教育

2010年08月04日

 大学院生活が始まって4カ月、一応夏休みに入った。一応、というのはまだ課題が残っているからだ。さて、この夏の始まりに、私が大学院でジャーナリズムを学びたい、研究したいと考えた原点を振り返るいい機会があった。いや、正確に言えば「振り返らざるをを得ない」と思ったのだが。

 私がよく言っていることの一つに、「現場の記者が『私は現場ではお金のことは考えたことが無い』と言い切るのはよくない」というものがある。以下、自分のツイートに説明を加えることで、言いたいことを解説したい。

昨日上手く言えなかったこと。現場記者が、この記事は売れる(読まれる)/売れない(読まれない)ということを自覚しないことで生じるデメリットは、批判性を欠いた記事がのさばること。現場記者が「これを書くことで誰が得をするのか」を考えた上で書くべきだ、ということ。6:24 PM Aug 1st via Twittelator


 ある先生から問われた。「現場記者がお金のことを考えないことで生じるデメリットは何なのか?」その際は、突然にその問いが発せられたため、うまく答えることができなかった。

 私が言いたかったことは単純で、要するに無批判な内容の記事が蔓延ることを危惧しているだけだ。危惧しているというか、私は、もうすでに蔓延っていると思っており、その原因が「現場記者が現場で何も考えないこと」にあると考えていたのである。だが、この場で話したことを通じて、私の問題意識は少し変わった。それは後述する。

そこで「現場では何も考えない」と記者が断言してしまうのは、自らが「無邪気すぎること」「取材対象に迎合していること」を露呈することであり、ひいてはそれがジャーナリズム全体の信頼を落としていると思う。だから私はただ、「現場でも意識しています」と言える人を増やすべきだと考えている。6:25 PM Aug 1st via Twittelator


 例えば、私自身もインターンシップで経験したが、ある飲料メーカーが新製品を開発したとして、その製造担当者が新聞社を訪問する。記者はその担当者と面談して記事を書くわけだが、記者がやることと言えば担当者が言うことを誤りなくアウトプットするための質問のみだ。これが「○○で初、来月発売」などの記事となる。別の例なら、ある銀行が学生インターンシップの最終日に行う発表会に記者を招き取材させる。当然ながら学生の発表内容などニュースにならないため、記事は「○○銀行はインターンシップをやっています」という、たんなる宣伝となる。

 また、行政が企画するいろいろなキャンペーンの報道。県が小中学生「記者」を他県に派遣して、その取材旅行を通じて成長しましたという記事。ある行政機関の見学会が初めて開かれ、そこに招かれて参加した子どもたちからコメントをとって紙面に載せる。ここには何らの疑いも、悩みもない。ただただ、受け身の姿勢でいるのみだ。
(これらは私が実際に経験した数少ない例である。ただ、規模の大小こそあれ、どこにでも似たような事例は存在しているだろう。)

 私はこれらのイベント(出来事)を記事にすることを否定しているわけでは決してない。こういう記事を書く記者が、これを書くことで誰がどれだけ得をするのか」ということを考えた方がいい、と言いたいだけだ。そしてそれを考えれば自然と悩まざるを得ず、「本当にこれはニュースなのか」「ニュースだとしてもどの部分が真にニュースなのか」「その裏側にある構造的な問題はないのか」「これを伝えることで生じるマイナスは何か」などということが、取材姿勢にもアウトプットにも表れるだろう。私はそういう理想論を言っていたし、これは誤っていないと思う。

要するに「あなたの仕事はそんなきれいなだけじゃなく、矛盾も山ほどありますよね」ということを共有したいだけ。でも現場ではそれを疑っちゃいけないと言うなら、それはその組織はこれまでもこれからも何ら変われないということ。ジャーナリズム教育というのはそこを変えるためにあるんじゃないのか。6:45 PM Aug 1st via Twittelator


 ただ、私が意外だったのは、いや意外というかショックだったのは、「現場記者が現場ではお金のことなど考えず、取材して記事が書けるというのはいいことだ。むしろ、それが真のジャーナリズムであって、お金のことなどを考え始めたら逆に腐敗していくではないか」という考え方があることだ。

 これを聞いて私は、(少なくとも日本の)報道機関では「お金=悪」という考え方、つまり「お金のことを考える」ということがすなわち、それを稼いだり儲けを減じないようにすることを意味し、それが「よくないこと」だという共通認識が支配しているのだな、と思った。報道機関の(編集の)トップ層の人々は、現場記者が「お金のことを考え」たら、その記事は取材対象の意図するままとなったり、自社(新聞社)の利益になるような書き方になってしまったり、ということを危惧しているのだろう。

 しかし、それはあまりに自社の記者をバカにしてはいないか。私はこれまで「現場記者が、現場でより考えるようになることが、報道内容の改善につながり、ひいてはジャーナリズム全体の信頼性を高める(そして、私たちの中に『ジャーナリズムは必要だ、守らねばならない』という空気を醸成することにつながる)」と考えていた。ところが、その前の段階、つまり報道機関の在り方を考え、決定している上層部に根本的な問題があったのだった。私は、このことを忘れていたのかもしれない。

 つまり、上層部にとって「真のジャーナリズム」を実現するために必要な人材は、現場でお金のことなど余計なことは考えず、報道という公共性の高い仕事に誇りを持って働ける人なのだ。そこに、「お金のことを考えて、それでも煩悶し、闘った上で公共のために働ける」という考え方は無いのだろう。無邪気な人、が一番欲しいということなのだ。

 その場にいらしたドワンゴの亀松太郎さん(@kamematsu)に、分かりやすい比喩を出して頂いた。すなわち、「野球の球団とイチローの関係」だ。もちろん、スポーツと報道では異なる部分は多々あるが、それを留保して考えても非常に興味深い。イチローは、現場(ゲーム)で、例えばお金のことを考えてバットを振っているだろうか。練習場でファンと握手するときに、これがゲームシャツの売り上げにつながるなどと思っているだろうか。いや、思ってはいないだろう。しかし、彼は自覚しているはずである。ヒットを打てばファンが増え、ファンが増えれば球団は儲かるということを。イチローは野球を愛しているだろうし、人々を楽しませる仕事をしていることに誇りを持っているだろう。それは決して、お金のことを考えることと矛盾しない。自身の言動がどのようにお金につながるかを自覚することと、いいプレーをして人々を勇気づけることは、両立するのである。

ただ、ジャーナリズムはイズムであって、仮にイズムが「何も疑わず、矛盾を自覚しないこと」であると言うのなら、もはやアカデミックなジャーナリズム教育は無意味となってしまう。そうではないと考えたい。6:56 PM Aug 1st via Twittelator


 私が大学院でジャーナリズムを学びたい、研究したいと考えたそもそもの理由は、今の(主にマス)メディアにアカデミックな視点が足りないと考えていたことにある。おそらく「真のジャーナリズム」は「何事をも疑い、その矛盾を突いていく」ものなのだろう。しかし、これは、自身も疑われる立場であり、矛盾することをやっているという自覚があって初めてできることなのではないか。その矛盾が「無い」と言うのを聞くのを私は堪えられないし、そう言えることこそがジャーナリズムのあるべき姿であると報道機関の上層部が言うのなら、そこにアカデミックな視点は入り込めないことになろう。なぜなら、私が考えるアカデミックな視点とは、自身が無知であり、矛盾に満ちた存在であることを自覚することであるからだ。その自覚無しにここまで来たのが(特に)マスコミだった、と私は考えている。

 ジャーナリズムの現場とアカデミズムとは、これまで互いに敬遠してきた。その歴史があるからこそ、私はジャーナリズムの現場にアカデミックな視点を持ち込むことを諦めない。もちろん、ジャーナリズムの現場とはマスコミだけではなく、広く可能性がある。アカデミズムの場におけるジャーナリズム教育を受けることを選んだ人間として、この考えが実際に現場を変えるという「夢みたいな話」に期待し続けたいと思うのだ。


丸山紀一朗続きを読む

maru_kiichiro at 16:44コメント(7)トラックバック(0) 

2010年04月03日

昨日(4月2日)は大学院の入学式の後、科目履修に関するガイダンスがあった。その充実した内容と、時間のかけ方に驚いた。学部時代とはまるで異なる教授陣の意気込みのようなものが伝わってきた。

早稲田大学大学院政治学研究科には政治学、国際政治経済、ジャーナリズムという3つのコースがあり、私が所属するジャーナリズムコース(J-School)は3月中にも実習科目の履修ガイダンスがあった。その際にも多くの先生方が出席し、実際に担当する科目について一人10分程度の紹介をいただいた。

昨日のガイダンスは2回に分けて行われた。16時開始のはじめの方の時間には修士論文やインターンシップの説明などがあてられ、その後、各講義科目や演習科目についての紹介があった。

科目紹介では講義要項に載っている全ての科目について、少なくとも一言は触れられた。しかも、例えば「政治分野」の科目ならその分野に属する先生が紹介してくれる、というように全く努力を惜しんでいないように見えた。

おかげで私の講義要項は赤ペンのメモでいっぱいになり、科目登録の参考になるであろう情報が増えた。この2回のガイダンスが終わったのは夜の8時を過ぎてからだった。

また、登録予定の科目などを記入したフォームをネット上で5日までに送信すれば、それを基に個別の履修相談を受けてくれるという。私は、学部時代も同じ早稲田の政治経済学部に所属したが、大学院でのこのような懇切丁寧な扱い方との落差に軽いショックすら覚えた。

もちろん「完璧」なガイダンスではなかった。段取りが悪い部分が目立つ。同じ先生が何度も登場して、異なる科目の説明をするなど、一度で済ませば時間もこの三分の二で済んだろう。しかし、それ以上に先生方の熱心さに驚いたのだ。

もっともこのような丁寧なガイダンスは、大学院が少人数教育であるからこそできるものなのかもしれない。ただ、学部の「流れ作業的に講義要項を配り、個々の科目の紹介はしない」という状況はどうにかならないものか。あれでは、「マイルストーン」(=早稲田の学生が発行する科目登録補助のための雑誌。単位の取りやすさ、内容の面白さなどについて☆1~4つの評価で示されている)に頼って科目を選び、他により興味深い科目があることに気付くのが遅れてしまう。

これが今の学生の努力不足であるとか、情報収集能力の欠如であると言ってしまえばそれまでだが、私自身が半分そうであったように、あの膨大な数の科目群から真に自分にマッチしたものを選べるようになるまでには2年くらいかかる。学部は、学生とのコミュニケーションを欠いているのではないかと思う。

たしかに先生方にとっても、遊びに興じている学部生よりも大学院まで進学する学生たちを相手にした方が、教育に対するモチベーションも上がるだろう。しかし、このまま学部における教育が空洞化していくと、「大学というのは高校の次に通うもの」という間の抜けた感覚を人々に与えてしまうと思う。これに対する問題意識は、先生方も十分に抱いていると思われる。

大学とは何をするところで、どういう科目をどのような目的で提供しようとしているのかということを、学部でも丁寧にガイダンスすることが求められるのではないか。多少過保護だという批判を受けても、私はそうすべきだと感じる。


丸山紀一朗

maru_kiichiro at 23:15コメント(4)トラックバック(0) 

2010年03月25日

本日、無事に早稲田大学を卒業しました。経済学の学士、政治学・法律学の各副専攻をいただきました。

この4年間、私が経験してきた大学生活を反省する意味も込めて、これから大学生になる方々へのメッセージを、偉そうに、押し付けがましく書いてみます。
(ちなみに、このブログの名前は『あるジャーナリズム大学院生の戯言』でありますが、正確には私はまだ「ジャーナリズム大学院生」になっていません。4月からです。)

勉学と遊びは半々に
いきなり説教くさいですが、これは本当に大事。同時に、こんなに実現するのが難しいことはないかと思います。

私は大学3年の夏まで、サークル活動(フットサル)にほぼ全精力を注ぎました。そこで得た多くのものは目に見えませんが、将来私の子供ができたなら同じ経験をさせてやりたいと思うほど貴重な時間でした。

ただ、時間と労力を捧げたゆえ、失ったものも大きかったと後から気づきました。失ったもの、それは講義を楽しむ姿勢です。

私は3年になって初めて、大学の講義が面白いと感じるようになりました。もちろん、別にサークルをやっていなかったとしても、1、2年の頃には講義の面白さに気付くことができなかったかもしれません。

しかし私は少々遊び過ぎたと思います。科目登録はサークル活動の都合にあわせ、講義はただただ消化するだけとなっていた時期が長かったのです。

今日、卒業式にて早稲田大学前総長である奥島孝康教授から頂いた言葉に「平和を欲するならば、戦いに備えよ」というものがありました。少々難しい言葉であり、私自身複雑な感想を持ちましたが、つまり「やることはやっておきなさい」ということではないかと思います。

勉学の面で自分を磨き続けること。遊びたい気持ちは十分わかりますが、勉学と半々程度がちょうどいいのではないかと思います。


大学は「学問」をするところ
大学は高校の勉強の延長ではない。と私は考えています。正確に言えば、そういう風に考えることができるようになりました、最近。

大学でよく耳にするのは「この授業、社会に出ても役に立たないよ」という学生の言葉です。私は、これはある程度当たり前だと思うのです。つまり、みなさんが大学で取り組む「学問」というものは、現実社会に役立つかどうかという基準でその価値をはかることはできないのです。

もちろん、そういう分野の「学問」もあると言えるかもしれません。例えば理系の学生が行う研究は、それが現実社会で利用できるかどうかが問われることが多いでしょう。しかし、文系、特に社会科学分野の学問というものは、基本的にそれとは独立して考えるべきです。

政治家がある政策を実行する際に、その分野に詳しい大学教授の理論を援用することがあります。しかし、それは単にその政治家が自分の主張を裏付けるために「使える」と判断したに過ぎません。別にその大学教授は政治家に使ってもらうために学問をしているわけではないと思うのです。

では、何のための学問か。こんな壮大な命題に答えることはまだ到底できませんが、私なりの答えは「考え続けるため」に学問をするのです。社会に役立つかどうかは別にして、ある問題についてあらゆる可能性を考えること。

学問は基本的に一般化を繰り返すことで一つの結論にたどり着きますが、その過程には常に留保が伴います。その結論が別の理論によって覆されたり、間違いだとわかった時にはその留保に立ち戻る必要があるのです。あなたの結論は常に暫定的なものであり絶対的な正解など無い、というのが学問なのだと思います。

話が深入りしすぎましたが、要は、大学は単に社会で役立つことを得られる場所ではないよ、ということです。「学んで問う」ということを繰り返すことが「学問」なのでしょう。必ずしも一つの解答を得られるわけではないのです。


もう少し書こうかと思いましたが、今回はここでやめておきます。私の弟も4月から大学生なので、機会があればこのようなことを話してみたいと思います。


丸山紀一朗

maru_kiichiro at 23:49コメント(0)トラックバック(0) 
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