masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

混合介護は、訪問介護員の矜持を奪うことにならないか


介護保険給付対象となっている公費サービスに加えて、公費がカバーしていない部分の自費サービスをプラスしてサービス利用する形態が、「混合介護」と称されている。

例えば介護保険の訪問介護を、身体介護や生活援助(家事援助)として使いながら、保険給付の対象となっていない趣味活動への参加や、大掃除などの特別な家事を上乗せして利用するような形態が考えられる。さらに要介護者の保険サービスと、要介護者ではない人の保険外サービスを同時一体的に提供する形態も、混合介護として考えられる。

現在認められていない混合介護を、来年4月以降に認めるかどうかを判断する議論が行われているが、同時に東京都豊島区で、このモデル事業が実施されることになっている。その経過や結果に注目しなければならないが、果たして保険給付サービスと組み合わせて実施される、「保険外サービス」は、どこまで範囲が広げられるのだろう。

そもそも保険外サービスを、ある一定のくくりの中に入れてしまうことは可能なのだろうか。それが難しい場合には、保険外で求められるサービスは、際限なく広がることにならないのだろうか。

要介護者の身体介護を行う傍ら、趣味の盆栽の鉢の水遣りや、ペットの世話などが保険外で行うことを求められないだろうか。そこにどれだけの制限ができるのだろう。

ここで一つ、僕が懸念することがある。

混合介護が実施される中心となるサービスは、訪問介護だろうと思われる。

現在、訪問介護員は、介護保険法で定められた基準等の中で、一定の資格を持ってサービス提供ができることになっており、無資格者が行うことのできる保険外サービスではない部分を担うという責任が与えられている。

そうであるがゆえに、訪問介護員の担う業務は、介護の専門家としての業務であり、家政婦の仕事とは一線を画しているとして、その矜持を支えにして仕事を続けている人も多いはずである。

混合介護の解禁は、一面訪問介護員と家政婦の垣根をなくすことに他ならないから、訪問介護員が仕事を続ける動機付けともなっている、この矜持を奪う結果にならないのだろうか。

訪問介護員自身は、その矜持を保とうと努力したとしても、周囲から家政婦化が求められ、お金を支払うことのできる利用者の要求であれば何でもありの状態が生じたり、会社からそのことを求められたときに、まるで利用者の召使いであるかのような状態で、仕事をせざるを得ない訪問介護員が存在することにならないだろうか?

混合介護が求められる一つの理由とは、保険給付サービスと同時一体的に保険外サービスを提供することによって、事業者収入を増やして、収益が上がった部分を従業者に還元することで、結果的に職員の待遇改善が可能になることを視野に入れたものである。

しかしその背景としては、保険給付自体は現在より単価を上げることはできず、むしろ社会保障費の自然増部分を半減するという政策の中で、介護給付費用も抑制する中で、保険サービスだけに頼る事業者は、収益が下がることが必然であり、その中で事業経営を継続する手段として、保険給付以外の収益を与えるという政策にほかならない。

つまり国として財源抑制のために、保険給付費用は下げざるを得ないが、介護サービス事業者はそのことによってなくなっては困るという意味である。制度あってサービスなしという状態を作らないために、国民の自己負担サービスによって、事業者の収益を確保させようとする政策の一つが、混合介護である。

だから混合介護が実現したとして、そこで訪問介護員は、保険給付サービスと保険外サービスを同時一体的に提供するに際して、業務量は大幅に増えるが、保険給付サービスの単価は下がった中で、保険外サービスの費用が収益として計上されるに過ぎず、そのことで待遇改善がされるのか、されるとしたら給与にしてどれだけの額になるのかは極めて不透明である。

そうした不安定な状況下で、訪問介護のプロとしての使命感や、介護の専門家としての誇りが奪われかねないとしたら、この仕事に就こうとする人は今後いなくなる可能性はないのだろうか?現在訪問介護員として働いている人は、その仕事を続けられるのだろうか?それは極めて怪しい。

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カンフォータブル・ケアとは何か。


医療機関の職員の言葉に違和感を覚えた人からのメール、から続く)
カンフォータブル・ケアとは、北海道旭川市の北仁会・旭山病院の看護師長である南敦司氏が命名し、同病院で実践されているケアだそうである。

それは認知症の人に、心地良い快刺激を与えるケアとされており、認知症の人の行動・心理症状(BPSD)を鎮静化するとともに、看護者・介護者にとっても、ストレスフルな感情の払拭や、患者への陽性感情をもたらし、技術を高めるプロ意識の発生とモチベーション向上により、燃え尽き防止にもつながっていくとされている実践法である。

僕はその方法論を専門的に学んだことはないので、正確にその方法論をここで示すことはできないが、カンフォータブル・ケアを実践している看護師さんなどを見ると、認知症の人に対して、笑顔で視線を合わせて接していることが分かる。笑顔は人に伝染するということの実践ではないだろうか。そのことは日ごろ僕が示している考え方とも共通する。(参照:笑顔はプロの心得なり

そして認知症の人に話しかける言葉も、敬語であることが分かる。

認知症の人は、毎日親しく接する看護職員・介護職員であっても、毎日その人の顔を忘れてしまう。そのためいきなりタメ口で話しかけられたら、恐怖か不快しか感じないのである。カンフォータブル・ケアの基本は、快刺激を与えることなのだから、言葉がそのことに重要な役割を果たしているという意味は、いかに敬語・丁寧語以外が認知症の人にとっての不快要因であるかの証明であり、そのことは僕の提唱する、「介護サービスの割れ窓理論」とまったく同じ考え方であるといってよいものだと思う。

さらにカンフォータブル・ケアの実践者を見ていると、適切なスキンシップを大事にしていることも分かる。そして快刺激を与える=その人にとって不快な話題はできるだけ避ける、ということにも注意が向けられている。

認知症のケアの方法論として、バリデーションとか、パーソンセンタードケアという考え方があって、利用者を中心に、利用者本位で考えることが、認知症の人の気持ちを理解するために求められることであることは広く知られているが、同時に関わる看護・介護職員等の表情を含めた接した方を、快刺激・不快要因として重視する方法は、対人援助のプロの自覚を促すという意味でも、とても優れた方法に思える。

このように医療と看護の現場が、薬剤に頼る治療ではなく、看護者としての自分たちの対応の仕方により、認知症の症状を改善する取り組みがされ、その中で看護のプロとしての対応方法として、正しい言葉遣いがされるようになってきているわけである。

本来この方法論は、介護の現場でこそ先進的に行われるべきではないのだろうか。いや、それはどっちだって良いが、すべての看護者・介護者が、親しみやすさと勘違いして使う、馴れ馴れしい無礼な言葉が、言葉をかけられる人にとっては不快要因であることを自覚して、新しい言葉のスタンダードを作っていくという意識に目覚めてほしい。

そしてせっかく看護の専門家が、そのようなケアを実践している場においても、それを見習って同じ言葉遣いをしようとしない介護職員が居ることを恥じてほしい。

今現在、教育課程でも、資格取得過程でも、看護のそれは介護より高いレベルにあるというのが常識だ。そのような中で、誰でも実践可能な言葉の改革さえも遅れをとるようなら、介護職員の大幅な待遇改善など期待できない。介護を悔悟にしないためにも、看護の場に負けない適切な言葉遣いを7、介護サービスの場からの発信としていく必要があるのではないだろうか。

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医療機関の職員の言葉に違和感を覚えた人からのメール


SNSなど、インターネットを利用した情報媒体の拡散力・影響力はすごいものだと思うが、だからといってそれだけに頼っても、情報の広がりには限界があるのかもしれない。

むしろアナログの情報媒体しか見ない人もいるので、アナログをまったく無視してしまっては、それらの人にはいつまでたっても伝えられないこともある。インターネットを使いこなしていても、SNSは好まないという人もいる。そういう意味ではデジタル、アナログの別もなく、様々な情報媒体を利用することで、情報伝達の広がりを持たせることができるといえるのだろう。

不特定多数の多くの人々に、伝えたいものがある人にとっては、そのことは大事な考え方であると思う。特に介護というすべての人にとって無縁でないものについて、それをよりよいものにしようとするための情報伝達は、あらゆる媒体を酷使して伝えたいものだと思う。

というのも、先週金曜日のブログ記事で紹介した、「みやざき中央新聞」に載った僕の講演内容が、思わぬところで拡散しているからだ。その新聞を読んだある人から、次のようなメールが届いた。氏名を伏せて紹介させていただく。
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こんにちは、初めまして。群馬県で高校の教員をしている○○○○○と申します。
「みやざき中央新聞」の記事を読みました。自分の中にあった理解できない思いが理解できました。

以前、父が入院していた時に、看護師さんの言葉がタメ口で何となく気になってました。でも、看護師さんも一生懸命な人ばかりで、そして、病院ではタメ口が普通で当たり前なんだ・・・と思ってました。でも、違和感というか、何となく父が子ども扱いされてるようでモヤモヤするものがありました。

この「みやざき中央新聞」の菊地さんの記事で、モヤモヤの原因がわかりました。やっぱり、丁寧な言葉が必要ですよね。とても、スッキリしました。ありがとうございました。

自分は女子校に務めており、看護(介護)希望も多い学校です。生徒にこの記事を読ませて、生徒が「言葉」について考える機会になればいいなと思ってます。

突然のメールすいませんでした。次号の「みやざき中央新聞」を楽しみにしてます。ぜひ、これを機会に今後もよろしくお願いできたらと思ってます。

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医療機関の看護師の言葉に違和感を覚える患者さんや家族は、決して少なくないのである。しかしそれらの人々も、そうした言葉を使う人に、直接その違和感を訴えることはない。そんなものかとあきらめてしまうか、不快な思いを胸の奥にしまいこんで黙ってしまうのだ。

それに甘えて、いつまでも顧客である患者さんや利用者さんに「タメ口」で話しかけることを恥ずかしく思わなくて良いのだろうか。その姿は対人援助のプロとしてはみっともないことこの上ない。

介護サービスの従業者も同様だ。医療現場の看護師を始めとした様々な関係者が、自らの口から発する言葉に鈍感なままだからといって、介護サービスの場も、その物まねのような汚らしい言葉遣いのままでよいわけがないと自覚すべきである。

無礼な馴れ馴れしい言葉遣いが、いかに利用者の尊厳を奪うかということを自覚し、お客様である利用者に適切に対応し、その心と暮らしを護るために僕が提唱しているのが、「介護サービスの割れ窓理論」である。

この理論を提唱して20年以上経つが、なかなか介護サービスの場に浸透しないのが現状だ。勿論一部の人々には受け入れられて、実践されているものの、すべての介護サービス従事者が、「タメ口」という醜い言葉遣いを捨て去らない現状は続いている。そのことは本当に残念に思うとともに、利用者やその家族の立場に立って考えたときには、本当に哀しくなる。果たして介護は、哀しみをつれてくるものなのか・・・。そんな疑問さえ持つ。

介護サービスの場で、利用者を傷つけたり、不快感を与える危険性を排除できない言葉遣いが続けられているうちに、その原因であるとして僕たちが批判してきた、看護の現場の言葉遣いには変化の兆候が見られる。それは一部の看護現場に過ぎないといえども、言葉遣いを見直そうという機運がみられる。

反面教師としてその言葉遣いや、態度を見るべきだとしていた看護サービスの場で、明らかに以前と違う考え方が生まれている。

それが認知症の人の看護に携わる医師や看護師によって実践されているカンフォータブル・ケアである。

ではカンフォータブル・ケアとは何か?今日は時間がなくなり、字数も長くなったので、明日の記事でそのことを書こうと思う。(明日に続く)

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100人の一歩を創る旅


僕の日常では、週末の土日に道外講演が入っていないことのほうが少ない。場合によっては何ケ月も続けて休養という意味の休日がなく、平日は本業を行い、土日は講演が続いていることも多い。

だからといって、それがつらいことだと思ったことは一度もない。むしろ僕にとってその状態は好ましく、生きがいにつながっているといってよいだろう。

それは僕の考えを聴いてくださる人がいて、思いを共有してくれる仲間だでき、それらの人と距離は離れていても、ずっとつながり続けていることができるという意味だから、こんな幸せなことはないと思う。

このブログに何度も書いていることだが、人にとって一番お財産は、お金でもものでもなく、人とのつながりである。そんなつながりが広がり続ける旅は、どんなに時間がかろうとも、心身ともに心地よいものであって、つらさなどひとかけらもない。

今月に入ってからも、久留米講演〜先週末の三島講演と、旅が続いているが、そこで旧交を温めあった人や、新たに出会った人とつながりができたりして、本当に幸せな時間を過ごしていた。

先週は金曜日から静岡県・三島市にお邪魔して、日曜の夕方に北海道に帰ってきたが、三島の3日間も楽しい思い出ばかりの旅となった。

金曜の夜は、前日入りであったが、かねてよりフェイスブックでつながっていた、居宅介護支援センター久根の荒井所長が、僕が一人寂しく飲むのを可哀そうに思ってくれて、地元の名店「つばさ寿司」に連れて行ってくれた。

居宅介護支援センター久根荒井所長と
荒井所長とはこの日が初対面であったが、すぐに打ち解けて、熱い話ができた。この日のメニューなどは、「お寿司屋さんの戸は、開かないで押すし・・。」をご覧いただきたい。荒井さん、ありがとうございます。また会いましょう。

さて2日目の土曜日が、講演本番であった。講演前には、三島名物の「うな重」で精力をつけさせていただき、(これがまた絶品のううまさであった。)講演に臨んだ。

三島市介護支援専門員連絡協議会研修会
過去最高の参加人数となったそうであるが、2時間半の長い講演を、誰一人寝落ちする人もおらず、皆さん熱心に聴いてくれた。最後に映した動画には、たくさんの感動の拍手をいただき、僕自身も感激した。

今回は巷に存在しているという、「ケアマネ不要論」の実態・その真実を語るところから入り、期中改正を含めた制度改正に関する最新情報とその解説、建前論を排除した地域包括ケアシステムの実情と、その中で求められるケアマネジメントのあり方についてお話ししたうえで、そこで作り上げるべきケアサービスの具体像を示した。

せっかく150分という時間をいただいているにもかかわらず、後半の一部が尻切れトンボになって、話すことができなかった部分があり申し訳なく思った。ぜひ、その話を含めた別のお話をする機会をいただきたい。また飛んでまいりますので、三島の皆さんよろしくお願いします。

講演後はお決まりのオフ会。
三島市介護支援専門員連絡協議会事務局の皆さん
この画像の僕の向かって右横におられるのが、今回連絡等でお世話になったケアマネジャーの渡部さん。ご主人と一緒に居宅介護支援事業所ふじしろと、小規模デイサービスを経営されているとのこと。本当にお世話になりました。2次会まで楽しく三島の夜を堪能しました。なおオフ会メニューは、「蒲焼き、常に食べてるカバやキツネ」をご覧ください。

そんな楽しい夜を終えて、翌日曜日は、北海道に変えるだけだったので、時間もあったことから、三島大社に寄ってきた。
三島大社の桜
もう桜が咲いていた。今年最初に見る桜が、パワースポットの三島大社の桜になろうとは、きっとこれから良いことがあるだろうと期待している。

羽田空港に向かうために新幹線を待っていたホームからは、富士山もきれいに見えた。
新幹線ホームから見える富士山
本当に良い3日間だった。三島の皆さん、またお会いしましょう。

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介護に携わる全ての人に勇気と元気を


今僕は、新千歳空港のJALラウンジで、コーヒーを飲みながら、飛行機への搭乗待ちの時間を使って、徒然なるままに記事を更新しているところだ。平日の仕事に忙しい思いをしている方々には、まことに申し訳ない思いである。しかし僕とて、普段は意外と忙しい暮らしを送っているのである。

例えば人が暮らしていく以上、何らかの形での行政手続きは欠かせないが、僕の今の暮らしの中では、この手続きの時間がなかなか取れないでいる。

現在僕が勤務する千歳市の老健施設は、自宅から距離にして片道約90キロ離れた場所にある。毎日の通勤は一般道路を使って片道2時間弱かかるため、仕事が終わった後に、居住地で行政手続きをしようと思っても、とっくの間に閉庁時間が過ぎている。土日に窓口が空いていない限り、平日に休みをとって手続きをするしかないのが不便なところである。

そうであるからこそ今日のような平日の休みは貴重である。今日は静岡県三島市の講演に向かうために休みをいただいているのだが、講演は明日なので、今日は移動するだけの予定のため、朝早くから動く必要はなく、自宅近くのバス停から10:40発の高速バスに乗って、先ほど新千歳空港に着いたところである。

そのため今朝は、バス時刻まで十分余裕があったので、朝一番で登別市役所に出向き、今日から始まった確定申告のための必要書類を取って来た。申告自体は後日行うが、これでなんとか3/15までに申告を終えられる目途がついたというところである。一安心といったところか・・・。

そのほかにも今朝のうちに連載原稿を2本仕上げるなど、時間を有効に使うことができた。少し幸せな気分である。

まだフライト時間には間があるが、本日、羽田空港に降り立つのは15:40の予定だから、おそらく三島駅には午後5時過ぎには到着できるだろう。今晩は地元の人と一献酌み交わしながら、明日の講演内容につながる話に盛り上がるかもしれない。愉しみである。

話は変わるが、一昨日九州の、「みやざき中央新聞」が僕の手元に送られてきた。
みやざき中央新聞
これは昨年7/3に東京都港区で行われた、介護甲子園主催セミナーでの僕の講演で話したことがまとめられた記事である。一面トップの半分のスペースが僕の講演内容で埋まっている。なかなかの壮観である。

対人援助の専門家として持つべき使命感や、抱くべきホスピタリティの精神について、「介護サービスの割れ窓理論」をベースに語っている部分が紹介されている。

このことは時代がどう変わろうとも、地域包括ケアシステムがどう運用されようとも、僕たちがベースに持っていないとならない考え方だと思う。明日もそんな話を入れようと思っている。そして今後も全国のいろいろな場所で、そんな話をし続けようと思ったりしている。

そういえば、いよいよ新著作本を上梓する話も具体化してきた。書く書くといいながら、転職のあわただしさや、通勤時間の長さを理由に時間がないと言い訳しながら、執筆を先延ばししていたが、6月に日総研出版社から新刊を出版する方向で、今原稿を書き始めている。そこで主張する大きなテーマは、「介護の誇り」になるだろう。介護に携わる全ての人に勇気と元気を与える内容となる予定だ。

これからの問題は、6月の出版に向けて、うまく時間を見つけながら3月いっぱいまでに原稿を仕上げられるかということだ。頑張ろう。

予定通りに行くと、6/10(土)田村駒ビル(大阪市)で行う、日総研出版主催看取り介護セミナー会場で、初版本の出版記念販売ということになると思う。そのあと、全国の講演会場で、新刊販売ができるだろう。全国の皆さん、どうぞよろしくお願いします。

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介護福祉士会の意見はごもっともではあるが・・・。


1月31日に書いたブログ、「介護福祉士国家試験の受験者減も国の政策だぞ」の中で、僕は国家試験受験者数半減の原因は、 実務者研修(450時間)の受講という高い壁ができたためだとし、しかもそのことは前々から予測されていたことであり、国もそのことによって受講者数が減ることは想定済みであると論評した。

しかし一部の関係者からは、受講者数の減少の主たる原因は、実務者研修(450時間)という壁そのものではなく、この壁を避けるためにここ2年ほどの間に、駆け込みで国家試験を受ける人が増えたため、その分の人数が今年減っただけであり、元の受講者数に戻っただけだという声が聞こえてくる。そして、その声に対し無批判に同調する意見も見られる。

だがこの分析は正しいとは言えない。むしろ全く根拠のない間違ったものであるといいたい。

そもそも減少した受講者数の具体的な数と、「駆け込み試験受験者数」と比較したデータは、どこに存在するのかと問いたい。

今年度の介護福祉士国家試験受験者数の半減とは、具体的に言えば、平成27度の国家試験受験者数は16万919人だったが、28度度のその数は7万9113人に減ったというものである。

ではここで下記の表《介護福祉士国家試験受験者数の推移》を見ていただきたい。
介護福祉士国家試験受験者数の推移
29年度介護福祉士国家試験受験者数
介護福祉士国家試験の第1回目は、平成元年度なのだから、回数がそのまま平成の年度に重なる。つまり27回目の試験は、平成27年度試験なのだからわかりやすい。

これを見てわかるように26年度と27年度の受講者数は確かに増加しているが、その数は過去の試験受講者数と比して大幅に増えているものではなく、22年度、23年度試験の受験者数に戻っているだけに過ぎない。28年度はさらに駆け込み受験者が増えていたこともわかる。しかし今年度の受験者数7万9113人という数字は、駆け込み受験がなくなったという理由だけで説明できる数字ではないのである。

受験者数が10万人を切ったのは、平成17年度の90,602人以来だし、その数字は平成16年度の81,008人を下回っているのであるから、この現象に大きく作用しているのは、実務者研修(450時間)の壁そのものであるといってよいと思う。

だからといって介護福祉士だけが介護サービスの人材ではないことから、このことが介護人材不足にさらに拍車をかけるという短絡的な見方にはならない。その影響が出るとしても、ごく短い期間のごく狭い範囲であると国は見ているのだ。さらにいえば、給付財源の削減のなかで、一方ではある程度のサービスの質を確保するための人材を育てるという意味では、必要不可欠な対策であると考えているはずである。そのことについては1/31のブログに書いたとおりである。

また国家試験の受験者数減については、今年度から数年間が底で、少なくとも2022年度(平成でいえば34年度)以降、確実に増加に転じる。なぜなら2022年度以降については介護福祉士養成施設を卒業した者も、国家試験に合格しなければ介護福祉士資格を取得できないからである。

また2017〜2021年度については制度変更までの経過措置期間となり、この期間の卒業生には5年間の期限付きで介護福祉士資格が与えられ、期限内に国家試験に合格するか、もしくは5年間現場で勤続することで正式に介護福祉士の資格が認められるが、期限内にいずれかの条件を満たさなかった場合には資格が失わわれるため、実務についていない卒業生の、この期間の受験が想定されるため、2020年度より早い段階で、受験者数は増加に転ずる可能性がある。

どちらにしても、介護福祉士という資格者については、社会全体の介護職員の数の確保より、質の確保という方向で受験資格や、授業内容が考えられていく時代だ。そのことを見誤ってはならない。

ところで先般の、介護福祉士国家試験受験者数半減報道を受けて、日本介護福祉士会は公式ホームページに、「介護福祉士国家試験の受験申込者半減等の報道について」という声明文を掲載している。

ここでは「資格取得方法の一元化を否定するものではないと考える。」・「今回の介護福祉士国家試験の受験者数の激減を受け、絶対基準を採用している合格基準を、政策的に歪める対応は行われるべきではないことを付言する。」という二つの主張がなされている。

この主張をザックリ解説すると、受験者数が半減したからといって、介護福祉士国家資格の取得新ルールを改める必要はないし、受験者数の激減に怯えて合格基準を引き下げるべきではないということだ。

この主張は至極まともな主張であり、介護福祉士がスキルをアップし、介護職全体のスキルを引き上げるという気概やよしと言いたい。

そもそも受験資格の厳格化と、資格取得のハードルが高くなることは、介護福祉士というの資格の価値を高める可能性を持っているから、その資格者の職能団体にとっては歓迎すべきことなのである。

例えば介護職員処遇改善加算は、無資格者も含めてすべての介護実務に携わる職員を対象とし、これによる介護職員の待遇改善を図って介護職全体の数を担保しようとする国の政策の中で、介護福祉士という有資格者のブランド力をアップさせ、差別化を図って、処遇改善加算プラスアルファの待遇改善を求めるためには、目に見える形のスキルアップが必要だ。

そうであれば介護福祉士等がたん吸引や経管栄養などの医療行為を行えるようになるには、喀痰吸引等研修といった専門資格を修了する必要とされているが、実務者研修のカリキュラムには、喀痰吸引等研修で受講する基本研修も含まれているため、喀痰吸引等研修の基本研修は免除され実地研修を受講するだけで、これらの行為を業務として行うことができるようになる。

養成校ルートも新カリキュラムによって、資格さえ取得できれば、たん吸引や経管栄養などの医療行為を行うことができる。

つまりこれからの介護福祉士はそれらの医療行為を行うことができる有資格者が大多数を占めるという意味であり、そうであるがゆえにより高いハードルを超えて資格を取得することで、従前までの有資格者とのイメージ上の差別化が図れる可能性があるわけで、そこに新たな可能性を求めるためにも、必要な改革といえるのではないだろうか。

同時にこのことは、現在の日本介護福祉士会の役員や会員にも、新しい資格者と同等以上のスキルが求められてくるという自覚が必要だ。

国家試験というハードルを越えていない有資格者や、実務者研修を受講していない有資格者に、今更それと同じハードルを超えよとはいわないが、せめて特定医療行為をできる条件をクリアすることは求められてくるのではないだろうか。

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主役を置き去りにした包括ケアにしないために


地域の主役は、地域行政ではなく、サービス事業者でもなく、地域住民である。

そのことに少しの異論も差し挟む余地はないはずなのに、地域包括ケアシステムのなかに住民参加の姿は極めて見えにくい。そのシステムが機能するために必要とされる多職種協働にも、地域住民の協働の視点が抜け落ちていることが多い。

それはなぜか。うがった見方であるが、ここに本当に住民が主体的に参加すれば、お金をかけないシステムにならない恐れがあるからではないのか。

国が地域包括ケアシステムを推奨する一番の理由は、少しでも給付費用を削るためである。それは地域住民のニーズにすべて応えないことを前提にした、限られた財源を主役に置くシステムとも言え、地域住民が主役になっては困るのではないだろうか。そのために国も住民をシステムの中に積極的に取り込むということを、あえて求めていないのではないかと思う。

そのようなシステムではあるが、責任と義務だけは地域の行政機関やサービス事業者に丸投げするというのが、多職種協働という言葉の意味でもある。

このブログで何度も指摘しているように、国が地域行政に求めている地域包括ケアシステムというものは、社会保障財源には限りがあるとして、その財源を効率化・重点化して、お金をかけるべきとこところにはかけざるを得ないが、その代わりにお金をかけなくて良いところをピックアップして、そこにかけていたお金を削り取るというシステムである。財源のかけ方も、出来高に応じた青天井の金の使い方ではなく、年額上限を設定した中でお金を使うという方法が基軸となる。

さらにその設定金額を下回るようなサービス抑制につながる状態が生じたら、報奨金を出すシステムを導入するというのが、次期制度改正であり、お金をかけないためのシステム作りという意味が、地域包括ケアシステムと呼ばれているに過ぎない。(参照:報奨金で地域他付けケアシステムは深化するのか

つまり地域行政担当課に下駄を預けっぱなしにして創造する地域包括ケアシステムは、自己責任と自己負担という言葉で、数多くの地域住民を切り捨てたうえで、地域の保健・医療・福祉・介護関係者には、多職種連携という言葉で、体の良い義務感を背負わせて、金のかからない周辺業務を強い、制度の光の当たらない部分には目を背けて、ないふりをするというシステムでもある。地域支援事業の総合事業はその隠れ蓑である。

全国横並びサービスではなく、地域の特性に応じた工夫を求めるといっても、そこでは安かろう悪かろうサービスが地域の特性であるかのように取り繕われる恐れがある。いやその可能性が高い。

地域福祉の質は、地域の関係者に多職種協働というお金のかからない耳障りの良い義務感を背負わせながら、地域行政・地域介護事業者に丸投げされただから、国はその結果にまで関与しない。すべて地域包括ケアシステムに組み込まれている関係者の責任である。

財源をできるだけかけないためのシステムとして、地域包括ケアシステムの構築していくことを、「深化」という言葉で現わし、そうしたシステムを急ごしらえしようとすればするほど、上記のような取り繕いの形骸化システムにならざるを得ない。

そんな中で、切り捨てられる人を放置しないために存在するのが介護支援専門員ではないか。

給付抑制のためにサービス利用させないと、切り捨てることが間違ってると、論理的に異を唱える方法がケアマネジメントではないのか。

地域包括ケアシステムを、地域住民に光が当たるべく、真に必要とされるシステムに向ける実践者が介護支援専門員であるし、それこそが求められるケアマネジメントの方向性だと思う。この使命を強く訴えていきたい。

今後予定されている講演予定では、介護支援専門員の職能団体会員からご招待を受けているものもあり、地域包括ケアシステムの中で求められるケアマネジメントに関連した講演も予定している。

一番近い日付のものとしては、今週末の土曜日に静岡県三島市で行われる「三島市介護支援専門員連絡協議会研修会」で、「介護の誇り 心が動く介護 〜これから求められるケアマネジメント」というテーマでお話ししてくるが、そこでは制度改正の方向性に関する最新情報の提供を行うとともに、そこでできること、すべきことを本音でお話ししてくる。僕以外の誰も指摘していない制度の真実が明らかになるだろう。

介護支援専門員の使命
このスライドは、そんな厳しい状況下であっても、どのような時代であっても、介護支援専門員として根底に持っていなければならない使命感とは何かについて語ろうとして作った講演ファイルの中の、スライドの1枚である。

このことは綺麗ごとでもなんでもなく、介護支援専門員がいつか存在意義が問われる時が来るとしても、この根幹さえ守っておれば決してその存在が揺らぐことがないという、根っことなる考え方だと思う。そのことを含めて伝えてきたい。

静岡県で講演するのは2度目である。数年前に静岡県介護支援専門員協会からお招きを受け静岡市で講演したことがあるが、その時は受講者数が550名を超える大盛況となった。今回は三島市介護支援専門員協会さんのお招きで、三島市で土曜日の午後2時から150分の講演を行う予定になっており、参加申込者もすでに150名を超えているそうである。

前回の静岡入りの際は、静岡空港を利用して当日入りしたが、今回は冬の移動ということもあり、三島市の位置も考えて、羽田空港経由で品川〜新幹線を利用して前日入りする予定である。そのため2泊3日の余裕ある行程表となった。

講演を終える日の土曜の夜は、講演主催者の方々とのオフ会が予定されているが、前日入りの金曜日の夜は、フェイスブックでつながっている方が、地元のおすすめ店を紹介してくれたので、そこで一献交わす予定にしている。もしかしたら明後日・金曜日の夜遅くまで三島駅付近を徘徊しているかもしれない。

それでは三島市でお会いする皆さん、どうぞよろしくお願いします。久しぶりの静岡県を堪能してきます。

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水分摂取は大事だけれど


昨日書いた、「洗脳介護から抜け出せない人、抜け出ようとしない人」を読んだ人が、僕のフェイスブックに質問を寄せてきた。それに対して次のような、やり取りをした。
------------------------------------------------
(フェイスブックでのやり取り)
質問者:実際水分補給が大事でして、飲んでもらわないとイケないとも思ってます。あれこれ声かけて優しく。優しく。傷つけないように。結果、毎日500ぐらいしか飲んで頂けません。医者からは1800飲んでもらうように言われたが無理です。あれこれ声掛けを工夫しながら無理ない範囲で無理して飲んでもらうのはイケないこと何でしょうか?

個別アセスメントが必要だといっているでしょう。先ずその1800の根拠は何ですか?1800必要な人に頑張ってその量を飲んでもらうことは必要だけど、1000でも多すぎる人がいるんでしょう。そういう知識や計算式を知っての質問ですか?

質問者:要するに根拠のある個別アセスメントあれば無理ない範囲で飲んで頂くような支援はよくて、根拠もなく無理に飲ませるのはダメとゆーことですね。当たり前のことなんですね。

必要な人に必要な量をという当たり前のことなんです。
(以下略)
------------------------------------------------
何事も個別アセスメントが大事ということだ。根拠に基づいた介護実践が必要だということなのだ。そして必要量を飲んでもらうためには、それなりに工夫が必要だ。シールコップやペットボトルに入れたままの、温いまずい水を飲めといわれて、ハイそうですかと、簡単に全量飲んでくれる人は少ない。お茶が好きな人でも、それをゼリーにして全量食べてくれるとは限らない。必要量を摂ってくれないことにも、それぞれの理由があるのだ。そこには工夫が求められるのだ。

水分摂取支援の必要性と重要性は否定していない。しかしその際に、個別アセスメントなしに、一律全員に食事以外の水分補給を、1.500ml/日以上強制的に行うという考え方がおかしいといっているのだ。人によってはそれだけの水分が必要な人がいるかもしれないが、大多数の人はその量は多すぎるし、その結果、内臓ダメージを受け、心不全や高血圧の悪化等につながりかねないといっているのだ。

このことについては、紹介した質問者とは別な二人の方が、同じくフェイスブックに次のような意見を書いてくれている。

(竹内理論は)今では、一昔前の医師らしい発想で理論ですらないと思えます。断片的には正しいものがあるのは騙しのテクニックに共通するものです。

評価の高いマニュアルがあると、それに固執して個々としてのケアが見えなくなる。経験、知識、感受性、すべてに置いての劣化が懸念されます。

ごもっともである。ただし竹内理論は質の高いマニュアルとはいえない。エビデンスに基づかないのだからマニュアルにさえならない。そもそも脱水を防ぐための必要水分摂取量は、1日に体内から排出される水分を計算して、それを補うものだ。

例えば僕が特養の相談員時代に作成した施設サービス計画の、排泄支援部分をピックアップした次の画像を見ていただきたい。
排泄介護計画
本ケースは1日に排出する水分・汗を100mlとし、不感蒸泄(感じることなく気道や皮膚から蒸散する水分で、発汗は含まない)が900mLとした場合であり、尿や便の排出量を計測して、その量が1.500mlだったために、合計水分排出量は2.500mlと想定した。(※排出する水分・汗及び不感蒸泄で失われる水分量については、医師と相談して想定。)
※特に不感蒸泄には個人差があるので要注意。高齢者の場合、多く見積もっても2.000〜2.500といったところか

この場合、補うべき水分量も2.500mlとすればよいわけだが、まずもって3度の食事でどれだけ水分摂取できているかが問題だ。例えば食事で水1,000mL取れている場合(※これはかなり少ない数字。特養などの食事が全量摂取されているかたであれば、おそらく食事だけで、1.300ml以上取れているだろう。:管理栄養士に確認することをお勧めしたい。)、食事以外で1.500ml水分補給しなければならないという考えは間違っている。

なぜなら体内の代謝水というものがあるからだ。代謝水は、体内での栄養素の酸化的分解過程で生じる水のことで,酸化水ともいう。この分を見積もらねばならず、それはおおよそ200ml/日くらい見積もれるので、結果、このケースの水分補給に必要な量は、1.300ml/日となる。

しかもこれは、不感蒸泄を最大限に見積もり、かつ食事摂取量が少ない人の場合であり、特養等で暮らしている方々で、1.300ml/日もの水分摂取量が必要になる人は、さほど多くはなく、そういう意味で竹内理論の、1.500ml/日という強制的水分摂取量は、尋常な量ではないのである。

水分を多量に摂取しても、尿になって排出されるし、尿量が増えることはそれなりに意味があるという考えも危険であり、その前に水分をとり過ぎると、心不全、肺水腫、高血圧などをおこし、心臓・肺・血管といった、生きていくうえで最も重要な臓器に大きな障害を与えることの危険性を考えねばならない。

どちらにしても竹内理論に一部の理も認めることはできない。それは人の命を危険にさらし、人の尊厳を失わせかねないものだからである。

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洗脳介護から抜け出せない人、抜け出ようとしない人


どこぞの芸能人が、特定宗教がらみで出家引退という報道が駆け巡った先週末。

芸能ニュースにさして興味のない僕は、どうでもよいことだとしか思わないし、本人が辞めたいって言ってるんだから勝手に消えてくれと思うだけであるが、同時にその芸能人の心に悩みがあって、その心の隙に何らかの支配が入り込んだという、洗脳の結果だとしたら恐ろしいことだなと思う。

そのことが頭の隅をかすめたときに、それと似たようなことが介護の現場で行われ、もっと恐ろしい悲劇につながっているという事実を改めて思い出し、そのことを非常に残念に思う。

例えばこのブログ記事で何度か指摘している竹内理論に基づく個別アセスメントのない強制水分補給も、僕に言わせれば洗脳介護そのものでしかなく、その批判記事に対してコメントがたくさん寄せられ、そこで指摘されているように、利用者の直接的被害になってしまうんだから、その影響は一芸能人が、テレビ等の表舞台から消えてしまうこととの比ではなく、よほど重大な問題だ。社会と国民は、この問題にいつまで無関心でいるのだろうか。いつ自分の家族が、この悲惨な介護の被害者にならないとも限らないのに・・・。

しかしこの問題に大きな変化がみられていることは、多くの関係者の方は気が付いているだろう。

まずこの介護を推進していた全国老施協は、今年度から介護力向上講習を主催しなくなった。現在この講習を主催しているのは、都道府県レベルの老施協のうち、全国老施協がなぜこの講習からそっと手を引いたかという本当の理由に気が付かない、間抜けな会長をトップに抱く県レベルの老施協である。

しかしそのような県レベルの老施協も、昨年12/5付で全国老施協が塩崎厚労大臣あてに提出した意見書の存在と、その内容を知らないわけはないはずだ。

その中で全国老施協は、『特養で利用者の意に反して栄養を投与し、リハビリを重ね、歩行器で歩かせることを強いるような「QOLの向上を伴わないADL回復の目的化」が促進されるリスクが強く危惧される。』、『事実上要介護度改善の義務化を課すことは、もはや虐待と言っても過言ではない。 』と指摘している。

ここで批判対象となっている内容は、まさに介護力向上講習で教えてきた方法論であり、現在も竹内理論実践施設で行われている実践内容である。事実上、全国老施協が科学的介護と喧伝していた竹内理論を、一転して全否定した提言と考えてよいわけである。

この意見書を読んでなお、その方法を続けようとする特養の施設長は、何を考えているのだろう。今まで職員の尻を叩いて間違った人権蹂躙を続けていたことを、その方法をやめることによって明らかとなることを恐れてやめられないとしたら、それはもう施設長の資質の問題ではなく、人間失格である。対人援助の場にいてはいけない人物であると言われても仕方がないだろう。

たしかに脱水は心身機能レベルを下げる重大危険因子であり、介護施設ではその対策意識が低かったという問題があることは否定しない。しかしその解決方法が竹内理論という、高齢者の意思や尊厳を無視した方法であって良いわけがない。この理論に一定の理解を示す関係者も存在するが、利用者の意思と個別アセスメントを否定した実践は許されないことは明白で、そこでは利用者の人間性さえ否定しているという批判は免れない。

利用者の苦しそうな表情や、いやだという感情表現がある場所で、そのことを理解できない実践者は、もう理屈が通じない状態としか言えず、まさに洗脳状態である。

あの理論の実践施設が、今すべきことは、過去の過ちはともかくにして、あの間違った理論による実践で苦しむ人をこれ以上出さないことである。即刻あの方法論を取りやめることだ。

この理論の実践施設のトップは、福祉の原点に立ち返って、利用者の苦しむ表情や悲しい叫びを無視せず、声なき声を聴き、人が幸福になっているのかという視点を取り戻すことだ。

僕の批判記事に賛同するコメントを寄せる方の中には、この理論の実践施設では働いている看護・介護職員、管理栄養士の方も大勢いる。それらの人は、この実践法に勇気をもって異を唱えてほしい。その結果、職を失っても、そういう方を求めて好条件で雇用してくれる施設はたくさんあるはずだから、ちっとも洗脳管理者を恐れる必要はないはずである。

介護施設における人権問題が、今後さらに大きな問題になるにつれて、この方法論が問題視されないわけがないということに、早く施設管理者が気が付かないと、大変な事態が待ち受けているぞ。

泣きながら水を飲まされている人の涙の先に、社会の糾弾という矢があることに気が付いたときは、もはや遅きに失するだけでは済まないことに早く気が付くべきである。

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地域包括ケアシステムでは、住み慣れた地域で終末期をどう過ごすかが問われる


2/5(日)にシンポジストとして参加した、「日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会IN久留米」には、1974名の有料参加者があった。これに市民公開講座(無料)の参加者を合わせると、2500名程の方に参加いただいたことになるそうだ。

僕が参加した、「看取りに携わるスタッフの教育・ケア」のシンポジウムは、久留米座という場所で行われ、そこは座席数が399席であった。その座席はほぼ埋まり、さらに会場入り口のスクリーンには、100名以上の方が立ち見状態だったそうである。

入り口にいた会場責任者よりシンポジウム担当者に対し、「みなさん熱心に聞いておられ、良い表情で帰られていましたよ。大盛況でよかったですね」と良い評価を頂たそうである。その担当者の方は、翌月曜日に主任介護支援専門員更新研修の講義に博多まで行ったそうであるが、そこでも多数の受講生がいて、「とてもいい勉強になりました。元気がでました。」と感想を多数いただいたそうである。

多死社会において、看取り介護・ターミナルケアは、どの場所でも求められる利用者支援の機能であり、すべての保健・医療・福祉・介護関係者が興味を寄せている問題だということだろう。

それは一人ひとりの利用者が、人生の最終ステージをどう生きるのかという問題に関わってくる。そしてどこで終末期を過ごすのかという問題は、サービスや施設の種別で選ぶべき問題ではなく、そこで何ができるのかという個別性で選択することが大事になる。

そのためにも、日頃からの情報収集が大事となるが、多くの一般市民にその情報が届けられていない。居宅介護支援事業所の介護支援専門員なども正確な情報を持っているとは限らない。

そういう意味で、看取り介護・ターミナルケアに取り組む施設等は、積極的に地域に向けて、看取り介護・ターミナルケアの取り組み情報を発信していく必要がある。特養の看取り介護加算の算定要件である、PDSAサイクルの構築における、地域へのアクション(啓蒙活動)とは、そういう意味もある。

5日のシンポジウムでは、20分の発表の後、3人のパネラーが司会者と助言者を交えて、その後1時間近くディスカッションしたが、なにしろ時間が少なくて、十分な情報提供ができなかったという思いがある。

決められた時間で伝えられないというのは、僕自身の力量不足であるが、看取り介護を適正な品質を保って行うことが職員の定着率のアップにつながるという事例として、そこで生まれる様々なエピソードによって職員が何を感じ、どういう思いを抱く結果につながったかについて、フィクションではなく事実として伝えるのが一番の早道である。そうであればいくつものケースについて紹介したいところでもあった。

今回はひとつのケースしか紹介できなかったが、来年度も今年度に引き続いて、4/15の仙台に始まり、4/16東京、5/14札幌、6/10大阪、6/11名古屋、7/2福岡、8/6岡山という全国7ケ所で、1日5時間という長丁場の看取り介護セミナーを予定している。(案内と申込みは、こちらをクリックしてください

毎年、多数の参加申込みがあって、場合によっては皆様に受講していただけるように会場変更する場合もあり、キャンセル料はかかりませんので、受講希望の方は、ぜひお早めにお申込みください。
看取り介護セミナー「生きるを支える看取り介護の実践」


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報奨金で地域他付けケアシステムは深化するのか


地域包括ケアシステムの強化のための介護保険法等の一部を改正する法律案が、2/7(火)閣議決定された。

資料を読むと、制度改正の最大の目的は、制度の持続可能性を確保することであり、そのために高齢者の自立支援と要介護状態の重度化防止に、地域全体で取り組むとしており、「地域包括ケアシステムの深化・推進」という言葉が使われている。

そのために自立支援・重度化防止に向けた保険者機能の強化等の取組の推進を介護保険法に規定するとし、その具体策として、市町村ごとに国から提供されたデータを分析して地域課題を明らかにし、介護保険事業(支援)計画を策定することとしている。そして国が示す適切な指標による実績評価を定期的に行って、公表が義務付けられた結果が目標を達成した市町村には、財政的インセンティブを付与するというものだ。

インセンティブとは、言うまでもなく、「行動を促す動機付け」・「目的を達成させるための刺激」であるが、この法律における財政的インセンティブとは、目標を達成した市町村に自由に使える交付金を増やすなどの支援をすることを意味するようである。

国が示している、その部分の資料が以下になる。
市町村へのインセンティブ
支援の規模や参考指標及び結果評価の具体的内容については17年中に決め、18年度から実施することになるが、現在示されている具体策としては、市町村に要介護認定や給付費のデータに基づく目標を作るよう求め。1人当たり給付費だけでなく、ケアマネジャーや看護師らが介護計画を検討する「地域ケア会議」の開催状況や介護職員への研修回数も評価対象にしたい考えだ。

これによって何が起こるだろうか。本当にこれによって、地域包括ケアシステムは深化し、介護予防効果が上がるだろうか。

インセンティブで思い出すのは、健康保険のメタボ検診の義務化と保険料のペナルティ議論である。しかし結局それは効果が見込めず実現しなかったのではなかったか?

介護予防だけ、交付金という餌をぶら下げることで効果が現れるだろうか。

この資料の中で、先進的取り組みが行われているという大分県と和光市の真実はどうなっているのだろう。その地域の実態について、僕のフェイスブックに届いている声としては、「保険者がケアプランに口を出して身体介護を生活援助にしようとしたり、生活援助を行政として認めないと公言していたり自費サービスを推奨したりしています。措置と同じような状況です。」と、決して先進的な取り組みとはいえない実態であると論評している人もいる。

おそらくこの財政インセンティブが必要ないという市町村はないだろう。そのために介護予防・日常生活支援総合事業(以下「総合事業」という。)は、市町村から過度な?要求が突きつけられ、事業参入業者に要介護度の改善など結果が求められるだろう。しかしその結果とは、必ずしも介護予防や暮らしの質に関わるものではなく、場合によっては要介護度の改善等の結果があらかじめ見込めない利用者の選別・排除につながる恐れがある。

自己責任という名の自己負担サービスも、今以上に求められてくる。

地域ケア会議は、地域包括ケアシステムの肝となる大事な会議であるが、アウトカム評価が難しいゆえに、その評価は開催回数が一番の評価になるのではないか。そうであれば困難ケースをじっくり多職種で話し合うのではなく、課題解決につながるという結果を得やすいケースの検討が、「アリバイ作り」として行われる可能性が高い。

「ケアプラン適正化事業」の名乗る市町村の締め付けや、ローカルルールもさらに増える可能性が高い。そもそも地域の特性に応じたサービスの効率化と重点化との行き着く結果は、ケアプランの標準化とは相反する、地域ごとのルールに応じたケアプランの作成でしかない。それはある意味、保険者の担当職員の価値観の押し付けで終わる可能性が高い。ケアマネジメントの完全否定も横行するだろう。

居宅介護支援事業所の介護支援専門員に対する地域行政の介入は、今以上に増えるだろう。それが果たしてケアプランの質は向上するのかということについては、すでにそうならないという結論が示されている。(参照:根拠なきローカルルールでどんな地域社会ができるというのか

介護の専門家ではない専門職が中心的役割を担って分析するデータは、実生活に即さないものになるやも知れない。

そうなると総合事業の締め付けは大きくなるし、この部分の単価は下げられるだけ下がるということになり、要介護度の改善などに対する市町村独自の報酬算定ルールや事業サン参入ルールが適用されるかもしれない。これは介護サービス事業者にとって厳しいものになる。

だからといってその事業に参入しない事業者が生き残っていけるだろうか?今後は総合事業しかサービス利用できないカテゴリーに属する人が増えるわけであり、軽介護者の人はここにくくられていく。

その人たちが、いざ介護状態区分が重度化して、介護サービス利用が必要になったときに、総合事業で囲い込まれたサービスの外側のサービスを利用するかというと、その可能性はきわめて低くなる。

つまり今後の介護事業は、収益部門を介護サービスに置くとして、ひとつのサービスに偏らず、多角的経営が求められるとともに、保険外サービスでそれを補完しながら、市町村の総合事業は顧客確保の手立てとして別に見ていくという事業規模の拡大が必須だ。よって事業体力の脆弱な小規模事業者には、非常に厳しい法改正といえる。

しかも資料を読むと、障がい者サービスと高齢者サービスのミクスサービスや、保険事業と保険外事業の混合介護が推進されると取れる内容になっている。これも経営規模の小さな事業者には厳しい経営スタイルといえるのではないか。

地域密着型通所介護の、市町村による指定制限が法制化されることと相まって、小規模通所介護事業を中心にフライチャンズ展開していくという経営モデルは成立しなくなるのではないだろうか。

そして将来的に介護保険サービスは、サービス効率化・重点化の先に地域における巨大法人の寡占状態を招き、癒着の温床になるやも知れない。

それが考えすぎだと良いのだが・・・。

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根拠なきローカルルールでどんな地域社会ができるというのか


僕が管理する、介護福祉情報掲示板では、介護保険制度に関する質問がたくさん書き込まれており、それに対して関係者が回答してくださっているが、その際には、「根拠」に基づいた回答を書き込んでいただくようにお願いしている。

その根拠とは、法令に沿ったものである必要があり、「行政指導担当者が、こう言っていた。」は根拠にならないと指摘している。

しかしながらこうした正論が通じないのが、ローカルルールである。

介護保険給付費は国定費用であり、その算定に関する基本ルールは国が定めているが、地域の実情に合わせて、国のルールに加えて地域ルールを独自に定めている地域がある。

その場合のローカルルールとは、国のルールより厳しく狭い制限ルールとしている場合が多いように思う。

例えばつい最近、訪問看護と訪問リハ同日利用というタイトルでスレ立てされたものに、訪問看護の複数事業者からのサービス提供の問題がある。

スレ立ての質問では、「同日の午前にA訪問看護ステーションから訪問看護を1時間、午後にB訪問看護ステーションから訪問リハを40分受けることは出来ないとケアマネから言われました。」という質問から始まっている。本当にそれは許されないのか、許されないとしたらどうしてかという疑問である。

この質問に対して僕は、「医師の指示があれば、複数の事業者の利用も可能であり、複数事業所からの訪問看護とリハビリの同日利用も可能です。」と回答した。

その後も他の方々からこの問題について、医療保険訪問看護に存在する制限ルールは、介護保険訪問看護には存在しないことなどが説明されている。

ここまでは一般市民の質問に、介護業界の人が根拠を元に説明している普通の展開である。答えも問題なく、そのまま問題解決となってスレッドが閉じられても良い。

しかしこのことについて、質問者が介護保険担当課に念のため確認したところ、次のような回答があったとの情報提供があり、逆に問題は複雑化している。

出来れば一か所の訪問看護ステーションからが望ましい。病院施設の訪問リハステーションからであれば問題は無い。複数の訪問看護ステーションからはプラン上に相当の理由があれば認められる。先ずはケアマネから文書で問い合わせしてください。文書でお答えします。実績であげた場合、却下で自費にはならないが、相当しくないと指導が入る場合があります。

まったくもってくだらないローカルルールである。そもそも複数の訪問看護ステーションの利用の必要性は、ケアマネジメントで判断すべき問題で、行政許可が必要になる問題ではない。

そもそも訪問看護からのセラピストによる自宅でのリハビリテーションは、訪問リハビリ事業者が少ない地域で、それに替わって行われるケースが多いもので、すべての訪問看護ステーションで対応できるサービスではない。よってこの部分のサービスとの組み合わせを考えるケースでは、主治医師が所属する医療機関併設の訪問看護ステーションでリハビリ以外の訪問看護を担当し、そのステーションではカバーしきれないセラピストによる訪問看護という名のリハビリテーション部分については、そのサービスに余力を持っている他のステーションのサービスを導入するということはレアケースでもなんでもなく行われている。

その際に、特段介護事情に精通しているわけでもない行政職員に、事前許可を求める必要性はまったくないといってよい。

その必要性を判断する方法・技法とは、介護支援専門員という有資格者が行うケアマネジメントという専門技術であり、その結果について何の根拠を持って医療や介護の素人である行政職員が、「許可・不許可」と判断するのだろうか。それともすべてのケースについて、ケアプラン適正化事業を適用するとでも言うのだろうか。なんとも暇な行政職員である。

そういえば先日、シンポジストとして参加したシンポジウムでも、利用者支援の際に、「この地域では、暫定プランを作成する際に、必ず予防プランと介護プランの両方の作成を求められるが、それがケアマネの負担になっている」という話を聴いた。

これもおかしい。国のルールでは、暫定プラン(つまり要介護認定結果が出ていない状態で、居宅サービス計画を作成しなければならない際の、居宅サービス計画)については、予防もしくは介護のどちらかの予測されるほうの計画書を作成しておればよく、予測が外れた場合は、遡ってセルフプラン扱いとして現物給付してよいというルールだ。

こんな問題に、国のルール以上の業務負担をケアマネに課したって、ケアマネジメントの質が上がるわけでもあるまい。根拠のない「こうしたほうが良い」という行政側の価値観で、勝手にルールが変えられて、ケアマネの業務負担だけが増えるルールだ。その負担を回避して暫定プランでのサービス利用を抑える傾向ともなれば、それは利用者のデメリットであり、すなわち地域住民のデメリットを増やしているに過ぎない結果となる。そんな簡単な理屈も分からない行政職は、制限するという権力によっているとしか思えない。

そんなふうにして裁量というものを「狭い了見」と勘違いしている行政職員が多すぎないか。

そもそも地域の専門職を信用しないような制限ルールで、一体どんな地域を創ろうとしているんだ。介護の専門職を信用しないようなルールを押し付けて、職域横断の多職種連携など構築できるわけがないではないか。

こうしたローカルルールが、地域包括ケアシステムを形骸化させることに気がつかないのはなぜだろうか。

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介護業界に踏みとどまった人、戻ってきた人の笑顔


先週末から福岡県の久留米市に滞在し、北海道には昨日の夕方戻ってきた。そのため今週の業務開始は今日・火曜日からということになった。

毎日予想不可能な動きのある介護施設では、この間も様々な状況が動き続けている。僕の周りでも今日の予定が吹っ飛んでしまうほどの動きもあって、今日は朝から休むまもなく連絡対応や、書類処理で忙殺されている。

そんなわけで昼休みもゆっくりしている時間はないが、ブログ記事の更新は休まず続けられている。その理由は、ブログ記事を更新することは、僕にとって誰かのためではなく、自分自身のためであるからである。

書きたいことがあるから書いているのであって、何の義務感も責任もない状態で、僕の心の叫びや思いを綴っているからである。忙しい中でも、この日課は僕にとって重要な意味があるので、自然と筆を進めているといったところだ。

そんなふうに、このブログは非常にわがままな場所であるが、そんな僕のブログを特別な思いを持って読んでくださっている方々が全国に居る。

例えば、僕が講演を行う会場で、僕の本を購入してくれる人の中に、「毎日ブログを読んでいます」と声を掛けてくれる方がたくさん居られる。その中には、「このブログに救われました」とか、「落ち込んだとき、このブログを読んで勇気をもらっています」とか、「くじけそうになったときに、このブログに出会って、自分が間違っていないと確認できて前に進めた」とか、声を掛けてくださる方がいる。

そのことを目標にしたり、そんな言葉をいただけることを目的としているわけではないが、それでもそんな言葉をいただけると本当にうれしいし、僕の乱暴な文章に対して、特別な思いを込めて読んでくださる人がいることに関しては、心より感謝の気持ちを持つことができる。

このブログに励まされているという人の、そんな言葉に僕自身が励まされている。やはりこの世の中は、人と人とが支えあう世であり、人は反目するために生きているのではなく、つながりあうために生きているのだと思ったりする。そんなつながりに感謝する思いから、今日もこのブログを更新しているのかもしれない。どちらにしても、そのことは僕の日常であり、記事更新することが普通の暮らしである。

ところで昨日の記事で久留米のオフ会のことを書いたが、実はここでもうれしいお話を聴いた。それはオフ会参加者の方のひとりが、かつて介護の仕事をやめようとしたときに、僕の講演を聴いて、もうすこし頑張ろうと思い、その結果、現在は仕事に誇りと喜びを持っては続けられているという話である。僕の言葉にさほどの影響力があるわけではないと思うが、たまたまその方のそのときの心持と、僕の思いから発する言葉がマッチして、その方の心の琴線に触れたということなのだろう。

そういえば、こちらの記事、で紹介したように、かつて介護の職業に挫折した方が、僕の講演を聴いて再びやる気を出し、復職して元気な姿を見せてくれたこともある。

それらの人は一様に輝いて見えた。その人たちの笑顔は、とても素敵だった。介護業界は、こうした貴重な人材を失ってはならないと思う。

せっかくの人材が、周囲の無理解や、世間からみた非常識を変えられない環境の中でつぶされていくことほどの損失はない。志の低い人たちに、つぶされそうになっている人や、一度つぶされてしまった人が、再び前に進むことができる勇気を与えることができるとしたら、僕の講演も満更ではない。

僕一人では何もできないが、仲間が増えればできることも増えてくる。一人の百歩より、百人の一歩が必要なときがあるというのは、そういう意味だ。

僕と一緒に僕と同じ思いを抱いてくれる人が、一人でも増えれば、それはきっと何かを変えられるはずだ。それは必ず意味のあることなのだと思う。そんなことを信じて、このブログに思いを託し、そんな重いに共感・共鳴してくれる人とつながって生きたい。

逢いたい人は全国にたくさん居る。そんな人々と思いを語り合い、その思いを実践につなげていくことが、今僕の最大の願いである。

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masaの久留米紀行


今日は、昨日までの久留米講演を終えて、久留米から博多経由で福岡空港〜北海道に帰る移動日である。そのため今僕はまだ久留米のホテルにいて、チェックアウト前にこの記事を更新している。

先週の土曜日の朝7:30に自宅近くの停留所から高速バスに乗って、新千歳空港〜福岡空港〜博多〜久留米にたどり着いたのは、午後2時半過ぎだった。

久留米駅にたどり着いたその足で、歩いて10分ほどの久留米商工会議所まで移動した。タクシーなどの移動手段を使わない理由は、講演開始時間まで1時間ほどの時間があることに加え、初めて訪れる場所は、タクシーで素通りするのがもったいないと思うからだ。たとえ歩く時間が30分を超えようとも、講演開始時間に間に合うのであれば、できるだけ歩いて街を感じたい。今回は天気もよく、北海道と比べると抜群に暖かくて、歩くことに何も支障がなく、わずか数キロの道のりであったが、久留米を感じながら歩くことができた。

そんなふうに講演開始40分ほど前に会場に到着したが、久留米市介護福祉サービス事業者協議会主催の地域包括ケア研修には、150名を超える受講者の方々が待っていてくれた。

僕の講演前に久留米市の方が30分の講演を行ったが、それを聴きながら、僕はフェイスブックに、『この後の僕の講演は、もしかしたら今話していることを否定、疑問視する内容になるかもしれません。本音の地域包括ケア論ですから。』などと書き込みをしていた。

さていよいよ僕の『地域包括ケアシステムに求められる人材と役割り』という120分講演が始まった。
地域包括ケア研修
地域包括ケアシステムの概念をきちんと理解した上で、地域の実態を理解し、地域住民を巻き込んで関係者が連携することの意味をお話した。皆さん最後まで熱心に聴いていただきありがとうございます。

2日目の講演は、場所を久留米シティプラザに移しての、『第24回日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会in久留米』の中でのシンポジウム。当日は別会場でもシンポジウムがいくつか行われており、僕の担当会場に何人来ていただけるのかと心配したが、久留米座という広いホールの席は、ほぼ満席になるほどの盛況振りであった。
日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会in久留米
僕はシンポジウムのトップバターとして、20分の講演を行った後、会場の受講者の方々や、他のシンポジストと意見交換を行った。

シンポジスト終了後、受講された方々からご挨拶を頂き、そのうちの何人かの人から講演オファーをいただいた。その中でも2名の方からは具体的な日時を示してのオファーを頂き、今後の予定に加えていくことができそうである。こんな風にまた人とのつながりの輪が広がっていく。ありがたいことである。

僕はその後、時間に余裕があったため、他の方々のシンポジウムを聞いてお勉強。在宅看取り支援などを興味深く聞かせていただいた。本当に学びの多い2日間だった。

さてそんな講演旅行は、オフ会も楽しみである。初日の土曜日には、かねてよりの知り合いの方を中心に、オフ会が企画されていた。

久留米オフ会
もちろん一次会で終わるわけがない。朝まで飲みましたとさ。
久留オフ会2次会
※オフ会のメニューは、masaの血と骨と肉、『久留米グルメ』を参照ください。

久留米といえば、焼き鳥と久留米ラーメンの街である。ラーメンははずせない。しかし初日のオフ会では、あまりに楽しく飲み食いしすぎたので、ラーメンを食べる腹がもうなかった。そのため2日目のシンポジウムの後の昼食時に、念願の久留米ラーメン。初日から2日目の講演までずっとお付き合いいただいたyokoさんらに連れて行ってもらったお勧めのお店がこちら。

久留米ラーメン「まんてん」店舗
『まんてん』さんである。

メニューはこれ。
まんてんのメニュー

僕はラーメンと半チャーハンのBセット。しかしこのチャーハン、ちっとも半チャーハンじゃなくて多いぞ。
まんてんのチャーハン


さてさて主役のラーメンである。
久留米ラーメン「まんてん」
こ、これはうまい。濃厚なとんこつラーメンだが、臭みはまったくなくて、味は深いぞ。久留米ラーメン恐るべしである。

ちなみに2泊目の夜遅くには、ホテル近くの有名店。大龍ラーメンをいただいた。
大龍ラーメン
こちらもなかなかのインパクトだが、僕の好みとしては、昼にいただいた『まんてんラーメン』に軍配を上げたいところである。

しかしこれだけでは終わらない。今、アローチャート仲間でもある岡田さんから連絡があって、空港に向かう前にもう一度、久留米ラーメンを食べる機会を下さるそうであり、ホテルまで迎えに来てくださるそうだ。どのラーメン屋になるのか楽しみである。この続きはフェイスブックをごらんいただきたい。

なおフェイスブックの友達申請は、自己紹介のメッセージを送ってくれない方は承認していないのでご了承いただきたい。

それにしてもなんぼ太って帰るんだか・・・。明日からまたダイエット食じゃね。

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生活施設での飲酒について


特養から老健に職場を変えて、一番感じる「相違点」は、老健のほうが圧倒的に規則・規制が多いという点である。

これはある意味やむを得ないことのように思う。それぞれの施設の成り立ちや目的、性格が異なるからである。

例えば酒や煙草は、老健では基本的に禁止しているところが多いそうである。(※正確なデータに基づいた見解ではないので、間違っているという意見があれば指摘していただきたい。)そのことにも根拠や理由があるといってよい。

老健の基準省令において規程されている基本方針には「看護、医学的管理の下における〜」という一文があり(特養の基準にはこの一文がない)、老健でサービスを受ける限り、その管理下での制限というものは存在して当然とも言える。

老健は基本的に在宅復帰を目指すために、機能回復を図ることを目的にしたリハビリテーションを実施する滞在施設であるのに対し、特養は生活施設であり、そこで一生涯暮らし続ける人もいるという点で、嗜好品についての考え方にも大きな差が出てくるのはやむを得ないところだろう。

以前僕が勤めていた特養の場合は、嗜好品に対するルールは比較的緩やかだった。煙草は喫煙場所の指定はあるものの、喫煙という行為そのものは禁止されていなかった。勿論、火の取り扱いができない人の制限はあったが、それは一般社会でも同じことだろう。

家族によるおやつの持ち込みも、食事制限のある方以外は、家族の良識に任されている状態で、問題があれば都度担当者職員からお話させていただくということで済んでいた。

おやつなどの食料品の持込について言えば、老健の場合、利用者間でおすそ分けしあうという問題があり、何らかの制限をしないと、栄養管理上の大きな問題になりかねないが、特養の場合も同じ状態がないとはいえないものの、重度介護者が多いという背景から、利用者同士で食べ物の交換を行うことができる人は限られていたので、職員が注意して居れば対応可能であったということもある。

お酒についても、僕自身ものん兵衛であることから、飲ませないことより、どうしたら飲むことが許されるかという方向で考えていた。そもそもそれが唯一の愉しみである人もいて、長年飲酒習慣を持っているのに、特養に入所するという理由だけで、その習慣を強制的に禁ずるのは問題だと考えていた。

アルコール中毒の既往歴がなく、特段禁酒しなければならない身体状況の人以外は、晩酌するのも自由だったし、施設側から日本酒やビールなどを提供する行事も毎月のようにあった。それで何かが問題となるようなこともなかった。

そんな特養においても、飲酒が許されるかどうか議論になったケースがある。

例えば糖尿病があるのに、お酒を飲んでよいのかという問題である。健康面を考えると当然、飲酒は駄目なわけである。しかし制限はストレスにもなる。その場合は、医師とも相談しながら、数値が悪化しないのであれば、○○〜程度なら良いのではないかなどと、できるだけ飲む機会を奪わないように考えたことも多い。ただし糖尿病の場合は、合併症で苦しむことは最悪の状態を招くので、飲酒以外のストレス解消法を模索することが多かった。何事もバランスである。

ショートステイの利用者で、朝からお酒を飲む人がいた。朝ごはんはほとんど食べず、日本酒をコップ一杯飲んで終わりという人である。この場合も、ずっと飲み続けているわけではなく、昼や夜はご飯も食べてくれるので、そういう生活を長年続けているのだから、ショートステイの期間だけ、そのことを許さないというのも意味がないように思えた。最終的には利用者ご本人の判断に任せたが、それで特段問題があったわけではなく、何年間かその状態でショート利用は継続していた。

どちらにしても特養の場合は、こうした問題は、利用者の判断力が衰えていない限り、施設側の決め事を強要するのではなく、リスク等の説明責任を果たした上での、利用者自身が判断するべきだろうと思う。

公衆道徳を守るということは当然なので、共同生活場所のルールは守ってもらう必要はあるが、集団生活ではないので、その言葉で、利用者が本来持つべき個人の権利を侵害する規制が許されるわけではないという視点も必要である。(参照:特養に集団生活の論理は通用しないぞ

バイスティックの7原則のひとつである、「自己決定」の尊重は、ここでも貫かれる必要がある。勿論、自己決定とは、すべてが許容される無制限なものではないので、制限を伴うものだという理解があって当然である。

同時に僕たちソーシャルワーカーには、できないことよりも、できることを探す専門家であり、制限する専門家ではなく、制限を緩やかにできないかを探る専門家であろうとする姿勢が求められるのだと思う。

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旅の愉しみ


僕の現在の日常には、「旅」がある。

全国のいろいろな方々からお声かけをいただいて、講演講師としてご招待を受けることで、毎週のように道外に出かける機会がある。

そうした旅の最大の愉しみは、人とのつながりの輪が広がることであり、それに優る財産はない。

同時に様々な土地でおいしいものを食べて、おいしいお酒を飲むことも愉しみである。そこに新しい人とのつながりがあれば、さらに食も酒もうまくなる。

日本は世界地図で見ると小さく狭い国に見えるが、実際には広い。この年になってはじめて口にする食べ物も多く、しかも旨いものがたくさんある。その土地で食べるおいしさというものも加わって、愉しみも倍増するというものだ。

だから自分の日常に、「休養」・「休日」というものが少ないことに何の不満もないし、疲れも感じることはない。自分の考え方を披露する機会をいただいた上に、おいしいお酒を飲みながら、郷土の味に舌鼓を打ち、介護や福祉の現状と未来について、心がつながりあえる人々と語り合うことができる機会も得られている僕は、誰よりも幸福者ある。本当にありがたい機会をいただいていると思う。

そうした中で、せっかくのたびの機会だから、各地の名所・旧跡等を回る機会もあるのだろうと思われがちだが、実はそうした機会は意外と少ない。講演の前日入りして、後泊もして翌日帰るという日程であれば、どこかの時間で観光の時間も取れるが、僕の場合、本業を終えた後の時間に飛行機に乗り、夜遅い時間に現地ついて、その日にオフ会に参加し、翌日に講演を行って、講演後はすぐ帰るとか。、逆に講演当日に現地入りして、あわただしく講演を行って、講演後にオフ会に参加し、翌日は朝早くに北海道に向かって帰るというパターンが多く、有名な名所があっても素通りか、行かずに終わるということも珍しくない。・・・というかそうしたパターンのほうが多い。

それでも何年にも渡って、道外講演の旅を続けているので、いろいろ場所の名所・旧跡に触れる機会も積み重なれば多くなってきている。

先週お邪魔した秋田県も、何度も訪れている県ではあるが、たまたま前日入りの飛行機の到着時間が早い便であったため、講演主催者の方々に男鹿半島に連れて行ってもらった。目的はおいしいお昼ご飯と、「なまはげ」見学である。

なまはげ館
「なまはげ館」というところで、観光客向けになまはげの実演をしているのである。

有名な「なまはげ」ではあるが、実際にどういう行事が行われているかを僕らは意外と知らない。写真画像で、僕の後ろにずらりと並ぶなまはげは、実際に各地域で今も使われているものも含んでいる。つまり一口に「なまはげ」といっても、各地域でその姿は違うのだそうである。

なまはげなまはげ2

大きな音を立てて、しこを踏みながら迫力満点に各家庭に入ってきて、もてなしを受けて変えるまでの様子が再現されているのを見て、はじめてこの行事の意味や、長く続いている意味が分かるというものだ。(ちなみに秋田オフ会のメニューは、masaの血と骨と肉、に掲載しています。)

このブログでも何度か書いているが、僕の考え方のひとつとして、医療や介護、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で受けられるためには、住み替えを勧めてコンパクトシティーを目指す政策が求められることを示している。

しかしこうした地域の伝統や行事に触れると、そのことがいかに難しいかも実感できる。新しい地域づくりは、古く伝統のある分化を破壊しかねない問題だからである。

古い伝統や文化を守りつつ、新しい地域づくりを行うためになにが必要なのかを考えていかないと、住み替えは掛け声だけのものとなるのだろう。

古くからの風習・文化を守ることは、人の心を守ることでもあるということを忘れずに、地域再編についてあらためて考えてみようと思う。

先週は、そんなことを考えた旅だった。今週の土曜日からは、久留米での2講演が予定されている。(※ちなにみ4日の地域包括ケア研修は、5日の第24回日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会in久留米こちらからまだ申し込み可能です。)

何度も訪れている福岡県ではあるが、久留米ははじめてだ。久留米ラーメンも愉しみだが、今回は仲間がオフ会を企画してくれており、日程も2泊3日で余裕があるので、十分に楽しんできたいと思う。

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言葉があっても実態のない地域包括ケアシステム


介護保険事業者に向けた集団指導や行政説明会では、「地域包括ケア」という言葉が飛び交っている。

そのシステムがその地域に存在しているがごとく、あるいはそのシステムによって何かが完成しているがごとく、行政担当者の口から何度もその言葉が出てくる。

しかし彼らはその言葉の意味をどのように理解して、どういう意味として使っているのだろう。本当にその概念や目的を理解して使っているのだろうか。どうもそうではなく、空虚な言葉としか感じられないことが多い。

地域包括ケアシステムの概念については、このブログ記事に何度も書いてきたように、「ニーズに応じた住宅が提供されることを基本とした上で、医療や介護、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で適切に提供できるような地域での体制」であり、その目的は地域住民の、「生活上の安全・安心・健康を確保しながら、住み慣れた地域で暮らし続ける」ためである。

国が地域包括ケアシステムという言葉を最初に紹介した「2015年の高齢者介護」では、そのモデルとして広島県尾道市(正確に言えば旧・御調町)モデルを紹介していた。しかしその方式は、お金も人もかけて展開していたシステムである。

だが今国全体で推し進めようとしている地域包括ケアシステムとは、それと真逆に、お金をかけなくて済むシステムである。それで本当に領域横断のサービスの一体提供が、生活圏域ごとに可能になるのだろうか。僕はそううまくいかないのではないかと思うし、実際にうまくいっている地域は少ないと感じている。

そもそも給付抑制のために、国が盛んに唱えていることを考えてほしい。それは「全国横並びサービスではなく、地域の特性に応じた工夫を求めることによって、限りある財源を効率的・重点的に配分する」というものだ。地域包括ケアシステムを作り上げることによって財源は効率的・重点的に使われて抑制されるというわけである。

ではなぜ地域包括ケアシステムにすれば、財源抑制できるのか?それはこのシステムの中心的サービスである「介護予防・日常生活支援総合事業(新総合事業)」の財源構造を見れば明らかだ。

介護保険制度の介護給付費にしても予防給付費にしても、使えば使っただけそこに給付をしなければならないという、いわば「出来高」に応じた支出構造になっている。しかし新総合事業は、その地域の高齢化率や前年度の予算支出等によって計算された、「年額上限予算」によって運営されるものだ。つまりサービスをいくら使おうとも、国から給付される予算は、あらかじめ決められている上限をオーバーすることはないのだ。そのために市町村がその予算内で運営できるサービス提供方式の工夫をしなさいというのが、地域包括ケアシステムの一面でもあり、「効率的・重点的に配分する」という意味は、非効率で重点視できない部分にはお金はかけないから、自己責任で何とかしなさいということである。

そして地域行政には、年額上限がある予算を手渡して権限を与える替わりに、地域保険者を中心にしながら、民間事業者をうまく巻き込んで、その尻をたたきながら、住民福祉の質を担う義務を負わせて、社会保障費の自然増を抑制するということだ。

地域住民の福祉の向上は、地域の関係者に「多職種協働」というお金のかからない、耳障りのよい言葉とともに、その義務を負わせつつ、その方法論や結果については、地域行政・地域介護事業者に丸投げされたのが地域包括ケアシステムの現状なのである。

その中で、本来であれば多職種協働あるいは他職種協働の旗振り役の行政は、相も変わらず庁舎の中の縦割り組織の中で、協働とも連携とも関係のない仕事をしていながら、民間事業者にわけのわからない指示や要求を投げつけている。まったくもって滑稽なシステムである。

そんな空虚な言葉や、実体のないシステムで、近い将来の老後の暮らしの質が左右されるとしたら、この国の多くの地域はお先真っ暗である。

そもそもニーズに応じた暮らしの場の選択が、一番先に必要とされるシステムであるとしたら、政治家にはそのことを真っ先に説明する責任があるはずだ。地域の首長は、住み慣れた地域、先祖代々のお墓や土地のある地域からの住み替えも必要であるとの観点から、地域再編して、コンパクトシティーを目指すという一大政策転換が求められる。

それをしないで、地域包括ケアシステムなどできっこないし、できたとしてもそれは、幻か砂上の楼閣でしかない。

言葉に踊り、言葉に踊らされ、年額上限のあるサービスに移行する方策がシステムの構築だと勘違いしている輩に、地域福祉はズタズタにされながら、アリバイ作りの施策だけが進行中である。丸投げされた施策は、的確にそれを受け取る対象が見つからないまま、地域の中で腐りうずもれていくだけかもしれない。

答えは数年後に明らかになるが、そのときには遅きに失するものがたくさん出てきそうである。

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介護福祉士国家試験の受験者減も国の政策だぞ


先週土曜日、今年度の介護福祉士国家試験を直前に控えて、その介護福祉士の受験申込者数が前年度の半分の約8万人に激減していることがわかったというニュースが流れた。

それに対しSNSなどでは、関係者の間から人材不足に拍車がかかるという声が湧き上がっている。

しかし僕に言わせれば、「何をいまさら」といったところだ。あれだけ長い時間の講習受講義務を課したのだから、その費用と講習時間というハードルを越えられない人が、すごい数になることは予測されたことで、受験者数が半減するのだって予測の範囲内である。

それを予測していた証拠として、今から3年も前に書いた記事、「今後の介護福祉士養成校に求められるもの」を、改めて読んでいただきたい。

ここに「そう考えると、27年度以降は介護福祉士の資格を新たに取得する人の数が、現在より大幅に減るのではないかという予測も立てられる。その数が半減したっておかしくはない。」と予言している。
※この記事で28年度ではなく、27年度と書いているのは、この受験資格の見直し措置は、当初27年度実施予定のものが、一度延長されて、今年度(28年度)〜の実施とされたためである。

受験者半減を、介護従事者のさらなる不足に拍車をかけ、人員の確保がさらに難しくなる問題として声を挙げている人も多いが、ある意味、国はそのことも織り込み済みである。

役人だって馬鹿じゃないし、むしろ僕より頭が良くて、狡猾な人が多いのだから(違うかな?)、僕が3年前に記事に書いた状況くらい容易に予測しているはずだ。

それなのに、なぜ受験者減につながる改正を強行したかといえば、介護人材の質を上げるためといえば聞こえは良いが、それだけではなく、介護の提供主体は、質が高くてお金のかかるサービスと、安かろう悪かろうサービスの2極化の中で、国民の選択にゆだねるという意味である。逆に言えば単価の安いサービスも、ある程度の量が必要だという乱暴な理屈が、そこにあるということだ。

リンクを張った3年前の記事で書いているように、これによって介護福祉士の国家資格を持つ人の価値自体は上がることはあっても、下がることはないので、有資格者の待遇は良くなるかもしれないのである。むしろこのことより問題なのは、介護福祉士養成校の定員に対し、入学者数が5割を切っていることである。介護福祉士という資格を取れば、その資格で働く限り待遇はさほど悪くないという認識を広め、ネガティブキャンペーンに踊らされて、いたずらにその資格取得を否定することのないようにしてほしいものだ。

ただし介護福祉士という資格には、今後お金がかけられる可能性があるとは言っても、それだけお金をかけることができる財源には限りがあるので、この部分のパイは大きくしないというのが、受験資格のハードルを大きく引き上げたことに隠されている意図である。

必要とされるすべてのサービスの質を高品質に保つことができるほどに、介護サービスに国費をかけることはできないので、介護のスタンダードな国家資格者は大量生産・大量排出する必要はなく、受験者も合格者もコンパクトに絞り込んで、数より質を担保し、その代わりに国家資格がなくとも提供できるサービスや、ボランティアで対応できるサービスをどんどん作って、そこは国費をかけるとしても安い費用で提供するサービスにするという意味である。

そもそも介護現場の人材難、人手不足の問題は、無策であっても、あと20年少しで解決に向かう。

2040年ころには、高齢者の数がぐんと減り、サービスの供給過多となり、各地で人員余りが生じてくるだろう。だからそれまでの間に、しっかり質を担保する部分を強固にシステム化し、足りない部分は、この時代に介護を必要とする人に泣いてもらいながら、あと少しの期間だけ歯を食いしばって頑張ってもらおうという、意図的無策がとられているわけである。

その背景には、お金をかけないといっても、介護保険サービス事業には年間11兆円もの岡野がかけられ、自然増を半減するといっても、さらに毎年5.000億円ずつ費用は膨らんでいくのだから、この費用を得ようとする民間事業者はなくなるはずがなく、人材枯渇と人員不足は、国が無策でも、民間事業者が何とかするだろうという、根拠のない見込みがあるのかもしれない。

だから今更受験者数が半減したからといって、驚いている役人はいないし、関係者が介護の危機につながる問題だと、このことを論評しているのを見て、「わかってないな〜。」と鼻で笑っているかもしれない。

だからこの問題に関して、正論は通用しない。

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介護業界若手向けに、無料で経営学の教育を行っている人のこと


今、僕は社会福祉法人・秋田県社会福祉事業団実践発表会及び一般公開講演会に参加するために、秋田市のALVE 秋田市民交流プラザに来ている。

昨日のうちに秋田入りして、昼間は男鹿半島観光に連れて行ってもらい、なまはげ博物館などをみて回り、夜は比内地鶏と秋田の地酒を堪能した。

そして今日の午前中は同法人(障がい者福祉サービスが中心である)の研究発表会の助言者役を務め、午後からは、他の法人の介護事業関係者も参加する公開講演会で講演を行う予定になっている。この講演が終わったら、北海道に戻り、新千歳空港に着くのは夜の9時過ぎになる予定だ。

こうした講演も、介護関係者に対する啓蒙・教育活動の一環といえるのかもしれない。その合間の昼休みなので、本日更新する内容は、後身育成に関連した情報としたい。

介護業界にはいくつかの課題がある。その中でも若手人材育成は、将来の人材確保やサービスの質に直結する一番大きな課題である。

今我々は人材難、人員不足の中で事業経営を強いられているが、そのような時代であるからこそ、目先の問題だけではなく、将来を見据えた事業経営や事業展開が求められるし、自分が所属する法人、事業者のことだけではなく、日本全体の介護サービスをどうするかという視点は重要である。

なぜならそれは人の命と暮らしに関わってくる問題だからであり、きれいごとではなく、この国に暮らす民として、自分や自分の家族、そして子孫の暮らしもに関わってくる問題として、取り組まねばならないものだからである。だから若手人材を育成する取り組みは、利害を超えて求められるものである。

僕が主催する任意団体、「北海道介護福祉道場 あかい花」も、そういう観点から生まれた団体で、ここで学ぶ後輩からは、一切の報酬を受けとらず、そのかわりにメンバーも、自費で交通費をかけて手弁当で勉強しているわけである。(参照:5本の赤い花

こうした後身育成の活動は、僕の専売特許であるはずがなく、全国の様々な場所で、様々な人々が取り組まれているのだろう。

そんな活動に取り組んでいる一人として、僕が尊敬している後輩がいる。「きらきら輝く」でも紹介した、飯塚裕久氏である。

彼は今、介護業界の若手向けに無料で経営学の教育を行う KAIGO LAB SCHOOL という活動を行っており、記念すべき第1期生(15名)が卒業となるそうだ。そして特に優秀だった卒業論文の発表と卒業式を兼ねたイベントが、来る2月7日(火)に行われる予定になっている。(参照:KAIGO LAB SCHOOL 第1期生の卒業イベント(卒業論文発表会)があります!

KAIGO LAB SCHOOLが開講された背景については、「KAIGO LAB SCHOOL(介護業界の若手向け / 無料のビジネス・スクール)を開校します!」をに詳しく書かれているが、その目的は、「介護業界で働くことをキャリアへの投資としたい」とのことであり、「新卒が介護業界で働く(ほぼ唯一の)キャリア・メリット」に言及しているので、ぜひ参照記事を読んでいただきたい。

きっとここから近い将来の介護業界を背負うことができる逸材が育っていくのだろうと確信している。それは僕たちにとっても心強いことだ。

いろいろな形で僕も応援をし続けたいと思っている。それは彼らのためではなく、僕自身のためであり、この国の未来のためでもあるのだから・・・。

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期末試験の作成と評価の季節


僕は本業のほかに、登別市の各種委員会の委員として名を連ねているほか、室蘭市内にある介護福祉士養成専門学校の非常勤講師という役割ももっている。

学校の授業は1年中あるわけではなく、本業に支障をきたさないように集中講義を行っているため、今年度の授業はすべて終了した。

集中講義であるがゆえに、ある時期学生は、週2回ほど1日中僕の講義を受けなければならない。そのことを僕の立場で言えば、1コマ90分の授業を1日4コマ行うため、朝9:15〜夕方16:20までずっと講義することになる。

僕にとってそうした授業自体は全く苦にならないし、授業以外での学生とのコミュニケーションも全く苦にならない。そういう意味では、授業を行う者・講師としてだけを取り上げれば、それは自分に合っている仕事だと思っている。

しかし自分は、「教師」としては、必ずしも適性があるとは思えない。その理由は、評価が苦手であるということである。

特に僕の立場は前述したように非常勤講師という立場で、授業も集中講義なので、どうしても学生と接する時間は限られてくる。よって個々の学生の人となりを正確に把握するのは難しい。

現在の介護福祉士資格は、養成校卒業者については国家試験を受けずに、卒業しただけで介護福祉士資格が与えられる。それ故に、養成校教師の評価が、資格付与のお墨付きになるという意味がある。例えば僕の授業を受けた生徒が、成績が悪いとして単位を与えなければ、卒業できず資格も取れないことになる。しかしわずかな時間しか学生と接しない、1科目の授業担当者が、卒業資格と国家資格を阻害するような判断をしてよいのだろうかと悩んでしまう。

だから授業もできるだけ丁寧におこなうのに加え、試験は意地悪な問題避けて、できるだけみんなが単位をとれるような出題に努め、追試や追追試を重ねても何とか僕の授業単位だけは落とさないようにしている。

その背景には、本当に適性がない学生がいたとしたら、僕より責任のある立場の授業担任などが、きちんとした評価をしてくれるという信頼感があると意味もある。

ということで今年度は、もう授業はないが、卒業を目前にしての期末試験の問題作りが残っている。しかも今回は講義形式の授業ではなく、演習指導の授業の試験問題も必要とされている。これが問題である。

講義形式であれば、自分が教えた授業内容の中から、ポイントとなるキーワードを考えて、それをヒントにいくらでも問題は作ることができる。しかし演習はこれが難しい。

あるテーマを与えて、学生同士でディスカッションすることそのものに意味がある演習授業において、そこで出された結論に不正解はなく、ある意味、そこで話し合われた内容と、引き出された結論は、すべて正解である。場合によってそこには、教師の教えなど存在せず、僕が生徒に示したものなどほとんどないといえるかもしれない。そのような場合、どのような問題を作ればよいのだろう。

いろいろ悩んだ結果、今回は試験問題として自己評価を行わせるともに、演習での気づきをレポート形式にまとめる問題とした。

しかしこの方法は自分の首を絞めるような状態とも言える。なぜなら普通の試験問題なら、採点自体は簡単である。答え合わせをして、配点した点数を足し算するだけで、きわめて単純な採点方法である。

しかしレポート形式の採点は、論文審査と同様で、学生の作文を読み込んで、本来なら点数化できないものを、何らかの尺度に基づいて点数化するという、きわめて難解な採点方法をとらざるを得ない。そういう意味では、問題作成以上の労力とエネルギーを要すものだ。

試験問題を送ってほっとしている暇はなく、答案が帰ってきた際に、それを読む時間が十分取れるように、連載原稿や講演ファイルは早めに仕上げておこうと思う。

こんな状態で、たまに講演予定が入っていない土日があっても、ほとんど休んでいられない日々を送っているが、暇ですることがないよりはずっとましだろうと思っている。

ちなみに講演予定がない次の休みは、2/12(日)までない。頑張ろう。

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違法医療行為を繰り返していた法人理事長の「言い分」


広島県下最大規模の老人介護施設のネットワーク拠点を有する医療法人が、広島市と府中町内で運営する7ヵ所のグループホーム(以下GHと表記)等において、違法医療行為を繰り返していたというニュースが昨日流れた。

それによると、同法人の7ヵ所のGHでは、利用者34人に対し、点滴の針を抜くなどの医療行為を介護職員が日常的に繰り返していたほか、介護付き有料老人ホームでは認定特定行為業務従事者の登録を受けていない介護職員(喀痰吸引等研修を受けていない介護職員)が9人の利用者の喀痰吸引を行い、広島市と府中町内のグループホーム2ヵ所でも同様に、認定特定行為業務従事者の登録を受けていない介護職員が、利用者3人に栄養と水分をチューブで体内に注入していたことを確認したという。

このことについて運営指導されたことを受けた同法人の理事長のコメントが、次のように報道されている。

たまたま重大事案には至らなかったが、無資格者による抜針は不測の事態を招く恐れもあっただけに、利用者と職員にも誠に申し訳ない。職員への法令の周知不足などが原因で、研修などを通じて今後は再発防止を徹底していきたい。」

トップの会見でよくありがちな、責任逃れとしか思えないコメントである。少なくともこのコメントには、法人トップとして自分に責任があるという反省の気持ちはうかがえない。

自分が全く知らないところで、職員がそれらの行為を違法性があるとは知らずに実施していたとでも言いたいのだろうか。そのために今後、できることとできないことを周知徹底して是正すればよいというニュアンスがにじみ出てくるコメントであるが、そんなごまかしは通用しない。

医療行為については、医療法等にその具体例が示されているわけではなく、グレーゾーンの存在する問題であるが、本件で指導された、「点滴の針を抜く」という行為を、医療行為ではないと考えている介護職員は存在しない。それは、まっくろけっけの行為であり、それを知らずに、介護職員が行っても良いと考えて点滴の針を抜いている職員はいないはずだ。

喀痰吸引や経管栄養については、介護職員が特定医療行為として実施できるようになったのは、つい最近のことであり、その条件などをめぐる議論が大きな話題になったのもつい最近で、これらの行為を介護の資格だけでできるわけではないというのは常識であり、法令の周知以前の問題なのは明らかだ。

そういう意味で、本件の当事者となった介護職員が、その違法性を認識しておらずに、誤って行ってしまったとか、法令の周知不足のために、違法とは気がつかずに行ってしまったということではないことは明白だ。それらの職員は、違法性を知りながらこうした行為を繰り返していたものであるはずで、それはきわめて悪質な行為であるといわざるを得ない。

しかしそのような悪質な行為を、こんなに多くの介護職員が、個人の判断で行っていたのだろうか。常識的に考えて、それはありえない。状況から考えれば、これらの行為を組織的に行うことの指示・命令があったと考えるのが普通である。

それを誰が指示したのか?それを明らかにしないと本件は解決したことにならない。

なぜならこうした違法行為を行い、それを隠すような体質の事業者には、しばしばその中で職員の感覚麻痺が拡大し、明らかになった違法行為以外に、利用者の権利侵害や虐待が横行するケースが過去にみられるからだ。

例えば、2010/10/3に介護職員が胃瘻の濃厚流動食を注入していたとして改善命令を受けた香川県さぬき市の特養では、改善報告を行った以後も介護職員による注入を続けていただけではなく、「介護の手間を省くため」という理由で、認知症の利用者に食事や薬を与えなかったり、利用者の足を縛って動けないようにしたなど、少なくとも5人の職員が入所者9人に対する虐待が常態化していたことが明らかになったケースがある。

違法状態もばれなければ良い、ばれてもトップを始めとした誰も責任を取らない、という感覚で運営している事業者には、何らかのほころびが生じているのが常である。そしてそのほころびで被害を受けるのは、いつも利用者である。

今回報道された法人の問題も、違法行為の放置にとどまっているのかどうかという確認が急がれる。そこで被害を受けている利用者が居ないとは限らないからだ。

そもそも第3者のような責任感のないコメントをしている理事長が、本件に全く関与していないというのかどうなのか・・・。関与していないとしてもその責任は重たいはずであり、一遍の謝罪コメントだけで逃れられるものではないはずだと思うのだが・・・。

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私を忘れたあなたが笑う


先週の金曜日に行った新潟県での講演の写真画像が、新潟県老施協事務局から送られてきた。

毎年全国各地で40件〜50件程度の講演を行っている僕ではあるが、自分が講演している画像はあまり持ち合わせていない。基本的に講演の録音はお断りしているが、写真撮影はシャッター音が消音されて、周囲の人に迷惑をかけなければ禁止していないので、もしかしたら受講された方が撮影されている画像はあるのかもしれないが、それを送ってもらう機械は少ないので、こういう画像はありがたい。
新潟講演
この講演のテーマは、主催者の希望により「平成30年トリプル改正が迫る中、介護に係るすべての人々の使命と役割は何か」であった。参加される方は、特養や通所介護、グループホーム、居宅介護支援事業所など多岐にわたっているが、相談援助職や介護職、看護職が多かったので、介護現場での実践論を中心にお話した。

新潟講演
しかし介護保険制度や医療制度全般の改革の流れを知ることも重要なので、講演時間の最初の20分程度は、「期中改正の動向」や「30年以降の改正議論の方向性」についてお話させていただいた。上の二つの画像が、その様子である。

今回の講演時間は、150分とたっぷり時間をとっていただいたので、前半にそのことを話しても、実務論としてのケース紹介などの時間も十分とれるはずだったが、内容をぎゅっと詰め込みすぎたせいで、用意した講演スライドの一部内容に触れることができず時間切れ終了となってしまって申し訳なかった。

今回触れられなかったことについては、ぜひ別な機会をいただいて、次回にお話したいと思う。

実務論の中で紹介したスライドの1枚は、何年か前にNHKの介護百人一首というコンテストの入選作である。京都府在住の80歳代の女性が詠んだ歌である。自分の顔さえ忘れてしまった夫が、入所した特養で、いつも笑顔で暮らしている様子を見て、心からほっとしている気持ちを詠んだ歌だと思う。

新潟講演
誰しも自分の家が一番くつろぐことができる場所であり、年をとって体が不自由になったとしても、自ら進んで特養に入所したいという人はいない。

そういう人を説得して、夫や妻や親を特養に入所させる家族にしても、止むに止まれぬ事情があって、「仕方なく」入所させているのかもしれない。

そんな家族が、心配して特養に面会に来たとき、夫や妻や親が哀しげな表情で嘆く姿しか見つけられないとしたら、それらの人々の家族にとってもつらいことだろう。哀しいことだろう。後悔するだろう。

僕たちは特養に入所したくない利用者や、自宅では面倒を見ることができないという理由で家族を入所させ、心配な気持ちでいっぱいになっている人々の気持ちを否定するのではなく、その思いを受け止めて、そうした否定的な感情をどのように解消することができるのかを考える必要がある。

それはことさら介護施設が家庭に替わる一番の場所だと喧伝するのではなく、家族より僕たちの介護が優れているとアピールするのでもなく、ただただ真摯に、目の前に居られる利用者が幸福感を持って暮らすことができる日常を追求するだけである。

僕たちは家族や家庭と勝負してはならない。僕たちが勝ち負けを争うべきは、昨日までの自分のみであって、他人との争いごとの結果として、何かを手に入れる必要はないのだ。

利用者の表情に笑顔が浮かぶ方法論を考え続けた際にしかつかめないものがあることを忘れてはならない。

そして利用者の笑顔担ってくれたときには、その笑顔はそこだけにとどまらず、家族の笑顔にもつながっていくものだ。それは何にも替え難いものである。まさに介護とは、幸福の笑顔の樹形図を描くことができる仕事なのである。

そのことに誇りを持ち、そのことを目指して、昨日までの自分と競争し続けることが大事だ。

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地域包括ケアシステムにおける介護保険施設の存在意義


地域包括ケアシステムとは、日常生活圏域で、急性期入院を除く医療・介護・予防・住まい・生活支援サービスという5つのサービスを、一体的かつ適切に利用できる提供体制を全国につくるというものである。

しかしその5つの要素がすべて日常生活圏域に存在するとは限らない。限界集落といわれる地域ではなくとも、地方の小さな町の日常生活圏域すべてにおいて、この5つの要素を一体的にサービス提供するのは至難の業である。

このため2013年3月に、地域包括ケアシステム研究会がまとめた「地域包括ケアシステムの構築における 今後の検討のための論点」では、地域包括ケアシステムについて、「地域包括ケアシステムでは、生活の基盤として必要な住まいが整備され、そのなかで高齢者本人の希望にかなった住まい方が確保されていることが前提になる」と解説している。

つまり高齢期になった場合、心身機能の衰えが考えられ、その場合には心身機能に応じた、「住み替え」によって、現在の状況に合った居所を確保し、そのあらたな「住まい」を基盤として医療・介護・予防・生活支援サービスが一体的・適切に提供される仕組みであるという意味になり、当初の5つの要素が横並びとされた概念うち、一番先に「住まい」の確保を優先して考えるシステムになっているのである。

このことは高齢者が必要とするサービスがすべて存在する日常圏域に住み替えるという意味にとどまらない。

地域包括ケアシステムといっても、そのシステムを構築した地域に住んでいれば、自動的にサービスが自らに向けて提供されるわけではなく、それらのサービスを一体的に適切に利用するためには、サービスを利用する側の能力も必要とされるという側面もある。

そうであれば判断能力の衰えた認知症の人などは、このシステムの中で適切なサービスを受けるために、インフォーマルもしくはフォーマルな支援を必要とする場合が多いということになる。勿論、支援チームにはアウトリーチの視点が求められるので、声なき声を拾い上げ、積極的に介入していくことも求められるが、支援ニーズのある人すべてを発見できるわけではないのだから、自分がいま住んでいる日常生活圏域の範囲内で、自らのニーズを代弁してくれる誰かのいる場所への住み替えという意味も含まれている。

そのことを示した概念が、「ニーズに応じた住宅が提供されることを基本とした上で、生活上の安全・安心・健康を確保するために、医療や介護のみな らず、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で適切に提供できるような地域での体制」というものである。

介護サービス関係者であれば、「地域包括ケアシステムとは何か?」という質問に対し、即座にこの概念を示すことができなければならない。そうでなければこのシステムの中で自分が何の役割を担い、何をすべきかが見えてこない恐れがある。

ところでこのシステムは、地域で創るシステムであるが、居宅サービスのみのシステムではなく、施設サービスをも含めた、地域全体のシステムであるという理解が必要だ。

よって介護施設は、このシステムの中でそれぞれ役割を持っており、その役割に沿ったサービスの質が求められてくる。場合によっては、現在の体質を変えなければ、地域包括ケアシステムの中に組み入れられない施設となり、消えてなくなるべき施設というレッテルを貼られる。

例えば特養の場合は、重介護者の暮らしの場として、住み替えの候補となるべき居所である必要がある。そうであれば特養がその住み替え先の一つとして選択されるためには、施設サービスという概念を飛び越えて、重度要介護高齢者の終末期を含めた暮らしを支える、ケア付き集合住宅としての機能が求められていくのは必然の結果である。

集団生活という言葉に代表されるような、施設側の価値観やルールを押し付ける旧態然の施設サービスでは、このシステムから退場しなければならない。(参照:特養に集団生活の論理は通用しないぞ

療養型老健を除く老健施設は、そのリハビリ機能を最大限に発揮し、身体機能を高めて地域で暮らし続けることを支援する施設機能をさらに求められるが、それは一度きりの機能ではなく、加齢とともに身体機能が衰えるたびに、何度も繰り返し利用して、身体機能の向上を図る施設である必要がある。それと同時に、最終的には回復不能の終末期にも対応できる施設としての多機能性が求められてくる。

つまり老健が地域包括ケアシステムの中で担うべき機能は、看護小規模多機能型居宅介護の施設版といった機能で、それを「大規模多機能型施設」と表現しても良いのかもしれない。

療養型老健と介護療養型医療施設(2018年度からさらに6年の経過措置で存続)及び、それに替わる「介護医療院」については、特養がカバーできるキャパを超えた重度医療対応者の暮らしを支える場所として存在することになるのだろう。これらの施設では、経管栄養の人が数多くなると思われるが、同時にリビングウイルの視点から、食事の経口摂取が出来なくなった場合にどうしたいのかという利用者本人の意思を、意思確認できる間に確認しておく運動を推進する拠点となっても良いのではないだろうか。

こうした機能を持った施設が、日常生活圏域の中に存在している中で、その他の介護サービスや医療サービス、生活支援が複合的に提供されるシステムが求められているのであり、そういう意味で、地域包括ケアシステムの完成形とは、居宅サービスと施設サービスの区分がなくなる体制のことであるともいえるわけである。

ひとついえることは、そのシステムの概念をあいまいなままにして、地域包括ケアシステムとは何かという質問に満足な回答をできない人が、地域包括ケアシステムをお題目のように唱えても意味がないということだ。

自分の所属事業だけの方法論も考えてもシステムにはならないということだ。

さらに言えば、自らが縦割りの対応しかできない人が、このシステムの中で多職種協働が必要だと語っても、何の説得力も持たないということだ。

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運転免許定年制を考える先にある混合介護


認知機能が衰えた高齢ドライバーによる事故に関連して、このブログでは何度かそうした悲劇を防ぐことができないかという方向から、様々な記事を書いてきた。

理想を言えば、こうした悲劇を防ぐためには、認知機能が衰えてから運転をやめようとするのではなく、一定年齢に達したら、運転という行為から勇退するという考え方が必要だ。

つまり免許定年制の導入である。

とはいっても運転しなければならない理由を無視して、運転にも定年が必要と唱えたところで、誰もそのことに理解を示してはくれないだろう。

たとえ理解してくれる人がいたとしても、「そうは言ってもなあ・・・。」という呟きが聴こえてきそうである。運転しなければならない様々な理由を思い浮かべて、免許定年制に賛同しきれない気持ちを多くの人が抱くであろう。

そもそも自分に置き換えて考えたらどうだろうか。

自分が一定の年齢に達したときに、いざ免許を返納して運転をやめるという決断ができるだろうか。車がないことで日常生活に支障はきたさないだろうか。

お金が余るほどあれば、日常の買い物にもタクシーを使って不便はないだろうが、そんな優雅な生活ができるわけもない。都会に住んでいれば、車がなくても不便はないのかもしれない。しかし今住んでいる地域で、自分の暮らしを考えたら、車の運転をしなくて良い生活はなかなか想像できない。

日用品の買い物以外にも、通院や家族との連絡、社会交流など様々な機会に車は必要なのだろうが、個人のすべての問題の解決ということは難しいかもしれない。人口減少社会では、その解決は大規模な住み替えによる、コンパクトシティー化という地方都市再編政策が不可欠で、現実的にそのようなことが難しい状況では、よりましな方向性を考えなければならない。

すくなくとも日常必需品の購入に車が必要であるということになれば、なかなか免許を返納するという決断には結び付かない。そうであればそのことを車なしで、どのように解決するのかという検討から始めることは、この問題解決の有用な第一歩になるかもしれない。

全国どこに住んでいても、車がなくとも日常必需品の確保に支障がないということになれば、免許を返納する動機付けは高まるのではないだろうか。

高齢者向けの宅配販売事業者が求められるといっても、ある程度の顧客数がないと、地域出店できる個人事業者には限りがあるから、実際にはそうしたサービスがこの問題の解決策になっていないという現実がある。では他にどのような方法があるだろうか。

それはやはりインターネットを使った商品取り寄せシステムを利用することだろう。

高齢者が家に居ながら、デパートやスーパーに出かけて買い物している気分になるサイト運営を行うことは、そう困難なことではないように思う。

例えば僕の例を挙げると、ネット通販等でどのような商品を取り寄せているかといえば、仕事着であるスーツやワイシャツ等は、ネットで取り寄せることが多い。近くに紳士服専門店がないわけではないが、気に入ったスタイルや色を突き詰めていくと、種類が豊富なネットショップがいつの間にか、お気に入りの商店になっている。そして自分のサイズさえ把握していれば、裾上げやウエスト詰めもしてくれるので、商品が送られてきたらすぐ着用できる。

眼鏡もしかり、近くの眼鏡店に置いていないおしゃれなメガネフレームが、国内外のネットショップにあふれている。輸入購入も普通のことだ。その場合フレームだけ購入して、地元の眼鏡店で度入りレンズを入れてもらう必要もなく、自分の度数を告げればレンズも入れて販売してくれるショップもあって、何の不便もない。

おせち料理等の食料品も、ネットショップで購入する機会が多くなった。そのことに何の違和感もない。日常的な食料品の取り寄せも、年々その幅が広がっている。道外講演で訪れた場所で食べたものがおいしかったとして、それと同じものが地元で変えない場合に、訪問したお店のサイトから取り寄せるということは、もう普通である。

そして高齢者だからといって、ネットショップの利用が難しいのではないかと考える必要もないことは明らかだ。

これから高齢期を向かえる人は、パソコンやスマートフォンやタブレットを、普通に使いこなしている人が多いのだから、ネット通販の利用にも慣れている人が多い。それらの人は現在、地元では変えない商品をインターネットを使って取り寄せている場合が多いだろう。

その延長として、日用品の購入もネットを利用するのがスタンダードになっても不思議ではないし、今後の高齢者の生活実態に即した、車を使わなくても日用品を購入できることを目的としたサイト作りは、結果的に収益を期待できるベンチャーにもなりうるのではないだろうか。

その運営は、ネット専門業者によるものではなく、介護事業者の保険外事業として考えられても良いし、それは将来的には、混合介護の一翼を担う可能性だってある。

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雪の降る街に住むということ


僕は今、新潟市の新潟ユニゾンプラザの新潟県老施協事務局でこの記事を更新している。

これから新潟県老人福祉施設協議会主催研修での講演を行うために、今朝は7:10東室蘭駅発のJR特急を皮切りに、新千歳空港〜新潟空港を経て、先ほど会場に到着したばかりである。

ところで今日は大失敗。家にスマートフォンを忘れてきてサイト管理ができない。そこで講演前の時間に事務局のPCを借りてサイト管理したついでにこの記事更新を行っている。

新潟県老施協主催の職員研修会にお招きを受けるのは2年連続である。再度ご招待していただくことになった理由は、昨年僕の講演を聴けなかった方々から、ぜひ僕の講演を受講したいという希望の声が多数挙がったからだと聞かされた。本当にありがたいことである。

今日も150人近くの参加者があるとのことだが、同時に参加申し込みをしたくとも、職員が足りずに研修に出ることができない施設も多いという話を伺い、人材・人員不足の深刻さを改めて感じている。そんな中で参加している職員さんに対して、職場に持ち帰ることができる役立つ実践論をお話ししようと改めて思った。

先ほどは新潟名物へきそばをごちそうになった。おなかもいっぱいになり元気も出たので頑張ろう。それにしても、うまいものがたくさある北海道だが、そばと日本酒のうまさは新潟に負けるかもしれない。

仕事の都合により、今回のように講演当日の移動も多いが、この冬の時期は、予定時刻どおりに現地に到着できるか、あるいは飛行機が欠航にならないか、いつも不安がつきまとう。先週の全国的な寒波の際には、新潟地方も大雪となって、今日、僕が乗った新千歳空港からの朝一番の新潟便も欠航となっていたので、数日前から天候を気にしていた。

そんな心配をしていたら、19日の新千歳空港は午前中の雪で、新潟空港便が1便欠航になっていた。しかもこの日はANA機がスリップし滑走路から逸脱して、2本あるうちの1本の滑走路が使えなくなり、運航に大きな乱れが生じている。そのために機材繰りなど翌日のフライトにも影響するのではないかとやきもきしたが、夕方になって処理も終わり、滑走路も平常通り使えるようになった。

幸いなことに今日は天気も良く、飛行機も通常時刻の運航で、ほぼ予定通りに到着できた。めでたしめでたし。

どちらにしても天候のことは、運を天に任せるしかない。

これから行う講演は、「平成30年トリプル改正が迫る中、介護に係るすべての人々の使命と役割は何か」がテーマで、期中改正の内容や、来年度からの改正の方向性という制度論と、その中で求められるケアの実践論という、制度と実務のミックスした内容となっているが、今日の記事はその内容に触れるものではない。

前述したように、今日は講演前の控え室であわただしく記事更新しているので、根拠が必要な話や、堅い仕事の話を避けて、日常のことを徒然と思いつくままに書こうと思う。

現在僕は登別の端っこの室蘭市寄りの、鷲別という地域にある自宅から、千歳市まで通勤している。片道の通勤距離は90キロで、通勤時間は一般道を通って2時間弱といったところである。通勤路は、登別市・白老町・苫小牧市・千歳市という3市1町を通るルートである。その通勤道路は、太平洋に臨む海岸線を走ることになるが、そこからの景色は、水平線から昇る朝日と朝焼けがとてもきれいで、心が癒される。長時間の通勤もなれたものだ。

この通勤道路も雪が降ると渋滞となり、下手をすれば3時間近くかかることもあって、今の時期、職場には勤務開始時間より1時間以上前に到着するように朝早くに家を出ている。

昨日は普段雪が少ない登別も吹雪になり、職場に着くまでずっと大雪の中を走行した。所々は吹雪のためのホワイトアウト状態で、案の定苫小牧では渋滞に巻き込まれたが、通勤時間のピークより早い時間に走行していることもあって、遅刻することなく就業時間前には職場に到着できている。

冬場はこうい日も何回かあるだろうが、それも後二月ほどのことである。今年の春を向かえるころには、僕の長時間通勤暦も丸1年となり、すっかりそのことに慣れて、その通勤を含めた日常が、僕のスタンダードといえるようになるだろう。

雪の降る街に住む身を嘆くのではなく、全ての環境が今の自分を作ってくれているのだと感謝したいと思う。現に雪の思い出は僕の中でたくさんあって、それがあってこその自分である。

とにもかくにも、冬のある街に住み、雪を友として元気に過ごしている。こんなふうにからだが健康で、良い仲間に恵まれ、楽しい日々を過ごす今に感謝したい。

今年の講演の旅も、今日から始まり来週の秋田、再来週の久留米と続き、それ以降も続々と依頼が舞い込んでいる。全国を旅して仲間とつながる機会が、こんなふうに数多くある人生に感謝である。

おっと、そろそろ会場に行って、本の販売とサイン会に備えよう。それでは皆さん、よろしくお願いします。

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