労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2020年12月

《MMT派経済学批判を特集》『プロメテウス』59号発刊

労働者党理論誌『プロメテウス』59号発刊 

《MMT派経済学批判を特集》

厳しい状況の中で発刊できずにいた理論誌『プロメテウス』の59号がようやく出版されました。MMT派の経済学と政策を真っ向から批判した特集は、マルクス主義の観点からの一貫したMMT派批判であり、日本において――否、恐らくは世界でも――初登場であり、歴史的意義を持つと確信しています。特集以外に、時局論集や書評も掲載されています。

purome59表紙

時局論集は、アメリカ大統領選結果についての「危機深めるアメリカ」と、安倍から総理を交代した菅政権を暴く「安倍政治継承うたう菅の所信表明」、それと、来日した中国王毅外相発言を非難した共産志位発言を論じた「愛国共産党・志位の中国外相非難」の3本。

 書評は、白井聡著「武器としての『資本論』」と斎藤幸平著「人新世の『資本論』」の2冊が取り上げられています。時局論や書評は『海つばめ』や労働者党のホームページ及びブログで掲載されたものの中から厳選しました。

次に、59号の編集後記を紹介して、プロメテウス59号購読を呼びかけるものです。

《編集後記》

本号は、当初、MMT派批判を第一部、2019年参院選における労働者党の闘いを第二部とする企画でスタートしました。しかし、最終的に第一部の分量が多くなり、選挙闘争の部分と合わせると頁数が増えすぎるところから、選挙闘争については別の冊子にまとめることにし、MMT派批判特集に絞りました。但し、それだけでは単調になるので、時局論集と書評を載せ、最近の情勢や研究を反映させています。

選挙闘争をまとめた冊子は、年明けには発行となります。選挙冊子をご覧になっていただければ、労働者党が安倍政権(当時)の「全世代型社会保障」という美名に隠れたバラまき政策の批判を通じて、事実上MMT派批判を選挙闘争の中で展開してきたことがお分かりいただけるでしょう。是非、選挙闘争冊子も購読されるよう呼びかけます。

MMT派の批判は、正直、決して簡単でも楽しいものでもありませんでした。彼らは荒唐無稽の反動的ドグマ――政府が自国通貨建てで支出する能力に制約はなく、財政赤字や国債残高は気にしなくてよい等々――をあれこれの衒学的知識をちりばめ、もったいぶって説くことにより、読者をたぶらかしているのであり、その嘘っぱちを一つ一つ摘発し化けの皮を剥がしていくことは決して容易ではなかったのです。しかし、執筆者たちはマルクス主義の観点からその嘘、妄想、虚妄性、反動性を暴くことに真剣に取り組み、何とかまとめることができました。もとより、私たちはこれで十分と言うつもりは毛頭なく、さらに批判を深めていくつもりです。

最後に、論文の中でしばしば、労働者の目指すべき方向として社会主義(共産主義)社会が提起されていますが、労働者党の文献を初めて読んだ方は、プロメ59裏トリミング社会主義と聞くと、すぐかつてのソ連や現在の中国を思い浮かべ、眉をひそめるかもしれません。しかし、私たちは既に1960年代半ば過ぎからいち早く、ソ連・中国の体制を特殊な資本主義(国家資本主義)と規定し、マルクスが『資本論』などの中で提起した共産主義社会とは全く別物であること、商品生産は社会主義でも残るといった市場社会主義論は国家資本主義の現実の追認にすぎないことを明確にしてきました。興味ある方は本誌広告に出ている関連文献を是非お読みください。「目から鱗が落ちる」こと、請け合いです。(S

申し込みは全国社研社でも労働者党でも結構です。

プロメテウス59号の定価は800円、送料200円です。

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   ISBN978-4-9904618-7-4
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 労働者党HPのプロメテウス59号紹介記事はこちら
   プロメテウス59号紹介 (wpll-j.org)

尖閣諸島問題と共産党ーー資本の国家や帝国主義国家にまで幻想

『海つばめ』1392号(2020.12.13 発行)において、尖閣問題での共産党志位委員長による中国非難について論じていますが、8年前安倍政権登場直前の情勢の中、『海つばめ』1185号(2012.10.28)(トップ記事は「安倍自民党はどこへ行く--国家主義の奔流を許すな--ナショナリズムに傾斜する政党」)において、尖閣問題での共産党の主張を検討し、その誤りを指摘しています。尖閣問題の理解を深める内容ですので紹介します。

 

 

尖閣諸島問題と共産党

「理法」や「話し合い」の問題か

資本の国家や帝国主義国家にまで幻想

 

 日本と、“近隣の”ブルジョア国家、反動国家との対立が激化し、“紛争”と呼べるようなあれこれの事態さえ起こっている。各国との“紛争”の原因を単純に同じものとして論じることはできないが、しかしその根底は、ブルジョア国家、“国民国家”相互の“私利”やエゴイズムの衝突であり、それをめぐる抗争であるということは自明であろう。我々はここで、“領土問題”についての共産党の観念を検討するが、彼らは“世論”なるもの――もちろん、基本的にブルジョア的、自由主義的な――の注目を浴び、その中で“さかしらぶって”つまり、小利口に、そして大騒ぎして発言しているのである。我々は、こうした検討によって、“領土問題”の本質に接近し、ブルジョアや反動たちの民族主義的、国家主義的、排外主義的キャンペーンや策動や攻撃に対して、労働者がどんな原則的立場に立ち、いかに闘って行かなくてはならないかを明らかにしたいと考える。

 

◆志位の「理」や「理法」とは何か

 我々は差し当たり、“尖閣問題”で発言している、志位の見解を取り上げることにしよう(『赤旗』十月七日、外国特派員協会で行った「講演と質疑」)。志位は主張する。

「中国側が、明代の地図に尖閣諸島が記載されていたということをもって、固有の領土だと述べていることについても、これは成り立たないということを申し上げておきたいと思います。中国側が明代あるいは清代に、尖閣諸島の存在を知っていて、名前をつけていたということは事実です。しかし、これらは領有権の権原の最初の一歩であっても、十分とは決していえません。国家による領有権が確立したというためには、その地域を実効支配していたということが証明されなければなりません。中国側には、たくさんの記録がありますが、実効支配を証明する記録は一つも残されていません。

 以上のような歴史的事実にてらしても、私は日本が1895年に『無主の地』の『先占』という法理によって、尖閣諸島を領有したことが正当だったことについては、疑いのないことだと考えております」

 

 要するに、志位が言うことは、「法理」に基づいて、どこに所属するかもはっきりしていなかった尖閣諸島(つまり「無主の地」)を、日本が先に囲い込んだから、日本の領有は正当だという、ブルジョアたちが言いはやしていることと同じことだけである。そして“領土”の確定――つまりブルジョアたちの世界秩序の、いくらかでも“法的な”形を取った確定――は、十七、八世紀以降の国民国家、ブルジョア国家が登場して以来のことだから、共産党の言うことはごもっともさま、と言うしかないのだが、しかしそんなものは、ブルジョアの立場からの発言であって、単なる私的所有の「法理」であり、その延長線上のことにすぎない。

 

 ブルジョア国家、国民国家はそれぞれ“国境”なるものを明らかにしなくてはならず、それぞれ大急ぎで、近隣の無人の、ある場合には有人の島々や、海洋さえも囲い込んだし、囲い込まざるを得なかったが、それは国家間の紛争や、戦争さえもの一つの原因となったし、今もなっている。

 

 そして領土問題は、それ以降もブルジョアたちの世界秩序の、つまり彼らの利己的な立場や衝動につき動かされ、規定される彼らとその国家の関係、対立や争いや武力抗争さえも不可避的に伴う関係として現われたし、現われざるを得なかったのだが、それはまた資本の支配する社会が一般的にそうであるのと同様であった。

 

 そして日本もまた十九世紀半ば過ぎに“国民”国家として登場したということは、日本の国家の地理的限界をも画したということ、北海道は言うまでもなく、琉球王国等々もその中に囲い込んだということでもあった。もちろん日本はさらに帝国主義の時代に移っていくとともに、その「領土」を朝鮮や中国やアジア諸国にまで拡張しよう(植民地として獲得しよう)としたが、そうした歴史的試みは、二十世紀半ば、アジアの多くの人民もまたヨーロッパの、日本の後を追って国民国家として登場しようとした中で、そして日本の帝国主義が粉砕されることによって挫折し、「見果てぬ夢」に終わったのであった。

 

 実際、尖閣諸島の日本による「領有」は日本の国民国家としての登場によって確かなものになったというより、すでに日本の帝国主義国家としての登場によって規定されているとさえ言えるのであって、その限り、その「領有」の疑わしさ――ブルジョア的「法理」の観点からしても――は、例えば、韓国による竹島の「領有」や千島列島のロシアによる領有と似たようなものであろう。尖閣諸島の領有が一八六、七〇年代でなく、ようやく一八九五年になってからであることが、このことを示唆している。

 

 実際志位は、尖閣諸島の囲い込みは一八九五年の日清戦争や、その後に発展する日本の帝国主義的膨張主義とは無関係だと盛んに――日本のブルジョア帝国主義の肩を持って――わめくのだが、そんな主張は詭弁、強弁のたぐいとしてしか行い得ないのは、反動派や国家主義派の主張がそうであるのと同様である。

 

 たかが百年余の尖閣諸島の「領有」を持ち出しながら、尖閣諸島が「固有の領土」だと叫ぶのは、全く笑止千万のことであろう。一八九五年という年に日本が尖閣諸島を「領有」したのだという主張自体が、尖閣諸島「固有領土」論のナンセンス、皮相さを、その占有が単に日本が中国に先んじて国民国家として――さらには帝国主義国家として――登場した結果にすぎないということを、そしていやしくも社会主義者、共産主義者を自称する志位らがそんな見解を持って回ることが恥ずべきことであることを明らかにしている。

 

 共産党が一八九五年からの領有を言えるのは、ブルジョア的、帝国主義的な“世界秩序”として、その枠内での“法的”な根拠に基づいてのことであって、それ以上ではないのである。

 

 にもかかわらず、他方では、共産党はまさに“歴史的に”、「固有の領土論」を擁護し、正当化しようと悪戦苦闘を重ねて、ありとあらゆる“歴史的な事実”を持ち出している。

 

 しかし共産党が「固有の領土」などと主張しながら、“歴史的に”その「固有の領土」を“論証”しようとすること自体矛盾しており、ナンセンスであろうし、また実際にも、そんなつまらない試みは結局失敗している(中国も台湾も――あるいは「琉球王国」さえも――、一時的であれ、あるいはあいまいな形ではあれ、さらには解釈次第でさえあるような、尖閣諸島の“領有”や占有や実際的な帰属等々を、“歴史的な”領有等々を“証明”できるだろうし、またしているからである。例えば、十四世紀頃には、中国は尖閣諸島付近まで軍事的影響力を及ぼしていた事実がある、等々)。

 

 尖閣諸島が日中の国家間の「係争地」だと強調することと、尖閣諸島が「日本(国家)の固有の領土」であると主張することがまるで矛盾もしないと思い込んでいる共産党は、実際に、中国に対して“強硬”な立場を取り、断固対決せよ――石原がわめくように、軍事対決も辞さず――、と言うも同然である、というのは、中国との「係争」はただ中国の不法にこそ原因があるということでしかないからである。共産党は実際には、不法な中国と闘い――必要なら、そして相手があくまで尖閣諸島の領有を主張し、軍事力にさえ訴えて来るなら、軍事的闘い――をこそ扇動しているのであり、ブルジョア支配階級だけでなく、日本の反動勢力、国家主義、軍国主義勢力の正真正銘の後援者、“心強い”応援者として登場しているのである。

 

◆共産党の「事実」とインチキ「実証主義」

 志位の「法理による」――つまりブルジョア的立場や帝国主義的立場による――尖閣諸島の領有等々の主張のうさんくささは、一つの事実によって浮き彫りになっている。つまり、日本政府は、一八九五年に一日本人から出された、尖閣諸島を日本の「領土」として明瞭に囲い込むことを求める申請を事実上拒否し、領土化にためらいを示したという歴史的な事実――志位にとって極めて具合の悪い事実――が明らかにされ、それは日本政府が尖閣諸島を日本の領土として明確に意識していなかったことを教えるのではないとかいうことで問題になった。

 

 共産党は、尖閣諸島の日本領有が正当であることを明らかにするためには、当時の「歴史的な実証研究」が必要であるとのたまい、彼らの見解は、そうした立派な「実証研究」の結果でもあると、もったいぶって主張している。それで我々もまた、共産党の「実証研究」なるものに付き合わざるをえないのだが、その結果は、ただ共産党の言う「実証研究」なるもののお粗末さ、愚昧さを知る結果にしかならないのである。

 

 共産党の「実証研究」なるものの結論は、一八九五年の日本の尖閣諸島領有(囲い込み)は、その前年の夏に始まった、日清戦争とは何の関係もなく、したがってこの戦争で日本が勝って台湾や澎湖(ほうこ)列島を中国(清国)から奪ったものには入らない、といったことである。つまり戦争に勝って奪ったものでなく、正当なやり方で手に入れた、戦争とは何ら関係ないことだと強調するのである。卑しい心根と詭弁的議論は一見して明らかであろう。

 

 そもそも日本が尖閣諸島を囲い込んだ時期――一八九五年一月――は、日本が実際上、戦闘行為で清国を圧倒し、勝利した時期であって、尖閣諸島の囲い込みは、こうした軍事的勝利と不可分であることは一目瞭然である。そしてもし、日本の勝利が、日本の帝国主義的膨張と不可分であり、その出発点になった――このことは、戦争の勝利品として、巨額の賠償金や台湾などを要求し、清国から横奪したことや、朝鮮の支配権に手をかけたことからも明らかだが――というなら、尖閣諸島の領有もまた、日清戦争や帝国主義的膨張と深く関係したものであることもまた自ずから明らかになるのである。

 

 この問題に関して、志位の弁明は次のようなものである。

「当時の日本政府がこうした対応を取ったのは、日本側が、尖閣諸島を中国の領土だと認識していたからではありません。当時の日本外交文書の記録を見ても、そういう認識が書いてあるわけではありません。当時の清国は、日本から見れば、巨大な帝国でした。そういうもとで、尖閣諸島の領有を宣言すれば、清国を刺激しかねず、得策ではないという外交上の配慮から、この時点では見送られたというのが事実だと考えます」

 

 志位の言うことは、最初からごまかしとして現われる。というのは、日本政府が、日本の領土だと明確に「意識していた」かどうかが問われているときに、中国のことを持ち出すからである。中国が認めていなかったからといって、日本が認めていたことには決してならない。日本もまた認めていなかったかもしれないのである。

 

 志位は自分が「考える」ことが、どんな証拠もあげることなく、そのまま事実であるかの議論をしているが途方もないことであろう。むしろ志位が「考える」ことが事実ではない場合はいくらでもあるのだ。

 

 というのは、日本との戦争でほぼ負けてしまい、張り子の虎であることが暴露されてしまった「巨大帝国」の中国(清国)に、日本がいまさら「刺激しないように」と配慮する必要は何もなかったからである。中国との戦争を決意する前なら、「中国を刺激する」ことを気にしたかもしれないが、しかし断固対決し、実質的に勝利した段階で、つまり「巨大帝国」に見えた中国が実際には、内的に腐敗し、解体している、空っぽで無力な国家でしかないことが暴露されてしまったこの時に、一体どんな配慮が必要だったというのか。

 

 日清戦争の始まる前にでも、日本が尖閣諸島を強引に囲い込んだとするなら、志位のような理屈も成立するかもしれないが、日本が清国をほとんど打ち負かした九五年一月の段階で、「巨大帝国」の清国を恐れて領有化をためらったなどということがあるはずもないのである。単純に、尖閣諸島を領土として囲い込むことに瞬間、疑念があったということ、つまり尖閣諸島が日本の「固有の領土」であると――だから急いで囲い込んでいいと――単純に信じてはいなかったことの方が、むしろ明らかになるのである。

 

 その証拠に、日本はその後、たちまち尖閣諸島の領有を宣言しているのであって、まさに尖閣諸島の囲い込みは、清国との戦争の戦利品、ぶんどり品の一つくらいに考えていたことを教えている。

 

 日本は日清戦争の勝利が明らかになり、確かなものになるとともに、国家として腐敗し、敗北し、半ば解体していた「大国」清国をよそ目に、あたふたと尖閣諸島を囲い込んだのだが、それは第二次世界大戦後、敗戦で瓦解し、事実上「普通の」国家として存在していなかった日本に対して、ソ連が千島列島を、李承晩が竹島を、火事場泥棒さながらに大急ぎで囲い込んだことと同じようなものであって、したがって千島や竹島についてソ連や韓国に「不当だ」と文句を言うなら、中国が日本に尖閣諸島で文句を言うのもまた当然でさえあることを、日本政府や反動派は承認しなくてはならないだろう。そうでなければ、日本政府の主張は決して首尾一貫することはできないのである(世界の労働者はブルジョアたちと違って、その双方を、つまりいかなる国家の国家主義、帝国主義も断固として否定するのだが)。

 

 そしてもし明確に、日本の領土だと意識していたとしたら、どうして領土化の宣言を日和る必要や必然性があったのか。領土であるという明確な意識がなかったからこそ、一瞬日和ったのだが、中国との戦争の勝利があきらかになる中で、たちまち尖閣諸島の領土化を日和る必要をなくして行ったのであり、事実すぐに領土化に走ったのである。

 

 ここでは、一八九五年の段階になっても、つまり中国はともかく日本が国民国家として公然と姿を現わしてから三十年も経過しているのに、中国と同様、日本もまた尖閣諸島を「固有の領土」として明瞭に自覚していなかったという「事実」が浮かび上がって来るだけである。

 

 外交文書に「中国の領土だから、領土化宣言をしない」などといちいち書くはずもないのだが、志位は、こんなへりくつを持ち出しながら、自分たちの推測――つまり、「外交上の配慮」から領有宣言をためらったという憶見――の方は、疑いのない真実であるかに言いはやすのである。自分たちの見解もまた、「外交文書に書いてない」という点では同様である、という反省もないのである。

 

 共産党は盛んに、日清戦争と尖閣諸島の領有は別問題だ、無関係だと言いはやし、こうしたつまらない見解――帝国主義を美化するような俗見――に固執し、こだわっているが、しかし「無関係だ」などとあえて言うのは、一体何のためか、なぜそんな立場が必要なのか。むしろ帝国主義――それがどこの国のものであろうとも、つまり日本のものであろうとも――を暴露するためにも、その反対を明らかにし、強調すべきではないのか。いつから共産党は帝国主義を擁護し、正当化するために粉骨砕身するようになったのか。

 

 さらに共産党は、そんな“状況証拠”だけでは不十分だとばかり、また別の「実証研究」の結果なるものも持ち出している。それは九五年四月に締結された下関条約では、台湾の割譲は同意されたが、尖閣諸島のことは何ら言われていないという“事実”であり、さらにその後、六月に行われた「台湾受け渡しに関する公文」が日清の間で交換された時の確認でも、尖閣諸島は何ら問題にされず、ただ「台湾の付属島嶼」が問題になっただけだが、その時も、日本に割譲されるのは尖閣諸島を含まない、「福建省付近の島まで」だとされている事実を持ち出している。

 

 しかし共産党の持ち出す「実証研究」の結果なるものは、かえって尖閣諸島への日本の領有が、日清戦争と密接不可分な、その戦争の勝利によって、台湾と同様に中国から奪い取ったものであることを「論証」していないのか。

 

 例えば、台湾の割譲は同意されたが、尖閣諸島のことは何ら言われていないということは何ら驚くべきことではない。単純に、尖閣諸島が台湾の付属島嶼であるとみなされていたからであると言う解釈もいくらでも成り立つのである。

 

 また六月の「台湾受け渡しに関する公文」の時に問題になったのは、尖閣諸島ではなく、「福建省付近の島まで」だと言うのだから、これは台湾から見て尖閣諸島の反対側、つまり中国大陸に近い金門島――今では、中国にではなく台湾に帰属している、歴史的に色々な意味で有名な――等々であるのは自明であろう。それを故意に尖閣諸島だと「解釈」する共産党の「実証検討」など、まるで一面的、ご都合主義的で、いんちきそのものと言われてもどんな弁解もできないだろう。

 

◆「国際的アッピール」と「話し合いによる解決」

 志位は尖閣諸島問題で政府のやっていることは「重大な問題がある」として、次のように主張する。

「それは、『領土問題は存在しない』という立場を棒を飲んだように繰り返すだけで、中国との外交交渉によって、尖閣諸島の領有の正当性を理を尽くして主張する努力を避け続け、一回も行っていないというところにあります」

 

 ただこうした最初の発言を取り上げてみるだけで、志位の立場の根拠のなさ、くだらなさ、そして詭弁のたぐいが、つまり志位の見解のプチブル的愚劣さがたちまち明らかになって来る。

 

 「領土問題は存在しない」と主張することと、尖閣諸島領有の正当性を主張することが矛盾したり、対立したりするなどと考えること自体がナンセンスであって、「領土問題は存在しない」と主張することこそ、ある意味で、最高、最強の「尖閣諸島領有の正当性を主張すること」であり得るだろう、というのは、「領土問題は存在しない」と主張することは、尖閣諸島が淡路島や佐渡島等々と同様に、日本の「固有の領土」であることは余りに明白だから、そんな問題は議論したり、正否を検討したりする必要も余地もないと言うことと、実際上同じだからである。「領土問題は存在しない」と言うこと自体、ブルジョアの立場からするなら、最強の「理」をもった説明でもあり得る、つまりこれは尖閣諸島は問答無用で日本国の一部だ、いまさら議論する必要もない、と言うことだからである。共産党員でさえ、誰が北海道や沖縄が日本の一部であると、いまさら「理」をもって説明する必要があると思うだろうか。ブルジョアたちは尖閣諸島は事実上、例えば北海道と同じであると主張するのだが、このブルジョアの立場のどこが、共産党の気に入らないのであろうか。まさに共産党の見解であり、立場そのものではないのか。

 

 志位は、自分の立場の根底を、九月に提起した「提言」の次のような文章を引いて総括している。

「尖閣諸島の問題を解決するためには、『領土問題は存在しない』という立場をあらため、領土に関わる紛争問題が存在することを正面から認め、冷静で理性的な外交交渉によって、日本の領有の正当性を堂々と主張し、解決をはかるという立場に立つべきである」

 

 志位は現実として中国との間で「領土問題をめぐる紛争」があるのだから、「領土問題は存在しない」と言えないと主張するのだが、しかしただ問題をすり替えているにすぎない。中国は「領土問題がある」――つまり尖閣諸島は中国の領土だ――と主張し、日本は日本の領土だと主張しているとするなら、そこに「紛争問題」があることは確かだが、日本の立場から言えば、それは中国が勝手にふっかけてきた、横暴な横槍、不当で不正なもの、理不尽なものであって、「紛争」など事実上ないのである。

 

 実際、志位といった連中ほどの愚昧な連中はいない。彼らは口を開くと、尖閣諸島問題では「領土問題は存在する、それを『存在しない』というから世界にアッピールできない、正々堂々と領土問題は存在すると認めた上で、世界にアッピールせよ」と叫ぶのだが、しかし領土問題が存在すると認めること自体、尖閣諸島が『日本の固有の領土』という共産党の――そして日本の支配階級の――理屈を根底から掘り崩し、否定するものであることが分かっていないのである。

 

 「世界にアッピールすればうまく行く」といった志位のたわ言は、それが実践に移されるや否や、たちまちいたるところで破産を明らかにしている。

 

 例えば、共産党の“忠告”を受け入れたのかどうかは知らないが、玄葉外相はヨーロッパの英仏独などを訪問、尖閣諸島問題で日本の立場の正当性を訴え、EU諸国に味方に付くように要請したが、まるで木で鼻をくくるような挨拶を受けただけであり、共産党の戦略はたちまちその破綻をさらけだしたのであった。

 

 ヨーロッパ諸国が日本の味方に付くのを避けたのは、中国との経済的関係もあり、中国とのいくらかでも“良好な”関係を望んでいて、この問題で日本に味方するメリットを見出すことができなかったからだが、他方では、中国の“帝国主義的”やり方をよからずと思いつつも、日本もまた、一九四五年までの露骨な帝国主義政策を、中国に対する(今中国のやっているのと同様な)悪行狼藉の数々を全く反省していないと見ているからである、つまり喧嘩両成敗の装いに隠れたからである。かくして玄葉の試みはむだ骨折りに終わったのだが、それはまた共産党の政治的立場がどんなに愚劣で、観念的なものでしかないかを暴露したのである。

 

 ブルジョア国家相互の、帝国主義国家相互の「領土問題」が容易に国際的世論といったあいまいなものや、国際的組織(戦前の国際連盟、戦後の国際連合等々)の意思や、当事国相互の「話し合い」で解決するなら、そもそも最初からそんな問題は存在しないという、ごく初歩的なことさえプチブルたちには理解できないのである。

 

 共産党は、「尖閣諸島は日本の固有の領土」であるが、実際に尖閣諸島の帰属をめぐる争いが存在するではないか、そしてそれが現実として存在する以上、存在することを認めてお互いに話し合いのテーブルにつき、「道理を尽くして」話し合えば、相互に納得して解決できると言いたいのである。問題はかくして、共産党のプチブル的俗物たちが、この階級社会のすべての問題が話し合いや相互理解によって解決するといった、安直な幻想や願望に酔っているということに帰着するのである。

 

 実際、階級国家、帝国主義的諸国家の利害の対立や紛争が、すべて話し合いや「道理」に基づいて“解決する”――それがどんなものかは問わないとして――などと考えることは、労働者にとって途方もないことに思われるが――というのは、労働者は搾取されている自分の社会的な地位が、搾取されている状態が、ブルジョアたちとの、「同じテーブルについての」話し合いによって解決するなどと決して思わないし、思うことができないことを、日々の日常的な経験によって、よく知っているから――、気楽なプチブルたちは違うのである。

 

 しかし自覚した労働者は、尖閣諸島をめぐる日中の争いは、ブルジョア支配階級の利害の争いであり、国家の争いであって、労働者人民に何のかかわりもないことを確認し、日中の支配階級の争い、国家間の争いに対して、世界の労働者階級の国際主義と連帯した闘いを対置することによってそれに断固として反撃するし、しなくてはならない。

マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の 学者インテリの解説(解釈?)

《神奈川から学習会の報告》

 

マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の学者インテリの解説(解釈?)について 

 

 先月、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の学習会が、最終日13名の参加者を得て終わった。『ブリュメール18日』は、1848年の二月革命からルイ・ボナパルトの独裁に至るまでの4年間を、唯物史観と階級闘争の理論でもって見事に分析したマルクスの傑作である。労働者が唯物史観を我がものとし、生の現実を階級闘争の視点から分析するのに必読の書物である。

 

その際、私は平凡社ライブラリーの新訳(私以外にも使用していた)を使ってみたのであるが、そこに柄谷行人の解説(あるいは新解釈、『表象と反復』)が収録されているので読んでみた。しかし驚いた、到底これは働く者には読ませられない、とんでもない解説(解釈)だと思った。それは解説と呼べたものではなく、マルクスの意図とは関係なく自分の新説(珍説?もちろん新説も納得できるものなら、いいのだが)を披露したものであった。

 

解説というなら岩波文庫や国民文庫の方が、はるかに(スターリニズムの影響が少なからずあるが)マルクスの意図に忠実であると思った。ここでは到底柄谷の論文の内容を詳しく紹介する余裕もないが(その必要もないであろう)、気の付いた点をいくつか挙げて、全体を推測してもらいたい。

 

 まず「反復」である。マルクスは『ブリュメール18日』の第1章の冒頭でヘーゲルを引用しながら「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と述べている。柄谷はこれを重大視して、「反復」と言う概念を『ブリュメール』分析のキーワードとするのである。しかし、ここでの問題は、果たして「歴史は繰り返す」はマルクスにとってそれほど重大な概念であっただろうか、ということである。

 

マルクスは、単に1789年から始まるフランス革命と1848年から始まる二月革命の経過との類似を指摘しただけなのであって、革命と言う形式や階級構成は多少似たものであったにしても、その内容は歴史的社会的状況からして、全く違うことを指摘しているのである。それはマルクスがカエサルの帝政とナポレオンの帝政とは同じ帝政でも、ローマ時代と18世紀のフランスとでは経済的社会的条件、階級構成などが全く異なることを指摘していることからも明らかである。

 

マルクスにとって重要なのは、「人間は自分自身の歴史を作る。だが、与えられ、持ち越されてきた環境の下で作るのである。」(第1章)と述べているように「与えられた環境」、つまり革命を取り巻く経済的社会的環境と、そこで行われる、生産諸関係に規定された諸階級間の隠然公然たる階級闘争の分析なのである。

 

マルクスにとっては「反復」という表面的な現象はさして意味を持っていないのである。しかし、柄谷は、冒頭の「反復」からヒントを得たのか(ヘーゲルとマルクスが言ったからか)、「反復」を過大評価して歴史を解釈(観念論だ)しようとしているのだ。

 

ここで柄谷の典型的な議論を挙げてみよう。彼は「反復」を経済危機、景気循環にも発見するのである。彼は、1870年代、1930年代、1990年代の反復性を上げて次のように述べる、「われわれが見るべき反復は、反復強迫である。フロイトが言ったように、それは決して想起されないような『抑圧されたもの』の回帰である。想起される代わりに、それは現在において反復される。われわれが想起できるのは単なる出来事でしかない。それゆえ、1870年代、1930年代、1990年代を出来事において比較することは、そこに存する『抑圧されたものの回帰』を見失わせるだろう。それを見るためにわれわれは『資本論』と、とりわけ『ブリュメール18日』を必要とする。そもそも、マルクスはこの書物において冒頭から歴史における反復性の問題を扱っているからである。」(p269)

 

これは相当難解な文章である。ここで彼は何を言おうとしているのか、論文全体からの部分的抽出で分かりにくいことを考慮しても、彼の言わんとしていることを理解するには困難である。しかし、いったい単なる「反復」ではなく「反復強迫」とは何なのか、また「抑圧されたもの」とは何なのか、そしてその「回帰」とは何をさすのか?彼の言う「抑圧されたものの回帰」と『ブリュメール18日』との関連は、何も説明されていないのである。

 

続けて、彼の説明を聞こう、「この場合、『抑圧されたもの』とは何か。それは冒頭に述べた事柄、つまり議会制と資本主義経済におけるrepresentationの問題にかかわっている。確かにそれらのシステムは抑圧的である。しかし、反復強迫を形成するのはそのような抑圧ではない。決して表象されないような『抑圧されたもの』とは、そのような表象のシステムそのものを可能にしている『穴』である。ところが、この穴はべつに不可視ではない、それどころか、至る所に存在している。ところが、まさにそのゆえに、それが『穴』であることは隠されている。/ 例えば、資本制経済においては、貨幣がそのような「穴」であるといってよい。『資本論』のマルクスは、貨幣が、その担い手としての人間の意志を超えて,無窮動の自己増殖運動を強いられている存在、というよりも『存在と無』(サルトル)であるということを明らかにした。」(p270)

 

議会制と資本主義経済が「抑圧的である」とはどういう意味か。「確かに抑圧的である」と言われても、少しも「確か」ではないのだ。また「反復強迫」(とは何だ?)の「穴」が「至る所に存在する」が「隠されている」とは、どういうことか?また英語の「representation」には二つの意味、つまり表象と代議制の意味があるが、ここではそのどちらを意味しているのか、あるいは共通する「representation」といったものがあるのかも全く説明がないのである(そもそもここで英語を使う意味があるのか)。

 

一般に社会科学では、詩や物語と違って、よほどのことでない限り、隠喩は使うべきではない(やむを得ない場合は、その意味が分からなければならない)。彼は珍しく具体的な例を挙げて、「自己増殖運動を強いられる」貨幣がその「穴」だと言っているが、貨幣は流通手段として運動はするが、自己増殖運動はしない。自己増殖するのは、貨幣が資本に転化するからである(柄谷の貨幣理解はこの程度)。彼はサルトルまで引合いに出して、「穴」を説明しようとするが、混乱は増すばかりだ。

 

さらに柄谷は、議会制について、次のように述べる、「近代において人類が獲得した議会制(代表制)は、現実の可視的な王や大統領や皇帝といった存在者とは別に、けっして埋めようのない穴を持っており、それが「抑圧されたものの回帰」として反復されるということなのである。」(p271)「一方、『ブリュメール18日』は、もう一つの表象システム、すなわち代表制が不可避的に持つ危機を取り上げている。『資本論』が経済を表象の問題としてとらえたとすれば、『ブリュメール18日』は政治をそのようにとらえている。『資本論』が近代経済学の批判であるならば、同様に、『ブリュメール18日』は近代政治学の批判である。」(p272)

 

議会制の危機が反復されるのは、議会制を実現したブルジョア支配そのものから生じるのである。議会制の危機を、意味不明の「決して埋めようのない穴」といった隠喩で説明しようとするのは、柄谷が、近代議会制の本質を何も分かっていないからである。マルクスは,『ブリュメール18日』によって、二月革命によって獲得された議会制が、なぜわずか4年で崩壊せねばならなかったのかを、事件の経過を綿密に跡づけて明らかにしたのであった。

 

そのためにマルクスは、ブルジョア民主主義が持つ矛盾―すなわち封建制打倒のためのブルジョア議会がブルジョア支配の確立以後、そのブルジョア民主主義を徹底できず逆に制限しなければならなくなるというジレンマ―を徹底的に分析したのである。

 

柄谷が、近代代議制が持つ危機や近代政治学の批判を問題にするなら、マルクスが『ブリュメール18日』で力説したブルジョア議会主義(その現れとしての議会主義的クレチン病)とブルジョア民主主義の階級制とその限界を明らかにしなければならないのである。柄谷はマルクスのこうした分析には一言も触れずに、「抑圧されたもの」やその回帰、あるいは「穴」といった訳のわからない言辞を振りまくだけなのだ。

 

もう止めよう。これまで紹介したところからも柄谷の論文の無意味な内容が分かって頂けたと思う。せっかくマルクスが、この『ブリュメール18日』でブルジョア議会制の歴史性とその本質や限界を明らかにし、しかもそのブルジョア議会制を利用しないでは、労働者階級の解放も実現しないこと、またその際、労働者階級は、議会主義的クレチン病(ブルジョア議会だけを闘争手段とする)に陥ってはならず、労働者の階級闘争の発展を目指さねばならないことを(まさに現代への教訓だ)、情熱をこめて説いているにもかかわらず、柄谷は、この『ブリュメール18日』から何事も学んではいないのだ。

 

それもそのはずである。柄谷などインテリ学者先生は、このブルジョア社会で“名誉ある地位”を与えられ、生活を保障された小ブル階級である。マルクスは、『ブリュメール』の中で述べている、「同様に民主派の議員たち(小ブルインテリと読め)は、その教養と知的状態からすれば、商店主たちとは雲泥の差があり得る。彼らを小市民の代表とした事情とは、小市民が実生活において超えない限界を、彼らの頭の中で越えない、ということであり、だから物質的利害と社会的状態が小市民を[実践的に]駆り立てて向かわせるのと同じ課題と解決に、民主派議員たち(小ブルインテリと読め)が理論的に駆り立てられる、と言うことである。」(p67)

 

柄谷らは、決して賃金奴隷制の廃止や資本の支配の打倒を口にしない。彼らはブルジョア社会に寄生する存在であり、労働者の階級闘争や労働の開放とは無縁の存在なのである。

 

柄谷の論文の中には、フロイトをはじめ、ラカン、アルチュセール、カール・シュミットなど著名な学者やその引用がちりばめられている。驚いたことに、柄谷がそうした思想や引用に同意しているのかどうかさえもさっぱり分からないことだ。自分の博覧強記を誇示して、読者を煙に巻くためなのだ。

 

労働者は、こうした学者インテリの“難解な”文章に恐れ入ったり、惑わされたりしてはならない。近年、資本主義の危機と共に、マルクスへの関心が高まっているのに乗じて、柄谷の”衣鉢“を受け継ぐ若手インテリ(白井聡や斎藤幸平など)続々と現れている(柄谷はその親玉といったところか)。

 

彼らは、マルクスの革命的部分を骨抜きにし、マルクスを単なる改良主義者やエコロジストに貶(おとし)めようとしている。こうした学者インテリは、唯物史観も階級闘争も剰余価値の搾取も、いわんや賃金奴隷制の廃止や労働の開放も関係ないのだ。

 

彼らの関心は、ブルジョア社会における名声であり、安定した地位である。”彼らの行くに任せよ“。唯物史観と階級闘争の真理を握っているわれわれ労働者階級こそ、人類の未来を切り開くのである。 (神奈川 S)

直ちに「GoTo」は中止せよ!——見せかけの自粛要請

《静岡からのアピール》

 

直ちに「Goo」は中止せよ!

――見せかけの自粛要請

 

「Goo」について、我々が警告したように、全国的に感染者が急増し、今や医療崩壊が 静岡でも現実となってきた。静岡市の大きな病院で感染者40人のクラスターや外国語専門学校の外国人留学生の間でも40人近くの感染者が出るなど、医療が切迫している。

 のんびり構えていた市長も慌てふためいている。浜松市ではクラスター場所を随時発表してきているが、静岡市は一切明かしてこなかったので、市民から批判の電話が鳴り止まないとのこと。現市長の応援基盤が商工会にあることから、「市民の命よりは我が身」といったところか。

 

 東京の菅と小池の例の見せかけの要請も、医療崩壊の危機感から発せられたものだが、感染者はどんなに増えても、たとえ1日1000人を超えても、医療さえ崩壊しなければ、「Gooトラベル」はあくまで続行だという信念?が透けて見える。

 二階と菅と旅行大手のJTB(事務局を担当)が結託した「Goo」は来年6月まで延長される見通しだが、その間に感染者はいく倍に増加し、いくつの命が失われる事だろうか。直ちに「Goo」は中止せよ!あくまで「Goo」を推し進めようと東京でも、菅と小池とのあんな中途半端な見せかけの自粛要請ではいくつの命が失われるだろうか。 (静岡 K)

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
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