労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2020年11月

連座失職で終わらせるな!——河井夫婦巨額買収事件

≪広島の現地から

 

連座失職で終わらせるな!——河井夫婦巨額買収事件

 

買収の罪に問われた参院広島選挙区の河井案里陣営の選挙管理者にたいして、最高裁は11月25日付で上告棄却の決定をした。執行猶予付きであれ連座制の対象者に対して懲役刑が確定したことになり、形式的な連座訴訟を経て、案里は議員失職することがほぼ確定した。

 

今回の事件は、ウグイス嬢に対し法定の上限額の2倍にあたる1日3万円を支払ったというものであった。他の陣営が何らかの形でこっそりと行っていることを、二重領収書といったあけすけな形で行っただけのようにも見える。しかしこの裁判を通じて、些細なこととは言えない事実が明らかになった。それは、当時法相であった夫の克行が陣営の総監督であったこと、その彼が県北への挨拶回りの際、制限時速80キロの中国道を秘書に命じて120キロを上回る速度で走らせたうえ、警護のために後続していた県警のパトカーからの注意を無視して走らせ続けたことである。

 

克行は、安倍の首相補佐官から菅の抜擢を受けて法相に成り上がったが、成り上がった途端に法の番人たる役柄など忘れさり、逆に役柄を利用して率先して法を破ったのだ。まさに安倍・菅政権のエゴイズム的体質の体現者だ。県警は、いまだにこの件について確認中と言うばかりで立件さえしていない。停車させて一発赤切符が当たり前だろう! 忖度どころか、相つるんだ権力自賛というものだ。

 

事件の本体である河井克行・案里夫婦による巨額買収事件について見ると、案里は執行猶予付きの、克行は執行猶予なしの有罪という流れが加速している。というのも検察は、被買収者である地方議員や後援者に対しては立件しないと約束することで、夫婦が有罪となるような証言を多々引き出しているからだ。司法・検察は、自ら法律化した司法取引に基づくこともなく、被買収者との“裏”取引で有罪に持ち込むことに熱心だが、そこにあるのは三権分立のポーズであり、ただの保身にすぎない。

 

この事件の根本的な問題は、発覚しているだけでも夫婦で合わせて県内の約百人、約3千万円もの現金が買収費用として支出され、しかもそれが自民党本部からの政党交付金で賄われた点である(案里陣営には破格の1億5千万円)。これは単なる買収ではなくて、労働者・勤労者の税金を元手にした買収であり、その私的流用なのである。かつて案里は県議時代に、藤田元県知事の知事選での議員への買収疑惑を追及してその名を馳せたのであったが、藤田の買収費用は少なくとも自分のカネであった。金権選挙の弊害をなくすための選挙の公営と謳われた政党交付金が、今回は堂々と買収費用に使われたのだ。

 

案里陣営だけではない。対立した自民党の溝手陣営も、有力県議の所属支部に50万円を振り込んだほか、複数の広島市議にも活動費名目での現金提供をもちかけていた(法に触れるということで止めになったが)。これらも溝手が受け取った1千5百万円の政党交付金から賄われたに違いない。これら多額の買収費用が政党交付金から支出されたとすれば、選挙の公営どころか、現在の自民党の政治支配はカネで買われたものということになる。安倍や菅の政治支配の正当性は根底から揺らがざるを得ないのだ。だからこそ、自民党本部からのカネの流れの解明こそがこの買収事件の根幹なのである。夫婦の両事務所がひたすら昨年の収支を不明とするのもそのせいだ。この買収事件は河井夫婦の議員失職だけで終わるものではない。

 

事の重大さに気づいてか、ただの忖度か、検察は自民党本部の強制捜索を放棄して恥じない。われわれ労働者は、まずは司法・検察に対して自民党本部への強制捜索を行ない買収資金の出所について明らかにするとともに、法に沿って被買収者への立件を行えと要求するが、それとともに政党交付金や供託金制度をはじめとする不平等な選挙制度をただちに廃止せよと要求する。 (広島   IZ)

イスラムと西欧との対立解消の道は?

イスラムと西欧との対立解消の道は?

 

『海つばめ』読者から、1388号二面の「イスラム風刺画に斬首テロ――マクロンの『冒涜の自由』はヘイトだ」の記事について、以下の意見が送られてきました。

 

「西欧的価値観を享受する条件にないが故の絶望的憤激だ」の意味が良く解らない。階級闘争の問題として論じるのなら必要ない文章ではないのか。中世的価値観と西洋的価値観として論じるのは観念的でないか。移民労働者として底辺の不安定な賃金労働者として、資本の自由な抑圧と搾取の下で呻吟していることは、これは資本主義の問題であり、価値観の問題ではない。彼らが豊かな賃金労働者になることが、西洋的価値観を受け入れる条件であり、それが解決の方向なのか。後半に書かれている共同の闘いを、その内容を展開して欲しい。」

 

筆者からの回答を掲載します。

 

問いかけに応えます

 

 フランスで起きている事態は、イスラム風刺は「表現の自由」で、それを否定することは許さないとする西洋的価値観と、それを冒涜としてしか受け止められないイスラム系移民の宗教的価値観からの激しい反発として現れています。私の小論は、そうした価値観を直接問題にしたのではなく、その歴史的社会的背景を明らかにしたうえで、対立解消の道を示そうとしたものです。

 

 価値観それ自体を問題にすれば、歴史的進歩性は西洋的価値観にありますが、だからといって、イスラムの宗教的価値観から解放されていない人々の意識に、何の配慮もしなくてもよいとことにはなりません。

 

 「西欧的価値観を享受する条件がない」と述べたように、イスラム世界は、歴史的な西欧諸国の支配と抑圧から資本主義とその価値観に激しい反発を抱き、自国の歴史的課題が宗教支配の克服=ブルジョア的解放であることを自覚できないまま、遅れた価値観が社会生活を規定したままでいます。女子教育や女性の社会進出をかたくなに否定するのは、その典型です。

 

 豊かな生活を求めたイスラム系移民も、資本主義的搾取の最下層に投げ込まれて“豊かな市民生活”を享受できていません。コロナ禍でその窮状はさらに悪化し、移民規制を強めるマクロン政権からの公的支援は限定され、労働団体からも自国労働者優先で事実上無視され、疎外と差別に喘いでいます。

 

 歴史的社会的関係が支配的価値観を規定するとすれば、価値観の対立からは解決の糸口は見つけ出すことはできません。少なくとも歴史的社会的背景についての相互的な理解が必要です。そのためには、歴史的進歩で前を行く側が後を追う側に手を差し伸べるべきです。今回の事態では、マクロンのヘイト発言をフランスの健全な国民が糾弾することから始め、資本の搾取・抑圧という同じ境遇にあるフランスの労働者と移民労働者の共同の闘いへと発展させていくことであると思います。

 

 この共同の闘いが発展すれば、イスラム移民も合理的価値観として西欧的価値観を理解し、階級意識へと発展させる地歩が築かれていくでしょう。それはまた、母国の開明化=ブルジョア的解放につながっていくだろうし、こうして両世界の革命が同じ土俵の上で展望されていくと考えます。 (Y)

 

(なお、『海つばめ』1388号二面の
「イスラム風刺画に斬首テロ――マクロンの『冒涜の自由』はヘイトだ」の記事は

http://wpll-j.org/japan/petrel/1389.html#7 

で読むことができます。)


【書評】人新世の「資本論」(斎藤幸平著 集英社新書)

【書評】人新世の「資本論」斎藤幸平著 集英社新書)

 ーー温暖化の危機に「脱成長コミュニズム」を対置するが?

 

 菅が所信表明演説中ではほとんど唯一ともいえる“将来ビジョン”として2050年までのカーボンニュートラルを打ち出す中、斎藤幸平の表題の本が話題を呼んでいる。新MEGA等で明らかになった草稿やノートをもとに(特に「資本論」以後の晩期の)マルクスを新解釈し、「脱成長コミュニズム」といった“新しい”マルクス像を提示しているからである。

 西欧諸国等ではこぞって「グリーン・ニューディール」に舵を切る中で、菅の打ち出すカーボンニュートラルは「原子力も安全優先で進める」といった電力資本に配慮した陳腐なものである。それに対して斎藤は、「グリーン・ニューディール」でさえ気候変動を止めることはできない、資本主義がそもそも環境破壊的なのだから資本を廃絶した「脱成長コミュニズム」以外に解決の道はないと極めてラディカルな主張をし、19世紀の“遺物”としてか旧ソ連等によって“手垢にまみれた”マルクス思想の真の姿を提示していると言うのである。

 

◆グリーン・ニューディールではなぜ気候変動を止められないか

 

 まず「人新世」(ひとしんせい)という耳慣れない言葉であるが、これはノーベル化学賞を受賞したオランダのパウエル・クルッツェンが人類が地球に与えた影響があまりに大きいために地質学的に見て新たな年代に突入したとして命名したものである。

 斎藤はさまざまな観点から上記の「グリーン・ニューディール」(気候ケインズ主義)等について論じているが、一つの中心的な観念はイギリスの政治経済学者ケイト・ラワーズの「ドーナツ経済論」である。これは経済発展水準を、地球の環境的上限(プラネタリー・バウンダリー)と衣食住や健康・教育などの最低限の社会的閾値の間に納めなければならないという構想である。しかし、実際には現在の先進国経済は前者の環境的上限をはるかに超える水準にあり、他方、途上国では多くが後者の下限を下回っている。これでは持続可能性もなければグローバルに考えた社会的公平性も確保されないと言うのだ。

 斎藤のもう一つの論拠は、先進国は労働の搾取(収奪)においても環境負荷においてもその矛盾の多くを周辺であるグローバル・サウスに転化し「外部化」してきたということである。先進国の「帝国的生活様式」は、実際にはグローバル・サウスの犠牲の上に成り立っているのだ。だから、例えば「グリーン・ニューディール」等で一見カーボン・ニュートラルが実現したように見えたとしても、「カーボンフットプリント」(原料の生産や廃棄物の行方なども考慮に入れた、CO2の足跡)を見れば、先進国について見ても決して本当のニュートラルではないということである。また、再生可能エネルギーの比率が高まったとしても、その多くは新たな経済成長のためのエネルギーとして使われ、従来の化石燃料の使用量は減少していないとも言う。

 

◆マルクスの新解釈?

 

 斎藤は、マルクスは1867年の『資本論』(第一巻)の出版後にその思想を大きく変えたと言っている。彼によれば、従来のマルクス解釈ではマルクスは「生産力至上主義」であり「ヨーロッパ中心主義的で単線的な進歩史観」をもっていた、マルクスは資本論の中でも、人間の労働は自然と人間との「物質代謝」を媒介することによって人類の生存を可能としている、しかし、資本主義は利潤優先でその場かぎりの「略奪的」生産を行うことによって「物質代謝を撹乱」し「修復不可能な亀裂」を生み出すとも言っている。しかし、晩年のマルクスはロシアのミールやドイツのマルク共同体の研究を通じて、あるいはメソポタミアやエジプト、インドの古代文明滅亡の研究(当時のドイツの農学者フラーツはこうした古代文明が森林の過伐採によって滅亡したと論じていた)を通じて、脱成長的(持続可能な定常型経済)で複線的な歴史観に大きく変化したと言うのだ。

彼は、その証拠としてロシアのナロードニキであった「ザスーリッチへの手紙」や「ゴータ綱領批判」の記述、さらには上掲フラーツの「研究ノート」等々を上げている。しかし、そもそもマルクスが「生産力至上主義」的であり「ヨーロッパ中心主義的で単線的な進歩史観」を持っていた等々の解釈は、旧ソ連のスターリン派の解釈(その意味で世界の“正統”マルクス主義の解釈)でしかないのではないか。マルクスが晩年その関心をより広げ深めていったのは事実であるとしても、上記文献等についての斎藤の解釈はいかにも牽強付会の観を否めない。

 

◆「コモン」という観念

 

 斎藤の「脱成長コミュニズム」で中心的な観念を占めているのは「コモン」という観念である。「コモン」とは「社会的に人々によって共有され、管理されるべき富」であり、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが『帝国』で提起した概念であるという。彼は、この観念を用いて「収奪者が収奪される」という『資本論』の有名な個所(第1巻第23章の末尾)を解釈し直しているのであるが、要は「土地と生産手段の共有」のことなのである。これを「コモン」と言い換えたところで、所詮は物事を曖昧化し、我々がなすべきことをぼかす効果しかないと言うべきであろう。『帝国』は世の識者が好んで言及する本であり、先にあげた「帝国的生活様式」とか「周辺と中核」、「外部化」等々もそうであるが欧米の学者や識者が使う言葉をありがたがって無批判に使うのは日本の学者の悪い癖である(あるいは、世界の学者や識者のそれ自身疎外された狭い世界のネットワークではそんなことでしか独自性を誇示できないということか)。

 

◆本源的蓄積とは「コモンの解体と希少性の増大」?

 

  斎藤はマルクスのいう本源的蓄積を解釈して、「本当は、この囲い込みの過程を『潤沢さと『希少性という視点からとらえ返したのが、マルクスの『本源的蓄積論なのである。」(p.237)「コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての『価値を増やすのである。」(p.251)などと言っている。土地や水、等々の場合は確かにそうだ。しかし、それは(本来は価値をもたないものの)擬制的価値(地代、等)であって、(彼がそれを理解していないわけではないとは思うが)本来的な価値の増大は労働の搾取によっているのだ。また、「私的所有になる」のはマルクスの言う土地(大地)だけではなく、既に人間によって作り出された生産手段(とりわけ労働手段)でもあり、しかもそれらは単なる私的所有ではなく資本の所有であり資本そのものとなるのだ。だから、それは単なる希少性ではない。彼が「価値」というものを本当に理解しているのか大いに疑問を持たざるを得ないのであるが、同時に、彼の言うコミュニズムにおいてはそもそも「価値」とか商品交換等々はなくなるのか、なくならないのか、彼の本を読む限りでははなはだ心もとないのである。

 

◆アソシエーションや生産手段の「自律的・水平的管理」の強調

 

  彼もまた多くの識者と同様にアソシエーション論を強調し、生産手段の「自律的・水平的管理」の強調している。しかし、それはよく考えてみると、彼の旧ソ連等の“社会主義”への否定的評価からきているのだということがわかる。

彼は次のように言っている。「従来のマルクス主義が成長の論理にとらわれ続けてきた…実際、ソ連の場合は、官僚が国営企業を管理しようとして、結果的には、『国家資本主義と呼ぶべき代物になってしまった。」(p.351-52)ここで彼はある種の「国家資本主義」といったものを持ち出しているが、その経済的内容を理解しているかどうかは不分明だ。しかし、「官僚が国営企業を管理」することによって権力主義的・独裁的になり「参加型民主主義」が実現していないことを言っているのである。そうした「垂直的」管理ではなく「自律的・水平的管理」が必要だと言いたいのである。

しかし、細部の管理は地方や個々の生産体に任されるとしても国民経済的規模での共同管理(計画化、等)の側面は少なからず必要である。また、「労働に応じて分配」するためには個々の製品がどれだけの労働によって作られているのかを算出しなければならず、そのためには全国規模の集計と計算も必要となる。だから、もちろん「参加型民主主義」が最大限保障されるような仕組みは考えられなければならないとしても、分散した協同組合のようなものだけでコミュニズムが成立することはあり得ないのである。

(長野、YS

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
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