老師を偲ぶ

人間の機微を書け(追悼・河口俊彦)①

おもしろい観戦記を書こうと思ったら、感想を疑ってかかるのが第一歩ということになる。

―――河口俊彦

『新対局日誌 第二集 名人のふるえ』(河出書房新社、2001年)より
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 何やら神妙そうに、二人が口を合わせて、「▽9六歩では▽8四銀の方が良かったね」などと感想を述べ合っている。
 普通の観戦記者なら、「なるほど、なるほど」とメモを取るところだ。
 しかし河口俊彦は、そんな言葉を信用していたら面白い観戦記など書けないと言うのである。

 本当は、それより遙か以前の▲5八銀で将棋は終わっているのだ。
 二人ともそんなことは重々承知の上。
 承知の上で、対局者はああだこうだと言葉を継いでいる。

 そこらへんの人間の機微を書け。
 河口はそう言いたいのだろう。



名人のふるえ

観戦記受難(追悼・河口俊彦)②

子供がダダをこねるのを、よしよしとみんな聞いてやった結果が、現状、すなわち、ゴマすり文の氾濫である。

―――河口俊彦

『将棋界奇々怪々』(日本放送出版協会、1993年)より
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 観戦記に棋士からクレームが付いた場合、ほぼ百パーセント、記者が折れる。
 悪意など微塵もなかったのに、とんでもない的外れの指摘を受けたりもする。
 それでも棋士の言い分を通すのである。

 そうしないとこの村社会ではやっていけないのだ。
 新聞社のかなり上の人ならば例外もあろうが、フリーの記者などは、たった一言のクレームで明日の仕事が来なくなる。
 こうなると、もう編集権も何もあったものではない。

 結果、観戦記は当たり障りのないゴマすり文ばかりと相成った。

 「今だけではなく、ずっと以前から続いているのだ。それが、囲碁・将棋界を毒しつづけているのである」


将棋界奇々怪々jpeg

将棋界の普遍法則(追悼・河口俊彦)③

ルールがあってそれに従うのでなく、人に合わせてルールが作られるのだ。

―――河口俊彦

『一局の将棋 一回の人生』(新潮社、1990年)より
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 たとえば昇段制度。

 A棋士を昇段させようという意思がまずある。それでAの成績を調べ、それに合わせて昇段規定を作る。
 そのとき、B棋士も上げるべきではないかという意見が出たとする。
 しかし両者の成績を精査してみるとBはちょっと足りない。
 ならば昇段規定を少し緩めよう。

 かくしてA棋士とB棋士が新規定により昇段となる。

 将棋界のルール、なべてかくの如し。

 「実力制第四代名人」なる呼称もその類だ。
 これは升田幸三だけのもので、加藤一二三が「実力制第六代名人」を名乗ることは決してできない。

 将棋界のルール、なべてかくの如し。

 そんなことを堂々と言ってのけるのが河口俊彦の魅力。
 読者があきれかえって口をあんぐり開けているのを見て、「どうだい、面白いだろう」と言わんばかり。


一局の将棋 一回の人生

あわれ、勝負師にも処世術(追悼・河口俊彦)④

師匠は弟子に「嫌われたらあかん」とまず教えるのである。

―――河口俊彦

『最後の握手』(マイナビ、2013年)より
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 将棋界では、同僚から悪いイメージを持たれたら、もうそれだけで勝負は不利になる。

 「あいつは生意気だ」
 「この前の大盤解説では随分なことを言ってくれたようだね」
 「あの新四段は付き合いが悪い」

 こんなふうに思われたらもう一巻の終わりなのだ。
 陰湿な村の空気に我が身が覆い尽くされ、そうなると、いくら平静を保とうとしても平常心ではいられない。ちょっとした心の揺らぎで、勝てるものも勝てなくなってしまうのだ。

 「いじめにあって才能の芽を摘まれた天才は何人もいる。だから師匠は弟子に“嫌われたら損をする”とうるさく言い、勝ちまくっている若手棋士は、みんなおとなしく口数の少ない優等生なのである」

 このように、河口俊彦ほど「村社会」の内面をえぐり続けた書き手はいないだろう。
 読む方は、「なんだ、勝負師なのに」とがっかりしたり、「ああ、俺たちサラリーマンと同じだね」と、同情して身につまされたり……。


最後の握手

敗北は肥やしにならない(追悼・河口俊彦)⑤

棋士は、負けて強くはならない。負ければ負けるほど弱くなる。

―――河口俊彦

『一局の将棋 一回の人生』(新潮社、1990年)より
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 どの世界でも言われる言葉――「負けて強くなれ」。
 負けてもそれが肥やしになって己れを成長させてくれるという格言だ。
 敗北を肥やしに転じること。
 それが人生というもの。

 だが、河口俊彦はこの箴言を「ウソッパチ」と断じる。

 「棋士は、負けて強くはならない。負ければ負けるほど弱くなる。勝って勝って勝ちまくって強くなるのである」

 日々負け続ける我々市井の凡人の、微かなる夢をも打ち砕いてくれる。

されど、敗者に味あり(追悼・河口俊彦)⑥

人間的魅力は、負けて泣く人の方にある。

―――河口俊彦

『覇者の一手』(日本放送出版協会、1998年)より
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 大山康晴と升田幸三。
 大山は勝っても負けても平然としている。打ち上げの席でも、自然体過ぎて、いったい勝ったのか負けたのか分からないくらいだ。

 升田だと全く逆。
 勝てば大はしゃぎ。負ければ愚痴が出るは、負け惜しみで大口を叩くはで手が付けられない。
 一度河口俊彦が升田に勝ったことがあった。すると、

 「バッカな、大駒一枚弱い将棋に負けてしもうた」

 こんなことまで言い出す始末。

 兄弟子の大野源一もそうだったらしい。
 負けた後の感想戦では精一杯の虚勢を張り、自室に戻ってから大泣きしていたそうだ。

 河口俊彦は、この、負けてさんざん愚痴ったり、人前では強がって強がって、そうして蔭で泣く方に、人としての魅力を見る。


覇者の一手

我が内なる升田幸三(追悼・河口俊彦)⑦

升田の棋譜を並べると「俺のよい所だけを見てくれ」との叫びが聞こえるような気がする。

―――河口俊彦

『最後の握手』(マイナビ、2013年)より
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 升田を評した言葉は世に数多ある。
 その中の最大傑作がこれ。
 私は断然そう思う。

 対象に食い込むとはこういうことなのか。
 真の愛情とはこういうものなのだなあと感心した。

 数々の傑作棋譜を創り上げた升田幸三。
 それは将棋界の宝物。
 しかし、天才の反面を見ることも河口俊彦は忘れない。

 実は凡作も多いのである。

 「俺のよい所だけを見てくれ」とは、河口俊彦も良く考え付いたものだ。
 もう、升田幸三に成り切っているのである。
 河口俊彦の内なる升田幸三が叫んでいるのである。

嫉妬の渦巻く将棋界(追悼・河口俊彦)⑨

嫉妬こそ棋士を棋士たらしめているのであり、嫉妬心の強いほど将棋が強い。

―――河口俊彦

『覇者の一手』(日本放送出版協会、1998年)より
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 たとえば、ある棋士が活躍して世間の話題になる、また、テレビに頻繁に出るようになる。
 そんなとき、他の棋士はよく、「将棋の普及になって良いことです」などと優等生的なコメントを返したりする。
 だが、そんなのは嘘っぱちだと河口俊彦は棋士の本音を暴露する。

 芹沢博文や内藤國雄がテレビで人気者になり、講演会に引っ張りだこだった頃、「講演がうまくなると将棋が弱くなる」と揶揄した棋士がいた。
 まあ、唾をペッと吐きかけるようなもの。
 その人物が誰あろう、大山康晴である。

 この強烈な嫉妬心こそが棋士の本質、棋士の命。
 嫉妬心が強いほど将棋が強い。

 「将棋界の内部には、嫉妬が渦巻いている。棋界の物事は、嫉妬心で決まる、と言いたいくらいだ」

 こういう筆致は河口の独壇場。
 こんな書き手はもう出てこないかもしれない。

大山の冷眼耐忍時代(追悼・河口俊彦)⑩

冷たい世間の目が大山将棋を作った

―――河口俊彦

『大山康晴の晩節』(飛鳥新社、2003年)より
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 大山康晴が頭角を現してきた頃の将棋界で、スターと言えば升田幸三だった。
 関西の新聞で人気投票があり、一位が水泳世界一の古橋廣之進(フジヤマのトビウオ)、二位が升田だったというから、今考えると驚愕この上ない。

 有名な「高野山の決戦」(昭和二十三年)。
 大山が升田を下し塚田正夫名人に挑戦するのだが、世間は人気者の升田に出てきて欲しかったのだ。
 そして、大山が塚田に敗れると、「ほら見たことか、あーあ、升田だったらなあ」と、嘆息するような案配。

 「升田-大山」の対戦成績は大山の方がだいぶ良いというのに、世の将棋ファンは大山に冷たかったのである。むしろ悪役という認識だった。

 こういう「冷たい世間の目が大山将棋を作った」と、河口俊彦は書いている。

 高野山の決戦から九年後、升田がついに大山を破って名人に就いたときも、控室から記者からカメラマンから、総出で喜んだという。
 投了場面の再現をカメラマンから要求され、大山は駒台に手を伸ばしながら何度も「負けました」と言わされた。

 「そうした屈辱を味わって、大山将棋は鍛えられた」


大山の晩節

大山マジック(追悼・河口俊彦)⑪

大山の将棋にも、そういった気合いがあり、恫喝するタイミングが絶妙である。

―――河口俊彦

『一局の将棋 一回の人生』(新潮社、1990年)より
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 それはまるでこけおどし。
 「こんな馬鹿な手に引っかかるなんて、全くもってあり得ないではないか」

 負けた棋士が家に帰ってその将棋を研究していると、そのように腹が立ってくる。
 相手の大山康晴にではなく、自分に腹立たしくてたまらないのだ。
 技術では勝っていた。
 よし、今度は騙されないぞ。

 そんな決意で次に臨むのだが……。

 また騙されて帰ってくる。
 それこそが大山将棋。

 気合いと恫喝のタイミング。
 その絶妙さに人は何回でも騙されてしまうのだ。
 全盛期を過ぎてもA級を維持してきた秘密はそれだ――そう河口俊彦は指摘する。

大山時代終焉の瞬間(追悼・河口俊彦)⑫

見おろすように羽生は大山を睨んだ。彼独特の怨念がこもったような視線が、大山の広い額の上部から脳の中心に突き刺さったように思えた。

―――河口俊彦

『一局の将棋 一回の人生』(新潮社、1990年)より
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 一九八九年八月二十五日、羽生善治五段と大山康晴十五世名人が竜王戦準決勝で相まみえた。
 勝負は八十七手目羽生の▲6六銀が非凡な着想で、「大山の玉をカンヌキでしめ上げている」。

 でも、大山ならば振りほどくだろう。

 河口俊彦はそう思いながら盤側に座る。
 しかしその後に展開された光景は、河口の期待を打ち砕くものだった。

 「羽生の右手が大山の眼の下に伸びて、殺到する手が指された。
 瞬間、大山は体を起こし、眼を宙に泳がせた。と、数秒して突然首がガクッと落ちた」

 河口はいたたまれずに、逃げるようにして対局室を出る。

 一つの時代の終わりを見事に描き切った絶品。


 棋譜のデータベース(第二期竜王戦本戦トーナメント準決勝「羽生善治五段 vs 大山康晴十五世名人」)1989.8.25

加藤一二三の壮絶一分将棋(追悼・河口俊彦)⑬

パニック状態に見せかけて、頭脳だけは、冷徹にすべてを計算し、読んでいるのである。

―――河口俊彦

『大山康晴の晩節』(飛鳥新社、2003年)より
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 もうひとつ、絶品とも言える描写を紹介。
 あの加藤一二三が一分将棋に陥ったときのもの。
 これが素晴らしい。

 「とにかく忙(せわ)しない。残り一分になり、三十秒と告げられるや、膝立ちになり、ズボンをずり上げる。四十秒となれば、せきばらいして首を回し、ネクタイに手をやる。五十秒と聞くとさらに忙しなくなり、駒台に手をヤリ、“残り何分?”。そんなこと言われても記録係は答えているひまはない。五十、一、二と秒を読みつづけている。そして、五十七と言われると、発止と駒を打ちつけるのである」

 さてこのリアルな描写、加藤先生、さんざん悩み抜いているかのように見えて、実はそうではないらしい。

 河口俊彦によれば、すでに手は決めてあるのだそうだ。
 プロ棋士もこれくらいのレベルになると、パッと浮かんだ手が常に最善手で、実際はもうその手に決めているから、全く大丈夫。
 見ている方はドキドキしてしまうが、

 「パニック状態に見せかけて、頭脳だけは、冷徹にすべてを計算し、読んでいるのである」

 これが河口老師の種明かし。

儀式としての名人戦(追悼・河口俊彦)⑭

名人は、将棋界全体が選んだ、将棋の神様への捧げ物とも考えられる。

―――河口俊彦

『覇者の一手』(NHK出版、1998年 )より
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 実力名人制なのだから強い者が名人になる。
 それはそうなのだが、「名人になるべき者」というのが歴然としてあり、七番勝負はそれを選ぶ儀式ではなかろうかというのが河口俊彦の感想。

 大山康晴があっさりと中原誠に位を譲ったのも、戦い自体は激烈だったが、番勝負はやはり儀式であって、中原誠は「将棋界全体が選んだ、将棋の神様への捧げ物」だったのだと河口は考える。

神と戦った男、米長邦雄(追悼・河口俊彦)⑮

「名人は戦い取るものなんですね」

―――米長邦雄

河口俊彦『将棋界奇々怪々』(日本放送出版協会、1993年)より
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 「名人は将棋の神様が選ぶ」というような考え方が将棋界にはある。
 あるいは逆に、将棋の神様のお目に叶う人物を将棋界全体が選び、名人として神に捧げる。
 どちらも神の領域。

 さて、米長邦雄。
 名人に挑戦すること六度。全部失敗。
 そのほとんどが中原誠との対戦だったが、こう何度もチャンスを逃していると、それはもう中原を相手にしているというよりも、将棋の神様と戦っているようなもの。

 神様は頑として米長を選ばない。
 また、その神様におもねるように、将棋界も米長を捧げない。
 実際、米長自身が、「名人は選ばれてなるもの」などと以前言っていたのだから、こうなると自縄自縛だ。

 ところが、奇跡が起こった。
 一九九三年春、七度目の挑戦で遂に名人の座を奪い取ったのである。

 「名人は選ばれてなるもの、と自分が言ったために、重圧をかけられてつらかった。名人は戦い取るものなんですね」

 これが、四十九歳十一ヶ月、アラフィフティー男の、勝利直後の談話。
 しかし本当は、もっと直接に神への勝利宣言をしたかったのではないか。
 こんなふうに――

 「どうだい、皆さん見てくれたかい、俺は将棋の神様に一太刀呉れてやったんだぜ!」

全て神様の采配(追悼・河口俊彦)⑯

将棋の神様が、加藤一二三と米長邦雄は、一度だけ名人にしてやりたい、と思ったからでもあろう。

―――河口俊彦

『新対局日誌 第二集 名人のふるえ』(河出書房新社、2001年)より
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 なぜ米長邦雄が四十九歳十一ヶ月の「五十歳名人」になれたのか。
 なぜ加藤一二三が「伝説の十番勝負」を制して名人になれたのか。
 そして両者とも、なぜ一期で名人を譲り渡すことになったのか。

 米長は若手との研究会で現代の将棋を徹底研究した。その成果なんだと世間は言う。
 だがそんなのは実は些細なこと。

 全て将棋の神様の采配だったのだと河口俊彦は言う。

 「将棋の神様が、加藤一二三と米長邦雄は、一度だけ名人にしてやりたい、と思ったからでもあろう」

 「一度だけ」というのが神様の思いやり。
 だから一期で落ちる。
 神には誰も逆らえない。

タイトル獲得者に劣らぬ名棋士・原田泰夫(追悼・河口俊彦)⑰

自分のファンを多く持つのは、タイトルを取るよりむずかしい

―――河口俊彦

『最後の握手』(マイナビ、2013年)より
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 原田泰夫。
 引退したのは一九八二年。
 ところが面白いことに、夫人の話によると、現役時代より引退後の方が収入が多かったそうだ。

 つまり、それだけ良いファンがたくさんいたのである。
 人柄に惚れ、引退してもファンは原田を手放さなかった。
 だから講演依頼も多く、稽古将棋も数多くこなした。

 また、引退後も将棋の研究を怠らず、控室で現役バリバリの棋士を負かしてしまうことも良くあったらしい。
 そういう面も含め、原田泰夫はタイトル獲得者に劣らぬ名棋士であり、「こんな棋士はもう現れまい」と河口俊彦は賛辞を送る。

人間がつまらなくなった(追悼・河口俊彦)⑱

棋士ばかりで、碁打ち、将棋指しは少ない

―――河口俊彦

『将棋界奇々怪々』(日本放送出版協会、1993年)より
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 もう皆んなが「棋士」になってしまった。
 あの、気骨に溢れた「将棋指し」や「碁打ち」はどこへ行ってしまったのか。

 ――こう河口俊彦は嘆く。

 木村義雄は偉大な「将棋指し」だった。
 気骨の人であり、譲れぬこだわりがあり、それ故に喧嘩もした。
 そして、その喧嘩も上手だった。

 ――こう河口俊彦は懐かしむ。

 「棋士」と「将棋指し」、いったいどこが違うの? などと、とぼけた質問をするなかれ。
 この言葉のニュアンスにこそ河口はこだわるのだ。

 「棋士」と呼ばれるようになって、人間がつまらなくなった。
 実はそう言いたいのである。

厳父・大山十五世名人、逝く(追悼・河口俊彦)⑲

棋士たちは、今、偉大な父親を失ったような気持になっている。

―――河口俊彦

『将棋界奇々怪々』(NHK出版、1993年)より
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 大山康晴十五世名人が亡くなったのは一九九二年七月二十六日。満六十九歳だった。

 河口俊彦ほど大山の負の側面を描いた人はいない。私は河口の著作によってはじめて大山流番外戦術の凄まじさをを知った。

 その河口でも、いざ大山が死ねば、「偉大な父親を失ったような気持」になるのである。
 とくに、最晩年、癌に冒されながらの凄まじい頑張りは、将棋界のみならず世間の感動を呼んだのだからなおさらである。

 河口はかつて、「大山が死んで、将棋界全体のタガが緩んでしまった」と書いたことがある。
 ときに、「いくらなんでも余りに理不尽ではないか」と思われる行動を取ることもあったが、それもまた棋士の業(ごう)。それをも含め、大山は昭和将棋界の金字塔であり、偉大なる父であった。

 大山の前に大山無し、大山の後に大山無し。
 羽生善治がいくら記録を伸ばしたとしても、「父」と呼ばれるようなことは無いだろう。
 もう将棋界に「偉大な父親」は出てこないかもしれない。

大切な宝箱(追悼・河口俊彦)⑳

両名人の思い出は、私にとって宝物である。

―――河口俊彦

『将棋界奇々怪々』(日本放送出版協会、1993年)より
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 大山康晴や升田幸三のことを書かせたら河口俊彦の右に出る者はいない。
 そう言いたいくらい、彼の書く両名人のエピソードは面白い。

 「私たちは山の麓にいるようなものであり、頂の有様は外側しか見えないのである」

 こう河口俊彦は謙遜しているが、私たち読む者には、頂の内部を垣間見たように思えて、嬉しくなるのである。「宝物」を書くときの彼の筆は軽やかに舞う。

 その升田幸三が世を去り、その一年数ヶ月後に大山も逝った。
 誰かが、「升田名人が呼んだのだ」と言ったとか。
 それを聞き、河口はそうかもしれないなと思う。

 大山の葬儀のとき、突然升田夫人から挨拶された。最初どこの老婦人かと思ったら、静尾夫人ではないか。

 「もう、こういう折でないと、お会いできなくなりましたね」――そう言って夫人は微笑む。

 河口にとっての宝物がもう一つ増えた。
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