2006年08月03日
無知は残酷なる慈悲・知は快楽にして苦痛
時として想う
実に不毛な諍いが多いことを
そして想う
不毛な諍いの殆どが未成熟に起因する事を
昨今のニュースを眺めながら、色々なことを
再認識させられる
殺人・傷害等に関しても、犯罪の根本にある
加害者の精神の幼稚性や加害者の薄っぺらさ
には辟易とするものを感じる以上にその思考
の短絡さやエゴイスティックな心の貧しさに
激しい不快感や嫌悪感すら覚える。
こういう発言をすると貴方は恵まれた環境で
育ったから他の人のことをそんなふうに見れ
るんだとか、そうした教育を受けてきたから
達観したような尊大な物言いができるんだと
か、非難の声(時として差別的発言やら蔑視
の色を孕んだ怨嗟に近い声や蔑視されたよう
な被害者妄想によって酷く本文の意図を歪曲
したことに対する激しい怒気を孕んだ抗議や
非難の声)を浴びる事も少なくないだろう。
だが一つ考えてほしい。
情報を処理するにあたって、バックボーンを
構成する情報が異なっていることを心に留め
ずに、独善的な判断をし手しまったが故に、
判断の仕方を誤り極度に差別的な意味合いを
そこに感じ取ったとしても、果たしてそれが
真に正しいことだろうか?
自身が正しいと思う判断の基準を創る段階で
恣意的な意図が加わり正しい事実判断の機会
を奪われていたとしたら、自身の意識の中で
正しいことと判断していることが、客観的な
事実を前にしてもなお、それを正しい事だと
主張していくことができるだろうか?
私自身に置き換えてみた場合に、そのような
状況の中においては素直に首を縦に振る事は
必ずしも出来ない。
いや、むしろ、そうした状況においては尚更
正常な判断が出来る者であれば、首をたてに
振るなどという暴挙に出る事などできよう筈
がない。
ニュースや新聞等から与えられる情報を見た
場合に、よくよく注視してみると良く判る事
なのだが、一つの事件に対して、それぞれの
メディアから与えられた情報が微妙に異なり
それぞれの終着点が必ずしも同じ場所に無い
ことを。
それぞれの注視の精度を少しだけ上げてみる
習慣をつけてみると、メディアが流す情報が
一つの事件に対しての情報が必ずしも一つの
結果に結びつくわけではないという事実に、
容易に触れていくことが出来るだろう。
其の事実を各個人が体験を通じて認識できた
場合に、そうした情報の(恣意的な)歪みや
捩れが何故おこるかという原因や、恣意的に
歪曲させた情報の真の意味を考えてみた場合
に原因や理由が薄明かりの中にその姿を晒す
ことに繋がっていく。
元来、媒体を問わず多様な情報について私見
を外れ事実を追求するためにマスメディアは
公正さと独立性を保つことがその活動の根幹
にあった。
逆に、私見に任せた恣意的な情報で感化・洗
脳していこうとすればそのメディアは求心力
を失うばかりか社会から抹殺されるように、
自浄作用が働くことにもなるのが普通なこと
だが、非常に悲しいことに社会的に公正さと
中立性を保たなければならないマスメディア
においても資本主義社会の経済活動の中では
生存の為にその大前提を崩さなければ社会に
その情報の発表はおろかその存在を守ること
さえままならない。
そうした資金での関係において、政治・政党
や宗教団体等の間接的な支配下に自身をおい
て奴属しているような状況ではマスメディア
の本質を失ってしまうことは実情としても、
根本的な要因として十分に考慮できることと
おもう。
勿論国防等の国家の存亡に関わるような重要
な内容においては特務規定や極秘要項がある
ため、マスメディアに対してすべての情報が
のべつまなく提示されるわけではないし、国
民がそれらの情報を知るところには必ずしも
至らないというのが現実の状況であろう。
勿論国防等の極めて特殊な性質をもった情報
においては、情報統制がかかることを多少は
考慮すべきことだとは思う。
だからこそ、そうした様々な局面に対する認
識も含めて、より多くの情報を広範囲から収
集し、情報を多角的に捉え、公正に判断する
能力を創り、自衛手段を高めていかなければ
ならないのではないだろうか?
知識が乏しければ物事を判断する事が出来ず
結果、悪政や悪法等に苛まれることを良しと
するような大きな苦痛の中に身を置き続ける
こととなり、十分な知識を備えていたとして
事実関係を是正するだけの数量という大きな
力にならなければ悪政や悪法等を阻止できず
二重の苦しみを背負うこととなる。
多数決という数の暴力に屈する者になるか、
多数決という数の意思によって未来を創る者
になるか、選択は各自のなかにある。
どちらを選ぶか、どのように未来を創るかは
自身の心のままに進むに任せればいい。
だが、その選択が全ての結論を導き出す。
しかも、一度した判断は二度と戻せない。
非常に重い選択である。
真実は人の主義主張の数だけあるが、事実は
誰から見ても一つの事象にしかならない。
事象の解釈が異なり、その意味がぶれること
は少なからず存在するかもしれない。
だからこそ、より多くの事実に触れて、考え
より多くの角度から客観的に捉えた事象から
それぞれの答えを導き出してほしい。
自己の利益の為だけではなく、
より普遍的な社会の未来の利益のために
2006年07月10日
光と闇
昨今、TVの報道番組で子の親殺し・親の子殺しなどの極めて
特異なニュースが流れている。しかも最近は連日の事である。
教育の根本に道徳教育をもって育ってさせいれば、こんな事は
起こりえなかっただろうかと疑いたくもなるが、そこに責任を
被せて逃げてしまったら何も進まない。実に愚かしいことなの
だが、そういうことすらも判らなくなった者が親の世代になり
教育は学校がするものと学校に責任を転嫁し、それを受け止め
られなくなった学校は、地域の問題と更に具体性の無い対象に
責任を転嫁し、無責任にして主体性の無い地域はかぶせられた
責任を、本来、その責務を背負うべき家庭(両親)にその一切
を投げることで、自分たちの身の保身をしたたかに守りつつ、
且つ、一切の事象について常に無関心で居られる場所を確実に
つくり、そのことが、更なる悲劇の温床となりつづけている。
無論、原因の発端は恐らく親の世代なのであろうが、何処まで
いっても責任を持たない負の連鎖が続いていったとしては全く
持って意味がない。まったくもってナンセンスな話である。
だからといって物事の全てのことを放っておいていいという話
でもなく、改めてこの事象を冷静に捉えなおしていかなければ
ならない。何故、子供が道徳教育をもてないで居られるのか?
これは一概に子供の責任とはいえない。なぜなら、子供が学ぶ
環境というのは子供が帰属する社会(家族・地域・学校など)
を基にしており、そこで子供を取り巻く社会の全てが、如何に
子供に対して根気強く正確に情報を伝達してきたかが、その子
の学習成果や成熟度に直接的に繋がっているからである。
人格教育に無関心な親と、近隣の家庭に無関心な社会、そして
子供の成熟度に無関心な学校。教育は学校の責務といいながら
塾に通わせ、塾に通わせたことで自分の責任を完遂していると
平気で錯覚をしている親は、仕事に専心し家庭のことへの関心
が薄らいでおり、隣近所など自分を取り巻く社会の一端の事象
にさえ関心を持たないでおり、その社会の中にある学校はその
存在意義を預かっている子供の親に完全に否定されている事に
何の憤慨もせず、約束された期間だけ子供を預かり、その期間
の満了をもって己の責務を遂行したものと言わんばかりに、卒
業証書で子供達を飾り立てて親権者に返すことだけに専心し、
その子供が問題を生じたとしても、あたかも自分の指導の過失
ではないと言いたげに日々をおくっている。
その理屈が十分に理解できていれば、我が子の人格教育や道徳
教育に時間を掛ける必要性を真摯に受け止め、積極的に行動を
起こしていくであろう。
そのために、問題をより深く考えその本質を提示する場合には
その根幹を追うことも大切で、それらの事象等に裏打ちされた
事実の提示と現象を多角的に分析した上で、問題の改善の為に
必要なことを纏めた未来への提言を導き出すことこそが必要な
のだが、未来を創らなければならない時に、過去の問題のみを
とりあげ問題の本質をゆがめてしまう輩も少なくない。
そういう不遜の輩に限って、歴史を振り返った場合、戦争が親
の世代を奪ったことが教育の質を下げてしまったこと、そして
そのことがさらなる社会の歪みをうんでしまったこと、更には
古きよき時代の道徳観を教育の根幹に据えない家族構成に変化
していたことで更に負の連鎖が進行してしまったこと、即ち、
あの戦争がなければ国家も国民も平和に暮らせた筈で、戦争に
国家を導いた政治家の全てがその責任を負うべきで併せて償い
を行うべきである。などという論法も成立するかもしれない。
だが、冷静に考えてほしい。過去を問い正すことで今の現実が
そこに根を張っている未来がどのようにかわるのだろうか?
過去への問いかけをすることで、自分でない誰かを(触れる事
の出来ない)人を責めるだけで何が解決するというのか?
それにも気付けず、同じ論法で無責任に犯人探しを平気で行う
マスコミの流す情報を有り難がって自らの責務をとる事も無く
自分達の手で新たな英雄と犯罪者を同じ手で生み出している。
如何に愚かしい行為だろうか?
社会が混迷とする現代においては人心に強い光を照らすだけの
カリスマ性のあるも必要ではあるかもしれないが、その人間が
真に光を宿したものであるかは疑わしいところもある。
昨今の話題になった者然り、近世の歴史を振り返ると必ず名前
を挙げられるヒトラー然り、カリスマ性が必ずしも世界を導く
救世主たりえないことを改めて理解しておくべきであろう。
だからといって万人が心に光を宿して、心の闇に勝つ生き方を
実践していくことだけの為に日々を送れたらとても素晴らしい
事かもしれない。だが、現実は社会の動向が加速化しており、
即座に敏感に対応していかなければ対応さえもままならない程
時代のスピードにさえ置いていかれてしまうような危い世界で
我々が今生きているというのが悲しい現実だったりするのだ。
己の心に光を求め世間と一線を画して求道者として生きること
実践できるものは少なく、その終焉を迎える者は少ない。
だからといって、道徳を廃してインセンティブだけに反応し、
心を忘れて生きていく以外の方法を持たなくなったとすれば、
人は何に殉じて何の為に生きていけばよいのだろう?
目的もなく漠然と生き、己の住む世界を蝕み、己の利害の為に
己の世界さえも破壊してしまうような何にも繋がらない哀れな
存在であるなら果たして人の存在意義は何処にあるのだろう?
人はとても素晴らしい。だが、それと同時に実に愚かである。
どちらになるか、どうなるのか、どう生きてどう死にたいか?
その答えは、自分で探していくしかない。
だが、そのためには、心の中に公正な秤をもち、常にその秤の
傾きを監視しつづけていく心の強さが必要かもしれない。
光:光ること。光るもの
目に感ずる明るさの元になるもの
人の心に明るさを感じさせるような物・事。
親・君主などの威光
闇:夜暗いこと、光がまったくない状態
正規の手続きによらない取引
思慮・分別がないない状態
メモ:
二十一世紀に生きる君たちへ
不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か
教育格差―親の意識が子供の命運を決める
本当の学力をつける本―学校でできること 家庭でできること
超強育論
特異なニュースが流れている。しかも最近は連日の事である。
教育の根本に道徳教育をもって育ってさせいれば、こんな事は
起こりえなかっただろうかと疑いたくもなるが、そこに責任を
被せて逃げてしまったら何も進まない。実に愚かしいことなの
だが、そういうことすらも判らなくなった者が親の世代になり
教育は学校がするものと学校に責任を転嫁し、それを受け止め
られなくなった学校は、地域の問題と更に具体性の無い対象に
責任を転嫁し、無責任にして主体性の無い地域はかぶせられた
責任を、本来、その責務を背負うべき家庭(両親)にその一切
を投げることで、自分たちの身の保身をしたたかに守りつつ、
且つ、一切の事象について常に無関心で居られる場所を確実に
つくり、そのことが、更なる悲劇の温床となりつづけている。
無論、原因の発端は恐らく親の世代なのであろうが、何処まで
いっても責任を持たない負の連鎖が続いていったとしては全く
持って意味がない。まったくもってナンセンスな話である。
だからといって物事の全てのことを放っておいていいという話
でもなく、改めてこの事象を冷静に捉えなおしていかなければ
ならない。何故、子供が道徳教育をもてないで居られるのか?
これは一概に子供の責任とはいえない。なぜなら、子供が学ぶ
環境というのは子供が帰属する社会(家族・地域・学校など)
を基にしており、そこで子供を取り巻く社会の全てが、如何に
子供に対して根気強く正確に情報を伝達してきたかが、その子
の学習成果や成熟度に直接的に繋がっているからである。
人格教育に無関心な親と、近隣の家庭に無関心な社会、そして
子供の成熟度に無関心な学校。教育は学校の責務といいながら
塾に通わせ、塾に通わせたことで自分の責任を完遂していると
平気で錯覚をしている親は、仕事に専心し家庭のことへの関心
が薄らいでおり、隣近所など自分を取り巻く社会の一端の事象
にさえ関心を持たないでおり、その社会の中にある学校はその
存在意義を預かっている子供の親に完全に否定されている事に
何の憤慨もせず、約束された期間だけ子供を預かり、その期間
の満了をもって己の責務を遂行したものと言わんばかりに、卒
業証書で子供達を飾り立てて親権者に返すことだけに専心し、
その子供が問題を生じたとしても、あたかも自分の指導の過失
ではないと言いたげに日々をおくっている。
その理屈が十分に理解できていれば、我が子の人格教育や道徳
教育に時間を掛ける必要性を真摯に受け止め、積極的に行動を
起こしていくであろう。
そのために、問題をより深く考えその本質を提示する場合には
その根幹を追うことも大切で、それらの事象等に裏打ちされた
事実の提示と現象を多角的に分析した上で、問題の改善の為に
必要なことを纏めた未来への提言を導き出すことこそが必要な
のだが、未来を創らなければならない時に、過去の問題のみを
とりあげ問題の本質をゆがめてしまう輩も少なくない。
そういう不遜の輩に限って、歴史を振り返った場合、戦争が親
の世代を奪ったことが教育の質を下げてしまったこと、そして
そのことがさらなる社会の歪みをうんでしまったこと、更には
古きよき時代の道徳観を教育の根幹に据えない家族構成に変化
していたことで更に負の連鎖が進行してしまったこと、即ち、
あの戦争がなければ国家も国民も平和に暮らせた筈で、戦争に
国家を導いた政治家の全てがその責任を負うべきで併せて償い
を行うべきである。などという論法も成立するかもしれない。
だが、冷静に考えてほしい。過去を問い正すことで今の現実が
そこに根を張っている未来がどのようにかわるのだろうか?
過去への問いかけをすることで、自分でない誰かを(触れる事
の出来ない)人を責めるだけで何が解決するというのか?
それにも気付けず、同じ論法で無責任に犯人探しを平気で行う
マスコミの流す情報を有り難がって自らの責務をとる事も無く
自分達の手で新たな英雄と犯罪者を同じ手で生み出している。
如何に愚かしい行為だろうか?
社会が混迷とする現代においては人心に強い光を照らすだけの
カリスマ性のあるも必要ではあるかもしれないが、その人間が
真に光を宿したものであるかは疑わしいところもある。
昨今の話題になった者然り、近世の歴史を振り返ると必ず名前
を挙げられるヒトラー然り、カリスマ性が必ずしも世界を導く
救世主たりえないことを改めて理解しておくべきであろう。
だからといって万人が心に光を宿して、心の闇に勝つ生き方を
実践していくことだけの為に日々を送れたらとても素晴らしい
事かもしれない。だが、現実は社会の動向が加速化しており、
即座に敏感に対応していかなければ対応さえもままならない程
時代のスピードにさえ置いていかれてしまうような危い世界で
我々が今生きているというのが悲しい現実だったりするのだ。
己の心に光を求め世間と一線を画して求道者として生きること
実践できるものは少なく、その終焉を迎える者は少ない。
だからといって、道徳を廃してインセンティブだけに反応し、
心を忘れて生きていく以外の方法を持たなくなったとすれば、
人は何に殉じて何の為に生きていけばよいのだろう?
目的もなく漠然と生き、己の住む世界を蝕み、己の利害の為に
己の世界さえも破壊してしまうような何にも繋がらない哀れな
存在であるなら果たして人の存在意義は何処にあるのだろう?
人はとても素晴らしい。だが、それと同時に実に愚かである。
どちらになるか、どうなるのか、どう生きてどう死にたいか?
その答えは、自分で探していくしかない。
だが、そのためには、心の中に公正な秤をもち、常にその秤の
傾きを監視しつづけていく心の強さが必要かもしれない。
光:光ること。光るもの
目に感ずる明るさの元になるもの
人の心に明るさを感じさせるような物・事。
親・君主などの威光
闇:夜暗いこと、光がまったくない状態
正規の手続きによらない取引
思慮・分別がないない状態
メモ:
二十一世紀に生きる君たちへ
不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か
教育格差―親の意識が子供の命運を決める
本当の学力をつける本―学校でできること 家庭でできること
超強育論
2006年06月30日
心水鏡の域に至れば心乱れず・・・
人の心は非常に脆く弱い。
自己を守るために虚栄を張りわずかばかりの力量差で
従えるものを作り、作った環境を守ることに専心する。
下手に理論武装の術を持てばさらにエスカレートする。
そうした手法で偽りの関係を作ることは容易いが、
それなりに知恵が回る者であればきなくさい偽装を
見抜き、自らを安全な位置に保つ。
罠をはって効果が出るのは少なくとも数回までだろう。
悲しいかな、自分の優位が揺るがないと誤認した場合、
人は優越感に浸り、口が軽くなるものだ。
そうして、如何に己が優位なものかを喧伝するように、
愚者に対する姿勢で自らの方法や結果を示しだす。
相手の力量を見誤って居る場合は実に悲しい。
多少の才覚のあるものであれば、どれだけ巧妙に
罠をはっても、手法を明かされた後であれば、
そのことを状況判断の材料とし、罠の癖を見抜き
罠の網を潜り抜けていく。
一度その手法を見抜いてしまえば、次からは苦も無く
安全なところに身をかわすことは容易い。
それだけに心をもって接しなければ人は動かない。
巧言令色少なし仁、流麗に語れば耳には心地よいかも
しれないが、心には何も残らない。
いくらかの手法について、知識として学ぶことは
時として必要かもしれないが、実践を伴い、奸計に
図るための手法として頼ってはいけない。
如何に優れた策士であろうとも、如何に愚かな万夫で
あろうとも、それに気付けないようになっては
人としての価値を示すことはままならない。
だが、そのことを忘れてしまう者は大半を占める。
実に醜く愚かだ。
心を静かにし、自らの力量を認め、他者を愛し
尊重し、力を蓄え、身を清らかに保ち、謙虚で
あり続けることは非常に難しい。
だが、清浄に保たなければ人の信を得られることは無い。
立場や役職を持たぬばあいであっても、それ以上に、
それらのものを背負うことを選らんだ者はなおさら、
謙虚で清浄であり続けなければならない。
無駄に愚か者と揶揄されないように・・・。
自己を守るために虚栄を張りわずかばかりの力量差で
従えるものを作り、作った環境を守ることに専心する。
下手に理論武装の術を持てばさらにエスカレートする。
そうした手法で偽りの関係を作ることは容易いが、
それなりに知恵が回る者であればきなくさい偽装を
見抜き、自らを安全な位置に保つ。
罠をはって効果が出るのは少なくとも数回までだろう。
悲しいかな、自分の優位が揺るがないと誤認した場合、
人は優越感に浸り、口が軽くなるものだ。
そうして、如何に己が優位なものかを喧伝するように、
愚者に対する姿勢で自らの方法や結果を示しだす。
相手の力量を見誤って居る場合は実に悲しい。
多少の才覚のあるものであれば、どれだけ巧妙に
罠をはっても、手法を明かされた後であれば、
そのことを状況判断の材料とし、罠の癖を見抜き
罠の網を潜り抜けていく。
一度その手法を見抜いてしまえば、次からは苦も無く
安全なところに身をかわすことは容易い。
それだけに心をもって接しなければ人は動かない。
巧言令色少なし仁、流麗に語れば耳には心地よいかも
しれないが、心には何も残らない。
いくらかの手法について、知識として学ぶことは
時として必要かもしれないが、実践を伴い、奸計に
図るための手法として頼ってはいけない。
如何に優れた策士であろうとも、如何に愚かな万夫で
あろうとも、それに気付けないようになっては
人としての価値を示すことはままならない。
だが、そのことを忘れてしまう者は大半を占める。
実に醜く愚かだ。
心を静かにし、自らの力量を認め、他者を愛し
尊重し、力を蓄え、身を清らかに保ち、謙虚で
あり続けることは非常に難しい。
だが、清浄に保たなければ人の信を得られることは無い。
立場や役職を持たぬばあいであっても、それ以上に、
それらのものを背負うことを選らんだ者はなおさら、
謙虚で清浄であり続けなければならない。
無駄に愚か者と揶揄されないように・・・。
2006年06月25日
嘘と欺瞞
人は生きていく上でいくつかの嘘をつく。
人のために嘘をつき、人を欺く嘘をつき、
人を慰めるために、自分を守るために嘘をつく。
嘘に美しいものは無い。
自己の利益のための嘘は実に見苦しく浅ましい。
他者の利益のための嘘は時として人を救うが、
大概は人間関係に少なからずの波紋を投げかける。
だが、生きていくうえでは、瑕疵のある意思表示を
しなければならない場面も幾つかある。
相手の傷を思い、相手を思いやった言葉をえらび、
嘘で相手の背中をさする事もせざるを得ないことも、
思いやりの意図が通じずかえって大きな波紋を
投げかけていく事も少なくない。
真実の言葉は受け取る側の心理によっては、
非常に冷酷で非感情的に受け取れる為、
時として激しく傷をつけてしまう。
それは、相手の心情に同意することなく、
事実のみを切り出す言葉であるため、
必ずしも優しい言葉ではなくなる。
真を投げかければ受け取る側の心情によっては
大きな禍根も残すが、真のみであれば不要な諍いや
争いを生まないため、時として人を庇う盾ともなる。
だからといって、世情で生きていくうえでは
真を発し続ける事だけが正しい事ではないし、
とはいえ嘘で塗り固められた言葉に誠は無い。
誠を貫く事は大事だが、墓を暴いて死人を
晒すようなことになってしまっては、
非常に後味が悪すぎる。
だからといって、生きていくための処世術として
使う事を良しとしたらそれは非常にむなしい。
敢えて嘘をつく必要はないが、時として、嘘を
つかなければ人の背中をさする事もできないし、
人との関係を円滑に続けていく事においても、
幾らかの影響を及ぼす。
それゆえに、必要悪としての嘘についても
マナーは必要で、市井の中で生きていくうえで
言葉の使い方やニュアンスの違いについて
真摯に向き合わなければならない。
世俗の中にあればこそ、まったく嘘をついた
ことがない者が居ればそれは奇跡だと思う。
人に優しい嘘はついても構わないというものも
居るが、それは必ずしも正しいものではない。
苦境にある場合、穏便に事を済まそうと思えば、
相手の心の逃げ場を用意することは必要であり、
嘘によってそのスペースを用意することや、
相手の傷を慰めるために嘘で背中を撫でて
一時の心の平静を保ったり緩やかな心の回復を
図ったとしても、それは恣意者の視点から見た
独善であり本人の成長を挫く環境を生み出す為、
本人にとっては必ずしも優しいことではない。
相手のためと思えど、相手を守るためとはいえ
嘘は美しいものではない。
嘘をつかずに生きていくことは非常に苦しい
選択を伴う。
人を傷つけず、人を守り、己を汚さず、
尊厳と権利を守るための嘘は非常に難しい。
それゆえに、己の保身を図るためにのみつく嘘は
非常に醜く愚かである。
そうした嘘は自分の信用を崩し、自分の価値を
著しく下げる。
嘘で守った価値は、メッキがはがれた瞬間から
二度と元の大きさに戻る事は無いが、正直且つ
謙虚に自己を表現しておれば、己の成長によって
その大きさと価値をあげてていく事はできるが、
自分の価値を下げる事はまずない。
この理を知って、人の尊厳と権利を守り、
人を庇うために実践する嘘は情状酌量の
余地もあるし、時として、人を救う秘薬と
なることもある。
ただし、欺瞞に満ちた嘘をつく事は
どのような状況であっても許されるべきではない。
だが、人は嘘をつく。
時には自己の生存のために。
そして、時には他者の保護のために。
適切ではないと知りつつも、
ある時は衝動的に
ある時は自己の保身のために
ある時は自己顕示欲の充足のために
ある時は慈悲の心のままに。
見栄もある。誇りもある。労わりもある。
それゆえに相手の真意を見ず、咎める事は
適切ではない事もある。
だからといって、放任して、深刻な事象にも
放置することになってしまったら、
取り返しのつかない事態を招く事も容易に
想像がつく。
嘘の悪いところは嘘を守るために嘘をつき
嘘が生んだ嘘は無限に負のスパイラルを生み
自己の評価を失墜させ、人間関係の健全な
構築さえも拒む。
人を愛し、人を信じ、人を守り、人を慈しみ、
人の嘘を許し、人の誠を引き出す。
そんな導き手に出会う事ができれば、人は
幸せに生きられるのかもしれない。
逆にそれを可能にする相手を見出せ無いが故に
人は人と触れ合う事を恐れ、人を疑い、
人を憎み、人を嫉み、人を傷つけてしまうの
かもしれない。
少し前に、とあるブランドのCMで
「閉じてる自分」・「開いてる自分」という
2つのキーワードを使って、自社ブランドの
イメージの刷り込みをしていたのが記憶にあるが
自分の心について、自分の意識について、
自分の人生についての間接的な提案として
事象を捉えた者はどれぐらいいたのだろう?
この疑問を持って敢えて読者諸兄に問う。
・今の貴方はどちらの例に属すのか?
・今の貴方はどちらを望んでいるのか?
おそらく、その日その時によって回答は
変化することになると思う。
人は変化を繰り返すものであるから、
それはきわめて自然な事ともいえる。
ただ、そのときに、嘘と欺瞞について
心の機微について、ゆっくり考えて
事にあたるのが必定かと思われる。
【 嘘 】
本当でない事を、人をだますために言う事
正しくない事、誤り
適当でない事
【欺瞞】
人の目をごまかし、騙す事
人のために嘘をつき、人を欺く嘘をつき、
人を慰めるために、自分を守るために嘘をつく。
嘘に美しいものは無い。
自己の利益のための嘘は実に見苦しく浅ましい。
他者の利益のための嘘は時として人を救うが、
大概は人間関係に少なからずの波紋を投げかける。
だが、生きていくうえでは、瑕疵のある意思表示を
しなければならない場面も幾つかある。
相手の傷を思い、相手を思いやった言葉をえらび、
嘘で相手の背中をさする事もせざるを得ないことも、
思いやりの意図が通じずかえって大きな波紋を
投げかけていく事も少なくない。
真実の言葉は受け取る側の心理によっては、
非常に冷酷で非感情的に受け取れる為、
時として激しく傷をつけてしまう。
それは、相手の心情に同意することなく、
事実のみを切り出す言葉であるため、
必ずしも優しい言葉ではなくなる。
真を投げかければ受け取る側の心情によっては
大きな禍根も残すが、真のみであれば不要な諍いや
争いを生まないため、時として人を庇う盾ともなる。
だからといって、世情で生きていくうえでは
真を発し続ける事だけが正しい事ではないし、
とはいえ嘘で塗り固められた言葉に誠は無い。
誠を貫く事は大事だが、墓を暴いて死人を
晒すようなことになってしまっては、
非常に後味が悪すぎる。
だからといって、生きていくための処世術として
使う事を良しとしたらそれは非常にむなしい。
敢えて嘘をつく必要はないが、時として、嘘を
つかなければ人の背中をさする事もできないし、
人との関係を円滑に続けていく事においても、
幾らかの影響を及ぼす。
それゆえに、必要悪としての嘘についても
マナーは必要で、市井の中で生きていくうえで
言葉の使い方やニュアンスの違いについて
真摯に向き合わなければならない。
世俗の中にあればこそ、まったく嘘をついた
ことがない者が居ればそれは奇跡だと思う。
人に優しい嘘はついても構わないというものも
居るが、それは必ずしも正しいものではない。
苦境にある場合、穏便に事を済まそうと思えば、
相手の心の逃げ場を用意することは必要であり、
嘘によってそのスペースを用意することや、
相手の傷を慰めるために嘘で背中を撫でて
一時の心の平静を保ったり緩やかな心の回復を
図ったとしても、それは恣意者の視点から見た
独善であり本人の成長を挫く環境を生み出す為、
本人にとっては必ずしも優しいことではない。
相手のためと思えど、相手を守るためとはいえ
嘘は美しいものではない。
嘘をつかずに生きていくことは非常に苦しい
選択を伴う。
人を傷つけず、人を守り、己を汚さず、
尊厳と権利を守るための嘘は非常に難しい。
それゆえに、己の保身を図るためにのみつく嘘は
非常に醜く愚かである。
そうした嘘は自分の信用を崩し、自分の価値を
著しく下げる。
嘘で守った価値は、メッキがはがれた瞬間から
二度と元の大きさに戻る事は無いが、正直且つ
謙虚に自己を表現しておれば、己の成長によって
その大きさと価値をあげてていく事はできるが、
自分の価値を下げる事はまずない。
この理を知って、人の尊厳と権利を守り、
人を庇うために実践する嘘は情状酌量の
余地もあるし、時として、人を救う秘薬と
なることもある。
ただし、欺瞞に満ちた嘘をつく事は
どのような状況であっても許されるべきではない。
だが、人は嘘をつく。
時には自己の生存のために。
そして、時には他者の保護のために。
適切ではないと知りつつも、
ある時は衝動的に
ある時は自己の保身のために
ある時は自己顕示欲の充足のために
ある時は慈悲の心のままに。
見栄もある。誇りもある。労わりもある。
それゆえに相手の真意を見ず、咎める事は
適切ではない事もある。
だからといって、放任して、深刻な事象にも
放置することになってしまったら、
取り返しのつかない事態を招く事も容易に
想像がつく。
嘘の悪いところは嘘を守るために嘘をつき
嘘が生んだ嘘は無限に負のスパイラルを生み
自己の評価を失墜させ、人間関係の健全な
構築さえも拒む。
人を愛し、人を信じ、人を守り、人を慈しみ、
人の嘘を許し、人の誠を引き出す。
そんな導き手に出会う事ができれば、人は
幸せに生きられるのかもしれない。
逆にそれを可能にする相手を見出せ無いが故に
人は人と触れ合う事を恐れ、人を疑い、
人を憎み、人を嫉み、人を傷つけてしまうの
かもしれない。
少し前に、とあるブランドのCMで
「閉じてる自分」・「開いてる自分」という
2つのキーワードを使って、自社ブランドの
イメージの刷り込みをしていたのが記憶にあるが
自分の心について、自分の意識について、
自分の人生についての間接的な提案として
事象を捉えた者はどれぐらいいたのだろう?
この疑問を持って敢えて読者諸兄に問う。
・今の貴方はどちらの例に属すのか?
・今の貴方はどちらを望んでいるのか?
おそらく、その日その時によって回答は
変化することになると思う。
人は変化を繰り返すものであるから、
それはきわめて自然な事ともいえる。
ただ、そのときに、嘘と欺瞞について
心の機微について、ゆっくり考えて
事にあたるのが必定かと思われる。
【 嘘 】
本当でない事を、人をだますために言う事
正しくない事、誤り
適当でない事
【欺瞞】
人の目をごまかし、騙す事
2006年06月16日
知は尺、識は技、揃わずばはかれぬ
雑然とした日常。
思う事と行う事の結果がなかなかかみ合わない。
目的と結果の違いに苛立ちを覚えながら過ぎ行く
日々に憂い酒を煽れば虚しさだけがこみあげる。
社会に出て生活していれば色々な事がある。
その中で自己の独立性の維持と尊厳の保護と
他者の能力や尊厳の尊守と相互のパーソナルエリアを
保持しながら、かつ、相互に理解を図ることは
非常に難しく、集団生活の中に身を置き、社会性を
漠然と認識するようになってからは、センシティブな
ものの多くのものはこれに悩み、激しく時間を消費する
無知にして残酷な幼少期とは異なり
他者に服従する事も、他者の尊厳を挫くことも、
自己の利益のために他者を辱めその利益を奪うことも
成熟した社会では往々ににして認められるべきではなく
成熟した成人男女であろうと思えば、相手に常に心を砕き
礼を尽くし、仁義を貫き、愛を持って接するよう
努力をしていくことが必要となる。
相手に対する思いやりや常識的な判断の尺度の誤りや
人間の尊厳の尊重といったことに対する認識の欠如により
自分が無意識に他者への侵害を行ってしまった場合には
相手を過度に傷つけ、恨みを買ってしまうことがある。
プライベートな場でおこった事あればいざ知らず、
パブリックな場であったのならば、その傷はなおの事深くなる。
積年の恨みを果たしたといわんばかりに、子供が親を殺したり
意に介せぬ殺人が起こる事があるが、そうした事件の犯罪者を
見ると必ず稚拙な面を曝け出すことが多い。
小学生の小学生殺傷事件に見る特異性は地域社会が
良好に機能していた時代にはまず見られなかった事であるが、
無知という愚かで無関心で不勉強というもっとも忌むべき
常態に身を置き、社会性の欠如になんら疑問を呈さない
人としての能力を放棄している無気力さが見える。
少なくとも私が幼少の頃には一切起こらなかったような事件が
当たり前のようにおこっている。
何故か?
テレビのニュースや新聞や雑誌などのメディアによって
面白おかしく脚色され、事件が風化しうやむやになるまでの間、
ただただ視聴率や販売数などの貨幣価値の尺度でのみ図られ
その公共性や公益性を度外視したものになっていることに
自ら目を伏せて、実にくだらない事象ばかりをありがたがって
日々の話題として提供している。
何故か?
そして、各メディアに対して疑問を投げかける事も無く
(そこに政治的な意図が露骨に見えている時でさえも)
ありがたがって提供される情報を受け止め、話題の一つとして
押さえ、会話のネタにしているようなことを平然と行うことに
何の矛盾も感じず、日々を送っている。
何故か?
いずれの場合も、向上心というか向学心が希薄で、
個人が必要最低限の社会との繋がりの中にあることにさえ
非常に無関心であり、それゆえに、非常に稚拙な精神の
持ち主である場合が大半を占める。
極論で論ずれば、肉体的には成熟を果たすも精神的には
非常に幼稚な者が子を生み育てており、愚かであるがゆえに、
賢く育てられないという負のスパイラルを延々と繰り広げている。
なんらかの制度や保障に守られた死を隣り合わせにしない
社会だからできることなのかもしれないが、
死を隣り合わせにしていない分だけ負のスパイラルのような
弊害が強く生まれてくる。
歴史家は言う 歴史は繰り返すと。
確かに60年から100年ほどのゆるやかな周期を持って、
何らかの衝突が発生している。
概ね世代交代が2度行われ、陰惨な歴史が記憶から
失われてしまった時に何らかのきっかけで、忌むべき
歴史が繰り返されていく。
改めて今を見つめなおしてみる。
民意が低い国家においては煽動してしまう程のカリスマが
登場してしまった場合、個人・社会・国家の尊厳を
誰が守るというのか?
ローマ帝国がいかにして栄えいかにして滅んだか?
陰惨な20世紀の戦争は誰がおこしていったのか?
利権を巡る争いは常に虚しい。
その事を教え、伝え、負のスパイラルを断ち切るべき
教育こそが国家国民の反映ではないだろうか?
一時的なマネーゲームに投じていったバブル期のごとく
今の社会の異常さをもっと真摯に捕らえるべきではないだろうか?
娯楽に満たされた社会。
私は禁欲主義者ではないし、欲得によって社会や科学が成長して
きているという歴史も、欲得に絡んだサービスが経済の循環を
生んでいる事も否定しない。
だが、娯楽に興じ続ける事には幾ばくかの危険を孕む。
かつてのローマ然り、50年代のアメリカ然り、バブル期の
日本然り、豊かである事は素晴らしいということを喧伝され、
無条件に信じ、その幻想に何時までも縛られていることは
非常に悲しい。
その反映に至るまでにはフラットな道筋だけではなく、
いつも陰惨な面やら酷く歪んだ経路を通っている。
戦後日本の焦土からの驚異的な復興は実にすばらしいものがあるが、
戦争によって多くのものが学びを受けるべき親祖の世代を失い、
復興のためにと日々努力してきた時期に、情操教育・社会性・
教育の面において、大きな欠失をしてしまったのかもしれない。
そして、産業が成育し、都市と地方との二極分化がはじまると
大家族から核家族へと家庭の単位も縮小をはじめ、それと同時に
地域社会の崩壊という教育土壌の欠失も一気に加速していく。
こうした、負のスパイラルは世代を負うごとに加速していき、
更なるモラルハザードさえ招く。
常識を、その世代が共通に持っている認識とするならば
常識は10年毎にその性格と別にしており、年を降る毎に
緩く、いい加減になっていく。
だが、これはしかたのないことでもある。
なぜなら、前述のように個人を取り巻く多様な社会性の中で
家族・友人・地域などとのふれあいの中で実際の社会経験を
通じてを学ぶ情報が次第に欠如しているからである。
だからといって、意識の低さが浸透してしまっているような
社会を築きあげてきた先人たちの功罪を問うても意味が無い。
真に自分たちの問題として捉えて、現状の打開策を早急に
打ちたて、なんらかの手を打っていかなければ、居酒屋で
会社の愚痴をこぼしながらも、自分の事を省みない者と、
なんら変わりが無い。
昨今の事件も然り、その根底には親子・家族・地域社会との
間に存在した相互扶助関係の希薄化と相互の無関心という
真の社会性を否定するような前提の中で生活しているからである。
無知である事は美徳だといわれた時代がある。
だが、無知である事は同時に非常に危険な状態でもある。
多くの人間が関連しあう大きな社会の中に身を置けば
それだけ大きなストレスを抱える事になり、
高度な成熟を必要とされる。
その事に気が付けなければ徒に人を傷つけ、人の反感を買う。
日々実践以外に、習得は無い。
実践という事に関して、
私自身ここで一つ反省せねばならない事がある。
ここは私の内面に問いかけるものやら、
思う事を反芻したり備忘録として使う目的で用意したのだが
こうして書き出すまでに、雑多な事の多くを片付けて
準備を整えるのにいくらかの時間を要した。
これは、正しくもあるが、誤りでもある。
なぜなら、ここを用意してから筆を執るまでに約半年という
時間を要したからである。
忙殺されていたからといえば聞こえはいいだろうが、実際は、
どうしても筆を執らねばなるまいというだけの優先順位と
其処までの必要性をもてなかったのであろう。
反省し、努力し、実践し、成果を修めることはやはり難しい。
知行一致して理を知るという言葉があるが、今回の記帳をもって
私も初めて物事を知った事になるのであろうか?
結果は、押して知るべし。
まだまだ時間はかかるとは思うが、実践を怠らずに居たいものである。
実践を繰り返し日々を勤しむ。
そんな日常を幾度か繰り返し、いろいろとゴタゴタしたものを
片付けていた時に、ふと思い出した一節がある。
To be, or not to be, that is the question,
Whether tis nobler in the minde to suffer
The sling and arrowes of outragious fortune,
Or to take Armes against a sea of troubles,
And by opposing, end them
これは、シェークスピアの悲劇「マクベス」の中の
有名な一節である。
この一説の冒頭
「To be, or not to be, that is the question」だけが
一人歩きしてしまった感が強いが、
ダンカン王の信頼も厚く、仁義に厚く勇猛な武将であった
マクベスがこの言葉を発するに至るまでには野心と理性と
冷静と狂気、そしてさまざまな人間関係に翻弄されていく
人の弱さや脆さを見ていくことになる。
物語の冒頭で、反乱軍討伐のために遠征した忠将マクベスは
同行した武将バンクォーと共に、遠征の帰途にであったら
魔女から二つの予言を受る
一つの予言ではマクベスがコーダの領主になり、
やがては 王にもなることが、もう一つの予言では
遠征に同行した武将バンクォーの子孫が王になる
というものだった。
そして、物語はマクベスがコーダの領主の任を受け、
与えられた予言の半分が成就したことで一気に加速する。
領主となり、予言の成就を確信し、野心に目を塞がれ、
婦人の邪悪な計略に恐れつつも、弱さに負け、 信ずる道を
踏み外し、自ら、王を殺し、その従者の謀殺という
かつての栄光とは懸け離れた行動をとり、
血塗られた玉座に就き一つの予言の成就を迎え、
更なる狂気の世界に埋もれていく。
マクベスはもう一つの予言の成就を恐れ、先王の息子と
バンクォーを狙うが、このことが逆に二人の結束を生み、
吹く風が雪領を壊し雪崩を起こして総てを呑むような
うねりの中で 狂気の世界はもう一つの予言の成就をもって
終焉を迎える。
この一節は、予言の成就を切望するあまり
自分の城で王を暗殺してしまった後に、
バンクォーが自分の城をたずねてくるまでの間に、
狂気と正気の狭間で、マクベスの最後の良心が
彼に吐かせたものなのかもしれない。
王殺しの罪を背負ったままに生き続けるべきか、
忠臣として自分の罪を、自分の命をもって購うべきか・・・
このまま運命の悪戯に翻弄されるままに生きるべきか、
王殺しから続く総てのものと戦い続けていくべきか、
どちらが高潔な生き方なのであろうか・・・。
物語の中のマクベスがそうであるように、
生き方は自分で選べるが、人は脆く弱い。
求めるものがあっても信ずるものに殉じなければ
実を伴うことも無く、徒に混乱のみを招き、
やがてはその結果に基づくものによって正される。
思うこと・考えること・行うこと・・・
物語の背景をみつめながら、現実世界の自分に敢えて問う。
この一節を・・・。
思う事と行う事の結果がなかなかかみ合わない。
目的と結果の違いに苛立ちを覚えながら過ぎ行く
日々に憂い酒を煽れば虚しさだけがこみあげる。
社会に出て生活していれば色々な事がある。
その中で自己の独立性の維持と尊厳の保護と
他者の能力や尊厳の尊守と相互のパーソナルエリアを
保持しながら、かつ、相互に理解を図ることは
非常に難しく、集団生活の中に身を置き、社会性を
漠然と認識するようになってからは、センシティブな
ものの多くのものはこれに悩み、激しく時間を消費する
無知にして残酷な幼少期とは異なり
他者に服従する事も、他者の尊厳を挫くことも、
自己の利益のために他者を辱めその利益を奪うことも
成熟した社会では往々ににして認められるべきではなく
成熟した成人男女であろうと思えば、相手に常に心を砕き
礼を尽くし、仁義を貫き、愛を持って接するよう
努力をしていくことが必要となる。
相手に対する思いやりや常識的な判断の尺度の誤りや
人間の尊厳の尊重といったことに対する認識の欠如により
自分が無意識に他者への侵害を行ってしまった場合には
相手を過度に傷つけ、恨みを買ってしまうことがある。
プライベートな場でおこった事あればいざ知らず、
パブリックな場であったのならば、その傷はなおの事深くなる。
積年の恨みを果たしたといわんばかりに、子供が親を殺したり
意に介せぬ殺人が起こる事があるが、そうした事件の犯罪者を
見ると必ず稚拙な面を曝け出すことが多い。
小学生の小学生殺傷事件に見る特異性は地域社会が
良好に機能していた時代にはまず見られなかった事であるが、
無知という愚かで無関心で不勉強というもっとも忌むべき
常態に身を置き、社会性の欠如になんら疑問を呈さない
人としての能力を放棄している無気力さが見える。
少なくとも私が幼少の頃には一切起こらなかったような事件が
当たり前のようにおこっている。
何故か?
テレビのニュースや新聞や雑誌などのメディアによって
面白おかしく脚色され、事件が風化しうやむやになるまでの間、
ただただ視聴率や販売数などの貨幣価値の尺度でのみ図られ
その公共性や公益性を度外視したものになっていることに
自ら目を伏せて、実にくだらない事象ばかりをありがたがって
日々の話題として提供している。
何故か?
そして、各メディアに対して疑問を投げかける事も無く
(そこに政治的な意図が露骨に見えている時でさえも)
ありがたがって提供される情報を受け止め、話題の一つとして
押さえ、会話のネタにしているようなことを平然と行うことに
何の矛盾も感じず、日々を送っている。
何故か?
いずれの場合も、向上心というか向学心が希薄で、
個人が必要最低限の社会との繋がりの中にあることにさえ
非常に無関心であり、それゆえに、非常に稚拙な精神の
持ち主である場合が大半を占める。
極論で論ずれば、肉体的には成熟を果たすも精神的には
非常に幼稚な者が子を生み育てており、愚かであるがゆえに、
賢く育てられないという負のスパイラルを延々と繰り広げている。
なんらかの制度や保障に守られた死を隣り合わせにしない
社会だからできることなのかもしれないが、
死を隣り合わせにしていない分だけ負のスパイラルのような
弊害が強く生まれてくる。
歴史家は言う 歴史は繰り返すと。
確かに60年から100年ほどのゆるやかな周期を持って、
何らかの衝突が発生している。
概ね世代交代が2度行われ、陰惨な歴史が記憶から
失われてしまった時に何らかのきっかけで、忌むべき
歴史が繰り返されていく。
改めて今を見つめなおしてみる。
民意が低い国家においては煽動してしまう程のカリスマが
登場してしまった場合、個人・社会・国家の尊厳を
誰が守るというのか?
ローマ帝国がいかにして栄えいかにして滅んだか?
陰惨な20世紀の戦争は誰がおこしていったのか?
利権を巡る争いは常に虚しい。
その事を教え、伝え、負のスパイラルを断ち切るべき
教育こそが国家国民の反映ではないだろうか?
一時的なマネーゲームに投じていったバブル期のごとく
今の社会の異常さをもっと真摯に捕らえるべきではないだろうか?
娯楽に満たされた社会。
私は禁欲主義者ではないし、欲得によって社会や科学が成長して
きているという歴史も、欲得に絡んだサービスが経済の循環を
生んでいる事も否定しない。
だが、娯楽に興じ続ける事には幾ばくかの危険を孕む。
かつてのローマ然り、50年代のアメリカ然り、バブル期の
日本然り、豊かである事は素晴らしいということを喧伝され、
無条件に信じ、その幻想に何時までも縛られていることは
非常に悲しい。
その反映に至るまでにはフラットな道筋だけではなく、
いつも陰惨な面やら酷く歪んだ経路を通っている。
戦後日本の焦土からの驚異的な復興は実にすばらしいものがあるが、
戦争によって多くのものが学びを受けるべき親祖の世代を失い、
復興のためにと日々努力してきた時期に、情操教育・社会性・
教育の面において、大きな欠失をしてしまったのかもしれない。
そして、産業が成育し、都市と地方との二極分化がはじまると
大家族から核家族へと家庭の単位も縮小をはじめ、それと同時に
地域社会の崩壊という教育土壌の欠失も一気に加速していく。
こうした、負のスパイラルは世代を負うごとに加速していき、
更なるモラルハザードさえ招く。
常識を、その世代が共通に持っている認識とするならば
常識は10年毎にその性格と別にしており、年を降る毎に
緩く、いい加減になっていく。
だが、これはしかたのないことでもある。
なぜなら、前述のように個人を取り巻く多様な社会性の中で
家族・友人・地域などとのふれあいの中で実際の社会経験を
通じてを学ぶ情報が次第に欠如しているからである。
だからといって、意識の低さが浸透してしまっているような
社会を築きあげてきた先人たちの功罪を問うても意味が無い。
真に自分たちの問題として捉えて、現状の打開策を早急に
打ちたて、なんらかの手を打っていかなければ、居酒屋で
会社の愚痴をこぼしながらも、自分の事を省みない者と、
なんら変わりが無い。
昨今の事件も然り、その根底には親子・家族・地域社会との
間に存在した相互扶助関係の希薄化と相互の無関心という
真の社会性を否定するような前提の中で生活しているからである。
無知である事は美徳だといわれた時代がある。
だが、無知である事は同時に非常に危険な状態でもある。
多くの人間が関連しあう大きな社会の中に身を置けば
それだけ大きなストレスを抱える事になり、
高度な成熟を必要とされる。
その事に気が付けなければ徒に人を傷つけ、人の反感を買う。
日々実践以外に、習得は無い。
実践という事に関して、
私自身ここで一つ反省せねばならない事がある。
ここは私の内面に問いかけるものやら、
思う事を反芻したり備忘録として使う目的で用意したのだが
こうして書き出すまでに、雑多な事の多くを片付けて
準備を整えるのにいくらかの時間を要した。
これは、正しくもあるが、誤りでもある。
なぜなら、ここを用意してから筆を執るまでに約半年という
時間を要したからである。
忙殺されていたからといえば聞こえはいいだろうが、実際は、
どうしても筆を執らねばなるまいというだけの優先順位と
其処までの必要性をもてなかったのであろう。
反省し、努力し、実践し、成果を修めることはやはり難しい。
知行一致して理を知るという言葉があるが、今回の記帳をもって
私も初めて物事を知った事になるのであろうか?
結果は、押して知るべし。
まだまだ時間はかかるとは思うが、実践を怠らずに居たいものである。
実践を繰り返し日々を勤しむ。
そんな日常を幾度か繰り返し、いろいろとゴタゴタしたものを
片付けていた時に、ふと思い出した一節がある。
To be, or not to be, that is the question,
Whether tis nobler in the minde to suffer
The sling and arrowes of outragious fortune,
Or to take Armes against a sea of troubles,
And by opposing, end them
これは、シェークスピアの悲劇「マクベス」の中の
有名な一節である。
この一説の冒頭
「To be, or not to be, that is the question」だけが
一人歩きしてしまった感が強いが、
ダンカン王の信頼も厚く、仁義に厚く勇猛な武将であった
マクベスがこの言葉を発するに至るまでには野心と理性と
冷静と狂気、そしてさまざまな人間関係に翻弄されていく
人の弱さや脆さを見ていくことになる。
物語の冒頭で、反乱軍討伐のために遠征した忠将マクベスは
同行した武将バンクォーと共に、遠征の帰途にであったら
魔女から二つの予言を受る
一つの予言ではマクベスがコーダの領主になり、
やがては 王にもなることが、もう一つの予言では
遠征に同行した武将バンクォーの子孫が王になる
というものだった。
そして、物語はマクベスがコーダの領主の任を受け、
与えられた予言の半分が成就したことで一気に加速する。
領主となり、予言の成就を確信し、野心に目を塞がれ、
婦人の邪悪な計略に恐れつつも、弱さに負け、 信ずる道を
踏み外し、自ら、王を殺し、その従者の謀殺という
かつての栄光とは懸け離れた行動をとり、
血塗られた玉座に就き一つの予言の成就を迎え、
更なる狂気の世界に埋もれていく。
マクベスはもう一つの予言の成就を恐れ、先王の息子と
バンクォーを狙うが、このことが逆に二人の結束を生み、
吹く風が雪領を壊し雪崩を起こして総てを呑むような
うねりの中で 狂気の世界はもう一つの予言の成就をもって
終焉を迎える。
この一節は、予言の成就を切望するあまり
自分の城で王を暗殺してしまった後に、
バンクォーが自分の城をたずねてくるまでの間に、
狂気と正気の狭間で、マクベスの最後の良心が
彼に吐かせたものなのかもしれない。
王殺しの罪を背負ったままに生き続けるべきか、
忠臣として自分の罪を、自分の命をもって購うべきか・・・
このまま運命の悪戯に翻弄されるままに生きるべきか、
王殺しから続く総てのものと戦い続けていくべきか、
どちらが高潔な生き方なのであろうか・・・。
物語の中のマクベスがそうであるように、
生き方は自分で選べるが、人は脆く弱い。
求めるものがあっても信ずるものに殉じなければ
実を伴うことも無く、徒に混乱のみを招き、
やがてはその結果に基づくものによって正される。
思うこと・考えること・行うこと・・・
物語の背景をみつめながら、現実世界の自分に敢えて問う。
この一節を・・・。