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2006年04月18日

クリスチャン・ホーナー 経歴(1973年11月16日生まれ)

PEOPLE: CHRISTIAN HORNER: GrandPrix.com
氏名:クリスチャン・ホーナー CHRISTIAN HORNER
国籍:英国

クリスチャン・ホーナーは13歳でカートのレーシングを始めた。彼の家族は貧しいわけではなかったが、ホーナーには兄がふたりいたため両親はレースをしたいなら自分で資金を集めるように言った。学校を卒業してフルタイム・レーサーになったが、成功しなかったら学業に戻るつもりだった。彼は1991年末、初年度のフォーミュラ・ルノー奨学金を獲得したため、1992年にはマナー・モータースポーツから英国フォーミュラ・ルノーにスポンサーつきで参戦することができた。その年は1度優勝してチャンピオンシップで4位となったが、これはルーキーとしては最高位であった。1993年、彼はF3に移籍し、英国F3シリーズのクラスBにP1エンジニアリングから参戦した。5回優勝して、ジェイミー・スペンスに次ぐ2位となり、1994年は予算を増やしてフォーテック・モータースポーツに加わった。この年は成績不良で、6位にとどまり、1995年TOM'sトヨタから参戦した2シーズン目はもう少しよかった。彼のキャリアを調べると、1996年の選択肢は英国F2シリーズしかなかったようだ。1997年、彼は自身のチームをスタートさせることを決め、ウォリックシャー州出身ということもありアーデンという名前を選んだ<訳注:ウォリックシャー州にある地区の名前。シェイクスピアの生地ストラトフォード・アポン・エイヴォンの近くにある>。彼は自分で1台のマシンを走らせていたが、すぐにクルト・モレケンスが2台目に乗るようになり、モレケンスは1998年にはFIA国際F3000ドライバーズ・チャンピオンシップで6位に入賞した。

デイヴィッド・リチャーズとは家族ぐるみのつきあいがあり、ホーナーはプロドライブのオーナーからアドバイスを受けていた。そして1998年、このコネのおかげで、ロシアの石油企業ルコイルから巨額の予算を得てF3000プロジェクトを立ち上げることになったプロドライブと関わるようになった。当時F3000の参戦チームは制限されており、プロドライブはチームを参戦させていなかった。そしてリチャーズはホーナーに依頼し、プロドライブがアーデンの50%を取得し、ホーナーはルコイルの資金でチームを参戦させるということで同意に達した。このチームはマルク・グーセンとヴィクトル・マスロフ(持参金つき)を走らせたが、1999年はポイントを獲得できなかった。同年末、リチャーズはプロドライブの株式をアパックスに売却した。しかしアパックスはF3000プログラムに興味を示さず、ホーナーはチームを買い戻すオプションを行使した。しかし不動産はプロドライブから賃貸したものであった。2000年、FIA国際チャンピオンシップに留まるため、ホーナーはドラコからF3000の資産を買い取らざるを得なくなり、国際シリーズのドライバーとしてダレン・マニングとマスロフと契約する一方、イタリアではウォレン・ヒューズを走らせた。国際シリーズでは、マニングが最有力候補となったが、マスロフは依然として不振が続き、ヒューズはイタリア・シリーズで2位となった。ルコイルとの契約は2001年まで継続し、この年またマニングが国際チャンピオンシップの最有力候補となったが、チームはまた1勝もできなかった。

2001年、アーデンはルコイルのためにLMP900スポーツカーの設計検討を担当した。同年末、ホーナーは必要なものは全部揃ったと確信して自分の道を進むことを決め、2002年はトーマス・エンゲとビョルン・ヴィルドハイムと契約した。またアーデンはイタリアのチーム・シャロウズISRに対して運営面とエンジニアリング面のサポートを行った。エンゲは5勝をあげたが薬物検査で陽性と判定され、FIA国際F3000タイトルを失った。しかしチームは国際チームタイトルを獲得した。イタリアではチーム・シャロウズISRが2勝した。アーデンはまたスポンサーのプロモーション用に、初のF3000ツーシーター・マシンを製造した。

2003年、アーデンは再びヴィルドハイムと契約し、彼はアメリカ人のタウンゼント・ベルと組んだ。ヴィルドハイムは優勝3回、2位6回でチームとドライバーのタイトルを勝ち取った。そしてホーナーはFIAとFOMでF3000のチーム代表となった。2004年、チームはヴィタントニオ・リウッツィとロバート・ドーンボスと契約し、3年連続でタイトルを獲得した。ホーナーはF1のチームオーナーになるという野心があったが、ジョーダンを買収するだけの資金を集められなかった。幸運にも同時に、レッドブル・レーシングがジャガー・レーシングを買収し、チームの運営者を必要としていた。アーデンはリウッツィに対するレッドブルのスポンサーシップを享受していたので、ホーナーは新しいレッドブル・レーシングのスポーティング・ディレクターになるという当然の選択をした。


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+参照
F1通信・記事検索【ホーナー





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        コメント

        1. Posted by まだ若いつもりだったが   2006年04月18日 01:23
        わけー
        俺より若いチーム代表がいたんだ

         誤字脱字誤訳誤変換その他間違いご指摘お願いします
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