「実は負けて泣いたことが一度だけあります」

―――渡辺 明

囲碁棋士・井山裕太との対談(「文藝春秋」2013年11月号)より
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 棋士が泣く。
 それはどんなときなのだろう。

 渡辺が負けて泣いた一度きりの経験とは、羽生善治に初めて挑戦したときのこと。
 二〇〇三年の王座戦五番勝負、初のタイトル戦である。
 当時十九歳、五段の渡辺、二勝一敗と羽生をカド番まで追い込んだものの、第四局は千日手、その後二連敗して羽生の十二連覇を許した。

 そのときを振り返り、対談相手の囲碁棋士・井山裕太(当時五冠)に渡辺(当時三冠)は秘密を打ち明ける。

 「最終局で負けてタイトルが取れなかった。対局が終わって自分の部屋に引き揚げた時、急に涙が出てきた。あれは何だったんだろう」

 井山裕太も、初挑戦だった二〇〇八年の囲碁名人戦最終局で負けたときには、渡辺同様、部屋に戻ってから涙が出てきたという。

 「大人になって囲碁で泣いたのは、あの時が最初で最後です」

 時代に名を残す名棋士は、人生最初の痛い敗戦で泣いた後は、もう決して涙を見せないものなのかもしれない。