ここは師匠の意地を見せてやろうと気合を入れたが、結果は私の完敗だった。このとき引退を決意した。

―――二上達也

『棋士』(晶文社、2004年)より
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 大棋士引退時のセリフとして最も有名なのはこれだろう。

 「私はよき後継者を得た」

 一九五二年(昭和二十七年)、木村義雄名人(当時四十七歳)が大山康晴挑戦者に敗れたときのものだ。
 潔(いさぎよ)い、美しい、と現在まで語り継がれている。
 もっとも、河口俊彦ほどの人間観察者になると感想はちょっと違っていて、このセリフこそ「木村の見得切り人生の総決算的大芝居」となる。

 「礼賛・見得切り人生」(追悼・河口俊彦 ⑧)

 しかしながら、棋界のトップを争った大棋士が自らの引退を考えるとき、この木村の歴史的一句は重く、やはりその「潔さ」に心動かされるのである。
 二上達也もその一人だった。

 「私には、木村義雄十四世名人の潔い引き際がつねに念頭にあった。(中略)そんな大名人とくらべると、おこがましいことかもしれない。それでも、われわれの世代の棋士には木村名人の潔さは一つの手本だった」

 二上の引退は一九九〇年(平成二年)三月だったが、その二年前くらいから引き際を「真剣に模索」していたという。
 ボロボロになるまで指し続けるというのは二上美学に反する。
 とはいえ、引退後の収入は大丈夫かなど、まことに世俗的な悩みもある。
 また、当時は大山康晴十五世に会長職を退いて欲しいという空気が濃くなっており、二上にその役が回ってくる。(一九八九年五月から二上新体制が発足)

 そういういろいろな要素があった中で、実際に引退を促す決定打となったのが、弟子・羽生善治(当時五段)との対戦だった。
 それが一九八九年三月十日のオールスター勝ち抜き戦。師匠と弟子の初対決として注目された。

 デビュー以来三年と少し。タイトル戦登場はまだなかったものの、NHK杯戦での優勝、対局数・勝利数・勝率・連勝の記録独占など、当時の羽生は凄まじい活躍を見せていた。

 その弟子との対戦。
 「弱ったなあ」という気持は確かにある。しかし、やってやろうじゃないかという意気込みもあった。

 「小さい頃から知っている弟子に、ころころ負かされてはかなわんという気持ちもある。ここは師匠の意地を見せてやろうと気合を入れたが、結果は私の完敗だった。このとき引退を決意した」

 こうして二上は、希有の弟子・羽生善治を通じ新しい世代に道を譲るのである。

 「引退の決意は家内だけに告げて、平成元年度一年は指し続け、平成二年、年度が変わったときに引退届を提出した」

 こういうところが二上らしく、私の好むところだ。
 「私は良き弟子を得た」などと、歯の浮くような気障ったらしいことは決して言わない。
 黙って引退を決め、黙々と年度末を待つ。
 彼の美学がここにある。

 昭和の大棋士・二上達也。
 A級在位二十七期、タイトル獲得五期、タイトル戦登場二十六回。
 引退時五十八歳、順位戦はB級1組、竜王戦は1組。前年には王位リーグにも在籍。
 木村義雄十四世名人より十歳ほど遅い引退だったが、「われわれの世代の手本」を踏襲した潔い身の引き方だった。