光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

歴史認識

「国のために命を落とした英霊に尊崇の念を表すのは当たり前」という論理について、および靖国神社付属軍事博物館「遊就館」について!

 国会答弁で安倍首相が「国のために命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ。わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」と発言しました。さらに野党に対して「(外国からの)批判に痛痒を感じず、おかしいと思わない方がおかしい」と反撃したといいます。
だが、日本の過去の戦争の歴史は領土拡張と他国支配の企ての歴史です。日本による朝鮮半島の植民地化は侵略そのものであり、1931年の「満州事変」に始まる中国に対する戦争も広大な中国大陸を支配下に置こうとしておこなわれたものにほかなりません。また、アジア太平洋戦争も日本が勝手に「生存圏」と線引きした地域に侵略をおこなったものです。
この日本の侵略と植民地支配によって被害を受けた国々が、日本の過去の戦争を「正義」とする靖国神社への閣僚参拝に抗議しているときに、それを「脅かし」に屈しないと開き直ることは歴史をさかさまに描こうとする権力者の意図を如実に表しています。
安部首相の言う「村山談話」の見直しはこのような方向でおこなわれるのでしょうか。これで国際社会に通用するのでしょうか。
まるでベルサイユ体制の打破を叫び、ドイツの再軍備に驀進したヒトラーのカリカチュアを見るようです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130424/plc13042414280009-n1.htm

理不尽な死を強要した「戦陣訓」と「英霊」について!
「国のために命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ」これは昔から靖国神社への公式参拝を推進しようとする人々の決まり文句です。
だが先の戦争で犠牲になった方々は真の意味で「国のためにたたかいなくなった」方たちでしょうか。先の戦争で日本の兵士たちに押し付けられたものに「戦陣訓」がありますが、これには「生きて虜囚の辱めを受けず」との命令が含まれていました。これで死ぬ必然性のない多くの兵士たちが死に追いやられたのです。
太平洋の戦線では武器が尽きると「万歳」突撃による理不尽な死が強制され、補給がなく支援が断たれた兵士たちは逃げまどうジャングルの中でほとんどが餓死しました。これは当時の日本国家によって強要された死であり、一人ひとりが自発的に国のために戦って亡くなったものでは決してありません。「戦陣訓」がなければ多くの兵士たちのいのちが救われていたのです。
愚かな指導者たちによってひきおこされた無謀な戦争により、理不尽な死を強要された人々を「英霊」と呼ぶことは、戦争へのまっとうな批判を「死者への冒涜」にすり替える侵略戦争批判回避ツールです。

戦死者を美化、アジアの犠牲は無視の靖国付属軍事博物館「遊就館」!
アジア太平洋戦争で戦争に駆り出された日本軍兵士たちは無謀な戦闘と飢えで次々と命を落としました。だが靖国神社付属の軍事博物館「遊就館」の展示は戦死者を徹頭徹尾、美化するものとなっています。
例えば無謀な戦闘で理不尽な死を強要された人々を「英霊」、非人道的な「万歳突撃」で全滅を強いられた人たちを「玉砕」などと描きだすのです。
また日本の侵略で2000万人以上のアジアの人々が犠牲となり、各地で日本軍の暴虐が横行しましたが、この史実については一言も触れません。
そればかりか「アジア民族の独立が現実になったのは大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。…日本が敗れても…独立戦争を経て民族国家が次々と誕生した」と、アジア諸国の独立はあたかも日本の戦争のおかげであったかのように歴史を逆さまに描いています。
史実は日本が勝手に「生存圏」と線引きした地域に対する領土拡張の戦争であったのです。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-06-15/26_01_0.html

「英霊」たちの半数が広い意味で餓死を強いられた戦場の実態と戦没者追悼式に感ずる違和感について

◎「英霊」たちの6割が餓死した旧日本軍による無謀な「作戦計画」(”戦没者”の実相について)
他国の人民の生命、人権を蹂躙する日本軍は自国の将兵に対しても過酷でした。日本軍の指導部は補給を無視した無謀な作戦をガダルカナル、ニューギニア、インパール、フィリピン、中国など全戦場にわたって展開しました。
その結果、補給の途絶による戦地栄養失調症が常態化し、マラリヤや赤痢などによる病死(栄養失調による事実上の餓死)が日本軍将兵の間に大量に発生したのです。
日中戦争以降の戦死者230万人のうち、その6割が広義の意味の餓死者であったとする識者もいます。(藤原彰氏「餓死した英霊たち」より)
また、輸送船などの沈没によって海の藻屑となった軍人・軍属などは40万人にものぼっており、海上警護の軽視や貨物船に多数の兵士を詰め込んだことがこの悲劇を引き起こしました。

さらに日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」と徹底的に教育され、降伏して敵の捕虜になることは許されませんでした。このため圧倒的な火力の差や弾薬の欠乏、絶望的な飢餓状況でも兵士は死ぬまで戦いを強要されました。(いわゆる「玉砕」)
自国の将兵の人命をこれほど軽視した戦争は歴史上に例がありません。
戦没者追悼の式典が8月15日に全国で行われますが、これが戦没者の実相にほかなりません。

◎毎年の戦没者追悼式に感ずる違和感と「先人の尊い犠牲」とはなにか!
毎年、8月15日には政府主催の戦没者追悼式が行われます。今年も日本武道館で行われましたが、私はこれにたいし毎回のように強い違和感を抱き続けてきました。
天皇を頂点とする天皇制軍国主義が日中戦争およびアジア太平洋戦争へと突き進んだのが史実です。
ところが、いくら当事者の先代天皇ではないにしろ、壇上の天皇に向かって君が代を斉唱し、天皇皇后が標柱に頭を下げて述べる「お言葉」をありがたく頂戴するのがこの「戦没者追悼式」の中身にほかならないのです。
こんな「追悼式」でどうして8月15日を日本国民が”非戦”を誓う日とすることができるのでしょうか。

また必ず繰り返される決まり文句が「今日の繁栄は先人の尊い犠牲に上にある」という言葉です。しかしどこに「尊い犠牲」があるのでしょう。
自国民の自由や人権を圧政で踏みにじり、近隣諸国を蹂躙し、負けが分かっても国体を護持するために若者を戦場に駆り立てて特攻死を強要したのです。これは「尊い犠牲」などでは決してなく、国家による「強要死」以外の何者でもないでしょう。
戦争は地震や津波のような天災ではありません。戦争は人間が起こすものであり、社会的な原因があって人間(特定の集団や階層)が起こすのです。
その点を追求することなく「もう戦争はいやだ。コリゴリだ」と差し障りのない言葉を繰り返してきたのが日本の8月15日の歴史であり、ドイツとの決定的な違いがここにあるのです。
もういい加減にこんなことはやめてもらいたいと思っています。
image815

河村たかし名古屋市長による「南京大虐殺」は無かった発言をめぐって!(物証で判断すれば虐殺行為があったという認識になること)

2月20日に河村名古屋市長が「南京大虐殺はなかった」発言をして、それが大きな波紋を巻き起こしましたが、そこへ東京都の石原知事が割り込み「河村君の言うことは正しい」と、河村名古屋市長の発言を全面的に擁護する見解を表明しました。
石原氏は「津波は天罰」発言や「第三国人」発言などに代表される一連の差別発言で多くの市民や都民の批判を浴びてきています。(本人には「蛙の面に水」ですが)

今回も石原氏は日中戦争中の1937年12月から翌年の2月までに、当時の中国の首都であった南京を占領した日本軍がひきおこした南京事件は「大虐殺」にあたらないと主張しています。
だが、南京事件が「大虐殺」といわれる理由の最大のものは、何よりも国際法で禁止されていた捕虜にたいする大量処刑をはじめ、無抵抗の民衆にたいする無差別の大量殺人が行われたことにあります。さらに、強姦や強姦殺人という女性にたいする性犯罪が大規模に行われたことも挙げないわけにはいきません。

一般民衆や戦時捕虜に対する日本軍の残虐行為を立証する物証は圧倒的であることについて!
この事実は当時、日本の同盟国だったドイツのジーメンス社の支配人ラーベ氏によって母国に報告されており、日本軍の占領後も南京に踏みとどまった多数の外国人によるリアルタイムのレポートも多数存在します。
また、一家を虐殺されながら生き残った証人たちも南京には多数存命していますが、その中の一人である夏淑琴さんは右翼学者である東中野修道から著作で「ニセ証人」と誹謗中傷されたことから、日本で裁判をおこしました。
この裁判は最高裁まで争われた末に、夏さんの完全勝訴で終わりましたが、最高裁は確定判決で「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言えず、学問研究の成果とは言うには値しないと言っても過言ではない」と断言しています。

さらに東京裁判で、その特異な立場から日本無罪論を展開したことで日本の右翼が好み、靖国神社にも立派な銅像が安置されている印度のパール判事でさえ、東京裁判の判決書では下記のとおりに南京での虐殺の事実を認定しています。
「本件において提出された証拠に対して言いえるすべてのことを念頭において、・・・・・・・なお残虐行為は日本軍そのものがその占領したる地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対して犯したものであると言う証拠は圧倒的である」
また、作家の石川達三氏が「中央公論」の特派員としての南京大虐殺の見聞を「生きている兵隊という「小説」に書いています。これは虐殺の模様をリアルに描き出しており、「皇軍を誹謗した」として発禁処分の上、本人は執行猶予付きとはいえ有罪とされました。

その石川氏が戦後の読売新聞のインタビューで下記のように述べています。
「大きな建物へ一般の中国人数千人をおしこめて床へ手榴弾を置き、油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜を・・・・・揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上に中国人を行列させ、先頭から順に日本刀で首を切って河中へ突き落としたり、逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机につかまって川を流れて行くのを、下流で待ち構えた駆逐艦が機銃のいっせい掃射で片っ端から殺害した。・・・・・南京の場合はいくらなんでも無茶だと思った」(1946年5月6日読売新聞インタビュー)
これはほんの一例でしかありませんが、大虐殺があったという物証はたくさんありすぎて、数え上げることも難しいほどです。
河村名古屋市長や石原都知事が「大虐殺はなかった」と言っても、それは所詮、「原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言いがたく、学問研究の成果と言うに値しないと言っても過言ではない」(最高裁判決)と言われる類のものでしかありません。

ネット右翼や右翼学者、右翼政治家たちが総出で、圧倒的な分量を持って「ウソも百回言えば本当になる」を実行していますが、河村氏や石原氏もそのやり方を踏襲しているにすぎないのです。
声が大きいほうが正しいことになってしまいがちな今の世のあり方を憂えます。


連合艦隊指令長官山本五十六をめぐる史実について(山本は平和主義者だったか?)

映画「連合艦隊司令長官−山本五十六」が封切られ、主要都市での上映が始まっています。
この映画は作家半藤一利氏の原作をもとに映像化したもので、真珠湾攻撃(1941年12月)からブーゲンビル島上空での戦死(43年4月)までを対象としており、連合艦隊司令長官山本五十六が戦争終結を目指して如何に戦ったかという太平洋戦争の「真実」を描き出そうというものです。
この映画は山本五十六や米内光政、井上成美らの海軍「良識派三羽ガラス」を「日独伊三国軍事同盟」や対米戦争に反対したことをもって、反戦を主張した平和主義者であるかのように描き出しているようですが、史実はこれとは異なっています。
彼らが対米戦に内心では反対だったことは、あくまでも戦後になってから広く言われはじめたにすぎず、歴史の事実を見れば海軍の責任者が公式の場において戦争反対を口にしたことは一度もありません。
対米戦の主役はあくまでも海軍であり、海軍があくまでも対米戦に反対すれば、いくら強硬な東条をはじめとした陸軍といえども対米開戦を強行することはできませんでした。

当時、日中戦争(中国侵略)は長期化して完全な泥沼状態に陥っており、日本はこの局面を打開するために三国軍事同盟締結と一体となった南進政策(東南アジア侵略)を強行したのです。
だが、これは米国との緊張を高め、急遽開かれた日米交渉で問題となったのが中国からの日本軍の撤退問題であり、無謀な戦争を回避するためにはこの決断はぜひとも必要でした。
しかし、山本ら「海軍三羽ガラス」は中国からの撤退などは考えてもいなかったし、当然それを主張することもありませんでした。
彼らは強硬な陸軍首脳とは異なって米国との戦力格差や国力の違いを熟知しており、米国との無謀な戦争に反対する「合理性」は持っていましたが、中国への侵略戦争に関してはむしろ積極論者であったのです。

むしろ彼らは「シナ事変」を放棄することで戦争は一時的に止められるだろうが、それに反対する陸軍のクーデターが起こり、長期間の戦争で疲弊した国民の不満の爆発が革命につながるに違いないと「内乱」や「革命」を恐れたのです。
いわば現在の体制の安泰のために「革命」の危険を避けて戦争を選んだのであり、対米戦争によってひきおこされる国民のおびただしい犠牲を省みることはありませんでした。
これが史実であり、山本らがけっして平和主義者だったわけではありません。

中国戦線で果たした山本五十六らの積極的な役割について(無差別爆撃を推進した山本ら)
また、第1次大戦後のワシントン軍縮会議で日本の主力艦保有トン数が「対米6割」と定められると、その後の日本海運はこの量的劣勢を補うための航空戦力の拡充に力を入れ始めました。
「96式陸攻」や「ゼロ戦」などがそのために開発されますが、その積極的推進者の一人が山本五十六でした。
そして、日中戦争(中国侵略)の最中に四川省の重慶をはじめ中国の主要都市を標的とした無差別爆撃が開始されると、これに海軍の航空戦力が投入されたのです。
この作戦計画に深くかかわったのが「海軍三羽ガラス」の一人である井上成美であり、山本五十六らが中心となって開発した「96式陸攻」が大量に投入され、高度数千メートルからの爆弾や焼夷弾の大量投下は無垢の中国人民を数多く殺傷しました。
太平洋戦争の終盤に日本の主要都市が米国の無差別爆撃の標的となって多くの市民が犠牲となりますが、日本軍はすでに中国戦線で無差別爆撃を実施していたのです。

このように中国戦線において果たした山本や井上など「三羽ガラス」の役割を見ずして、彼らをあたかも「平和主義者」であるかのように描き出すのは一面的すぎると言うほかはありません
参考「しんぶん赤旗」山田敬男氏寄稿(アジアの視点を持ってこそ)

アジア・太平洋戦争開戦70年と「自存自衛論」論の誤りについて(2日遅れで申し訳ありません)

去る12月8日は1941年(昭和16年)のこの日に日本陸軍が英領マレー半島に上陸し、海軍の機動部隊がハワイ真珠湾の米国艦隊を奇襲してアジア・太平洋戦争が始まってからちょうど70年目にあたる日でした。
だが、日本が過去におこなった侵略と植民地支配を美化する勢力は、この戦争を米国が英国・オランダ・中国の三カ国とともに日本を経済封鎖して圧迫を加えてきたことにたいする「自存自衛の戦争」といまだに描き出しており、そこには日本国家存立のために「やむを得ざる戦争」であったとのニュアンスが色濃く感じられます。
だが、この主張の問題点は当時の日米間の最大の対立軸が中国への侵略問題をめぐってのものだったことをまったく無視しているところにあります。

日本は1931年(昭和6年)に中国東北部(満州)への侵略を開始したのを皮切りに、37年(昭和12年)には盧溝橋事件を口実として中国への全面侵略戦争を開始し、広大な中国の領土へ攻め込みました。
しかし、中国人民の徹底的なレジスタンスと抗戦などもあり、戦争終結への展望をまったく描けない泥沼の戦争へと陥ってしまいました。
そして、この日本の中国侵略は中国に権益を有する米国や英国などとの決定的な対立へとエスカレートしていき、米英両国は中国を物心両面から支援しました。
さて当時、ヨーロッパではナチスドイツが電撃戦でオランダ・フランスなどを破り、英国への空爆も開始して“破竹の勢い”で進撃していたことから、日本は「勝ち馬」に乗らんと企てたのです。
すなわち40年にナチスドイツなどと日独伊三国軍事同盟を締結し、フランスがドイツに降伏した間隙をぬって北部フランス領インドシナ(現在のベトナム北部)に侵攻したのでした。
これには米英諸国から中国への援助のルートの遮断と戦争継続のための資源の獲得という目的が込められていました。

また、41年の8月には日本軍は南部フランス領インドシナに侵攻し、サイゴン(現ホーチミン)に航空基地を建設しました。
サイゴンからは英国の東南アジア支配の拠点であるシンガポールや米国の極東戦略の拠点であるフィリピンへの航空機による直接攻撃が可能だったのです。
これに対し米国などは石油の対日輸出禁止などの対抗手段を発動し、中国からの日本の全面撤兵を要求しましたが、これには米英両首脳が戦後の世界が立脚すべき基本原則として合意した「大西洋憲章」の柱となる「いかなる国の不当な領土拡大も許されない」という立場が反映されていたのです。
こうして米国は日本軍の中国撤兵を求め、日本側も「米国の要求をのんだら支那事変(日中戦争)の成果が壊滅する。満州国も危うくなるし、朝鮮の統治をも危うくする」と米国の要求を突っぱねたのです。
こうした日米間の緊迫したやりとりの中で、日本は41年11月5日の御前会議により11月中の経済封鎖の解除がなければ12月初旬には対米開戦に踏みきることを決定したのであり、12月8日には無謀なアジア・太平洋戦争へと突入していきました。

中国侵略(日中戦争)とアジア・太平洋戦争は連続した一体のものです!
このようにアジア・太平洋戦争は中国侵略の延長線上にひきおこされたのであり、この歴史的な事実を踏まえれば日中戦争とアジア・太平洋戦争を切り離して、前者は領土拡張を狙った不当な戦争であっても、後者のほうは日本が米国の不当な要求にたいして「自存自衛」のためにやむを得ず立ち上がったものという見方は成り立たないのです。
満州事変から日中戦争、そしてアジア・太平洋戦争へと続く日本の15年にわたる侵略戦争は350万人の同胞とアジア諸国民2000万人を超える命を奪いました。
これほどの侵略戦争は世界史上にも例のない空前絶後のものであり、歴史の過ちを繰り返さないためにも侵略や植民地支配の美化が許される余地はありません。

閑話休題 マレー上陸作戦がメインで真珠湾攻撃がサブであったこと(戦略的な観点から)!
ちなみにマレー半島上陸作戦が真珠湾攻撃よりも先行していた歴史的事実は、この戦争で日本が東南アジアへの侵攻と占領を目的としたことに由来します。
まず、日本軍は英国の東南アジア支配の拠点であるシンガポールの陥落を目指したのであり、そのためにマレー半島に上陸してシンガポールへと南下したのです。
その際に、米国の太平洋艦隊がやってきて日本軍の東南アジア侵攻を“邪魔”したら困るので、米国艦隊の拠点であるオアフ島の真珠湾を奇襲したのです。
すなわち真珠湾攻撃とマレー上陸作戦とは連動しており、戦略上はマレー半島上陸作戦が主であり、真珠湾奇襲はどちらかというと従であったのです。
この歴史的な事実からは真珠湾攻撃が米国の謀略であり、米国の罠にはまったものとの見方が荒唐無稽なものであることが理解できます。

日本軍支配下におけるベトナム人の大量餓死とは(再論)

1973年1月27日、パリにおいてベトナム民主共和国、サイゴン政権、南ベトナム共和国臨時革命政府、アメリカ合衆国の四者の間でベトナム戦争終結を約した協定が結ばれました。(パリ協定とよばれています)
1969年から始まっていたベトナムからの米軍の撤退はこれによって加速し、同年1月29日にニクソン政権はベトナム戦争の終戦を宣言します。そして3月29日には米軍の完全撤退が完了したのでした。
こうして米国のベトナム介入と侵略が終息しましたが、ここにいたるまでにはベトミン結成・独立戦争開始から30余年、ベトナム独立後の抗仏戦闘開始から28年、トンキン湾事件のでっち上げで米軍が公然大量の侵入を開始してから9年、ジュネーブ協定以降の米国の実質的な介入の始まりからは19年が経過しています。
この間、ベトナムはほとんど途切れることなく独立のための抗戦を続けてきました。
人類史はじまって以来最大・最強の帝国にたいして、これまた、徹底した反撃を続けてきた「小国」も人類史はじまって以来のことであり、ベトナムの独立と民族的自由をめざした戦いは世界史を大きく塗り替えました。

さて、このベトナム人民と民族の勝利の要因はなんだったのでしょうか。
それは抗米救国の統一戦線の成功と団結にありますが、その統一戦線と団結に人々を結集させたものは独立と自由のためには何者も恐れず、絶対にかってのドレイには戻らないという強い決意でした。
ここに二つの数字があります。
1700人・・・ベトナム北部タイビン省での北爆や艦砲射撃など、対米抗戦でのすべての死者の数
20数万人・・・同タイビン省での1944年〜1945年での餓死者の数
ベトナムでは1944年から45年にかけて紅河デルタ地帯を中心に大飢饉が襲い、それにより派生した病死を含めると、このときの死者数は最大の見積りで200万人に達したともいわれます。(正確な数字は今でも不明です)
この悲劇を増幅させたのがフランス植民地主義と日本軍による収奪政策であり、当時の日本軍は稲やトウモロコシの畑にすでに植えてあるものをこいでまでして、軍需農産物としての麻やヒマを植えさせました。また、軍馬などに食わせるために農家から貯蔵モミなどを徴発したともいいます。

さて、先の二つの数字に戻れば、米国と延々とたたかってきたことによる犠牲者の数は、植民地時代の1年足らずの間に餓死や病死した人々の約150分の1に過ぎません。
ここにベトナムがドレイとなるよりも戦いを選んだ理由があり、戦いを支える強い決意の歴史的源泉がありました。「死んでもドレイになるな」という故ホーチミン氏の言葉にはこのような歴史的な裏づけがあったのです。
絶対にかってのドレイに戻らぬという強い決意が、最後の最後まで戦い抜くという強い決意となって持続したのです。
古くは元や明による侵略があり、近代ではフランスの支配や日本軍の占領があり、その支配下におかれたベトナム民衆は基本的にドレイでした。
そうした中で、独立前の歴史でもっとも激しく大規模だった悲劇の典型として、1944年から翌年にかけておこった大飢饉があったのです。
日本軍占領下におけるベトナムの大量餓死は事実であり、この痛切な歴史的・民族的体験がなければ、ベトナム独立後の抗仏救国戦争に勝利し、トンキン湾事件で米国が公然と開始した大量介入をうちやぶり、植民地主義・帝国主義勢力を敗退させたベトナム人民の決意と力はありえなかったでしょう。

「階級的な視点」に立った歴史認識の必要性について!
さて、南京事件でもこのベトナムの大量餓死事件でもそうですが、これらの犯罪の元凶は天皇制軍国主義や帝国主義であり、それは中国人犠牲者やベトナム人犠牲者とともに日本人としての我々も糾弾すべき対象なのです。
帝国主義や軍国主義といった反動体制と一般民衆・人民とは分けて考えるべきであり、「階級的な視点」に立たなければ歴史に対する正しい認識は導き出しえません。
日本軍に起因するベトナムの大量餓死も日本軍国主義と日本人民とを区別して考えるべきであり、社会体制による犯罪を「全国民の犯罪」とする混同するところにいわゆる「自虐史観」の誤りの根源があります。
当時の日本軍国主義の犯罪とそれを推進した指導者の非道を、あのとき日本の戦争に反対した良心的な日本人やアジアの犠牲者たちとともに私たち「殺される側」の立場のものは糾弾するべきなのであり、「殺す側」と「殺される側」とに区別する「階級的な視点」にたって歴史的な事象にたいする認識をするべきなのです。

参考:本多勝一「北ベトナム」「戦場の村」など

戦後66年の現在、どのように過去の戦争に向き合うべきか!および戦争非体験世代の戦争責任について

1945年8月15日、中国や米国、英国などと戦争をおこなっていた日本は無条件降伏をしました。
これによって15年近くにもわたった侵略の歴史と長年にわたった朝鮮半島や台湾などへの植民地支配の歴史に幕が下ろされましたが、66年がたった今日でも過去の戦争と植民地支配をどう見るかという問題は問われ続けています。
故田中角栄氏は首相在任時の73年に過去の戦争をどう見るのかという国会質問に対し「後世の歴史家の判定に待つ仕事だ」と答弁していますが、この田中発言は歴代政権が戦後半世紀の長きにわたって侵略や植民地支配の責任を認めてこなかった姿勢を象徴するものでした。

だが、ようやく戦後半世紀たった95年8月に当時の村山富一首相が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々にたいして多大の損害と苦痛を与えた」ことに「痛切な反省」と「お詫びの気持ち」を表明する談話を発表しました。
また、「韓国併合条約」締結100年の昨年(2010年)には管首相が談話を発表し、「韓国の人々はその意に反しておこなわれた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけられました」と述べて「反省とお詫び」の気持ちを表明しています。
この歴代政権の戦争認識からの一連の軌道修正は日本政府がアジア諸国からの激しい批判を受け続けたことで、ある程度戦争と植民地支配の責任を認めざるをえなくなったことを意味していました。
だが、1910年に軍事力による脅しを背景として強行された「韓国併合条約」の締結については依然として「法的に有効に締結された」との立場を日本政府は変えていません。

また、政治家の間では旧態依然とした戦争認識が支配的であり、さらには過去の戦争を「自衛と植民地解放の正義の戦争だった」ととらえる政治家も少なくありません。
この現状と村山談話や管談話とのずれは大きく、戦争体験を持たない若手の保守政治家の間ではタカ派の台頭が際立っています。
一方、草の根のレベルでは世論調査などを見ても、80年代以来一貫して過去の戦争を「自衛戦争」だったととらえる人は1割前後にすぎず、これは過半数の人々が過去の戦争が侵略の戦争であったことを消極的ながらも認めているということに他なりません。
これが今の世代が過去の戦争にどう向き合っているのかということの現状であり、過去の戦争にどう向き合っていくかということはこれからも大きな問題であり続けるでしょう。

戦後生まれの非体験世代の持つ「戦争責任」とは何か(先人からの負の遺産も清算する必要があること)!
さて、過去の戦争に向き合う場合に、戦後生まれの戦争非体験世代にも「戦争責任」があるという観点を欠かしてはならないと考えます。
これには自分が生まれる前の出来事の責任は取りようがないこと、および自分の意思で日本という国家に生まれたわけではないのに、責任を負うということはある意味で理不尽であるとの反論もあるかもしれません。
だが、私たちはよくも悪くも先人たちの文化的・経済的遺産の上に生きている以上、先人たちが清算しきれていない負の遺産があるのなら、私たちがその清算に積極的に参加する必要があるのです。
また、「国家責任」という観点から戦争責任を考えれば、戦争の非体験世代も日本国家の構成員である以上は対外的に戦争責任の一端を担わざるをえません。

そして、先人の負の遺産を清算することは私たちにとって新しい社会・国際関係を築いていくための不可欠の作業の一環なのです。
戦争体験世代にはでき得なかった戦争の後始末を私たちの世代が現代に即した形でおこなうことは、これからの私たちの未来を切り開く上で不可欠の創造的な仕事であり、それを先人たちから押し付けられた理不尽なもの、「私は知らないことだが、先人たちが犯したことだからとにかく謝ります」という意味でのペナルティーととらえる観点は誤っていると思います。

参考 「しんぶん赤旗」“歴史の逆流を許すな”など

朝鮮王宮の占領が最初の軍事行動であった日清戦争と東学農民戦争の鎮圧

19世紀の後半に朝鮮では農民の苦難が続き、ほとんど毎年いずれかの地方で農民反乱が発生した。
とりわけ1894年(明治27年)の2月に朝鮮半島西南部の全羅道でおこった農民反乱は規模が大きく、朝鮮政府はこの反乱をもっぱら東学教徒があおったものだと決め付けて東学の信者の弾圧を始めた。
そのため農民のリーダーらは各地の東学の指導者にアピールを送って決起をうながし、反乱は農民による大規模な戦争という状態へと発展した。

日清戦争における日本軍の最初の軍事行動とは何であったか!
東学農民軍は鎮圧に向かった政府軍をつぎつぎと打ち破り、ついに5月末には全羅道の軍事・政治の中心都市である全州を占領するところとなったが、全州は朝鮮王朝を打ち立てた李氏の先祖の出身地でもあったため、朝鮮政府はおおいに驚き、それまでのためらいを捨てて清国軍の出兵を要請するにいたった。
日本政府は朝鮮政府が自力で農民反乱を鎮圧できず、援軍を清国に要請したのを朝鮮でことをかまえる絶好の機会ととらえ、清国軍の朝鮮出兵に時を移さずに出兵を強行した。
日本政府は朝鮮で清国軍は必ず日本軍に攻撃を仕掛けてくるだろうから、それを機会に平壌あたりで一戦をまじえ、勝利をおさめて和を講じ、朝鮮を日本の勢力下におこうとくわだてたのである。

images1191だが、日本の意図を察した農民軍が日清両国の干渉を避けるために政府軍と和睦を講じたことで反乱は沈静へとむかっていき、日本軍の上陸した仁川やソウル付近では農民戦争の余波さえない状況であった。
こうして朝鮮政府は日清両軍に撤兵を公式に求めるようになったが、清国との戦争準備をととのえてきた日本政府は、なんとかこの機会に清国の勢力を追い出して朝鮮に地歩を固めようとあらゆる口実を設けて駐留を続け、清国軍を挑発した。

そしていよいよ7月23日の早朝に朝鮮王宮を占領した日本軍が国王を虜にして日本政府への依頼文を強要したのである。
依頼の内容は日本軍が朝鮮政府に代わって清国軍を朝鮮国内から駆逐することであり、これをきっかけに日本軍は清国軍への攻撃を開始、佐世保を出港した日本の連合艦隊も25日には仁川の沖合の豊島で清国艦隊と放火をまじえたのである。
これが日清戦争のはじまりであり、日清戦争で日本軍が最初に武力を行使したのが朝鮮王宮であったことは日清戦争の本質をよく物語っている。

また開戦から九ヵ月後には下関で講和条約が締結され、清国は遼東半島や台湾などを日本に割譲し、二億両(当時の日本の国家予算の三年分余り)もの莫大な賠償金を日本に支払うことなどが決められた。
また遼東半島は三国干渉の結果、清国に返還することとなったが、日本は早くも台湾を植民地として獲得し、清国の影響力を朝鮮から一掃した日本は朝鮮を支配する上で重要な一歩を踏みだすこととなった。

朝鮮の東学農民軍と戦火を交えた日本軍(日清戦争の相手は清国だけではなかった)!
さて、日本軍がソウルの王宮を占領し、国王を事実上のとりこにすることで日清戦争が始まったのであるが、このことは朝鮮人の間にいきどおりを広め、第二次東学農民戦争、秋の蜂起をひきおこした。
そして、春の蜂起が全羅道での「百姓一揆」的な色彩を帯びていたのに比べ、秋の蜂起では反日の旗色を鮮明にした運動が各地で頻発したのである。

また、この蜂起に参加したのは農民にとどまらず、一般民衆や兵士、役人などにも及び、朱子学を教える儒者なども参加して抗日闘争は全国に拡大していった。
さらに軍備を整えていた日本軍は近代的な兵器などほとんど持たない朝鮮人の蜂起など簡単に鎮圧できると考えていたふしがあったが、抗日の動きはあちこちに飛び火し、一方で鎮圧されても他方でまた蜂起が起こるといった状況となった。
また、抗日運動の鎮圧は「朝鮮政府軍と日本軍との共同作戦」といった形式がとられたものの、鎮圧作戦の指揮権は日本軍が完全に掌握しており、日本軍は「東学にたいする措置は厳しく激しいものであることを要する。今後は皆殺しせよ」という基本方針で鎮圧に臨んだ。

imagesCAT510QHこうしてふたたび立ち上がった東学農民軍は日本軍・朝鮮政府軍の連合軍と大激戦をまじえたが、近代兵器で武装した日朝連合軍には力及ばずに打ち破られてしまった。
農民軍の犠牲者は三万人を優に超えたと推定されており、「皆殺し」という日本軍の基本方針によって多数の農民が見せしめのための梟首(さらし首)になったという。

ちなみに司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKの手でドラマ化され、複数年にわたって放映されているが、このドラマの日清戦争をめぐるストーリーには上記のような史実がスッポリと抜け落ちており、軍人秋山兄弟を中心とする英雄物語となっている。
故意かどうかは断定できないが、歴史の描き方としてはきわめて一面的であり、恣意的ですらある。


追伸
故金大中元韓国大統領はかって東学農民戦争を下記のように評価した。
「東学農民革命はこの国の民衆革命の頂点であるとともに、反封建と反帝国主義の先駆け的な運動でした。
東学革命の精神は3・1独立運動と4・19革命(1960年4月19日にソウルでおこなわれた学生と市民の反政府デモ、これを機に独裁者李承晩は大統領を辞任した)、そして光州民主化運動(1980年5月光州市でおきた大規模な反政府運動、80年代の韓国の民主化運動のさきがけとなった)など、この国の自主独立と民主化の歴史に綿々と引き継がれています」
韓国では大統領もこう述べるほど東学農民精神は知れわたっている。

参考 日本と韓国・朝鮮の歴史 中塚明 高文研

日中戦争とアジア太平洋戦争とのつながりと「真珠湾攻撃陰謀説」について

盧溝橋事件に端を発した日中戦争で日本軍は中国の首都南京をはじめ各地の都市を占領し、中国人口5億人のうち2億人以上が住む地域を占領下においた。
だが、それでも中国の戦争意志を喪失させることはできず、さらに中国国民の民族意識と抗日思想は戦争を続けるなかでいっそう高まり、国民政府も内部に動揺を抱えていたにせよ、最後の勝利を信じて抗戦意欲を強めていった。

一方、日本側は逆に勝利の可能性を信じられなくなって戦争意欲を次第に失っていき、とくに1939年(昭和14年)以降は軍事作戦によって中国を屈服させる見込みが立たなくなり、戦争の負担を軽減するために中国戦線の兵力を漸減する方針さえ取るようになっていった。
これは軍事的に相手を屈服させることを断念し、自主的な占領地域の縮小と兵力の削減をはかることで戦争の勝利をあきらめたことを意味した。

ヒトラードイツと手を結ぶことで日中戦争の閉塞状況の打開をはかろうとした日本政府と軍部指導部(日独伊三国軍事同盟の締結)!
untitled1061さて、日中戦争において日本の政府や軍指導部が自力勝利の可能性を見失ったことは、この問題の解決を国際情勢の転機のなかに求めようという他力依存の機運を強く醸成した。
そうした中に飛び込んできたのがヨーロッパ戦線でのドイツの電撃的勝利である。
1939年9月のヒトラードイツによるポーランドへの侵攻ではじまったヨーロッパの大戦は、翌年の4月にドイツ軍が動きだしたことでオランダやフランスは降伏し、英国もドイツによる猛爆撃を受けるようになった。

東南アジアを植民地とする列強諸国がそろって窮地に立たされるのを見た日本は、この機会に南方(東南アジア)進出の方針を打ち出し、蘭印(オランダ領、現インドネシア)の石油をはじめとした豊かな資源を手に入れ、ドイツと手を結ぶことによって泥沼化した日中戦争の閉塞状況を打開しようと企てたのである。
かくしておこなわれたのが北部仏印(ベトナム北部)への日本軍の進駐であり、日独伊三国軍事同盟の締結であった。

このうち1940年(昭和15年)の9月に締結された日独伊三国軍事同盟は日本・ドイツ・イタリア三国の共通の「敵」として米国を名指したものであり、日本はナチスドイツおよびファッショイタリアとの間で米国を「敵」とした軍事同盟を結ぶことで、対米関係において後戻りのできない地点へと踏み込んでしまった。
また、これをきっかけとして日米関係は急速に悪化していき、米国は中国への支援を強めるとともに、当時の日本の鉄鋼生産の主要原料であった屑鉄と航空機用ガソリンの対日輸出を止めてしまった。

また、米国は国内でも「選抜徴兵法」や米国の安全保障のうえで必要と看做した国に武器を与える「武器貸与法」などを制定し、参戦の態勢を固めながら次第に枢軸国(日独伊)への対決姿勢を鮮明にしていった。
さらに日本の国内では南方の資源を獲得するための東南アジア進出と、そのためには米国との開戦も辞さないとした国家の基本方針(帝国国策要綱)が1941年(昭和16年)7月2日の「御前会議」で決定された。
こうして対米開戦へとすすむ流れは後戻りのきかない決定的なものとなった.

サイゴン(現ホーチミン市)に進駐し東南アジア各地への出撃拠点とした日本軍の南部仏印進駐がもたらしたものとは!
images1062さて、1941年の7月28日に日本軍は先の「帝国国策要綱」にしたがってサイゴン(現ホーチミン市)を中心とする南部仏印(ベトナム南部)への進駐を開始した。
南部仏印は南シナ海をはさんでフィリピンと東西に向き合う位置にあり、そのフィリピンは米国の植民地であった。
また、サイゴンは英国のビルマ・マレー半島支配の拠点であるシンガポールも近く、シンガポールへの爆撃が可能な位置でもあり、また南部仏印は蘭印(オランダ領、現インドネシア)をにらむ扇の要の位置でもあった。

こうして南部仏印進駐は日本軍にとって東南アジア諸地域への出撃拠点の確保となったが、この動きを知った米国は日本への重大な警告を発した。
当時、日米衝突の回避を目的として同年の1月から日米交渉が続いていたが、米国は南部仏印進駐によって日米交渉の基礎が消滅した、つまり交渉はもはや無意味となるという警告を発したのであった。
そして日本の南部仏印進駐を確認した米国はとうとう日本の在米資産の凍結を実施し、ついに8月1日には日本への石油輸出を全面禁止したのである。

こうして石油輸入の7割以上を米国に頼っていた日本の国内では石油備蓄があるうちに相手をたたいてしまおうという「早期開戦論」が海軍を中心に高まっていき、日米開戦はもはや時間の問題となってしまった。
以上が日米開戦へのプロセスのあらましであり、日本政府と軍指導部は日独伊三国軍事同盟の締結によって日米開戦へと続く一本道へと入り込み、南部仏印進駐によって開戦への坂道を急速に滑り落ちていった。

我が田母神俊雄氏の「日本の真珠湾攻撃はルーズベルトの罠だった」は本当か!
ところで日本の真珠湾攻撃はルーズベルト政権の仕掛けた罠に日本がはまったのであり、ルーズベルト政権のなかに入り込んでいた三百人ものコミンテルンの工作員が真珠湾攻撃へと日本を引きずり込んだという「真珠湾攻撃陰謀説」なるものが古くから存在する。
この「真珠湾攻撃陰謀説」によればルーズベルト政権に入り込んだコミンテルンの工作員のトップがハリー・ホワイトという財務省高官であり、この男が日本への最後通牒ともいわれる「ハル・ノート」を書いたというのである。

そして、我が愛すべき元航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏もその論文「日本は侵略国家であったか」のなかでこの「陰謀説」をまことしやかに主張している。
だが、陰謀説で解明できるほど歴史は単純なものではなく、我々が直面している日々の政治・社会の動きも、いろいろな要素が複雑に絡みあいながらダイナミックに展開することはリアルタイムで我々自身が経験していることでもある。
また、日米開戦をめぐる諸事実とそれにいたるプロセスの中にはコミンテルンの陰謀がめぐらされる必要も余地もない。
田母神論文の虚偽はこの問題にあっても議論の余地さえない。

参考 近代日本の戦争 梅田正巳 高文研

第一次大戦での中国出兵(山東への出兵)と「21か条要求」による略奪行為について

image10311914年(大正3年)6月28日、ボスニアでおこなわれたオーストリアハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)の陸軍大演習を視察するために同帝国の皇太子夫婦がこの地を訪れた。
だが、狂信的なセルビア人民族主義者のテロ行為によって皇太子夫婦はボスニアの地で暗殺されてしまった。

このため一ヵ月後の7月28日にはハプスブルグ帝国はセルビア王国に宣戦を通告したが、セルビアの背後には同じスラブ人の大国ロシアがついており、ロシアはまたフランスおよびイギリスと軍事同盟の関係にあった。
また、一方でハプスブルグ帝国も同じ言語を使うドイツ帝国とは40年来の軍事同盟の関係にあり、ここからヨーロッパの帝国主義諸国が真っ二つに分かれて正面からぶつかり合う大戦争(第一次世界大戦)が始まった。

日英同盟を名分とした中国出兵によって横取りした山東省におけるドイツ権益!
さて、イギリスが大戦に参戦した2日後の8月7日に同国から日本にたいし、中国の山東半島の青島を拠点とするドイツ東洋艦隊を撃破してほしいという協力要請がはいった。
当時、日本はイギリスと日英同盟を結んではいたものの、日英同盟にはヨーロッパの戦争に日本が参戦すべき義務があるとは書かれておらず、当時の大隈内閣も「日本は同盟条約によって参戦すべき義務はない」と明言していた。

ところがこの機会にドイツが持っていた山東省の権益をそっくり横取りしてしまおうと考えた日本は、これ幸いとばかり対独参戦に傾き、ドイツの根拠地の東洋からの一掃をはかろうと企てたのである。
だが、それを知ったイギリスは中国をめぐる勢力圏のバランスが日本に大きく傾くことを恐れ、あわてふためいて日本への協力要請を取り消してきた。
さらに中国も大戦からの「局外中立」を宣言し、戦争に巻き込まれるのを防止しようと懸命の外交的努力をおこなっていた。

ところが、こうした動きを察知した日本はいち早く行動をおこし、8月23日に宣戦布告をおこなって山東省におけるドイツの拠点である青島攻撃を開始した。
こうして出兵を強行した日本は膠州湾の租借権をはじめとする山東省でのドイツの権益をそっくり自分のものにしてしまったのである。

袁世凱政府への「21か条要求」によって合法化をくわだてた略奪行為とは!
しかも、山東省は中国の領土でありその一部を租借しようとすれば持主である中国政府の承諾が必要だったが、日本政府はドイツを追っ払った後に我が方がこれを使わせてもらうのは当然とばかりに、一方的な通告でことを済まそうとはかった。
しかし、さすがにこれだけでは国際的には通用しないとみた日本政府は翌年の1915年(大正4年)1月に「21か条要求」を中国の袁世凱政府に突きつけ、その第一号で山東省のドイツ権益は日本が譲り受けることを認めよと迫り、それを受諾させることで前年の略奪行為の「合法化」をおこなったのである。

20100926133127さて、この「21か条要求」にたいし、米国では日本は中国を事実上の属国にしようとしているとの非難の声があがったというが、これはまさに勝手放題に中国をまるごと植民地にしようとしていると看做されてもしかたのない要求をふくんでいた。
そのため中国国内では抗日の世論が沸騰し、さすがの買弁の袁世凱政府も容易には譲歩せずに列強諸国の介入を期待したが、ヨーロッパの激化する戦況への対応に追われた列強諸国にその余裕はなく、譲歩の兆しのない中国に業を煮やした日本は同年の5月7日に若干の修正を施した最終案を突きつけ、回答期限を5月9日とした「最後通牒」を中国側に手渡したのであった。

こうして、武力に訴えるとの日本の脅しに屈服した袁世凱政府はとうとう7日に「最後通牒」を受け取って9日に受諾するが、この後に中国ではこの5月7日と9日を「国辱記念日」とし、毎年「国辱を忘れるな」をスローガンにデモや集会がおこなわれるようになったという。

列強との秘密協定による日本の支配権の拡大および田母神論文の虚構性について!
さて1917年(大正6年)に膠着したヨーロッパの戦局を打開しようとしたドイツは無制限潜水艦作戦の開始を宣言し、無差別攻撃によって一般の商船をも撃沈しはじめた。
そのため連合国は輸送船団の護衛を目的とした駆逐艦の派遣を日本に要請してきたが、広い太平洋での活動を考えて建造された日本の駆逐艦は地中海でその性能を遺憾なく発揮したのである。

こうして駆逐艦派遣と引き換えに日本はイギリスと秘密協定を結び、山東のドイツ権益を日本が引き継ぐことをイギリスに承諾させ、これにならった他の連合国からもイギリスとの秘密協定と同様の保証を得た。
また、これと併せてドイツが広大な太平洋に領有していた赤道以北の島嶼群を獲得した日本は欧米列強が第一次大戦で国力を消耗して戦っている隙に、「漁夫の利」を得て中国や太平洋にその支配権を拡大した。

さて、元航空自衛隊のトップであった田母神俊雄氏は「日本は侵略国家であったか」という懸賞論文で日本の戦争の侵略性を否定し、日本は一貫して「相手国の了承を得」て「軍をすすめた」との歴史観を披瀝している。
だが、第一次大戦時における日本の行動は英国の協力要請をいいことに出兵を強行して中国山東省のドイツの権益を横取りしたものであった。
それは警戒心を抱いた英国の協力依頼の断りを無視したものでもあり、持ち主である中国政府の承諾もない一方的な派兵でもあった。

また、「21か条要求」を中国に突きつけ、武力で脅して受諾させることでドイツ権益の略奪行為を「合法化」さえしているのである。
山東省への出兵もドイツ権益の横取りも中国の「了承を得」てどころか,頭から無視しておこなっており、ここでも史実は田母神氏の主張が偽りであることを立証しているのである。

参考 近代日本の戦争 梅田正巳 高文研
最新記事
Profile
西岡三郎
千葉県銚子市に在住
QRコード
QRコード
Recent Comments
Recent TrackBacks
  • ライブドアブログ