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2008年01月24日

ナイジェル・マンセル 経歴: F1ワールドチャンピオン

Nigel Mansell : Formula One World Champion

ナイジェル・マンセルナイジェル・マンセル Nigel Mansell
ワールドチャンピオンシップ:1回(1992年)
グランプリ出走:187回
グランプリ優勝31回
ポール・ポジション:32回
国籍:英国

経歴
彼ほどF1レーシングに到達するまでに苦労したドライバーはいないし、F1で彼ほど激しく戦ったドライバーもほとんどいない。固い決意、徹底した攻撃性、目を見張るような大胆さを持った彼は、最もエキサイティングなドライバーのひとりだった。優勝かクラッシュかのアプローチ(優勝31回、クラッシュ32回)で、最速ラップタイム歴代3位、優勝回数4位、ポール・ポジション回数5位となり、彼は最も成功した英国人ドライバーとなった。ヘルメットにはユニオンジャックを描いて重責を負った彼は、速かったが物議も醸した。その不器用な性格は何人かの敵をつくったが、英雄的なパフォーマンスは何百万人ものファンをつくった。ナイジェル・マンセルはとりつかれたドライバーだった。

1953年8月8日、バーミンガム近郊に生まれたナイジェル・アーネスト・マンセルは、7歳のときに近くの野原で初めて自動車を運転した。同じ年、彼はジム・クラークがロータスに乗って1962年エイントリーのイギリスGPで優勝したのを見た。そして彼は、無数の少年たちと同じようにこの偉大なスコットランド人のようになろうと決意した。しかしマンセルの直面した多くの不運に屈しなかった少年はほとんどいなかっただろう。

カート・レーシングで大きな成功を収めた後、1977年テスト中の事故で首を骨折したにもかかわらず英国フォーミュラ・フォード・チャンピオンとなった。医師らは、四肢麻痺になりかねかったと述べ、6ヶ月間の入院とドライバー生命の終わりを告げた。しかしマンセルは病院を抜け出し(看護師にはトイレに行くと言っていた)、レースを続けた。彼はこの事故の3週間前に航空宇宙エンジニアとしての職を辞し、それまでにもフォーミュラ・フォードに参戦するための資金を得るために私財のほとんどを売却していた。1979年、他のマシンと衝突して横転したものの運よく生き延びたが、今度は脊椎を骨折して再び入院した。その後間もなく、マンセルは鎮痛剤を大量に服用して怪我の程度を隠したままロータスのテストを受け、見事F1チームのテスト・ドライバーとして採用された。彼は1980年オーストリアGPでF1デビューを果たしたが、コックピットに燃料が漏れ、臀部に第一度から第二度の熱傷を負った。

マンセルは、ロータスのボス、コリン・チャップマンと非常に親しくなり、1982年彼が急死したときは大きな衝撃を受けた。1985年シーズンの終盤、71回出走で一度も優勝経験のなかったマンセルは、ブランズ・ハッチで開催されたヨーロッパGPから突然優勝をするようになった。初優勝したとき、彼は表彰台で涙を流した。18ヶ月間で11勝を挙げたが、ワールドチャンピオンシップを2度も逃した。1986年は、アデレードのタイヤ・バーストが最後の望みを絶ち、1987年は鈴鹿の予選で大事故に遭って再び背中を負傷し(脊髄震盪)、タイトルをウィリアムズ-ホンダのチームメイトである憎きネルソン・ピケにタイトルを譲った(ピケはマンセルを「教養のない馬鹿」と呼び、マンセルの妻のロザンヌを言葉で攻撃した)。マンセル(スパでアイルトン・セナと衝突したあとのように、ピケに対しては肉体的に攻撃しなかった)にとって、1987年のハイライトは、シルバーストンで大嫌いなピケをレース終盤で追い上げで逆転したことである。マンセルはウィリアムズのチームメイトを追いかけるために、最後の瞬間までラップタイムを11度更新した。彼のビクトリー・ランでは、何千人もの愛国的ファンが熱狂的な「マンセルマニア」となってトラックになだれ込んだ。彼らのヒーローは時速180マイルでピケをオーバーテイクした場所でマシンを止め、タルマック舗装にキスをした。

マンセルは逆境を糧にし、それをモチベーションの燃料とした。逆境がない場合は、自ら作り出しているように見えた。彼の「世界を敵に回す」思考方法は摩擦を生んだ。ウィリアムズのパトリック・ヘッドは「彼は常に誰もが自分を騙そうとしていると考えている」と述べ、フランク・ウィリアムズはマンセルのことを「悩みの種」と呼んだ。しかしファンは、彼のレースにおける純粋でわかりやすい攻撃性を愛した。1988年、彼の力をもってしてもジャッドのエンジンを搭載したウィリアムズマシンの欠陥を克服できなかったとき、フェラーリ移籍のチャンスが生まれ、マンセルはそれに飛びついた。

1989年彼はフェラーリのデビューをリオの優勝で飾り、シーズンを通して他を圧倒し、熱狂的なイタリア人のティフォシは口ひげを生やした英国人ヒーローを「イル・レオーネ」(ライオン)と呼んだ。オーバーテイクは不可能と見られていたハンガロリンクで、マンセルは予選を望みのない12位で通過した。彼は後方から追い上げ、息を呑むような走りでセナのマクラーレンを追い抜いてレースに勝った。1990年、プロストがチームメイトとしてフェラーリに加入して政治的にマンセルの裏をかき、マンセルの勢いは止まってしまった。シルバーストンで、「英国のブルドッグ」は熱狂的な観客に向かって芝居気たっぷりにグローブを投げつけ、シーズン末に引退することを発表した。数ヶ月後、彼は決心を覆してウィリアムズに戻ると発表した。1991年彼はウィリアムズ-ルノーで5勝したが、信頼性に勝るマクラーレンに乗るセナがタイトルを獲得した。1992年、マンセルはウィリアムズ-ルノーのFW14Bで16戦中9勝で圧勝してワールドチャンピオンになったが、その後間もなく引退を発表した。彼のウィリアムズに対する不満には、金銭問題と嫌いなプロストが1993年のチームメイトになる可能性に対する怒りが含まれていた。ウィリアムズは土壇場になって、マンセルの望む条件を受け入れるオファーを出したが、彼はあっさり引退してアメリカのインディカーに参戦した。そして不慣れな高速オーバルにもかかわらず圧勝して、1993年のインディカー・チャンピオンになった。

1994年、ウィリアムズは最後の4戦について彼に復帰を要請した。そしてその最終戦のオーストラリアGPでマンセルは見事なポール・トゥ・ウィンを果たした。翌年彼は2度マクラーレンから出走したが、マシンのスピードが足りないと判断した。そして波乱の15シーズンで187戦に出走したあと、41歳のナイジェル・マンセルはF1レーシングから永遠に引退した。

引退後は、フェラーリの販売特約店やゴルフのカントリークラブ(ゴルフの腕前はプロ級だった)など複数の事業を経営し、妻のロザンヌと3人の子供とともに豊かな生活を送っている。

彼は自身のキャリアについて「それなりの苦悩や失望を味わってきたが、多くの満足感も得た。精一杯走っただけだ」と語っている。

-Source: The Official Formula 1 Website
-Amazon: F1 2010 PS3 | F1 2010 Xbox360

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