天野貴元という存在

天野貴元、「切れ負け」人生を疾走した男(命日に寄せて)

人生は、ある瞬間をもって終焉する。秒読みという猶予制度は存在しない。その意味で、感覚的には「切れ負け」のルールに近い。

―――天野貴元(元奨励会三段)

『オール・イン』(宝島社、2014年3月刊)より
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 本日、二〇一六年十月二十七日。
 ちょうど一年前の今日、元奨励会三段の天野貴元が世を去った。享年三十。
 今日は天野の命日である。

 天野は十六歳で奨励会三段リーグに入り、周囲から天才と言われる逸材だった。
 そして自らも、「早くタイトルを取らなければ」と思うくらいの自信家でもあった。

 それが三段リーグ在籍十年を経て、二〇一二年三月、二十六歳の年齢制限で退会となる。
 その約一年後、舌癌に見舞われた。
 しかも「ステージ4」の末期癌。
 天野は改めて人生の意味を自問する。

 「人生は、ある瞬間をもって終焉する。秒読みという猶予制度は存在しない。その意味で、感覚的には〈切れ負け〉のルールに近い」

 手術で舌を全切除して言語障害となった天野は、自分の余命を悟り、以後「切れ負け」人生という荒道を疾走したのである。

 二〇一四年三月に上梓された著書『オール・イン』の後書きにはこんなことが書かれている。

 「僕のことを知っている彼ら(註・奨励会時代を共に過ごした戦友たち)は多分、こんなことを言うだろう。《天野、お前の見せ場は“終盤”だったよな》」

 そう、誠に見事な終盤だった。
 それを記録した『オール・イン』はわが将棋界の宝である。


 ※ 明日から三回にわたり、天野貴元に関する過去記事を再掲載いたします。





天野貴元、人のために生きる(再掲載)

周りの人が幸せになるのが自分にとっての幸せだっていう風に考えるのが、良い生き方なんじゃないのかな

―――天野貴元(元奨励会三段)

「病が教えてくれた事」(新・天野ブログ「あまノート」2013.11.21)より
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 二〇一二年三月、奨励会三段リーグを二十六歳の年齢制限で退会した天野貴元。
 現在売り出し中の中村太地も負けそうなイケメンだったが、なんと退会から一年後に舌癌が発見されるという人生の大ピンチに遭遇。手術前後の心境と闘病の記録がブログ(新・天野ブログ「あまノート」)に綴られている。

 「将棋はよく途中で諦めていたけど、今回だけは最後まで諦めず闘病します」

 これは医師から宣告を受けた二〇一三年三月二十八日の記述。
 そして四月十一日に手術、百日間の入院生活を経て七月に退院。
 言語障害を抱えながらも八月に職場復帰、抗癌剤治療などを続けながらアマ将棋大会にも精力的に出場している。

 「周りの人が幸せになるのが自分にとっての幸せだっていう風に考えるのが、良い生き方なんじゃないのかな」

 二〇一三年十一月二十一日の記録だが、二十八歳にして早くもこのような境地になれるのかと思うと、ずんと胸に沁みる。

 「病が教えてくれた事」(新・天野ブログ「あまノート」2013.11.21)



天野貴元の絶局――壮絶なるブザーの音(再掲載)

「病院を自分の意志で退院して将棋を指す息子を見ていると、生きるってこういう事なんだと強く感じるんです」

―――天野貴元(元奨励会三段)の母

「抗ガン剤を拒否して僕が将棋を指し続ける理由」(「週刊文春」2015年10月22日号)より
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 二〇一五年十月二十七日、元奨励会三段の天野貴元氏が世を去った。齢わずかに三十歳。この月の五日に誕生日を迎えたばかりだった。

 「僕には二年半、がんを勉強してきた蓄積がある。絶対助かるという気持ちしかありません」

 これは十月十一日の取材に答えたもの。
 だが、体力は限界に達していた。
 点滴や抗癌剤治療は強い副作用で寝込まざるを得ず、肝心の将棋が指せない。だから拒否して退院。
 しかしゼリードリンクも口にできないような容態で、実際は飲まず食わずで将棋を指しているようなものだったという。

 「正直、早く入院して欲しい気持ちもある。でも、世間の常識は捨てました。病院を自分の意志で退院して将棋を指す息子を見ていると、生きるってこういう事なんだと強く感じるんです」

 付き添いで将棋大会会場を訪れていた母親の言葉である。

 この十月十一日はアマ王将戦北関東予選だった。
 天野貴元はこの試合で時間切れ負けを喫する。
 形勢が悪かったわけではない。腕が、指が、盤面に伸び、駒を動かし、対局時計を押す――その動作ができなくなってしまったのだ。
 頭の中の将棋盤は明瞭だった。
 だが、体力が残っていなかった。

 そのときの、対局時計が発する、時間切れを告げるブザーの音。
 壮絶である。

 しかしその音が人生の時間切れを示すなどとは、天野貴元は決して考えないのである。
 どんな極限状態にあっても、視線は未来へ向いていた。
 次の大会、次の企画、次の本。
 まさに、「生きるってこういう事なんだ」と強く感じる。

 「いつ何時(なんどき)でもいい、〈将棋の世界にもこんな奴がいたんだな〉と、どこかで誰かに思っていただけたら、それは私にとって最高の救いです」(二〇一四年、著書『オールイン』が将棋ペンクラブ大賞文芸部門を受賞したときの言葉)

 天野貴元。
 癌発症からの二年半、自身の将棋に、アマチュアへの普及に、執筆に、その疾走ぶりは見事であった。
 鬼気迫るものがあった。
 しかも、常にユーモアを忘れずに……。

 将棋の世界にはこんなに凄い奴がいたのである。



天野貴元という「不在者」への通知(再掲載)

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―――FC2ブログ、スポンサーサイトからのメッセージ

天野貴元ブログ「あまノート」(2015.10.25以降)より
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 生前の天野貴元氏は自らのブログでいろいろなことを発信していた。
 次のアマチュア大会のこと、自分が企画する将棋大会について、そして自分の病への心構え等々。
 私も更新があればその都度読ませて貰っていた。

 八月以降は闘病の記録が多かったが、九月二十四日に社団戦の結果がアップされている。

 「おかげさまで、日曜日の社団戦を2部リーグ全勝で優勝する事ができました☆ 来年はいよいよ念願の、1部リーグへ参戦です!」

 こういう明るい話題を記した後、ブログの更新が無くなる。
 天野貴元氏の死が伝えられたのはそれから約一ヶ月の後だった。

 私は久しぶりに「あまノート」を訪れてみた。
 そこには、癌と闘いながらもいつでも前を見て進んでゆく男の生き生きとした言葉が今も刻まれている。
 ただ、私が最も衝撃を受けたのは、ブログ冒頭にあったスポンサーサイトからのメッセージだった。

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 ああ、なんということだ。
 私は、文明の無慈悲といったものを感じざるを得なかった。

 システムにより、機械的にこのような表示が現れることは分かっている。しかしそれは、何とも容赦のない仕打ちではないか。

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 然り、二〇一五年九月二十四日以降、誰もが新しい記事がアップされることを望んでいた。
 祈るような気持でそれを待っていた人も多かっただろう。
 そして十月二十七日、私たちはそれが不可能になったことを知ったのである。


 天野貴元ブログ「あまノート」――言語障害になってしまった天野貴元の、将棋とか麻雀とかプライベートとか。


天野貴元の葬儀(一年前の今日)

大変つらい別れではあるけれど、見ず知らずの方とすれ違いざまに会釈しあうだけで通じ合える。これは実際に参列した人にしか分からない思いだ。

―――柿の森(Amazonブックレビューアー)

「将棋世界」2015年12月号へのAmazonブックレビュー(2015.11.6)より
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 「柿の森」という人が「将棋世界」誌のレビュー記事をAmazonによく投稿している。
 私はその愛読者である。

 その筆致、実に辛辣。
 とくに奨励会三段リーグ制度の弊害を繰り返し説いて余念がない。

 彼の主張はこうだ。

 ――三段リーグ在籍者より弱い現役プロ棋士がたくさんいるではないか。だから、三段リーグ上位者と現役棋士の下位者が入替戦を行い、負けたプロ棋士は三段リーグに降格させるべきだ。この入替戦は世間の評判となり、興行としても大成功するに違いない。

 そして、そのやり玉に挙げられるプロ棋士の代表は決まって田中寅彦九段なのである。
 やや偏執狂的なものを感じないわけではないが、面白い。

 そんな柿の森氏が、一年程前にずいぶんとしんみりした文章を書いていた。

 「先週末は幸運にも休みが取れた。当方は一読者にしかすぎなかったが、京王狭間駅に向かわずにはいられなかった。東京の夜は少々寒かったけれど棒立ちはなんともなかった。参列された皆様と一緒に祈りを捧げた。大変つらい別れではあるけれど、見ず知らずの方とすれ違いざまに会釈しあうだけで通じ合える。これは実際に参列した人にしか分からない思いだ」

 二〇一五年十月三十一日、東京都八王子市の宝泉寺別院で営まれた天野貴元の通夜には四百人が訪れたという。
 柿の森氏もその中の一人だったのである。

 「半径10メートル以内に近づけないほど強烈なオーラを発散している人物を駅のホームで目撃した。確か前日は札幌だった気が……多忙なスケジュールの合間を縫っての参列か……本当に嬉しかった。
 〈彼〉がタイトルを奪還してほしいと思うだけでなく〈ponanzaにもAWAKEにも大樹の枝にも絶対に負けるな!!〉と応援したい気持ちがよりいっそう強くなった。
 あの日あの場所に実際に参列した人にしか分からない思いを共有できたことが嬉しかった」

 〈彼〉とは渡辺明のことである。
 当時糸谷哲郎竜王に挑戦中で、その第二局が通夜の前日に終わったばかり。対局場の札幌から帰ってすぐの参列に柿の森氏は感激で胸を熱くしたのだった。

 参列者四百人が故人へのそれぞれの思いを胸にし、そしてまた大いなるものを共有した通夜であった。



天野貴元、最期の言葉(死の九時間前)

「産んでくれてありがとう、三十まで生きて良かった」

―――天野貴元(元奨励会三段)

「生きて~天野貴元30歳」(2016.4.3 フジTV系列「ザ・ノンフィクション」)より
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 二〇一五年十月十一日、アマチュア王将戦北関東予選。
 これが、天野貴元が出場した最後の将棋大会になった。

 その後彼は再び入院、意識混濁の状態に陥る。
 家族との会話といっても、こんなふうなものになっていった。

 「今何時?」と天野が問う。
 八時十五分だと付き添いの父が答える。
 すると、「タクシーを呼んで!」と彼は慌てて言う。
 タクシーで駅まで急がないと将棋大会の受付に間に合わない――そういう意味なのだ。

 ところが、こんな意識朦朧の状態が、死の九時間程前、一瞬明晰になったという。
 このとき彼が両親に告げた言葉――

 「産んでくれてありがとう、三十まで生きて良かった」

 二〇一五年十一月一日。
 天野貴元の告別式。
 親族挨拶の際、参拝者にこの言葉が紹介された。
 父は、「死を悟ったのでしょうか……」と言った後、絶句したようにキッと口を結び、声を振り絞ってこう続けたのである。

 「産んでくれてありがとう、三十まで生きて良かった、と言ってくれました」

 その横で天野の母はハンカチを顔に当てて泣きじゃくっていた。

 実は生前、天野貴元はテレビドキュメンタリーのインタビューに答えてこんなことを告白していたのである。
 
 「(両親には)感謝の気持でいっぱいですね。だけど、これでいいのかっていうね……。だって、一向に(病状が)良くなってないしね。……僕の中でいろんな葛藤というか、親に対する悩みみたいのがあるんですよね。まあ、親には絶対言わないけど」

 「親には絶対言わないけど」と、インタビュアーには話していた。
 けれども最後の最後に、精神混濁が一瞬晴れたその刹那、彼は言い残したこと、両親に告げるべき最も大切なことを、照れずに、素直に、言葉にしたのだった。





天野貴元の最晩年を記録した感動ドキュメンタリー

勝てると思わなきゃ(将棋大会に)出なかったんで……なんか本当情けないです……体力がなかったから負けたっていうのは……情けないですね……」

―――天野貴元(元奨励会三段)

「生きて~天野貴元30歳」(2016.4.3 フジTV系列「ザ・ノンフィクション」)より
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 天野貴元のブログ「あまノート」の二〇一五年九月十六日には、「未来は自分で切り開くしかない」と題して次のような決意が綴られている。

 「ついに、ついに一番体重があった頃より30kg減った。
 だけど諦めきれない。俺はまだ意識があるし、体も正常に動くではないか。
 今日もまた新しい病院へ行って新しい治療についての相談。今まで全ての医者に断られてきたけど、奇跡を信じて行くしかない」

 実は、彼はこの八月二十九日に退院していたのである。
 と言っても、体調が良くなったわけではない。このまま入院治療を続ければ病院で最期を遂げることになりかねない。それでは将棋大会に出られないと危惧したからだ。
 ここから天野貴元の壮絶な最晩年が始まる。

 けれども、「あまノート」は九月二十四日以後更新がなくなり、私たちはそれから約一ヶ月後、突然の悲報を聞くことになった。

 実はこの一ヶ月が凄絶だったのだ。

 二〇一六年四月三日、彼の死から五ヶ月後、フジTV系列の「ザ・ノンフィクション」で放送された「生きて~天野貴元30歳」で私たちはラスト一ヶ月の凄まじさを知るである。

 十月四日、母親に介護され、彼は全国アマチュア王将位大会山陽予選(広島)に参加。しかし予選を抜けることはできなかった。
 その後のホテルでの映像は圧巻だ。

 ここで取材者はちょっと意地の悪い質問をする。
 「将棋って、負けて得るものってあるんですか?」
 「一年くらい取材してて(中略)天野さん、今体調も悪いから、負けるときの方が今多いじゃないですか」

 こう追求され、彼は嗚咽してしまうのだ。

 体力。
 体力がないから最善手が指せない。
 その無念、その口惜しさ。
 天野貴元はカメラの前で号泣する。

 天野「くやしい、くやしいです。せっかく幸田さん(取材スタッフ)まで来てもらったのに……本当に、母親にまで来てもらったのに、予選に……」
 母「それは全然かまわないよ」(母、ティッシュとタオルを息子に渡す)
 天野「勝てると思わなきゃ出なかったんで……なんか本当情けないです……体力がなかったから負けたっていうのは……情けないですね……でもこれを糧にして次も頑張りたいと思います」

 この場面は見る者の胸を打つ。
 と共に、私はこの母親も凄いと思った。

 「天野さん、今体調も悪いから、負けるときの方が今多いじゃないですか」と問われて、しょんぼりと「そうですね」と返す天野だったが、すかさず、少し離れた場所から母が取材者に言い返したのである。

 「いや、そうでもないですよ……最後まで残らないってだけで」

 ああ、このときの母の心!

 「生きて~天野貴元30歳」は天野貴元の壮絶な最期を記録したものであると共に、彼を支え続けた両親の凄まじい格闘記録でもあるのだ。


 「生きて ~天野貴元30歳」(フジTV系列、2016.4.3)



天野貴元、片想いの女性と「最後の晩餐」

(このラーメンは)僕にとっては事実上「最後の晩餐」になるかもしれない、厳粛なメニューだった。舌の痛みに耐えながら、これといった特徴のないラーメンを僕はなんとか完食した。

―――天野貴元(元奨励会三段)

『オール・イン』(宝島社、2014年)より
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 『オール・イン』には鮮やかな場面が度々登場する。
 私は次のエピソードが好きだ。

 末期の舌癌だと告げられた天野貴元、思い立って東京から長野へと旅立つ。
 片想いの女性に「お願いデート」を頼んだのである。

 けれど、舌の状態は極限に達していた。

 「舌の痛みは、すでに痛みというレベルを通り過ぎ、まるで全身から体力と気力を奪い取るひとつの生物が、体内にしっかりと根を張ってしまったかのようだった」

 天野はマスクをし、杖を突きながらその女性と寺院巡りをする。

 食事の時間になった。
 手術の成功率は五十パーセントだと医師に告げられている。
 術後は半分の確率ではもうこの世にはいない。また、たとえ成功したとしても舌の全摘出。自由に食べるということはもうできない。
 「ごはん、何食べる?」と心配そうに尋ねてくるその声を聞きながら、彼は、「これは最後の晩餐なのだろうか、重要な局面だ」と心で思う。

 そこで選んだのがラーメンだった。
 長考の末の平凡な一着である。
 有名なラーメン店があるというわけではない。
 にもかかわらず、考え抜いたあげくに、「ラーメンにしようか」と応じた天野貴元。

 何とも人生の微妙な味わいがあるではないか。

 「(このラーメンは)僕にとっては事実上〈最後の晩餐〉になるかもしれない、厳粛なメニューだった。舌の痛みに耐えながら、これといった特徴のないラーメンを僕はなんとか完食した」

 こうして一日を彼女と過ごし、彼は別れ際にその女性からお守りを手渡される。
 実力が全ての奨励会で育ってきた天野、神も仏も信じてなんかいない。
 だが、彼はそのお守りをしっかりと手に握った。

 「明日はいよいよ入院だ」

 東京へ向かう列車の中で、車窓に映る自分の顔を眺めながら、もう一度そのお守りを握り締めるのだった。



天野貴元の死から一年、彼の悲願が果たされる

「天野先生、おめでとうございます! そして、ありがとうございます!

―――池田 塁(天野チルドレン幹事

「2016年 社団戦 最終日」(『いけるい』の将棋日記 2016.10.23 )より
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 天野貴元が亡くなってからちょうど一年が経とうとする頃、嬉しいニュースが舞い込んできた。
 社会人団体リーグ戦(社団戦)1部で「天野チルドレン」が優勝したというのだ。

 「天野チルドレン」は生前の天野から指導を受けたアマチュアの将棋グループ。
 天野はこの「天野チルドレン」が社団戦で優勝することを悲願としていた。
 「あまノート」の最終記事(2015.9.24)も自ら出場した二〇一五年社団戦最終節の結果報告で、彼はこう書いている。

 「おかげさまで、日曜日の社団戦を2部リーグ全勝で優勝する事ができました☆ 来年はいよいよ念願の、1部リーグへ参戦です!(中略)来年が本当に楽しみです」

 実際は、「来年が本当に楽しみです」と書いた約一ヶ月後に彼はこの世を去るのだが、このときは、来年の今頃、1部リーグで仲間と指している自分を想像していたのである。
 視線はあくまで未来に向いていた。

 その天野の悲願を、この秋、「天野チルドレン」はついに達成した。
 幹事の池田塁氏はブログにこう書いている。

 「天野先生、おめでとうございます! そして、ありがとうございます!」

 天国の天野に「おめでとう」呼びかける。
 美しい言葉だ。

 優勝した「天野チルドレン1」には天野貴元の奨励会時代の「戦友」も参加していた。
 たとえば和田澄人という人物。
 『オール・イン』にも度々登場するこの男は退会後将棋を止めていた。しかし戦友の悲願達成のために再度復帰し、大阪から駈け参じていたという。
 そして、この優勝を最後として将棋から足を洗うそうだ。

 ここにもまた人生の物語がある。

 「〈みんなで、もっと楽しく将棋を指そう〉という天野先生の呼びかけに応じ、天チルには、たくさんの仲間が集まりました。そして、先生の夢だった社団戦優勝を叶えることができました。天野先生が作ってくれたこの縁を、これからも大切にしていきたい。それが、天野先生の本当の夢だったのだと思います」(『いけるい』の将棋日記、2016.10.23)

 なお、十一月十二日(土)には、八王子の福傳寺で墓参りが計画されているという。
 天野の同級生だった副住職がお経を上げるそうだ。


 「2016年 社団戦 最終日」(『いけるい』の将棋日記 2016.10.23)


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