光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

日中戦争・南京事件

日中戦争から生み出された“英霊”という名の戦争継続合理化論の果たした役割

日中戦争のもとでの戦時統制経済と国民生活の窮乏!
日中戦争が拡大し長期化していくと、その影響は国民生活にまで及ぶようになった。

untitled1245すなわち、膨大な戦費を支出して軍備拡大をおこなうためにはあらゆる物資を軍需に集中せねばならず、とくに資源の乏しい日本の場合は重要な軍需物資のほとんどを輸入に頼っていたため、必要な外貨の獲得のために民需品の輸入をおさえて輸出を奨励するほかはなく、そのためにも国民の消費生活を極度に抑制し、国内の民需を徹底的に圧縮することが必要となった。

こうして物資の需給に関して国家による大規模な経済の統制が避けられないものとなり、1938年(昭和13年)には経済統制が強化され、鉄、石油、羊毛、木材などの重要物資の国内消費が制限され、国民は深刻な生活必需品の不足に見舞われるようになる。

とくに鉄製品は一般向けの使用が禁じられ、代用品による以外には製造ができなくなった。
また、衣料品も羊毛や木綿にかわって品質の悪いスフ(人造繊維)製品しか新調できなくなり、皮革も同様に靴に変わって下駄履きが奨励され、百貨店では宣伝を自粛し、顧客に対しては「一人一品販売主義」をとらされた。

また、戦場へ動員された兵士のほとんどは農村から供給されていたために、農村における労働力不足は深刻化し、戦争への大量の馬の徴発などともあいまって、農業生産力は大幅に低下し、米不足が深刻な問題となったのである。
また、1938年には日本陸軍の師団数は33個にたっして日中戦争開始前の時点と比較しても二倍に膨れあがり、軍事費も国家予算の64%を占めるようになった。

こうして長期化した日中戦争のもとでの軍備一点張りの政策は米不足と物価の高騰を招来し、インフレも急激にすすみ、いくら「聖戦」を叫んでも戦争をこれ以上拡大させることは経済的にも財政的にも非常に困難な状況をむかえたのである。

行き詰った戦争をやめようと提案した陸軍参謀たち(中南支放棄論)
こんななかで軍部の一部には拡大する一方の戦争に批判的な見方が生まれており、その具体的な動きの一つに「中南支放棄論」があった。

images1335当時、日本政府は軍事的に行き詰った日中戦争の政治的解決をはかるために、国民政府のナンバー2であった汪兆銘を担ぎ出して日本の言いなりになる傀儡政権の樹立を図り、これとの和平交渉の推進をくわだてようとしていた。
そこで陸軍の参謀本部の中でもこれを機会に、南京におかれる汪兆銘の政府に長江(揚子江)より以南の中支(長江沿岸一体)と南支(中国の南部:広東省以南)はまかせて、日本軍は黄河の線まで撤退してはどうかと考える幕僚たちが現れはじめたのである。

これが「中南支放棄論」であり、彼らの考え方には合理的で客観的な理由があった。
それはあまりにも急激に膨らんだ軍事予算が国家財政を破綻させようとしており、また軍需一本やりの戦時経済は国民の生活を圧迫し、国民の不満を募らせる一方であったからである。

ところが、参謀本部内のこの中支・南支からの撤退論は陸軍省の強い抵抗にあってうやむやのうちに消え去っていった。そして、そこで陸軍省が振りかざした理由もかなり深刻な観念論であり精神論であったという。
放棄論を進言した参謀本部の幕僚に陸軍省の阿南次官は顔を紅潮させてこのように言い放ったらしい。

「君は部下を率いて戦場に立ったことがない。それだからそのような“暴論”を吐きえる。君には数万、数十万“英霊”にたいする感謝も責任も持ち合わせていない。君の意見には一顧にも値するものはない」

このようにして、客観的合理的な判断としては日中戦争を日本の側から自主解決(自ら兵を引く)すべき時期に立ち入っていたにもかかわらず、“英霊”のためにそれができないという妙な理屈がまかりとおってしまったのである。

“英霊”とは戦死者の尊称であったが、いつのまにか“英霊”という言葉はたんなる戦死者にとどまらない特殊な意味合いをもつようになっていた。
こんなにも戦死者が出たのだから、もうこれ以上戦死者を出さないためにも戦争はやめようという正論が通らなくなっていったのであり、逆に“英霊”の死を無駄にしないために、もっと戦おうという妙な理屈が大手を振ってまかり通るようになっていったのである。

戦争をやめて“英霊”の死を犬死にするのか、“英霊”の死を無駄にするのかという論理が圧倒的な力を持つようになり、それに反論することを許さない時代の空気が形作られていった。

対米英開戦へと踏み切った東条首相の決意と靖国神社の“英霊”たち!
そして、“英霊”論は「聖戦」と銘打った戦争のもたらす戦争合理化のための悪しき屁理屈として濫用された。
対米開戦前に日米交渉がおこなわれたが、米国との戦争に及び腰であった当時の近衛首相は東条陸軍大臣に、中国から少しでも兵を引いて米国に譲歩して欲しいと頼んだという。
だが、東条はたくさんの戦死者(英霊)を引き合いに出して近衛のこの頼みを拒絶し、閣議の席でこう言い放った。

「支那事変は聖戦であり、この4年余りで数十万の戦死者があり、この数倍の遺家族がおり、数十万の戦傷者がいる。
これまで数百万の軍人と一億の国民が戦場と内地で辛苦を重ね、数百億円の国費を費やした。・・・・・駐兵によって事変の成果を結果付けることは当然であり、世界に対してなんら遠慮することはない」

untitled1443閣議でのこの“東条演説”は近衛首相をして内閣を投げ出させ、演説をぶった本人もびっくりの東条内閣を誕生させた。
そして、首相に任命された東条はただちに靖国神社を参拝したが、このときに“英霊”に対して支那事変の犠牲を無にはすまいと誓ったという逸話が東条の腹心であった軍人(佐藤賢了)が戦後に語ったこととして伝えられている。

こうして対米英開戦への道は後戻りのきかないものとなっていった。
このように見てくると、“英霊”論は日中戦争という「聖戦」が生み出した屁理屈であり、戦死者が多すぎるから戦いをやめようではなく、戦死者に申し訳ないから戦いを続けようという戦争継続合理化論として利用された。

日中戦争は「政治の延長」としての戦争ではなく「聖戦」だったから「もう戦争はやめよう」という声を上げることできなかったのである。

日中戦争が“日本の聖戦”だと位置づけされた意味はなにか(八紘一宇)

日中戦争を“日本の聖戦”と明確に位置づけた第二次近衛内閣!
盧溝橋事件から一年余り、日本軍は大規模な兵力の動員と無計画的な戦線の拡大で華北(中国北部)にととまらず、長江以南の華中や華南においても上海、南京、徐洲や武漢、広東など中国の主要都市を制圧したが、中国軍民の一致抗日と徹底抗戦の意思を軍事的に屈服させることはとうとうできなかった。
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こうして当初の「一撃を加えれば中国は屈服する」という軍部・政府の安易な見通しは破綻し、終わりの見えない長期の持久戦へと方針を転換せざるをえなくなった日本は戦争に対して、なんらかの目的と意図を示さないわけにはいかなくなっていた。

そこで、もはや「暴戻支那の膺懲」というスローガンだけで国民を引っ張っていくことが困難となった当時の近衛内閣は1938年(昭和13年)11月に政府声明を発表し、「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」をめざすところに日中戦争の究極の目的があると明らかにしたのである。

当時のナチスドイツがベルサイユ体制を打破し、「ヨーロッパ新秩序」をうちたてることを叫んでいたことに呼応し、アジアでも日本を中心とした新しい秩序を作り上げることを日本の戦争目的としたのであった。

さらに日中戦争の見通しの喪失やゆきづまった内外問題などから一度は首相を辞職した近衛が1940年(昭和15年)に再び組閣した第二次近衛内閣では、内閣の根本方針として日中戦争を「聖戦」と位置づけ、この戦争は天皇の統治する範囲を拡大する戦争であり、天皇の徳を占領地の人民にも与えようとするものであることも高らかに謳いあげた。

「八紘一宇」と「聖戦」とアジアにおける日本を中心とした新秩序!
当時、盛んに用いられた「八紘一宇」という四字熟語には「聖戦」の意義が込められており、これには「あめのした(八紘)をおお(掩)いてひとつのいえ(一宇)となす」という読み方もなされた。
この表現は「古事記」や「日本書紀」において、初代天皇として登場する神武天皇が橿原(かしはら)の地で即位したことの意義を説明する際に用いられるものであり、「日本書紀」においては「八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為す」と記述されている。

すなわち、「八紘一宇」には「古事記」や「日本書紀」の時代において、この日本を一つの家の屋根で掩った、つまり一つの国として統一したという意味があり、そういう統一事業をおこなって等しく天皇の徳が日本全国にいきわたるようにしたというのが日本国家成立の起源であり、こうして日本の国が建国されたのだということを表わしているのである。

こうして、日中戦争開始から三年が経過した時点で成立した第二次近衛内閣は、日中戦争の目的を、かって神武天皇が八紘を統一して日本の国をつくったという神話にちなみ、中国(満州国をも含む)をも八紘の範囲に組み込んで一つの宇(いえ)とする新たなアジアにおける新秩序をつくるところに求めたのであった。

もっとも、日中戦争を「聖戦」とする考え方は第二次近衛内閣によってはじめて提唱されたものではなく、日中戦争がはじまった当初からこの「聖戦」意識が浸透しはじめていた。
これは天皇の統治する範囲を拡大する戦争であり、天皇の徳を占領地の人民にもいきわたらせようとする独善的で大国主義的な考え方ではあったが、戦時下の日本国内にあっては中国侵略を正当化するため、心ある国民が面と向かっては戦争を批判しにくい根拠付けとして利用された。

また、政府の戦争政策を批判すると天皇批判の“不敬罪”として逮捕させる危険が大きく、天皇を批判したり、神武天皇の“八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為す”という神話そのものを批判したりする意図がなくても、支那事変(日中戦争)を批判したり、それに疑問を呈したりする言論を封ずる際にも利用されたのである。

衆議院の代表質問で「八紘一宇」や「聖戦」を真っ向から批判した斉藤隆夫!
untitled3559さて、1940年(昭和15年)2月の第75通常議会において当時の有力政党であった民政党を代表して質問にたった斉藤隆夫は、名目の乏しい長期の戦争に駆り出され、戦時の統制経済のもとで窮乏に苦しむ国民の不満を代弁し、日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起した。

「一度戦争がおこれば問題はもはや正邪、曲直、是非、善悪の争いではなく、徹頭徹尾力の争い、強弱の争いであって、八紘一宇とか、東洋永遠の平和だとか、聖戦だとかいってみてもそれはことごとく空虚な偽善である・・・・・・」

この斉藤演説は、まさに日本の中国に対する戦争が侵略戦争であるという本質を鋭くつき、政府や軍部の国民に対する責任を追及したものであった。
それだけに軍部は激昂し、この演説は「聖戦」を冒涜するものだとして斉藤の処分を要求し、それに屈した議会側は斉藤の演説の問題部分を議事録から削除し、斉藤を懲罰委員会にかけたのである。
軍部に迎合する圧倒的多数の政党や議員たちは斉藤の議員除名を要求し、3月7日の衆議院本会議において斉藤の除名が可決された。

反対意見が自由に飛びかってこそ議会の価値があるが、聖戦に反対する意思表示がタブーになってしまったところに当時の議会政治の変質があり、自由に意見を言う雰囲気は失われてしまった。
また、これは議会内での言論を理由に、議員にとって最も重い懲罰である除名に処するという議会政治の自殺行為であり、以後、議会内外を問わず正面きって“八紘一宇の実現”を批判する声はいよいよ見られなくなっていくのである。
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広大な中国の領土を次々と侵攻・占領した日本の掲げた戦争の大義名分(東亜新秩序の建設)

"華北分離工作”が日中戦争でめざした当初の日本の戦争目的であった!
images30201932年の2月、日本は満州を武力で制圧し、ここに傀儡国家「満州国」をつくりあげたが、中国に対する侵略の歩みはここで止まるものではなかった。
満州事変は日本がさらに中国本土へと膨張し、アジアでの覇権を確立するための一歩と位置づけられていたことは今日の時点から歴史を振り返って見た場合に明白であり、当時の軍部を初めとした支配層は満州事変を旧来の国際秩序を打破し、世界の再分割を根ざす動きの始まりと位置づけていた。

さて、当時、日本の満州支配が武力による他国・他民族支配であることから当然の結果として、「満州国」内部では不断の反満抗日闘争が繰り返され、容易に内政の安定を得ることができなかった。
そこで、満州国に隣接する華北(中国北部)を中国から切り取って別個にしなければ、満州だけを治療しても隣からどんどん抗日分子が入り込んできて駄目であり、あらたに安全地帯を創設しなければならないとの理由で着手されたのが、いわゆる“華北分離工作”である。

当時、満蒙は「日本の生命線」とされ、国防の第一線と位置づけられていたが、それを手に入れると今度は満州国の側面の安全を確保し、その生命線を守るためにあらたな“安全地帯”が必要になったというわけである。

そして、この動きは日本が満州国と中華民国(国民政府)との国境となっていた万里の長城から南方にあたる華北(中国北部)を国民政府から切り離し、日本が自由にコントロールできる傀儡政権の樹立へとすすみはじめたのである。

中国側の徹底抗戦にあった日本軍が中国全土へと侵攻して戦線を拡大した!
こうして日中戦争の初期(少なくても盧溝橋事件勃発の年である1937年中は)にあっては、“華北分離工作”の実現をめざすための侵攻という考え方が支配的であり、華北さえいただければ文句はないということを前提とした軍事行動を日本側は展開していた。

だが、当時の中国はそれまで内戦状態にあった国民党政府と中国共産党軍とが内戦の停止と一致抗日で合意し、これから本格的に反撃して日本軍を放逐しようという全民族的な徹底抗戦の体制ができあがっていた。
さらに中国側から上海に駐屯していた日本海軍を攻撃し、第二戦線を開くことで積極的に応戦し、日本の中国侵略とそれに徹底抗戦する中国という現実とを世界中に発進しようとしていた。

当時の上海は世界の列強が租界を持ち、それら列強の国民が数多く生活していた国際都市でもあり、各国の権益が集中し世界の耳目が集まる場所であったからだ。
そして、思いもかけない中国軍の反撃に面食らった日本軍は上海に大軍を送り込み一万人近い戦死者を出す大激戦の末に上海を占領したのであるが、日本政府は上海占領後にこの戦争をどう収拾すべきか決めかねていたのである。

imagesCAF9TKU4だが、これを尻目に殺気立った現地の日本軍はお構いなしに敗走する中国軍を蹴散らしながら勢いに乗じて進撃し、とうとう当初の予定にもなかった国民政府の首都南京を攻めて占領までしてしまった。
そして、南京占領後の掃討戦では中国軍の捕虜や一般市民を虐殺する非道な行為が頻発し、こういう日本軍の振る舞いは南京アトロシティ(南京虐殺)として各国の報道機関から世界に発信されていったのである。

また、本来の戦場である華北においても戦争の規模は拡大し続け、華北での占領地もなし崩し的に広がっていき、最終的にはあまつさえ中国軍は弱いのだから“行け行けドンドン式”の無計画的な戦線の拡大で徐州や武漢や広東さえも制圧し、とうとう中国全土へと侵攻を拡大し占領地を増やしてしまったのである。

こうして日本としてはこのあたりで世界に向かって何か申し開きをおこない、自らの戦争に体裁のよい性格付けをおこなわないことには、文字通り世界最大の野蛮国・侵略国となりさがってしまうところへと追い込まれてしまった。

新たに考え出された日中戦争の大義名分とは(東亜新秩序の建設)!
そこで、思案の結果として生み出されたのが「東亜(東アジア)新秩序の建設」であり、日本政府は東亜新秩序の建設を標榜して、これを日中戦争の大義名分としたのである。

これが“新”とされたのは1922年に調印された九カ国条約で列強は中国に対する新たな侵略はおこなわずに中国の独立と主権を尊重し、中国は各国に対し門戸開放、機会均等でいくと定められ、それが中国に対する了解済みの秩序であったからだ。
だが、“新秩序”は日本だけが中国を支配することを前提に、日本と「満州国」と中国(当時の言葉でいえば日満支)の共存共栄を図ろうとしたものであり、たしかに新しい秩序ではあったが、これには中国はもちろんのこと世界の列強が納得するはずがなかった。

こうして日本は広大な中国の領土を軍事占領した勢いにまかせて、中国に関する従前の秩序と権益の放棄を列強に要求したのが「東亜新秩序の建設」であり、それを俗な言い方に換言すれば、中国のことは日本にまかせて列強は口出しするなというものであった。

imagesCA1CW9PJまた、日本は「東亜新秩序の建設」という戦争の大義名分を美辞麗句で飾り立てその意義を強調した。なかでも自らを神の国とした日本は現人神である統治者の天皇に抱かれている恩恵をその恩恵に浴していない国、さしあたりは中国にも広げる使命を帯びているという「聖戦」論はその大きな柱となった。
また、これは当時の言い回しで御稜威(みいつ)を光被(こうひ)せしめると言ったが、御稜威には天皇のご威光という意味があったのである。

やがて、東亜新秩序の建設は「大」東亜新秩序の建設へと範囲を拡大していき、日本が米英蘭の植民地であった東南アジアへと占領地の拡大をめざし、アジア太平洋戦争へと突入していくのは「東亜新秩序建設」を日中戦争の目的として宣言してから3年あまり後のことである。

「支那事変」ないし「日華事変」と呼ばれつづけた日中戦争の本質とは

事変とよばれ続けた日中間の全面戦争!
1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までの間、ほぼ全中国を戦場として戦われた戦争のことを「支那事変」と呼んだ時期があった。
untitled3211しかし、この日中間の戦争は、たんなる「事変」としてすますわけにはいかない深刻な出来事であり、かたや中国側から見れば民族・国家の存亡をかけた祖国防衛戦争であったし、また、日本側から見ても近代日本の歴史はじまって以来の大規模な戦争であった。

戦争の期間だけ比較しても日露戦争が1年半だったのにたいし、日中戦争は満州事変から1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで14年間であり、戦争が中国全土に拡大した1937年から数えても8年間に及んでいる。
また、日露戦争の場合、戦場に送った最大兵力は17個師団40万人であったのにたいし、日中戦争の場合は戦争が全面化して以降の全期間を通じて、ほぼ100万人近い兵力を中国に送り続けたのである。
さらに戦費の額も日露戦争の軍事費が20億円未満であったのにたいし、1937年から1941年の対米開戦までの「支那事変費」だけでも280億円に達したという。

そして、この桁違いの軍事費が国内経済や国民生活に深刻な影響をおよぼし、戦争への総動員体制のもと、「贅沢は敵だ」のスローガンにより国民の消費生活はぎりぎりまで押し下げられ、食料や衣料をはじめ日常生活に欠くことのできない物資のすべてが不足し、戦争の影はすべての国民のうえにのしかかった。

このように、どの側面から見ても日中間の戦争は大規模で全面的な戦争であったが、当時の政府はこれを戦争とはよばず、事変と名づけた。
盧溝橋事件がおこった1937年7月11日に政府はこの事件を「北支事変」と公表し、戦果が上海に波及し、両国が全面戦争状態に突入した9月2日には「支那事変」と呼び名を変えた。
さらに対米開戦後の1941年12月12日に戦争の名称を「支那事変を含めて大東亜戦争と呼称す」と決定したのだが、それまでは、事変の名で押し通したのである。

事変の呼称を使わざるをえなかった当時の日本政府・軍部の事情とは!
このように当時の日本政府が戦争とよばずに事変で押し通したのには理由があった。
ひとつはアメリカからの戦略物資の輸入を続けたいという思惑であり、当時のアメリカには「中立法」という法律があり、日本が他の国と公然たる戦争を開始すると、その法律が発動してアメリカからの戦略物資の輸入が断たれてしまうのである。
当時の日本の戦争は「米英依存戦争」と呼ばれるほど米英の物資に依存しながらのものであったが、国際法上の交戦国となり、アメリカからの兵器や軍需品の輸入にさしつかえてはならなかったのである。

そして、ふたつめの理由はこれほど大規模な戦争に国民を動員しながらも国民に訴える大義名分を明確にすることができなかったことだ。
当時、日本政府・軍部は「支那軍の暴戻を膺懲(こらしめる)し、以って南京政府の反省を促がす」ということを戦争の目的として掲げていた。

これは「道理のわからない暴れ者である中国を懲らしめ、反省を求めて中国を覚醒させる」という当時の日本政府や軍部の基本的な姿勢を表現したものであるが、いわば“物分りの悪い子どもをぶったたいて立ち直らせる”という感覚がこめられている。
物分りの悪さとはいたずらに日本を敵視し、欧米に頼る中国の立場のことであり、日本にこそ頼るべきであり、さらには日本だけに頼るべきであるのが“東洋人の本然に立ち返った正しい中国のあり方”ではないかというのが日本の言い分であった。

そして、こんなこともわからずにいたずらに我が日本軍に攻撃をしかけるとはなんと道理のわからない奴らだ、ここはこっぴどく懲らしめてやらなければならないという思想がこの「暴戻支那の膺懲」という言葉に込められているのである。

だが、当時の日本政府・軍部のこのような言い分は中国を侮蔑しきった「上から目線」からの独りよがりな考え方であり、これでは国内外の世論を納得させるにはいかにも不十分であった。

また、近年では1979年にベトナムに侵入した中国軍は戦争目的に「ベトナムへの懲罰」を掲げたが、これも国際社会を納得させるものでなかったことは言うまでもない。
このように、当時の日本の場合も相手の国を懲らしめるという独善的で大国主義的な理由では宣戦布告もできず、また戦争と称することもできなかったのである。

日中全面戦争を「支那事変」という呼称で通した最大の理由について!
ところで、戦争とは言わずに事変で押し通したところに日中戦争の最大の本質が隠されているといってよいだろう。
この戦争は5億の人口を持ち、世界でも最古の文化と歴史を持つ中国に対して日本がその領土と資源を奪い、実質的な植民地として支配しようとした、あからさまな日本の側からの侵略戦争である。

untitled3311戦争と呼べなかったのは侵略戦争であるという実態が明らかなることを恐れたためであり、「領土的な野心はない」と当時の近衛首相や東条首相が宣言しながらも、中国の各地に現地軍の手によって傀儡政権がつくられ、実態上は植民地としての支配をおこなっていたことを隠すためにも、戦争ではなく事変であり、侵略ではなく膺懲であると言い続けたのであった。

また、戦後になっても日中戦争が大規模な侵略戦争であることを隠蔽するために事変と呼称することが続いており、小中学校の教科書でも支那という言葉こそ使わないが「日華事変」や「日中事変」などという表現が使われ続けた。
ただ、現在の教科書における記述がどうなっているかを筆者は確認をしていないが、この延長線にあるのではとの危惧の念を持つ。

追記
日中戦争の当時に現地日本軍の手によってつくられた傀儡政権は中国全土にわたり、その数は一つや二つではない。

黄河を中心とした華北の日本軍占領地域には北支那方面軍の手によって樹立された「中華民国臨時政府」があり、また長江を中心とした華中には中支那方面軍の手によってつくられた「中華民国維新政府」が存在した。
また、中国国民の頑強な抵抗によって軍事的に行き詰まり、泥沼化した日中戦争の政治解決をはかろうと、1940年3月に華北や華中の傀儡政権を一本化して樹立したのが南京の「中華民国民政府」である。

これは中国国民党の長老であり、蒋介石につぐナンバー2の地位にあった汪兆銘を担ぎ出したものではあったが、これも重慶にあった中国の正統政府である国民政府とは無縁の傀儡政権にほかならなかった。
また、華北には河北省の東部に関東軍の後押しによって「冀東防共自治政府」と称される傀儡政権がつくられたが、ここは中国への密貿易の拠点となり、関税フリーとなった日本からの蜜輸入品はここを通って中国全土を席巻し、同国の民族産業に大打撃を与えた。

南京大虐殺否定論のカラクリ!

南京大虐殺(以下南京事件と呼ぶ)は存在しなかったと主張する歴史修正主義の駆使する論理はそのすべてに共通する手法が存在する。
現存する人間がその目で直接見たものはいないところの過去の歴史的事実を確定するには、異なる立場をふくめて断片的であるが数多くの資料(証言・日記・写真・新聞記事・フイルム等)を発掘・収集し、さらにはそれらの膨大な資料群をふるいにかけ、それらのなかから信憑性の高い資料を選別・抽出して、あたかもモザイク絵を作成するかのように集成しながら実像にせまる歴史像を構成していくしかない。

もちろん、個人証言のような歴史資料には、「昂奮」や「偏見」、「誇張」、「歪曲」さらには一定の「虚偽」などがまざることは避けられない。
これは人間の記憶力は不完全であり、個々人は自分の置かれた立場から物事や自分の直面した事件を把握するのである以上避けられることではない。

また、多数の証言の間には様々な互いの齟齬や思い違いが避けられないし、なかったことを事実と錯覚したり、自分が直接体験していない伝聞を自分の体験と思い込んでいるケースさえ数多く存在する。
これらの個々の資料における誤認部分や不正確な部分を「玉石」混合の膨大な資料群からいわば「石」としてふるいにかけ、残った信憑性の高い資料をモザイク絵のピース(部品)として絵を完成させていく。

このようにして、南京事件というモザイク絵を膨大な資料群から浮かび上がらせて、作り上げていくのが歴史という学問の方法なのである。
「木を見て森を見ず」という格言があるが、南京事件の全体像が森であり、加害者や被害者、第三者をふくめた現場体験、目撃者の証言が木である。
かの東京裁判では裁判資料として膨大な「木」=証言・証拠を集成して南京事件という「森」を全体立証したのであった。

したがって、個々に「木」だけをみれば「錯覚」、「思い違い」、「誇張」、「思い込み」、「誇張」など様々な木があって不思議ではないが、否定論者はこの一本一本の「木」=証言をとりあげ、その木が「ニセモノ」あるいは「その森の木ではない」ことを証明することで、「森」=南京事件が否定できるかのごとき倒錯したトリックを使うのである。

否定派のトリックは証言、日記、写真、記事、フイルム等膨大な史料群のなかに一つでも矛盾や問題点を発見すれば、それだけを針小棒大に「ニセモノ」と繰り返し、「森」の「木」のすべてが「ニセモノ」からなり、「森」も「まぼろしの森」であるかのごとく錯覚させることにある。

否定論者は南京事件の中国人被害者の証言について、そのうちのほんの幾つかの証言のもつ矛盾点や、欠陥を摘発して「捏造」だとか「反日プロパガンダ」などとレッテルを貼りつけ、「そもそも中国人被害者の証言には信憑性がない」と批判攻撃し、南京事件そのものが真実性がないかのごとき錯覚をもちこむ。
個々の中国人被害者の証言にみられる欠陥や矛盾点を不当に中国人被害者一般のものへと意図的に拡大する。

有名な南京事件否定論者の使用する代表的なトリックのひとつに東京裁判に出廷したジョン・マギー牧師の証言を「伝聞の山、憶測ばかり」と決め付けてその信憑性を否定するというものがある。
マギー牧師は中国で宣教師として活動し、南京事件中は数少ない外国人として南京にとどまり、難民に安全な避難場所を提供する「南京安全区国際委員会」という救済機関の中心的な一人として活動した人物である。

マギー牧師は東京裁判での証言のなかで日本軍の暴行、強姦、虐殺など多くの事例を挙げたが、被告側弁護人ブルックスが反対尋問で日本兵による殺害の現場の瞬間を目撃したのは一人だけだという答えをマギー牧師から引き出したのである。
否定論者はこの部分だけを取り出して、証言はすべて伝聞証拠であり大虐殺などなかったと主張する。

しかし、おびただしい数のけが人や被害者の救済に忙殺されたマギー牧師が殺害現場に立ち会わなかったことはむしろ当然というべきであり、マギー牧師の証言の意義は、おびただしい数の被害者と直接に接していたことにあり、また集団虐殺の現場から奇跡的に逃げ帰った知り合いの中国人から具体的な殺害状況を聞き取り、かつ自分でそのような虐殺現場にでむき多数の中国人の死体が放置されていたところを多数目撃しているところにある。

たしかに殺害場面だけは伝聞であるが、証言内容が具体的であり、直接に被害者が目撃した事実とマギー氏の証言内容が符合すればマギー証言の信憑性は高いのである。

殺害する瞬間を目撃しなければ、それはすべて信憑性にとぼしい「伝聞」ということであれば、あの1970年代にカンボジアのポルポト派のおこなった自国民に対する大虐殺もほとんどが「伝聞」ということとなり、大虐殺はなかったということとなる。

また、マギー牧師以外にも事件当時に南京にとどまった多くの外国人ジャーナリストなどの証言や多数の中国人被害者の証言、および米国やドイツの大使館員報告など東京裁判での数多くの証拠資料と比較照合しても、マギー牧師の証言は一致符合するものであり信憑性の高い証言であることが裏付けられている。

しかし、否定論者は証言の断片だけ(殺害現場を直接目撃したのは一人だけ)を切り取って、虐殺や強姦の現場を直接目撃していなければ、死体があっても、被害者女性がいても「伝聞」であり、事実として認定できないという暴論を主張するのである。
個々の「木」=証言の信憑性が否定できれば、全体の」森」=南京事件も「まぼろし」「虚構」として錯覚させるのが否定論者の使うトリックであり手法である。

1998年にいわゆる“極東裁判史観”を批判する目的で作られた映画に「プライド」がある。
これは東条英機を主人公としたものであったが、この作品でも東京裁判におけるマギー証言にたいするブルックス弁護人の反対尋問だけを特に詳細に描き、登場人物の東条英機をして「みな伝聞だ」と言わしめている。
裁判に提出された南京における残虐行為の膨大で圧倒的な証拠群にたいして、弁護側の証拠はあまりに弱く貧しいものであり、弁護側証人はわずかに3人、書証は3通にすぎなかったという裁判をめぐる重大な事実には映画はいっさい触れない。

このように否定論者の手法は人間の認識能力の限界(事物の全体を個々人は認識が不可能)を巧みに利用し、個(部分)の欠陥や弱点を全体(モザイク絵)へと不当に拡大し、歴史の真実を否定するのである。


「歴史修正主義」と南京大虐殺

元航空自衛隊幕僚長田母神俊雄氏はホテルチェーン・アパグループの主催する懸賞論文で「わが国が侵略国家だったというのは濡れ衣」と日本軍国主義の侵略戦争を美化する暴論を展開し、侵略と植民地支配への「反省」を表明した1995年の村山首相談話をも「検証してしかるべきである」として政府見解の変更を要求したという。
しかるに田母神氏はなんらの処分を受けずに「定年退職」扱いとされたうえに、6000万円の退職金をうけとったともいう。

文民統制を逸脱した「文字によるクーデター」とも言うべき今回の行為が懲戒処分の対象にならずに「許される」という悪しき前例を残すことは、自衛隊という実力組織(現代の軍部)のトップが政府見解を覆そうとしたことの重大性からしても認めがたい。

また、田母神俊雄氏は03年から04年にかけて、航空自衛隊の隊内誌「朋友」に「航空自衛隊を元気にする10の提言」を掲載し「東京裁判は誤り」、「南京大虐殺はなかった」などと侵略戦争美化論を述べたという。
重大なのはこういった事実を知りながら07年の3月に田母神氏を航空自衛隊幕僚長に任命した安倍内閣と、それをそのまま引きずってきた歴代内閣の任命責任である。

ところで、田母神氏の主張は「歴史修正主義」そのものであり、氏の「東京裁判は誤り」とか「南京大虐殺はなかった」、「従軍慰安婦は公娼だった」などという主張はとっくの昔に破綻したものにすぎない。
しかし、憲法を改定して本格的な戦争のできる国家体制づくりを推進する勢力の動きと深い関係を持った「歴史修正主義」の議論は、政治的な基盤を持った持った戦争賛美のイデオロギーとしてやむことなく繰り返される。
そして、ウソやデマでもたびたび繰り返されれば無視しえない影響力を持つ。

それでは、「歴史修正主義」の主張は過去にどのようにして破綻したのか。その実例を「南京大虐殺否定論」をめぐってふりかえってみたい。

80年代の教科書検定で南京大虐殺などの記述が修正されたことをきっかけに、国内のみならず中国や韓国からも“歴史改竄”だとして日本政府に激しい抗議が集中した。
これにより教科書問題は国際化したが、日本政府は官房長官談話を発表して日本の侵略と南京大虐殺を認めているとする政府方針を再確認することで一応の決着をはかった。
しかし、この政府の対応は右翼や自民党のタカ派から内政干渉への屈服だとの反発を呼び起こし、これらの勢力を背景として「南京大虐殺否定論」が再び登場する。

しかし、鳴り物入りで登場した否定論はまもなく破綻してしまい、南京大虐殺をめぐる論争はもはやこの時点で基本的に決着した。
否定論の代表的論客であり、南京港攻略戦を指揮した松井石根大将の秘書であった田中正明氏はこの頃に「松井石根大将の陣中日記」を刊行した。
しかし、こともあろうに大虐殺を否定するために全文中の300箇所以上にもわたって原文を改竄していたことが暴露されてしまった。

また、旧陸軍将校の親睦団体である偕行社は月刊の機関紙「偕行」に、84年の4月から85年の2月まで「証言による“南京戦史”」を掲載した。
これは会員の南京戦参加者の証言を集め、事実を持って大虐殺という「冤罪」を晴らそうという野心的な企画でもあった。

しかし、南京戦参加者の証言が集まってくると、企画者の意図に反して「たしかに虐殺はあった」、「何千という捕虜を命令で殺した」などという証言が続々と寄せられたという。
だが、編集者側では事実を明らかにするという立場で、否定のみならず、肯定の証言をもあえて掲載したのである。

そして、編集者は連載の最後に「その総括的考察」と言う文章を掲載する。
そこで遺憾ながら日本軍はクロであったし、大量の不法殺害があったことは動かしがたい事実と認め、「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民にわびるしかない。実に相すまぬこと、むごいことであった」と謝罪したのであった。
「偕行」編集部がこのような態度をとったことで事実上「南京大虐殺否定論」は完全に崩壊する。

また、司法の場でも否定論は敗北した。
93年の家永教科書裁判にかんする東京高裁の判決は南京大虐殺の存在とその際の強姦の多発をも認定し、その歴史的事実の記述の削除を要求した文部省の教科書検定を違法と断定した。
さらに、97年の最高裁判決がこの高裁判決を支持したことで、司法の場においてもこの問題についての決着をみた。

このように現在の「南京大虐殺否定論」をはじめとした「歴史修正主義」のもろもろの議論は、とうの昔に決着したことを蒸し返しているだけで、学問的な主張とは到底呼びえないシロモノにすぎない。
21世紀のアジアで日本が真に愛され尊敬される国として歩んでいくためにも、歴史の改竄は認めてはならない。
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西岡三郎
千葉県銚子市に在住
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