私はこの数ヶ月、棋士たちが当たり前の仲間意識、笑う余裕をなくしたのが何より辛かった。だからこそ三浦君が笑ってくれたのは嬉しかった。

―――先崎 学

第65期王座戦二次予選「三浦弘行 vs 先崎学」自戦記 第二譜(「日本経済新聞」2017.3.4)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 三浦弘行(先手)と先崎学(後手)の対局(三浦の復帰第二戦)は角がわりから腰掛銀の将棋になった。
 しかし第一譜にも第二譜にも手の説明は一切無い。
 全く奇妙な自戦記である。

 けれどもそれで良いのだ。
 この期に及んで、誰も指し手の説明なんか望んじゃいない。
 いったい先崎は何を書いたのかと、皆が息を詰めて紙面を覗き込む、そんな感じだったろう。

 果たして、第一譜はひりひりするような緊張感に終始した。
 ところが、翌日の第二譜で、彼はがらりと雰囲気を変えてきたのである。
 そこには、止めてしまった「週刊現代」のエッセイ「吹けば飛ぶよな」のような味があった。

 「昼食時の出来事」――これが第二譜の表題。

 その日、将棋連盟の控室はピリピリしていたという。
 いったい、三浦とどう接したら良いのか。
 間合いを測ったり、目の合うのをさりげなく避けたり……そんな光景が想像される。
 デビュー間もない女流棋士もいたが、彼女はもうカチカチに固まっていたらしい。
 先崎は出前の注文品を食べようとその異様な空間に入る。

 「すかさず三浦君が頭をかきながら謝ってきた。なんでも私の注文したものを先に食べてしまったらしい」

 先崎の注文したソバに無意識のうちに箸を付けてしまったというのだ。
 先崎が笑いながら「いいよいいよ」と返すと、三浦も笑ってまた頭をかいた。
 そこで先崎は知己の女流にこう冗談を言う。

 「向うはなべ焼きうどん、おれは山かけそば、ぼくのほうが得したぜ」

 彼女は思わず吹き出し、新進女流の表情が少し和らぐ。三浦もそれを聞きながら「柔和な顔で」そばをすすっていたという。
 自戦記第二譜で彼はこのような情景を描き、続いてこう述べている。

 「私はこの数ヶ月、棋士たちが当たり前の仲間意識、笑う余裕をなくしたのが何より辛かった。だからこそ三浦君が笑ってくれたのは嬉しかった」

 と共に、この一局への気合いを入れ直す。
 将棋は対局者二人の共同作業だ。そしてそれは、お互いの強い信頼関係で成り立つ芸なのだ。
 彼は自戦記第二譜をこう締め括った。

 「お互いプロ中のプロ、下手な仕事などできるか、と強く思った」