〈文芸時評〉

 

『ブラックボックス』(芥川賞受賞作)はプロレタリア文学か?

 

 第166回芥川賞を受賞した砂川文次(すながわぶんじ)氏の小説『ブラックボックス』について、審査委員の一人である奥泉光(おくいずみひかる)氏は次のように評した。

 

 「格差社会の底辺で生きる人物を描いた現代のプロレタリア文学。古風なリアリズムを前提に、書かれるべき切実さが小説に滲み出てくるような力感があった」。

 

 この〝現代のプロレタリア文学〟という批評に惹かれて、この小説を読んでみることにした。

 

 28歳の青年サクマは、今はやりの〝自転車便メッセンジャー(配達人)〟として大都会東京で働き、暮らしている。それまで自衛隊や不動産屋、コンビニなど様々な職を転々としてきたが、空(くう)に拳(こぶし)を突き出すような苛立ちと、短気さ、暴力という形でしか意思を現わし得ない行動で、どれも長続きしなかった。今は、煩わしい人間関係の無い、ある面「自由」で、一定の収入を稼げる配送人として働いている。

 

 物語は、交通の激しい都心を自転車で配送先に向かう途中、車と接触し自転車ごと転倒する場面から始まる。その転倒前後のシーンの描写は実に緻密だ。接触し、転倒し、起き上がる、それを事故調書のごとく描く。また、走りながら彼の視界が捉える街の様子も、まるで住宅地図を虫眼鏡で精察しているかのようだ。ビル、行き交う人々、走り去る車……風を切って急ぐゆえに、サクマの視界は狭く、それらをいちいち認識できないであろうが、あたかも一つ一つ視界が捉えているかのごとく描く。現実的にはありえないことではある。

 

 自転車便は、急を要する依頼が多く、出来るだけ早く、1時間後くらいには希望先へ届けねばならない。金融関係や一般企業、デザイン・設計事務所など、ビジネス街からの発注が多い。東京だと丸の内・大手町周辺からということになろう。

 

 運ぶ物は、書類関係や箱物・筒状の荷物がほとんどで、自分の属する会社(事務所)から、所持するモバイル携帯に入る発注先の情報を得て、配達物を受け取り、指定された場所へ一刻も早く届けねばならない。

 

 時給は1350円~1600円で、頭数をこなせばそこそこの収入になる。届けが終了したら、また携帯に連絡が入るので、公園などで待機し、次の発注先の元へと向かう。体力が許す限り、これを毎日繰り返す。よつて、従事者は若年労働者に多く、もちろん非正規労働に入る。

 

 1日が終了したら会社(事務所、取り次ぐ正規労働者が23名いる)に戻るも良し、直接自宅に帰るも良しである。

 

 煩わしい人間関係も身分上の上下関係も無い、一見気楽な(という風に見える)個人営業の仕事である。

 

転倒したサクマは、配送物を先輩でもある同僚に急遽頼み、動かなくなった自転車を引きずって事務所に戻り、自転車の修理に取りかかる。事務所の彼のロッカーには、修理用の用具や自転車のパーツが揃えてあって、数時間で修理を終える。彼は自転車のパーツにもやたらに詳しい。

 

アパートに帰ると、円佳という女性がいる。彼と同棲しており、二人の日常会話は至極短く、肉体関係を除けば、二人の精神的交流や互いの愛情は薄く、彼は暇があればゲームをし、それぞれ勝手に暮らしているという風だ。

 

 配送便を頼んだ先輩の同僚は、近々この仕事を辞めて、アパレルショップを開くという。それを聞いて、後輩の同僚が、同調を求めるごとく、この仕事の将来への不安をサクマに語るが、サクマは関心を示さない。

 

 ただ〝遠くへ行きたい〟というのが、サクマの前からの願望で、それがただ家から離れるだけのことなのか、それとも遠い外国へ行きたいと言うのか、紛争地域のような刺激性のある世界で生きてみたいと言うのか、それがどういう意味なのかは最後までわからない。ただ、「圧迫感のある」家を出るという目的で働き始めたと言うから、家での生活は何らかの理由で居づらく、居心地の悪い環境であったことが覗える。

 

 今日、一定の目標や生きる目的が持てず、人間関係も希薄で、友人もおらず、しかも非正規労働のような不安定な生活を強いられる若者は大都会には多い。そうした生活は、自ずと孤独感を募らせ、自堕落な刹那的気持ちに陥ったり、そのはけ口として自暴自棄になったり、刹那に流されて一時の快楽を求めることもある。そういう意味では、サクマは暴力的であることを除けば、一般的な非正規労働の若者の姿であり、その心象は外からでは伺うことのできぬ「ブラックボックス」(暗箱)みたいなものである。

 

 小説の後半は、いきなり刑務所の生活を描く。突然場面が刑務所になり、読者は戸惑う。暫く読み進めるとその理由が判明する。サクマは、今まで居場所を転々としたため税の滞納があり、その請求のためにアパートにやって来た税務職員の若い方を「笑っている」という理由で、突然ぶん殴り、駆けつけた警察官にも暴力を振るい逮捕された。それで刑務所送りになったのだった。

 

 6人部屋雑居房での生活や、そこで共同生活をする人たちを描きながら、房と作業場を往復する刑務所の生活を細かく紹介する。その描写も緻密だ。これは体験した者でなければ描けないと思わせる。

 

 しかし、ここでも、仲間の一人をいじめる奴がいて、思わずそのいじめる囚人に飛びかかり、鼻骨を折るほどの怪我をさせ、とうとう独房送りとなる。

 

 この50日間にも及ぶ独居房生活を、一日中何もせず、ただひたすら部屋の中央で座り続けねばならない苦痛を描く。この刑務所生活の中で、過去の自衛隊の上官の話や、円佳が妊娠した話などが語られる。妊娠した円佳から手紙が届くが、返事は書かない。手紙を房内に置かれた読み古された少年ジャンプに挟み込む。

 

 独房生活から解放されると、彼は一日も早い出所を希望するようになる。出所という目標に向かい日々進む日常に、何故か安らぎじみたものを感じている。それは、出所という目標があり、それにのみ心を傾けられるという安定した精神からきている。出所すれば、また重い現実が待ち受けるのだが、出所という目標を得て、彼の気持ちは穏やかなものとなっていく。やはり人には、当面でもあれ、生きる目標や目的が必要なようだ。

 

 『(この先)「どうなるかは誰にもわからない。それでいい」。円佳からの手紙は忘れよう』という言葉で、なぜ「それでいいのか」を語ることなく、中途半端なままにこの小説は終わる。

 

 果たしてこの小説は〝現代のプロレタリア文学〟と言えるであろうか。奥泉光氏が評するように、「格差社会の底辺で生きる人物」をありのままに、子細に描写しているという意味では「古風なリアリズム」風ではある。しかしそれは単なる写実主義である。

 

 資本により搾取され、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描き、そうした社会を変革しようとする自覚と行動に立脚した文学、読む者、とりわけ労働者に感動と勇気と未来を指し示す文学を「プロレタリア文学」とするならば、この小説はありふれた単なる私小説である。

 

 「底辺で生きる人物」をリアリズム風に描けば、それが「プロレタリア文学」であるというわけではない。第一、作者はサクマをあくまで客観的に描こうとするが、彼の生活をプロレタリアの生活と捉え、社会からはじき出され、虐げられた厳しい現実と向き合わせるということをさせない。ただ怒りにまかせて暴力を振るわせるだけである。対談における作者の次のような下りが象徴的である。少し長いが引用しよう。

 

 「サクマは低所得者で非正規、個人事業者ですが、そうした人たちは保護するべき、希少動物でしょうか。私にとって、労働者は弱者ではなく強者なのです。現場で肉体を駆使して働いている。使う側より、そちらのほうがめちゃくちゃカッコいい。だから非正規とかギグワーカーといった文言にこめられた、保護とか弱者というニュアンスに対して拒否感や忌避感を抱いてしまう。サクマなら『か弱い人たち』の言葉だというかもしれません。……国として行政として、目指すべき制度、理想の状態はあるし、そうした議論は私もよく目にします。しかし『あちら側』の人たちは制度の話で止まっていて、サクマたちの本当の生活や感覚にもどこまで寄り添えているのか。…サクマであれば、殴って解決しようとするかもしれませんね。自分を安く使っているヤツもムカつくし、それにゴチャゴチャ言ってるヤツもムカつく。『うるせえ、ゴン!』みたいに」(『文芸春秋』3月号受賞者インタビュー、252)

 

 「労働者は弱者ではなく強者」で「現場で肉体を駆使して働いている」から、「使う側より、その方がめちゃくちゃカッコいい」。「非正規とかキグワーカー(単発で仕事を請け負う働き方をする人)と言った文言に込められた、保護とか弱者というニュアンスに拒否感や忌避感を抱いてしまう」と砂川氏は言う。

 

 彼がそう思うのは、昨今の政府や政治家議員、既成政党、評論家たち、つまり「『あちら側』の人たち」が、彼らを『か弱い人たち』として、欺瞞的な、形だけの保護政策を主張したり、取ったりしていると考えているからで、それへの怒りがある。それは全くその通りで、例えば安倍首相(当時)が唱えた非正規労働者への「同一労働同一賃金」や「非正規から正規へ」などか典型的であろう。非正規の賃金は同一どころか、正規とは益々かけ離れ、その職さえ失い、非正規労働者の数は今や四人に一人で益々増えるばかりである。

 

 労働者が「強者」となるのは、資本や権力に対し、何万、何十万と団結して立ち上がった場合であって、孤立した状態では、肉体労働だろうが、何であろうが「弱者」である。サクマが自転車便の仕事を失えば、立ち所に食うに困り、すみかも追われるであろう。妊娠した円佳が失業すれば、幼子を抱えて、どうして生きていくのか。砂川氏は労働の意味も、労働者の立場も理解していない。

 

 最後に砂川氏を紹介しよう。砂川氏は1990年大阪府吹田市生まれの32歳、デビュー作は『市街戦』(文学界新人賞)で、イラク紛争に身を投じたKを描いた。

 

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』に憧れて、自衛隊に入隊し、攻撃ヘリの操縦士となる。現在は地方公務員である。

 

 対談によると、自転車便の経験があるかどうかは不明だが、刑務所に入った経験は無く、知り合いから聞いて描いたという。きわめて「安定した」職業の経験者である。

 

 また、芥川賞授賞式で、砂川氏は次のようなスピーチをした。 

 

  「もうしゃべって大丈夫ですか?めちゃくちゃ緊張してるんですけど、っしゃあオラあ!! 海の向こうで戦争が起こっていて!くそみたいな政治家がたくさんいて!そういうものに怒りを感じながら書いていたような気もします。よく聞かれるんですけど、怒ってない気持ちがないわけないじゃないですかあ。っという気持ちです。」と絶叫した。

 

  芥川賞がどういう基準で選ばれるのかは知らないし、興味も無いが、審査員によって候補作がひとつ、またひとつとふるい落とされて、この作品がたまたま残ったというところであろうか。こんな小説が芥川賞に該当するものなら、この賞も地に落ちたものである。読みながらの退屈さはたまったものではない。自転車便という仕事や刑務所内の暮らしぶりはよくわかるが、ただそれをくっつけただけのことである。 ()