■それは、井上馨の一言から始まった
教育者、またメンターとして、鮎川は井上馨を慕っていた。
鮎川が技術者を目指したのも、井上馨の将来を見据えた一言からだった。
井上馨が顧問をしていた「山口高等学校」に在学中のある日、鮎川は井上の宿泊先に個人的に呼び出された。


「お前はエンジニアになれ!」

唐突に井上はそう言ったのだ。
エンジニア??
鮎川は聞きなれないこの言葉に刺激を受けた。
辞書で調べて見ると「技術屋」と書いてあった。
「技術の日産」が萌芽した瞬間である。 
この日以来、鮎川の耳からエンジニアという言葉が離れなくなったのだった。

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■ゴーンよ!創業者の声を聞け!!!
鮎川は井上のすすめで東京帝国大学工学部に進む。
卒業後、進路について思いを巡らしていた鮎川に、井上馨は三井財閥入りを強く勧めた。
江戸時代から続く三井越後屋が、明治に入り、井上馨らの尽力によりグループ会社へと変貌を遂げ始めていた。
井上馨は三井財閥の生みの親の一人である。
そんな由緒ある三井に入れるとなれば、これほどおいしい話はない。
しかも、井上馨の身内となれば優遇される。 
ところが、鮎川は敬愛する大叔父からのオファーを断ってしまう。

井上家に出入りしている財界人をみて、権力に媚びる小さい人間に魅力を感じなかったからだった。
彼らのような人間の下で働く自分を想像できなかったのだ。
実学の人で、高い理想をかかげ、美徳を尊ぶ青年にとって、井上にへつらう人々は、どんなに裕福であろうが、反面教師だった。
鮎川はこう述懐する。

今から四十五年前、一介の貧乏書生として学校を出て実業界にはいる際に、私は自分の人生設計の中に、
”終生富豪となるなしに天職に精進しよう”というフィロソフィーをおりこみました。
そのことは私の青年期において、
《富豪心理はおおむね人をして利己的に堕し人類に好ましからぬ悪徳を宿らせる》
もので、それはたいていその人のもつ天賦の才力のすべてを仕事にささげようとする目的の人生設計に
対しては、むしろ邪魔になるものだという一種の真理が、幻影のごとく私の眼前に展開したいくたの実
例によって証拠立てられ、それが私の脳裏にやきつけられたことに原因する。

鮎川は、利己的な目的で金を稼ぐことに明け暮れている人々を見て失望した。
そして己に対して「オレは金持ちにならない」と決めた。
鮎川は、金を否定しているのではない。
金に対する態度と動機を問題にしているのだ。

気高い理想を抱いていた鮎川が見た大富豪たちは、利己的で堕落していた。
社会にとっての有害以外のなにものでもない!と思った。
俺は絶対にこのような人生は歩まん!
鮎川は、時代をときめく財界人という反面教師を得て、彼らへのアンチテーゼとしての人生を歩み始めるのである。

カルロス・ゴーンの強欲が表面化した日産大騒動。
しかし、日産は「金持ちにならないこと」を己の哲学とした男によって誕生したのである。



そして鮎川が選んだ道は、素性を隠して一職人として、製造業の底辺から始めるということだった。
彼は芝浦製作所(現・東芝)に入った。
井上馨の秘蔵っ子であることを隠し、現場仕事をゼロから学ぶために。
大叔父の人脈という甘い蜜を吸うことなく、鮎川は、ビリヨン神父のように、苦難と思われる道に飛び込んでいったのである。
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道具の使い方から始まり、板金にいたるまで、彼は職人の技を学び修練していった。
井上馨の名による特別待遇は一切ない。
井上の言う「Disipilen無きものは役に立たん!」という教訓は、鮎川の人生に結実していく。
休みの日となれば、井上主催の「有楽会」という組織が実施していた「工場視察」に参加し、2年間で80もの工場見学をした。
そうこうしているうちに、鮎川の素性がばれる。
すると彼は転職してしまう。
鮎川は他の職場に移ったあとも、機械、鍛造、板金、組み立てを次々に経験し、最後は鋳物工場で働いた。

その体験を通して彼は一つの結論に行き着く。
それは、
「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣だ。これでは日本で仕事をする価値がない!」
ということだった。
そこで彼は思う。
「本家アメリカの技術を学ぼう。鋼管の製造方法か、可鍛鋳鉄のやり方を学んでこよう」

そして、若き鮎川は渡米を決意する。
と言っても金持ちの悠々自適の留学とは違う。
移民団の4等客船にもぐり見込み、アメリカの田舎町で「鋳物工場」の見習い工として、週給5ドルの労働者となるために海を渡ったのだった。

西洋に追いつけ追い越せで、欧米の背中を追いかけることに必死になっていた当時の日本には、当然の結果として、古き良き日本を否定する「欧米主義」がはびこっていた。
西洋のものは何でもいいという雰囲気である。
そんな気風の中で、本家本元のアメリカの工場に飛び込んだ鮎川は、がたいが大きい白人に混ざって働くことに当初は戸惑い、気後れした。

仕事も非常に辛かった。
特に、反射炉から流れ出る真紅の溶鉄を取り鍋にうけ、その鍋を両手で抱えながら駆け足で運び、鋳型に注ぐ、という作業は死ぬほどきつかった。

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日本でも同じ作業はあったが、鍋のサイズがまるで違う。ゆうに二倍はある。
あまりの重さに耐え難いほどの苦痛だった。
鍋をひっくり返しでもしたら、熱く煮えたぎった溶鉄をまともにくらい命も危ない。
まさに命をかけた労働だった。

だが、この労働を通して、鮎川は人生を変える重大な真実に目覚めるのである!