光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

野球と戦争

鳩山一郎による「野球統制令」がもたらしたもの!(野球と戦争をめぐって)

戦後に首相として日ソ国交回復や国連加盟を果たした政治家が鳩山一郎であるが、同時に彼は日本の野球の歴史にも大きなかかわりがあることは意外に知られていない。

現在の民主党代表の鳩山由紀夫、および前総務大臣の鳩山邦夫両氏の祖父でもある鳩山一郎は、昭和初期の斉藤実内閣の文部大臣であった1933年(昭和8年)にいわゆる「滝川事件」をひきおこしている。
33年に京都帝国大学法学部教授であった滝川幸辰の著書や発言が「反国家的」であるとして、右翼や国粋主義派の国会議員が攻撃を始めたことがきっかけとなり、鳩山文部大臣が大学側に滝川の罷免を要求した。
この際に京大総長や教授会側は「大学の自治」を理由としてこれを拒んだものの、文部省の介入によって滝川教授の休職処分が強行されたのが「滝川事件」である。

この出来事は戦前の代表的な思想弾圧事件として有名であり、また、この事件をきっかけとして高等教育機関における大学・学生自治が急速に崩壊していく。

鳩山一郎の「野球統制令」による学生野球への迫害
また、「滝川事件」をひきおこした鳩山一郎は前年の32年には「学生野球の健全化」を口実として、すべての教育機関における野球活動を国家の統制のもとにおくことを目的とした「野球統制令」を発令しており、中等野球全国大会の開催や東京六大学野球連盟の許認可権を握った文部省は、中等野球や大学野球における入場料の徴収目的・使途や応援方法などに厳しい規制を敷き始める。

昭和初期に相次いだ「野球統制令」や「滝川事件」の背後には、大正デモクラシー運動によって高まりを見せた大学など高等教育機関における学校・学生自治機運や、学生スポーツが自治精神のもとで運営・開催されることへの軍部や文部官僚らの嫌悪感が存在していた。
神格化された天皇を頂点にして一握りの特権階級が国家機構を握り、彼らに大多数の国民を「滅私奉公」の美名の下に奉仕させる社会システムを作り出すことを目的とした「皇民教育」の推進にとって、大正デモクラシーの自由な思想の影響を受けたスポーツの自主的で自治的な興隆は受け入れがたく目障りなものでしかなかったのである。

鳩山の野球への統制をきっかけとして、野球をはじめとしたスポーツは強健な兵士を作り出すための「軍事教練」と化していき、多くの職業野球(プロ野球)の選手が徴兵されて戦場に散っていくことなる。
とくに大学野球は目の敵にされ、軍部と文部省は大学野球部潰しを狙い、軍部と文部省共催の「大学対抗教練大会」にすべての大学の参加を強要した。

これは重さ7.5キログラムの背のうをかついで40キロを3人1組で往復するといった過酷なものであり、棄権者がでたり成績が悪かった場合には野球部を解散させるという条件が突きつけられていた。
この大会に参加した早稲田野球部は最終走者が落伍者を背負ってゴールし、危うく解散は免れたものの、表彰式のあいさつにたった文部省の担当者は「もしこれが戦場だったらお前たちは全員戦死だ」と、仲間を助けた早稲田野球部員の行為を批判し冷酷な言葉を投げつけている。

そして、東京六大学野球連盟が解散へと追い込まれた43年(昭和18年)には、文科系大学生の徴兵猶予が撤廃され多くの大学生が戦場へと駆り出されていった。
この「学徒出陣」の際に慶応大学野球部が召集された部員への“はなむけ”として早慶戦の開催を当時の小泉信三塾長に直訴し、早稲田野球部の顧問であった飛田穂洲の協力も得て実現した「最後の早慶戦」は戦後になって映画化されるほどの有名な逸話として語り伝えられている。

職業野球(プロ野球)の戦時下での惨状
また、職業野球(プロ野球)も40年(昭和15年)にはタイガースを「阪神軍」に改称したり、「GIANTS」の英文字を「巨」の文字に変更するなど、球団名やユニフォームからの「英語追放」などにより戦争への協力姿勢をアピールし、さらには試合前に手榴弾投げ競争を開催したり、「ストライク」を「よし」、「ボール」を「だめ」とする野球用語の「日本語化」までおこないながら戦時下での生き残りを模索した。

だが、戦局の悪化は多数の選手の入営や招集をもたらし、44年(昭和19年)になると試合開催は週末のみに限られ、平日は選手が「産業戦士」として軍需工場などへ勤労動員されるなど、状況の悪化と選手数の激減は公式戦続行を不可能とし、同年の11月には活動休止へと追い込まれていく。
また、亡命ロシア人であり「無国籍」であった巨人の大エース・スタルヒンは、「敵性外国人」として監視を受け、ついに官憲に強制連行されて終戦にいたるまでの間、軽井沢の外国人収容所に抑留されてしまった。

このように鳩山一郎の「野球統制令」にはじまる野球人への迫害は戦争によってエスカレートし、多くの野球人の輝かしい時期や未来への可能性が失われてしまったのである。
現代における野球競技の繁栄の裏面には迫害や戦争によって野球や人生を奪われた多くの野球人たちの無念の思いがあることを記憶にとどめるべきだ。

images
鳩山一郎

戦前の職業野球(プロ野球)の花形スターであった「タコ足」中河美芳をめぐる悲劇とは!

中河美芳は鳥取一中(現鳥取西高)時代の1934年、36年の夏の甲子園に出場し、37年には関西大学に入学するも、父親を失っていた実家の家計を助けるために同年の夏に中退し、この年に誕生したばかりで後楽園球場を本拠地とするプロ野球(職業野球と呼ばれた)の新球団イーグルス(黒鷲)に身を投じた。

投手として入団した中河は当時の監督に一塁手としての卓越したセンスをも見いだされ、一塁手として4番を打つかたわら、投手としてもプレーするといった大車輪の活躍を見せるが、44年の7月にフィリピンのルソン島沖で中河の乗船した輸送船が米軍の攻撃を受け戦死をとげる。
中河美芳について(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%B3%E7%BE%8E%E8%8A%B3

「タコ足」人気と超スローボールと憲兵隊の迫害
さて、投手としても通算で41勝、打者としても通算打率2割4分2厘、通算本塁打1本にすぎない彼が、後の1986年に特別表彰枠で野球殿堂入りを果たしたのは「空前絶後」と謳われた名一塁手ぶりが評価されてのことである。
イーグルスは37年秋と38年春の3位が最高で、あとは43年に解散するまですべてBクラスの弱小球団であったが、中河はアクロバチックな一塁守備で当時のプロ野球を代表する花形スター選手となっていった。

打球を取った内野手がワンバウンドや山なりの悪送球を投じ、「まずい、いくら彼でもこれは取れん」と思うような送球を、中河一塁手はまるで軟体動物のように両足を広げ、ファーストミットを目いっぱいに伸ばしてボールをハエ取り紙のようにすくい上げた。

特に横へそれた送球には、もうそれ以上開けないと思うほど両足をいっぱいに開き、尻を地面にピタリとつけて捕球するその名人芸には「タコ足」の異名がつき、ファンは内野手が悪送球をして中河が人間離れした捕球をするのを無上の楽しみとしたという。

また、投手としてはスローボールを巧みに操って打者をすいすいとかわし、「打倒沢村」に執念を燃やしたタイガースや巨人軍の強力打線を超スローボールで幻惑した。
今に至るまで投手はバッタバッタと三振を取る剛速球、打者は外野スタンドに飛び込むホームランというのが人気選手の相場であるが、中河は特異なタイプの人気選手であり、空前絶後の花形スターであったといえよう。

だが、プロ野球の花形スターであったことが逆に中河の身に不運を招くこととなる。
中河はプロ入りと同時に徴兵猶予のため大学の夜間部に籍を置くも、大車輪の活躍は彼の体に疲労をもたらし、講義にも欠席がちとなったことが「中河は兵役逃れにために大学に籍だけ置いている非国民だ」と見られて憲兵隊の不興を買った。
当時のプロ野球界では少なくない選手が徴兵猶予のために大学夜間部に籍を置いたが、中河の場合は彼が花形スターであったがゆえに憲兵隊に目をつけられたのである。
そして、監視や尾行が日常化し、下宿にも踏み込まれ、憲兵隊での取り調べも再三にわたって繰り返された。

このような日々の恐怖に耐えられなくなった中河は41年の公式戦終了後に兵役猶予の期間が残されていたにもかかわらず“志願兵”として兵役につくが、「兵役を忌避した非国民」として軍隊内でも私的制裁(リンチ)の対象とされ迫害を受けたという。
また、中河が戦死した直後に故郷の鳥取で葬儀が営まれた際にも憲兵隊が現れ、戦死の公報に記されたた戦没地が祭壇に張り出されていたことに「日本の部隊がどこにいるか分かってしまう」と難癖をつけその紙を破り捨ててしまった。
戦死してもなお、憲兵の目に追われたのが中河美芳である。

野球への執拗な迫害とその背景にあったもの!
この中河美芳のケースに典型的に現れているのが、当時の国家権力やその迎合者からの野球関係者への執拗な圧力や迫害である。
当時、軍部や文部官僚はいかなる国家社会体制であっても、それに忠誠を尽くす国民や兵士を育成する手段として「心身鍛錬」や「精神修養」を重視する武道の効用に目をつけ、軍事教練に利用するための「軍教武道」としてその奨励を盛んにおこなっていたが、すでに野球は当時の国民の心を「魅了」しており、中等野球の甲子園大会や六大学野球など、学生や市民の間では野球人気がいよいよ興隆するばかりであった。

このため軍部権力は、基本的には「遊技」「スポーツ」であり、なおかつ米国型民主主義を象徴する野球をいよいよ「敵性競技」視し、力ずくでバットを銃に、ボールを手榴弾に持ち替えさせるため「野球統制令」を発令し、小学校から大学までのあらゆる学校における野球活動を国家統制のもとに置いた。

このため太平洋戦争の開戦後に中等野球の甲子園大会は中止され、東京六大学野球連盟も解散の憂き目を見たが、敵国アメリカの国技であるとはいえ、戦時下における野球への迫害ぶりが尋常なものではなかったことの背景にはこのような歴史的・社会的な経緯があったのである。

今、中学校の保健体育授業で柔剣道など武道の必修化を2年後に実施しようとしているが、「軍事教練」の一手段として軍部権力に利用された戦前の「国家武道」への回帰に思えてならないし、その背景には武道を安倍内閣の時代に改悪された教育基本法の狙う「愛国心」教育に利用しようとの思惑が見え隠れしてならない。

中河美芳の現役時代の勇姿
images
最新記事
Profile
西岡三郎
千葉県銚子市に在住
QRコード
QRコード
Recent Comments
Recent TrackBacks
  • ライブドアブログ