光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

領土問題

尖閣に不法上陸したネット右翼らによる売名行為の愚と国会による挑発的な上陸非難決議について!

○尖閣に無許可上陸した地方議員らの振る舞いについて!(チャンネル桜やネット右翼たち)
太平洋戦争末期の1944年7月に日本軍は沖縄戦に備え、石垣島住民に疎開命令を出しました。
だが当時は台湾までの航路の制海権は米軍が掌握しており、疎開には大きな危険がともないました。
案の定、疎開船は米軍機の攻撃を受け多数の死者をだし、この攻撃で生き残り尖閣諸島の魚釣島に漂着した生存者も食料が底をつき、餓死者が続出するほど過酷な境遇を強いられました。
また生存者は決死の思いで小舟を出して石垣島にたどり着き、ようやく救助されています。(「沖縄県史」には米軍機の攻撃や魚釣島での飢餓に苦しんだ生存者の様子が生々しく記載されています)

さて最近、この事件による戦争犠牲者を慰霊する催しが石垣島で開催されましたが、一部の地方議員やネット右翼、チャンネル桜関係者は慰霊祭を口実に尖閣諸島に繰り出し、魚釣島に上陸したのです。
これは香港の右翼ナショナリストの尖閣上陸に対抗してなされたものですが、沖縄戦の犠牲者を政治利用して偏狭なナショナリズムを煽り、尖閣諸島をめぐる日中間の対立を意図的に拡大しようとする売名行為には許しがたいものがあります。
領土をめぐる対立を激化させ、先島諸島への自衛隊配備をすすめようという動きに加担するこの面々は沖縄戦の犠牲者を冒涜しています。
また、日中間の対立を意図的に煽る石原都知事の暴言をいっさい批判しないで、逆に持ち上げる東京の大マスコミもこの面々と同罪です。

○領土問題をめぐって感情的な対立と偏狭なナショナリズムを煽る国会と大メデイア!
8月24日に国会は韓国大統領が竹島へ、香港の民間活動家が尖閣へそれぞれ上陸したことについて、それらを非難する「上陸非難決議案」を圧倒的多数の賛成で議決しました。
問題はその中身であり、竹島については大統領の上陸を非難するにとどまらず「竹島の不法占拠を韓国が一刻も早く停止することを強く求める」と、これまで政府も求めてこなかったエスカレートした要求をつきつけています。
また、日本政府に対しても「断固たる決意と毅然とした態度」を求めており、領土問題で一番大切な冷静な外交交渉で解決しようという立場は一片もありません
尖閣に対しても「警備体制の強化を含んだあらゆる手立てを尽くす」ことを求めており、もっぱら物理的な対応の強化を求めるものとなっています。

国会が領土問題についてとるべき対応は双方に冷静な話し合いを求めることであり、逆に感情的な対応を煽り、緊張を高めるような振る舞いはすべきでありません。
また、石原都知事は10月には尖閣への上陸を公言しており、石原氏と一体となった東京のマスコミはこの挑発的な言動を諌める論調をいっさいしていません。
国会の圧倒的多数の議員や石原都知事および大メディアは感情的な対立を煽り、偏狭なナショナリズムを焚きつけています。

植民地支配の問題と向き合うべき竹島問題、辺境の無人島の帰属問題よりもまず解決すべき大きな主権侵害の問題がいくつもあります。

◎竹島は日本領ですが、決着には植民地支配の不当性に向き合うことが必要です!
竹島をめぐる領有権の問題がクローズアップされています。ここで詳しいことを論ずるはできませんが、竹島は1905年に正当な手続きによって日本領に編入されています。
だが、この時期は日本が韓国を植民地化するプロセスをすすめていた時期でもあり、韓国はすでに外交権を剥奪されて異議申し立てができる条件がありませんでした。ですから、この問題は韓国側の言い分もあらためて検討すべきであり、植民地支配への反省という問題が基礎にないと冷静な話し合いを成り立たないと思います。

現在は1965年の日韓基本条約が日韓両国関係の基礎になっていますが、この条約は韓国併合を不当なものと認めてはおらず、日本は韓国の承諾のもとに併合を行ったという虚構の上に成り立っています。
韓国併合(植民地化)の不当性を認めずに竹島の領有権を日本側が主張するので、韓国民の側からは「侵略の象徴」との声がでてくるのです。両者は相対の関係にあります。
植民地支配の誤りと正面から向き合い、その土台の上にたって竹島問題の協議を呼びかければ史実に基づいた冷静な話し合いが可能となり、日本領であることも確定できます。
日韓の間の領土、従軍慰安婦などをめぐってもつれた糸をときほぐすにはこの方法しかありません。

◎尖閣諸島は日本の歴史的領土ですが、こんな問題はTPPや米軍機の超低空飛行などに比べればちっぽけな問題です!
尖閣諸島は1885年に日本人の古賀辰四郎が移り住み、1895年に日本政府の閣議決定で日本領に編入されたものです。そしてこれが歴史上最初の領有行為であり、「無主の地」であった尖閣諸島に対する国際法でも認められた正当な領有行為でもあります。なぜなら古賀辰四郎が移り住むまでに同諸島に人が住んでいた形跡や記録は一切なかったのです。
また尖閣は日清戦争で日本が中国から奪った台湾とその付属諸島でもなく、日本の領有権は歴史的にも国際法的にも正当なものです。

問題は1978年の日中平和友好条約締結が領土確定の最大の好機だったにもかかわらず、当時の中国のトウ小平副首相が唱えた尖閣領有問題の「棚上げ」論にたいして日本政府が領有権を明確に主張しなかったことです。
これが最初のボタンの掛け違いであり、当時の自民党福田内閣がその当事者でした。
だが、「棚上げ」論でもなんでもこの問題は国民の生活には何の関係もありません。そんなことよりオスプレイなどの米軍機が日本の空を航空法違反の超低空で飛び回り、事故や騒音被害を撒き散らしていることのほうがよっぽど深刻な主権侵害です。
尖閣や竹島など辺境のちっぽけな島の領有の問題などこの問題が解決してから取り組んでも充分です。
筆者から見ればまるで大の大人が10円玉や100円玉の所有権をめぐって争っているかのごとき様相です。日本の主権の問題を言うなら日本を米国の経済的な植民地にしかねないTPP参加こそ言語道断です。

蒋介石の寛大政策からはじまった日中間の平和友好回復の歩みと現下の尖閣問題について

日中戦争直後における蒋介石の寛大政策とはなんだったか!
1945年(昭和20年)8月15日、八年以上にわたる抗日戦争に勝利をおさめた国民政府の蒋介石はラジオを通じて勝利宣言をおこない、敗戦の身になった日本軍将兵や中国残留の日本人に対して報復をしてはならないと呼びかけた。
この蒋介石の演説は「恨みに報いるに徳をもってせよ」との言葉に集約されて今日まで伝わっているが、蒋介石の実際の呼びかけは次のとおりであった。

「我々は報復を考えてはならず、まして敵国の無垢の人民に汚濁を加えてはなりません。・・・・・・もし、暴行を持ってかっての敵がおこなった暴行に報い、奴隷的な辱めを持ってこれまでの彼らの優越感に報いるならば、報復は報復を呼び、永遠に終わることはありません。これはけっして我々仁義の士の目的ではありません」

この蒋介石の勝利宣言にもとづいて、第二次大戦の“戦勝国”中国は“敗戦国”日本にたいして歴史上まれに見る寛大な処置をおこなった。
それは一千万人を上回るといわれた中国軍民の血の犠牲と天文学的な物的損害にたいする膨大な戦争賠償金の全面放棄であり、中国大陸に残留する日本軍民二百万人の安全帰国の早期実現などであった。

日本からもっとも甚大な被害を受けた中華民国の指導者がこのような常識では考えられないような寛大な処置をとった理由のひとつは、蒋介石が熱心なクリスチャンであったことだ。
聖書の「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」(マタイ福音書5:44)、「悪に負けてはなりません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ書12:21)の言葉をそのまま実行したのである。

こうして蒋介石政府の寛大な戦後処理は、日本の侵略戦争であった日中全面戦争によりズダズダになった日中両国間の平和友好の回復をめざす最初の第一歩となったのである。

「撫順戦犯管理所」での“戦犯”たちへの人道的な処遇と寛大政策!
images11161また、中華人民共和国成立後における寛大な処置の事例が、日本軍国主義の積極的な手先として数多くの非人道的な罪をおかした“戦犯”たちへの「撫順戦犯管理所」での人道的な待遇とその後の寛大な処分である。

当初は「撫順戦犯管理所」に収容された1000人近い“戦犯”のなかから100人程度を裁判にかけて、70人余りを死刑に処する方針だったらしいのだが、それに反対した故周恩来首相は次のように指示したという。
「裁判にかける人数はもっと少なく、死刑や無期(禁固)は一人もだすな。有期刑は最高でも20年。今が納得できないかもしれないが、二十年後に分かる」

こうして管理所での人道的な待遇のもとで多くの“戦犯”たちが自らの加害行為を認め、被害者側に包み隠さず供述するようになっていき、「認罪」の道へと踏みだしていった。
また、1956年夏にはほとんどの“戦犯”たちが不起訴・即日釈放となって帰国し、死刑判決もなく、特に罪の重い45名のみが禁固刑をうけただけであった。
中華人民共和国成立後における日本の“戦犯”たちへのこのような寛大な処遇も、蒋介石の寛大な戦後処理とともに日中間の平和友好の回復に貢献したことは言うまでもない。

「あいまい領域」を認め合うことで保ってきた平和友好関係と歴史の重みを思う!
imagesCAK159UIところで、いま日中間には尖閣諸島沖での日本の海上保安庁による中国漁船拿捕とその後の経過をめぐって大きな波風が立っており、日本国内では反中国派と一体となったマスメディアなどが反中国の排外主義的なナショナリズムを煽る論調を垂れ流している。
もし、このまま両国民の排外主義がエスカレートして互いの反中国、反日の機運が際限なく高まっていったら、日中友好関係はまたたく間に崩壊しかねない状況だ。

だが、ささいなトラブルにこだわり、反目や憎悪を乗り越えて先人たちが戦後65年にわたって営々と築いてきた現在の日中関係を破壊することは「愚の骨頂」である。
そもそも1972年の日中国交回復と1978年の日中平和友好条約締結の際には、尖閣諸島をめぐる領土問題を「棚上げ」とすることで国交回復を実現し、平和友好条約を締結したのであり、それ以来、日中両国間の平和友好関係はお互いが尖閣諸島の領有権といった「あいまい領域」を認め合うことで保たれてきたといってよい。

筆者はこの間に、尖閣諸島が日本の正当な固有の領土であることを歴史的な事実と道理をもって主張すべきであったとは思うが、良くも悪くも「あいまい領域」をお互いが認め合うことで友好関係を保ってきたことは紛れもない事実である。
ところが、現在の管政権と前原大臣はこの「あいまいさ」を否定し、中国漁船を逮捕することで中国当局にたいして領土問題に関しては「あいまいさ」がないことを強引に認めさせようとした。

ここに今回の流出ビデオ問題をはじめとする一連のトラブルの根源があり、今回の紛争は日本側(前原大臣)が仕掛けたものに他ならない。
今回の問題の本質は前原流の「あいまい領域」なしを力ずくで中国に認めさせ、対立関係をエスカレートさせるのか、あるいは今までのように「あいまい領域」を残してでも日中の平和友好関係を守るのかにある。
日中戦争における甚大な犠牲と、反目と憎悪を乗り越えながら平和友好関係を築き上げてきた日中両国の先人たちの営々たる歴史的営みを考えるとき、選択すべきは後者の道以外にはない。
現在の日本人は歴史の教訓とその重さをもっと知るべきである。

日本の歴史的な領土である千島列島全体の返還を目指すべき(唯一残されたソ連の不当な領土併合)

image11111ロシアのメドジェーエフ大統領がソ連時代を含め、ロシアの最高指導者としては初めて千島列島の国後島を訪問したという。
この間、ロシアは日本が降伏文書に調印した9月2日を「第二次大戦終結の日」としながら、千島は「第二次大戦の結果、ロシア連邦の領土となった」と強調しており、その変更は断じて受け入れられないとの姿勢をしめしてきた。

これらの同国の振る舞いはロシアが日本の歴史的な領土である千島列島を将来にわたっても不当に領有しようとの意図を露わに示したものであって、断じて容認できるものではないだろう。

日ロ領土問題の根源(スターリンの不当な領土併合をめぐって唯一残された問題)!
そもそも、日ロ領土問題の発端は第二次大戦終結時におけるソ連の独裁者スターリンの覇権主義的な領土拡張政策にある。
スターリンはヤルタ会談(1945年2月)でソ連の対日参戦の見返りとして米英両国の指導者に千島列島の「引渡し」を求め、これを米英両国とも承認したことを根拠に日本の歴史的領土である千島列島を併合した。
これはカイロ宣言などに明記され、スターリン自らも承諾した「領土不拡大」という連合国の戦後処理の大原則を踏みにじる暴挙であり、きわめて不公正なやり方に他ならなかった。

また、ソ連の独裁者スターリンは極東にとどまらず、第二次大戦の時期に前後してヨーロッパで不当な領土拡張政策を強行しているが、その代表的な事例がバルト三国であろう。
これは第二次大戦直前にナチスドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結した際の秘密議定書によってソ連への併合が強行されたものであり、この領土をめぐるスターリンの悪しき遺産はソ連崩壊直前にバルト三国が独立し、主権を取り戻すことでようやく清算された。

また、バルト3国併合と前後してポーランドの一部もソ連によって併合されたが、これらスターリンの覇権主義的な領土拡張のうち、そのほとんどがすでに解決をみており、当事国からの厳しい批判のないまま、今にいたるも解決のメドがたっていない唯一のものが日ロ領土問題であり、千島列島の帰属の問題だ。

サンフランシスコ講和条約で千島放棄条項を受け入れてしまった日本政府!
なぜ、大戦後65年もたった今でも日ロ間の領土問題解決のメドがたっていないのか、その根源を探ると歴代自民党政権の誤った対応につきあたる。

1951年のサンフランシスコ講和条約第2条C項で日本政府は千島列島に対する全ての権利や権原を放棄しており、このことでヤルタ協定での千島の「引渡し」条項という秘密の取り決めを日本政府が追認してしまった。
また、サンフランシスコ講和条約の後に同条約の「枠組み」のなかで領土問題の解決をはかろうとして、国際的には通用しがたい論理を持ち込んだ。
持ち込んだ論理とは国後と択捉は千島列島でないから返せという主張であり、ここに国後、択捉、歯舞、色丹四島をあわせた「北方領土」の返還要求という動きがはじまった。

しかし、サンフランシスコ講和条約で日本政府が放棄した千島列島に国後や択捉が含まれることは、日本政府自身が講和会議の場や、その後の同条約批准をめぐる国会論議で公に表明してきたことであり、あとになってこの解釈を覆そうとの試みが国際的に通用するものではなかったことは、その後の領土問題をめぐる歴史的な経過が雄弁に物語っている。

また、「北方領土」返還論は千島列島の一部である国後・択捉と、もともと北海道の一部である歯舞・色丹とを同列に並べるものであり、一括返還の立場をとることで歯舞・色丹の早期返還の道を逆に閉ざしてしまった。
もとから歯舞と色丹は放棄した千島には含まれない北海道の一部であり、最終的な領土確定をまって締結される平和条約を待たず、早期に返還されるべき島々であるからだ。

「領土不拡大」という大原則と歴史的な事実にたって領土交渉をすべきである!
このように千島放棄を前提としたサンフランシスコ講和条約の「枠内」で日ロ領土問題を解決しようとしてきた歴代自民党政権の方針では、日ロ領土問題の活路は開かれないことは今までの歴史的経験から明らかとなっている。
領土問題を本気で解決しようとすれば第二次大戦の戦後処理の大原則である「領土不拡大」の原則に立って、その不公正をただすという立場に立っての外交努力を尽くすしかない。

また、サンフランシスコ講和条約の千島放棄条項にとらわれる必要もなく、国際正義に反する条約は当事国の国民の異議申し立てによって是正することが可能であり、これは国際法上の権利でもある。
サンフランシスコ講和条約には沖縄の施政権の米国への引渡し条項があったが、日本国民の要求と運動によってその条項は“立ち枯れ”となり、基地問題を積み残しながらも施政権の日本への返還が1972年に実現したことはその前例でもある。

また、千島列島が最終的には1875年に於ける日ロ間の「千島・樺太交換条約」によって平和的に日本の領土として確定したことは歴史的な事実であり、第二次大戦の時期まで千島が日本の領土であることが国際的に問題になったことはない。
この歴史の事実に立脚した外交交渉を基本とすべきであり、「国後、択捉は千島にあらず」という歴史をゆがめる論理をもちだすことはもはや止めるべきである。

民主党政権に旧政権による領土交渉を見直して、歴史的な経過と国際的に通用する道理にもとづいた方針への転換を求めたい。
歴史の不正を改めていこうとの試みに時効というものはない。
image154611112

尖閣諸島が日本固有の領土であることを明かす史実と「北方領土」問題について

東アジア情勢が騒然としていた頃の尖閣諸島周辺における日中両国民の交流の史実から!
1919年(大正8年)尖閣諸島の近海で中国の福建省の漁船が大時化にあって船が難破し、31人の乗組員が漂流するという事件がおこった。そして、この乗組員たち全員を助けたのが古賀善次という人物である。
images1031古賀善次は尖閣諸島で欧州むけのアホウドリの羽毛の加工やかつお節造りを始めた古賀辰四郎の子息であり、辰四郎の後を継いで尖閣諸島で事業を展開していた。

善次は乗組員の一行を石垣島へと連れていって手厚くもてなしたうえで、船の修理もおこなって彼らを無事に中国へと帰国させたのである。
そのため善次や石垣の人々には中国政府から感謝状がおくられており、中華民国の在長崎領事の署名入りの感謝状には、漁船が難破した場所を「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内」と記した文面が含まれていた。

当時は第一次大戦のどさくさにまぎれて日本が中国への領土要求をおこない、山東半島をよこせと中国政府に詰め寄っていた時期であり、愛国心に燃えた北京の学生たちが街頭に飛び出し大規模なデモ行進を展開していた。
これが有名な「五・四運動」であり、日本製品(日貨)ボイコット運動が中国全土へと広がっていた時期でもあった。

だが、このような騒然とした東アジア情勢のもとでの古賀善次たちを中心とした東シナ海での日中間の交流は、当時は中国も尖閣諸島を日本の領土と認めていたことを裏付ける貴重な史実である。
どの国の国民も定住していなかった尖閣諸島を、1895年の閣議決定で日本政府が編入を決定したのが歴史的に最初の領有行為であり、これは無主の土地にたいする「先占」による実効支配を認めた国際法で認められたものであった。

さらにその後、1970年代にいたるまでの75年間に尖閣諸島領有に関しては他国から異議申し立てはなく、このことは先の古賀善次と中国漁民をめぐる史実によっても裏付けられている。
また中国が尖閣の領有権を主張しだしたのは海底油田の可能性が指摘され始めた71年であり、中国の国内法に尖閣を自国領土だと書き込んだのは92年になってからだ。

このように尖閣諸島は中国領であるという中国側の主張には道理がなく、同諸島が日本固有の領土であることについて、日本政府はその根拠と正当性を国際社会や中国政府にも堂々と正面から主張すべきだ。
だが、管首相は先の国連総会の場において日本側に理があることをまったく主張しておらず、さらに米国の国務長官が尖閣諸島は安保条約の適用対象とコメントしたという話が流れただけであり、同諸島が歴史的にも法的にも日本固有の領土であるということが相手の中国政府や国際社会にどれだけ伝わったかというと、これっぽっちも伝わってはいないというのが現状である。

領有権の根拠について自信を持っているならば相手や世界に対してもっと堂々と主張すべきであり、そこからこそ外交交渉が始まるのではなかろうか。

「北方領土」問題をめぐる歴史的原点とはなにか!
また、いわゆる「北方領土」の問題が尖閣諸島の問題に連動する形で浮上しているが、この問題の核心はその歴史的な経緯にある。

千島列島はそもそもが19世紀後半における日ロ間の領土交渉で歴史的な国境線が画定しており、南千島は1855年の日露通好条約で日本への帰属が決まり、北千島も1875年の千島・樺太交換条約で日本への帰属が確定している。
この千島列島全体が日本に帰属したという日露間の歴史的な領土交渉の経緯を踏まえたうえで「北方領土」問題には対処すべきだ。

また、第二次大戦の戦後処理の際にソ連のスターリンが連合国間の約束事である「領土不拡大」の大原則を破って千島の引渡しを求め、米英がこれを承認したという戦後処理の誤りも正す必要がある。
さらに、この誤った戦後処理を日本政府がサンフランシスコ講和条約において千島列島放棄条項を宣言することで追認したという問題も存在する。

また、歴代自民党政府は交渉にあたり国後・択捉の南千島は講和条約で放棄した千島列島には属さないという“無理筋の論”をたて、さらに北海道の一部で千島には含まれない歯舞・色丹と合わせて返還要求を四島に限定し、北千島は最初から放棄するという態度をとり続けてきた。(この立場が「北方領土」返還運動と呼ばれてきた。)
いわゆる「北方領土」問題の解決にはこれらの歴史的原点に立ち返る必要がある。
imagesCA8PEQ50



追記
日本政府が1951年のサンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄するという重大な宣言をしながら、その5年後に「国後と択捉は千島に含まれない」という見解を発表し、歯舞・色丹と合わせた「北方領土」として返還を求めたことが、現在のロシアとの領土交渉における行き詰まりの出発点となっている。
沖縄の施政権をサンフランシスコ講和条約で米国に引き渡しながらも1972年に本土復帰を実現させたように、サンフランシスコ講和条約にある「千島放棄条項」を乗り越えて、全千島返還を求めることは不可能ではない。

尖閣諸島は日本の領有が明白である。(正しい意味での国益は積極的に主張すべきだ)

images9211沖縄の尖閣諸島周辺で中国の漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、漁船の船長が逮捕されるという出来事がおこった。
だが、この日本の海上保安庁の取り締まり行為に対して尖閣諸島の領有権を主張する中国側からの抗議が続いており、尖閣諸島をめぐるトピックが連日マスメディアをにぎわしている。

筆者は尖閣諸島の日本の領有権は歴史的にも法的にも明確であり、同諸島付近の領海内での外国漁船の違法な操業にたいして、海上保安庁が取締りをおこなうことは何の問題もなく当然のことと考えている。

歴史的にも法的にも日本の尖閣諸島の領有権は明白である!
そこで、まずは尖閣諸島をめぐる歴史的経緯を振り返ってみたい。
同諸島は石垣島の北の海域にあり、古くからその存在については日本でも中国でも知られていた。
だが、いずれの国の住民も足を踏み入れることのない不毛の岩礁だらけの無人島としてその存在が注目されることもまたなかった。

そこへ日本政府が尖閣諸島の最初の領有行為をおこなったのは1895年のことである。
日本政府はそれまで無人島でどこの国の領土とも決まっていなかった同諸島の領有状況を慎重に調査し、いずれの国にも属していないことを確認したうえで同年1月14日の閣議決定によって沖縄県への編入を決定した。
その後は日本人の入植がおこなわれ、島には鰹節工場が作られるなど日本の実効支配が続き、工場が1940年に閉鎖されて再び無人島に戻った後も島には開拓者の所有する民有地は残った。

また、国際法にてらしても、誰も足を踏み入れたことのない無主の土地は最初の「先占」(最初に足を踏み入れること)による取得と実効支配が認められており、1970年代に至るまで外国から日本の領有権に対して異議が唱えられたことは一度もない。

また、1895年の日清戦争の戦勝によって日本が中国から略取した台湾や澎湖諸島などは第二次大戦の戦後処理の一環として中国へ返還されたが、それらの領域に尖閣諸島が含まれていなかったことは当時の中国が尖閣諸島を要求しなかったことからも明らかだ。
これは日本による同諸島の領有は侵略戦争による不当な領土拡張ではなく、国際法上も正当なものとして認知されていたからである。

ところで中国や台湾が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは1970年代にはいってからのことであり、69年におこなわれた国連の海洋調査で同諸島周辺海域での大量の石油埋蔵の可能性が指摘されたことがその背景には存在する。(指摘された石油の埋蔵量はイラクの埋蔵量にも匹敵すると推定された)

ところで台湾や中国側の主張する尖閣諸島の領有権の根拠であるが、同諸島が中国側の大陸棚に連なっているということの他に、中国の古文書に中国から琉球貿易に向かう船が航路の標識としてこれらの島を航海に役立てていたという記述があり、最も古くから同諸島の存在を認識していたという解釈によっている。
だが、中国の文献にも中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住したという記述はない。

また、1970年以前の台湾や中国の公文書などには同諸島は日本領であることが記載されており、沖縄が米国の施政権下にあった時代にもその領有をめぐって両国が米国当局へ抗議した事実もなく、海底油田の発見によって以前には黙認していた関係を後になって覆そうという主張には道理がない。
このように、歴史的な経過や国際法にてらしても尖閣諸島とその周辺は日本の領土・領海であることは明確だ。

日本側に理のある領土問題は国際舞台で日本の大義を明らかにすべき!
ゆえに中国漁船衝突事件がおきたときにとった海上保安庁の行動には非はなく、先手を打って抗議すべきは日本側であった。
だが、残念なことに日本側の外交は不在にも等しく、管政権は「小沢叩き」を最優先させて積極的な対応をとろうとはしていない。
そして一方的な中国の外交攻勢にたいしては「冷静に対応する」という名の「引きこもり外交」を続け、事実上外交を放棄している。これでは正しい意味での日本の国益を失いかねない。

管政権はわが国の尖閣諸島の領有権には明確な国際法上の根拠があることをもっと主張すべきであり、国際舞台で積極的に明らかにしていくべきである。
日本のほうに理のある領土問題に関する紛争でいたずらに譲歩すべきではなく、攻めの姿勢で強く出ることは「戦略的互恵関係」にある日中関係を損なうものではない。
images9212
最新記事
Profile
西岡三郎
千葉県銚子市に在住
QRコード
QRコード
Recent Comments
「最新トラックバック」は提供を終了しました。
  • ライブドアブログ