masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

有料老人ホームも終の棲家に?

読売新聞社が全国の有料老人ホーム2425ヶ所を対象に10月に行った調査結果として「過去1年間に、ターミナルケア(終末医療)を実施したうえで、ホーム内で最期まで看取ったケースはあったか?」との質問に、「あった。」と答えたホームは44%。「なかった。」は47%だったとし、その結果は4割を超える有料老人ホームが「終の棲家」としての役割を持ちつつあることを意味していると報道している。

介護付き有料老人ホームが利用者にとっての「終の棲家」として機能することは国民全体にとって喜ばしいことである。なぜならこの国における高齢期の「住まう場所」としての介護付き有料老人ホームが、最後まで面倒を見てくれるという意味であり、安心して住み続けることができる場所の選択肢が増えることだからである。

よって本当に適切な看取り介護が行われ、利用者が安心・安楽な状態で人生の最後の瞬間を過ごせているホームは、その取り組みを続けてもらいたい。

しかし本当に現状の4割以上の介護付き老人ホームが「看取り介護」を実践できており「終の棲家」として機能しているんだろうか?ここが問題である。

そもそもこの調査の前提条件である質問が「ターミナルケア(終末医療)を実施したうえで、ホーム内で最期まで看取ったケース。」という文章が問題である。ターミナルケアは終末期医療ではないだろう。積極的な延命治療を行わない終末期の介護を含めた取り組みがターミナルケアであり、介護施設でターミナルケアを行うことを「看取り介護」と称しているものだ。

ターミナルケアを直訳すれば「終末期介護」としかならないはずである。

一方「看取る」という言葉の意味自体はターミナルケアを表すものではなく「看病する」とか「臨終の場に付き添う」という意味である。

よってこの調査における結果は、回答者が本来のターミナルケアの意味をきちんと把握して捉えているとは限らず、それは単に介護付き有料老人ホームで「看取った人が4割以上いる」ということに過ぎない可能性が否定できない。つまり必ずしもターミナルケアあるいは看取り介護が実践されているとは限らず、単にそこで「死ぬ人がいる」という数字にしか過ぎない可能性がある。そうであれば本当に4割以上のホームが「終の棲家」として安心・安楽な最後を迎える援助を行っているとは言えないということではないだろうか。

そこで誰が、どのように回復不能な終末期であるかということが判断し、利用者自身や家族にどのようにその判断が伝えられ、利用者や家族が何をどのように選択でき、ホームで最後の瞬間まで暮らし続けるために、職員はどのような体制で、どのような共通理解を持って、どのように実際の支援を行っているのかが問題である。

そうした「中身」と「支援方法の実態」を検証することなくして「終の棲家」であるという判断はできないし、この回答だけで安易に有料老人ホームで、終末期のケアが適切に行われているという判断にもならない。

終の棲家という言葉を安易に使ってはならない。人生の最終ステージに他人が関わるということは、一方では重大な責任と義務が生ずるのである。確かな理念をもった取り組みがなされているからこそ「終の棲家」として安心して最後の瞬間まで自らの身を委ねることができる、という理解が不可欠だ。

終の棲家という概念は、サービス提供側の視点ではなく、利用者の視点から判断評価すべきものであるということを間違ってはならない。

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送迎事故を防ぐために。

今年も残すところ1月となった。北海道は寒さも一段と増して、間もなく街全体が冬化粧をする。そして一気に年の瀬へと向かう慌ただしい季節である。

この時期いつも気がかりになることがある。

通所サービス事業関係者に共通する「心配の種」の最大のものは送迎の安全確保ではないだろうか。特に冬道の運転は、何が起こるか分からず、本当に心配である。これはショートステイの送迎や、施設サービスにおける通院等の外出支援時もまったく同様である。

多くの通所サービス事業所では、複数の車両で送迎を行っていると思う。10人以上が乗車するマイクロバス等の運転は、大型免許を持つ運転手が送迎にあたるが、その他の車両は普通免許しか所持していない「介護職員」が担当することが多いだろう。

運転のプロが運行するわけではないので、細心の注意が求められ、くれぐれも安全運転に努めてもらいたいというのが管理者の願いである。

ところで、つい最近も通所サービス送迎中の悲惨な死亡事故が起こっている。

11月19日午後4時25分、和歌山県かつらぎ町東渋田の県道で、同県橋本市高野口町のデイサービス事業所の軽乗用車がガードレールに衝突し、乗っていた3名の通所介護利用者が死亡している。運転手は同事業所のパート職員で、手の骨を折る重傷とのことであるが、事故原因はこの職員が「運転中に急に胸が苦しくなり運転操作を誤った。」というものである。

亡くなられた方は80歳と92歳の男性、82歳の女性である。軽乗用車に乗り合いしていたということは、身体機能的にはかなり自立度が高い、お元気な高齢者の方々ではなかったのではないだろうか。こういう形で人生を終えられることは、おそらく本人もご家族も予測していなかっただろうし、遺族のお嘆きは想像して余りある。

運転業務に携わって怪我をした従業員も、過失責任は問われるだろうが、体の傷以上に、心に傷を負って、これからの人生を過ごさねばならないであろうと想像され、これも悲惨なことだと思う。

個人の過失責任を問うよりも再発防止策を具体的にどうするのかということを最優先に考えてほしい。そのなかで少しだけ疑問に思うのは、軽乗用車という事故に弱い車両での送迎がどうだったのだろうということである。

軽乗用車の事故では2007年11月23日に、徳島県阿南市那賀川町西原の県道で、同県勝浦町のデイサービスセンターの軽乗用車と乗用車が正面衝突して、デイサービス事業所の軽乗用車の後部座席に乗っていた95歳と94歳の女性利用者が死亡し、助手席の70歳の女性と運転手が重傷を負う事故が起きている。この時はサービス利用前後の送迎ではなく、通所サービス提供メニューの一環として近くの公園への外出途中であったということだ。

この時の事故原因である中央線の「はみだし」は、どちらの車両に過失があったのか僕は分からないが、正面衝突して軽自動車側の後部座席の人が亡くなっているという状況も留意が必要だろう。通所サービス送迎車に、軽自動車を利用することは、個人的にはできるだけ避けたいと感じているし、実際に利用者が乗車する車両として軽乗用車はない。

また今年はじめには、シートベルトの適切な使用をしていないことで死亡事故が起こっている。

2月19日、大阪府茨木市のデイサービスセンターが利用者の送迎中に、対向車を避けようと急停車したところ、急ブレーキのはずみで車内後部に固定されていた車椅子から84歳の女性利用者が前のめりに転落し、顔などを床にぶつけ、医療機関に緊急搬送したが、その日の午後に容態が急変し死亡したという事故である。車いす用のシートベルトをきちんと装着しておれば防げた事故であるが、当該車椅子の利用者が「お腹が痛くなるのでシートベルトはやめて。」と訴えたため「運転手の配慮」でシートベルトを装着していなかった、ことが原因である。

しかしこの判断は配慮と言えるのだろうか?あまりにリスクが大きいし、きちんと説明して送迎中のシートベルトの着用は必要だし「お腹が痛くならないように注意しますので安全のために協力してください。」という形でお願いすべきだろうと思う。どうしても車椅子用のシートベルトになじめない場合は、座席に移って対応するなど安全対策は最大限に考えられるべきだろう。

そうはいっても、同じ状況が起きた場合、とっさの判断で正しい対応ができるのか、と問われて100%間違った対応はしないと言い切れる問題でもなく、日ごろから運行上の安全対策としての最低基準は「利用者の希望のみで破ることができない。」と考えておくべきだろう。そもそも道路交通法の規定は事業者だけではなく、車両に乗車する利用者にも遵守義務があるのだから、車両への乗車の際にシートベルトを着用するというのは、現在後部座席においても義務であり、それを守るという意識を利用者自身に持っていただくことも必要である。通所事業所は、この点でも真摯に説明し理解していただく必要がある。

これから北海道は冬に向けて、ますます道路状況は悪化する。しかも雪の日などは除雪してからしか送迎車が発車できない日もあり、道路状況も混雑して、利用者宅への到着時間やサービス利用時間に間に合わない状況も多くなる。

そうした場合でも、安全運行第一で、決して焦らず、急がず、利用者が安心して目的場所にたどり着くことが何よりも優先される。当たり前のことではあるが、このことを決して忘れてはならない。

そういう意味では送迎の運転業務に関わる皆さんには、事前に「日常生活の疲れやストレス」を払いのけて、心身を充実させて、集中して運転していただきたい。

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診療報酬はどうなる?

国の予算に関する行政刷新会議の「事業仕分け」が終わった。その結果はともかく、予算編成の中身が一部であってもこういう形で「国民にみえる」ということはよいことだろう。

ところで、この中で来年度改正の診療報酬については、収入の高い診療科の見直しと開業医と勤務医の平準化など「配分見直し」と査定されたが、もともと財務省の方針が「診療報酬全体のパイは引き上げない」ということであり「診療報酬全体のパイを引き下げたうえで、医療費を抑制して、配分を見直す」という結論になっている。

これに対して長妻厚生労働大臣は「コストが引き下げられる分は、できるだけ引き下げて改定率の上昇はできるだけ抑えたい。」としたものの「診療報酬全体のパイを引き上げたうえで、配分を見直すことが必要。」として診療報酬の削減に反対している。そのために現在、厚生労働省内では独自の「新たな事業仕分け」に取り組んでいるという。

今後、政治判断でこのことが変わっていくのかが大いに注目される。

なぜなら新政権になって初めて診療報酬が改定されるというは、現政権の医療・保健・福祉対策に対する予算措置の方向性が示されるという意味があるからだ。そうなるとこれは次期介護報酬の改定にも少なからず影響してくると考えられる。

もともと民主党のマニュフェストでは「自公政権が続けてきた社会保障費2200億円の削減方針は撤回する。医師・看護師・その他の医療従事者の増員に努める医療機関の診療報酬(入院)を増額する。」とされている。つまり少なくとも「入院の診療報酬」は増額が明記されているのだ。このことの実現が図られるのか、という結果が今回の診療報酬の結論で見えるというわけである。

診療報酬は2年に1度改定されるが、今議論されている改定の次の改定は、2012年度予算に関わるもので、この時は介護報酬とのダブル改定である。

その時、同マニュフェストに書かれている「認定事業者に対する介護報酬を加算し、介護労働者の賃金を月額4万円引き上げる。」という方針が実現されるのかといことが、今回の結果で見えてくる可能性がある。

どちらにしても来年度の予算編成の結果と、マニュフェストの整合性がどのように説明されるのか、ということが最大の関心事である。

社会情勢は、ここにきてデフレの加速・ドバイショックなど、新たな景気低下懸念が生じ、財源の確保は非常に厳しいという現実があることは承知している。しかし医療や介護は、人の生命と生活を守るために不可欠なものであり、ここをおざなりにして、財源論によって予算を削ってしまえば医療や介護サービス自体が成り立たなくなる。そのことで医師や看護職員・介護職員・介護サービス従事者が必要数確保できなければ、どのような政策をとってもサービスを受けられない国民が続出するという結果になる。それでは国自体が存亡の危機に立つ。

医療を含めた社会福祉政策というものは、国を守る社会全体のセーフティネットなのだという意味を考えて予算を作るのが政治家の役割だろうと思う。
(※参照:金子教授のセーフティネット張り替え論

ここは霞が関ではなく永田町が主導すべき問題ではないだろうか。

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介護サービスは家族の介護代行ではない

介護施設や介護サービス事業所に実地指導を行う行政機関の指導担当者は「行政指導」の専門家であっても、社会福祉援助や介護サービスに関しては専門家ではない。

法令の解釈については、行政指導の専門家としてみるべきものはあっても、専門援助技術論に関連する部分まで指導できる技量があるかと言えば首を傾げざるを得ない。

援助技術について素人とは言わないまでも、少なくとも地域の中で直接利用者と関わっている機会は、社会福祉援助者と比べて格段に少ない。多くの場合、机上の空論的な技術指導しかできない人が多い。しかし介護支援専門員や介護サービス担当者を含めた社会福祉援助者が、行政指導の名のもとに、理不尽な技術指導を受ける場面がしばしばみられ、そのことに根拠ある反証ができない状況も耳にする。

そのことは介護支援専門員や介護サービス事業従事者が社会福祉援助者としての見識が問われる問題であろうと思う。現場の職員は行政職員にもっと反論できる技術や知識を身につけるべきであろう。

特養や通所介護では、特に「機能訓練」に関する内容について、行政担当者の思い込みによる「こうしなければならない」的な指導が横行している。特に機能活用と維持のための具体策が「医学的リハビリテーションエクササイズ」の方法論しか許されないような指導が目につく。

これは生活場面での自立を阻害する要因を単純に身体機能障害(インペアメント)としか考えない貧困な発想であり、それはいかにも素人の発想である。問題は身体障害や能力障害(ディスアビリティ)ではなく生活障害なのであり、 そうであるなら求められているものは単にインペアメントに手を差し伸べることではなく、社会的不利(ハンディキャップ)という不便に対して手を差し伸べて生活障害を改善するための方法論である。

そもそも廃用とは加齢軸上に想定される自然の身体機能低下より、実際の機能低下の進行度合いが早いことによって生ずる「差」を指すものである。医学的リハビリテーションエクササイズだけでは、この差は埋めることができず、廃用を進行さえないためには日常生活で自然に身体機能を使うことが一番重要である。よって生活施設や通所介護での機能訓練は、日常生活の中で、日常の動作について機能を生かす方法論に求めることは極めて論理的で合理的であり、学問としても成立するものなのである。そのことを行政指導担当者がとやかく「いちゃもん」をつけることは越権行為である。素人は素人なりに、余計な口を挟まぬことである。

ケアマネジメントもしかり、である。反論できない介護支援専門員の質はともかくとしても、ケアマネジメントによって導き出されたサービス内容を「それは過剰サービス」であるという行政担当者の意見はほとんど根拠に欠けるものが多い。

専業主婦である嫁が主介護者であるなら、毎日の身体介護は過剰サービスであるとか、仕事を持たない主介護者がいるなら通院支援は介護者がすべきで、乗降介助も使えないとか、要支援者のショートスティは必要性が乏しいだとか、馬鹿馬鹿しい指導が多すぎる。

訪問介護の生活援助に同居家族の有無による制限は存在するが、身体介護については介護者の有無は問われず、その必要性は、家族介護が限界に達したときのみではなく、長期間の介護を継続できる環境を構築する視点から求めるものであり、主介護者が「できる行為」=「必ずしなければならない行為」と判断するわけではない。

家族ができることであっても、その家族が一時的・意識的に「休むこと」も必要であり、その間の支援行為を専門家に任せることが必要である、という判断をすることがケアマネジメントである。その判断は極めて個別な状況で行われるもので、それは単純に家族ができる行為をプロが代行することではなく、介護のプロが介入することで、よりよい暮らしの実現を図ろうとするものであり、行政担当者の価値観や一般論で否定できるものではない。

ケアマネジメントが導き出すサービスに対するいたずらな否定は、単なる給付抑制に過ぎなくなり、結果的にそのことは要介護者・利用者本人に不利益となる。その不利益の結果は、さらなる生活障害を生み、生活の質は低下する一途だろう。この責任はだれが取るのか・・・。

給付抑制的な指導に走りがちな行政担当者の一番の誤解は、介護サービスが単なる家族による支援の代行業務だと思っている点である。そこが根本的な間違いの源だ。

介護サービスは家族の支援代行ではなく、介護のプロフェッショナルによる専門技術に則って行われる援助である。よって家族のあるなしに関わらず、介護者の能力に関わらず、必要とされる人には提供されるべきサービスなのである。その理解がないと、いつまでも介護給付費適正化事業という名の給付抑制はなくならない。

そのためにも現場の介護支援専門員や、その他の介護サービス従事者は、自らの仕事の正当性を説明できる知識と技術を磨くべきである。

ケアマネジメントの理解が乏しい介護支援専門員など存在意義がないということを理解せねばならない。

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いいふろの日に思う。

本日11月26日は、その数字の語呂合わせから「いいふろ」の日とされている。

当施設は登別温泉のすぐ近くにある施設だから、当然温泉浴室があり、それは365日24時間を通じて利用できる「源泉かけ流し」の天然温泉である。

この温泉は、施設利用者だけではなく、デイサービスのサービス提供時間中は、デイ利用者も利用するし、看取り介護対象者の家族が施設に宿泊している間は、夜にゆっくり入浴を楽しんで心身をリフレッシュしていただくために利用されたりしている。
(参照:温泉浴室のページ

ところで入浴というものは、日常生活の中で非常に意味の大きいもので、特に「湯船に浸かる」という文化を持つ日本人にとって、それは単純に身体保清のためだけではなく、特別な意味のあるものだ。
(参照:入浴を考える〜日本人の文化として ・ 大浴場の効用〜個浴とは比較できないこと

当然老人ホームのサービスにおいても入浴支援は重要である。しかし入浴支援の方法は、この20数年の間に大きな考え方と方法論の転換が見られている。

当施設が開所した昭和58年当時は(その頃は現在の温泉浴室はなかった)老人ホームにおける一番の課題は「入浴日」にいかに職員配置をして「全員を入浴させることができるか。」であった。

何しろ、50人の定員施設で、当時の介護職員は配置基準ぎりぎりの11人(開所から半年後に12人に増員)、看護職員2名、相談員1名であった。しかも現在のように掃除や洗濯に専従する職員が別に配置されているわけでもなかったので、掃除や洗濯などの間接的日常生活支援もすべて介護職員の仕事で、入浴支援を介護職員だけで行うことは困難で、特浴の搬送等の介助には、事務職員なども手を貸して、やっと入浴支援が可能な状態であった。

当時は「入浴日」というものが決まっており、それは当施設の場合、週2回・火曜と金曜で、その日は午前が特浴、午後は一般浴(中間浴さえ存在していなかったから車椅子利用者で特浴対象者ではない方は2人の職員で抱えて浴槽に入るか、浴槽に入らずシャワーだけという方もいた。)とされており、まさに一日中お風呂の介助の日であったのである。

しかも入浴日に職員配置を事務職員も含めて集中配置するわけだから、入浴日が祝日に重なれば当然のように入浴日がずらされるわけで、入浴できる日が週2回は確保されているとはいっても、場合によってそのサイクルは変えられ、時には5日ぶりの入浴機会であったりするわけである。

つまり特別養護老人ホームの運営基準の第16条第2項「特別養護老人ホームは、一週間に二回以上、適切な方法により、入所者を入浴させ、又は清しきしなければならない。」は昭和40年代に作られたものであるが、この基準が実質「最低基準」ではなく「最高基準」という扱いで運営されてきたのが昭和50年代〜60年代であったろう。そうなるとショートステイの利用者は、入浴日ではない日に入所して利用中に1度も入浴日がないことにより「入浴することができないまま」退所することも多かったわけである。ショートステイ期間中に入浴したい場合は、入浴日に合わせた利用が必要だという状態である。

今の施設サービスでは考えられないことである。現在では入浴日というものはなく、毎日入浴支援が行われ、毎日入浴したいという方は当然毎日入浴できるし、毎日ではないが就寝前の夜間入浴も可能である。ショートステイの利用者が入浴日を気にする必要はない。当然、入浴支援と同時並行的に、入浴しない利用者に対し様々なサービスが行われている。

このような支援方法に変わったきっかけは当時の「入浴日」の考え方に対する疑問から始まっている。「入浴日=お風呂の介助の日」というのは、よく考えれば職員側からの視点でしかなく、利用者にしてみれば、自分は1日のうち30分程度入浴していたとしても、それ以外の時間について、自身は「お風呂」となんら関係のない時間を過ごしているわけで、毎日の日常と同じ生活支援が必要なわけである。しかし「入浴日」という施設が決めた日課のあわただしさの中で、入浴業務に忙しい職員に気軽に声をかける、という状況になり難かったように思う。

そのため入浴日に「入浴を待つ人」あるいは「入浴を終えた人」が何もすることがない、という状況が放置されているのではないかと議論され、入浴日に「入浴支援に全く関わらない介護職員」を配置して、その職員が様々な工夫で利用者が楽しんで過ごせるサービスのアイディアを出すことにしたのが入浴支援方法が変わるきっかけであった。

当然現在の方法に至るまでには様々な試行錯誤があり、職員の増員や、設備の増改築など多額の予算執行を伴うものもあったわけであるが、そういう流れを作り、現場を動かしてきたのは、現場の職員の想像力と創造力である。そしてその背景には「サービスをもっとよくして利用者の暮らしを豊かにしたい。」という職員の思いがあったわけである。

しかし現在の方法は当時よりはベターであるが、ベストとは言えない。これからも利用者のニーズに対応したサービスの向上は常に必要なわけであり、それがどのような方向に向かうかは現場職員の感性とアイディアにかかっている。そういうことを常に考えて、利用者の思いを職員が代弁して、検討議論されたものが実現できる職場でなければ、介護に携わる職員のモチベーションは維持できないだろう。

良いサービスを提供して利用者の暮らしが豊かになることが、介護に携わる者のモチベーションであり、そのための「思い」が実現できることが、職業として「介護」を続けて行く「動機づけ」なのだから、このことは介護サービス経営の問題とも深く関わってくる。

収益率も経営視点としては大事であるが、利用者の暮らしは二の次で、収益しか追わない経営者のもとに、将来的に介護職員は集まってこない。そしてそれが原因で介護サービス経営ができなくなる、という事態も現実的なものになってくるだろう。

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地域包括支援センターの役割を考える。

今更言うまでもないが、介護保険制度で規定されている地域包括支援センターは、単に地域の介護予防計画を作成するセンターというだけではなく、地域における高齢者の総合相談センターとしての機能を持つ。

困難ケースに対応したり、虐待事例に対応したり、地域の居宅介護支援事業者のケアマネジメントに対して教育や指導を合わせて行うなど、介護保険制度外の支援も含めた包括的マネジメント機能を備えた高齢者介護のセーフティネットとしての役割を持つ機関である。

地域包括支援センターは市町村の機関であるが、市町村から別法人に事業委託運営させることが認められている。

しかしこのことが大きな問題で、市町村の委託を受けるといっても、地域で介護サービスという同じステージで営業を行っている特定の法人が、地域包括支援センターを委託運営することは、よほど公益性に気を使わねば「うがった見方」をされる恐れがある。

つまり地域包括支援センターを、居宅介護支援事業所や介護サービス事業所を持つ法人が運営しているとしたら、地域包括支援センターという相談窓口あるいは介護予防計画の窓口が、そのまま顧客確保の窓口になるんだから、地域の他の事業者に利用者を公平に適切に紹介することができるのかという疑問が生じかねない点である。

いくら担当者が公平・公正に、利用者にとって最も適したサービスを結びつけていると主張しても、地域によっては困難ケースしか「回ってこない」という不満を抱く事業者が出てきたり、地域包括支援センターに逆らえば「顧客を紹介してもらえない」と考える事業者が存在することになってしまう。これは地域福祉を考えると健全な状態とはいえない。そういう誤解を生じない信頼関係を築く努力が地域包括支援センターの活動と、その担当者に求められる。

そもそも同じ土俵で営業活動をしている法人が、地域の包括的ケアマネジメントやセーフティネットという役割を担う総合相談機関となること自体が大きな矛盾なのである。これは制度上の欠陥と言えるのではないだろうか。

しかも厄介なことに、このことから地域包括支援センターが「偉い」と勘違いして、地域の介護事業者を従わせること権限があると勘違いする包括職員が存在する地域がある。
(※この点、我が地域は、そういうことがまったくといっていいほどないので、これは地域包括支援センター担当者の皆さんが誇ってよいことだろう。)

地域包括支援センターが地域の居宅介護支援の指導的役割を担う意味は、そこの主任ケアマネジャーが誰よりもケアマネジメントに精通して、スーパーバイザーの役割を担うという意味なのであり、職権を笠に着るものではないことを自覚してもらいたい。勘違いしてはいけないのである。

もともと地域包括支援センターは「新予防給付」といわれる「介護予防」とセットで制度に取り入れられた経緯があるが、予防給付と介護給付を区分してしまったため、介護保険によって確立されたかに見えた高齢者支援の「ワンストップサービス」が崩壊してしまった。
(参照:ワンストップサービス後退の爪痕

そういう意味では地域包括支援センターの存在意義として、在宅介護支援センターが地域の高齢者介護の中核機関だった当時と比べて高まっているのかという結果が問われてくることになるだろう。

地域包括支援センターの役割を考えた時、この機関が必要ないということはあり得ないのだから、担当する職員の方々の、地域福祉の担い手としての意識と倫理観が何よりも必要である。

しかしそもそもの間違いは、給付抑制を看板にした予防給付を作って、介護給付と予防給付を別物にしてしまったことにあるのだろう。この見直しを行わない限り、予防サービスと介護サービスの分断による矛盾と欠陥で、介護保険制度は機能不全に陥ることだろう。

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苦しゅうございます・・。

本年10月6日、福岡地裁久留米支部第1法廷において91歳の女性被告に「懲役3年・執行猶予5年」(求刑懲役4年)の判決が下された。

罪状は61歳の次女に対する「承諾殺人罪」である。とはいってもそれは心中を図った結果である。

起訴状によると事件は2008年7月30日午後9時頃に起こった。自宅で、次女に承諾を得て睡眠薬を飲ませ、ビニールひもで首を絞め、窒息死させたとされたものである。母親は自らも睡眠薬を飲み、ビニールをかぶったが一命を取り留めた。

次女は夫を亡くした1987年から精神科病院の入退院を繰り返していた。07年の正月、やせこけ一時帰宅した娘が「病院でいじめにあっている」と訴えた。母親は周囲の反対の声を無視して「自分が娘を治してみせる。」と自宅に娘を引き取った。事件はその5カ月後に起きた。

2人が交わした最後の言葉は「一緒に参ろうか。」「ばあちゃんそうしよう。」であった。

遺書に連名で署名し、2人はベッドの横に並び手には数珠を握らせていた。

裁判でこの母親は「1人だけ残って苦しゅうございます。娘も苦しかったろ。すまんやった。」と涙を流し、孫にあたる次女の息子に「たった1人のお母さんを殺してすまんかった。」と謝罪した。孫は証人尋問で「祖母は本当に苦しんでいた。責めるつもりはない。何で気付いてあげられなかったのか。」と悔恨の言葉を述べている。

判決の際、裁判長は「一人で悩んだ末に心中しようとした動機は思慮に欠け短絡的である」と指摘する一方「経緯には同情の余地がある」として「深い愛情で献身的に介護をしてきた。」「介護をしてきたことは立派だったと思います。天寿を全うし生きてもらいたいです。」と語りかけた。
西日本新聞記事より一部抜粋)

いかなる理由があろうと人の命を奪うことは許されないが、愛する娘と共に死のうとした母親の追い詰められた精神状況を指弾するのは酷である。それより、同じように追い詰められた人々を生みださないために何が必要なのかを、この国の全ての人々が真剣に考えねばならない。

介護保険制度が始まった2000年から09年10月までに、全国で高齢者介護をめぐる家族や親族間での殺人、心中など被介護者が死に至る事件が少なくとも400件に上っているそうだ。ただしこれは公表された数字のみで、実際にはもっと多くの被害が出ている可能性が高いそうである。

また20日に発表された厚生労働省調査では65歳以上の高齢者への親族による虐待の相談や通報を受け、自治体が加害の事実を確認した事例が08年度は1万4889件に上り、前年度より12.2%増えているという。

様々なストレスや問題を抱えている人々が、この国には数多く存在しているのだ。しかしこの数字だけを見て、介護とは暗く不幸なものだと考えるのは間違いである。多くの人々は、介護によって暮らしを支えられ、介護によって新たな人間関係を構築し、介護によって新たな幸福を手に入れているのも事実である。

しかし物事には光と影の両面があって、光がさす場所がある反面、光の当たらない場所で不幸は静かに進行し、取り返しのつかない結果が生まれているということだろう。

これを単なる制度論に置き換えて「制度が悪い」「政治家が悪い」と結論付けるのは簡単であるが、それだけでは何も変わらない。制度が全ての人々に幸福をもたらすように変えていくことは必要ではあるが、それには長い時間がかかる。

制度が悪いから事件が増えているのではなく、少子高齢社会の進行に、世の仕組みや世間の意識が追いついていないことから深刻な問題が表出してきているという考えが一方で必要だ。

さらにいえば制度とは人間が作り出す「文章」であるから完全形はあり得ない。制度だけで人間生活のすべてを良くすることは不可能なのだ。例えば高齢者福祉制度は高齢者一般として一括処理されており、確かにそれによって、ある特定個人は生活が守られ福祉実現に近づくが、制度が真に個人に役立てられ、個人の福祉を確保するためには、その個人を焦点とした、きめ細かな援助活動が不可欠になる。

しかも制度がカバーするものは人間生活のごく一部分にしか過ぎない。だから制度だけで人は救えない。

制度の光を社会の隅々に、あまねく届けるために、我々は何をすべきなんだろうか。

前述の裁判の法廷で、被告の孫に当たる被害者の子が「何で気付いてあげられなかったのか」と語っているように、周囲の人が気付くことによって救われる人々もいるはずである。

しかしプライバシーを守る現代社会において、向こう3軒両隣の人間関係は「わずらわしさ」しか感じない人々が増えており、地域社会から「おせっかい」がどんどん減り続けている。大群衆の中で個人は孤独に陥っている。

しかし制度の光を届ける担い手は、行政だけではなく、地域そのものなのだから、地域での人間関係の再生や、他人への興味と思いやりを育てる「教育」というものが制度改正とともに重要視されるべきなのではないだろうか。

地域社会の小さなことに関心をもって、すこしだけ「おせっかい」を増やしていくことが必要とされていることなのかもしれない。

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介護の「割れ窓理論」

僕が自身の講演などで時々紹介する「介護サービスにおける割れ窓理論」については、このブログ記事でも過去に何度か紹介したことがある。

この理論自体は僕のオリジナルで、今から6年以上前に提唱したものだ。

しかしこのベースになっている「割れ窓理論」は、犯罪心理学の中では有名な理論で、僕はその犯罪心理学の割れ窓を、介護サービスにおいては介護を提供する側の「言葉」に置き換えて正しい言葉を使う意味を説いているところがオリジナルなのであって、割れ窓理論自体がオリジナルという意味ではない。

もともとも「割れ窓理論」とは、言葉のとおり、建物の窓ガラスが割られた状態をそのまま放置しておくと、外部からその建物は管理されていないと認識され、割られる窓ガラスが増える。そしてそのことがきっかけで建物全体が荒廃し、それはさらに地域全体に拡大し地域に犯罪が増え荒れていくという理論である。

この理論の証明に関連して、アメリカのニューヨークでの次のような実験が行われたことがある。

犯罪の多いハーレムという地域の路上に、新品のカーオーディオを搭載したロールスロイスを路上駐車しておくと、最初の2日間は何も起こらなかったが、3日目の夜中にドアミラーが壊されたことをきっかけに、フロントガラスが割られ、車内のカーオーディオはじめ、ありとあらゆる車載部品が奪われ、最後にはタイヤさえも盗まれてしまった、という実験である。

最初、ドアミラーが壊されるまでは無傷だった車が、ドアミラーが壊されたということがきっかけで、あっという間に廃車同然の姿になってしまうのである。

この実験を教訓にして、小さなほころびをその時点で繕うことによって大きな犯罪が防ぐことが可能になるという理論であり、その実践は悪名高いニューヨークの地下鉄犯罪を減らすために、地下鉄車両や駅の「落書き」を消すことによって一定の効果があったとしているものである。

簡単に言えば些細なことと放置しておくと、 その地域の結束や自治能力が失われていく、 それに気づかず放っておくと、 どんどん悪化してしまう。 それを防ぐには、率先して小さな割れ窓を修理して、あらたな割れ窓を作らないことで、地域を改善していこうという理論である。

僕は介護サービスにおける最初の「割れ窓」が、支援者の言葉遣いであると思っている。どのような素晴らしい理念とモチベーションを持っている介護者であっても、その言葉が乱れることで、知らず知らずのうちに利用者に対する「慣れ」や「惰性」による心づかいの乱れが出てくるという理論である。

親しみを込めたコミュニケーションのためには、堅苦しい言葉づかいは必要ないと考える人もいるが、しかし我々がお世話している高齢者の方々は、我々にとってすべて人生の先輩であり、多くの場合、家族がいて、家族にとっては尊敬する「お父さん」や「お母さん」である。そういう人々にあえて言葉づかいを乱して、友達言葉でフレンドリーにふるまう必要はない。我々は家族に代わって、家族と同様の心のこもった支援をする必要があっても、家族そのものにはなれないのだから、家族であれば許される横柄さまで真似る必要はないのである。

心のこもらない言葉など無意味だという人もいるが、言葉づかいを柔らかく、適切に心かげることは態度を和らげ、適切な方向に向かわせる効果もある。

このことを僕は、言葉が変われば心が変わる〜心が変われば態度が変わる〜態度が変われば自分が変わる、と表現している。逆に言えば、言葉くらいという感覚が現場を麻痺させるのである。友達言葉で高齢者と会話する人間が、それらの方々を人生の先輩として敬う心を持って介護にあたれるわけがない。言葉により介護者が利用者を見下ろす位置に立つ恐ろしさがあることを知るべきだし、虐待はまず言葉から態度へと変換するという意識を持つべきであり、それはプロ意識の欠如にほかならない。

常にプロとして適切な支援態度を維持しようとするなら、日ごろの言葉づかいを適切にするという意識が不可欠なのであり、丁寧な言葉づかいをしている状態で、態度だけが荒れるという可能性は低くなる。つまり言葉づかいを適切にする、という意味は、介護の質を一定水準に保つための担保の一つなのである。

介護サービスにおいては「燃え尽き症候群」に陥る人も少なくないが、その兆候は第1症状がささいなことで腹を立てる、乱暴な言葉づかいをするなど「イライラ・不平・不満」であるそうだ。

そういう意味では「適切な言葉」を守ろうとしている人は、自分の心の乱れを言葉でチェックすることも可能になるかもしれない。さらにいえば「乱れた言葉」「ぞんざいな言葉」を日常的に使うこと自体が自らの心を乱すもとであると言えなくもない。

どちらにしても言葉に対する意識の薄い職員が介護職員の大多数を占めているとしたら、それはこの業界全体がプロ意識に欠ける素人集団の域を脱していないということの証明のように思う。

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赤い似顔絵

今日はボジョレーヌーボーの解禁日だそうである。僕はワインも嫌いではないが、このボジョレーヌーボーはまったくといってよいほど「旨い」と思わない。

だから世間の喧騒とか、浮かれぶりの意味がわからない。皆、このワインを本当にうまいと思っているのかなあ〜。僕は赤ワインならボルドー産のタンニンレベルが高い「渋みの強い」ワインの方が好きである。

まあそれはともかく、今日はそういう日であるから、お酒に関する話題を書くことにする。

僕の二男がまだ幼稚園児の時のこエピソードである。(ちなみに彼は今18歳である)

父の日を記念して「お父さんの似顔絵」を書いて市内のデパートがそれを展示するという企画があった。その時、二男が書いた僕の絵は、顔の色が最初は肌色に塗っているようなのであるが、その上に赤を塗り、顔全体が真っ赤に書かれている。

この絵を見て、僕の妻は二男が色の認識ができないような、なんらかの障害を持っているのではないかと本気で心配した。・・・・・ところが・・・である。

「どうして顔の色が赤いの?」と聞いた妻に対する二男の答えが奮っている。「これパパがお酒を飲んだときの顔、パパはいつもお家でお酒を飲んでるから!」というものである。

結果的に、僕の似顔絵は「赤い顔」のままデパートの展示会場に貼られ、二男の名前を見た知り合いの幾人かには、なぜ顔が赤いのかを問われる結果となり、それによって僕の「のん兵衛」ぶりが多くの人々にばれてしまうことになった。

悪いことに、職場の同僚にもそのことが知られ、飲み会などで、ずいぶん長い間、酒の肴にその話題が使われた。まったく迷惑な話である。だから子供が幼い若い人々には是非、子供の前では格好いいお父さんとしてふるまっておいた方が良いとアドバイスしたい。そうしないと、似顔絵に何を書かれるかわからないぞ。子供は正直なのである。

ということで僕は正真正銘の「のん兵衛」である。北海道では「ノンベ」とも言われる。だからこのブログでも「masaの日本酒道」という特集記事も書いている。

しかしビールはあまり好きではない。夏の暑い日に運動で汗を書いた後にグビリとやるビールは「旨い」と思うが、それもせいぜいジョッキ1杯目のみである。普段の飲み会で乾杯の最初を「とりあえずビール」というのは、この地域でも同じであるが、僕はこの「とりあえず」も、できればビール以外でしたいと密かに感じてしまうことが多い。

僕が一番飲んでいる酒の種類はウイスキーである。そして最近、ウイスキーのソーダ割り、つまり「ハイボール」にはまっている。夏の暑い日に、一汗かいて、風呂に入った後に、ジョッキに氷とウイスキーとレモンを入れて、ソーダ水で割り、グビッと一気に飲み干すのは至福の時である。ビールよりよほど好みにはあっている。飲み過ぎには注意はしているのであるが・・・。

しかも最近悪いことに、コンビニでも買える缶のハイボールが売り出された。これがまたうまいのである。炭酸が強めで僕の好みにぴったりである。こういうものが売られていると、ついつい飲み過ぎてしまうのである。つい最近も札幌でシンポジストを務めた後、懇親会に参加して、自宅に帰る特急列車の中で「一人2次会」として缶のハイボールを2缶飲み干した後に眠ってしまった。そのため降車駅を乗り越して、迎えに来た妻からの電話で起き、あわてて次の駅で降りたりしたものである。ノンベで得をすることはないのである。

もう息子たちが、僕の似顔絵を書くことはないだろうが、相変わらず親父はノンベで、いつも酔っぱらっていると思われるのも癪(しゃく)なのであるが、こればかりはなかなか自制がきかない。

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ケアマネとサービス担当者の関係論

介護保険制度における居宅サービスは、サービスを現物給付化するためにケアプランを作った上で利用することを原則にしている。
(言うまでもないが、ケアプランンのないサービスは償還払いであり、一旦10割分の費用負担が必要になる。)

このケアプランは自己作成(セルフプラン)が可能であるが、そうでない場合、居宅サービス計画(ケアプラン)は、居宅介護支援事業所に所属する介護支援専門員しか作成することができない。セルフプランは給付管理を市町村の担当課が行わねばならないことと、複雑化した制度下でのサービス調整が難しいなどの理由により作成割合は低く、大多数のケースで居宅介護支援事業所の介護支援専門員(以下ケアマネと略す)が計画を作り、利用者支援に関わっている。
(参照:セルフプランの限界1 ・ その2

そして居宅サービス計画を立案するケアマネは、利用者の担当ケアマネとして総合的にサービス調整して所属の異なる様々な事業者のサービス担当者と連携してチームを作り、その中心的役割を担うことになっている。

しかしこの「支援チーム」の中の人間関係は複雑で微妙なものがある。もともと所属する事業所が違う場合が多いのであるから、職場内のような組織の中の関係があるわけではないし、職域や職制・階級によって役割や権限が明確になっているわけでもない。

あるのは介護保険制度上のケアマネジメントというルールによるものだけで、ケアマネジメントの中心をケアマネが担うというだけである。

つまり「役割」としての業務分掌はあり得るが、上下関係はない、という意味である。

ケアマネとサービス担当者のどちらかが偉いというわけではなく、あくまでケアマネジメントにおける連携の要をケアマネが担うということであり、そうであれば意見が割れた際に、職場の中の意思決定過程のように管理者責任で職制上の責任ある立場の者が最終決定する、ということと同等の権限をケアマネが担っているか?という点は疑義が生ずるところである。単に居宅サービス事業所は「居宅介護支援事業者その他保健医療サービス又は福祉サービスを提供する者との密接な連携に努めなければならない。」ものであり「居宅サービス計画が作成されている場合は、当該計画に沿った指定訪問介護を提供しなければならない。」であり「利用者が居宅サービス計画の変更を希望する場合は、当該利用者に係る居宅介護支援事業者への連絡その他の必要な援助を行わなければならない。」という義務があるに過ぎない。どう考えても職制上の上下関係とは異なるのである。

だからケアマネジメントのチームにおける意思決定過程に、トップダウンとか、ボトムアップという思想は生まれにくい。それゆえに意思決定過程が常に曖昧であるという問題も生ずるのである。どちらにしてもサービスチームの中では、各サービス事業所の担当者がケアマネをチームの要という位置づけを認めて、利用者への適切な支援の観点から、その活動に協力するという姿勢が不可欠である。

しかしケアマネと事業者の関係は、サービスの需要と供給バランスによっても立場や関係が微妙に揺れているのが現実である。

例えば通所サービスで、サービス過剰地帯であれば、地域のケアマネに自事業所の利用計画を立ててもらうことが顧客確保につながることになって、意識する・しないに関わらず、サービス事業者は担当ケアマネに「お願いする立場」になる可能性が高い。これはチームの中の役割とは微妙に異なる関係意識である。

逆にショートステイの場合は、常に満床で予約が必要という地域においては、ケアマネが事業者にお願いする立場で、物言いに失礼があってショートサービス事業所担当者に嫌われればケースを受けてくれない、なんていう奇妙な関係になっている場合がある。

しかしこれらは介護サービスの専門援助関係としてはおかしい。サービスの需要がどうあろうとお互いの専門性に立脚した対等の立場の中で、ケアマネを要にしたチームであるという前提を尊重せねばならない。

僕の施設・事業所の立場は、まさに前述の両者の関係を合わせもっており、ショートは需要過多、デイサービスは供給過多という面が地域事情としてあるが、だからといって担当ケアマネに対して態度を変えることはない。デイの利用者の紹介をお願いしなければならないものの、居宅サービス計画がきちんと期限内に送られてこない場合は、それをきちんと要求するし、ショートステイがどんなに利用率が高くて調整が大変でも、ケアマネに対してもきちんとした報告をサービス事業所として行っている。この部分の大原則を守る視点がないケアマネジメントやチームケアはあり得ないのである。

医療系サービスの訪問看護なども、医師の指示が絶対で、ケアマネの計画など後付けでよいと考えるのは間違いだし、居宅サービス事業所も居宅介護支援事業所も相手の顔や立場で態度を変えるのではなく、あくまで地域の中でいかに適切なサービス提供をするためにチームとして関わるかということが重要なのであり、その視点を持てない人はプロフッショナルにはなり得ない。

アマチュアで結構という仕事であれば、それは誰にでもできるもので、資格も自覚もモチベーションも何もかもが必要なくなってしまう。

そんな仕事に誇りを持てるわけがない。

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ネガティブキャンペーンの爪痕

昨日の記事で検証した「介護雇用プログラム」は、介護労働重視者を増やす政策の一環で、そのことは中身の賛否があっても、一定の評価をして良いと書いた。

しかしこの政策でターゲットにしているのは、あくまで「離職を余儀なくされた非正規労働者・中高年齢者等の失業者」である。

一方、介護労働現場で現在一番深刻な問題は「若者の介護離れ」である。介護福祉士養成校の定員割れなど、介護を職業にしようという「動機づけ」を持つ若者が減っていることが大問題である。特に高校生が「介護福祉士養成専門学校に進学したくない。」という状況がここ数年の間に増大している。結果として介護福祉士の養成校の数が減ったり、クラス数が減ったり、1クラスの定員が削減される、という状態が生まれている。

この要因は様々あるのだろうが、僕が知る教職関係者によれば、高校の進路指導の担当者などが「介護サービスの待遇が低い」という理由で、将来的に生計が立てられる見込みがないとして、進路として勧めない、という状況が少なからずあると聞く。場合によっては介護福祉士の専門学校に進学希望を出しても、将来の見込みが立たないから進路を考えなおすような指導が現実に行われていると聞く。

これは深刻な問題である。

確かに介護職員の待遇は高いとは言えないが、しかし進路指導に影響するほど、その待遇が「低い」とされているのは、介護給付費改定に関わる一連の運動の中で「介護給付費アップ」の理由を「介護労働対価の低さ」によって求めようとしたネガティブキャンペーンの影響があることを否定できない。

もちろん民間営利企業が参入しているサービスであるから、利益を生むために人件費を圧縮して運営している事業者も多く、非正規労働者を中心にサービス提供している事業者では一人当たりの労働単価が著しく低く算出される傾向もあり、このことは「作られた数字」ではないことも事実である。

しかし一方では、地域の全体の給与水準と比較しても決して待遇が低くはなく、むしろ「高い」状態で維持している事業者もたくさんあるはずである。特に厳しい経済情勢下で、給与や賞与の削減が続けられている民間企業が多い半面、介護サービス事業においては、過当競争などで顧客確保が著しく難しい事情があるサービスを除いて、収入は安定増加の見込みが立てられるのだから、給与や賞与の水準を維持している事業者も多いだろう。

特養は措置費の時代、国家公務員に準ずる給与水準が実地指導でも求められており、給与規定等も基本的に国家公務員に準拠して作られていて、介護保険制度以後もその規定を大きく変えていない施設が多いのだから、正規職員の給与は決して低くないはずであり、昇給ベースも保たれているはずである。

非正規職員の割合が高くなっている傾向はあるが、例えば僕の施設の場合、正規職員以外の「契約職員」であっても給与ベースは正職員と変わらず、昇給も同じ基準で、賞与もある。正職員との違いは、一部の手当と退職金制度が適用されないことと、賞与の支給率が違うことである。他事業所や他の業種の正職員といっても、手当もほとんど同じだし、場合によってはそちらの方が昇給規定や賞与がない場合もあるのだから、それらの正職員より待遇が良い場合も多い。

現実に民間が経営母体であるグループホームの正職員より、当施設の契約職員の年収の方が多いという状況が生まれている。この傾向は就労年数を重ねるほど顕著になる。だから介護サービス従事者の待遇は事業者間格差が存在するという理解も必要である。

まして介護福祉士の養成校の新卒者であれば、正職員として雇用されることが確実であるから、少なくとも僕の施設に雇用された場合に、それらの方々が将来、給与が低くて路頭に迷うなんて状態にはならないと考えている。

きちんとした事業者であれば、決して待遇は(高いとは言えなくとも)地域社会の他業種に比べて低いということにはならないのである。介護という尊い業務に就いて自らの生活設計もきちんと立てられるという実情があることを訴え、ネガティブキャンペーンで過度に「待遇の低さ」が喧伝された負の遺産を払拭する取り組みが必要だ。

もちろん同時に、事業経営が成り立って、職歴に応じた労働対価を渡していける介護報酬ベースの引き上げの運動は継続して必要であるし、報酬アップ分や処遇改善交付金などを利用した職員給与の引き上げを実行することも必要であることは言うまでもない。介護サービスの質を担保するためには、ある程度経験を重ねてスキルアップした職員がリーダーとして活躍することが不可欠であり、そういう人材に経験とスキルに見合った報酬を渡さねばならないからである。さらに給与以外のモチベーションとなる「介護労働の素晴らしさ」を様々な側面から訴えていくことも必要であろう。

しかし何より介護福祉士養成校を卒業して、介護施設で正職員として雇用されれば、それなりの待遇が保障される、という「正しい」社会的認知を得る努力も不可欠ではないのだろうか。

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介護雇用プログラムをどう評価すべきか。

介護施設等で働きながら介護福祉士やホームヘルパーの資格を取得する「介護雇用プログラム」の要件が緩和されると共に、政府はその積極的活用を呼び掛けている。

この「介護雇用プログラム」は介護現場の人手不足の打開策になるのだろうか。どのような影響が考えられるのだろう。

僕はこの事業自体の内容を熟知しているとは言えないが、現時点で理解していることをまとめると次のようになる。

(1)各都道府県が緊急雇用創出事業臨時特例交付金の交付を受けて基金をつくる。
(2)各都道府県は基金をもとに介護施設に緊急雇用創出事業を委託する。
(3)事業委託を受けた介護施設は、離職を余儀なくされた非正規労働者、中高年齢者等の失業者について、有期雇用契約労働者として雇い入れる。契約期間は、ヘルパー2級を目指す場合は1年間で、介護福祉士は最長2年間。
(4)介護施設は有期雇用契約労働者を当該施設において介護補助労働を行わせるとともに介護資格取得のための養成講座を受講させる。
(5)雇い入れ期間中の賃金と講座の受講料には委託事業費を充てる。

10/30に出された通知では、
1.都道府県の事業要件として、事業費について新規雇用失業者の人件費割合を7割以上から2/1まで引き下げた。
2.雇用期間を6ケ月未満から1年に延ばし最長2年まで延長を認めた。
3.雇い入れ事業所外での養成講座の受講は不可とされていたものが可となり、資格取得方法が緩和された。

介護福祉士の資格取得コースのモデルによれば、1週間の通常授業を月〜金とした場合(土日は休み)、金曜日を除く月〜木が授業時間は休み時間を含め7時間20分(授業時間は360分)で、授業の前後どちらかを選択して施設で介護補助労働を2時間または3時間行うことになっている。

例えば夕方実務パターンでは月〜木が、朝9時に授業を開始して16:20に終了。その後移動時間を40分とって午後5時に施設に到着して介護補助労働に2時間従事して午後7時で終了。

金曜日のみ授業が90分のみで10:40に開始され12:10で終了。移動時間を経て16:00〜19:00まで3時間の介護補助労働となっている。このパターンが毎週続くわけであり、スケジュールとしてはかなりハードである。

ざっと整理すると、このような内容になるのではないだろうか。
(誤って理解している部分があればコメントなどで指摘していただきたい。)

このようにまとめても、完全にこの事業を理解したとは言い難く、評価や予測なども困難なのであるが、期待として言えば、これによって介護福祉士やホームヘルパー資格を取得して介護労働に携わろうとする異職種の労働者の介護労働参入が進んで、人手不足解消に一定の効果がある、ということだろうか・・・。どちらにしても介護労働者の絶対数を増やすことは不可欠な対策なので、何もしないよりは、こうした事業がある方が良いといえるかもしれない。

何しろ前々から指摘しているように、介護労働現場の人手不足と離職率の高さとは、なにも介護労働をやめて異職種に職業を変える人が多いというだけの問題ではなく、介護サービス事業者の数が増え続けていることで雇用する従業者の絶対必要数が増加している実態に、供給が追い付かないという問題である。つまり介護労働者の売り手市場であるがゆえに職場を辞めても再就職先が簡単に見つかる実態があって、離職した介護労働者が、業界内の他の介護事業者に再雇用される例も多いのである。

このように介護労働者の供給量の不足が、離職してもすぐ別の職場が見つかるという実態を生んでいることで、業界内での離職、再就職を繰り返す人を増やしていることが「離職率の高さ」につながっているのだ。介護労働者の総数自体は増えていることがそれを証明している。

だから介護労働者の総数をもっと増やす政策なり対策は不可欠であり、この事業もその一つとして評価する考え方があってもよいだろう。

ただ一部の関係者には、資格取得方法が簡単になることは、資格自体の重さの低下、受講内容の簡素化は質の低下を招くという懸念が生まれていることも事実である。

その考え方も否定はできないが、介護労働者が足りないことで生じているデメリットを考えた場合、その数を増やす施策は絶対に必要だし、そういう一面からの評価はあってよいのではないだろうか。

もちろん介護サービスとは対人援助であり、人の生活に関わる問題だから「質より量」という考え方が危険であることは承知しているが、人類がかつて経験したことがない超高齢社会が少子化とセットで進行している現状は、介護労働者の総数確保が大問題である。

介護雇用プログラムは、資格取得の為の受講要件を緩和しているとはいえ、前提として介護の資格を取るための勉強をしながら働く環境にも慣れて行くということが可能なプログラムとなっていることを考えると、全否定するのではなく、もっとポジティブな評価があってよいのではないかと思う。

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尊厳死・自然死議論は国民全体で

僕が「看取り介護」に関する講演等で、必ず尊厳死とか自然死に対する国民的議論を真剣に行う必要があることを主張している。

それは僕の考えが正しいという押し付けではなく、僕らが介護施設で行っている、看取り介護に対する考え方をも含めて議論の対象にして、人がどのように最期の時を過ごすべきかを皆で考えないと、偏った価値観で、おかしな終末ケアが横行する危険性があるからである。

その議論の途上で、我々の看取り介護の実践に対する理念や方法論に対する疑義が生じた場合は、きちんと国民全体に向かって、その答えを示さねばならないし、答えられないならば、理念や方法論を転換していかねばならない。

何度か主張している内容の繰り返しになるが、昭和26年(1951年)においては、在宅で亡くなる方が82.5%で、病院と診療所で亡くなる方は、わずか11.7%である。その数字が逆転して医療機関(病院と診療所)で亡くなる方が5割を超えたのは昭和52年であり、昭和55年調査では医療機関死が57%、在宅死が38%となって差がさらに広がった。 平成19年では医療機関死が82%、在宅死はわずか12.3%まで減っている(18年より0.1ポイント増)。このことが本当に死の場面を迎える人々にとって「安らかな最期」を作り出しているのかをもう一度問い直してみる必要があると思う。

現在8割以上の人々が医療機関で亡くなっているということは、必ずしも医療機関で「看取られている」ということを意味しない。病室の片隅で、人知れず息を止めて、最期の瞬間を誰も気づかないで息を引き取る人々が多数存在する。彼らが最期の瞬間に何を感じ、何を求めたかを我々は真剣に想像し、議論する必要がある。

それがこの世に生を受け、今生きている我々が、死を迎えた人々に贈ることができるレクイエムであり、命をリレーしてもらっている我々の務めでもある。

最近は、こうした尊厳死や自然死の議論の必要性の訴えに対し、現場の医師の皆さんから積極的にご意見を頂けるようになってきた。研修会場から、現職の医師の方々から「意識不明の高齢者の胃婁を造りながら、この方法が本当に求められている治療であるのか、疑問に感ずることがある。」という発言をいただいたこともある。単純に延命治療を否定してはいけないし、食物を経口摂取できなくなった方々に対する胃婁増設が必要ないなんてことにはならないが、その方法に選択性があるのか、患者本人の意思が十分反映されているのか、ということを一方で考えることは必要ではないのだろうか。

同時に今の日本の医療現場の現状では、意識不明で意思表示ができなくとも、医療機関で対応している以上、経口から食物摂取ができなくなれば、経管や中心静脈から栄養補給ができるようにすることが当たり前で、それを行わない選択肢は医療機関または医師の立場としてはあり得ない、という実情がある。

このことが本当に正しいのか。

しかし欧米では、このことは必ずしも当たり前ではない。口から食物を摂取できなくなる状態は、神に召される時であるとして、経管栄養を行わずに最期の時を過ごす選択肢があり、少なくとも、それらの国で生きる人々にはその選択性は日本より確保されている。

宗教観・価値観の違いと言えばそれまでであるが、死生観というものはどの国の、どの国民もそれぞれ個別に持っているはずであり、人がどのように生きることが幸福なのかという議論は全国民を巻き込んで行わねば、医療機関の論理だけで人の生き方が決まってしまう恐れがある。

これは経管栄養によって栄養補給され生き続けている方々を否定する意味では決してなく、選択性の保障をどう考えるかという問題で、死の臨床場面に関わるすべの関係者は、結果的にどのような状態で息をし、どのような状況で心臓を動かし続けていたとしても、それは尊厳ある人として関わらねばならないことは言うまでもないことであるが、そこにたどり着く前提条件を、もっと広く議論すべきだという意味である。

意思表示ができず、ベッドの上で横たわっている人が、食物を口から摂取できずに、管による栄養補給で長い期間を生き続けることは、本当に個人の意思や尊厳を守っている生き方なのか。長寿大国ニッポンの実態は真に国民が望む姿なのかということを、医療関係者だけではなく、国民すべてが問い直す必要がある。

同時に、医療とは、果たして心臓の動きを止めないことがすべてなのか、ということが終末期のケアを論ずる上で避けて通れない議論なのかもしれない。しかし、その答えは単純ではないだろう。

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特養における機能訓練のあり方

ある特養の機能訓練指導員の方から、実施指導で「個別機能訓練加算」について、その計画内容が算定要件にあわないと指導を受けたという相談を受けた。

例えば食事時間を利用した定時離床と、座位保持の支援を筋力維持と関連させた「計画」は個別機能訓練計画にはならず、筋力維持なら「足挙げ訓練を何回」とか「「筋力トレーニング」とか「個別の体操」などを組み込まなきゃあならないという指導だそうである。

相談者の方から個別機能訓練計画の内容を、課題と目標、具体的方法に分けて電話で聞かせていただいたが、非常に立派な内容で何の問題もないと思った。医学的リハビリテーションエクササイズの方法になっていないだけで、日常生活のケアの中で機能維持の観点から行うべきことはしっかり網羅されており、算定要件に十分合致した内容である。行政機関の指導担当者の理解不足が指導につながっているとしか思えなかった。

僕が何度も指摘しているように、個別機能訓練加算の「個別」とは「個別リハビリ」を意味せず「個別計画」を指すものであるし、その訓練内容も「医学的リハビリテーションエクササイズ」を意味していない。

その指導担当者がいうような訓練内容なら看護職員などの機能訓練指導員が勝手にプログラムできるものではなく、医師の指示に基づく医学的リハビリテーションエクササイズそのものになってしまい、機能訓練指導員の判断だけでできる問題ではない。

また、その指導担当者は「そういう訓練ではたくさんの利用者全員に実施することはできないのは当然で、全員に算定することを想定していない。」という意味のことも実地指導の際に語ったようであるが、これも大きな間違いである。特養の個別機能訓練加算は、看取り介護対象者も含めて算定してよいもので、しかも基本原則は全員から同意を得て実施算定することが望ましいとされているものである。

あらためてその内容が医学的リハビリテーションエクササイズに限るものではない根拠を示しておきたい。

(平成18年4月改定関係Q&A Vol.1 介護老人福祉施設・個別機能訓練関係)

問76
個別機能訓練加算については、単に体制があるだけでなく、体制を整えた上で個別に計画を作成するなどプロセスを評価するものであることから、入所者の同意が得られない場合には算定できないが、原則として、全ての入所者について計画作成してその同意を得るよう努めることが望ましい。」

※このように個別の意味が「個別リハ」ではなく「個別計画」であることが示されている。さらに「全ての入所者について計画作成してその同意を得るよう努める」とされており、生活リハビリを含めた、全職員が介護サービスの中で行うことができる機能活用と維持の取り組みを計画として良いことが読みとれる。

問77
個別機能訓練を行うに当たっては、機能訓練指導員・看護職員・介護職員・生活相談員・その他の職種が共同して個別機能訓練計画に従い訓練を行うこととしており、機能訓練指導員が不在の日でも算定できる。」

※ここで分かることは、特養の個別機能訓練計画に医師の指示や判断、介入が必要とされていないということである。これは老健や通所リハビリと決定的に異なっている点で、医師の指示がいらない方法を訓練計画とするという意味で、逆に言えば医学的リハビリテーションエクササイズの計画を医師の指示のない状態で計画し実施すれば違法性さえ問われかねない、という意味である。さらに「機能訓練指導員が不在の日でも算定できる」という文章からは、この機能訓練とは、介護職員等、医療や看護の資格がない者が実施できる内容であることが示され、まさに日常の介護行為やレクリエーションや、クラブ活動等の中での機能活用の取り組みが機能訓練として評価できることを示している。

よって、この指導は明らかに間違っていると言えるのである。こういう場合は、説明して埒があかねば、あえて文書指導をしてもらい異議申し立てをした方が良いのではないだろうか。

間違った指導の証拠をきちんと残しておくことも必要である。

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介護の日は政策を振り返る日に

舛添前厚生労働大臣の置き土産といってよいだろう。今日11/11は「介護の日」である。昨年のパブリックコメントの募集で「いいひ いいひ」の語呂合わせで選ばれた日だ。

僕は、昨年のパブリックコメント募集中に「介護の日・現場は冷ややか」という記事を書いて、こんな日が定められてもあまり意味はないし、こんな暇な議論をしているならもっと差し迫った問題を考えたほうが建設的だろうと批判した。

しかし既に決まって動き出したものだから、そのことを今更廃止せよとか、必要ないとか言うつもりはない。昨年の意見を繰り返すつもりも毛頭ない。そんなことにエネルギーを使うことは無駄である。

ただ介護の日を定めるに際しては、お金(国費=国民の税金)も時間もかけているという事実があるから、何らかの形でこのことをポジティブなものと考えて、国民の利益に結び付けていかねばならないだろう、と思う。

国民の多くが介護の日が制定されたことも記憶から薄れている。最初から興味なく知らない人も多い。介護に携わっている人々も同様で、そういう日があることを知っていたとしても、それが今日であることを知らない人が多いだろう。なんとなくテレビ等で「介護の日」であるという話題が出て、はじめて「今日だったのか」と気付く人がほとんどだ。特に若い人たちには11/11は「ポッキーの日」という認識が広がっているので「介護の日」を思い浮かべる人は少ないようである。

ナイチンゲールの誕生日である5/12が「看護の日」と定められていることを知らない人が多いのと同じことだから、これは今更のことで予想されたことである。だから今更それを嘆く必要もないだろう。

介護の日を作れば国民が介護の重要性を認識してくれるなんてこと自体が、政治家や一部の有識者と呼ばれる人々の幻想でしかないのだから、これは予測された結果である。

そうであれば「介護の日」は、そういう幻想で「時間と国費」を使った政治家や国の審議会に居座る有識者と呼ばれる人々が、介護の日を制定する過程や、その議論を振り返って、いかに不毛な議論に時間と国費を費やしたかを反省する日にした方が良いのではないのか。

同時に、この国の保健・医療・福祉政策というものが、どのように構築され、どのように運営され、その結果が今どうなっているのか、全ての政治家や官僚が振り返る日にすればよいのではないだろうか。

介護の日は、それらの人々、いや全ての日本国民がこの国の社会福祉政策を振り返る日であると考えたほうが良いのかもしれない。

その結果は「悔悟の日」であるかもしれない。

そうであったとしても、未来に向けてこの国の社会福祉制度を、どういう方向に向けてかじ取りが必要かということを、もう一度真剣に考えて行くことが必要だろう。そうしなければ、この国の未来は荒野でしかなくなる。

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エレベーターのかごがない!!

あまり大きく取り上げられていないが、先月、東京都内の特養でエレベーターの事故が起こっている。

10月20日東京都北区の特養「浮間さくら荘」で昼食の後かたづけをしていたボランティアの女性(69)が1階の荷物用エレベーターの扉を開け、配ぜん車を載せようとしたとき、扉の先に「かご」がなく、配ぜん車とともに地下1階まで約4メートル転落し肩の骨を折る重傷を負った。

女性はエレベーターで、配ぜん車を調理場のある地下1階に下ろす作業中で、落ちそうになった配ぜん車を押さえようとして、一緒に引きずられて転落したとのことである。配ぜん車を守るより、自分の身を守るために手を放せばよかった、というのは後から第3者が考えることができることであっても、当事者が瞬間的に判断できることではない。この場合、その状況に遭遇した多くの人が同じように配ぜん車が落ちないようにして事故に巻き込まれてしまうだろう。

扉は手動式で、かごが階に到着しなければ開かない仕組みだった。ボタンを押してかごを呼び、ボタンの点灯が到着の合図となっていたが「ボタンが点灯したが、かごがなかった:被害女性談」(かごは2階と3階の間で停止していた)という事故である。

このエレベーターはシンドラーエレベータ社(江東区)の前身の日本エレベーター工業製で平成元年に設置されたものだったということだが、保守点検はシンドラー社が担当しており、事故が起こる20日ほど前の9/29にも点検整備が行われているとのことである。

事故が起きたエレベーターは荷物用なので、施設利用者が使うことはないし、利用者用エレベーターが手動の扉であるということはあり得ないので、即、利用者用のエレベーターの危険性を同一視して考える必要はないのかもしれない。

しかし、だからといって利用者専用のエレベーターに同様の事故が起こらない保証はない。特に定期点検で発見できない機械の不具合が、点検からわずか20日後に生じているという事実は衝撃である。原因の早期究明と安全対策が望まれる。

利用者用エレベーターで同じような事故が起き、車椅子の方が転落する状況を思い浮かべると背筋が冷たくなる。片麻痺等で受け身も十分に取れない方々にとっては命に関わる問題である。

当施設も3階建て(一部)でエレベーターは車椅子の方々の移動には必需品である。自力でエレベーター操作される方々も、介助する職員も、扉が開いたらそこには必ずかごがあるものと思いこんでいる。中が空洞で転落するかもしれないと立ち止まって確認することはほとんどない。無意識にドアが開けばエレベーターの方向に進んでしまう。特に車椅子の方を介助する職員は、狭いかごの中で方向を変える際に、利用者の足等が壁や同乗者にぶつからないように、あらかじめ方向転換して後ろ向きでかごに乗り込むことがある。当然、そのときは介助者も後ろ向きであり、かごがない場合でも、そのことに気がつかないで介護職員もろとも転落する恐れがないとはいえない。

今後は、こういう際にも「かご」があるか確認するように注意する必要があるだろう。既に注意を促す文書を施設内に流している。しかしこれでは生活の中の全てが危険因子になりかねず、気を休めて生活できる状態ではなくなる恐れさえある。こういう事故がないように定期点検をしているのだし、エレベーターというものの安全性がもっと向上することを切に望むものである。

ところで荷物用エレベーターの事故というものは想像以上に多いらしく、平成18年から20年までのわずか3年間で、荷物用エレベーターの労災事故による死亡者数は37人で、怪我をした人の数は200人以上の数だそうである。事故が起きれば荷物を運ぶ人間にも被害が及ぶことは当然の結果なのだから、人間用のものと安全対策や基準は同一に考えてもらいたいものである。

特別な機械でもなく、誰もが日常使う可能性がある機械で、平均して年に3人以上の死者ができているというのは尋常ではない。

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ファイターズ一家

我がファイターズの今年のプロ野球シーズンが終了した。シリーズ第7戦がなかった昨日は少し虚脱状態であった。だがここまで夢を繋いでくれたことに感謝しない道民はいないだろう。

日本一の覇権奪還はならなかったが、最後まで素晴らしい戦いをしてくれた。2年ぶりのパリーグ制覇を心より喜んで、日本一は来年の宿題にしよう。

今年も1年間、本当にありがとう。札幌でのパレードが楽しみである。それとファイターズだけではなく、1年間素晴らしいプレーを見せてくれた他のパリーグ5球団と、そのファンの皆さんにも心よりエールを送りたい。来年も大いに盛り上がりましょう。我がファイターズも負けないぞ!!

今日はスタンドのファンの熱狂画像を紹介しておこう。今回の日本シリーズのレフト側応援席が中心である。ちなみにこの写真のどこかに僕の家族の顔も写っている。
ファイターズ一家14ファイターズ一家13ファイターズ一家12ファイターズ一家11






ファイターズ一家10ファイターズ一家9ファイターズ一家8ファイターズ一家7






ファイターズ一家6ファイターズ一家5ファイターズ一家4ファイターズ一家3






ファイターズ一家1マスコットのBBファイターズ一家2観衆は40.960人





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認知症を受容できない家族のバリア

我々が援助を必要としている人々に手を差し伸べても、その手が利用者に届くことを阻む様々なバリアがこの世の中には存在する。

偏見という「世の意識」もそのバリアの一つである。しかし偏見を持つ人々は、支援を必要とする人々とは関係のない「一般大衆」と限るわけではなく、支援の手を差し伸べないとならない対象者に一番近い関係の人物であることも多い。

特に認知症の場合、自分の親や配偶者が「そんなものになるわけがない。」と考えている人々が地域にはたくさん存在する。認知症は誰もがなり得る病気による症状なのであるが、いまだに日ごろの行いや性格と関連付けて「認知症になることは恥ずかしい」という偏見を持っている人が存在するのである。だから親や配偶者が認知症の症状が出現しても、それを認めようとしない家族がバリアとなって早期発見を阻害したり、必要な支援に結びつかないというケースが多々ある。

過去を振り返ると、家族が身内の認知症を認めようとしない場合、理解がないことによって支援拒否する場合は、例外なく困難ケースとして対応に苦慮することになり、よい結果が得られない場合が多い。

直接僕が関わったケースではないし、地域も僕の住む周辺地域のケースでもないが、ある事例検討会で報告された過去のケースに次のような困難事例があった。

数年前に夫を亡くした頃から物忘れや見当識の低下の症状が出たAさんは、娘と孫と3人暮らしであった。娘は若い頃に離婚して女手一つで一人息子を育てたが、親の認知機能低下を全く理解していない。というより、それを認めようとしない。

娘と、その長男の関係は不思議なもので、子供のころから溺愛されて育った影響か、長男は普段はおとなしく普通に暮らしているが、突発的な家庭内暴力を繰り返し、自分の親だけでなく、祖母であるAさんに対しても手を挙げ、何度も通報により警察が自宅を訪れている。しかし娘は単に一時的なものだとして、警察の保護も拒否し対応のしようがない。Aさんも暴力を受けたことは忘れてしまう。

この長男、学業成績は優秀で、某有名私立大学を現役で合格し家を離れた。そのため、この家庭に普通の生活が戻ってくるという考えは甘く、帰省のたびに長男の暴力と警察沙汰は繰り返され、時にそれは外出先のファミリーレストランで長男が暴れるという事件まで引き起こした。それでも母親の状況理解は薄く、Aさんを一人自宅に置いて長男の世話の為に、定期的に数日長男の住むアパートに外泊するようになった。

残されたAさんに対して、近所のスーパーから食材を届ける手配をしたり、作り置きのおかずを冷蔵庫に入れて行ったりするのであるが、認知症の症状が出ているAさんが、それでまともな生活ができるわけではない。娘が家にいないことさえ理解していない。当初近隣の住民や民生委員がおかしいと気づいて、食事の世話をするなど様々な支援を行っていたが、娘がそれを知ると感謝するどころか、勝手に自宅に上がりこんだことをなじったり、自分の親はそんな世話を必要としていないと抗議する始末で、誰も手に負えなくなった。行政官庁にも苦情が挙がり、養護老人ホームの一時保護などを行ったが、どういう理由からか、これも娘が強引に退所させるなど問題は解決しなかった。介護認定を受け、担当ケアマネによる支援が始まっても、娘のバリアにより適切なサービスが提供できないまま数か月が経過した。明らかな虐待ケースとも言えない本ケースは、強制的な手段が執行できなかった。

このケースで結果的にAさんの身の上に劇的な変化をもたらしたのは、娘の突然死である。

心疾患のため朝冷たくなっていた娘をAさんは単に寝ているだけと思っていたが、たまたま訪問したヘルパーによって遺体が発見された。その後、Aさんは養護老人ホームに緊急入所したが、その後医療機関に転入院し、やがて死を迎えた。娘の死からわずか1年足らずのことである。

Aさんの人生の最終ステージは、家族と過ごしたといっても、認知症の理解のない娘と、暴力を繰り返す孫との暮らしで、安らいだ生活があったのかというと首を傾げざるを得ない。幸いなことに?Aさんは自ら暴力を受けた記憶もすぐに消えてしまうので、娘や孫を拒否的に感ずるというストレスだけは抱かなかったようである。しかし娘の死後の保護を受けた生活の方が、第3者から見れば安らかであったように思えることも事実である。結果的に、介護支援の手は、このケースにはほとんど意味をなしておらず、娘という人的バリアがなくなったことがAさんの生活障害の解消の唯一の手段になってしまったという哀しい結末である。

しかもこのケースにはエピローグがある。

娘の死後、葬儀や持ち家の処分などのため帰省していた長男のことである。一通り整理が終わって、学業に復帰した数か月後に、その訃報が届いた。死因は自殺である。結局この家族の歯車は、どこかで狂いだし、それが元に戻らないまま破滅へと向かってしまったのだろうか・・・。結末から考えると、皆が不幸になってしまったということかもしれない。

強制的な行政権限のないケアマネや介護サービス事業者は、こういうケースではほとんど無力である。行政ができることも、そのタイミングも含め限られてしまう。

我々は全てのケースに最善の結果を出すことはできないが、過去の失敗例を糧にして、同じ過ちを繰り返してはならない。世間の認知症に対する偏見をなくす活動もその一つだろう。そして行政も含めた地域連携によって、もっと濃厚に家族の中に介入する方法を模索する必要があるだろう。

虚しさだけが残ったケースであるが、唯一救われた命がある。それはこの家の飼い犬で、長年、食事も満足に与えられていたのか不明で、散歩など数年連れて行かれず、犬小屋の前に鎖でつながれ放置状態であったものが、この家族の死によって、善意の近隣住民によって引き取られ、今も元気に飼われているそうだ。

元の主(あるじ)の死も知らないであろうその犬は、新しい飼い主によって住み慣れた街を散歩しているのだろう。そしてかつて自らが鎖につながれていた家の跡に立てられた新築住宅の前で、しばし立ち止まって首をもたげているのかもしれない。

かの犬の目に写っているのは、見慣れぬ住宅なのだろうか、元の飼い主の面影なのだろうか・・・。

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介護療養型医療施設廃止方針を凍結

保健・医療・福祉関連の政策について、政権交代によって様々な影響が出ている。

医療関連では早々と来年の診療報酬改定で、報酬アップという方向性が打ち出されている。高齢者が増える社会で、医療が必要な人々が必然的に増えて行くのだから、それらの人々に適切な医療サービスの提供が行われる為には、病院や診療所がきちんと経営できる基盤としての報酬体系になっている必要があり、そういう意味での診療報酬の引き上げは必要だろうと思う。

ただしこのことで医師不足が解消されるかと言えば、そうではないだろう。医師不足の要因は、待遇だけではなく、研修医制度を含めた医師養成システム全般に関わる問題であるし、地方の医師不足は、都市部のそれとは全く性格の異なるものであるから、現在のその部分に関わるシステムを全体的に検証することが一方では必要だろう。

介護関連では、介護職員の処遇改善交付金については、前政権が支給方法を決めてしまっているので、これを廃止するということはできず、当面はこのまま運用するが、山井厚生労働相政務官のメルマガによれば、今後の宿題として介護職員以外の給与改善や、改善額も月額4万円に近づけることなどを挙げている。本来これも交付金ではなく、介護報酬のアップという考え方が必要で幹の部分をきちんとしてもらいたい。

なお全国老施協は、介護職員以外の職員の給与改善は4月の新設加算報酬をしっかり算定することで賄い、介護職員は交付金で賄うという、2段構えの方法を唱えているが、そういう複雑な方法がベストではないことは明らかで、次期介護報酬では交付金部分も取り込んで金額設定するという方向性を打ち出してもらいたいと個人的には考えている。

ただ国債発行額が政策マニュフェストに書かれていることと大きく違って額が増大する状況で、このことに関して財源論が足枷になる可能性が常にある。不透明感が付きまとう問題である。

ところで介護保険制度関連で、今週一番のニュースといえば、2011年度末で廃止が決まっていた介護療養型医療施設について、その廃止方針を一旦凍結して、検証をし直すと長妻厚生労働大臣が表明したことだろう。

この廃止問題に関しては、実際に12万人以上の人が利用している病床を廃止した後の、それらの受け皿の整備が不十分で、十分な支援体制が受けられないまま無理やり在宅復帰させられる「介護難民」が生まれるのではないかという懸念がかねてからあって、関係者の間から反対論が挙げられていた問題である。

しかし介護療養型病床の経営者の方々は、廃止方針自体は明確に示され政策として動かされないものと諦めて、賛成・反対という個人の意思に関わらず、対策を進めていたはずである。

実際に、介護療養型病床を廃止して、療養型老健などに転換を終えているケースもある。それらの施設経営者もできることなら、転換せず療養病床を維持したかったが、政策で廃止が決まったので、優遇措置がある経過期間中に転換を急いだケースも多いだろう。

それらの経営者の方々にとってみれば、この政策転換は、まさに「青天の霹靂」だろう。廃止凍結の方向がもしかしたら、現在、介護療養病床を利用している人々等にとっては望まれる方向なのかもしれないが、転換を急いだこれらの経営者の方々が不満や疑問を持つことも当然だろうと思う。

どちらにしても、この問題の根っこは、財源問題から介護療養型医療施設の病床廃止による給付費削減という前提がまずありきで、実際にそこで生活を維持している人々の受け皿を十分に整備しないまま、机上の論理による数合わせだけで廃止を決定してしまったということにある。

これは政権政党だけの問題ではなく、政策立案に関わった国の担当部局の責任も大きいだろう。しかし廃止凍結後の方針も、おそらく同じ部局で検討されることになるというおかしな状況が生まれている。

凍結後の検証で、やはり介護療養型医療施設は廃止と結論付けられるかもしれないが、可能性としてそれは低く、おそらく存続の方針が打ち出されていくのであろう。結果だけではなく、検証過程で廃止方針の決定に関する評価がどのように行われるのか、という部分を含めて関係者は注視が必要だろう。

どちらにしても業界関係者が政策に振り回されて、梯子を外されて怪我をして終わりでは、超高齢社会の中で安心してサービス提供するための基盤を国自らが揺らすことになりかねない。

将来に向けて必要なサービスの量を確保するためには、外した梯子の代わりの土台を別に作るなど、サービス経営が安心してできる方策が不可欠だろう。

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ショートステイ、家族の休養目的は不適切?

ショートステイの計画を立てる際に、介護支援専門員がその目的を「介護する家族の休養」とし、それに対応する目標を掲げるのは「けしからん!」と批判する関係者がいる。

利用者の意向を無視した、家族に対する視点しかない計画ではないかという批判である。

もちろんショートステイを利用する本人が、すべて納得してサービス利用しているわけではなく、いやいや利用し早く帰りたがる人も存在することは否定しない。しかしだからといって、それらの人々がショートステイを利用する必要がないかというと、そうとも言えない。

ショートを利用しないと介護する家族がつぶれて在宅介護が持たないケースはたくさんある。その時に、利用者がショートステイを利用して、在宅生活が続けられるとしたら、その利益は家族のみならず利用者自身にも反映されるという結果になる。このことを担当ケアマネやサービス事業者はしっかりと意識して、利用者自身が利用したくなるショートステイサービスを作り上げていかねばならない。

一番勘違いしてはいけないことは、家族に必要だということが、結果的には利用者のためのサービスとなるのだから、そのことを理解できず利用を拒む利用者がいたとしても、それは本人の我がままで、我慢するのが当たり前だという考え方だ。前述したように、その際にも「利用者自身が利用したくなるショートステイサービス」の在り方をサービス担当者全員で考えることが必要なのである。

サービス担当者会議とは、そのためにあるし、いかなる理由があっても、利用者自身が受け入れてくれるサービスの方法を考えないで何が専門家かと言いたい。そこは前述の視点と分けて考えてほしい。

ところで介護保険制度を創設する理由として挙げられていたことの一つに「家族介護のために働き盛りの人たちが、退職、転職、休職等を余儀なくされ、それまでの社会生活から離脱せざるを得ないような人が増えている。このようなケースは、中高年層を対象に生じることが多く、本人や家族はもちろんのこと、企業や社会全体にとって大きな損失になっている」として「自己責任を基本としつつ相互扶助で支える社会保険方式」として介護保険を導入するとしている。

介護を個人の問題としないで、社会問題として、社会全体で支えるという意味である。よって、家族ができる行為は介護保険の対象にならないという考え方は間違っており、家族が行為としてはできるとしても、それによって身体的負担や精神的負担を抱え込むような状況は社会的損失であるとて、介護サービス利用でその負担を軽減すことを認めている。

当然、長く在宅介護を続けるために家族が定期的に介護から解放されて休む時間を持つことは、この制度の目的に沿ったものである。家族が日中いるから、通院支援は家族が対応すべきとか、専業主婦である介護者がいるから、様々な身体介護は家族が行うべきで、訪問介護の身体介護を使えないというルールは存在しないし、そういう考えは間違っているのである。

要介護者が在宅生活を継続するためには、インフォーマルなサービスが不可欠であるという意味を理解すべきである。インフォーマルなサービスが続けられるために、家族が休息したり、息抜きができる状態を作ることはケアマネジメントに求められる視点なのである。そのためにはどんな目的で、どんなサービスが必要なのか?

ショートステイも、そのサービスの目的について、介護支援専門員養成テキストでははっきりと「介護者・家族の身体的精神的な負担を軽減するための休養などが必要になった場合」と明記され、加えて「短期間ではあっても施設生活を体験し、施設を理解し、施設入所をスムーズに進める体験的入所の意味があり、施設入所の必要性があるが、施設を十分に理解していないために拒否的な要介護者に、施設を理解してもらう大切な機会でもある。」と書かれている。

だから居宅サービス担当の介護支援専門員が、介護者の休養目的にショートステイのプランを作ることは至極当然であり、そのこと自体は何の批判対象にもならない。

ただそこから、目標が単純に介護者の為の休養ではなく、利用者にとってもどういう利益があるのか、という点に視点を持ち、さらにいえばショートステイというサービスの目的が、介護者の休養だけではなく、サービスを利用することによって在宅における利用者の生活課題を解決する手助けとなる、という方向で考えられる必要がある。

ショートを利用させておればよいのではなく、ショートを利用することによって、その中で在宅ケアの手出すけになる事柄を、一つでも見つけて、家族にそのことをフィールドバックしようという視点である。

そういう意味ではショートステイとは、事業所内・施設内で完結するサービスではなく、在宅生活と繋がって、施設職員と家族が一緒にケアの方法論を考え続けるサービスではないのだろうか。

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新masaのラーメン道2〜富士ラーメン・カレーラーメン

富士ラーメン カレー
室蘭カレーラーメンとしては前回紹介した「ふじ亭」と匹敵する味と個人的には思っているが、前回の特集で掲載しなかったのにはわけがある。


富士ラーメン食堂は室蘭の繁華街、中島町でも飲み屋街に立地しており、営業時間が19:00〜翌朝3:00までという夜専門の店であるためだ。飲んだ後に食べる店、という性格が強く、昼間に食べることはできないのである。僕も素面で食べたことはないのが正直なところである。しかしカレーラーメンは間違いなくうまいし、この界隈のラーメン店では最も人気があり、スープがなくなるためか、営業終了時間前に暖簾をしまっていることが多い。

カレーラーメン以外にもメニューは豊富だが、味噌ラーメンなどは人によっては化学調味料の味が強いと敬遠する向きもある。むしろあっさり味の塩や醤油のほうが人気はあるようだ。

ただ一押しはやはりカレーラーメン。

カレーラーメンスープは、やや甘めのだが、しっかりとしたコクがある。甘口というより「甘み」を感じるカレー味だ。そして程よいとろみのなかに、ストレートに近い細めんが入っている。室蘭カレーラーメンの老舗「大王」など、多くの室蘭カレーラーメンが、ちぢれ麺の太麺を使っているのとは一線を画した個性的な麺である。

具は、もやし・わかめ・メンマ・長ネギにチャーシューとオーソドックスなものである。画像も素面ではないので、丼が一部かけて写してしまったが、まあこれも雰囲気だろう。値段は700円。夜間帯のみの営業だからやや高めの値段設定である。

飲んだ後のお決まりのラーメン店で、(良い意味で)下品にうまいラーメンである。

なお僕は食べたことがないが、この店は「カレーやきそば」も人気で、それも大皿にジャンボに盛られている。夜中ではちょっと重たいかなと思うが、他人のテーブルに出されているのをみるとうまそうである。今度是非挑戦してみたい。

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生涯研修制度の呪縛

凍れる(しばれる)朝を迎えた。「凍れる」という言葉は、もしかしたら北海道の方言なのかもしれないが、凍てつくような寒さを現わす言葉である。

先週末から本格的な冬の気配が漂ってきたが、昨日から北部は雪となり、登別も今朝は小雪がちらついている。道路はまだ凍結していないが、この時期はいつ冬道に様変わりするかわからないので、タイヤの履き替えのタイミングが問題である。明日の祝日あたりにタイヤ交換を予定している人もいるだろう。個人的には今年免許取りたての二男の冬道運転が心配である。気をつけて運転しろよ。

この二男(今春高校を卒業し専門学校に通っている)、昨日自宅で表の掲示板にレスポンスをつけていると「そこに僕も書き込もうかな。」と言い出した。何を書くかと尋ねると「うちの親は、子供が免許を取っても車も買ってくれない。飲み会のあと、夜も迎えに行ってやっているのに、どうしようもない親です!!」ということを書くというのである。後半部分は申し訳ないとしか言いようがないが、まあそのような主張に賛同は得られないだろう(もちジュークだから本人も承知である)。ちなみに運転免許は自分がバイトで稼いだお金で取ったものである。車も頑張って自分で買いなさい。ちなみに彼は免許取得後、バイトはやめてしまった。茶髪とロン毛を禁止されるのが嫌なようであるが、親としては、黒髪を短くして、バイトでもしていた方がカッコよいと思うんだけどね・・・。

それはさておき、今日は社会福祉士会という組織の内部で感じる、この組織の「浮世離れ」しているようにさえ思える感覚について触れてみたい。

社会福祉士会について「入会促進キャンペーンに思うこと」という記事の中で、会員を増やすなら会自体にもっと魅力が必要だし、そのためにも社会福祉士会の主催する研修にもっと魅力がないと入会動機にはつながらない、という意味のことを書いた。

さらに、実際には様々な団体が、たくさんの研修会を主催しており、社会福祉士会に入会していなくとも研修機会がなくて困っている人はほとんどいないし、それらの人々をひきつける独自研修を企画運営することは難しいという意味のことも書いた。

しかし問題の本質は、そういう状況の理解が薄い社会福祉士会の役員たちの「意識」にあるのではないかと思うことがしばしばある。

例えば研修については、組織の中に研修員会があって、道からも役員が選出派遣されているが、彼らの話を聞くと、どうも我々現場の意識とは大きなずれがある、と感じてしまうのだ。

社会福祉士会の研修システムには「生涯研修制度」というものがあって、基礎研修を受講したうえで、経験やスキルに応じた共通研修や専門研修を受けた実績をポイント制にして、一定期間ごとにポイントの合計目標をクリアして、生涯それを継続することによってスキルアップを図ろうとする制度である。

僕の偏見かもしれないが、研修員会の考え方は、このシステムを絶対的なものと考える傾向が強く、そこから離れられないという窮屈な思考回路になってしまっていることが、面白みがなくて、内容もマンネリ化しているように思う。

さらに問題なのは、研修に対する考え方の延長として、会そのものの在り方についても偏った固定観念から変な方向に向かわせているように感じる。

例えば、社会福祉士会の中には、定期的に義務研修を実施して資格更新させることでスキルアップ、質の担保を図らねばならないと考えている人々がいる。つまりは社会福祉士の資格更新制度のようなものである。特に研修委員にそう考える傾向が強い。しかし有資格者の定期的義務研修などは、教員が1年間でそれを取りやめたように、百害あって一利なしで、質の担保などにつながらない。まったく時代錯誤もはなはだしい。
(参照:介護支援専門員の資格更新制度だって必要ない

しかも彼らの中には、社会福祉士のさらに上級資格を作るべきだという意見を持っている人がいる。決して試験が簡単すぎるわけでもなく、合格率からしても狭き門といってよい社会福祉士という国家資格の、さらに上級資格を作る意味がどこにあるのか。それは社会福祉士会の研修システムというものの中にどっぷり浸かって、井の中の蛙となっているような人々の「驕り」以外のなにものでもないだろう。

こういう考え方が主流になるのであれば、いずれ僕はこの会とは袂を分かつ時が来るだろうと考えながら、支部役員も今回の任期でそろそろ退任時期なのかなと思ったりしている。

僕などは本会の生涯研修制度自体の理解がいまだに出来ておらず、ポイント申請もしたことがないが、それで何の不便も不利益も感じていない。システムの中に乗っかっている人々と比較して、自分のスキルが極端に低いとも感じない。

組織が自ら作ったシステムの呪縛から逃れないと、この会に大きな発展は望めないだろう。

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生活の場で看取る、という意味。

人はどこで死ぬべきなのか、どこで最期の時を迎えるべきなのか、その答えは単純ではない。

その人にとって「最期の時間を過ごす場所」として最良の場所がどこなのかは、その人の置かれた様々な状況、例えば個人的な死生観・価値観・病状・生活環境・家族関係によっても異なってくるだろうし、経済状況も影響してくるだろう。

人によっては、それが在宅であるかもしれないし、介護施設であるのかもしれない。医療機関の場合であっても、一般病棟であるかもしれないし、ホスピス病棟(緩和ケア病棟も含む)であるのかもしれない。

要は場所が問題ではなく、選択できるか否かが問題なのであり、選ぶことができるという前提条件として、選ばれる場所がきちんとした理念に基づいた一定レベル以上の看取りの体制を持っていることが重要なのである。

今我が国の現実としては、82%の国民が医療機関で亡くなっており、在宅死は12.3%であり、介護施設での死はわずか2.5%にしか過ぎない。しかもこの数字は単に死を迎える場所の割合でしかなく、そこで本当に「看取られている」という実態があるのかどうかは別問題である。

それにしても、医療機関と在宅の死を迎える割合が、これだけ大きな差がある現状や、介護施設での死が2.5%しかない現状は、実質的に最期を過ごすことができる場所の選択が狭められている実態を現わしている。しかし国民全体の死者数が増え続ける現状では、今年中に日本人の死者数は150万人を超える勢いであり、2020年を待たずして、その数は年間200万人を突破する可能性さえある。一方では医療機関の病床数は減少カーブに向かっているのだから、いずれこの比率は、好む好まざるに関わらず変わらざるを得ない。医療機関で死ぬことができる人が減ってくるという意味である。

その時に、在宅や介護施設で、きちんとした看取りができる体制を社会全体で作っていくことは必然の国民ニーズであるし、特養であればそれは終生施設としての社会的使命である。

医療機関でも、ホスピスという概念が広まって、末期がんの場合、死期が近づけば一般病棟から、最期の時を迎えるためにホスピス病棟に移動して最期の時を送るというケースが増えている。

その中で介護施設での看取り介護の意味を考えた時、それは医療機関と決定的に違うところは、治療の場で結果的に亡くなったり、最期の看取りの場所として日常の生活の場から離れてそこに移るのではなく、「介護施設」という生活の場が、そのまま「看取りの場」となるという特徴がある。

ある意味それは在宅死と同じ状態であると言えるが、同時に医師や看護スタッフ、介護スタッフが配置されているという意味では在宅との違いがある。

このことを我々はポジティブな側面としてとらえ、生活の場と看取りの場が同一であるということは、以前からの生活の延長線上に看取りの時期があり、生活の連続性が途絶えない状況で看取ることができると考えるべきである。

なぜならホスピス・緩和ケアに関する意識調(日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団)によれば、「残された時間をどう過ごしたいか」という問いでは、死期が近い場合、若い世代では、これまでできなかったことをしたいと考えるのに対し、高齢者はこれまでと変わらない生活スタイルを望む傾向にあることがわかっているからである。そうすると、看取りの時期であるからといって何か特別なエピソードを作ることより、安心して普段の生活が続けられることを主眼に置くことが大事で、逆に言えば高齢者の場合は、死を迎えるために生活場所が変わってしまうこともストレスになる可能性が高いということになり、看取り介護として専門的なケアを受けることができて、なおかつ生活場所が変わらない介護施設は十分そのニーズに応えることができる下地があるといってよい。

そしてそのメリットは、長く生活支援に当たっていたスタッフが、そのまま看取り介護としての支援にも携われるという意味であり、最終ステージで看取り介護対象者が意思表出をできなくなったとしても「最期までその人らしく生きる」暮らしを作るためには、その人らしさとはないかを日ごろの生活をよく知る施設スタッフが、代弁できる可能性が高いことをも意味している。

そういう代弁者となり得る日ごろの関わりが重要だし、その思いを想像して実現するスタッフの関わりが求められているのである。

単に介護施設だから看取りの場にふさわしいのではなく、そういう機能を生かす視点を持つスタッフにより、そのことは実効性のあるものになるであろう。

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症例A・解離性同一性障害を読む

suzukiハスラー50(原付)岩見沢西高のクラスメート16歳のときにはバイクの免許を取ってずっと2輪に乗っていた。

※見たくはないだろうが、今日の特別サービス。30年以上前の僕の颯爽?とした画像である。(ちなみに画像はクリックすると拡大し、より変な姿がクリアになる。)

その後、車の運転免許をとったのは大学1年生19歳の時である。

その時、バイトで貯めたお金で10万円の中古のシビックを買ったのを皮切りに、今までずっと車のある生活を送ってきた。大学3・4年生のときは、通学も車を利用していた。岩見沢市から札幌白石区大谷地まで約50分弱の運転であった。そしてその間には、車に関係して駐車場の管理人として車庫入れ専門のアルバイトをしたり、仲間と車の改造にはまったり、就職してからも大型免許を取って、利用者のバス送迎の業務を担当したり、車や運転とは深く関わってきた。

しかし自分というものを客観的にみつめると「運転」という行為はあまり好きではない。というか運転は面倒で嫌いでさえある。ドライブが趣味なんて言うことは全然なく、できれば人の運転に任せて、自分は同乗するだけの方が楽である。

そのため現在、毎週のように週末は札幌に行く用事があるが、一人で移動する場合、JRか高速バスを利用することが多い。

その際のメリットは、列車やバスでの移動中が「読書」の時間になるということである。しかし、こんな場所で専門書を読むのは嫌みだし、そういう趣味もない。もっと気楽に読めるものをジャンルにとらわれず読んでいる。
(ただし推理小説だけはほとんど読まないなあ。子供のころに読み過ぎたせいだろうか。)

大好きな作家であった司馬遼太郎さんや、吉村昭さんの作品はほとんど読んでしまっているので、現在では作家にもとらわれていない。面白そうな小説を書店で選ぶのもなかなか楽しい時間である。

中には期待外れで、列車の中にそのまま置いてきてしまう本もあるが、思わぬ掘り出し物に出会うこともある。だから読書は面白いのである。

先日、社会福祉士会の支部長会議に出席する際に、書店で何気なく手にとって紹介文に興味をひかれ購入して、列車の中で読み、思わず引き込まれた小説がある。

角川文庫「症例A」(多島 斗志之:たじま としゆき著)である。

取り扱っているテーマは「心の病」である。主人公の精神科医が総合失調症(小説の舞台は、病名が変わる前なので、精神分裂病で統一されている)または境界層と疑う患者が、実は多重人格(解離性同一性障害)ではないかということからストーリーは展開していく。

精神疾患に多重人格というものはり得ないと考えていた一人の医師が、その病気を認めて行く意識の変化が細やかに描写されており、多重人格(解離性同一性障害)をサイコ・ホラー的に扱う傾向が強い他の作品と一線を画している。
(※実際のストーリーを紹介するという意味では、この解説は浅すぎて実態を現わしていないが、それを目的としていないし、ストーリーは実際に読んで知るべきである。)

精神科疾患の様々な判断基準、解離性同一性障害がクローズアップされたことに対する精神科医としての疑問や、その背景が良く理解できる。臨床心理士にも触れられ、精神科医との微妙な関係も見事に描かれている。この業界関係者にも大いに勉強になる内容が含まれている。

そんなフィクションを読んで、本物の専門家の役に立つのかと指摘される方がいるかもしれないが、専門馬鹿にならないためには、様々な角度から物事り見たり、違った面からの知識吸収は大切で、専門書ではない大衆文学の中から学び取るものは実に多岐にわたるのである。

それにしても作者は医師ではないし、医療や相談援助に関しては専門家ではないが、非常によく勉強していると思う。巻末に膨大な参考資料が提示されているが、これを読んだだけで、細やかな心理描写は無理だろうから、きっと臨床に携わった者が身近にいるのではないかと思う。それだけリアルな作品である。

精神疾患に苦しむ人々の内面を鋭く描いており、それを救おうとする医師の真摯な態度と苦悩が読者の心を打つ。同時に綺麗ごとだけではない医療現場の実態にも鋭いメスを入れており、ストーリー展開も、医療現場だけではなく、様々な伏線がいろいろな場面にちりばめられており、読者を引き込む。読んで損のない小説だと思った。

こういう小説のセリフや、描写の文章の一文を、僕は自身の講演資料にも使わせてもらったりすることがある。他の人とは毛色が違う視点といわれる僕の話のヒントは、専門書ではなく、こういう小説から得ていることも多いのである。もちろん著作権を侵害しない方法で、それは僕の中に取り込む形で使っている、という意味である。

それは言葉や文字に現われるものとは限らず、専門領域以外の方向から考え方を巡らせるという結果にもなる。

専門的な学問を「文学」にしてしまっては意味がないが、多視的な見方というのは人間の生活支援に関わる領域では不可欠であるから、そのことはけっして悪くないだろうと思っている。

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介護サービスの根幹に関わる事件

介護保険制度がスタートしたのは2000年4月のことである。

走りながら考えると言われた制度であるが、何度も転びながらも、サービスの供給量は増え、そして新しく誕生した「介護支援専門員」というものが、やっと世間から認知し始めた2001年4月に、その事件は起こった。

和歌山県で36歳の介護支援専門員が、自分の担当者である75歳の女性を殺害して預金通帳を奪い、遺体を空き地に埋めたという事件である。強盗殺人罪として被告は無期懲役の判決を受け現在も服役中であるが、この事件は、信頼を寄せてよいはずの介護支援専門員が自分の担当者を殺害する、という非常にショッキングな事件で、介護保険制度の根幹を揺るがしかねないと指摘された。

実際に当時は、僕が代表を務める「のぼりべつケアマネ連絡会」の会員から、利用者に訪問を断わられるケースや、家の中へ入ることを拒否されるケースが多数報告された。一人の大馬鹿者の為に、全国の全ての介護支援専門員が利用者から「怖い存在」とみられ、支援にさえ支障が来すという状況が生まれたのである。

しかし一般市民・利用者の立場からすれば、それは当然のことで、自分の生活状況をすべてさらけ出し、生活習慣も経済状況もすべて明かして信頼を寄せている介護支援専門員に裏切られる人がいて、殺されて預金通帳が奪われたというのでは、何を信用してよいかわからなくなる。ましてや独居世帯であれば、日中であっても家の中は密室である。そこに自分より力の強い若い人を信用して入れるということは、普通なら覚悟のいることであり、こうした事件が起きると、誰を信用すべきかわからなくなり、容易に他人を家の中に入れることができなくなるという心理は極めて正常な心理である。

この事件後、介護支援専門員の省令が改められ、介護支援専門員の欠落事由に「罰金刑以上に処されたもの」や「介護支援専門員等の業務に関し不正または犯罪があったもの」が追加された。

しかし当時のことを思い出すと、個々の介護支援専門員の信頼が回復して家庭訪問が容易になるまでに、かなりの時間を要したものである。

そういう意味では、密室となり得る家庭に訪問して様々な支援を行う介護支援専門員や居宅サービス従事者は、法律を守るだけではなく、利用者から信頼を寄せられ、安心して支援サービスを受けていただけるように、高い倫理観を持つというコンプライアンスの視点が不可欠である。事業管理者はこのことを最も必要なスキルと考え、常に職員教育に努めねばならない。

そしてサービス従事者は、密室であるがゆえに、誰からもみられていなくとも、自身の良心に基づき恥ずかしくない行いをするという、当たり前の考え方をもつことを心すべきである。悪いことをしてもばれなければ法律上の罪には問われないが、それは必ず自身に、何らかの形で不幸として返ってくるということを覚悟すべきである。

しかしその後も、ホームヘルパーによる窃盗事件や、様々な犯罪が自分の立場を利用して行われるということが無くならない。これは本当に何とかしなければならない問題で、処分や刑罰も厳しくしなければ・・・。しかし犯罪が行われてからの処分は後追いの対応で、そこで被害を受けた人の傷は消えないし、ましてや命や財産は戻っては来ない。お金ならあきらめもつくだろうが、奪われるのが人の命であれば、それはこの世のかけがえのないものが消えてしまうということであり取り返しがつかない。本来それは、決してあってはならないことなのだ。

ところで今日のタイトルは、過去のその事件を指したものではない。また介護サービスの信頼が揺らぐようなひどい犯罪が明るみになりそうである。

昨日からニュース等で話題になっている34歳の女による結婚詐欺事件と、その周辺の関係者が何人も不審死している事件のことである。

この事件そのものがショックで、ひどい犯罪だが、この事件に関連するかもしれない問題として、この女がホームヘルパーとして関わっていた独居の80歳の男性が、女が訪問した日に家が出火し焼死している。もしこれが殺人事件に発展して、ヘルパーという立場が利用されたとすれば大変なことである。世の中の大多数の真面目で誠実な訪問介護員全てが、世の中から「疑いの目」で見られかねない。介護業界にとって深刻な問題である。

非常に心配と困惑をしている・・・。

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在宅復帰の検討をめぐる価値観

昨日の短いブログ記事に様々な意見をいただいた。全てのコメント(表に出ていない拍手コメントも含めて)に感謝申し上げたい。

実は昨日の記事は、今日の記事のプロローグである。住まいとしての特養の役割について、今日はいつも通りの少々長い文章で書かせていただく。

特養が「生活施設」であるといわれて久しい。

それは特養の機能として社会から求められてきた役割であり、その意味は単に家庭に替わって、家庭での暮らしに近い生活を実現する支援を行うということにとどまらず、特養も高齢者の生活場所のひとつとして選択できる「住まい」となり得るということである。よってその延長線上には、いつまでも安心して生活できる「終の棲家(ついのすみか)」として終生施設の役割を必然的に持たざるを得ず「看取り介護」という形でターミナルケアも必要とされてきたのである。

つまり特養はすでに高齢者の「住まい」の一つとして考えられて制度設計なり、整備計画なりが進められてきたという一面がある。

ところが同時に、特養は施設サービスであるがゆえに、常に在宅復帰の可能性を考慮しながら利用者アセスメントを行うべきだと考えている人々がこの国には少なからず存在する。特に行政の指導担当者の中には実地指導の際に、このことを強調して、施設サービス計画作成時のアセスメントの際にも必ず在宅復帰の可能性を点検する方式を取り入れるべきであると指摘する人がいる。

終生施設からの在宅復帰というわけのわからないアセスメントが行われているという意味である。

そこには自宅で生活することが施設で生活するより「幸福な暮らし」であるという価値観が存在する。果たしてそうだろうか。

確かに誰しも住み慣れた地域の中で、家族と共に生涯自宅で暮らすことは理想である。そして自ら望んで自宅を離れて施設に入所したいと思っている人はほとんどおらず、それは特養も同じであろう。多くの場合、やむにやまれない事情があって、しかも入所する本人ではなく、家族の希望により特養に入所される方が大部分であることは事実である。

しかし同時に、利用者本人が望まない入所であっても、いつしか入所後の日常生活を施設内で作り上げ、幸福に暮される方も数多く存在する。その中には施設入所後の暮らしの方が在宅時の暮らしよりも豊かである場合も多い。施設入所することによって壊れていた家族間の人間関係が修復された事例もある。

もちろんそのことは各家庭の「介護力」という問題が大きな要素となっているのであるが、現実の少子高齢化で核家族化が進行し、世帯人数が著しく縮小を続ける我が国においては、十分な介護力がない家庭の方が多数派であり、それがスタンダードであるという理解も必要である。

人類がかつて経験のない超高齢社会で、全ての人々が健康で障害を持たずに暮らしているわけではない。そこには我々が想定外としていた様々な個別事情と個別の生活障害が毎日生まれてくるのである。そうすると地域や自宅の生活にも想定外の様々な「不便」が出現してきて、その解決には様々な経験を経るために長い時間がかかることが多い。実際の生活者にとってはこのタイムラグは深刻で、その不便は知らず知らずのうちに「不幸」へと置き換わってしまう。自宅が最良の暮らしの場であるという価値観だけで救えない問題である。

よって超高齢社会の新たなライフスタイルは、様々な介護サービスを巻き込んで考える必要性があり、介護施設や高齢者専用施設も「介護サービス」としての選択にとどまらず「新しい社会システムに中の住まう場所」としての選択と考える必要がある。

高齢者が生涯暮らしの場として特養を選択したって良いし、そこでことさら在宅復帰を最良の価値観とする必要はない。

高齢期で何らかの援助が必要な人の「住まう場所」「暮らしの場」を持ち家か賃貸住宅か、という選択だけではなく、特養等の介護施設もその選択の中で考える必要もあるという意味であり、そこでは在宅復帰が何より求められるニーズであるという価値観はあり得ない。

当然のことながらその前提条件は「住まう場所」として選択されるべき場所が、人の暮らしを豊かに営むことができる場所である、という必要があるわけで、劣悪な生活環境や支援体制であっても「選択したものの自己責任である」ということにはならない。

なぜならそこは人の命を預かる場所でもあるのだから、法律を超えた倫理観が求められる場所であるからだ。

だから特養等の介護施設で必要なアセスメントは「在宅復帰の可能性」ではなく「住まいとしてふさわしい暮らしをとなっているか」「日常生活が守られる支援が行われているか」なのである。施設長の管理責任とは、マクロな視点からその部分をきちんと担保するためにサービスの質を一定水準以上に保つことである。

神様が行いをみているかどうかは知らないが、少なくとも自分自身とサービスを受ける対象者は事実をしっかり見つめている。そこでの罪はやがて自らの心によって裁かれるであろう。人とはそういう弱い生き物なんだから・・・。

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介護老人福祉施設の役割。

今日はいつもより、かなり短めの記事を書く。

というのも忙しいからではなく、先日10年ぶりに出会った大学の同級生に、僕のブログ記事は時々長すぎて最後まで読まないことがあると言われたためだ。

確かに僕は文章を書くのは嫌いではないので、長い文章を書くことを苦にしない。その為時々、読者にはくどくて長すぎる文章になる傾向があるようだ。ということで、今日は短い文章で要点をまとめる訓練として、僕の主業務である「介護老人福祉施設」とは何ぞや、というテーマで、その役割を簡潔にまとめてみたい。で、本題
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介護保険制度の創設時に「居宅サービス重視」が唱えられ、在宅で生活を続けることが良い暮らしで、施設入所はできるだけ避けるべきであるかのような価値観が広がった。施設サービスはあたかも「必要悪」のように考えられる傾向さえあった。

しかし地域福祉の両輪は居宅サービスと施設サービスである。在宅で生活している高齢者が、何らかの理由でそれが難しくなった時、施設入所して、家族に代わって施設職員が生活支援を行うことは社会資源として必要不可欠な機能である。

つまり施設サービスとは地域社会におけるセーフティネットの役割を持つのである。

また個別状況もニーズも多様化する超高齢社会に於いては「住まう場所」の多様化が必要で、何らかの生活障害を抱える要介護高齢者にとって、介護老人福祉施設は「住まい」の選択肢の一つであり、それは既に老いを支える「豊かな人間関係が存在する地域」と考えていく必要がある。

そのためには施設入所しても「個人の思い」が実現できる暮らしの場である必要があり、特養には安心・安全の暮らしが続けられる終生施設として存在意義と役割がある。

つまり介護老人福祉施設は、他の施設と比較しても「豊かな暮らしの場」として選択される施設となる必要があると同時に、地域の介護問題の最終的セーフティネットとして、看取り介護ができ、最期の瞬間まで暮らし続けることができる安心と安全を保障する終生施設としての役割が求められる、と結論付けてよいだろう。
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以上。この程度の短い記事も書くことはできるのである。・・・でも、あんまり面白くはないか?

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いざ日本シリーズへ

ファイターズが日本シリーズ出場を決めた。

北海道は昨晩からこの話題でもちきりである。しかし・・・。全国的にはファイターズの勝利より、読売ジャイアンツの勝利や、ファイターズに敗れた楽天ノムさんの話題のほうが大きく取り上げられている。

だけど・・やっぱり、我々北海道人はファイターズの勝利が一番だ。このクライマックスシリーズも大いに盛り上がった。その一因は、やはり野村楽天の後半戦のすごい勢いと追い上げであった。シーズン後半の楽天は本当に強かった。宮城県はじめ東北も大いに盛り上がり、野球ファンも増えただろう。いつかこのチームがチャンピオンになって、東北の人々を歓喜の渦に包む日が、そう遠くない時期に訪れるだろう。

楽天の勢いを止めたのは、ファンとファイターズが一体となった第1戦の奇跡的逆転サヨナラ勝利である。もしあの試合が、9回に何も起こらずズルズル負けていたら、もしかしてファイターズの4連敗があったかもしれない。それほど楽天の勢いはすごかったし、あの1勝は大きかった。

※それぞれの画像はクリックすると拡大表示します。

スレッジ逆転満塁サヨナラ弾初戦奇跡の逆転サヨナラ歴史に残るサヨナラ劇のスコア




エース・ダルビッシュがいない中、第2戦は来期にローテーション入りが期待される糸数が頑張った。彼は今年インフルエンザで投手陣が機能しなくなったときも救世主になったし、節目で活躍し自らの勝利数以上にチームに貢献してくれた。

そして救助投手陣の充実によりシーズン中のほとんどを2軍で過ごし、調子がよくても1軍から声がかからなくても腐らずチャンスを待ち続けた男がここで満を持して登場した。ノーアウト満塁のピンチで救助登板した金森は、大阪・羽曳野の少年野球チームでダルの怖い先輩だった。彼の気迫の投球が楽天エース岩隈との投手戦を制す切り札になった。

3戦目をマー君にひねられた後、最終戦となった第4戦では、シーズン中にベンチを暖めることが多い時期の屈辱を耐え、決して腐らず、ベンチ内でもチームメートを明るくして、声をだし続け、再び這い上がってきたヒチョリが爆発した。
第2戦のヒーローヒチョリ・ヒーローインタビュー森本は最終戦4安打の活躍






チームで機能するファイターズの真骨頂だ。



09クライマックスS表彰式勇者集合表彰式





でもファイターズは、限りなく優しい男たちの集団でもある。最後に野村監督を両チームで胴上げした瞬間は最高の盛り上がりとなった。・・・でもノムさんのボヤキが聞けなくなるのはやっぱり寂しい・・。東北のファンも残念だろう。

梨田監督とノムさんの握手ノムさん胴上げノムさん胴上げ2







今度の相手はあの巨大戦力のジャイアンツである。しかもエースのダルは日本シリーズ出場も厳しい状況だ。本人はブログで「絶望的といわれてますが、でも何とかします」と語っているが、彼のコンディシュンは、ファイターズだけの問題ではなく、日本の宝だから無理してつぶすことはできない。厳しいシリーズになるだろうが、ファンが声援で後押しして、あの強い巨人を倒したい。



札幌ドーム

ちなみに北海道に来られたことがない方はぜひ、日本シリーズ観戦にドームを訪れてはいかがでしょう。一緒に応援しましょう。ちなみに僕はシリーズチケットの先行販売でシリーズ初戦31日(土)のレフト外野指定席(つまりファイターズの応援団席:この席はなかなか手に入れにくい貴重なチケットである。)チケットは既に確保している。

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教員の危機管理意識は低過ぎないか?

当地域でも小中学校を中心にして新型インフルエンザによる学級閉鎖が相次いでいる。

この猛威は誰の責任でもないが、学級閉鎖や学年閉鎖のタイミングがどうも遅いように思うのは僕だけだろうか。予防ワクチンが行きわたっていない現在の状況では発症者が一人でも出れば複数の児童生徒が感染していることが想定できるので、その時点で閉鎖すべきだと思うが、複数の発症者が出ないと、そうした取り扱いにはしていないように見える。それでは遅い。

新型のウイルスで、ワクチンの量の確保も不十分なんだから、過去のどの例も参考にならないはずで、早め、早めの対策が求められる。転ばぬ先の杖は、この問題に限ってはつきすぎたってよいのである。

これらの対応は、教員の意識の問題とは別だろうが、しかし教員の危機意識が足りないと思われる節もところどころに感じられる。学校外の活動や、行事だって、この時期のみ、少し自粛すべきだと思うが、そこまで必要ないと考えている教員もいるようである。

ところで我が施設でも、この意識のずれを感じる事例が引き起こった。

市内の中学校から生徒2名の体験学習の依頼があった。事前訪問で説明と施設案内を行って、いよいよ当日になると、1名が発熱による体調不良で欠席となった。これはよい。無理しないことは大事だし、新型インフルエンザが猛威をふるっている現状では、少しの発熱でも無理してはいけない。「平熱でなければ休む」が基本である。このことは施設側の事前説明でしっかりアナウンスしている。体験学習などいつでもできるのであるから・・。

しかしもう一人の生徒が、発熱があったものの、高熱ではないからという理由で休まずに出席してきた。しかし咳も出ているし、熱も36.9℃ある。すぐ体験学習中止させ帰宅を指示した。もちろんただの風邪かもしれないが、病気や程度の問題ではなく、症状があれば、特養や通所サービスの利用者に感染させる危険性があるから、学習であっても来てはいけないのである。

すぐ学校に連絡したが、タクシーですぐ帰せとも言わず、先生が迎えに来るという。生徒は静養室で安静にしてもらっていたが、結局1時間以上過ぎて迎えに来たが、僕の知らない間に連れて帰った。

まったく福祉施設での体験学習に臨むに際して意識が低過ぎる。これは生徒自身の自覚という以前に、体験学習に臨む学校側の事前教育がなっていないという問題だ。もちろん施設側からも、本人に事前訪問で注意はしているが、初めて訪れる施設で説明を聞いても、舞いあがっていたり、注意事項がたくさんある中で、どうしても消化しきれないものがあるのはしかたない。それを防ぐためには、学校が常日頃から一番注意すべきことは何かを伝えておくべきで、それは施設から学校に要請していることでもある。生徒が体調不良なら学校に連絡し迷わず休ますべきで、そういう事前指導を学校側が行っていなければ問題である。

そのため校長を呼びつけて強く抗議した。おそらく僕より年上であろうが、人生の先輩といったって、こういう問題では遠慮できない。人の命を預かる施設として当然の疑問であるが、体調不良の際の対応を生徒指導しているのかと厳しく問うた。「している。」というので、ではなぜ伝わっていないのか、実行されないのかが問題である、と強く指摘した。

迎えに来た教師にしても、施設側に挨拶もなく帰ってしまうという社会常識の欠如が、生徒指導が行き届かない根本原因ではないか。

そもそも手洗いやうがいといった基礎対策の大事さは理解しているようであるが、新型インフルエンザとは何かという基礎知識にも欠けているようで、菌とウイルスの違いもわかっていない。医療関係者でなくとも、子供を守るべき教員なら、その程度の知識は持っておくべきだろう。

こんなに新型インフルエンザの問題が大きく取り上げられているのに、教育の現場で教師にこれほど危機意識が薄いと、小中学校で感染が拡大しているのは、ウイルスの猛威というだけの問題ではないように感じてしまった。

教師の不勉強はしゃれにならない・・・。

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丹波黒豆を食す幸福。

枝豆といえば、その王様は言わずと知れた「丹波黒豆」である。

何が王様かといえば、もちろんあの黒光りする色と、普通の枝豆と一目で違う豆の大きさもそうであるが、何よりその味である。この黒豆を一度食べたら、普通の枝豆は別の食品と思わなきゃあ食べられない。丹波黒豆の絶品の味は、他と比較にならないのである。ビールに合うかって?あなた!!当たり前のことを聞いちゃいけない。合うどころか、そこいらのビールが全部なくなるほど、グイグイ飲んじまいますぞ。こりゃたまらんわい。

この丹波黒豆。緑風園ではありがたいことに、毎年本場から送ってくださる人がいる。いえ何も施設長の私がポケットマネーをはたいて、ネット通販で購入しているわけではありませんぞ。無料でプレゼントしてくださる、優しい神様のような人々がいらっしゃるのでありんす。かれこれ何年になるだろうか、忘れてしまうほど以前から毎年ですぞ。

それは兵庫県・丹波篠山市の黒豆農場で作られた正真正銘の「丹波黒豆」であり、篠山市役所の皆さんと、その協力者の皆さんによって、丹精込めて作られたものである。

それを、あのお優しい丹波篠山キミオーさんが送ってくださる。キミオーさんはじめ篠山市の皆さんには感謝、感謝の涙である。

I栄養士も丹波黒豆は初体験丹波黒豆ゆであがりました丹波黒豆

今年は当施設の管理栄養士が新卒のIさんに変っているが、彼女はまだ丹波黒豆を食べたことがないということで、めでたく初体験である。大変楽しみにしていたようである。(もちろん利用者さんからおすそわけをいただいているという意味である。)

黒豆を味わっていただく主役は緑風園の利用者の皆さんである。特養の利用者はもちろん、デイサービスの利用者にも1週間にわたって全員に丹波黒豆を味わっていただく。風邪気味のKさんも、血圧が高いから休もうかと迷っていたYさんも「今週黒豆が届く」と分かったとたんに、休まないことにしたようだ。

まあ何はともあれ、画像で皆さんの美味しそうで、幸せそうな顔をご覧ください。

丹波黒豆会丹波黒豆会丹波黒豆会ビールがすすむ丹波黒豆





ビールと黒豆で最高の気分丹波黒豆会ノンアルビールにも黒豆はあう丹波黒豆会





丹波黒豆会丹波黒豆で乾杯





↑特養の皆さんは午後からビヤホール風に黒豆を堪能してもらいました。ビールも進みましたね。

黒豆おいしいね、デイ利用者さん黒豆に笑顔のデイ利用者さんデイの昼食に黒豆を追加黒豆を食べる通所介護の利用者さん






デイ利用者さん黒豆を食す黒豆に満腹・通所介護通所介護の皆さん





↑デイサービス利用の皆さんには昼食のお膳に添えて味わっていただきました。昨日から1週間続きます。非常に好評です。

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