚子市に在住
QRコード
QRコード
Recent Comments
「最新トラックバック」は提供を終了しました。
  • ライブドアブログ