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2008年02月01日

ネルソン・ピケ 経歴: F1ワールドチャンピオン

Nelson Piquet : Formula One World Champion

ネルソン・ピケネルソン・ピケ Nelson Piquet
ワールドチャンピオンシップ:3回
(1981,1983,1987年)
グランプリ出走:207回
グランプリ優勝:23回
ポール・ポジション:24回
国籍:ブラジル

経歴
彼は決して圧倒的に強いドライバーではなかったが、敵対者たちからはこっそり勝つことにかけては狡猾な専門家だったと評されている。彼は自ら怠け者であることを認めていたが、それでもマシンを改善するためには喜んで頑張った。彼はセレブであることを憎んだが、プレイボーイ的生活にどっぷりと浸っていた。人気が非常に高かったことはないが、彼は全く気にしていなかった。ネルソン・ピケの本当の関心はレーシングカーを走らせることであり、特に優勝したときには情熱を持って走っていた。そして彼は3度ワールドチャンピオンになった。

1952年8月17日生まれのネルソン・ソウトマイオールは、当初、レーシングに反対する両親に隠れて参戦するために、母親の旧姓であるピケを使った。父親はブラジルの有名な大臣であり、地元のテニス・チャンピオンでもあった。ネルソンはテニスで才能を発揮したので、将来を嘱望された。12歳で彼はブラジルで最も有望なジュニア選手のひとりとなり、さらにテニスの才能を磨くために16歳になると両親に米国カリフォルニアの学校に送り込まれた。しかし、同じブラジル人のエマーソン・フィッティパルディが外国のレースで活躍するようになっていたので、ネルソンにとってレーストラックで車を走らせることが最重要で、テニスコートでボールを打つことはその次になっていた。そしてネルソン・ピケは地元ブラジリア州でレーシングを始めた。カートとスポーツカーのチャンピオンシップで優勝しても、レーシングは大学進学の邪魔になると考える両親の賛成は得られなかった。しかし大学で物理学、工学、経営学を勉強しても、レーシングの魅力には代えられず、ネルソンは1年で退学した。彼は乗用車を売ってフォーミュラVeeを買い、1977年そのカテゴリーでブラジル人チャンピオンとなった。

エマーソン・フィッティパルディのアドバイスに従い、彼はヨーロッパに移った。1977年彼は十分な現金(1万ポンド 211万円*)を手にF3に参戦した。1978年には26戦中13勝をあげ、英国F3シリーズでチャンピオンに、別のシリーズでは2位になった。F1チームが注目し、エンサインとプライベート参戦のマクラーレンと契約したのち、1979年ブラバムのボス、バーニー・エクレストンに、ニキ・ラウダの代役として雇われた。そのシーズン末にベテランのオーストリア人がF1を引退したあと、ブラジルの新人がそのままブラバムのチーム・リーダーとなった。彼はまだ学んでいる最中だったが、デザイナーであるゴードン・マレーの有望なマシンの開発を助けるという仕事に適任であることを証明し、そのマシンから最高のパフォーマンスを引き出した。1980年ネルソンは3回優勝し、チャンピオンシップではアラン・ジョーンズに次ぐ2位となった。1981年彼の進歩は続き、優れたブラバムBT49で3回の優勝と一連の上位入賞で、ワールドチャンピオンになった。

1982年のシーズンは、信頼できない新しいBMWターボエンジンのために台無しとなり、わずが1勝しかできなかった。しかしピケはカナダGPでの優勝はキャリアで最高のものだと見なした。レース中ずっと、彼の足元のオイルラジエータが100℃を超えており、苦痛のため叫び声を挙げるほどだった。それでも彼は勝利の興奮のためにはそれさえも厭わなかった。彼はかつて「優勝は想像できないほどの感情だ。スローダウン・ラップでズボンの中に小便をもらしたことが何度かある」と告白している。彼の挑発的なコメントがトラブルの原因になることもあったが、ブラバムのスタッフとトラブルになったことはなかった。そしてスタッフらは、彼の素朴なユーモアと勤勉さを称賛して「ネルソン・ピケ・ファンクラブ」を設立した。

1983年ピケはターボチャージャー付BMW-ブラバムBT52で3勝し、ルノーのアラン・プロストとシーズンを通して戦い、2度目のドライバーズ・タイトルをセンセーショナルに獲得した。この時点で、旅行にうんざりしていたネルソンは引退を考えたが、パイロットとしても有名なニキ・ラウダに、プライベート・ジェットを利用すれば私生活を楽しむのが簡単になると説得された。ネルソンはプライベート・ジェットのおかげで、生活を楽しむようになった。本拠地モナコの港に28ノットで航行可能な18mのクルーザーを停泊させ、クルーも常駐させた。彼が大いに愛した地中海の航行で、ネルソンは水泳、水上スキー、テレビを楽しみ、華やかな女性同伴者をもてなした。彼女たちとの間に数人の子供をもうけたネルソンは、大家族を養った。

高価なライフスタイルのため、彼は金儲けを優先するようになり、バーニー・エクレストンを上回る契約を探し始めた。さらなるチャンピオンシップは金銭的に有利になるはずだったが、1984年と1985年のブラバムはチャンピオンから程遠かった。ネルソンはチーム残留の条件として、100万ドル(1億643万円*)の年俸を倍増するよう要求した。エクレストンはこれを一蹴したが、フランク・ウィリアムズが3倍の額を提示したので、ネルソンはウィリアムズ-ホンダで混乱の2年を過ごすことになる。チームは優勝できたるマシンとドライバーを確保した。しかし、問題はネルソン・ピケとナイジェル・マンセルというチームメイトが互いに憎しみあっていたことだった。1986年ふたりは個人的対立に夢中になっていたため、アラン・プロストが漁夫の利を得てドライバーズ・タイトルを獲得した。狼狽したネルソンは、英国人ドライバーを優遇したとしてウィリアムズを非難し、公の場でマンセルを「教養のない馬鹿」と呼び彼の妻を侮辱して動揺させようとした。マンセルは「ピケは下劣な人間だ」と述べた。

1987年のナイジェルとネルソンの対決は、優勝数ではマンセルが勝ったが(6対3)、シリーズに勝ったのはピケだった。ピケは完走記録で上回り、3度目のタイトルを獲得した。F1というショービジネスにおいてしかるべき役割を果たさなかったため、ワールドチャンピオンとしては不適任だとの批判もあった。ネルソンは「それはどういう意味だ? もっと宣伝しろということか? 友達をつくろうと思わないし、名声なんて興味はない。勝ちたいだけだ」と述べた。

その後ほとんど優勝することもなく、彼の名声は落ちていった。彼は腹立ち紛れにウィリアムズを離れて下り坂のロータスに移籍し、数シーズンを過ごした。そしてベネトンに2年間在籍したが、モチベーションはなくなった。1990年に2度、翌年1度優勝して、彼は40歳にしてF1を引退した。しかし彼のモータースポーツ人生は終わらなかった。

1992年、インディアナポリス500の予選に出走したが、キャリアで最悪の事故に遭い、下肢をひどく負傷した。その後彼はブラジルや海外でツーリングカーや長距離のイベントに時おり参戦した。ブラジルでは成功した実業家となり、衛星ナビゲーション会社を設立して富を築いた。現在は、息子のネルソン・ピケ・ジュニアの有望なキャリアを全面的に支援している。

-Source: The Official Formula 1 Website
-Amazon: F1 2010 PS3 | F1 2010 Xbox360

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F1歴代ワールドチャンピオン年表一覧
F1歴代ワールドチャンピオン一覧表 - 栄誉の殿堂

*日本時間2008年02月01日07:49 の為替レート:Yahoo!ファイナンス 外国為替情報


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