トップ | レース結果 | コメント | 技術解説 | チーム分析 | サーキット・ガイド | 動画 | コラム | インタビュー | データ | レース動画 | タイヤ | レース写真 | GP恋人写真 | マシン写真動画 | 特集 | ヘルメット | テスト
2008年01月20日

アラン・プロスト 経歴: F1ワールドチャンピオン

Alain Prost : Formula One World Champion

アラン・プロストアラン・プロスト Alain Prost
ワールドチャンピオンシップ:4回
(1985-1986,1989,1993年)
グランプリ出走:200回
グランプリ優勝:51回
ポール・ポジション:33回
国籍:フランス

経歴
F1の歴史における最も偉大なドライバーという彼の立場は安泰であるが、軋轢と物議に満ちたキャリアは彼の立派な業績をやや損ねている。彼は4度チャンピオンシップで優勝しているが、チームはその4回とも険悪な雰囲気にあった。彼は簡単にレースに勝っているようだが(51回)、必ず巻きこまれる政治闘争ではあまり成功しなかった。彼とアイルロン・セナとの激しい争いは、ふたりの最良の部分と最悪の部分を明らかにした。それでも歴代チャンピオンのうち、アラン・プロストよりもタイトル獲得回数が多いのは、ミハエル・シューマッハとファン・マヌエル・ファンジオだけである。

アラン・プロストは1955年2月24日、フランス中央部のロワール地方サン・シャモン近郊で生まれた。父親のアンドレは台所家具を製造していた。アランは身長の低さという欠点を補うかのような無限のエネルギーを持つ活動的な子供だった。彼はレスリング、ローラースケート、サッカーに熱中し、その高い鼻を何度か骨折した。運動好きの彼は、体操教師になるか、プロのサッカー選手になって実力を伸ばそうと考えていた。しかし14歳で南仏に家族旅行に行ったときにカート・レーシングを知り、情熱を注ぐようになった。楽しみで始めたカートに熱中し、カートのチャンピオンシップで何度か優勝した。1974年、彼は学校を辞めてフルタイムのレーサーになったが、自身でエンジンをチューニングしてカートの代理業者として資金を集めた。1975年フランスのシニアカート・チャンピオンシップで優勝し、その副賞としてフォーミュラ・ルノーで1シーズンを過ごした。このカテゴリーで2度タイトルを獲得してF3チャンピオンシップに移った。1978年と1979年、彼はフランスとヨーロッパのF3チャンピオンシップで優勝し、その頃には複数のF1チームから関心を寄せられていた。選択肢を慎重に検討して、彼は1980年マクラーレンと契約した。

彼はF1の初シーズンで4回ポイントを獲得したが、いくつかのアクシデントも経験し、手首を骨折したり、脳震盪を経験したりした。彼のクラッシュの一部は厄介な機械的故障が原因で、アランもメルセデスチームの運営方法について懸念を抱いた。チームとの不和により、彼は2年契約を破棄してルノーと契約した。

彼がF1で初優勝したのは地元GPだった。1981年フランス人ドライバーがフランスのマシンに乗ってディジョンのフランスGPで優勝したのである。アランにとって勝利への道程の始まりとなったこの重要な出来事は、彼の考え方を変えたことで記憶に残った。「それまでは、自分にはできるはずだと思っていた。これで自分にはできるとわかった」と彼は語る。彼は勝ち続け、ルノーの3シーズンで9回優勝したが、ルノーの経営陣とフランスのファンとの関係は悪化した。チームはチャンピオンシップに勝てないのはプロストのせいだとしており、ファンは落ちぶれたチームメイト、ルネ・アルヌーのやぼったい魅力を好んだ。プロストはアルヌーと繰り返し争っていた。すべてにうんざりしたアランは妻のアンヌ・マリーと息子のニコラスとともにスイスに移住し、1984年再び英国のマクラーレンに移籍した。

マクラーレンに在籍した6シーズン、アラン・プロストはレース優勝30回、ドライバーズ・タイトル3回、2位2回を獲得した。1985年、彼はフランス人初のワールドチャンピオンになった。1986年、彼は10年前のジャック・ブラバム以来初の2年連続チャンピオンとなった。1987年、28回目のグランプリ優勝はジャッキー・スチュワートが14年間維持した記録を破った。1988年プロストは、マクラーレン-ホンダチームに7回の優勝をもたらし、チームは16戦中15勝して圧勝した。しかし彼の卓越したチームメイト、アイルトン・セナが8勝してドライバーズ・タイトルを手にした。これによって、F1で最も偉大なドライバーふたりに前例のないほど大きな成功と論争をもたらしたセンセーショナルな対立関係が始まった。

レーシングに対する頭脳的アプローチのため「プロフェッサー」とあだ名されるアラン・プロストは、手ごわいセナに対抗するためにあらゆる知力とドライビング技能を必要とした。プロフェッサーは(彼のヒーローであるスチュワートやラウダと同じく)経済的なスタイル(レースを控えめにスタートし、ブレーキとタイヤをいたわり、レース終盤でしかける)をマスターしてセナに対抗した。一方セナは常に(プロストの嫌いな雨でも)全力で走る傾向があり、一般受けの面ではプロストを引き離した。これは、F1史上最も激しい争いの一因となった。

マクラーレンの独走状態は1989年も続き、プロスト対セナの覇権争いのため衝突は必至だった。相互の尊敬は徹底的な憎悪に変わり、プロストはブラジル人チームメイトについて、危険なドライビングをしており、マクラーレンとホンダから贔屓されていると批判した。彼らの敵意に満ちたシーズンは、鈴鹿のシケインのクラッシュで終わり、論議を呼んだ。このときプロストは意図的にセナに対してドアを閉め、3度目のタイトルを獲得したが、すぐにフェラーリに移籍した。

フェラーリに移籍した年、プロストは5戦で優勝し、1990年日本のシーズン最終戦でマクラーレンのライバルとチャンピオンシップを決することになった。今度はセナが意図的にフェラーリにぶつけ、2度目のタイトルを手にした。プロストは「彼のしたことは最低だ。無価値な男だ」と語った。

1991年フェラーリはペースを欠き、10年間で初めてアラン・プロストは1勝も挙げることができなかった。彼はチームの失敗を公に非難したので、シーズンが終わる前に解雇された。他のシートを見つける時間がなかったので彼は1年間長期休暇を取り、1992年はテレビ解説者を務めた。1993年にウィリアムズ-ルノーに復帰して7回優勝して記録を51回まで伸ばし、4度目のタイトルを獲得した。憎いセナがウィリアムズのチームメイトになる可能性があったため、プロフェッサーは引退を発表した。「F1は僕に多くのものを与えてくれたが、このゲームをこれ以上続ける価値はないと判断した」

しかし彼はゲームをやめなかった。彼はテレビ解説の仕事に戻り、マクラーレンのアドバイザー兼テスト・ドライバーを務め、1997年にはリジェチームを買収し、プロスト・グランプリと命名した。政治的・経済的問題に悩まされ、チームは4度のチャンピオンにとっては悩みの種となり、2001年末に活動を停止した。

-Source: The Official Formula 1 Website
-Amazon: F1 2010 PS3 | F1 2010 Xbox360

+F1通信Google検索【 プロスト

F1歴代ワールドチャンピオン年表一覧
F1歴代ワールドチャンピオン一覧表 - 栄誉の殿堂



2日間アクセスランキング
    10日間アクセスランキング
      30日間アクセスランキング


         誤字脱字誤訳誤変換その他間違いご指摘お願いします
        名前:
         
         

        ↑このページのトップヘ