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2009年11月08日

ジェンソン・バトン 経歴: F1ワールドチャンピオン

Jenson Button's career: Formula One World Champion

ジェンソン・バトン Jenson Buttonジェンソン・バトン Jenson Button
ワールドチャンピオンシップ:1回(2009年)
グランプリ出走:172回
グランプリ優勝:7回
ポール・ポジション:7回
国籍:英国       2009年末現在

経歴
2009年ワールドチャンピオンはF1の中で成長した。あまりに早くあまりに多くを手に入れたのんきな若者から10年間ひっそりと過ごした年季の入ったドライバーに成熟し、そののんきが突然報われて無名のチームとともにおとぎ話のような結末を手に入れた。彼のセンセーショナルな幸先のよいスタートによってライバルらに先んじたことも、彼の意外なタイトル獲得の一因であったが、最終的にジェンソン・バトンをトップの座につけたのは、彼の才能と粘り強さだった。

1980年1月19日、イングランドの南西部サマセット州フロムでジョンとシモーンのバトン夫妻は、男児が誕生するとジョン・バトンが活躍したモータースポーツ、ラリークロスのデンマーク人の友人アーリング・ジェンセンにちなんで命名した。ジェンセン・スポーツカーと区別するために、意図的に名前のスペルは変更されたが、ジェンソン・バトンは幼い頃からモータースポーツに魅了されていた。非常に活発で意思が強く、集中時間が短い男の子がじっと座っていられたのは、テレビでレースを観戦しているときだけだった。7歳の誕生日プレゼントのミニチュア・スクランブルバイクは、彼の活動欲を短期間満たしたが、その後彼の愛情は、クリスマスプレゼントでもらった60ccのゴーカートに移った。8歳のバトンはこのゴーカートで最初のレースに優勝した。そばかすだらけのブロンドの小さな優勝者はトロフィを抱いて眠り、寛大な父親にF1ワールドチャンピオンになりたいと告げた。

その頃までに彼の両親は離婚しており、ジェンソンはキャリアを通じてサポートしてくれることになる父親と暮らしていた。その一方で、母親、ナターシャ、サマンサ、ターニャという3人の姉とも親しくしていた。おおらかでいつもにこやかな人当たりのよい若者は、友人や学校でも人気者だったが、謙虚で控えめなジェンソン・バトンがカートの世界で有名になりつつあることに気づいた者はほとんどいなかった。

ジョン・バトンは息子をコーチし、カートエンジンの調整ビジネスからの収益で息子のレーシングを支えた。彼の顧客の中には、アンソニー・ハミルトン(その息子ルイスは2008年のワールドチャンピオン)もいた。しかしバトン親子は常に資金不足に悩まされており(一度など、ジョンはスコットランドのレースから帰宅する燃料を買うために借金しなくてはならなかった)が、彼らのカートの冒険はますます本格的なものになっていった。11歳のジェンソンは英国カデット・カテゴリーの34戦で全勝し、英国カートタイトルを獲得したので、プロのイタリアチームと契約することになった。彼の週末の趣味は職業になり(彼は10代半ばに学校を中退した)、17歳にしてジェンソンはヨーロッパ・フォーミュラ・スーパーAチャンピオンシップで優勝した最年少ドライバーになった。

スカウトたちは、彼をワールドチャンピオンの故アイルトン・セナと比較するようになったが、ジェンソンは最初の自動車免許の取得に失敗した。彼は、渋滞の狭い車間距離を縫ってスピードを出して試験官を怖がらせたのだ。その素早いスムーズで確実なテクニックのおかげで、彼は1998年英国フォーミュラ・フォードチャンピオンシップに優勝し、翌年には早くもアラン・プロストのF1マシンをテストした。フロムのパブでクリスマスイブを祝っていたジェンソンがフランク・ウィリアムズから電話を受けたとき、彼は最初はジョークだと思った。実際、これはウィリアムズF1マシンのテストへの招待で、空いたシートを埋めるため他のドライバーと対決することになった。20歳の誕生日の5日後、2000年のウィリアムズ-BMWのF1チームを立ち上げる直前、フランク・ウィリアムズはジェンソンに採用を伝え、ジェンソンとジョン・バトンは感激の涙を流した。

彼のF1デビューシーズンは順調だった(彼はF1史上最年少のポイント・スコアラーになった)が、(それまで別のドライバーに肩入れしていた)ウィリアムズは翌2シーズン、ジェンソンをベネトン-ルノーに貸し出した。この間の彼のトラック上でのパフォーマンスは、彼が熱心に受け入れた劇的なライフスタイルの変化に比べれば、注目に値しなかった。何人もの魅力的なガールフレンド、モナコのマンション、フェラーリの乗用車、72フィートのクルーザーは高価なおもちゃだったが、ジェンソンはその後これらが彼のキャリアを台無しにしかねなかったことを認めた。ベネトンのチーム代表フラヴィオ・ブリアトーレは(将来のチャンピオン、フェルナンド・アロンソを迎えるために)彼を放出するとき「ジェンソンは怠惰なプレイボーイに過ぎない」と断言した。

2003年、彼はBAR-ホンダから救いの手を差し伸べられ、ジャック・ヴィルヌーヴのチームメイトとなった。1997年のチャンピオンは敵意を持って彼を迎え、ジェンソンはレーサーというより「キュートでニヤニヤしたボーイバンドのメンバー」に見えると述べた。しかし面目を失ったのは、2004年チャンピオンシップで見事3位になったバトンに負けたヴィルヌーヴだった。その後、彼はウィリアムズに戻るという契約にサインして皆を驚かせたが、彼の雇用を巡る論争において契約承認委員会は、2005年彼はBAR-ホンダに残留しなければならないと判断し、その後はウィリアムズへの移籍を認めた。しかし「バトンゲート」論争によって彼は気が変わり、ホンダが2006年BARを買収すると、ジェンソンはウィリアムズとの契約を買い戻した。

「未勝利の天才」という彼の評判は、2006年ハンガリーGPのやや思いがけない初優勝で終わりになった。その後2シーズンは非力なマシンのため彼は優勝候補からはほど遠く、ホンダは2008年末にF1からの撤退を発表した。そして、新シーズンの初戦のわずか3週間前に、チーム代表ロス・ブラウンによるマネジメント・バイアウトによりチームは奇跡の復活を遂げた。ロス・ブラウンは、ベネトンとフェラーリにおけるミハエル・シューマッハの7度のワールドチャンピオンシップ優勝を演出した実績があったが、崖っぷちから復活したブラウンGPチームが2009年のタイトル争いをするとは誰も想像しなかった。

自らを含めたあらゆる予想に反して、ブラウン-メルセデスはジェンソン・バトンの最初の7戦中6勝によって勢いづいた。彼はその後優勝することはなかったので、他チームがブラウンの当初の技術的アドバンテージを克服し、脅威がますます高まる中、彼はチャンピオンシップのリードを守るという不慣れなプレッシャーを受け、ためらいがちになった。それにもかかわらず、ジェンソンはシーズンを通じて、首位を守るのに十分なポイントを着実に積みかさね、シーズンの最後から2戦目のレースでは息を呑むほど強引なパフォーマンスを見せて、ドライバーズ・タイトルを獲得し、ブラウンGPのコンストラクターズ・チャンピオンシップ優勝に協力した。

彼は「僕はワールドチャンピオンだ!」と涙ながらに何度も何度も叫んだ。多くの人が彼の手には届かないと思っていた偉業を、自らに納得させるかのように。

-Source: The Official Formula 1 Website
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