光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

銚子市のヤミ給与

銚子市のヤミ給与のその後(ヤミ給与裁判について)

ヤミ給与問題が表面化した翌月の1979年の7月に市民有志が前市長と市議会議長および市役所幹部ら13名を告発し、同時に市の監査委員あてにヤミ給与の監査請求を提出した。
だが、示された監査結果は曖昧なものであり、マスコミなどではその「甘さ」への批判があいついだ。

そこで、市民有志は千葉地裁に嶋田前市長を相手取り、時効にならない分のヤミ給与支給額相当分の5億4千万円の損害賠償を求める民事訴訟をおこしたのである。
また、市議会では共産党の議員団がヤミ給与を違法として前市長の責任を追求した以外は、議会各派のこの問題にたいする反応はきわめて鈍く、翌年3月の市議会では「ヤミ給与をふくむ年度決算」を追認してしまった。
この市議会の振舞いは行政の誤りを正すべき議会の責任の放棄でもあった。

また、前市長にたいする5億4千万円の損害賠償を求めた訴訟は45回の公判を重ねながら7年半の歳月を費やすこととなった。
この間に、前市長をはじめとした被告側は賠償額の5億4千万の積算根拠を示すことを原告の市民有志に要求し続けたが、積算根拠の“立証”は市民の手に余るものであり、裁判は難航を重ねた。
また、前市長サイドはダンマリ作戦を決め込み、裁判長が証拠書類の提出を求めてもいっさい拒否の態度を貫いたが、この被告側のダンマリ作戦に業を煮やした裁判長が「元市長さんが知らぬ存ぜぬでは問題ではないか」とたしなめる一幕もあったという。

そして、この裁判は1987年になってようやく下記の裁判長和解調停案が示される。
「1、被告は本件条例外支給(ヤミ給与のこと)は違法と認め、遺憾の意を表する。
2、被告は原告に和解金100万円を支払う」


この時点ではすでに市長も大内氏から佐藤氏に代わり、市職員の「昇給延伸」(昇給の据え置き)によってヤミ給与“返還”の問題は決着していた。
それゆえ、嶋田隆氏もポケットマネーから100万円を捻出し「これでケリがつくなら、面倒が消えるのでまあいいじゃないのと思って支払いに応じた」という。
だが、嶋田隆氏本人の口から銚子市民への侘びの言葉はついに一言も発せられなかった。

そして、“被告”の肩書きの取れた嶋田隆氏は、それを待ち受けていたかのように「自治功労叙勲」をうけ盛大にそれを祝ったという。

銚子市の「ヤミ給与」事件とは何だったのか!

1978年の市長選挙で嶋田隆氏は8選をめざし、8選をめざす現職市長を地区労・社会党・市職労がいちはやく支持推薦を決めた。
27年7期の嶋田市政の後半は市議会の圧倒的多数派との馴れ合い・癒着が公然化していた。
もともと嶋田隆氏は自民党の支持推薦を受ける保守の立場の人であったが、市議会の自民党や保守系の議員にととまらず、民社・公明から社会党・地区労等のいわゆる「革新」と目された人々までがオール与党化し島田氏の支配体制を支えた。

政党議員は自らの議席をいかに維持するかに関心が集中する。
そして、そのためには選挙資金の確保が必要であり、支持基盤である団体や地域での票確保が必要となるが、議員の立場を考えるとこれらのことは一概に否定はできない。

しかし、問題は「革新」と目された議員たちまでが、嶋田氏からの利権提供に自らすすんでのめり込んでいったことだ。
彼らは団体・地域に補助金や土木工事等の利益を誘導し集票のテコにするために嶋田氏の代弁者となり、当局と癒着を深めるほうが得策と考え、次第にそのような行動をとりはじめる。

その象徴的出来事が地区労選出の当時の市議会議長の行動であった。
市長のご意見番を自認し、議会から推薦された市の監査委員として、本来はヤミ給与を監視するべき立場にありながら、むしろこれを奨励した。
そして、ヤミ給与発覚時には「おれは知っていたが、やむおえない措置として違法は承知ですすめた」と公言したという。

このようにオール与党化した市議会に支えられ、かつ市内600団体の支持を取り付けた嶋田氏だったが、78年の市長選挙では新人の大内恭平氏が700票という僅差ながら嶋田氏をやぶり、市政私物化の開発優先・反住民的な8選体制は市民の審判の前に崩れさった。

さて、長期の嶋田支配体制の残した最大の“ウミ”ともいうべきヤミ給与問題は1979年(昭和54年)の6月に発覚する。
市職員組合や地区労推薦の市議会議長などが前市長時代の慣行として継続支給を大内新市長に迫り、驚いた大内氏が県や自治省に相談して拒否回答をしたところからこの問題が表面化する。

これを朝日新聞が全国版トップでスクープした。
「8億円越すヤミ給与。銚子市、親にも話すなと前市長時代、市長選前後に急増、時間外名目で一律。千葉県が調査開始」という記事だ。


まず、前嶋田市長が「違法とは思わぬ。職員の生活を守る便法だ」と開き直った。
また、市職労幹部やこれと一体の地区労・同盟や地区社会党、および市職労を支援する自治労や社会党の国会議員などが「これは正当な労使交渉で勝ち取った生活給であり非は条例化しなかった理事者側にあり」と主張した。

だが、銚子市のヤミ給与は「正当な労使交渉の結果」などと呼べるものではなく、ヤミ給与が市長選前後に管理職を中心に集中豪雨的にばらまかれたことからも、実態は市職労が組織ぐるみ集票マシーンとして身売りしたことにたいする代償措置であり、市民の税金による選挙買収であった。

また、自治労や社会党などの言うように銚子市のヤミ給与が「正当な労使交渉の結果」であるとすれば、首長の選挙に協力してその見返りに住民の血税を取り引きすることが正当な労働運動であるということになる。
この問題は当時の「革新」と呼ばれる人たちのモラルを厳しく問うものであった。

そして、ヤミ給与問題を利用して住民の反感を煽り、住民と自治体労働者の連帯を破壊することで自治体労働者の生活と権利を押さえ込み、地方自治体の自治権までも押さえこむために反動勢力はこの銚子市のヤミ給与問題をフルに利用した。
だが、当時の自治労などがヤミ給与を「労使交渉の成果」として合理化したことは住民や国民の信頼を失いこの攻撃を勢いづける。

このあとに続く労働運動の衰退・社会党の長期低落傾向や社会党そのものの消滅もこの時点で必然化したといえよう。

それゆえ、この時点で自治労は自治体の財政の実態に基づき、道理ある要求を道理ある方法で、住民の理解と支援の元で正々堂々と獲得するという自治体労働運動の王道を想起して初心に立ち返るべきであった。

この銚子市のヤミ給与事件での地方公務員の労働運動に対する住民の信頼の喪失という代償は大きくそれが今日にも尾を引いている。

嶋田元銚子市長の市政私物化体制と「ヤミ給与」

銚子市長の座に27年7期の長きにわたって“君臨”した嶋田隆氏
島田隆氏は1951年(昭和26年)の市長選挙で初当選したのであるが、それまでの加瀬道之助市長が戦時中の衆議院選挙(翼賛選挙)時の選挙広報に「英米撃滅、八紘一宇の使命遂行」という主張を載せるほどの政見の持ち主であった。

いわば、加瀬氏は戦時中の守旧派保守勢力を代表する人物であり、また収入役をおかずに息子を起用した人事の私物化や「ヤミ石鹸販売問題」などで市民の批判が絶えない市長でもあった。
ゆえに、この時点において加瀬氏は広範な市民各層や地元経済界、ならびに市議会の多数派などから見放される必然性をもっていたと言えよう。

そこへ登場したのが医師の嶋田隆氏であり、守旧派の加瀬前市政とくらべてより広範な市民的基盤に支えられてスタートした初期の嶋田市政は新しさを持ち、“文化人的”で“進歩的”なポーズは文化行政や福祉の面で一定の業績をあげた。
しかし、4期目(昭和40年頃)から次第に、時の高度経済成長に便乗した開発志向を示すようになり、ずさんな30ヘクタールの名洗港埋め立て事業の着工を開始したのもこの頃であった。
(この名洗港埋め立て事業の失敗のツケが東電火力の強引な誘致という形であらわれたのであったが・・・)

嶋田市政化で急速に進んだ市政私物化の実態!
また、この頃に市政私物化体制も急速にすすんだ。
市長の許認可権、補助金給付、道路などの公共事業からはじまって、役所の事務用品の発注、接待用の茶菓などの発注、市職員採用や人事などあらゆるものが“利権”の対象とされ、市議会の多数派の議員、特定業者、有力者、市役所幹部などが市長を頂点とする「ぐるみ癒着体制」のなかに組み込まれた。

そして、こうして構築された市政私物化体制のなかでも市役所・市職員労組はその重要な構成要素であった。
とくに市役所の人事政策は露骨であり情実・縁故採用が幅を利かせる。
また「私は定年にいたるまで・・・・・で忠実に働きます」との誓約書を取って市の外部施設に入れ、数年後にこっそりと本庁に配置換えをするという外部施設トンネル方式もとられた。

このために、ヤミ給与発覚(1979年)の時点での800人前後の本庁職員のうち、「嶋田さんに入れてもらったから」と“嶋田党”を自認するものが200人を超え、親子の職員30組、兄弟の職員70組、夫婦の職員80組など全職員の3分の1が血縁関係という“嶋田ファミリー”が市役所内に存在したという。
ちなみに嶋田市政末期の市職員組合のH委員長は元の水道事業管理者の婿であり、その次のK委員長は元の助役の弟である。

嶋田市長の選挙集票マシーン化していた当時の市職労!
このような体制の下で銚子市役所の職員組合は組合とは名ばかりの「御用組合」となった。
組合役員は「管理職推薦」が条件であり正規の役員選挙はおこなわれず、「自治労には入らない。理事者の批判はしない」という条件で大過なく“勤めた”役員は、市当局のおぼえめでたく管理職に登用されるという“出世コース”まで存在した。

特に嶋田市政の7期目および8期目の頃に組合は率先して嶋田隆氏を支持決定し、嶋田隆後援会協力者カードを組合員に割り当てて一人ひとりを集票に走らせたという。
嶋田陣営ではそのためもあって市内の有権者6万8千人のところ、協力者カードを8万5千人分集めたという笑い話まで生まれたらしい。

いってみれば市役所は組合ぐるみで嶋田隆氏の集票マシーンとして強力に機能したのである。

市役所ぐるみの選挙買収の対価としての”ヤミ給与”!
注目すべきことは嶋田市政末期の市長選挙の前後に“ヤミ給与”は集中的にばらまかれていることである。

1974年の市長選挙の際には選挙を前後してなんと15回、金額にして5億円ほどがヤミ支給されたという。
また、このヤミ支給の名目は実働のないカラ残業手当や勤勉手当等であった。
そのうえ、このヤミ給与は市長ら市三役のお手盛り勤勉手当をはじめ、管理職に厚く下級職製の職員には薄くばらまかれており、管理職分のヤミ給与だけで全体の7割を占めた。

このようにヤミ給与の実態は嶋田隆氏の選挙に市役所の職員組合が組織ぐるみ身売りしていたことにたいする恩賞的給付であり、市民の税金を使った市職員丸ごとの選挙買収行為であった。
これが“ヤミ給与”の本質である。


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西岡三郎
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