拾遺篇

賞金五百万円の女流棋戦で優勝するより嬉しいこと(加藤桃子の場合)

「女王と初段、どっちが嬉しいの?」と答えにくい質問をしてみた。加藤(桃子)はニッコリ笑って私からすれば自明の答えをいった。

―――先崎 学

「加藤桃子女王に盆と正月がいっぺんにきた」(「週刊現代」2014年7月5日号)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 加藤桃子が里見香奈を下して女王位を奪取したのは二〇一四年五月八日だった。
 賞金五百万円の棋戦での優勝である。

 その二日後、関東奨励会の例会があった。

 加藤が奨励会1級に上がったのは二〇一一年九月。まだ当時十六歳ということで、ファンは彼女の将来を大いに楽しみにしていたのだが、それから三年弱の月日が流れても依然として1級のまま。なかなか初段に上がれずに低迷し続け、年齢も十九歳になっていた。

 そんな二〇一五年五月十日の例会で、ようやく加藤桃子は入品(初段昇段)を果たす。

 この頃、「週刊現代」で「吹けば飛ぶよな」の連載を開始した先崎学は、その第二回目のタイトルを、「加藤桃子女王に盆と正月がいっぺんにきた」として、女王と初段を手にした加藤桃子について記事を書いている。
 先崎は加藤を定期的に家に招いて指導を行っているのだが、その際、加藤にこう質問したそうだ。

 「女王と初段、どっちが嬉しいの?」

 五百万円のタイトルと、勝っても一銭にもならない奨励会初段とどちらが嬉しいのか? そう訊いたのである。
 彼女はどう応じたか。

 「加藤はニッコリ笑って私からすれば自明の答えをいった」

 私は当時この部分を読み、うんうんと大きく頷いたものだ。
 先崎さん、よう言うてくれた。そうそう、「自明の答え」なんですよね。ファンの私もそっちの方がよほど嬉しかったんだから――。

 高額な賞金を出してくれるスポンサーに対し、「女流棋界最高峰のタイトルよりも一銭にもならない奨励会初段の方が価値がある」などということはなかなか公言できないものだ。
 しかし、プロ四段を真の目標とする女性にとって、女流棋戦での優勝などは、極論すれば付け足しのようなもの。奨励会で一つ上がることの方がどれだけ尊いか。歴史的価値がまるで違うのだ。

 ニッコリ笑って「自明の答え」を言った加藤桃子は、続けて、「とにかく強くなりたいんです」と口に出したという。
 これを聞いた先崎にある予感が走る。

 「瞬間、私には予感が走ったのである。――この子は必ず棋士になる。来月からは今まで以上に厳しく教えようと思った」

伊藤沙恵の無念、そして再出発

「私が女流棋士になったことで、こういう場でしか指すことができなくなってしまったのは残念に思っている」

―――伊藤沙恵

第五期女流王座戦挑戦者インタビュー(2015.9.11)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 伊藤沙恵が奨励会1級に上がったのは加藤桃子より早かった。
 ところが、彼女はその後、チャンスはあったものの初段昇段を逃し、以後、満二十一歳という退会年齢に刻一刻と近づいていくことになる。
 二〇一四年十月六日がそのリミットだった。

 この、二十一歳の誕生日の六日前、九月三十日に、伊藤はついに奨励会退会を決意、女流棋士への転身を発表するのである。
 そして、「奨励会1級」から、規定により「女流初段」に。けれどもこれは、はっきり言ってしまえば「降格」だ。

 加藤桃子より一年半ほど歳が上だが、二人ともいわゆる「天才少女」。奨励会ではライバルとして競い合っていたのに……。
 十歳、女子最年少で奨励会入りした天才少女の、十年後の挫折であった。

 その伊藤沙恵が、二〇一五年九月、加藤桃子女流王座への挑戦権を勝ち取った。
 里見香奈・甲斐智美というタイトル保持者を破っての挑戦権獲得だからむろん嬉しいだろう。実際、対局後の記者の問いかけに目頭を押さえるシーンもあったという。
 しかし、記者会見に於ける回答の一節には次のような句もあるのだ。

 「私が女流棋士になったことで、こういう場でしか指すことができなくなってしまったのは残念に思っている」

 私はここに、伊藤沙恵の、女流棋士としてやっていくことの無念を読み取る。
 プロ正棋士を夢見て、男性たちの中に混じり、同じ志を持つ加藤桃子と共に必死でやってきた奨励会。そんな日々がふと頭をよぎったに違いない。

 想像だが、年齢制限間近となり、人生の決断を迫られたとき、「女流プロにはならない」という考えも強かったのではないか。
 すんなり、「奨励会が駄目だったから女流になります」などとは、とてもとても言えなかっただろう。傷は深かったのだ。

 しかし彼女は女流プロになった。
 その理由を、同じ会見の中でこう述べている。

 「たくさん勝つと男性棋戦にも参加することができるので、そういう目標も持って女流棋士になりました」

 その言や良し。
 挫折からの再生。
 伊藤沙恵の心意気を見た。

 2015.10.22、第五期女流王座戦第一局、初手を指す前の伊藤沙恵(「女流王座戦中継ブログ」より)――良い表情です。

加藤桃子と伊藤沙恵の「同じ夢」

「伊藤(沙恵)女流二段ですけども、親友でありながらも、最終的には同じ夢を持った同志でもあります」

―――加藤桃子

第五期女流王座戦第一局前夜祭挨拶(2015.10.21)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 加藤桃子に伊藤沙恵が挑戦する第五期女流王座戦。その第一局前夜祭(2015.10.21)の挨拶で、加藤女流王座は挑戦者についてこう語っている。

 「伊藤女流二段ですけども、親友でありながらも、最終的には同じ夢を持った同志でもあります」

 「同志」か。
 良い言葉だなあ。
 私はなんだか嬉しくなったのである。

 片や現役奨励会初段。もう一方は奨励会1級で脱落した身。
 しかし、かつて二人で追いかけた「同じ夢」は、伊藤が女流棋士へ転身した今でも続いているのだということを、加藤女流王座は言っているのだ。

 夢――それは男性棋士と互角に渡り合える実力を付けること、そして、「女流棋士」ではなく「女性棋士」になることである。
 加藤は奨励会でそれを目指して励む。
 では伊藤にはどういう道があるのか?

 「たくさん勝つと男性棋戦にも参加することができるので、そういう目標も持って女流棋士になりました」

 そうなのだ。男性棋戦の女流棋士枠がある。そこで白星を重ねれば、プロ編入試験という道もあるのだ。
 規定には、「現在のプロ公式戦において、最も良いところから見て10勝以上、なおかつ6割5分以上の成績を収めたアマチュア・女流棋士の希望者」と、「女流棋士」も明記されているではないか。

 気が遠くなるほど困難な道ではある。
 しかし道は閉ざされてはいない、開かれている。
 ならば、夢に向かい、挑むのみだ。

 「最終的には同じ夢を持った同志でもあります」

 ああ、加藤桃子は実に良いことを言った。


 2015.10.21、第五期女流王座戦第一局前夜祭、加藤桃子・伊藤沙恵両対局者の入場シーン(「女流王座戦中継ブログ」よ

中村真梨花の指の震えが止まらなかった

「自分が対局者なら相手の駒であっても真っ直ぐに直しますね」

―――先崎 学

第34期女流王将戦第二局(2012.10.12)テレビ解説より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 指が震えているのである。
 指が震えて駒が升目にうまく収まらない。
 動かす駒が他の駒とぶつかって乱れる。
 まだ序盤。しかしそれを直す余裕もないのだ。

 私は見てはいけないものを見てしまったような感に捕らわれた。

 二〇一二年の女流王将戦三番勝負第二局、「里見香奈女流王将 対 中村真梨花女流二段」戦の光景である。
 挑戦者中村は宮崎県都城市で行われた第一局を勝ち、将棋連盟での第二局に臨んだ。

 テレビ解説は先崎学八段(当時)。
 中村の震えは中盤以降次第に治まってきてはいたが、まだ正常な状態ではなく、自分の駒をうまく置くことができないときもある。
 自駒がほとんど斜め45度くらいに向いてしまう場面さえあった。
 しかし彼女はそれを直せないのだ。

 たまりかねた先崎八段が言った。

 「自分が対局者なら相手の駒であっても真っ直ぐに直しますね」

 結局中村はこの戦いを落とし、第三局(第二局と同日)もまた負けてしまい、せっかくの初戦勝利を活かすことができなかった。
 中村の指の震えは第三局でも見られた。

 このときの光景が甦ってくる。
 「見てはいけないものを見てしまった」とそのとき私は感じた。しかしこれは、実は尊いものだったのではなかろうか。そんなふうに今思い直すのである。

 あれはまさに神聖な空間だったのだ。
 緊張。高揚。期待。不安。
 そんな勝負師の裸の姿を中村真梨花は何も隠さずにわれわれの前にさらしたのである。
 乱れた駒を直すことも忘れ一心に読みふけるあの姿。
 美しいではないか――今はそう思う。

 中村真梨花は不器用な人だと感じる。
 銀河戦の聞き手を務めたりもするが、まあ見ていられないときがある。
 愛想笑いが下手。
 相づちもぴたっと決まらない。
 将棋の手は見えるのだが、聞き手としての所作には、正直ハラハラさせられる。

 一方、こういうことを無難に、また如才なく、あるいは味良くこなす女流棋士も多い。
 そして聞き手や司会などを通じて彼女たちはアイドル化していく。
 そんな女流がチヤホヤされもてはやされたりもする。

 しかし中村真梨花はそんなところを目指さなくても良いのだ。
 ただ一途に将棋に打ち込む。
 その姿を見せるだけで十分である。

 不器用だっていい。
 大舞台で指を震わせるほど緊張し、駒の乱れを直すのも忘れて読みに没頭する。
 その入魂の姿。
 そこにこそ将棋指しとしての誇りがある。
 中村真梨花の輝きがある。

天野貴元という存在(生きる⑤)再掲載

周りの人が幸せになるのが自分にとっての幸せだっていう風に考えるのが、良い生き方なんじゃないのかな

―――天野貴元(元奨励会三段)

「病が教えてくれた事」(新・天野ブログ「あまノート」2013.11.21)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 二〇一二年三月、奨励会三段リーグを二十六歳の年齢制限で退会した天野貴元。
 現在売り出し中の中村太地も負けそうなイケメンだったが、なんと退会から一年後に舌癌が発見されるという人生の大ピンチに遭遇。手術前後の心境と闘病の記録がブログ(新・天野ブログ「あまノート」)に綴られている。

 「将棋はよく途中で諦めていたけど、今回だけは最後まで諦めず闘病します」

 これは医師から宣告を受けた二〇一三年三月二十八日の記述。
 そして四月十一日に手術、百日間の入院生活を経て七月に退院。
 言語障害を抱えながらも八月に職場復帰、抗癌剤治療などを続けながらアマ将棋大会にも精力的に出場している。

 「周りの人が幸せになるのが自分にとっての幸せだっていう風に考えるのが、良い生き方なんじゃないのかな」

 二〇一三年十一月二十一日の記録だが、二十八歳にして早くもこのような境地になれるのかと思うと、ずんと胸に沁みる。

 「病が教えてくれた事」(新・天野ブログ「あまノート」2013.11.21)


(※ この記事は二〇一五年五月六日にアップしたものです。それから半年もせずに天野氏の訃報に接するとは……。しかし、最後まで生き切った姿は見事だったと思います。)

天野貴元という存在 -3-(不在者への通知)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

―――FC2ブログ、スポンサーサイトからのメッセージ

天野貴元ブログ「あまノート」(2015.10.25以降)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 生前の天野貴元氏は自らのブログでいろいろなことを発信していた。
 次のアマチュア大会のこと、自分が企画する将棋大会について、そして自分の病への心構え等々。
 私も更新があればその都度読ませて貰っていた。

 八月以降は闘病の記録が多かったが、九月二十四日に社団戦の結果がアップされている。

 「おかげさまで、日曜日の社団戦を2部リーグ全勝で優勝する事ができました☆ 来年はいよいよ念願の、1部リーグへ参戦です!」

 こういう明るい話題を記した後、ブログの更新が無くなる。
 天野貴元氏の死が伝えられたのはそれから約一ヶ月の後だった。

 私は久しぶりに「あまノート」を訪れてみた。
 そこには、癌と闘いながらもいつでも前を見て進んでゆく男の生き生きとした言葉が今も刻まれている。
 ただ、私が最も衝撃を受けたのは、ブログ冒頭にあったスポンサーサイトからのメッセージだった。

 「上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます」

 ああ、なんということだ。
 私は、文明の無慈悲といったものを感じざるを得なかった。

 システムにより、機械的にこのような表示が現れることは分かっている。しかしそれは、何とも容赦のない仕打ちではないか。

 「新しい記事を書く事で広告が消せます」

 然り、二〇一五年九月二十四日以降、誰もが新しい記事がアップされることを望んでいた。
 祈るような気持でそれを待っていた人も多かっただろう。
 そして十月二十七日、私たちはそれが不可能になったことを知ったのである。


 天野貴元ブログ「あまノート」――言語障害になってしまった天野貴元の、将棋とか麻雀とかプライベートとか。

八歳の羽生善治少年から神様と仰がれた同年代の天才

「当時の先崎さんは僕から見たら神様のように強かったですね。はっきり大駒一枚は強かったと思います」

―――羽生善治

椎名 龍『羽生善治 夢と、自身と』(学習研究社、2006年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 昭和五十四年(一九七九年)の夏休み。
 日本橋東急デパートで将棋の「よい子日本一決定戦」が開催された。当時小学三年生(満八歳)だった羽生善治少年はこの大会の「小学校低学年の部」に参加、準優勝を果たす。
 将棋を始めたのは小学一年生のときだから、大変な上達ぶりである。
 ところが上には上がいた。

 このとき、「低学年の部」で羽生を押し退けて優勝したのが、先崎学である。
 この頃を振り返り、羽生はこう語っている。

 「当時の先崎さんは僕から見たら神様のように強かったですね。はっきり大駒一枚は強かったと思います」

 『羽生善治 夢と、自身と』の著者・椎名龍は、羽生が慢心することなく上を目指して努力することができたのはこの先崎学の存在が大きかったからだと書いている。

 「自分より明らかに格上の先崎少年がいたことは、善治少年にとって非常に幸せなことであった」

 この先崎少年は、翌年、十歳で奨励会に入る。
 一方の羽生は、その後も各地の大会で好成績を上げ、昭和五十六年(一九八一年)八月などはデパートの大会などで四度の優勝をしている。
 けれども羽生は言うのである。

 「当時、先崎さんがすでに奨励会に入会しアマチュアの大会に出なくなっていたので、僕でも優勝することができたのです。もしも先崎さんが奨励会入りせずにアマチュアの大会に出てきていたとしたら、僕はずっと優勝できずに2位や3位だったと思います」

 羽生善治の上にはいつも神のような先崎学がいた。
 少年時代の先崎は凄かったのだ。

周囲からの蔑視をバネにした佐藤大五郎が放つ輝きの一手

この手を指すとき、佐藤はきっと何かを叫んだはずだ。

―――河口俊彦

『最後の握手』(マイナビ、2013年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 将棋の才能には二種類あると河口俊彦は分析している。
 一つは中原・谷川・羽生タイプ。周囲から大事にされて大成する。
 もう一つは佐藤大五郎のようなタイプだ。

 「周囲のいじめや蔑視に対して、反抗し、それをバネにして強くなる。坂田三吉、若き日の升田幸三がそれである。前者に比べて後者は最盛期が短く、名棋譜もすくない。すくないけれども、素晴らしい輝きを持っているのである。後世の将棋史家は、佐藤の数局を見出して、多くの頁(ページ)を割くであろう」(『一局の将棋 一回の人生』より)

 そんな佐藤大五郎の傑作を、『最後の握手』で河口自身が多くの頁を割いて紹介している。
 河口俊彦が「奇跡的な一局」と絶賛した将棋(B1順位戦、対真部一男戦)の最終盤、佐藤大五郎の放った名手を御覧いただこう。

 大五郎の叫び

 局面は▽8九龍の王手に対し、真部が▲7六玉とかわしたところ。
 元々は穴熊に籠もっていた真部玉だったが、佐藤の猛攻で引きずり出された。
 とはいえ、佐藤玉も受け無しなので、この猛攻を凌げば先手真部の勝ちだ。
 そして、真部自身も「凌げた」と思っていたのである。

 ▽8九龍の王手までは真部も読んでいた。
 「ここで▲7六玉と逃げれば上部は広い」と。
 ところが、佐藤の次の一手に真部は戦慄する。

 この決定的場面を、河口俊彦はこう書いている。

 「この手を指すとき、佐藤はきっと何かを叫んだはずだ」

 佐藤大五郎が放った渾身の一手。
 河口はそこに彼の叫びを聞いたのである。

 さあ皆さん、考えていただきたい。
 そして大五郎の叫びを耳に感じていただきたい。

 (正解は明朝七時にアップ予定)

将棋に自らの人間性をあらわした名棋士

「こんないい将棋が出来たんだ」

―――真部一男

河口俊彦『最後の握手』(マイナビ、2013年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 周囲のいじめや蔑視に対して反抗し、それをバネにして強くなった棋士、佐藤大五郎。
 そんな男が対真部一男戦で放った渾身の一手とは――。

 大五郎の叫び

 ▽8五龍▲同玉▽6七角打まで、240手にて佐藤大五郎の勝ち。

 ▽8五龍が凄い捨駒。
 こんな手があったのだ。
 これは取る一手(▲6六玉には▽4八角~▽7五龍)。
 そして止めの、▽6七角打。
 手駒に香車があるのでこれで詰んでいる。

 薪(マキ)割り大五郎と呼ばれた男が、大上段から一気に鉈(ナタ)を振り下ろし、太い薪を真っ二つに割り裂く。
 鮮烈なるその瞬間。
 確かに、大五郎の叫びが聞こえるようだ。

 総手数240手、終局は午前一時二十分。
 河口俊彦はこの一局に対局者の人間性を見る。

 「長々と手を書き連ねて来たのは、傑作であると共に、佐藤の棋風だけでなく、人柄まであらわれていると思うからである。佐藤も真部も将棋に自らの人間性をあらわしたという点で名棋士なのである」

 敗れたとは言え、真部にも達成感があった。彼は朝まで盤から離れなかったそうだ。
 皆が帰ってしまっても一人盤の前で過ごし、「奇跡の一局」を噛み締めていた。
 そして、朝になってその日の対局者が訪れると、

 「こんないい将棋が出来たんだ」

 そう言って並べて見せたという。

渡辺明、遂に竜王復位。今日は二年前のあの陥落の日を思い出そう。あのときは本人もファンも辛(つら)かった。(再掲載「前竜王への一言」)

「いえいえ、またいつでもお世話しますよ」

―――小田尚英(読売新聞文化部記者)

「昨日、今日。」(渡辺明ブログ 2013.12.1)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 たった一言の言葉が、思いがけず胸に深く沁みたり、失意の中からまた新たな勇気を奮い立たせてくれたりもする。
 ちょっと落ち込んでいる人にそんな言葉をかけられたらどんなに素晴らしいことだろう。

 二〇一三年十一月二十九日、九連覇した竜王位を失った渡辺明。
 「打ち上げ」という儀式を終え、翌朝、まだ真っ暗な時間に露天風呂に入り、一人帰路に就いたそうだ。

 慌ただしい打ち上げの席では担当者に挨拶もできなかった。
 ――思えば九年間もいろいろと世話をして貰ったんだなあ。

 帰宅して読売の小田尚英記者に、「長いことお世話になりました」と電話をした。すると、

 「いえいえ、またいつでもお世話しますよ」

 前竜王をジーンとさせた一言。


 二年前、竜王位を奪われた直後の渡辺明ブログ「昨日、今日。」(2013.12.1)

この世でいちばん艶(いろ)っぽい端歩

「つまり、兄さんが私におばはん従(つ)いといでと言葉をかける、これ立派な端歩ですな。その歩を受けて私が、どうせ宿なしや、兄さんにまかしたよ。これ、充分に端歩を突き合ったことになりますわな……。私、酔うたわ」

―――馬場信浩「くすぶりの龍」の一節

『将棋連盟が甦った日』(三一書房、1988年)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 『将棋連盟が甦った日』についてもう少し紹介しよう。

 この本の表紙には珍しい写真が使われている。
 渡辺明が先日(2015.12.3)復位した竜王戦。その前身は十段戦、そのまた前身が九段戦。
 写真は九段戦の野外大盤解説会の様子(昭和二十六年)。

 将棋連盟が甦った日

 壇上の人物は左が大山康晴九段、右が五十嵐豊一八段。
 面白いのは大盤が横向きなこと。
 「この頃は皆将棋の普及に一生懸命だったんだろうなあ」と感じさせられる一枚だ。
 小説集としては異例のこんな表紙にしたのも、作者の将棋界への熱いメッセージなのかもしれない。

 さてこの書に収録されているのは次の五つの短編小説。

 ・駒師佐助
 ・くすぶりの龍
 ・将棋連盟が甦った日
 ・カラタタキの秘密
 ・贅沢な凶器

 表題作「将棋連盟が甦った日」は例の升田幸三と進駐軍の遣り取りを素材にして、その時の通訳を主人公に据えたフィクション。
 この作品も良いが、私は「駒師佐助」と「くすぶりの龍」が面白かった。
 「くすぶりの龍」には艶(いろ)っぽい端歩が登場する。
 以下は主人公と年上の「おばはん」との会話。

          *

 「手づまりの時は端歩をつきはったら」
  と女は人通りの少なくなった心斎橋を歩きながらボソッと言った。
 「端歩?」
 「損にならん手を指しておく、それが序盤の心得と違いますのん」
 「と言うと?」
 「つまり、兄さんが私におばはん従(つ)いといでと言葉をかける、これ立派な端歩ですな。その歩を受けて私が、どうせ宿なしや、兄さんにまかしたよ。これ、充分に端歩を突き合ったことになりますわな……。私、酔うたわ」
 「ねえさん、そそ……その歩つくで」

          *

 さあ、この端歩が好手だったのか悪手だったのか。それは読んでみてのお楽しみ。
 私は読みながら、好手でも悪手でも良いから、生涯に一度はこういう艶っぽい端歩を突いてみたいものだと思いました。


  馬場信浩『将棋連盟が甦った日』(三一書房、1988年)(Amazon)

 (本書はたぶん絶版だと思う。近くの図書館になかったら県立・都立・府立図書館の蔵書を検索してみたら見つかるかも知れない。県立の本は近くの図書館を通じて取り寄せ可)

村山聖の長い長い爪のことを歌にした男、竹原ピストル(拾遺篇)

ながいみじかいは
問題じゃないのかもしれないよ
この指先のそのように
限りの限りまで伸ばしきれたなら嬉しいな


―――竹原ピストル(歌手)

「最期の一手 ~聖の青春~」(竹原ピストルのブログ 流れ弾通信 2014.5.10)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 二十九歳で世を去った村山聖。
 生前、髪の毛も、爪も、切ることが大嫌いだった。
 なぜなら、それは命を切ることだから。

 そんな村山の爪のことを歌にした男がいるとは知らなかった。
 竹原ピストルという歌手である。
 元ボクサーだという。

 まずは YuoTube で聴いて欲しい。

 竹原ピストルがラジオで歌った「最期の一手 ~聖の青春~」 (YuoTube)

 「最期の一手 ~聖の青春~」の歌詞(竹原ピストルのブログ 流れ弾通信 2014.5.10)より

 こんな歌手がいたのか!
 私は感じ入ってしまったのである。
 この男、人の心を揺さぶる力を持っている。

 わずか何ミリかの爪も大事な命の一部。だからどこまでも伸ばし続けた。その命をいとおしむ姿。
 水道の蛇口をわざとゆるめ、水滴の音を命のひとしずくのように聴いていたという晩年。
 「二十歳までしか生きられない」と言われた棋士の青春が短い歌の中に良く込められているではないか。

 竹原ピストル、竹原ピストル、竹原ピストル。
 私は気になってこの男の歌をいろいろ聴いてみた。

 いいじゃないか。
 「女の子」「カモメ」「東京一年生」などはとくに気に入ってしまったのである。

 良い発見だった。
 良い出会いだった。
 『聖の青春』が竹原ピストルという存在を私に知らせてくれたのだ。
 大崎善生にも改めて感謝せねばならない。

 その竹原ピストルが、本日(2015.12.18)、NHKのBSにゲスト出演するという。
 これは楽しみだ。
 私はさっそく録画予約をしたのである。


 NHK-BSプレミアム「玉置浩二ショー」2015.12.18(金)pm11:15~翌am0:15

 小学校を卒業したばかりの女の子が歌う「女の子」(竹原ピストルの作品)――原爆ドームを女の子に見立てて歌っている

松本博文が米長邦雄に宛てた追悼の言葉(晩年の米長邦雄をどう評価すべきなのか?――命日に寄せて)

憎めない人だった。数々の最低の言動が、最高だった。

―――松本博文

「米長邦雄永世棋聖(1)」(松本博文ブログ 2012.12.19)より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 米長邦雄が逝ってから三年が経つ。昨日(2015.12.18)は彼の命日だった。
 と言っても、実はそんなことは全く忘れていたのである。我ながら薄情なものだと呆れる。

 米長邦雄。
 タイトル獲得十九期は歴代五位。羽生・大山・中原・谷川に次ぐその偉大な記録。ファンを湧かせた数多(あまた)の名勝負。五十歳名人。
 もう掛け値なく、米長は名棋士なのだ。

 そしてまた一方、彼は名物棋士でもあった。

 私にはこの「名物棋士」の負の側面が引っ掛かってしょうがない。
 とりわけ会長時代、とくに女流独立騒動以降の約五年間をどう捉えたらよいのか。
 彼の元で理事として働いた青野照市でさえ、米長の死後、「晩年は裸の王様だった」と、堂々と連盟の機関誌「将棋世界」で明言しているではないか。

 米長が公益法人化の大号令を発して連盟内がてんやわんやだった頃、旧友の内藤國雄は不穏なものを感じたという。
 藤内一門の身内である谷川浩司が理事でもないのに公益化の利点を棋士会で熱弁する姿が異様に映ったのだ。なぜ米長自身で説明しないのか。

 「理事の仕事やろう。それを谷川にさせるのは胡散(うさん)臭いと言いました。(中略)自己顕示欲の強い彼(米長)が何かあやしいでしょう? 私との友情関係もそのあたりから途切れました」(「将棋世界」2015年7月号)

 こういうことは幾つも幾つもあったのだろう。
 表面化している事柄の一つに、弟子の中川大輔との一件がある。

 「ある時から師弟関係が絶縁状態となったのは残念でならない。昨年(2012年)の夏、師匠宅へお見舞いに伺ったのだが、溝が埋まることなくこの日が師匠と話をした最後になってしまった」(「将棋世界」2013年3月号)

 連盟の女事務員の異動があまりにも恣意的なので、義侠心に駆られた中川が間に立ったところ、米長会長から、「中川と女事務員はできている」と言いふらされたというのだ。

 米長邦雄という大棋士を文学のレベルで語るには、このような事例を見捨ててはならないだろう。
 だから、命日にあたり、「惜しい人を亡くしました」という一言で済ますわけにはいかないのである。

 米長の死後に贈られた数々の追悼の中で、私が最も心動かされたのは次のものだった。

 「憎めない人だった。数々の最低の言動が、最高だった」

 米長の死の翌日、中継記者・松本博文が書いた言葉である。
 米長の生前、松本は、「なぜ自ら晩節を汚すのか」と疑問をぶつけた。その結果、いろいろあって、最終的に連盟から追い出され、仕事も奪われた。
 にもかかわらず松本にとっての米長は「憎めない人」なのだ。そして、「数々の最低の言動が、最高だった」と彼は続ける。

 私はこれを文学の言葉だと思う。微妙な機微を実に良く言いあらわしているではないか。

 さらに、松本の追悼文はこう続いている。

 「これほどの悪人、これほどのエンターテイナーはもう、棋界には現れないだろう。棋界は本当に惜しい人物を失った」

 ありきたりの追悼文など、米長邦雄には似合わない。
 この世紀のひねくれ者に対しては、これくらいのことを言わねば釣り合いが取れないのだ。
 そしてそれがこの男に対する礼儀というものだろう。

 私は確信する。
 「これほどの悪人」と言われ、冥土の入り口で、米長は松本に、ニヤッと笑みを返したに違いないと。


 「米長邦雄永世棋聖(1)」(松本博文ブログ 2012.12.19)

「いい大根のような一日」(本年の御来館、誠にありがとうございました)

自分の手で、自分の
一日をつかむ。
新鮮な一日をつかむんだ。
スがはいっていない一日だ。
手にもってゆったりと重い
いい大根のような一日がいい。


―――長田 弘(詩人)

長田弘詩集『食卓一期一会』(晶文社、1987年)所収「ふろふきの食べかた」 より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 ご来館の皆様、「将棋語録(言葉にこもる人生)」を贔屓(ひいき)にしていただき、ありがとうございます。
 いよいよ十二月三十一日となりました。
 どうか良いお年をお迎え下さい。

 さて、二〇一五年十二月三十日午後七時集計の十二月分入場者数・作品閲覧数(アクセス解析)のグラフを御覧いただきましょう。

 アクセス解析151230

 一日に二百から三百人の方が当館へ入場され、三本か四本の作品を鑑賞して退館するといったところが最近の動向でしょうか。
 開館(2015.2.5)以来の累計入場者数(UU)は六万二千七百人ほど、累計鑑賞作品数(PV)は二十万四千七百くらい。
 こういう数字が多いのか少ないのか、私には判りません。
 けれども、来て下さる方々には感謝の一言です。

 なお、本日の「語録」は「将棋語録」ではなく詩人の言葉です。
 皆々様の御健康を祈り、この言葉を以て二〇一五年の締め括りとさせていただきます。
 来年は、「いい大根のような一日」が過ごせますように。

藤井聡太の二度目の連勝は十六でストップ。そのときのファンの気持には意外に複雑なものがあるのです。

連勝ストップは残念ではあるけれど、なぜかホッとする。

―――清水純一(讀賣新聞論説委員)

「讀賣新聞」2018.3.30 朝刊 第一面「編集手帳」より
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 二十九連勝の記録を再更新。
 気の早いファンはそんなことも考えていたに違いない。

 十六連勝中の藤井聡太、その中学生最後の対局は二〇一八年三月二十八日。
 相手は井上慶太、五十四歳。
 慶太先生には失礼ながら、佐藤天彦名人・羽生善治竜王らをなぎ倒してきた藤井聡太が負ける相手ではないとほとんどの人が思っていただろう。
 五十四歳という年齢が、爆発する若さに太刀打ちできようはずがないと。

 ところが慶太先生、やってしまいました。
 下馬評粉砕、四十近い年齢の差も何のその。
 藤井聡太の連勝記録をリセットしてしまったのである。

 「残念、残念」の藤井側応援団の声が溢れる中、「慶太は偉い!」との声も意外に多かったのではないか。
 そんな中で面白かったのは、

 「連勝ストップは残念ではあるけれど、なぜかホッとする」
 (「讀賣新聞」2018.3.30 「編集手帳」より)

 この、「ホッとする」という感覚、どうも上手く説明できないのだが、私にもいくぶんかあるのである。

 棋士が負けて強くなるなんてのは嘘っぱちで、棋士は勝って勝って強くなるものなのだ――かつてそう喝破したのは河口俊彦だったが、負けることに何らかの人生の味を見出したいというささやかな抵抗もしたくなる。

 人生の酸い甘いを知る人ほど、藤井聡太のたまの黒星にホッとするのかもしれない。



記事検索