光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

沖縄戦

沖縄戦の戦跡をめぐりすすめられてきた靖国化(日本軍の顕彰と戦争の実相の切り捨て)

戦争体験の風化がすすみつつある戦跡群!
沖縄戦の際に本島中北部の米軍キャンプに収容されていた住民が郷里やその周辺に戻ることを許されたのは1945年(昭和20年)の末であったが、本島南部ではまずは散乱する遺骨の収容を完了させねばならなかった。
この時、南部の米須海岸の付近のキャンプに収容されていた真和志村(現在の那覇市)の人々が散乱していた白骨の収拾作業をおこなって3万5千体にものぼる遺骨を収容し、米軍からもらったセメントなどから作ったものが「魂魄の塔」である。

images11081沖縄各地には他の都道府県の戦没者のための碑が建てられているのにたいして、沖縄県の塔というものはなく、現在でもこの「魂魄の塔」が事実上の沖縄県の塔となっている。
また、遺骨の詰まった慰霊塔はこの「魂魄の塔」ばかりではなく、大小さまざまなものが各地に散在するが、残念なことにはその多くは雑草に埋もれるにまかせられ苔むした石碑となって、人知れずに風化しつつあるのが現状だ。

日本軍を顕彰する石碑群へと変容した南部戦跡!
だが、このような沖縄戦の真の戦跡が忘れ去られつつあるなかで、観光化がすすみ土産品店が軒を並べ、門前市をなしている一群の戦跡群がある。
それは南部戦跡(沖縄戦跡国定公園)めぐりという観光コースの目玉として組み込まれた小録海軍壕(豊見城村)や「ひめゆりの塔」、そして牛島軍司令官を祀った摩文仁丘の「平和祈念公園」などだ。

また、喜屋武岬の「平和の塔」は地元部落の人々が周辺に散乱していた遺骨をあつめて建立した納骨堂を、国の霊域整備事業によって現在の地に移築したものであるが、その際に碑文が日本軍(第62師団)の「玉砕」や「偉烈」を顕彰したものに置き換えられ、避難民の無縁墓がいつのまにか軍隊の慰霊塔にすり替えられた。

戦争の傷跡を生々しくとどめた真の戦跡は放置される一方で、日本軍を顕彰する慰霊塔ばかりが林立し、いつのまにか南部戦跡の中心点も沖縄住民最後の地である「魂魄の塔」から、牛島軍司令官を祀った摩文仁丘へと移しかえられた。
また、「沖縄南部戦跡観光」の観光ガイドたちもひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊の若人たちの「殉国美談」を語り、「英霊」たちの安らかならんことを祈って「海ゆかば」を唱和することはあっても、鉄の暴風に追いつめられた無数の住民たちの生きざまや死にざま、軍民雑居のなかでの軍隊と住民との骨肉相食む“地獄絵図”などは口にしなくなった。

沖縄戦跡からは沖縄住民の戦場体験が切り捨てられ、日本軍の「勇戦敢闘」や「偉烈」を語り伝えるためのものへと再編成されていき、「南部戦跡の靖国化」がすすんでいった。
また、そこからは戦争の実相も浮かび上がらず、戦争にたいする人間としての抗議の声もかき消された。

戦争神話を生み出し「戦跡の靖国化」をすすめた援護法!
さて、この「南部戦跡の靖国化」がすすんだのは戦没者の遺族への対応として、援護法、正式には戦傷病者遺族等援護法が1952年に制定されたことをきっかけとしている。
この法律は当時まだ米軍支配下にあった沖縄にも適用がはかられ、沖縄の軍人、軍属や準軍属(一般住民で「戦闘協力者」と認定されたもの)の扱いが決められた。
そして、該当者には遺族年金や障害者年金が支給され、さらにはその適用者の名簿が靖国神社に渡され、同神社に合祀されることとなった。

だが、ここで「戦闘協力者」と認定されるためには軍の要請により戦闘に参加したことが立証されなければならず、遺族が日本軍によって家族が殺されたという事実を申し立てても拒否されることになった。
そこで、現地では民間人とくに学徒隊や義勇隊、集団自決者や児童、幼児といった各層の人々がいかに日本軍に献身的に協力したかを強調する風潮が起こり、「国を思い、郷土を愛し、身を挺して祖国のために散っていった殉国の至情」といった戦争神話が続々と生み出された。

こうして住民虐殺や集団自決という名の強制死、沖縄人の総スパイ説などといった戦争の醜悪な側面はみごとにぼかされ、靖国思想による沖縄戦記の再構成がおこなわれた.
さらには、援護法や靖国神社とのつながりから沖縄戦を「祖国防衛」として美化する遺族の集まりも生まれ、戦没者の追悼のありようも大きく変容していった。
こうした沖縄側の援護法適用運動の影響を受けてすすんでいったのが「戦跡の靖国化」であり、沖縄戦で沖縄の人々を本土決戦準備にむけた時間稼ぎのための捨石にしたことや、多くの犠牲を生み出したことを認め反省するような国の記念館も記念碑がひとつもないのが沖縄の現状である。

また、日本政府が先の戦争を誤った戦争であることを認めず、正当な戦争としてこれへの貢献度に応じて援護していこうとするのが援護法である。
ゆえに、この法律には侵略戦争への反省という要素がひとかけらもなく、そもそも日本政府には国家がおこなった誤った戦争により犠牲になった人々への償いとして補償をしようとする意思がさらさらにない。

追伸
image110911995年に元鉄血勤皇隊員であり沖縄戦研究者でもあった太田昌秀知事のもとで作られたのが「平和の礎」である。
「平和の礎」は恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく沖縄戦で亡くなられたすべての人の氏名を刻んだ記念碑であり、日本の戦争を美化・正当化する靖国神社が日本軍人のみを「英霊」として祀っているのにたいして、民間人も含めさらには敵味方の別なく、すべての戦死者を追悼しようという記念碑である。

ただ、沖縄県民を捨て石として犠牲にした牛島司令官や住民を虐殺した日本軍将兵、沖縄県民、さらには強制連行されてきた朝鮮人軍夫や慰安婦たちを同列に刻銘することに異議を唱える人々もいる。

参考 沖縄戦 大城将保 高文研

沖縄戦での日本軍による残虐行為と住民へのスパイ視という組織的犯罪

images11011沖縄戦では日本軍によるさまざまな残虐行為が住民に対してなされた。これは沖縄戦を語る際に欠かすことのできない大きな要素である。

直接に日本軍が手をくだしたケースだけでも、住民からの食糧強奪や軍へのガマの提供をしぶった者、軍民雑居の壕内で泣き叫ぶ乳幼児、米軍に投降した者や保護された者、米軍から食糧をもらった者、投降を促す米軍のビラを所持していた者、日本兵からの尋問に答えられなかった聾唖者や精神障害者など、実にさまざまな理由で日本軍による住民虐殺がおこなわれており、その多くはスパイなどという名目で処刑された。

その処刑のやり方も凄惨をきわめ、公開処刑のようなこともおこなわれた。
沖縄守備軍の坑道の入り口にスパイの嫌疑で30歳ぐらいの女性がつれてこられ、憲兵が「これから処刑する」と言い、近くの電柱に縛り付けた。そして、壕内にいた朝鮮人慰安婦4〜5人に日の丸の鉢巻をしめさせ、手には40センチぐらいの銃剣を握らせて、憲兵の「次」、「次」という命令によってつぎつぎに刺突させた。次には縄を切って将校が軍刀を振り下ろして斬首し、それを見ていた兵隊や学徒隊員らが次々に女性に石を投げつけたという事例が「玉城村史」に記載されおり、投降しようとする住民を背後から射殺した事例や、米軍のビラを持っていただけのいたいけな少女をスパイとして捕らえ、拷問のうえに殺した事例など枚挙にいとまがない。

敗北の責任を住民の「スパイ行為」に転嫁した日本軍!
このような頻発する日本軍の残虐行為の根底には沖縄戦が「国体護持」、すなわち天皇制を守るための戦いとして位置づけられたことがある。
上官の命令は天皇の命令であり、住民に対しては下級兵士の言うことであっても「天皇の命令」として強制され、将兵が生き延びるためには住民から食糧や避難場所を奪うことも、当然のこととされた。

そして、天皇の軍隊である「無敵皇軍」が負けるはずもなく、劣勢に追い込まれていくのは住民の中にスパイがいるからだとされ、その責任は沖縄住民に転嫁された。
沖縄の住民がスパイをしているという話は軍司令部や部隊本部などで公然と語られ、軍内部でも組織的に通達されており、「沖縄の奴らはみなスパイだ」とさけぶ将兵が多かったことは数多くの証言集などにも残されている。

神の国である日本の皇軍が負けるはずはないと思い込んでいる者たちにとって、日本軍が負けるのは内部にスパイがいるからだとしか考えられず、理性を失って物事を客観的に冷静に見られなくなった日本軍の将兵たちはその矛先を沖縄住民へと向けていった。
沖縄戦における日本軍の残虐行為は一部の兵士による例外的な行為ではなく、絶対的な存在の天皇を担ぐ「皇軍」である日本軍そのものの体質が生み出したものであった。

住民のいのちを救った良心的な日本兵がいたことについて!
さて、沖縄戦における日本軍の姿勢は住民をできるだけ利用するが、その生命と安全は度外視し、いざという場合には米軍への投降は許さずに死を強制するというものであった。
また、日本軍の内部においても同様に将兵は投降を許されておらず、死が強制された。(自決や玉砕という名の自殺攻撃)

imagesCARWC1WEだが、日本軍の将兵の中には追いつめられた極限の状態において、自分は死ぬしかないが、沖縄の民間人や学徒兵、朝鮮人軍夫までも道連れにするのは忍びないと考え、彼らには捕虜になっても生き延びるように諭し、その命を救い出したという人々もいた。
家族で自決しようと考えていた際に、壕の奥にいた日本兵に「あんたたち、アメリカ兵は住民をけっして殺しはしないから、安心して出て行きなさい」と手りゅう弾や銃を取り上げられ、壕から出ていって助かったという事例(糸満市における沖縄戦の体験記集)や、兵から避難民だけでも助かりなさいと投降をすすめられて助かった事例(沖縄県史)など、住民に対して投降をすすめた日本兵の存在も少なくない。

だが、これらの振る舞いも沖縄戦末期の南部戦線で日本軍の組織が事実上解体し、将兵たちが一人の人間としてふるまえるようになった時に、しかも自らは死を覚悟した状況の中での出来事にすぎず、日本軍の軍記が維持され、組織として機能している中でのこのような振る舞いはスパイや非国民として処刑の対象とされ、米軍に投降しようとする住民も日本軍に殺された。
それゆえ、このような良心的な日本軍将兵が存在したことが事実であったとしても、これを根拠に日本軍は良いことをしたという評価を下すことはできない。

日本軍という組織は人間としての良心や理性にもとづく判断や振る舞いをすべからく排除し、将兵や住民の犠牲のうえに戦争を遂行した組織であり、それが解体したのちにはじめて、一人ひとりの将兵や住民たちが自分の判断にもとづいて行動できるようになったにすぎないからだ。
また、日本軍のなかには人間的にもひどい将兵が多かったことも事実であり、将兵の人権や人間性を徹底的に抑圧し、人間の内側に潜む非人間性を促進助長したのが日本軍であった。

スパイの汚名をきせられ沈黙させられた虐殺の犠牲者たち!
さて、沖縄戦での日本軍による住民虐殺事件は各地で発生しているが、本格的な調査が十分なされているとは言いがたく、全容はいまだに明らかになっていない。
相当数の事例が判明しているが、それもいまだに氷山に一角にすぎないというのが現状である。
その理由はスパイという名目で処刑された犠牲者たちは生命を奪われただけではなく、スパイや非国民という汚名を貼り付けられて、人間としての尊厳さえも奪われてしまったからだ。
それゆえに遺族でさえもこれを世間に公表するのを憚るのである。

参考 沖縄戦が問うもの 林博史 大月書店

沖縄戦にみる陸・海・空にわたった未曾有の特攻作戦(「菊水1号作戦」なるもの)

imagesCAYKYBNN航空特攻作戦が大規模に用いられたのが沖縄戦である。
米軍が沖縄に上陸したのは1945年(昭和20年)4月1日であるが、陸海軍の航空兵力を結集した航空攻撃(菊水1号作戦)がはじまったのはようやく4月6日になってからであった。
この日、海軍は九州の鹿屋・国分などから211機、陸軍は新田原や知覧などから62機の特攻機を沖縄海域に送り込んだ。

こうして4月6日には日本軍の航空機が大挙して沖縄の空に殺到したが、ひさびさに見る日の丸の翼に避難壕の中で恐怖におびえていた沖縄の人々は「万歳」を叫んだという。
孤立した孤島の戦場に本土からはるばる飛来した友軍機の姿はなにものにも代えがたい援軍であったのだろう。

この頃、米軍は沖縄周辺海域に空母20隻前後、戦艦10隻、巡洋艦・駆逐艦70隻、輸送船185隻を配備し、沖縄沿岸の海は米軍の艦艇群で埋め尽くされていた。これらの大艦艇群の撃滅が航空攻撃の目的であった。
また、この航空攻撃に合わせて海からは戦艦「大和」以下の海上特攻部隊も出撃し、陸では沖縄守備軍が攻勢をかける予定となっていた。

だが、陸上部隊は攻撃計画を中止し、戦艦「大和」も九州の近海で撃沈されてしまったため、菊水1号作戦は空からの航空特攻が主役となってしまった。
また、この作戦では一回の攻撃で米軍に決定的な打撃を与えることはできず、組織的な大規模特攻は6月22日にいたるまで10回にわたって続けられた。

さて、この攻撃(主に特攻)により連合軍側は小艦艇34隻を失い、368隻が損傷を受けたというが、特筆すべきは沖縄戦における米海軍の戦死者が4900人を上回ったことである。
これは沖縄地上戦における米陸軍の4600人、海兵隊の2800人を上回るものであり、かつ太平洋戦争中の米国海軍の戦死者の7分の1に相当した。沖縄戦における日本の航空特攻がいかに激しかったかを物語っている。

だが、日本側の損害はさらに膨大なものとなり、沖縄戦で日本軍は2900機(うち特攻機2300機)の飛行機と、4400人の搭乗員を失ってしまった。
この作戦は米海軍を大いに悩ませはしたが、作戦遂行を断念させるほどの効果はなく、その一方で日本の空軍力は沖縄の航空戦で装備の面でも、人員の面でも崩壊してしまった。

特攻機の墓場となった沖縄北部の離島(伊平屋島など)!
特攻機は鹿児島の航空基地から毎日のように飛びたっていたが、搭乗員のほとんどはろくな訓練も受けていない「海軍飛行予備学生」であり、搭乗機も初期のころの爆撃機から後半には練習機を改造しただけの機体を使用せざるを得なくなった。
改造した練習機に爆弾を抱かせ、護衛の飛行機もつけずにレーダーによるピケットラインを張り巡らした敵の二重三重の防御陣に突入させたのである。

さて、この絶望的な戦局の中で彼らの最後を見届けたのが沖縄最北端に位置する伊平屋島や伊是名島などの避難民たちだ。
沖縄近海のレーダー網を突破し、米軍の艦艇群の放つ砲弾の弾幕と、伊江島や嘉手納から発信する迎撃編隊をかわして目的地に到達するには、沖縄近海までは海面すれすれに飛行してくるしかなかった。
そして伊平屋島の島陰から急上昇して、弾幕の隙間をぬって突進するのだが、途中で木っ端のように撃墜されるケースがほとんどで、沖縄北部の浜辺には特攻隊の死体が連日のように打ち上げられた。

特攻機は護衛も機銃もつけずに超低空一点張りで、重い爆弾をかかえて一機や二機でブルンブルンとやってきたが、これが米側の迎撃機のかっこうの標的となったのである。
ほとんどの特攻機のこのような最後は孤島の避難民のみが見届けており、彼らは「あの頃の特攻機は非常に哀れなものであった」と口をそろえて証言したという。
沖縄戦におけるすさまじい航空特攻作戦は、まさに帝国海軍の最後の残照であり、無謀な戦争の末路を象徴する痛ましい光景であった。

沖縄住民をも駆りだした陸上の特攻攻撃(婦女子による特攻攻撃も実在した)!
imagesCAG6KZLFまた、陸上においては兵士たちが爆雷をかかえて戦車に飛び込んだり、手りゅう弾や竹槍を使っての夜間斬り込み攻撃などをおこなったが、これも事実上の特攻攻撃である。
これには将兵のみならず、中等学校や師範学校などの男子学徒より編成した鉄血勤皇隊員、また17歳以上45歳以下の一般男子により編成した防衛隊員などの沖縄の青年や大人たちも駆りだされた。

さらに沖縄の婦女子が特攻攻撃に駆りだされたケースもある。
それは沖縄の離島の中でもとりわけ激戦地となった伊江島のケースであり、部隊の抗戦能力が尽きてしまった現地の守備隊は避難中の住民や婦女子までも駆りだして戦闘を続行した。
その結果、乳飲み子をおぶって夜間の斬り込み攻撃に参加する母親までもあらわれ、傷病兵の看護にあたっていた救護班の少女たちも最後には、黒髪を落として軍装に身を固めて爆雷を背負い、敵戦車に体当たりしたという。

沖縄戦自体が本土決戦準備のための時間稼ぎ等を主な目的としたものであり、沖縄とその住民を「捨て石」と位置づけたものである。
いわば、日本軍将兵や沖縄の住民たちの「死」を前提として戦われたのであり、これ自体が一種の特攻作戦であった。
そして、特攻とは捕虜になって生き延びるよりも潔く戦死することをよしとする日本軍の思想の生み出した極限の戦法であった。

参考:大城将保「沖縄戦」 高文研

飢餓地獄と戦争マラリアに苦しんだ沖縄県民(知られざるもうひとつの沖縄戦)

imagesCAIL5ECZ1945年4月1日沖縄本島の中部西海岸に上陸した米軍主力は沖縄守備軍(第32軍)の司令部のある首里城めざして南進した。
米軍は目標地点を砲爆撃で徹底的にたたいて日本の火砲を沈黙させ、その後から戦車部隊と歩兵部隊を突撃させる戦法をとった。

これにたいし、火力の劣る日本軍は地下陣地から機関砲や迫撃砲などの小火器で応戦するほか、夜間における白兵突撃や爆雷箱をかかえてそのまま敵戦車にぶつかる自爆攻撃などで応戦した。
それにしても日本軍の抵抗は頑強で首里城にいたる中部戦線の戦闘は一寸刻みの白兵戦となり、血で血を洗う接近戦が夜に日を継いで50日以上続いた。

こうして5月中旬までに日本軍は主力部隊の6万4千人を失い、戦力を消耗しつくした。
また、米軍の損害も大きく中部戦線の2ヵ月間に戦死者が2万6千人にのぼり、その数は太平洋戦争で最大規模に達した。
だが、この第一線の戦場にも多数の地元住民が巻き込まれており、前線も後方もない混乱状態のなかで多数の住民犠牲が続出した。
なかには人口934人のうち549名(59%)が戦死する村落(前田部落)さえもあった。

さて、いよいよ首里の司令部を守りきれなくなった沖縄守備軍は5月下旬全軍に南部撤退命令を下すが、南部(島尻地区)のガマ(自然洞窟)は避難民であふれかえっており、そこへ日本軍の将兵がなだれこんだことで食糧強奪や壕からの追い出し、住民虐殺、米軍の砲火の楯などのあらゆる暴虐行為が無数に発生した。

また、6月19日には米軍が沖縄守備軍最後の司令部壕のある摩文仁丘(89高地)にせまり、軍の運命はもはや最後のときを迎えたと判断した牛島司令官は組織的戦闘の終了の命令を発して自決した。
しかし、軍司令官の自決は軍の降伏や戦闘停止を意味するものではなく、残存兵にゲリラ戦への移行を命じており、最後の一人にいたるまでの徹底抗戦を呼びかけたものであった。
こうして守備軍には戦闘を収拾する責任者が不在となり、沖縄戦は終わりなき戦いとなった。

本島北部や先島諸島で吹き荒れた飢餓地獄とマラリア地獄(もうひとつの沖縄戦)!
ところで沖縄住民の戦争の犠牲者は激戦となった中部や南部だけに集中したわけではない。
実は主力部隊が配置されず“無防備地帯”とされた本島北部山岳地帯や、部隊を配置しながらも米軍が上陸してこなかった先島諸島(宮古・八重山の島々)でも「もう一つの戦争」がくりひろげられた。それは飢餓地獄とマラリヤ地獄である。

北部の山岳地帯には避難民が続々と流入し、終戦直後には5万8千人を超える人口をかかえるまでになったが、食糧の備蓄はなく、おまけに数ヶ月にわたる避難生活で食糧はほとんどそこをつき、あとは野草やソテツを食べて露命をつなぐしかなかった。
そこへ現れたのが日本軍の敗残兵であり、彼らは持久戦という名目で避難民から食糧を挑発してあるいた。
北部での住民虐殺のほとんどは食糧略奪が目的であり、食糧提供を拒む者はスパイの汚名をきせられて処刑される事例が頻発した。

また、追い討ちをかけたのがマラリア禍である。激しい高熱と悪寒を特徴とするこの病気は蚊が媒介するので感染も早く、飢餓地獄で体力を失った住民の多くがこの疫病の犠牲となった。
とくに先島諸島(宮古・八重山)でのマラリア病死は酸鼻をきわめ、人口6万の島に3万人の軍隊が駐屯した宮古島では食糧難のうえに病魔が猛威をふるい、部落全体が壊滅する事例さえもおきた。
さらに八重山では全人口3万人余のうち、マラリア罹病率が53.8%、死亡率が21.6%という驚くべき数字が残されている。

西表島へと強制移住させられた波照間島住民(戦争マラリアの典型)!
また、特筆すべきはマラリアによる死亡率が異常に高かった波照間島の事例であろう。
沖縄戦の直前に島へ一人の青年学校指導員が赴任してきた。山下と名乗るこの男は軍人を思わせる物腰で、おまけに多量の火薬箱さえも携帯していた。
だが、住民にはじめのうちは親切にふるまっていたこの男も“君子豹変”し、突如、島民全員に西表島への疎開を命じたのである。
西表島ではマラリアが猛威をふるっており、渋る島民たちを山下は軍刀を引き抜いて「軍命に逆らう奴はたたっ斬る」と威嚇した。
こうして西表島への強制疎開がおこなわれた結果、島民の8割がマラリアにかかり、そのうち3分の1が死んでしまった。

また、山下という男は西表の疎開地で青少年男女を挺身隊に編成してゲリラ訓練を始めている。
沖縄には早くから陸軍中野学校出身者が小学校教員などに身分を隠して潜入し、アメリカ軍の上陸が近づくとゲリラ戦の指揮官となったが、とくに本島北部の山岳地帯では狂信的ともいえるゲリラ戦を展開した。
この山下なる人物も多くの中野学校出身者の一人だったのではなかろうか。
また、北部に流入した避難民から食料を徴発した敗残兵たちも彼らが指導したゲリラ部隊の所属者たちであろう。

沖縄の南部戦線(喜屋武半島地区)にみる戦場の極限状態と軍民雑居のもたらしたもの

無謀な喜屋武半島地区への撤退作戦と“自決”(強制死)を強いられた負傷兵たち!
imagesCA6D601W1945年(昭和20年)4月1日、米軍による中部海岸への上陸作戦ではじまった沖縄での地上戦も、5月中旬には米軍主力が沖縄守備軍(第32軍)の司令部のある首里城付近まで迫っていた。
このままでは日本軍の運命も風前の灯と思われた5月22日になって、ようやく首里城の地下壕で軍の作戦会議が開かれ、爾後の方針が検討された。
すでに守備軍の戦力は主力の85%を失い、残存する兵力も負傷兵も含めて4万人から5万人とみられ、食糧も1ヵ月分しか残っておらず、武器弾薬も尽きかけていた。

だが、軍の作戦会議で決定された作戦方針は残存兵力と足腰のたつ島民とをもって南部の喜屋武半島へ移動し、そこを最後の決戦場として最後の一人にいたるまで、そして沖縄の南の崖、尺寸の土地の存する限り、戦い続けるというものであった。
この当時、大本営陸軍部は本土決戦に必要な50個師団の創設に全力を注いでいた時期であり、これには時間がほしい軍指導部のこの決定により、沖縄作戦はここへきて「時間稼ぎの捨て石作戦」という性格を露わにした。

つまり沖縄守備軍には玉砕も降伏も許されず、最後の1人にいたるまで時間稼ぎの出血作戦を継続せねばならず、そのためには住民の犠牲をも辞さないこととなったのである。
また、喜屋武半島が最後の決戦場に選ばれたのにも、洞窟が多く、そのなかに深くたてこもれば、なお時間が稼げるはずだという理由があった。
しかし、その洞窟地帯にはすでに地元の住民や中部、首里、那覇方面から避難してきた十万人を超える人々がひしめいていた。

また、首里の前線から喜屋武半島地区への意表をついた撤退作戦には大きな犠牲が伴った。
それは傷病兵の処置であり、これらの“廃兵”を目的地まで搬送する余力もなく、食糧も残り少ないなかで、重症患者は手榴弾と青酸カリで“処置”するという決断が下された。
戦時国際法は野戦病院の安全を保障していたが、「生きて虜囚の辱めを受けず」の軍律が捕虜になることを許さなかった。
こうして南風原の陸軍病院では2千名余の重症患者が青酸カリで「自決」をとげ、新城の野戦病院では1千名の患者が衛生兵により銃剣で刺し殺された。

「鉄の暴風」に晒された避難民と弱肉強食という残酷な戦場の論理!
さて、喜屋武半島への撤退作戦により直径が七キロしかない楯状の台地は十万人を越える避難民と三万人の将兵のひしめく雑居状態となり、将兵たちは洞窟などに避難していた避難民を銃剣や軍刀で追い出してそこを占領した。

imagesCAA69L78だが、一ヶ月間続いた喜屋武半島での戦闘の実態はもはや戦闘と呼べるものではなく、米軍による一方的な殺戮の場であった。
地下の洞窟にたてこもる日本軍に米軍は「馬乗り攻撃」をかけ、洞窟を一つ一つ殲滅していき、火炎放射器、爆雷、黄リン弾、ナパーム弾などによりいたるところが火炎地獄となった。

また、洞窟には戦闘員に混じって避難民が隠れているケースも多く、彼らは日本兵の監視のもとにおかれ、「敵に投稿する奴らはスパイとして射殺する」と警告されていた。
こうして両手をあげて投降していく兵隊や避難民が背後から友軍によって射殺される例が無数に発生し、また壕内で空腹のために子供が泣くと、敵に発見されるという理由で手当たりしだいに絞め殺された。
戦場は子どもや老人、負傷者などの弱いものから順に死んでいく冷徹な弱肉強食の場でもあった。

また、友軍によって壕から追い出され、身を寄せる場もない「鉄の暴風」のなかでの彷徨を強いられた避難民が地上を満たし、あたり一面に死体や散乱した肉片が満ち溢れる楯状台地はさながら巨大な“屠殺場”の様相を呈した。
喜屋武半島での戦死者数には統計的に正確なものはなく、現在の国定戦跡公園内に建てられた納骨堂群に納骨された遺骨の数だけでも10万8千体を数えるという。

日本陸軍の“玉砕精神”が強いた15万人もの住民戦没者とその教訓!
また、軍事学の常識では三分の一の戦死傷者が出ると部隊は崩壊したと看做され、その場合の戦死者と戦傷者の割合は三対一を標準とするという。
首里城の司令部が陥落し、主力の85%を失った時点で沖縄守備軍は米軍に降伏すべきであったが、「最後の一兵」までという“玉砕方針”を住民にまで貫徹したことが15万人前後と推計される住民戦没者を生みだした。
これは当時の県人口の四分の一にも相当する数字であり、これらの住民戦没者は本土決戦のための時間稼ぎを目的とした「捨て駒」であり「捨て石」であった。

また、沖縄戦の教訓は住民の安全を守るためには軍と住民を完全分離しなければならないことを教えるが、今日の「有事法制」には「国民保護法」があるとはいえ「必要な人材」は徴用されることになっており、戦闘の激化とともに老若男女の別なく防衛隊や青年義勇隊、婦人協力隊、はたまた「ひめゆり隊」や「鉄血勤皇隊」などの学徒や一般住民がつぎつぎと戦闘にかりだされていった沖縄戦から学ぶものとなっていない。
ここに「有事法制」に危険性がある。

座間味島における「軍命」による「集団自決」の惨劇とその史実を否定する者たち

米軍が沖縄攻略作戦に乗り出したのは1945年(昭和20年)3月下旬である。
この作戦は「アイスバーグ」作戦と命名され、米軍が動員した兵力は太平洋戦争中のどの作戦よりも大規模なものであった。

すなわち地上戦闘部隊の米国第10軍だけでも歴戦の勇士ばかりの八個師団18万3千、これを支援する海軍部隊や補給部隊は約55万人、また艦艇や輸送船など1500隻という大兵力であり、西太平洋の米国の全戦力が沖縄一島に集中したといっても過言ではなかった。

慶良間諸島を先ず攻略した米軍となす術がなかった日本軍!
さて、攻略部隊がまっさきに狙ったのが沖縄本島沖合いの離島である慶良間諸島である。
本格的な作戦に入る前に根拠地を確保するのが米軍の常套手段であり、同諸島に艦船の停泊地と補給基地の確保を狙ったものであった。

imagesCA24L1XPだが、慶良間諸島の日本軍は米軍が本島の中部や南部に上陸してくる際に、その背後から水上特攻艇(ベニヤ張りで自動車用のエンジンを搭載し、船尾には爆弾を積んだ自爆用兵器)で奇襲攻撃をかけるために秘匿していた海上特攻隊のみであり、戦闘部隊は配置されていなかった。

そのために、諸島における300隻の特攻艇は徹底的な砲爆撃により破壊され、島々の部隊もなすすべもなく山中に退避するほかはなく、あとには約3000人ほどの島民が敵前に放置されてしまった。
また、目の前に現れた米軍によりパニックに陥った住民は援護を求めて友軍陣地まで殺到したが、作戦の足手まといになるという理由で追い返された。

座間味島での「軍命」による「集団自決」という惨劇とその史実を否定する者たち!
同諸島の座間味島でも3月25日の未明からは爆撃が激化し、正午からは猛烈な艦砲射撃が始まった。島の周囲は無数の艦艇群がひしめき、夜になっても照明弾がひっきりなしに打ち上げられ、艦砲弾が島のいたるところに炸裂した。
「もはやこれまで」と観念した同島の住民にたいして友軍の梅澤部隊長から軍命がもたらされたのはちょうどこのときである。

「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力すべし、老人子供は村の忠魂碑前に集合し、玉砕すべし」

役場の書記がこの命令を各家々の防空壕を回って伝え、自決用に手榴弾も配られた。
島の幼老婦女子は深夜、晴れ着をつけて忠魂碑前に現れたが、梅澤部隊長が現れないうちに艦砲弾が忠魂碑に命中し、この衝撃でチリジリになった人々は逃げ場を失い、山中で、あるいはそれぞれの家庭壕で、家族ぐるみ親族ぐるみで自決を決行した。

ある者は手榴弾で、それもない者たちは剃刀、鎌、包丁などで互いに刺し合って息絶えたが、現場が血まみれの阿鼻叫喚の地獄絵図となったことは言うまでもない。
座間味島での「集団自決」は激しい砲爆撃のもと、核家族ばらばらにおこなわれたのでその実数はいまだに不明であるが、現在確認できるのは300名弱である。
また、同島での集団自決は沖縄戦の渦中に各地で発生した多くの「集団自決」の中でも最大規模のものであり、しかも、ここでは部隊長から自決命令が出されていたことが多くの関係者からの証言でほぼ確認されている。

これが座間味村の「集団自決」の惨劇の真相であるのだが、2005年8月にこの事件をめぐってある訴訟が起こされた。
原告は沖縄戦時の座間味島の部隊長で、自決命令を出したとされる梅澤裕元少佐本人であり、作家の大江健三郎氏と出版社の岩波書店が被告となった。

images10122原告側の訴状によると、座間味島での住民の「集団自決」が原告の梅澤裕元少佐の命令によるものだという虚偽の事実が大江氏の「沖縄ノート」に記載されたことで、原告の名誉を含む人格権がいちじるしく侵害されたというのであり、被害の拡大を防ぐための出版停止と謝罪広告および慰謝料の支払いを求めていた。

だが、この訴訟の真の張本人が実は「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝氏であり、この訴訟の目的が「軍名による集団自決」という「沖縄ノート」中の記述を槍玉にあげ、「軍名」という歴史的事実を抹殺することによって旧日本軍の名誉の回復をはかり、「愛国心教育」の邪魔になる旧日本軍の戦争犯罪を帳消しにすることであったことも直後に判明した。

ふたたび沖縄戦下の「集団自決」とはなにか!
さて、「集団自決」の実相とは、当時の国民が一億総特攻の精神にあふれ、子どもや老人、婦人までが軍と一体となって戦闘に協力し、戦闘に寄与できないものが友軍の戦闘の足手まといにならないよう、崇高な「犠牲的精神の清華」を発揮して自らの生命を自発的に絶ったものではけっしてない。

沖縄戦下で島々に「捕虜になるものはスパイと看做して処刑する」という通達が発せられ、敵のスパイという汚名を着せられることが「生き恥」をさらすような恐怖感とあいまって、恐怖による住民支配がしかれていた。
また、「敵に捕まると男は股裂きにされて戦車でひき殺され、女は強姦されて海に捨てられる」という軍によるデマ宣伝が徹底され、「大和撫子らしく操を守って死になさい」と手榴弾や青酸カリが配られた。

このような心理的な圧力と誘導・勧誘が多くの人々を「集団自決」へと追い込んだ主な要因であり、日本軍の圧倒的な力による強制と誘導によっておきた肉親同士の殺し合いが「集団自決」の真相であり、軍から強制された集団死であり、本質的には住民虐殺であるところに「集団自決」の実相があった。



沖縄戦での「集団自決」とはなにか(防諜体制と「スパイ狩り」がもたらしたもの)

untitled9295太平洋戦争緒戦の勝利で占領した南太平洋の島々で次々とアメリカ軍に敗れていった日本軍は、1944年(昭和19年)の2月に日本軍の「真珠湾」と呼ばれた中部太平洋のトラック島を米国の機動部隊に襲撃されて大損害をこうむり、同年の7月にはマリアナのサイパンを失って将兵は壮烈な「玉砕」(全滅)をとげた。

沖縄での陣地構築の突貫工事に動員された住民と軍との雑居状態!
そこで、大本営は「玉砕」の島サイパンの次は沖縄だとの見通しのもとで、「満州」にいた関東軍と、中国にいた日本軍部隊からその一部を引き揚げ、沖縄を含む南西諸島や台湾方面の防衛を強化することを決定した。
こうして日本が米国と戦争を始めてから二年余もたって、沖縄にはじめて守備軍の「第32軍」が配備されることとなり、飛行場もなく兵舎さえなかった沖縄に、たちまちのうちに陣地や飛行場が構築されていったのである。

駐屯した日本軍は住民の家や学校などを兵舎として接収したため、軍と民間人との雑居生活が始まり、沖縄の住民は陣地や飛行場作りへと日夜駆りだされっていった。
日本軍部隊は沖縄住民を村々の男女青年団、婦人会、そして国民学校(小学校)の上級生にいたるまで駆りだして、文字通り軍民一体の共同作業をおしすすめた。

かくして「サイパンの次は沖縄だ」との緊張した雰囲気のもとで軍民一体の突貫工事がすすんだが、このような軍民雑居の状態が軋轢をひきおこさないはずがなく、風紀の乱れが蔓延した。
また、この状態で軍にとってもっとも警戒すべきは軍機の漏洩であり、本来軍機の保持のために民間人は軍の施設には近づけないのが原則であったが、軍民雑居の状態でこの原則が守れるはずもなかった。

軍事施設に近づけないどころか陣地そのものを住民がいっしょになって築いており、陣地の位置や規模、武器弾薬の種類や量、守備隊の編成にいたる軍の機密に属するすべてのことがらを沖縄住民は誰もがいやおうなしに知ってしまったのである。

沖縄守備軍がつくったすさまじい「防諜」体制と「集団自決」の強要!
そこで、軍はこのジレンマをカバーするために県と協力して「防諜」対策を徹底させ、住民の「スパイ狩り」をおこなう秘密の組織すらも密かに編成し、反戦的な機運をもたらす者、移民帰りの者、キリスト教信者からはじまって、およそ、お上や部隊に不平不満をこぼすものはただちに「スパイ」容疑者として通報する仕組みをつくった。

さらに、戦時体制のもとで全員が隣組に組織され、食糧の配給の面でも共同作業でも隣組を離れては生きていけない網の目にがんじがらめにされた住民は、軍の悪口をささやいたり、サイパン玉砕での負け戦の話などしただけで、厭戦気分を煽る「非国民」だとか「スパイ」などのレッテルを貼られ、隣組の常会でつるし上げられたり憲兵に通報されたりした。

そして、このような「防諜」体制のもとで、沖縄守備軍は知りえた友軍の軍機を敵に通報する住民を「スパイ」と決め付け、老幼婦女子にいたるまで、敵の捕虜になれば誰でも「スパイ」とみなして処刑する決定をおこない、住民への徹底をはかったのである。
こうして、根こそぎ動員で軍作業に駆りだされ、陣地や砲台や武器の性能まですべて知ってしまった沖縄住民には敵の捕虜になる道が断たれてしまった。

また、住民が敵の捕虜になることを阻止するため、軍によって「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すなかれ」という戦陣訓の規律が沖縄の民間人にも強要され、「鬼畜米英」の残酷非道ぶりが宣伝された。
さらには、「捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は強姦されて海に捨てられる」というまことしやかな恐ろしい話も軍の手でたたきこまれた。

かくして沖縄の住民には捕虜にならないように「集団自決」という美名で凄惨な集団死が強要されたのであり、これ以外の選択肢は閉ざされてしまったのである。

ハワイ帰りの一老人のおこなった軍の暴力に対する抵抗闘争(「集団自決」からの生還)!
さて、1945年(昭和20年)4月1日の米軍上陸の日に、大きな洞窟壕に逃れた住民1000人が、一人の老人の冷静な判断と勇気ある行動によって全員が整然と集団投降し、「集団自決」の瀬戸際から無事生還したという史実がある。

比嘉平治さんというハワイ移民帰りの老人が、晴れ着に着替えて自決の準備をする住民たちに「アメリカ人は鬼畜生ではない。民間人を殺しはしないから早まったことはするな」と自分がハワイで見聞きしたことをもとに説得し、壕から出て米軍将校と交渉したというのである。
そして、日本兵がいないことを確認した米軍将校の「それではあなたが先導して収容所まで移動しなさい、それまでは発砲しない、安心して出てきなさい」という指示のもと、ハワイ帰りの老人は家財道具を頭に載せた住民の列を整然と率いて米軍の収容所へ導き、住民の全員が「集団自決」という死の淵から生還したというのだ。

images9293イスラエルの民を率いてエジプトから脱出したモーゼの姿を連想させる、このハワイ帰りの老人と1000人余りの住民たちの姿は米軍の従軍映画にも記録されており、当時の軍国主義教育の洗礼を受けた人々にとっては、このハワイ帰りの老人の行為は信じられないほどの勇気ある行為であったはずである。

「生きて虜囚の辱めを受けず」とたたき込まれ、敵に寝返る奴はいないかと監視の目が光っている最中の出来事でもあり、もし日本兵に見つかれば敵側スパイとして即刻首をはねられる状況である。
この老人の命がけの勇気はまさしく奇跡ですらあっただろう。

軍隊の暴力に抵抗した史実には中国人民の抗日統一戦線や反ナチスのパルチザン闘争、南ベトナムの民族解放戦線のゲリラ闘争などが典型として想起されるが、このハワイ帰りの老人の勇気ある行動は銃を取って敵に立ち向うような積極的な形ではないが、一種の抵抗行為であり武器なき抵抗に他ならない。
沖縄にも世界の抵抗闘争に並び称されるべき軍隊の暴力への抵抗闘争が存在した。

逃げ場のない孤島の沖縄戦では、九死に一生を得るには軍名に逆らって敵の捕虜になるしか生き延びる道はなく、日本軍と米軍の間に挟まれた避難民にとっては投降を選ぶか、「玉砕」(集団自決)を選ぶかが生死を分ける究極の選択であった。

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西岡三郎
千葉県銚子市に在住
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