2005年09月24日

京都西陣、帯の産地を訪ねて

長い伝統をもつ織物や染物がある。商売柄これまでに膨大な数を目にしてきましたが、その中に(ごく希ですが)「この作品は何故この世に生まれ、どうやって現代に生き残ってきたのだろう」「どんな人が作っているのだろう」と気になって仕方がないものがあります。 それは、紛れもなく名工の手によるものです。名工には孤高(頑固者?)のイメージがあります。機嫌を損ねたら一刀両断にされないだろうか・・・一抹の不安を感じながらも、疑問を疑問のまま残しておくのは性に合わないし、
元来、大の人好き、旅好き、そしてモノ好き(物好きではない)な私。 日常の業務に支障のない範囲(と私は思っている)で、 念願の『日本の名工に会いに行く旅』をスタートすることにしました。

 冬の色に染まった京都・西陣。この地名は『応仁の乱のとき西方に敷いた陣地』に由来すると言います。伝統工芸のまち、きもののまちとして全国に名を馳せる西陣の中でも出色の作風で知られる「帯屋捨松」(1854年創業)」さんを訪ねました。歴史を感じさせる建物の風貌、店内にもおそらく百年はゆうに越えた家具や品物がたくさん残っていて、観光客が店の前で記念写 真をとって行く観光スポットにもなっています。お会いしたのは御主人の木村四郎さん。捨松の6代目であり50歳代の方です。
「90年代はじめのバブルの頃は良いものでもそうでないものでも、何でも売れたところがありました。でも今は本当に努力して創作に励んだのものでないと、本物を知るお店やお客様に受け入れてもらえない。私どもにとっては、とてもやり甲斐があるいい時代になりました」とおっしゃいます。

帯屋捨松の木村四郎さん,ああ、本物の職人さんだ。お会いしてよかった。私がニラんだ通 り捨松の帯はきっと長い歴史を持っているに違いありません。うれしくなって、その独特の色や組織はいつからか確立されたものかを聞いてみることにしました。(江戸時代かな?室町時代かな?) 「兄と私の代からですよ」 えっ、初代から6代にわたって受け継いできたものじゃないの?意外そうな、そしてちょっぴり落胆した私の顔を見て、6代目はこう続けてくれました。


「私には素晴らしい先生がおられて、その方が私を育ててくれたんです。その先生とは徳田義三といわれる方です。名前を表に出すことを嫌われ、無形文化財保持者や“現代の名工”などの肩書きとは無縁の方でした。しかし、今思うと北大路魯山人ととてもよく似た方でしたね。義三は魯山人が嫌いで『自分と同じにしないでくれ』と言っておりましたが、作品に対する頑固なまでのこだわりやモノ創りのためなら廻りが見えなくなり、周囲の人間に少なからず迷惑を掛けてこられた天才肌の方でした」
徳田義三氏は、伝統を頑なに守り続けることで作家が個性を発揮できず、時代のニーズとのズレを生みつつあった西陣織の世界に独自の作風で一石を投じ、西陣のメーカーがこぞって「図案や組織図を描いて欲しい」と頭を下げて来たような人。自分の満足する帯を作れないメーカーの注文は、いくら金を積まれても断ったという伝説の人物です。 こんなエピソードがありますよ、と6代目は続けます。

「良い作品のアイデアがまとまると、夜中でも糸を買ってこいと言うんです。店が閉まっているなら糸屋を起こせばいいじゃないかと(笑)。作品の良さは理解できても、義三そのものを理解できた人は、そうはいませんでしたね」
と当時を懐かしみます。6代目が徳田氏のもとに住み込みで修行に入ったのは十代の頃。現在の屋号『捨松』も6代目を見込んだ徳田氏が命名し、捨松の図柄や組織もそのままのかたちで託されたそうです。捨松の帯は一目でそれとわかるものであり、連綿と続く西陣織の歴史の中で明らかに一時代を記す個性を持っています。
木村四郎さんは百四十余年の“のれん”を誇る西陣織の6代目織元であり、2代目『捨松』でもあるのです。
「徳田義三先生は今から8〜9年前になるでしょうか、八十歳半ばで亡くなられました。あんな凄い方はこれまでにも記憶にないし、これからも出ないでしょう」と6代目。そこからは、たぐい希な技術だけでなく「心」を受け継いでいる自信がうかがえます。義三を後生に伝える人、そして義三を越える職人は、木村四郎氏この人しかいません。  
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2005年06月24日

鑑定の難しさ

鑑定の仕方についてよく聞かれる事がある、「企業秘密なので」などと言うほどの物ではないのでご披露したい。
きものの鑑定は無地の麻風のものが鑑定によっては1000円だったり8万円だったりするので緊張するがとても面白い。
きものリサイクルショップで販売する価格だが、その品が新品の高級呉服店で売られていたならば幾らだろうと想像する、それが品物の代金が20万円で裏仕立てで5万円とすると合計25万円になる、それから出発するが、今の時代は5割引から7割引は普通であるから、古着が7割引の75000円程度であれば新品で売られていることがある、それでは誰も古着には見向きもしないし、喜びもしない、それでは幾らぐらいが妥当かと言えば25000円くらいであれば、買う方も喜んでくれると思う、しかしそれから品物の状態によって価格が下がってくる、着丈(きたけ)が短いと安くなり、裏が黄変していると安くなり、シミがあると安くなり、赤過ぎて買う人が好まないようであれば安くなり、柄が悪いと安くなりで
どんどん価格が安くなって終いに1000円ぐらいになるものもある。
しかし、アンティーク物は基準が違う、新品ではもう売っていないし、作れないので、希少価値で価格が付く、まず時代が価格を決める、江戸時代の物が高い、しかしあまり無い、明治、大正のものもあまり無い、昭和初期で戦前の物も戦災で焼けてあまり無い。
しかし、それが出てきた時は凄い値が付く、江戸時代の小袖なら200万円前後、大正や昭和初期の振袖なら50万円前後になる、
また今は作られていない銘仙などはレトロ感覚と希少価値で1万円から3万円になるが銘仙は昭和30年代は新品で数千円で売られていた。
次に、今買えば200万円以上する本場結城紬で30万円から70万円、今300万円以上する宮古上布で60万円、350万円以上する芭蕉布で90万円から120万円、越後上布で120万円となる。
後は、有名メーカーの品、龍村美術織物、龍村平蔵、たつむら、等の名前が入った物、そして川島織物等、
そして人間国宝の作品、森口華弘、北村武司、小川善三郎、志村ふくみ、喜多川平朗、等
そして沖縄物、八重山上布、花織り、琉球美絣、琉球本紅型、久米島紬、等は他産地物より5割高です。
興味の無い人にとっては面白くもない事を長々と書きましたが、もっと沢山面白い事がありきもの世界は複雑で奥が深く、一生研究してもまだ足りないぐらいである。
一般の方にも、呉服屋さんでも殆ど区別が付かないものがある、
羅列すると、本場結城紬と石毛紬、能登上布と宮古上布、小千谷縮と越後上布、麻絣と芭蕉布、大島紬横双と銘仙、塩沢紬とお召し、麻無地と科布(しなふ)近江上布と八重山上布、本場大島紬と村山大島紬、等、鑑定を惑わせる織物がとても面白い、呉服屋さんで見せて下さいと言って勉強してみてはどうですか。

  
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2005年06月04日

買取鑑定と委託販売鑑定の違いに驚く

電話で鑑定の依頼、依頼者はホームページできものを買取するところを探して、石川県の金沢の買取の会社に商品を49点送ったところ、全部の買取鑑定の結果が5000円にしか成らず段ボール5箱を送ったが着払いで返してもらったので送料が6000円もかかったとのこと。その話に正直その鑑定依頼を躊躇した、49点も送って全部で5000円では内容に期待は出来ないと思ったが見ないことには解らないのでとにかく訪ねることにした。
内容を見てびっくり、本場結城紬の重要無形文化財の証紙が添付してある紬が2点、本場結城紬の無地が1点(証紙添付)、本場大島紬地に染めた附下が1点、等すばらしいものが多く、鑑定の結果は354,000円になった、それでも売れなければいくら高く鑑定しても意味が無いわけで、今半年が経過して49点中45点が売れて鑑定依頼者には既に339,000円を振り込んでいる、5000円と339,000円を単純に比較すれば最初の買取鑑定は素人が鑑定したのか、安く買い取ることで利益を上げたかったのかよく分からない。
同じことが別の所であった、電話で鑑定依頼、買取か委託販売かを聞いたがどうしても早く処分したいので買取でお願いしたいとのこと、依頼者を訪ねて鑑定をして、買取なら10万円も出せば多分、了解戴いた事だろうが、それでは気の毒になって委託販売の方が金額は多く成りますよと話しても、いつ売れるか判らないものを待てませんとの回答、私は「多分この内容のきものであれば来月には10万円以上が振り込めますよ」と話をして、委託販売鑑定に切り替えました、翌月実際の振込は162,000円となり4ヶ月後の今月で総振込額が639,500円と成った、依頼者から御礼の電話があり、私もとても嬉しかった。
委託販売鑑定はこちらも高い金額で売った方が利益が上がるので、買取鑑定のように無理に安くは鑑定しない。しかし委託販売はいつ売れるか判らないので敬遠される方もあるようだ。  
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2005年06月03日

国産絹糸を守る群馬の方と話して

国産絹糸を守る、群馬県の組合の方々が京都で宣伝会をやっていた。今絹糸は殆どが中国糸でブラジル糸が少し混じっている程度で、日本で何百年と続いた養蚕業は群馬県で細々と続けられている。中国の繭は大きくたくさん絹糸が取れる、純国産の繭はとても小さい、天皇家が育てておられる繭は小石丸といってもっと小さい、小さいが細くて質の良い糸がとれる
、染め上がりがよく、しわに成りにくい、その小石丸の種(繭の子供を種という)を戴いて純国産繭と掛け合わせて新小石丸という品種の繭で糸を創り、織っている、私は正直、蚕が桑を食べている所は一度しか見ていないし、今回糸取りを座繰り機で取っているのも始めて見た、座繰り機といっても木製のもので手作業の補助程度の道具である、殆どの糸は機械でとるが座繰り機で取った糸は非常にめずらしく30数個の繭から30数本の糸を取って一本の糸として撚っている所を見て感心した。国産繭の品種は新小石丸の他には群馬200、世紀21、あけぼの等がある。中国産の裏地を5000円とすれば30000円、1万9800円、2万3000円、13000円の順であろう。日本の絹糸は政府の補助があって、この値段である。
中国の絹糸は安く、日本の養蚕業者は激減し製糸工場も次々に廃業している、後に残った製糸工場と精錬工場と製織工場、買い継問屋が生き残りの組合を造って頑張っている、
少し高くても、日本の糸を使ってゆきたいものだ。  
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2005年05月31日

本場結城紬の里を訪ねて

本場結城紬の里は茨城県結城市にある、ここは何度来ただろうか、鑑定の仕事をする前は、よくある呉服屋さんの見学程度でした。手間のかかる糸取りを感心したり地機の根気を驚いたりで、なるほど本場結城紬は高いはずだなどと関心して福岡へ帰ったものだ。
しかし鑑定の仕事はとんでもない難しさである、リサイクルのきものは正札も証紙も貼っていない、手触りだけで鑑定することになる、そして最近の本場結城紬だけならまだなんとかなる、でもそれが昭和30年代の結城や昭和初期の結城となるとなかなか難しい、それで結城市の奥順の奥沢社長を訪ねた、私が昔の結城や今の亀甲絣はいつ頃から創られるようになったのか、あまりしつこく聞くので工場長を呼んで詳しい説明をされた、その時の言葉が「貴方のような熱心な方に会うのは初めてです」だった。そしてその工場長も「自分で織ったもの以外は100%これが本場結城紬ですとは断言する自信は無い」と言われたその言葉がとても印象的だったし本場結城紬の鑑定の難しさを表現されたように感じた。
この後、日光東照宮の特別拝観をして奥日光に向かい「森のホテル」という洒落たホテルに泊まった、食事も旨く、のんびり出来た。
ご存じだと思うが、今、本場結城紬は大変な岐路に立たされている、結城市のある織屋が無形文化財の本場結城紬ではないものに重要無形文化財の証紙を貼って販売して摘発された。その人はなまじ結城紬に詳しいので、重要無形文化財の証紙を貼っているものの中にも違うものが混じっていると開き直った、そのため何百年前から行われていたすり込みとゆう染織方法が認定された重要無形文化財の染織方法に当たらないと文化庁が判定を行い、今までの証紙が貼れなくなった、すり込みで染めた糸で織られたものの方が価格は高く売られている、しかし、文化庁が認定する重要無形文化財としての本場結城紬は(1)使用する糸は総て真綿より手つむぎしたもののみとし、強撚糸を使用しないこと。(2)模様をつける場合は、手くびりによること。(3)いざり機で織ること。以上の三つが認定の条件である。そのためすり込みと言う方法で染めたものが混じっている場合は重要無形文化財と認定しないと文化庁はお役所らしいかたくなな判定を下した。
そのため今年の6月くらいから何十年と続いた今までの無形文化財の証紙は無くなり、新しい証紙は二種類あり、色で分けられているがどちらも本場結城紬という表示になる予定であるらしい。
この話は先月(4月)の10日に奥順の奥沢社長に聞いたものである。
今年の秋にでも結城を訪ねてどうなっているのか聞きたいものである。
  
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2005年05月30日

本物の藍を訪ねて徳島へ

本藍、正藍、インディゴ、藍染め、呼び名は多いが本当の藍染めは何だろうと思い、鑑定の方法を確かにするために徳島を訪ねた、徳島は福岡からは本当に遠い、新幹線で岡山、そして宇野、本四架橋を通って高松へ、そこからが遠い、四国の東側の汽車はとても時間がかかる、徳島について古庄さんという藍染工房を訪ねた、ここの当主は若い頃ウエイトリフティングの選手で三宅義信に敗れてオリンピックに出られなかったそんな人物です。髭をはやして少し怖そうだが、寡黙で優しい力持ちです。藍は蓼科の植物で、収穫して干して発酵させる、発酵している室に入るとアンモニアの臭いで長くは居られない、それ固めて藍玉にして各地の染織家に送るそうだ、久留米にも沢山来ている、藍は育てるもので灰汁建てといってカリを使わないのが本物で、育てにくいのでどうしても確実に育つカリを使ってしまう、灰汁建てで私も藍を育てたが3回のうち2回は失敗した、それでも灰汁建てにすると飲める程安全なので、万病の薬として飲む方もあるそうだ。
ところで藍染の鑑定の仕方を聞いたが臭いと色と味だそうである、しかしインディゴも似たような臭いがする、灰汁建てかカリ建てか分からない、色で確実に判るそうだが、判るまでにはかなりの経験がいるそうです、しかし徳島の高校の授業には藍染めがあるそうで、徳島の高校生は色で判るそうだ、私には紺染めと藍染めは同じに見えるし何故藍染めにそんな高い価格を払って手に入れるのか判りませんと話すと、藍は身体に良いだけでなく人間の顔色に合ってとても綺麗に見えるそうだ、女性はそれで藍を身につけるのだそうだ。
もちろん虫除けにもなるし細菌も寄せ付けない、私はもうかれこれ25年ほど藍染めの褌を愛用しているが、股にできた湿疹やタムシも綺麗に治ってしまった。
そういえば、晒しを2反、本当の藍染めにしてくれと頼んだとき、出来上がってきた染め代として7万円を請求されたときは、若くて金が無いときだったので、びっくりした記憶がある。藍染めとはそれほど手間もかかる染めだと実感した。
そういえば明治の初めに日本にきた小泉八雲(ラフカディヨハーン)は日本は青い国だと表現して、海は青い、瓦も青い、玄関の暖簾も青い、座布団も寝具も青い、食器も青いし、総てが青く感じる、これがジャパンブルーだと著書に書いている。
藍は昔から日本の生活に欠かせないものであったことが判る。
今年も7月になれば私は灰汁建ての藍を育てる、そして香りと味と色を感じながら染めてみる、そんな楽しみが待っている。  
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2005年05月29日

きものの鑑定を頼まれて札幌へ

鑑定の仕事を始めて、3年経ったころ、札幌から4人の方が福岡にみえた、リサイクルショップを始めたいとのこと、鑑定の方法、仕入の方法、広告の仕方、店舗改装のアドバイスなど、私は札幌が好きでまた札幌へ行けると喜んだ、オープンはいつの予定ですかと聞くと、11月下旬の予定ですとの答え、寒いときだなと思いながらも顔は笑っている、早速、指導開始、福岡と京都で指導や仕入の紹介を済ませて、いよいよ札幌現地指導、妻と娘を連れてまるで観光旅行、お店はすすきのに在り繁華街の中心地である、高級呉服からリサイクルショップへの転身、そのお店は80歳を越える初代の奥様の本拠地、今のご当主は京都からみえた方、初代の奥様は当然大反対、それをやっと説得されて店を真ん中で仕切って高級呉服とリサイクルショップの共存状態、初代の奥様にとって私が指導に来ることは嬉しいはずはなくむしろ迷惑なはずであろう、しかし、さすがは初代の奥様の貫禄、「遠方を当店の為に御足労戴き誠に有り難うございます」との挨拶には私は恐縮した。札幌のお店のご主人はとても親切で食事の美味しいところを、毎日連れて行ってくださるので恐縮、ジンギスカン、蟹、寿司、ビール等、札幌を堪能、二日目から指導開始、集めてあるきものや帯を鑑定する、とても良い物が集まっているのにびっくり、本場大島紬や本場結城紬が何枚もあり価格を8万円から40万円を付けると翌日の開店初日に半数は売れていた、ここのご主人は苦労人で商売熱心、多分成功されると感じた。
その後、札幌を訪ねた時は、お店は非常に順調で、おかげでを連発、私も嬉しい、その後、東京や京都のリサイクルきものの競市に通われて、すっかり熟練者の仲間入り、指導した私をもう追い越す勢いである、今は逆に仕入先を紹介してもらっている、これまでに開店指導した店は大分長崎金沢岐阜岡山札幌名古屋福井山口宮崎熊本島根大阪鎌倉秋田和歌山などがあるが私を越えてしまったのが3店舗ある、嬉しい限りである
、声がかかれば食事が旨く温泉のある都市であれば喜んで指導します。
  
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2005年05月23日

秩父銘仙の里を訪ねて

銘仙というものは沢山見てきたが、織られているところも見たこともないし、銘仙の権威の方に会ったこともないので、銘仙は今どうなっているのか知りたくなった。
銘仙は戦前から戦後昭和30年代の前半までは生産もされ、呉服店でもよく売れていたそうです、私の父の話では京都から100反ほど仕入れて店に出すと、価格が数千円なので毎日数点づつ売れて、月半ばでまた京都に銘仙だけを仕入れに行った時もあったと話していました。
昭和30年代の後半から銘仙に代わる良い織物が沢山市場に出てきて、あっという間に市場から消えました。
銘仙の特徴はたて糸をきものの反物の幅と長さに板の上に張り、それに小紋を染めるように型染めをして、それをほぐして機織り機にかけて横糸を打ち込んで織物にしたもので、ほぐして織るのでほぐし織りとも言われた、そしてあの銘仙独特のたて糸がかすれたような柄になるのです。
秩父駅の近くに銘仙館があり、昔の小学校をそのまま使い資料館になっていました。連絡を入れていたのでとても親切に案内して戴き、昔の銘仙を沢山見せてもらい、昔の見本裂も沢山見せてもらいました、見本と同じものが注文できますかと尋ねたところ、今は布団やネクタイしか織っていないので絹織物を織る処は、今一件だけですので注文通り織ることは出来ないとのことでした。唯一の絹織物の織元を訪ねてみたのですが、銘仙に目を付けたのは私で3人目でリサイクルショップが一番で東京の呉服店が2番だそうですが、一番目の店に卸しているので他の店には売れませんと断られた。
しかし、今は銘仙の人気でまた織り始めた織元も増えてきたと聞いています。
銘仙は最盛期は秩父市、桐生市、伊勢崎市で創られていましたが、今またこの産地で復活の兆しがあると聞いています。
こんな素晴らしい柄の織物が恐竜のように突然消えたことが不思議でしょうがないのです。

  
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2005年03月18日

京都の古美術商に時代衣裳の鑑定を頼まれて

その依頼は突然だった、京都の呉服問屋のある方からの電話だった。京都のある屋敷の前で待っていると、そこは青蓮院の前にある京都一の古美術商の邸宅である、後で知った事だが家屋敷を売却して蔵の中を整理するので昔からの衣裳類が幾らで売れるか鑑定して欲しいが、京都周辺の人物には鑑定を頼みたくないので、九州の私に白羽の矢が立てられた。そこには江戸時代の小袖や明治時代大正昭和の衣裳が400枚あった。それは壮観だった、美術館や美術本の中で見たものが私の目の前にある、また鑑定不能、江戸時代の小袖はかって私が別の古美術商で見たものは80万円から300万円であった。しかし殆ど市場には出ないものでもある、江戸時代は宮崎友禅斎が登場してまもなくで友禅の技術はあまり普及しておらず図案の形に糊を置いてふせて、その上から地色を引き、糊を洗い流すと図案が白く浮き上がる、その後、色糸で刺繍をして全体を豪華に作り上げた、その形式のものが江戸時代の小袖の姿である、鑑定はその保存状態と刺繍の量や図案の素晴らしさで価格が決まるもと考えていたが、さすがに本物が目の前に出現するととても価格は言えない、私の一声で決めるにはあまりにも金額が高すぎる、ゆっくり鑑定することを了解頂いて、福岡に総て送る事にした。その後400点は総て鑑定をしたが、その衣裳の行方は言えない。それは私の鑑定の仕事の中でも忘れられないものの一つとなった。  
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2005年03月13日

今昔きものの旅 石垣島を訪ねて

石垣島の空港に着くと、そこに真っ黒な顔をした現地人の夫婦が迎えにきていた。すぐにはそれが友人の松山とは解らなかった。福岡のテレビ局を定年前に辞めて夫婦で石垣島に永住を決意した勇気ある友人である。彼に案内してもらった石垣島は癒しの島でした、共通の友人である武田は激務のため軽い心身症にかかり会社で腹痛になることが多く、休暇と治療を兼ねて友人を訪ねて石垣島にきて毎日毎日素潜りをして美しい珊瑚と魚を眺めて暮らし二日目からもりもり食事をするようになり、福岡に帰って、彼の奥さんのお礼の電話は「あんなに明るい顔をした主人を見るのは久しぶりです、有り難うございました。」だった。
この素晴らしい島に生まれた織物がある、それは麻で織られた八重山上布である。横糸に苧麻(ちょま)と呼ばれる、手紡の麻糸を使い、縦糸にはラミーと呼ばれる機械紡の糸を使って手織りで織られた夏のきものである。縦横ともに苧麻を使った宮古上布と呼ばれる究極の夏のきものが隣の宮古島にあるが八重山上布も買えば50万円はすると思われる貴重なきものである、友人が案内した八重山上布を織る女性は東京から島に来て自分で糸を染めて手織りで織る25歳の女性である、一軒家を借りて一人で住んでいる強い女性であるが、見た目にはとても強そうには見えない優しい普通の女性であった。苧麻は島の「おばあ」が紡いでおり新しくやってきた彼女にはなかなか糸を分けてもらえなくて、手に入れるのに苦労しているようだった。それから石垣島にはミンサーと呼ばれる帯があり綿の糸で織られている、価格は半幅帯で15000円程度だったと記憶している。名古屋帯で48000円だったかなと思う。その後港の近くの民芸品店の女性主人が宮古上布の古着が倉庫に沢山あるので買わないかと言われ、とても興味をそそられたが、次回の約束をして別れた、次は宮古島と石垣島と久米島を訪ねるぞと思う。
石垣島の食事は驚くほど旨かった、友人の民家風の自宅で郷土料理をごちそうになり三線(さんしん)をつま弾き、旨い泡盛を飲み楽しい石垣島でした。  
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2005年03月11日

沖縄の織物 芭蕉布を鑑定して

突然、芭蕉布が持ち込まれた。昔買ったきものですが売ってもらえませんかと、正直私は芭蕉布は触ったことはあっても、他の織物と真剣に比較したこともなく、専門家にこれが芭蕉布で新品であれば280万円はするよと言われたが、そのまま聞き流していた。
芭蕉布は私には鑑定不能です、しかしそれだけは言えない、思案の末、京都の鑑定の先輩に相談、電話で鑑定は難しく、生地の手触りは、柄はどうゆうものか、全体に糸の結び目が多いか少ないか、かなりのやりとりをした末に、まず80%の確率で芭蕉布でしょうとの鑑定、持ち込まれた方にどこで買いましたか、作家名は覚えていますかと尋ねたところ、福岡の有名百貨店の伝統工芸展の時に確か「たいら」さんと言われて買ったことを覚えていますと言われて、それは平良敏子さんのことだと確信して、間違いなく芭蕉布で平良敏子さんの作品ですねと答えました。しかしそれからが難題の価格です京都の先輩は80万円くらいでは売れるよとのアドバイスを受け、持ち込まれた方に80万円で売りましょうかと持ちかけたところ、そんなに高く売らなくてもいいですよ、もっと安くして、早く売って下さいと言われ、それでは69万円で売りましょうと決まりました。
その芭蕉布は5日後に取り合いのようにして売れてしまいました。私にとっては芭蕉布鑑定初体験でした。その鑑定は3月7日に持ち込まれた芭蕉布の鑑定に役立ちました、今回は自信を持って芭蕉布だと断言して70万円で売ることにきまりそうです。  続きを読む
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2005年03月08日

今昔きものの旅 米沢を訪ねて

これから全国織物の旅に出ます。全国の織物の産地は少しづつ無くなりつつあり、これからも少なくなることが確実になっている。失われ行く織物を資料として集めたいと考えている。私のように今と昔のきものの鑑定を仕事にしている身にとっては、早く全国を廻りたいと思う。南は石垣島、久米島、宮古島、沖縄、奄美大島、鹿児島、久留米、博多、結城
能登、小千谷、六日町、塩沢、米沢、八丈島、京都、などを廻りたい。

今回は山形県米沢市にある織物の産地を訪ねました。どうせ見学に行くならば米沢に一番良い時期に行こうと考えて、上杉神社の雪灯籠祭りが2月12日と13日に開催されているということで、まえまえから行きたいと思っていた祭りなので、仕事と偽って、カミさんと二人で行きました、本当の目的は、雪灯籠祭りと温泉と米沢牛です。
しかし、仕事として数件の織物の作家さんや工房をたずねました。一軒目は紅花紬を織っている新田さんの工房です、過去にも何度か福岡で個展をしていただきましたが私にとっても新田さんの工房は4回目です、紅花は上杉鷹山の時代、米沢の重要な産物で貴重なものでした。西の藍、東の紅花といわれ、どちらも健康によい染料として大切にされ、この藍と紅花とを合わせて染めた色が貴族だけに使うことを許された紫になるとのこと、なるほどそんな貴重なものかと感心した。2軒目は諏訪好風さん、こちらは草木染めの作家さんで、紫根染の絞りのきものを見せていただいた。三件目は白根沢織物さんこちらは米沢で最古の織物工房で上杉鷹山の時代に米沢藩の奨励で始まった養蚕で出来た絹で織り始めたとのこと、とてもびっくりした、それでは200年以上の歴史があるのですねと聞くと、息子が12代目とのこと、それにもまたびっくり、そして明治28年の全国織物大会の審査で第一等を受賞されたとのこと、当時本場結城紬が30円で白根沢さんの織物が10円とのこと、当時の久留米絣は3円と記されていた。米沢の歴史を感じたものでした。4件目は吉池織物さん、こちらは昔、白塀が延々と続く大きな屋敷でしたが、今は米沢市が買い取って吉池公園となっているそうです。こちらの工房はシナ布を織っているところでシナの木の皮を剥いて作った糸で織った生地で麻よりも飴色で強い生地です。とても貴重な生地で無地の帯で30万円くらいはするとのことにびっくり。この工房はその他に刺し子も作っておられ、その資料として収集しておられる火消しの半纏のコレクターとしても有名な方です。火消しの半纏は裏に入れ墨の柄に似た柄を染めてその上から補強の為に刺し子をしたもので、1枚が100万円を下るものはないとのことにまたびっくり。米沢の織物の旅は楽しいものでした。
それと、余計なことですが、米沢周辺はくだものでも有名な産地で紅花の新田さんの奥さんの実家はりんご農園でこんなおいしいリンゴがあるのかと思うものをつくっておられる。
その他、サクランボ、庄内柿、洋梨、桃、ラフランス、リンゴ、すべて日本一美味しい果物ばかりです、温泉もまわりにたくさんあり楽しい旅でした。  続きを読む
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