対局前夜、はたして眠れなかった。朝の四時くらいまで、私はひたすら孤独相手に独り相撲を取っていた。

―――先崎 学

第65期王座戦二次予選「三浦弘行 vs 先崎学」自戦記 第一譜(「日本経済新聞」2017.3.3)
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 二〇一七年二月二十日、王座戦二次予選「三浦弘行 vs 先崎学」戦が行われた。前年十月から出場停止処分を食らっていた冤罪被害者・三浦の復帰第二戦である。
 当初、この観戦記は野月浩貴が書く予定だったらしい。
 ところが対局の数日前に野月は先崎からこう言われたという。

 「やっぱり書きたい、俺にも想いはあるんだ」

 むろん野月にだって「想い」がある。
 それを全力でぶつけ、渾身の観戦記を書き上げる。
 そんな覚悟だったのだが、彼はその役を先崎に委ねたのだった。

 私はこの話を知り、野月は偉いと思った。
 先崎と野月、二人の心が通じ合ったからこその交代。
 ここにも美しい物語があるのである。

 振り返ってみると、この冤罪事件は実に醜悪で、人間の嫌な面をこれでもかというほど見せ付けられた。
 棋士が棋士を信頼せず、棋士が棋士を陥(おとしい)れる姿。
 それを手助けする連盟執行部。
 ジャーナリスト精神のかけらもない将棋記者。

 そんなものばかり見続け、私はすっかり「美しい物語」を忘れていたのである。
 そうした中、三浦の復帰第二戦の観戦記が「日本経済新聞」に載る、それは先崎の自戦記になるということを知る。

 「そうか、先崎さんなら、美しいものをきっと見せてくれるだろう」

 そう期待して読み始めた第一譜。
 題は「孤独と苦悩」。
 そこには指し手の説明は何もなく、冒頭、いきなりこう書かれてあった。

 「対局前夜、はたして眠れなかった。朝の四時くらいまで、私はひたすら孤独相手に独り相撲を取っていた」

 こうして、先崎の「想い」が詰まった、渾身の、歴史に残る、美しい観戦記がスタートしたのである。