BRIDGE ~石井希尚(MARRE)の歴史/時事ネタブログ

右でも左でもないど真ん中 世界に広げよう日本のこころ

1910年(明治43年)、鮎川義介30歳、井上馨らの協力により北九州市に設立した「戸畑鋳物」が、日産の原型でありルーツである。
ここから、日産コンツェルンの歴史が始まる。

この後、鮎川ははつぎつぎに赤字会社を復活させる形で吸収合併させグループ化していく。
鮎川は、将来の日本の「国づくり」は中小企業にあると信じていたからだ。
鮎川は言う。

かれらは責任感が人一倍強く、一生懸命働く。そうでなければ中小企業というものは存在できない

かつて、大叔父井上馨に近づいてきた利権がらみの人間たちと違って、必死で物作りに力を注ぎ、
努力している中小企業の経営者の方がよほど信頼できると思っていた。
そして確信していたのだ。
中小企業の必死の努力と技術が日本の強みであると。
ゆえに、技術と情熱をもった中小企業を救い、力を結集しようとしたのである。
こうして事業を拡大していく過程で、天の采配がおこる。


橋本増治郎という技術者が創業した快進自働車工場」という会社があった。
自動車の国産化を目的としてつくられた会社だった。
Masujiro-Hashimoto-1
 
1914年、快進自働車工場は、日本初の国産自動車を製造し東京大正博覧会に出品し銅牌を受賞した
V型2気筒エンジン搭載。
最高速度は32km/h 。
その名は「ダット」。
p06-01
 

日本の技術により国産車が生み出された瞬間だった。
しかし、第一次世界大戦や関東大震災の煽りをうけて、経営は悪化し、ついには解散してしまう。

だが、この技術を絶やしてはいけない!
鮎川は、ダットを消滅させないために、製造権を譲り受け、国産自動車製造販売のための「自動車製造株式会社」を設立し、国産自動車を救済したのである。
鮎川は、日本製自動車「ダット」を「ダットサン」と改名した。
ダットサンは今も「日産」の中で生き続けている名車である。
800px-Datsun_Model_11_Phaeton
 
スクリーンショット 2018-12-08 14.27.58
800px-1956_Datsun_Model_112_02
Datsun_on-DO

 
鮎川が、ダットさん製造のための自動車製造株式会社を設立したのは、奇しくも、ドイツにおいて全権委任法が制定された同じ年(1933)であった!(その①を参照)

この「自動車製造株式会社」が、翌年「日産自動車株式会社」に社名を変更したのである。
ちなみに、社名の「日産」とは、同グループの持株会社だった「日本産業」がもとになっている。

日本人の利点を最大限に利用すれば、欧米を凌駕することができると確信した鮎川の思いが爆発したような名前ではないか。


これが日本の産業だ!


という、世界を見据えた気概と気迫が伝わって来る。


翌年、鮎川は「満州国」発展のために本格的に肩入することを決意する。
そして同年『満州国への五万人のドイツ系ユダヤ人招請計画』を発表したのである!
鮎川は、満州参入と同時に、ナチズムが台頭した世界に一石を投じる大胆な解決策を提示したのである。


満州国といえば、日本の敗戦後、「満州からの引き揚げ」がいかに悲惨であったかばかりを聞かされ、今を生きる日本人はいいイメージをもっていない。
しかも、満州は日本が大陸に侵略して得た植民地であったかのような間違った刷り込みが長きにわたってなされれてきた。


ところが現実はそうではない。
満州は当時の世界に承認された正真正銘の「国家」であり、日本の植民地ではないのだ。
日本は当時のアジア情勢のパワーバランスの中で、満州国家建国の強力な後ろ盾となり、
日本の国家をあげて満州建国と満州発展のために力を尽くしたのである。

満州国は、日本の技術の粋を集めた超近代国家だった。
満州鉄道が開発した超特急「あじあ号」は最高時速150キロ。
当時の日本国内での最速列車は時速70キロしか出なかったのだから、その凄さがわかる。
800px-Super_Express_Asia

 
鉄道だけではない。
高速道路や港湾、飛行機工場、東洋一のダム、本格的な水洗トイレまで完備するハイテク国家だ。


また、日本軍が駐屯する頃による治安は抜群で、満州は、ユーラシア大陸に有史以来、初めて誕生した安全な法治国家だった。
だから、万里の長城の南、すなわち漢人が住む治安の悪いエリアから、毎年100万人もの漢人が、万里の頂上を超えて流入してきたのだ。
満洲国は、日本人の情熱と技術力が生みだした奇跡の国だったと言ってもいい。
『柳条湖(りょうじょうこ)事件』①を参照


鮎川は、満州国を入念な視察の上、ここに日産自動車の本社を移転させたのである!
満州発展のために権勢ふるった五人の男たちがいる。
長州ファイブならぬ満州ファイブである。
彼らは「2キ3スケ」と呼ばれていた。
2キは東條英機(関東軍参謀長、後に首相)、星野直樹(満州国総務長官)。
3スケは岸信介(同総務庁次長、戦後、首相)、松岡洋右(満鉄総裁、後に外相)
そして、鮎川義介(よしすけ)その人である。


鮎川の夢は満州をユーラシア大陸のアメリカのようにすることだった!
アメリカを知っていたからこそ、北米大陸と地勢的にも、気候も、また、資源も非常によく似ていることが肌でわかった。
天然資源に豊富な満州国を開発すれば、アメリカ以上のものになり得る!
鮎川はそう確信したのである。

そして広大な国土は、安住の地を失っていたユダヤ人たちを、まるごと受け入れる余裕がある。
アメリカにはすでにユダヤ系移民が、銀行家として金融の世界で力を発揮していた。
鮎川は、ユダヤ人にとっての別天地を建設することで、アメリカのユダヤ系資本を誘致することができると考えた。
その資金によって満州開発を促進させ、5万人のユダヤ人にとってのユートピアを建設しようと考えたのである。

もし、ユーラシア大陸に、アメリア/ユダヤ資本の超近代国家が誕生すれば、地政学的にソビエト連邦
に対する防壁となる。
それは、日本を含むアジア情勢に劇的な安定をもたらす。

鮎川は、ナチスによるユダヤ人迫害に真剣に向き合おうとしない世界を憂いていた。
そして、巡ってきた大陸進出を機に、世界秩序をさえ変更するほどの壮大な計画をたずさえて
満州国へと乗り込んでいったのである。
そしてすぐさま『満州国への五万人のドイツ系ユダヤ人招請計画』を発表したのだ。
なんと驚くべき大志であろうか。


これが、ユダヤ専門家として知られていた陸軍大佐・安江 仙弘(やすえのりひろ)や、 海軍大佐・犬塚 惟重(いぬづか これしげ)らの手に渡る。


 
    このエントリーをはてなブックマークに追加


■アメリカで悟った日本の力
アメリカの鋳物工場で、死ぬほど辛い仕事をしていた鮎川だったが、意外にも2週間ほどでこの苦しい作業に慣れてきた。
これには、さすがに自分でも驚いた。
iron-900391_960_720
 
突然、体が大きくなったわけでもなければ、腕力がついたわけでもない。
鮎川は重たい鉄鍋を運ぶ「コツ」をつかんだのだ。
相変わらず、腕力も筋力も劣っている自分が、いつも間にかすいすいと彼らと同じ仕事をこなせるようになっていた。
 
「そうか!」

鮎川はこの現実に興奮した。
このとき、鮎川は悟ったのだった。
 
「これは日本人の優れた点なのだ!」

と。

欧米人は、がたいが大きい。
だから、腕力と筋力を使って運ぶ。
だが、日本人は古武道のそれと同じように、腕や、腰、また膝のバネなどを上手に使い、筋力に物を言わせるのではなく、体の構造を最大限にいかして、筋力以上の総合力を発揮する。

欧米人は体も大きく腕力や体力では確かに日本人よりも勝っている。
しかし、日本人は、元来手先の器用さがある。
また、動きが細かく機敏なのだ。
 
「これは日本人の利点じゃないか!」
鮎川はそう悟ったのである。

この能力を活かせば、日本人は欧米人以上のことができるのはないか!

西洋に習え!と背中を追いかけ、近代化を成し遂げてきた日本だが、近代国家としては圧倒的に力の差を見せつけられてきた。
日本の産業はすべて欧米の模倣で、西洋の技術の前には太刀打ちできない。

しかし、鮎川はこのとき、「日本人」として目覚めた。 
世界の中での日本の使命を自覚したのである。
日本人は、西洋の真似をしなくとも、世界を凌駕する大きな仕事ができる!!!と。
鮎川は、1928(昭和3)年、この時のことを「私の体験から気づいた日本の尊き資源」と題して講話を行った。


過去においてこれほど意義のあるまたと得難い体験はない。爾来、私は自分の事業上、この体験を生かして信念化した。
すなわち、日本人は労働能率において少しも西洋人に劣るものではない。彼らが体格や腕力にすぐれている代わりに、我らは先天的に手先の器用と動作の機敏とコツという特性を持っている。頭も負けない。
(中略)

思うに神様は絶対に公平だ。日本は領土や物的資源に恵まれぬ代わりに、世界無比の万能工業人の趣旨を余るほど授かっている。(中略)

信用さえあれば、外国の資本も流れて来る。それによって原料でも材料でも持てる国から遠慮なく買うことができる。
場合によってはより安く。
こうして輸出がさかんになれば、国民の懐も豊かになって、スイスの如く資源の乏しきを
かこつ必要がなくなる。故に今後の日本は国是として、全国を工業化して労使協調、勇往邁進すべきである。

■ついに創業!!
鮎川はアメリカの鋳物工場で「日本人力」を悟り、そうと分かったらもはやアメリカに留まる必要はない!と、予定よりも早くに帰国した。
1907(明治40)年2月、28歳だった。
奇しくも、吉田真太郎が、日本初のガソリン自動車が誕生させた年だった。
019_l
 

帰国した鮎川は、今こそ大叔父である井上馨の力が必要だと確信する。
日本国の未来のために、井上馨は自分のビジョンを必ず理解してくれると信じた。

鮎川はアメリカの圧倒的な工業力を見た。
日本では、ガソリン車が10台しか存在していなかったとき、
アメリカではすでにヴァンダービルト杯という自動車レースまで開催されている。
1024px-Alco_Vanderbilt_1910

 
鮎川は、自身がアメリカで見た車社会の現実と、自動車産業の未来、鋳物工業の将来性
を訴え、自らの経験を通して確信した日本人力の可能性を力説したのだった。

井上馨は、かねてから「日本には政治家が多すぎる。私は政治家になったのを後悔している。君たちは、日本国を富ませるために実業家になれ!」と語っていた。
そんな井上にとって、自分の姪孫の、世界を見据えた大構想に感動しないわけがない。

「よし、わかった!」

井上馨は、鮎川のビジョンに賛同し出資者を募った。
かくして、鮎川帰国の3年後、1910(明治43)年6月、資本金30万円で福岡県の戸畑(現在の北九州市戸畑区)に、自身が専務技師長となった会社「戸畑鋳物株式会社」を設立した。
日本初の可鍛鋳鉄(衝撃や圧力で破壊されることなく変形できる性質を持った鉄)を製造する会社だ。
これは、日本鋳物業のイノベーションだった。

産業革命をなしとげ、高い工業技術によって世界を席巻していた西洋をしのぐ日本人の「技術力」で、鉄道や船舶、自動車を初めとする近代工業に産物に絶対不可欠の鋳物を、革新的な最先端の「日本の匠の技」により「純国産」で生産し、世界に打って出ようという、鮎川義介の大胆な事業のスタートであった。
これが日産の「原型」である。 

そして戸畑鋳物株式会社は、日本の工業製品をアメリカやイギリスなどの近代工業先進国へ輸出した「日本初」の会社となった。

日産自動車は「日本力」を深く信じた男の世界への挑戦である。

    このエントリーをはてなブックマークに追加


■それは、井上馨の一言から始まった
教育者、またメンターとして、鮎川は井上馨を慕っていた。
鮎川が技術者を目指したのも、井上馨の将来を見据えた一言からだった。
井上馨が顧問をしていた「山口高等学校」に在学中のある日、鮎川は井上の宿泊先に個人的に呼び出された。


「お前はエンジニアになれ!」

唐突に井上はそう言ったのだ。
エンジニア??
鮎川は聞きなれないこの言葉に刺激を受けた。
辞書で調べて見ると「技術屋」と書いてあった。
「技術の日産」が萌芽した瞬間である。 
この日以来、鮎川の耳からエンジニアという言葉が離れなくなったのだった。

Ayukawa_yoshisuke_1939 

■ゴーンよ!創業者の声を聞け!!!
鮎川は井上のすすめで東京帝国大学工学部に進む。
卒業後、進路について思いを巡らしていた鮎川に、井上馨は三井財閥入りを強く勧めた。
江戸時代から続く三井越後屋が、明治に入り、井上馨らの尽力によりグループ会社へと変貌を遂げ始めていた。
井上馨は三井財閥の生みの親の一人である。
そんな由緒ある三井に入れるとなれば、これほどおいしい話はない。
しかも、井上馨の身内となれば優遇される。 
ところが、鮎川は敬愛する大叔父からのオファーを断ってしまう。

井上家に出入りしている財界人をみて、権力に媚びる小さい人間に魅力を感じなかったからだった。
彼らのような人間の下で働く自分を想像できなかったのだ。
実学の人で、高い理想をかかげ、美徳を尊ぶ青年にとって、井上にへつらう人々は、どんなに裕福であろうが、反面教師だった。
鮎川はこう述懐する。

今から四十五年前、一介の貧乏書生として学校を出て実業界にはいる際に、私は自分の人生設計の中に、
”終生富豪となるなしに天職に精進しよう”というフィロソフィーをおりこみました。
そのことは私の青年期において、
《富豪心理はおおむね人をして利己的に堕し人類に好ましからぬ悪徳を宿らせる》
もので、それはたいていその人のもつ天賦の才力のすべてを仕事にささげようとする目的の人生設計に
対しては、むしろ邪魔になるものだという一種の真理が、幻影のごとく私の眼前に展開したいくたの実
例によって証拠立てられ、それが私の脳裏にやきつけられたことに原因する。

鮎川は、利己的な目的で金を稼ぐことに明け暮れている人々を見て失望した。
そして己に対して「オレは金持ちにならない」と決めた。
鮎川は、金を否定しているのではない。
金に対する態度と動機を問題にしているのだ。

気高い理想を抱いていた鮎川が見た大富豪たちは、利己的で堕落していた。
社会にとっての有害以外のなにものでもない!と思った。
俺は絶対にこのような人生は歩まん!
鮎川は、時代をときめく財界人という反面教師を得て、彼らへのアンチテーゼとしての人生を歩み始めるのである。

カルロス・ゴーンの強欲が表面化した日産大騒動。
しかし、日産は「金持ちにならないこと」を己の哲学とした男によって誕生したのである。



そして鮎川が選んだ道は、素性を隠して一職人として、製造業の底辺から始めるということだった。
彼は芝浦製作所(現・東芝)に入った。
井上馨の秘蔵っ子であることを隠し、現場仕事をゼロから学ぶために。
大叔父の人脈という甘い蜜を吸うことなく、鮎川は、ビリヨン神父のように、苦難と思われる道に飛び込んでいったのである。
1452

 
道具の使い方から始まり、板金にいたるまで、彼は職人の技を学び修練していった。
井上馨の名による特別待遇は一切ない。
井上の言う「Disipilen無きものは役に立たん!」という教訓は、鮎川の人生に結実していく。
休みの日となれば、井上主催の「有楽会」という組織が実施していた「工場視察」に参加し、2年間で80もの工場見学をした。
そうこうしているうちに、鮎川の素性がばれる。
すると彼は転職してしまう。
鮎川は他の職場に移ったあとも、機械、鍛造、板金、組み立てを次々に経験し、最後は鋳物工場で働いた。

その体験を通して彼は一つの結論に行き着く。
それは、
「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣だ。これでは日本で仕事をする価値がない!」
ということだった。
そこで彼は思う。
「本家アメリカの技術を学ぼう。鋼管の製造方法か、可鍛鋳鉄のやり方を学んでこよう」

そして、若き鮎川は渡米を決意する。
と言っても金持ちの悠々自適の留学とは違う。
移民団の4等客船にもぐり見込み、アメリカの田舎町で「鋳物工場」の見習い工として、週給5ドルの労働者となるために海を渡ったのだった。

西洋に追いつけ追い越せで、欧米の背中を追いかけることに必死になっていた当時の日本には、当然の結果として、古き良き日本を否定する「欧米主義」がはびこっていた。
西洋のものは何でもいいという雰囲気である。
そんな気風の中で、本家本元のアメリカの工場に飛び込んだ鮎川は、がたいが大きい白人に混ざって働くことに当初は戸惑い、気後れした。

仕事も非常に辛かった。
特に、反射炉から流れ出る真紅の溶鉄を取り鍋にうけ、その鍋を両手で抱えながら駆け足で運び、鋳型に注ぐ、という作業は死ぬほどきつかった。

iron-900391_960_720
 
日本でも同じ作業はあったが、鍋のサイズがまるで違う。ゆうに二倍はある。
あまりの重さに耐え難いほどの苦痛だった。
鍋をひっくり返しでもしたら、熱く煮えたぎった溶鉄をまともにくらい命も危ない。
まさに命をかけた労働だった。

だが、この労働を通して、鮎川は人生を変える重大な真実に目覚めるのである!

    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ