今日は万葉集の講座日なので朝はいつもより早くおきました。朝日を見ようとベランダに出たら厚い雲に覆われて朝日を拝むことは出来ませんでした。7:13分にパチリした空です。
今日の万葉集は大伴家持の春愁三首でした。
※天平勝宝五年(752)2月23日、興に依りて作りし歌二首
4290番歌 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも
通訳―春の野に霞がたなびいていてもの悲しい。この夕方の光の中に鶯が鳴いているよ。
―『万葉の秀歌』講談社より抜粋―
家持は春の野に霞がたなびいている、そのことにおいて心が悲しみに沈む、という。春愁といってもよいような悲しみである。人々の悲しみを古来「春愁秋思」といったが、いま秋思はまれに漢詩などにあるだけで、日常には残らない。春愁だけが残っている。家持は、その春愁の歌人といわれる。
ふつうには生命の燃えさかる春は心も燃え立つはずなのに、家持は外界や他との連帯から離れ、「心ぐし」とか「おほほし」とかといった心情にあるのが常であった。それがこの「うら悲し」であろう。
外には春霞がたなびいて、うららかである。時刻は夕方、夕方の光のなかで鶯が枝うつりしながら鳴いている。そのたびに「夕かげ(ひかり)」はきらきらと反射する。鶯は明るくなごやかなはずなのに、家持の心は悲しみに沈む。
明るい周囲との逆接的構造は、この春の始めの三日にわたる物思いと、共通している。あたりが明るいのと対比的に心は暗いのは、いつもの家持の精神構造である。この「うら悲し」については従来種々の外因が詮索され、衰運にある大伴氏を思ってのものだなどともいわれるが、このばあい、記録に残されているような具体的な事件は何も見当たらない。むしろ物理的に何もないからこそ、家持は自分自身得体の知れない憂鬱に落ちこんでゆくのである。
4291番歌 我がやどのい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも
通訳―我が家の笹と叢竹を吹く風の音がかすかに聞こえるこの夕方だ。
―『万葉の秀歌』講談社より抜粋―
前作と同じ日の作。「わが家にあるいささかの群竹を風が吹く。その音がかすかに響く夕暮よ」という一首である。
作者は、いま群竹をよぎるかそけき音を聞いている。風は実体のない、はかないものである。なにかに当って、音を立てたり、物が動いたりすることではじめて存在がわかる。それほどに存在の稀薄なものが風で、そこに風を詠んだ歌のかそけさが生じる。そのうえ、さもさも小さい竹を「ささ」というのは、その音によるものである。そのいささかの群竹をよぎる風がかそかなのである。
家持はこの二首において、一首目に、霞と鶯を詠んだが、二首目には風の音しか詠んでいない。この視覚から聴覚への移りゆきは、『枕草子』の冒頭を思い出す。
※25日に作りし歌一首
4292番歌 うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば
通釈―のどかに照っている春の日にヒバリが舞い上がり、心が悲しい。ひとりで思っているので。
―『万葉の秀歌』講談社より抜粋―
先二作より二日後の作、「ニ十五日に作れる歌」と題詞にある。「うららかな春日が照り、雲雀がさえずりながら上がってゆく」という点、第一作の、霞のなかの鶯と情況がひとしい。「情悲しも」といっているのも、「うら悲し」に当る。比較すると、暮色に鳴く鶯より高く翔る雲雀のほうが、よりのどかで明るい、第三首のほうがより明るい風光を詠みながら同じように情悲しい境地にあるのだから、逆接的心情は、より顕著である。のみならず「独りしおもへば」と末句が結ばれているのは重大で、第一作が「うら悲し」ともっぱら情緒に訴えているのに対し、こちらは思惟するのである。この相違は看過すべきではあるまい。
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