ひとり言
ギアーに刻印されている「EN◯◯◯」の「EN」という文字、
この「EN」とは、「 European Norm」の略で、「 European Standard」=「欧州統一規格」のことです
今日はこの「EN」という規格について考えてみましょう
この欧州統一(EN規格)とは、ヨーロッパ連合、EU地域の欧州30カ国で構成されています。
そしてこのEN規格は、電気分野はCENELEC、非電気分野はCEN、通信のESTI、などの委員会によって策定され、メンバーの71%以上の賛成があれば採用されます。
このEN規格に加盟する国は、これを国家規格として使わなければならないとされています。
また、矛盾が有れば是正しなければいけません。
では具体的なもの=道具で見てみましょう
今回は、下降器の「DSD Plus=ダブルストッププラス」から
DSD Plus には「EN341」と「EN12841」
「EN341」の規格を見てみると、そこには
「個人のための墜落保護器具_レスキューにおける下降装置」
と記載されています。
「EN12841」は、
「個人のための墜落保護器具_ロープアクセスシステム_ロープ調整装置」
とあります
簡単にまとめると、個人用で使用する墜落から身を守る道具、ロープで下降するための器具、ロープを使用した作業におけるロープを操るための安全装置ですかね。
日本語にするとややこしくなりますね。
個人の場合は自分さえわかればいいのでいいのですが、ことチームワークになるとそうもいきません。
そのためにも共通認識が必要になってくるわけです。
共通認識のためには、共通言語をつくることが先ず始めに必要です。
簡単に言うと、「ネーミング」のことです。
名前をつけることが、「分かる」ということです。
「分かる」とは、「分ける」こと。
「分ける」とは、物に「名前」をつけること
これを分かりやすい例えで表わしますと、「サイン」のことです。
カードのサイン、野球のサイン、標識、信号....
ではここで、サインとは違うものを例えにあげてみましょう
我々にはおなじみの「命綱」という言葉です。
命綱はサインでしょうか?
命綱で全ては通じますね。でも意味するところの解釈は人それぞれです。
ロープアクセスに馴染みの無い一般の方や監督さん、管理会社様から日勤のおじちゃんおばちゃんまで、常にこんな言葉を投げかけられます。
「気をつけてね」「命綱はつけてるの?」 と。
この「命綱」という言葉の意味の中にはいろいろな解釈が含まれていることは想像できますね。
我々がイメージする作業における命綱といえば、バックアップのことをたいていイメージします。
このバックアップのことを、窓拭き業界では「補助(ロープ)」と呼んでいる場合が多いです。
または「ライフライン」と呼ぶこともあります。
まぁー普通には、みんな「補助垂らせー」などと言ったり、もっと簡略する時は「もう1本垂らせー」で通じ合ってますが...。
これではダメだと、言葉の定義をしっかりさせておくのはとても大事なことですが、かえって混乱を生んでしまうこともあります。
だからこそ、実際の現場では、「もう一本」や「補助」や「メイン」という現場用語の方が使われているのでしょうね。
便利で分かりやすいということですね。
分かりやすくて便利ということは間違えが起きにくいということかな。
この辺りが現場の思考回路(経験)をもってしないとわからない部分があるんですね。
現場での人間の心理というものは、「業界」という「文化」がわからないとなかなかつかみづらいものです。
この混ざり合いの中から生まれた文化というルールの中で人は育っていくのです。
「体験は言葉を超える」のです
このことを「通じ合う」というのです。
そして、これが真の「規格」だと私は思うのです。
少し前に「千と千尋」の話をさせていただきました。
今日は、この「千と千尋」をキーワードにして話を発展させみようかなと思います。
「千と千尋」に登場する「油屋」だが、この建物は「千住」にあった「子宝湯」がモデル(の一つ)といわれている。(現在は小金井公園に移築されている)
「千住」といえば、「千」が「住む」ところと書く
千尋と関係があるのかはまるで知らないが、摩訶不思議である。
余談だが、ここ千住は、何を隠そう「窓拭き夫婦チャンプ」が住む町なんですねー!
千住は元々、宿場町として発展した地であり、地名は「千手観音」の「千手」に由来するともいわれている。
千住の「千」は、「ち」とも読みます。
「ち」は「知、智」とも表すことができ、この知は「知恵」の知であり、「知識」の知である。
知識の「識」は、心の働きのことである。
そもそも認識というのは単純に言うと2つの方法がある
一つは、我々のように肉体を使う立場で考えてみると「知覚作用」
もう一つは、肉体でない立場から見たもの。
それは、現象化以前の「推理作用」
知覚作用は、単純に言い表すと、「見た」ものを「識」別するということ
ようするに「分ける」ということだ。
分析といっても良いかもしれない。
見たもの(=みたもの)とは「認めた=みとめた」ものという意味だ。
これをまとめると「分けたもの」を「認める」ということだ。
これは、我々が日々現場にて行っている行為=動作にもしっかりと現れされている。
それは「指差し呼称」のことである
これぞまさしく他から見てわかる認識表現方法「ザ・認識」である。
眼や感覚によって入って来た「情報(知覚)」を「知識」が詰まったハードディスクから引っぱり出して合わせていく行為であるのだ。
ここで安全に大事なのは眼にとらえられないものにはどうするのか?
いわゆる予測のことである。
このことを「リスクアセスメント(マネジメント)」ともいっている。
では、見えないもの(=予測する)には、どうすればいいだろう?
それは「想像」するということだ!
「イマジネーション」
これを「声無きもの」という
このときに知識の引き出しと柔らかい頭がものをいうのだ!
「ものをいう」とは 裏が表に出る ということ
「認識力」には、「分けて=分析力」+「思い出して=知識」+「足す=想像力」が統合された「総合力」が問われるのである。
これを高所の危険な箇所で正しく動作させなくてはならない。
この正しく動作=統合させるためのプログラムが「指差し呼称」であり、
「千住=千手(観音)」のことである
20代の頃、「生と死」と向き合えるロッククライミングに挑む
生は、死を意識することで浮かんできます。
この環境を与えてくれたのがアルパインクライミングでした。
そのなかで窓拭きと出会い、仕事とクライミングの両立をさせながらよりいっそうクライミングにのめり込んでいきました。
とある岩壁を登攀中に、ふと、自分のクライミングに疑問をもち、どんどん死が近づいてくる己を感じ、本格的なクライミング活動からもだんだんと離れていきました。
そもそもクライミングを始めたのは、今考えてみると、危険や冒険といったものが好きというのもありますが、可能性や自己探求をクライミングを通して試してみたかったなのかもしれません。
岩壁の中では未知なる力(存在)を感じたこともありました。
墜落していくなかで見えたもの....
「生きるとは何か?生き抜くとは?生きる意味?自己存在?意義?」
「Who I am ?」