masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

地域包括ケアシステムにおける介護保険施設の存在意義


地域包括ケアシステムとは、日常生活圏域で、急性期入院を除く医療・介護・予防・住まい・生活支援サービスという5つのサービスを、一体的かつ適切に利用できる提供体制を全国につくるというものである。

しかしその5つの要素がすべて日常生活圏域に存在するとは限らない。限界集落といわれる地域ではなくとも、地方の小さな町の日常生活圏域すべてにおいて、この5つの要素を一体的にサービス提供するのは至難の業である。

このため2013年3月に、地域包括ケアシステム研究会がまとめた「地域包括ケアシステムの構築における 今後の検討のための論点」では、地域包括ケアシステムについて、「地域包括ケアシステムでは、生活の基盤として必要な住まいが整備され、そのなかで高齢者本人の希望にかなった住まい方が確保されていることが前提になる」と解説している。

つまり高齢期になった場合、心身機能の衰えが考えられ、その場合には心身機能に応じた、「住み替え」によって、現在の状況に合った居所を確保し、そのあらたな「住まい」を基盤として医療・介護・予防・生活支援サービスが一体的・適切に提供される仕組みであるという意味になり、当初の5つの要素が横並びとされた概念うち、一番先に「住まい」の確保を優先して考えるシステムになっているのである。

このことは高齢者が必要とするサービスがすべて存在する日常圏域に住み替えるという意味にとどまらない。

地域包括ケアシステムといっても、そのシステムを構築した地域に住んでいれば、自動的にサービスが自らに向けて提供されるわけではなく、それらのサービスを一体的に適切に利用するためには、サービスを利用する側の能力も必要とされるという側面もある。

そうであれば判断能力の衰えた認知症の人などは、このシステムの中で適切なサービスを受けるために、インフォーマルもしくはフォーマルな支援を必要とする場合が多いということになる。勿論、支援チームにはアウトリーチの視点が求められるので、声なき声を拾い上げ、積極的に介入していくことも求められるが、支援ニーズのある人すべてを発見できるわけではないのだから、自分がいま住んでいる日常生活圏域の範囲内で、自らのニーズを代弁してくれる誰かのいる場所への住み替えという意味も含まれている。

そのことを示した概念が、「ニーズに応じた住宅が提供されることを基本とした上で、生活上の安全・安心・健康を確保するために、医療や介護のみな らず、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で適切に提供できるような地域での体制」というものである。

介護サービス関係者であれば、「地域包括ケアシステムとは何か?」という質問に対し、即座にこの概念を示すことができなければならない。そうでなければこのシステムの中で自分が何の役割を担い、何をすべきかが見えてこない恐れがある。

ところでこのシステムは、地域で創るシステムであるが、居宅サービスのみのシステムではなく、施設サービスをも含めた、地域全体のシステムであるという理解が必要だ。

よって介護施設は、このシステムの中でそれぞれ役割を持っており、その役割に沿ったサービスの質が求められてくる。場合によっては、現在の体質を変えなければ、地域包括ケアシステムの中に組み入れられない施設となり、消えてなくなるべき施設というレッテルを貼られる。

例えば特養の場合は、重介護者の暮らしの場として、住み替えの候補となるべき居所である必要がある。そうであれば特養がその住み替え先の一つとして選択されるためには、施設サービスという概念を飛び越えて、重度要介護高齢者の終末期を含めた暮らしを支える、ケア付き集合住宅としての機能が求められていくのは必然の結果である。

集団生活という言葉に代表されるような、施設側の価値観やルールを押し付ける旧態然の施設サービスでは、このシステムから退場しなければならない。(参照:特養に集団生活の論理は通用しないぞ

療養型老健を除く老健施設は、そのリハビリ機能を最大限に発揮し、身体機能を高めて地域で暮らし続けることを支援する施設機能をさらに求められるが、それは一度きりの機能ではなく、加齢とともに身体機能が衰えるたびに、何度も繰り返し利用して、身体機能の向上を図る施設である必要がある。それと同時に、最終的には回復不能の終末期にも対応できる施設としての多機能性が求められてくる。

つまり老健が地域包括ケアシステムの中で担うべき機能は、看護小規模多機能型居宅介護の施設版といった機能で、それを「大規模多機能型施設」と表現しても良いのかもしれない。

療養型老健と介護療養型医療施設(2018年度からさらに6年の経過措置で存続)及び、それに替わる「介護医療院」については、特養がカバーできるキャパを超えた重度医療対応者の暮らしを支える場所として存在することになるのだろう。これらの施設では、経管栄養の人が数多くなると思われるが、同時にリビングウイルの視点から、食事の経口摂取が出来なくなった場合にどうしたいのかという利用者本人の意思を、意思確認できる間に確認しておく運動を推進する拠点となっても良いのではないだろうか。

こうした機能を持った施設が、日常生活圏域の中に存在している中で、その他の介護サービスや医療サービス、生活支援が複合的に提供されるシステムが求められているのであり、そういう意味で、地域包括ケアシステムの完成形とは、居宅サービスと施設サービスの区分がなくなる体制のことであるともいえるわけである。

ひとついえることは、そのシステムの概念をあいまいなままにして、地域包括ケアシステムとは何かという質問に満足な回答をできない人が、地域包括ケアシステムをお題目のように唱えても意味がないということだ。

自分の所属事業だけの方法論も考えてもシステムにはならないということだ。

さらに言えば、自らが縦割りの対応しかできない人が、このシステムの中で多職種協働が必要だと語っても、何の説得力も持たないということだ。

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運転免許定年制を考える先にある混合介護


認知機能が衰えた高齢ドライバーによる事故に関連して、このブログでは何度かそうした悲劇を防ぐことができないかという方向から、様々な記事を書いてきた。

理想を言えば、こうした悲劇を防ぐためには、認知機能が衰えてから運転をやめようとするのではなく、一定年齢に達したら、運転という行為から勇退するという考え方が必要だ。

つまり免許定年制の導入である。

とはいっても運転しなければならない理由を無視して、運転にも定年が必要と唱えたところで、誰もそのことに理解を示してはくれないだろう。

たとえ理解してくれる人がいたとしても、「そうは言ってもなあ・・・。」という呟きが聴こえてきそうである。運転しなければならない様々な理由を思い浮かべて、免許定年制に賛同しきれない気持ちを多くの人が抱くであろう。

そもそも自分に置き換えて考えたらどうだろうか。

自分が一定の年齢に達したときに、いざ免許を返納して運転をやめるという決断ができるだろうか。車がないことで日常生活に支障はきたさないだろうか。

お金が余るほどあれば、日常の買い物にもタクシーを使って不便はないだろうが、そんな優雅な生活ができるわけもない。都会に住んでいれば、車がなくても不便はないのかもしれない。しかし今住んでいる地域で、自分の暮らしを考えたら、車の運転をしなくて良い生活はなかなか想像できない。

日用品の買い物以外にも、通院や家族との連絡、社会交流など様々な機会に車は必要なのだろうが、個人のすべての問題の解決ということは難しいかもしれない。人口減少社会では、その解決は大規模な住み替えによる、コンパクトシティー化という地方都市再編政策が不可欠で、現実的にそのようなことが難しい状況では、よりましな方向性を考えなければならない。

すくなくとも日常必需品の購入に車が必要であるということになれば、なかなか免許を返納するという決断には結び付かない。そうであればそのことを車なしで、どのように解決するのかという検討から始めることは、この問題解決の有用な第一歩になるかもしれない。

全国どこに住んでいても、車がなくとも日常必需品の確保に支障がないということになれば、免許を返納する動機付けは高まるのではないだろうか。

高齢者向けの宅配販売事業者が求められるといっても、ある程度の顧客数がないと、地域出店できる個人事業者には限りがあるから、実際にはそうしたサービスがこの問題の解決策になっていないという現実がある。では他にどのような方法があるだろうか。

それはやはりインターネットを使った商品取り寄せシステムを利用することだろう。

高齢者が家に居ながら、デパートやスーパーに出かけて買い物している気分になるサイト運営を行うことは、そう困難なことではないように思う。

例えば僕の例を挙げると、ネット通販等でどのような商品を取り寄せているかといえば、仕事着であるスーツやワイシャツ等は、ネットで取り寄せることが多い。近くに紳士服専門店がないわけではないが、気に入ったスタイルや色を突き詰めていくと、種類が豊富なネットショップがいつの間にか、お気に入りの商店になっている。そして自分のサイズさえ把握していれば、裾上げやウエスト詰めもしてくれるので、商品が送られてきたらすぐ着用できる。

眼鏡もしかり、近くの眼鏡店に置いていないおしゃれなメガネフレームが、国内外のネットショップにあふれている。輸入購入も普通のことだ。その場合フレームだけ購入して、地元の眼鏡店で度入りレンズを入れてもらう必要もなく、自分の度数を告げればレンズも入れて販売してくれるショップもあって、何の不便もない。

おせち料理等の食料品も、ネットショップで購入する機会が多くなった。そのことに何の違和感もない。日常的な食料品の取り寄せも、年々その幅が広がっている。道外講演で訪れた場所で食べたものがおいしかったとして、それと同じものが地元で変えない場合に、訪問したお店のサイトから取り寄せるということは、もう普通である。

そして高齢者だからといって、ネットショップの利用が難しいのではないかと考える必要もないことは明らかだ。

これから高齢期を向かえる人は、パソコンやスマートフォンやタブレットを、普通に使いこなしている人が多いのだから、ネット通販の利用にも慣れている人が多い。それらの人は現在、地元では変えない商品をインターネットを使って取り寄せている場合が多いだろう。

その延長として、日用品の購入もネットを利用するのがスタンダードになっても不思議ではないし、今後の高齢者の生活実態に即した、車を使わなくても日用品を購入できることを目的としたサイト作りは、結果的に収益を期待できるベンチャーにもなりうるのではないだろうか。

その運営は、ネット専門業者によるものではなく、介護事業者の保険外事業として考えられても良いし、それは将来的には、混合介護の一翼を担う可能性だってある。

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雪の降る街に住むということ


僕は今、新潟市の新潟ユニゾンプラザの新潟県老施協事務局でこの記事を更新している。

これから新潟県老人福祉施設協議会主催研修での講演を行うために、今朝は7:10東室蘭駅発のJR特急を皮切りに、新千歳空港〜新潟空港を経て、先ほど会場に到着したばかりである。

ところで今日は大失敗。家にスマートフォンを忘れてきてサイト管理ができない。そこで講演前の時間に事務局のPCを借りてサイト管理したついでにこの記事更新を行っている。

新潟県老施協主催の職員研修会にお招きを受けるのは2年連続である。再度ご招待していただくことになった理由は、昨年僕の講演を聴けなかった方々から、ぜひ僕の講演を受講したいという希望の声が多数挙がったからだと聞かされた。本当にありがたいことである。

今日も150人近くの参加者があるとのことだが、同時に参加申し込みをしたくとも、職員が足りずに研修に出ることができない施設も多いという話を伺い、人材・人員不足の深刻さを改めて感じている。そんな中で参加している職員さんに対して、職場に持ち帰ることができる役立つ実践論をお話ししようと改めて思った。

先ほどは新潟名物へきそばをごちそうになった。おなかもいっぱいになり元気も出たので頑張ろう。それにしても、うまいものがたくさある北海道だが、そばと日本酒のうまさは新潟に負けるかもしれない。

仕事の都合により、今回のように講演当日の移動も多いが、この冬の時期は、予定時刻どおりに現地に到着できるか、あるいは飛行機が欠航にならないか、いつも不安がつきまとう。先週の全国的な寒波の際には、新潟地方も大雪となって、今日、僕が乗った新千歳空港からの朝一番の新潟便も欠航となっていたので、数日前から天候を気にしていた。

そんな心配をしていたら、19日の新千歳空港は午前中の雪で、新潟空港便が1便欠航になっていた。しかもこの日はANA機がスリップし滑走路から逸脱して、2本あるうちの1本の滑走路が使えなくなり、運航に大きな乱れが生じている。そのために機材繰りなど翌日のフライトにも影響するのではないかとやきもきしたが、夕方になって処理も終わり、滑走路も平常通り使えるようになった。

幸いなことに今日は天気も良く、飛行機も通常時刻の運航で、ほぼ予定通りに到着できた。めでたしめでたし。

どちらにしても天候のことは、運を天に任せるしかない。

これから行う講演は、「平成30年トリプル改正が迫る中、介護に係るすべての人々の使命と役割は何か」がテーマで、期中改正の内容や、来年度からの改正の方向性という制度論と、その中で求められるケアの実践論という、制度と実務のミックスした内容となっているが、今日の記事はその内容に触れるものではない。

前述したように、今日は講演前の控え室であわただしく記事更新しているので、根拠が必要な話や、堅い仕事の話を避けて、日常のことを徒然と思いつくままに書こうと思う。

現在僕は登別の端っこの室蘭市寄りの、鷲別という地域にある自宅から、千歳市まで通勤している。片道の通勤距離は90キロで、通勤時間は一般道を通って2時間弱といったところである。通勤路は、登別市・白老町・苫小牧市・千歳市という3市1町を通るルートである。その通勤道路は、太平洋に臨む海岸線を走ることになるが、そこからの景色は、水平線から昇る朝日と朝焼けがとてもきれいで、心が癒される。長時間の通勤もなれたものだ。

この通勤道路も雪が降ると渋滞となり、下手をすれば3時間近くかかることもあって、今の時期、職場には勤務開始時間より1時間以上前に到着するように朝早くに家を出ている。

昨日は普段雪が少ない登別も吹雪になり、職場に着くまでずっと大雪の中を走行した。所々は吹雪のためのホワイトアウト状態で、案の定苫小牧では渋滞に巻き込まれたが、通勤時間のピークより早い時間に走行していることもあって、遅刻することなく就業時間前には職場に到着できている。

冬場はこうい日も何回かあるだろうが、それも後二月ほどのことである。今年の春を向かえるころには、僕の長時間通勤暦も丸1年となり、すっかりそのことに慣れて、その通勤を含めた日常が、僕のスタンダードといえるようになるだろう。

雪の降る街に住む身を嘆くのではなく、全ての環境が今の自分を作ってくれているのだと感謝したいと思う。現に雪の思い出は僕の中でたくさんあって、それがあってこその自分である。

とにもかくにも、冬のある街に住み、雪を友として元気に過ごしている。こんなふうにからだが健康で、良い仲間に恵まれ、楽しい日々を過ごす今に感謝したい。

今年の講演の旅も、今日から始まり来週の秋田、再来週の久留米と続き、それ以降も続々と依頼が舞い込んでいる。全国を旅して仲間とつながる機会が、こんなふうに数多くある人生に感謝である。

おっと、そろそろ会場に行って、本の販売とサイン会に備えよう。それでは皆さん、よろしくお願いします。

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福祉用具貸与の実情が示唆するもの


次期介護保険制度改正で、財務省が財源削減のやり玉の一つに挙げていた福祉用具貸与について、財務省が提起していた軽介護者の福祉用具貸与の自己負担化(給付除外)は見送りされることになった。

その大きな理由は、要介護度が低い高齢者が福祉用具を使うことによって、重度化を防ぐことができる自立支援効果が認められ、その給付を制限することは、長期的に見れば要介護状態が重度化する危険性が高く、その分の費用負担がかかることで、給付抑制効果が少ないと考えられたためだろう。

しかしこのことは財務省にとって面白くない結論といえる。給付対象範囲を縮小することは、何も福祉用具や訪問介護の生活援助に限ることではなく、それらを橋頭堡に徐々に制限対象を広げようとする同省の意図を読み取ると、特定のサービスの中長期的な費用抑制効果という視点より、介護給付全体の縮小につながる効果のほうをより重視したいはずであるからだ。よってこの視点からの給付抑制の指弾は、今後も続けられることになる。

ところで、財務省がもう一点指摘していた「スペック以上の価格に高止まりしている」という貸与費の価格に関連しては、自由価格の原則は守りつつ、一部の物品について価格上限を設けることとした。(2018年10月〜

これはスロープ・ベッド、手すりで最高価格が平均価格の10倍を超えている状態が見られたためである。このことに関連しては、次の3点の改正も実施されることになった。

(1)国が商品ごとに全国平均のレンタル料を公表する。(30年10月〜

(2)貸し出す商品の全国平均のレンタル料を、その事業所のレンタル料とあわせて説明することを義務化する。(30年10月〜

(3)貸し出すプロセスで、機能や価格帯の異なる複数の商品を選択肢として示すことを義務化する。(30年4月〜


この新ルールが必要になったことについて、僕たちは何をそのことから読み取る必要があるだろうか。少なくともこのルール改正について、福祉用具貸与というサービスのみの観点から考えてはならない。特に介護サービスの今後の経営戦略を考えるような人は、このことから介護保険サービス全体の問題をみつめる視点が求められてくる。

僕がこの状況から読み取ることは、「賢い消費者」という視点で、介護保険サービスを考えてはならないということだ。

もう一つは、介護保険サービスに置いては市場原理主義は通用しないといいことである。

前者に関して言えば、1割自己負担があるにもかかわらず、同じ福祉用具を借りるに際して、結果的に他の事業者より10倍もの費用をぼったくられている利用者があるという意味ある。つまり、すべての利用者が賢い利用ができていないことは明らかだ。

その理由は、介護サービスの利用者の中には、判断力の低下している人もいて、なおかつ家族を含めた周囲の人々の助言を受けることができない状態で、悪徳業者の言うがままにサービス利用している人が存在するという意味であり、このことは同時に、自己責任をベースとし、政府が市場に干渉せず放任することにより国民に最大の公平と繁栄をもたらすという「市場原理主義」が通用しないという意味でもある。

そうであれば居宅介護支援費をめぐる一連の議論で、利用者自己負担を導入したほうが市場原理が働くという理屈も根拠がないことは明らかだ。利用者自己負担があることによって、利用者の監視が行き届いたり、担当ケアマネんも責任感が高まるなんていう理屈はまやかしでしかない。

居宅介護支援費の自己負担導入については、年度末の意見書で賛否の意見を両論併記し、「引き続き検討を行うことが適当」とし、次期改定では見送りとして継続議論とさらたが、この議論事態がなくなったわけではない。その中では、再び自己負担導入がケアプランの質を挙げる要素になるという理屈が声高らかに唱えられるだろう。

それは明らかに間違っているということを、この福祉用具の現状から読み取れない輩とは、まともな議論を交わす必要すらないと思っている。

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久留米に、くるめえに、してこいといわれそうなこと。


いきなりくだらないダジャレタイトルで失礼しました。もう一つのブログの余韻を引っ張ってしまいました。

さてさて本題。

我が家のおせち料理は、ここ何年も続けて福岡県の博多にあるお店から取り寄せている。それだけ福岡にはうまいものがあって、我が家でも人気なのである。(※まだもう一つの食ブログを引っ張っているように思われるかもしれないが、決してそうではない。)

福岡といっても広くて、僕がお邪魔する機会が多い博多・小倉・黒崎以外にもたくさん魅力的な場所がある。しかし全ての地域に行けるわけではない。そんな行ったことがない地域の一つに久留米があって、前から気になっていた。なぜなら久留米といえば、有名な久留米ラーメンがあって、ラーメンフリークの僕としては、一度は本場で食べてみたいと思っていたからだ。

誰か久留米に呼んでくれないかと思っていたところ、やっとお声がかかった。ありがたい。

2月に第24回日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会in久留米が開催されるが、5日(日) のシンポジウムにご招待をいただいた。

第24回日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会in久留米
シンポジウムのプログラム紹介文は、次のように記載されている。

医療・介護・福祉の業界では慢性的な人手不足に加え、看取りに関わるスタッフの不安やストレスも大きくなっています。スタッフのケアや教育により、モチベーションの向上が図れ、遣り甲斐のある仕事を続けられるようにしたいと思いシンポジウムを企画しました。老人専門看護師として、慶友会看護介護開発室長として高齢者のケア・エンドオブライフケアなど青梅慶友病院でスタッフの教育をされている桑田美代子さん、介護施設で「看取り介護」についで教育・指導を実践されている菊池雅洋さん、久留米市で介護事業を展開し、自らも多くのターミナルケアのマネジメントをされている川津敦子さんをシンポジストに招き、看取りに携わるスタッフのケアや教育を語っていただき、現場での実践に役立てたいと考えています。モチベーションを維持しながら尊厳あるケアを長く続けるには、何が必要でしょうか?雇用する側・雇用される側双方にヒントになるシンポジウムにしたいと思っています。

そのためこの前の日曜日の休みの一日を使って、当日の発表ファイルを作成した。
久留米看取り介護講演ファイル
1枚目の発表ファイルはこれである。発表時間が25分程度と短いので、コンパクトな説明になるが、看取り介護といっても特別な境域が必要になるわけではなく、ベースとなる介護そのものの学びをどうするかということが問われている点を解説したいと思っている。乞うご期待。

なおこの大会は、先週時点ですでに参加申込者が、1.300人を超えているそうである。最終的に何人になるのだろうか。久留米も大混雑するかも・・・。

ところで僕はこのシンポジウムのために、前日に久留米入りする予定を立てていたが、「それなら〜!!」ということで、久留米市介護福祉サービス事業者協議会さんからも声をかけていただいた。2月4日(土)15:30〜17:30は、久留米商工会議所で、「地域包括ケアシステムに求められる人材と役割り」というテーマで」講演を行う。

久留米市介護福祉サービス事業者協議会主催・地域包括ケア講演会
こちらの講演は、翌日のシンポジウムとは全く異なる内容となるが、講演ファイルは次の日曜日に頑張って仕上げる予定である。

張り付いたリンク先から申し込みも可能なので、お近くの方はぜひおいでください。

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この国で生かされている者として


自然は人々に多くの恵みを与えるが、時に甚大な被害も与える。人類の歴史とは、その繰り返しである。

僕たちが生きるこの時代に、僕たちのすぐ近くでも、大きな自然災害が繰り返し起こっている。そしてそのたびに尊いたくさんの命が失われていった。

僕たちに今できることは、失われた命に思いを馳せ、亡くなられた人々を偲び、祈ることだけである。

今日は、あの阪神大震災から22年目にあたる日だとして、朝からそれに関連するニュースが流されている。大震災の記憶が風化していることや、被災者の高齢化など様々な問題が指摘されている。確かに六千人以上がなくなった大災害が起こった日であるが、その報道時間も年とともに減っているように思う。そして今、神戸に立ち寄っても、あの震災の爪あとを感じるような風景は見えない。

しかしそこで暮らしを営む人々は、僕のような旅人が見ることのない爪あとをまだ感じているのかもしれない。現に震災復興住宅の中での高齢化が問題になっている。そこに住まう人々は、あの震災で家を失った人々であり、そのなかには家族を失った人がいるのかもしれない。

肉親や知人を失った人々の哀しみは決して風化することも、消えてなくなることもないのだろう。

僕たちが、それらの人々の思いを察しようとしても、決してその思いに届くことはないのだろうが、せめて僕たちは、大きな災害が起こったその日に、あらためて命の尊さを思い、失われた人々の無念をかみしめて、残された者たちにできることを精一杯考えたいものだ。この日本という国の中で、何ができるかを考えたいものだ。

今日が阪神大震災の起こった日であることを意識したわけではないが、昨日自分のフェイスブックに、次のような思いを綴った。

人とはどのような存在だろう?

「人は愛するもの」、「愛情を持って接することができるもの」、「想いを寄せ、想いをつなげられるのが人」、「想いのネットワークでつなげられるのが人」。・・・そう思いたい。この答えが的を射たものではないとしても、人ということを語る上で、他者に対して「思い」を馳せる存在としての人を考えることは大切だろうと思う。人を支え、人から支えられる存在として、人の間と書いて「人間」と呼ぶことができる存在として、自らの存在や、人の存在を考えていくことは大事なことだと思う。だから人は愛するものだという場所から、自分や他人を見つめることがあっても良いと思う。

3.11や熊本地震で被災された数多くの人々、命を失った数多くの方々がいる。そうした地域で、日々の支援活動に汗をながし続けている我々の仲間たち全てに思いを寄せて、出来る限りの愛を持って、これからもそれらの人々を想い続けることが、この世に生まれ、今この瞬間もこの世に生かされている我々の務めではないかと思ったりする。


偶然このような思いを綴ったのにも何か意味があるのかもしれない。過去の災害では、僕と縁のあった方々も被害にあわれている。それらの人々にどのような思いを伝え、何を祈ろうとするのかを、今一度深く考えたい。

阪神大震災が起こったのは午前5時46分だったか・・・。早朝の眠りから覚めないまま、命を落とした人がいるのかもしれない。着の身着のままで避難した人々も、この冬の寒さでさらにつらい思いをしただろう。

僕が今ここでできることといえば、頭を垂れて、思いを寄せることだけである。その思いを文字にして伝えることだけである。

今年成人式を迎えた若者が生まれていない日の出来事である阪神大震災。

あの時は介護保険制度も誕生していなかった。3.11や熊本大地震と阪神大震災の違いは、地域の中で支援を必要とする高齢者に、介護支援専門員という担当者がいるか、いないのかという違いでもあって、しかしそのことは、非常に大きな違いであり、介護保険制度によって誕生した、介護支援専門員という有資格者の存在意義は大きいことを、このブログでは何度も指摘してきた。

その思いは今も変わりない。

そうであるからこそ、その資格を持った人々が、使命と誇りを持って人の暮らしを護ることを応援すると同時に、使命感のない、支援スキルのない人に対しては厳しい言葉を投げつけることもある。

しかしその言葉は、他人に対するものという意味だけではなく、自らにも投げかけているものであり。自らの心に問い続けるものでもある。

自分が今この国で何ができるのかを、同じ職業を持ちながら、志半ばで命を絶たれた人の思いを感じながら考えて生きたい。

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国民だけに痛みを求める政治は貧しい


昨年10月、厚生労働省は受動喫煙の具体的な強化策のたたき台を明らかにした。

それによると高齢者が利用する施設や居住系サービスなどは、原則として建物の中はすべて禁煙にする構想が描かれており、違反を繰り返す場合には、建物の管理者や喫煙した本人に罰則を科す可能性も指摘している。

さらに塩崎厚労相は東京五輪に向け、10/14の会見で、「WHO(世界保健機関)によると日本の対策は世界最低レベル。日本は『スモークフリー社会』への歴史的な一歩を踏み出さなければいけない」と意欲をみせた。
 
これにより今後、特養等の介護施設の全面禁煙も議論の遡上に昇り、実現化が図られていく可能性がある。そのことは求められる方向性なのだろうか。

僕は非喫煙者であるから、受動喫煙対策強化には大いに賛成である(参照:私は、コレデ!!煙草をやめました。)。しかし特養という生活施設を全面禁煙にすることには疑問を抱かざるを得ない。

特養等の介護施設は、公費で運営され不特定多数の人が住む公共の場であるという性格を持つ。そのためにより高い公衆道徳が求められる場であるともいえる。そのことは十分理解できる。しかしそこには、個人の生活空間も存在しており、そこでは利用者の権利やプライバシーが最大限護られなければならないことは言うまでもない。

しかも特養は要介護高齢者の一時的な滞在場所ではなく、終生施設という性格を持つ。そうであるがゆえに、そこで全面的に禁止される行為があるとすれば、それは生涯取り上げられる行為ということになる。喫煙という行為が、そのような形で取り上げられて、一生涯許されない行為といえるのだろうか。

我が国では。喫煙者の権利が護られるのみで、非喫煙者の権利がおざなりにされる傾向が強いという批判があることも承知している。喫煙という行為が健康被害につながり、禁煙することで健康悪化を防ぐことができるとしたら、結果的にそのことは本人の利益につながるという考え方もあるだろう。だからといってそれを強制できるわけでもあるまい。
  
これから特養に入所してくる団塊の世代の人々は、愛煙家の多い世代である。それは単にニコチン中毒であると切り捨ててよいものではなく、その人たちが生きてきた時代背景が煙草を友とする習慣を作り上げてきたともいえ、高齢期まで続いてきた生活習慣を強制的に取り上げてよいとは思わない。

人に迷惑をかけないのであれば、喫煙というささやかな楽しみまで奪う必要はないのではないだろうか。

だとすれば、そこに一時的にしか滞在しない職員は仕事中に全面禁煙としても良いだろうが、利用者については喫煙者の権利も認め「分煙」として、喫煙場所を別に設けることでよいのではないか。受動喫煙の問題もそれで解決するだろう。

もともと分煙という考え方があるにもかかわらず、いきなりの全面禁煙という考え方になぜ至るのだろう。そこに住まう人々の嗜好は一顧だにされない理由は何だろうか。

僕がこの業界に就職した当時、特養には今より若くて元気な高齢者も多かったが、飲酒を禁止している特養が多かった。当時はまだ水洗化されていない施設もあったが、そういう施設では汲み取り式の便槽に酒瓶やビールの空き缶が大量に捨ててあったという話も聞いた。つまり飲酒を禁止された人が、便所で隠れて飲酒していたのである。そんな悲しい場面を作り出す制限が必要だろうか?

高齢期まで続いてきた趣味、嗜好、生活習慣は、お上の一言で取り上げてよいものではないのではないだろうか。健康に悪いからという理由があっても、個人の嗜好を国が奪う権利はないはずだ。

それにしても、この国の政治家にしても官僚にしても、国民に対し痛みと我慢は簡単に求めてくるが、自らが血を流すことは少ない。「先ず隗より始めよ」という精神は存在しないのだろうか。

介護施設を全面禁煙にして、利用者の喫煙機会を奪う前に、議員宿舎や厚労省の官舎の全面禁煙を実施し、永田町と霞が関の国の施設をすべて全面禁煙にしろよと言いたい。

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介護実践論がもたらすもの


僕が行う講演の中で、介護実践論と称する講演がある。

それまさに介護施設や介護サービス事業所で、僕と僕の仲間が行ってきたことがベースとなっている話であるが、だからといってそれは単にケースの紹介で終わることはない。

実践の中から見つけ出した理論を抜きにしてお話しても、僕以外の第3者が、自らの実践の場で同じようなことができるわけがないと思うからである。同じことをする必要がないとしても、なんらかの参考にするためには、何をどうしているかではなく、何のために、どのような理由で行っているのかが重要な問題となる。

実践の根拠や、そうする必要性を理解しない限り、実践応用はできないのである。そのような根拠こそ実践の動機付けになるもので、その説明のない講演では意味がない。

勿論、僕の話を聴いたからといって、同じ考え方を持つ必要はないし、同じことをする必要はない。しかしせっかく貴重な時間を使って、僕の話を聴くという目的のためだけに講演会場に足を運んでくださる方々が、ただ話を聴いただけで終わり、仕事のスキルにつながるものが何もないのではあまりに時間の無駄である。そうならないように、少しでも仕事の参考や、モチベーションのアップにつながる話にしたいと考えているつもりだ。

そもそも実践事例といっても、そこには様々な個性と特徴を持った人間が存在し、その中の誰かが主役となって作り上げられたエピソードなのだから、主人公や登場人物が違えば結果も異なってくる可能性が高い。

つまり事例そのものがひとつの法則を導き出すことにはならないのである。そうした事例を積み重ねて、一定の法則を見出そうとするためには、事例の中での共通項を検証することは不可欠であり、そこから論理性を導き出さねば介護のエビデンスは生まれない。

僕の実践論とは、30年以上に渡って僕が対人援助として経験した事柄について、そこにどのような人々が何を考えながら関わってきたかを紐解きながら、結果に結び付く理由を検証し、そのことをきちんと説明することによって、僕以外の誰かであっても実践できる方法論としてお話しするものだ。

それとともに、結果を導き出すきっかけになった動機も重要な問題である。そこに存在する疑問を紐解かないと、何をどのように変えようとしたのか、どういう結果を求めたのかが不明瞭になる。それでは目的が果たせているかどうかを確認できない。

僕の場合、それまでの実践に対する疑問に端を発して、新しい方法論を導き出そうとすることが多い。介護の方法の正しさは、教科書が証明するものとは限らず、利用者の方々の表情が証明してくれるものも多い。そこでは根拠とされていた教科書に書かれていないこと、正反対のこともありうるのだ。

人はこれで幸福なのかという疑問。何かが違うのではないかという疑問。それはなぜだろうかというWHYが積み重なって、実践論のきっかけになることが多い。

人のもっとも愉しみであるはずの食事が、人によってはなぜ苦しい行為になっているのかと考え、苦しんでいる人の感情に寄り添った先に、立ったままで食事介助を行うことの危険性が見えてきた。それが食事介助の方法を変え、後付でポジショニングという理屈がついてきた。そのことが食事介助の方法論になっていく。

姿勢に着目すると、排泄の姿勢もこれでよいのかという疑問が生まれてくる。脳血管障害の後遺症で片麻痺のある人が、麻痺した足を膝よりはるか前方に伸ばしたまま、そっくり返るような姿勢で便器に座らされている姿を見て、そんな姿勢で腹圧がかかるだろうかという疑問から、足を膝より内側に引いて、上半身に手を添えて前傾姿勢が取れる支援が、トイレでの排泄介助には不可欠であるとして、そうした支援方法がスタンダードに変わってくる。

その結果、トイレに座らされて何分も放置されている状態は、排泄介助ではなく、虐待に近いものだという意識改革が生まれる。トイレで排泄するという目的を達成するだけに目を奪われて、そこで排泄させられている人の表情や感情を無視したところに生活の質なんて存在しないことにも気づかされる。

そうした方法論が生まれるまでの疑問や議論・教育課程を通じて学んだことをお話している。

そのようなことを指して実践論というのではないだろうか。そういう実践論であるからこそ、僕の話を聴いた人が、現場で同じようなことができるのではないだろうか。

看取り介護にしても、それが特別なケアではなく、日常の介護そのものであることも、実践することによって実感できる真実だ。人材不足が叫ばれる中で、看取り介護が職員の負担を増大させて、人手不足に拍車をかけるのではないかという考え方が間違いであり、むしろ看取り介護の実践が、職員のモチベーションとスキルアップにつながり、職員定着率を高め、人手不足を解消する切り札にもなり得ることも、実践の結果として証明することができる。

看取り介護の実践論を紹介する、日総研看取り介護セミナーは、今年度全国7ケ所(札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、岡山、福岡)で行われ、すべての会場に予想を超える多くの方々がお越しくださり、終了後も大変好評を博した。

そのため新年度(2017年4月〜)も実施予定である。

日総研出版社主催看取り介護セミナー、PDCAサイクルの構築による命のバトンリレー〜介護施設で「生きる」を支える看取り介護の実践(最終ステージの判断基準・家族対応を学ぶ)は、こちらから案内文と申込みフォームがダウンロードできるので、ぜひこの機会に看取り介護の実践論を受講していただきたい。特養の事例を数多く示すが、それは老健や在宅でも通用する看取り介護実践論である。

前回受講した施設の方も、同僚や後輩にぜひ僕の生の講義の受講を勧めていただければ幸いである。

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期中改正(通所介護・2号被保険料)について


昨日の記事で論評した、介護職処遇改善加算の新区分新設のほかの期中改正としては、地域密着型通所介護の指定制限ルール導入が予定されている。

制限の方法としては、市町村が地域密着型通所介護を制限できるようにするために、29年中に地域密着型通所介護の指定に際しては、公募制を導入できるように法改正する案が有力となっている。導入時期も4月説が有力である。

これは定員18名以下の通所介護が「地域密着型通所介護」になったことで、市町村協議制の対象から外れたことから求められるようになった制限ルールである。

定員18名以下の小規模通所介護が、地域密着型サービスになったからといって公募制の対象サービスにもならないことから(公募制にできるのは、定期巡回・随時対応型訪問看護介護と、小規模多機能型居宅介護・看護小規模多機能型居宅介護のみである)、総量規制の対象にもなっていないため、現行ルールのままでは市町村が、地域密着型通所介護の許認可の規制が出来なくなっているのである。

そのために、市町村財政の圧迫を防ぐためにも新たな制限ルールが求められたわけである。

なおその実施時期や、公募制にするかどうかについてなど具体策については未確定部分があり、今後の変更もあり得るので注意が必要だ。

どちらにしても制限ルールが新たに設けられることは確定しているので、定員18名以下の通所介護については、新規事業所の立ち上げはしにくくなる。また小規模通所介護のフランチャイズ展開によって収益を挙げようとしている事業者は、その経営戦略の練り直しが必要にはなるだろう。

しかし既存事業者には実質的影響はなく、むしろ新規事業者の指定に規制がかかることによって、競合事業者が増えにくくなり、顧客確保面では既存事業者にメリットとなり、安定した経営につながる場合もあるだろう。

ただし来年4月からの報酬改定では、通所介護への厳しい査定が予想される。

前回基本サービス費が大きく引き上げられたが、先日国が発表した27年度決算時における収支差率では、通所介護の収支差率は前年に比べ1.4%の低下があるとはいえ、居宅サービスでは一番高い収益率を示す収支差率6.3%という数字が示されている。

このため通所介護のレスパイトケア部分の報酬がさらにカットされる可能性が高く、基本サービス費の引き下げは必至なので、定員いっぱいの顧客を確保するための事業戦略の見直しや、人員配置を鑑みながら一番費用対効果の高い営業日数の見直し、加算を拾いもらさない体制の構築は最低限必要だろう。一般型の地域密着型通所介護の場合は、認知症対応型への転換も視野に入れて戦略を練り直す必要があるだろう。

期中改正といえるかどうかは微妙であるが、僕がかねてから財の再分配効果もあるとして変更を求めていた、2号費保険料の算定方式の変更29年途中から実施される予定である。(参照:2号保険料の算定方式変更は、財の再分配効果に繋がる

総人数割りから総報酬割への変更スケジュールは以下の図の通りである。
2号被保険料の総報酬割り導入スケジュール
現在の2号保険料負担額は、それぞれの健保組合に所属する加入者(被保険者+被扶養者)の数によって決まっている。よって加入者数だけで組合が負担する介護保険料を決めるこのやり方では、収入が低い人が多く所属し、財政力が弱い組合は、苦しい運営を強いられることとなる。このため財政力の低い健保に対し国庫補助金が支出されている。

これを総報酬割りに変更すれば、組合の総報酬額の多寡に合わせて負担の額を変動させる総報酬割であれば、収入の多い人が多数所属する健保組合の負担額は増えるが、財政力が弱い組合は、それに見合った負担をすればよく、公費負担で援助する必要はなくなる。いうなれば財源を、国費から収入の多い国民に付け替えるというわけだ。

つまり総報酬割の1番のメリットは、国庫補助分の公費支出が必要なくなることで、例えば第2号保険料をすべて総報酬割とすれば、1000億円を超える国費が捻出できる計算になる。

財政力が弱い組合には、僕の施設が加入している組合健保も含まれるわけであるが、この変更により僕たちの保険料が下がるわけではない。前述したように、財政力が弱い組合には。被保険者の負担が過重にならないように国費が投入されているのである。

総報酬割になることで、この部分を収入の多い人が所属する組合の被保険者が負担することになるわけで、僕たちの保険料負担額は変わらないということになる。

リンクを貼った記事で述べているように、社会保障費とは、社会の財の再分配という意味があることを鑑みると、この改正は必要不可欠なものであるといえよう。

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介護職員処遇改善加算の新区分について


1/20(金)の新潟県老施協研修における講演は、「平成30年トリプル改正が迫る中、介護に係るすべての人々の使命と役割は何か」というテーマの150分講演である。

このテーマは新潟県老施協事務局より依頼されたものだが、トリプル改正の意味は、来年4月からの改正とは、6年に一度の診療報酬と介護報酬の同時改定に加え、制度改正といえる内容が含まれているという意味だ。

そのため150分講演の内容は、介護の実務論に入る前に、冒頭30分くらいは介護保険制度について、期中改正〜30年以降の改正概要について説明しようと思う。その上で厳しい財政事情から給付制限が行われ、保険料を始めとした国民の負担が増大する中で、どのような状況が生まれるのか、それが介護事業者にどう影響するのかを解説した上で、その中で求められる人材やサービスのあり方について、僕なりの見解を示したいと思う。そにために先週の3連休の間に講演ファイルを作成し、昨日それを事務局に送付した。

つまりこの講演は、制度論と実務論をミックスした内容になっている。聴いて損のない内容であると自負しているし、どなたでも参加可能なオープン講演なので、興味のあるか方は、新潟県老施協事務局025-281-5534まで連絡いただければ幸いである。(参加費は会員無料、非会員3.000円)

ところで制度改正に関連しては来年度からの改正に先駆けた期中改定として、介護職員処遇改善加算に、今年度よりさらに1万円給与アップを図るための新区分が設けられる。

加算率の高い新区分を算定するためには、新たなキャリアパス要件IIIをクリアしなければならない。この要件は、「経験もしくは資格等に応じて昇給する仕組み」または「一定の基準にもとづき定期に昇給を判定するしくみ」となっている。それらを就業規則等に記してすべての介護職員に周知することを求めるものである。

現行のキャリアパス要件には、職位・職責・職務内容等に応じた賃金体系を求める要件があるが、それでは具体的にいつ昇給されるのかが不明瞭という批判がある。例えば、係長職に昇格した場合に昇給する要件があったとしても、いつ係長になるか具体的な期間が示されていないのでは意味がないという批判である。

よって新要件の「経験に応じた昇給」であるなら、1年就業後に確実に昇給する給料表を備えて職員周知しているとか、1年ごとではなくとも、3年目まで・3〜5年・5年超でそれぞれ昇給する等という仕組みを作って周知しておれば要件該当する。ただしハローワークに求人を出すときのように、「昨年度実績」という形では要件該当しないと思われる。

資格に応じた昇給」であるなら、資格なし・介護福祉士・事業所定めたそれ以外の資格等でそれぞれ昇給することを定めて周知しておくということが想定されている。

どちらにしても定期昇給要件を定めた給料表が整備されている職場ならば、要件に該当しないことにはならず、算定ハードルは低いといえるのではないだろうか。

2017年度予算では、このために289億円が計上されている。しかしこのために2018年度の介護報酬が削減される可能性がないとも言えず、悩ましいところだ。

国が予算措置をとって、事業者の持ち出しがさほどなく、収益上のデメリットにならないからといって、この新区分を要件該当する全事業者が算定するとは限らない。なぜなら将来の経営状況を見越して、この加算で手当てできる対象職員の給与を引き上げて、それが固定化する中で、次期報酬改定で給付費用が下げられたときに、事業経営が成り立つのかという懸念が当然出てくるからだ。

しかし人手不足の介護業界で、この加算を算定できないと、介護職員はますます応募に応じてくれなくなるというジレンマもある。人手確保を考えると、実質的に新区分を算定しないという選択肢はあり得ない。

そのときに、この加算で対策されない他の職種の給与をどうするのかという問題もある。介護職員以外の職種といっても、介護事業者の場合は、看護職員や介護支援専門員など、介護と密接に関わる職員が多いのだから、それらの職員の給与だけ上げないというわけにはいかない。給与引き上げ状況があまりに異なると、他職種の不満につながり、それは退職者増という形で表面化しかねないという危険性もあるからだ。

そのために介護職員以外の職種の給与引き上げは、処遇改善加算以外の加算と基本サービス費の収益から確保する必要があるが、肝心の基本サービス費が増額される可能性はきわめて低く、むしろ引き下げられる事業が多いと予想される。

そんな状況で今以上の収益を確保すするためにはどうしなければならないのか、あるいは収益が下がる中で、介護職員以外の職員給与をどう引き上げるのかという課題が、介護事業経営者に投げかけられているわけで、全く新しい視点での事業経営戦略が求められる厳しい状況といえるのではないだろうか。

どちらにしても事業者の収益を下げながら、介護職員の待遇だけを改善させようとする国の無理難題を、介護事業者がすべてかぶることになる。

考えてみればずいぶん乱暴な方針のもとに、僕たち介護事業者は踊らされているわけである。

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プラネタリウム


僕の生まれ故郷は、道北の下川町という小さな町だ。

名寄市にほど近いその町は、いまではスキージャンプの葛西選手の出身地として知られてはいるが、僕の生まれた場所は現在の下川町からさらに10キロ離れた山間の、「下川鉱山」という地区であった。

鉱山といっても炭鉱ではなく、銅を採掘していた銅山で、三菱金属工業という企業城下町であった。その町には最盛期には3.000人近い住民が暮らしていたが、今は閉山しており、町もすでになくなっている。今そこにはかつての小中学校の校舎などが廃墟のように残っているだけだそうである。

僕は閉山前の1976年(高校1年生)までしかその町に住んでいなかったので、閉山間際の町の様子は知らない。僕が物心ついてから、その町を出るまでは、まだまだ活気のある街で、田舎ではあったがインフラは町役場のある下川町よりも整備されており、全山水洗化されていたし、生活レベルも高かったと記憶している。

何より社宅に住んでいる限り、生活費は破格の安さであった。光熱水費はただのようなものだったし、地区ごとにある公衆浴場は無料なので、番台など存在しない誰もがフリーパスで入ることができる社交場だった。

今のようにコンビニエンスストアがあるわけでもなく、会社の購買部と呼ばれる何でも買える大型雑貨店以外は、個人商店が2件あるだけの小さな細長い町であった。風紀上の問題からか、会社の方針により飲み屋や喫茶店は1軒もない町で、都会の人からは想像もできない田舎町であったが、高校生になっても、そんな町の暮らしに一つも不便など感じずに暮らしていた。(ちなみに岩見沢市に転出するまで、その町から名寄高校というところに、片道50分ほどかけてバス通学していた。)

そんな田舎町で、子供から物心つく年を経て、人並みに恋をしたり、傷ついたり、喜んだり、悲しんだりして大人の階段を上ってきたわけである。

田舎町だから、遊びといえば小さなころからソフトボールや野球といった球技が主だった。しかし中学生になっても野球部に入ることはなかった。その理由は野球部だと強制的に頭を丸刈りにされるので、それが嫌でテニス部に入って髪を伸ばしていた。

そんな傍ら、土曜日の夜だけ会社の道場のようなところに通って、数年間柔道に打ち込んでいた。当時体格も良かったので、下川町の大会では同学年のほかの選手に負けたことはなく、いつも優勝していたくらい強い選手だった。今では誰も想像がつかないだろう。

柔道の練習が終わるのは夜8時ころで、そこから徒歩で30分以上かけてお腹がペコペコな状態で家にたどり着くわけである。その時間は夏でも、もう星が出ており、暗い田舎町の夜空に広がる星がきれいだったことを今でも覚えている。特に冬の空に輝くオリオン座がとても綺麗だった。そんな記憶がある。

だから僕らにはプラネタリウムなど必要性がなく、そもそもそんな田舎町にプラネタリウムがあるわけもなかった。

そんな僕が初めてプラネタリウムで星を見る経験をしたのは、小学生の高学年の時だった。場所は名寄市にあるプラネタリウムだったが、後にも先にもその時一度だけの経験だった。その時のことが何となく記憶に残っており、下川鉱山の空の星もきれいだけど、プラネタリウムの天井に映る星もきれいなものだなと思った。

しかしそれから一度もプラネタリウムに行きたいと思わなかったのは、やはり僕には故郷の夜空というかけがえのないものがあったからなんだろう。

そんな記憶もいつしか薄れ、夜空を見上げて星をじっくりと見る機会も少なくなった。そもそも今見上げる空の星は、あの時の星空とは違っているようにも思える。それは天体の問題ではなく、僕の見る目が違っているということなんだろう。純な心を少しずつ失っていった結果かもしれない。

けれどやっぱり見上げる夜空に輝く星があるということは、素敵なことである。どこの誰であろうと、見上げれば見ることができる輝く星があるということは素敵なことだ。年をとっても自分なりの輝きを求めるために、見上げる夜空の星に力をもらいたいものだ。

新年になってから活動休止を発表した、「いきものがかり」の唄は、今僕が通勤路で一番聴く機会が多いBGMである。彼らの「プラネタリウム」という歌のフレーズに次のような一節がある。

哀しみの夜を越えて 僕らは歩き続ける
願いは、思いは、果てしない宇宙(そら)を夢見てしまうから
たとえひと時だけでも、きらめくことができたら
心はほら今、こぼれた光に手を伸ばすよ


僕はこのフレーズが大好きだ。人に哀しみはつきものだ。恋の哀しみ以外にも、仕事上の悩みや、生きることそのものの悩みが生む哀しみは、日常のそこかしこに転がっている。そしてそれを避けて通ることのできる人間はいない。その時に何に心を癒されるのかは人それぞれだろうが、悲しみに打ちひしがれる人にも、必ず一筋の光は届き、それを頼りに前を向いて歩き続けることが大事だ。そうすることで超えられない壁などなくなることを信じてほしい。

絶望の淵に沈み、何も見えなくなったとしても、いつか光が君を輝かせてくれることを信じ続けてほしい。苦しくなって何も考えられなくなった時には、頑張りすぎないで休んだってよいのだ。その時に君の心に響く唄があればよいね。この唄が君の心に響くなら、この唄をBGMにして、今日のブログ記事をもう一度読んでくれると嬉しい。そして傷を癒して元気になってほしい。今すぐでなくても良いのだから。

見上げる星空の輝きに、気づくことができる君を取り戻せることを信じています。待ってるね。

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雨は似合わない


成人の日の登別は雨になった。昼過ぎには、この雨が雪に変わる予想になっているが、この時期の雨は本当に珍しい。

冬の雨
今年の北海道は冬の訪れが早く、雪も多い年だったが、年末から年始にかけては穏やかな天候の日が続いていた。それでも氷点下の寒い日が多かったのであるが、今日は気温が10度まで上がってこの雨である。このところの気候変化には、過去の経験は何の役にも立たない。いったいどんな冬になるのだろうか。

今日は各地で成人式が行われるのだろう。登別市のように昨日のうちに式典が行われた地域も多いのだろう。

昨日も一部の地域では新成人の式典をぶち壊す行為が報道されている。酒に酔って暴れる姿が恥ずかしく思えるようになるには、あと何年かかるのだろうか。そもそも酒を飲めるということは自慢でもなんでもない。僕のような酒飲みは、この年になると、お酒を飲まないでいられる人がうらやましいし、酒席でお茶で付き合える人の姿は格好良いと思う。それに比べてついつい大酒を飲んでしまう自分に自己嫌悪の毎日である。ああ恥ずかしい。

お酒を飲めるということは、その反面にお金もかかるし良いことはほとんどない。酔って人に迷惑をかけないのは、まだしもである。合えてよい面を探すとすれば、時としてお酒を飲めるということは、コミュニケーションツールとして有効な場合があると感じるのが唯一のメリットだが、深酒はそんなコミュニケーションさえ忘れさせてしまうという記憶障害を伴うので、ほどほどにしておいたほうが良い。

間違いなく言えることは、酔っぱらった姿は、格好悪いということだ。

酒を飲めることも、煙草を吸えることも、大人の証ではなく、単なる中毒である。大人とは社会に対し自分自身の責任が取れることであり、人を愛するまっすぐさを信じられることである。どうか勘違いしないでほしい。

とうの昔に成人式を迎えた僕にとって、今日の祝日は単なる休日でしかないが、休養という意味でもない。本業のほかに、作家と講演講師としての顔を持つ僕は、ほとんどの休日を原稿執筆や、講演資料づくりに費やす毎日である。

正月3ケ日に、今月刊行予定の日総研出版社の「エンド・オブ・ライフケア」の連載原稿を仕上げたと思ったら、再来週までに「CBニュース」の連載と、シルバー産業新聞の連載の締め切りが迫っており、その執筆もしなければならず、さらに今月20日の新潟講演と、30日の秋田講演の講演ファイルを作って、配布資料を講演主催事務局に送らねばならないために、この3連休はずっとPCの前で作業を続けている。

ちなみに僕の講演予定は、張り付けたリンク先から見ることができるので、参照していただきたい。20日(金)の新潟講演と30日(月)の秋田講演は、ともにオープンなので、どなたでも参加可能である。

1月20日の新潟講演のテーマは、「平成30年トリプル改正が迫る中、介護に係るすべての人々の使命と役割は何か」としており、非会員の方も、参加費3.000円で参加できるそうである。現在参加申し込みを受付している最中なので、お近くの方でお申し込み希望の方は、新潟県老施協事務局025-281-5534まで連絡いただければ幸いである。

1月30日の秋田講演のテーマは、「それぞれの生きるを支える〜対人援助の使命と誇り」であり、どなたでも無料でさんかできるので、受講希望者の方は、社会福祉法人 秋田県社会福祉事業団事務局018-889-8363 まで問い合わせいただきたい。

今日もこれから、講演ファイル作成作業を夜まで続ける予定である。息抜きは、懐かしいフォークソングを聴きながらということにしているが、こんな冬の雨の日は、やはりNSPのあの歌が聴きたくなる。

このブログ記事も、この唄をBGMとして流しながら読んでいただければ雰囲気が出るかもしれない。

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喜怒哀楽を包み込む場所


居住系施設のホームページなどに、「明るい笑顔があふれる施設」などという表記がされていることがある。

しかしそれは嘘だ。

そのような明るい笑顔ばかりがあふれている施設は存在しない。施設の中には、笑顔のほかにも、様々な感情が常に存在し続けている。だがそのことを恥じる必要もない。

居住系施設が、利用者の笑顔を追及し、すべての人が幸福に暮らせるようにサービスの質を高めようとすることは当然あってよいし、笑顔あふれる施設作りという理念を掲げることを否定する何ものもない。

しかし人の感情は様々だ。良かれと思って僕たちが対応した結果に、すべて肯定的な反応が返ってくるわけではない。それもごく自然なことである。

そのときに笑顔あふれる施設という看板やキャッチフレーズは、僕たちの目を曇らせるだけだろう。

笑顔以外の表情を作るときの、利用者の感情を見逃してはならない。そのためにはその感情を否定しないことである。自分の施設ではそのような負の感情を利用者に与えることはないなどと決め付けないことが大事だ。

目指すものが常に実在するわけではないし、ないものが実在するかのような表現は、顧客だけでなく、内部の職員にも間違った意識を植え付けかねない。

むしろ僕たちは、そこには様々な感情が存在し、笑顔の裏に隠された様々な感情が生まれ続けることを常に意識すべきである。

僕たちがどんなに暮らしやすい施設にしようと努力したとしても、複数の人間が暮らしている場所には、そこに暮らす人々の負の感情が必ず交差している。それは喜怒哀楽の感情を持つ人としてごく当たり前のことだ。人はいつも笑って過ごすわけではないのだから・・・。

こんなに頑張って、こんなにいいケアを提供しているのだから、きっと利用者みんなが満足しているだろうというような考え方が一番良くない。そうした考えは、利用者の感情変化に鈍感となり、利用者が今感じていることと意識のずれを生じさせる。

そのことは利用者への関心が薄れるということと同じ意味である。それがなぜ恐いかといえば、利用者の負の感情を見逃す先に、必要なケアの放棄という状態が作り出しかねないからである。

お正月の居住系施設には、たくさんの利用者の暮らしがある。

そこは恵まれた環境で、行き届いたケアサービスが提供され、おせち料理を始めとした豪華でおいしい食事が連日のように提供されているのかもしれない。職員は誠心誠意の心で接しているのかもしれない。

しかし同時にそこには、自分の家で新年を迎えられない人の悲しみやあきらめがあるかもしれない。面会に来ない家族に対する憤りがあるかもしれない。周囲にたくさんの人々がいたとしても、身内が一人も居ない孤独に打ちひしがれている人がいるかもしれない。

笑顔の裏側に隠された慟哭があるのかもしれないのだ。

僕たちはそうした心の機微を常に意識して、その心にそっと寄り添う気持ちを忘れない人であるべきだと思う。

僕たちがそのときに、すべてのさびしい人々の心の拠りどころになるなんてことはできないし、すべての哀しさを優しさで包み込むこともできない。自分はさほど偉大な存在ではない。

しかしさびしい気持ち、哀しい心、怒りの感情、あきらめの思いを持つ人々の心のありようを想像し、その思いを受け止めて、その思いに共感することはできるだろう。そのときにはじめて、様々な思いを持った人が求めるものが、少しだけ理解できるのではないだろうか。

居住系施設のサービスとは、幸せと笑顔を押し売りすることではなく、人の喜怒哀楽を包み込んで、受容し、そういう思いを持つ人々を思い続けることである。

笑顔を作るより先に、悲しい人やさびしい人を愛することである。その先は僕たちがつくるのではなく、僕たちが寄り添う人々が自らつくりだすのだ。

路傍に咲くあかい花は、ただそこに美しく咲こうとするだけで、決して誰かに何かを与えようとしているわけではない・・・。

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グリーフケアチームに参加して考えたこと


僕は長年、特別養護老人ホームで看取り介護にかかわってきたが、そこではグリーフケアが必要となるケースはほとんどなかった。

「大往生」という言葉があるように、長命の末の死は、周囲の人々もその事実を受け入れやすいいし、そうした中での自然死であれば、一時的な哀しみの気持ちを持ったとしても、その死が安らかであることで、看取る人々の心の安寧(あんねい)につながることによって、その死によって悲嘆感にくれ、グリーフケアが必要になることはほとんどなかったのであろう。

しかし例外がないわけではない。

過去にグリーフケアが必要になったケースでは、認知症で意思確認できない利用者が、食事の経口摂取ができなくなった際に、娘が経管栄養を行わないと判断したケースがある。

その方の最期は安らかであったし、娘さんも枕辺で手を握りながら看取ることができ、死の瞬間は涙を流しながらも、取り乱すことはなく、グリーフケアが必要な状態とは思えなかった。

しかし四十九日を迎えたころから、娘さんの精神状態が不安定となり、親を失った悲嘆にくれるような状態が出始めて、グリーフケアが必要とされ、我々が関わりを持つ必要が生じた。後々明らかになったことであるが、四十九日が迫るにつれて、娘さんの気持ちの中で、「自分があの時に経管栄養をしないと決めなければ、母親はまだ生きていたのではないか。結果的に自分が親の死を早めてしまったのではないか」と考えるようになったことが、悲嘆感を持つにいたる原因だった。

この時点で彼女の親は、僕の施設を死亡退所していたわけで、僕が彼女の支援に関わる状態ではなかった。しかし彼女が通院していた医療機関が、僕の施設と関連深い医療機関で、当該医療機関の担当MSWとも親しい間柄であったため、グリーフケアが必要になった経緯から、亡くなられた母親の担当をしていた僕も支援チームの一員として参加したという経緯がある。

このとき僕自身もたくさんの学びをいただいた。多職種協働のチームの中に、精神科のソーシャルワーカーと、介護施設のソーシャルワーカーと、2人の同職種が参加しても、それぞれ専門性の違う場所からの気づきがあり、それぞれがそこに参加していることに意味があることも知った。

母親の死の悲嘆感に陥っている人に、いくらその死の瞬間が安らかであり、娘の決断が死を早めるものではなく、自然死につながる安らかな最期の時間を過ごせることにつながる決断だったかということを説明したとしても、それは単なる説得に過ぎず、そんなことで娘さんの心の傷が癒せることはないことを知った。

終末期に母親がどう過ごしたかのみならず、さかのぼって母親と娘の間にどんなエピソードがあり、そこにどのような愛情の物語があったのかを傾聴しながら、娘さんの悲しみを理解しようとする先に、解決の糸口が見つかっていった。

それは僕たち支援チームが解決したのではなく、母親の愛を思い出しながら、娘さんが自分で解決していったといえよう。その詳しい経緯については、別に書く機会があるだろうが、ここでは本題と外れるので触れない。

どちらにしても、命や死に関わる判断は、人によっては心の傷になりかねないものである。その判断自体が心の重荷となって、精神を押しつぶす場合があるのだ。そうならないための唯一の方法は、あらかじめ親から子に、自分がどのような状態で終末期を過ごしたいのかという希望を伝えておくことだ。親の代わりに重い判断をするのではなく、親の意向に沿った意思表示ができるとすれば、子の心の負担は、ずいぶん軽いものとなるだろう。

今健康で死とは程遠い場所に居ると思える人であっても、いつまでも健康で暮らし続けることはできないのだから、自分の死に場所や死に方について、一度真剣に考えた上で、そのときに何をどうしてほしいのかを、身の回りの親しい人に告げておくべきである。死を間近にした人は、自分の力でできなくなることの方が多い。そのときには他人に何かを委ねなければならないが、何をしてほしいかという重い判断さえも第3者に委ねてはならないのである。

自分の子や親だからという関係に甘えて、愛する人の死に方まで決めなければならないという重たい判断を任せてはならない。それは愛する肉親に対しても、あまりに酷な十字架を背負わせることになりかねないからだ。自分の死、肉親の死を語ることは、決して縁起の悪いことではなく、タブー視するようなことでもない。死について語り合うことは、愛を語ることに他ならないからである。

1月に日総研出版社から創刊される、「エンド・オブ・ライフケア」で、連載させていただく予定になっているが、そんな思いを様々な角度から伝えていこうと思う。

ぜひご期待いただきたい。
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財源論による給付抑制策の正論化を憂う


正月3ケ日を終え、今日から仕事始めという人も多いのだろう。僕もその一人である。

今日から正月気分を振り払って、仕事モードに切り替えて頑張りたい。そして今年も一年楽しく仕事をしたいものだ。

北海道は年末から年始にかけて穏やかな天候が続いた。圧雪・アイスバーンだった道路も、アスファルトが見えているところが多い。加えて今朝の通勤道路は、まだ仕事が休みの人が多いためか空いており、予定時刻より30分以上早く着いた。時間ぎりぎりになるよりはましなので、冬の間は早めの出勤に努めたいと思う。

僕は年末年始を自宅でのんびり過ごすことができたが、僕の勤務先をはじめ、介護施設は年中無休なのだから、僕が休んでいる間にも、暦に関係なく働いてくれている同僚などの仲間が居るわけで、そのことに感謝の気持ちを忘れてはならない。1年の最初の出勤日は、いつもそのことに感謝をすることから始めたいと思っている。

それにしても今年は激動の年の予感がする。

この20日には、アメリカでトランプ政権が発足するが、アメリカファーストの政策が、我が国にも様々な影響を与えることは必至で、どちらにしてもトランプ新大統領を中心に世界が回り、揺れる年になりそうだ。

ヨーロッパも選挙の年で、フランスやドイツで極右政権の誕生があるかも知れず、平和とは程遠い近未来が予測される。ナショナリズムに偏った政策の行き着く先は、戦争と荒廃しか思い浮かばないのは、僕の想像力が貧困なせいだろうか。

我が国でも、解散総選挙がいつ行われるかわからない政局である。しかし選挙が行われたとしても、政権交代の芽はないだろうから、当分現在の政策が続けられる。それは経済と外交を重視する政策であり、社会保障費をお荷物と見る政策である。

そんな中で、来年4月からの介護報酬改定議論が最終局面を迎える。

その改定は、診療報酬とのダブル改定であり、制度改正と絡むとトリプル改正といえるが、骨太の方針による社会保障費の自然増の圧縮が命題とされているなかで、介護給付費に対する風当たりは強く、厳しい報酬改定となりそうである。レスパイトケアに対する報酬カットは当然であるかのような雰囲気が厚労省内にあり、特に小規模事業者は経営体質の抜本的見直しが求められることになりそうだ。

それにしても財源論を盾にした給付抑制政策の正論化は、本当に正しい論理だといえるのだろうか。

介護保険制度創設に際して国は、この制度の意義を、「家庭内で家族が担ってきた介護を、広く社会共通の課題として認識し、介護を担う社会資源(サービス)を、税と保険料を中心に拠出された財源によって、社会全体が担っていく」と説明していた。

これが介護の社会化というスローガンとなり、同時にこのことが強制加入の掛け捨て保険料という、新たに国民負担の理由と根拠にされたわけである。

つまり、この国に生まれ、社会活動を重ねてきた人々が、年を取って介護が必要になり、社会資源を利用しなければならなくなることは自然の摂理であり、そのことは個人の責任ではないので、社会全体で個人の暮らしを支えていくべきだというのが、介護保険制度の主旨であると国が宣言しているわけだ。

そのためには国民全員がその財源の一部を負担する必要があるので、社会保険料負担を受け入れなければならないと、国民に理解を求めて、この制度が発足しているということだ。

にもかかわらず、国民の痛みである保険料負担を維持しながら、さらに利用者負担を強化する中で、財源には限りがあるという論理だけで給付を縮小し、要介護認定を受けただけでは使えないサービスを増やすような、「改革」の実態を、この国の国民はいつまでおとなしく受け入れ続けるのだろうか。そもそもそのような給付制限の先に、家族等が個人で担ってきた介護を、社会全体が担っていくなどということができるのだろうか。

それができないとしたら、まやかしの理屈で、国民の痛みだけが増やされているという意味にしかならない。

毎年たくさん発行される赤字国債による資金は、どこの誰にどのように使われているのかを精査し、明らかにしてほしい。

そもそもこの国に生まれ、この国に生き、結果的に長命を得た人々にかかる費用を、お荷物のように見る政権に、国を運営する資格があるのだろうか。本来、社会福祉や社会保障は、国の基盤を支える、「見えざるセーフティネット」ではないのか。そしてそれは国民の経済活動をも支える基盤であり、無駄な費用とはいえないのではないのか。

少子高齢化の影響で、負担と給付の構造がいびつになっていることは事実だが、それは何十年も前から予測されていたことで、そのために介護保険制度を創設して、新たな国民負担を求めたのではなかったのか。

財言論によって、国民の命と暮らしを守る介護や医療が、邪魔者のように切り捨てられていく社会は恐ろしくないだろうか。

今一度、そのことを検証しなおす一年にしなければならない。
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2017年の元日を迎えて


明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いしたします。

今年も何事もなく無事に新年を迎えられますたことに感謝しています。我が家は専業主婦の妻のほか、長男は札幌で障がい者福祉関係の仕事に就いており、次男は地元室蘭の一般企業で働いておりますが、どういうわけか、本来は暦に関係ないはずの僕と長男がここ数年は暦どおりの休みで、一般企業に働いているけど、エネルギー部門で、管理が必要な次男だけが、大晦日も元旦も出勤ですが、それでも平穏なお正月を迎えられております。

今年は30年以上働いた職場を退職し、新しい職場に移って迎えた正月になりますが、おかげさまで新たな職場でもストレスなく勤務できており、希望を胸に新しい年を迎えられました。これもひとえに周囲の皆様のおかげです。

介護事業者は、ますます厳しい風を受けます。

来年の介護報酬と診療報酬のダブル改定は、安倍内閣の骨太方針により、社会保障費の伸びを2018年まで、現状の毎年1兆円から五千億円に抑えられるのだから、給付帆自体は増大しますが、単価は抑えられる中で、サービスの効率化が必要な薄利多売戦略の中で、利用者である要介護高齢者から求められる事業者は、顧客をしっかり確保して成長できる反面、知恵のない小規模事業者は淘汰されていきます。、

しかしそういう厳し次代であっても忘れてはならないのは、我々の仕事は書類や数字を相手にしているのではなく、目の前に「利用者」というかけがえのない人々に向かい合っているという事実です。その人たちの命や暮らしを無視した事業戦略であるなら、恥ずべきこと以外何でもありません。

僕たちが相対する人々の笑顔が、今年は去年より多く見られるような「関わり」でなければ、我々の存在意義はありません。僕はそのことだけは忘れません。それが違うという場所からは退場します。それはセンチメンタリズムではなく、僕の生きる証です。

今年も僕たちの周りからたくさんの笑顔を作り出して、社会全体の幸せにつなげていきましょう。

スインクグローバリー・アクトローカリーの精神は、今年も僕にとって大切なキーワードです。

それでは皆さん、今年もよろしくお願いします。誰かの赤い花になるために、カッコ悪くても熱く生きましょう。
無題

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僕にとっての2016年


僕の年末・年始の休暇は、本日から3日までとなる。昨年までと違って、緊急呼び出し対応もしなくてよいので、学生時代以来の、のんびりした年末年始である。

昨年までの職場は、30日が仕事納めで、しかもその日は、「年取りの宴」と称する利用者の忘年会を夕食時に行うのが常だったので、帰宅するのは20:00を過ぎてからとなり、さらに日直出勤がない正月は数年に1階だったので、今回のように5連休となる休みを過ごすのは、いつ以来か記憶にないほどだ。この貴重な機会を、有効に過ごしたい。

とは言っても年明け早々に締め切り日が設定されている連載原稿もあるし、1月に実施する介護福祉士養成専門学校の単位認定試験問題も作らねばならない。1月の新潟講演と秋田講演のファイルづくりにも着手する必要があるだろう。

そんなわけで仕事とまったく切り離れて過ごすわけにはいかないが、自由な時間の中でまったりと過ごす中で、それらの作業をすればよいという呑気な時間を過ごすことができそうだ。

今朝は、主夫業をひと通りこなして、家族貢献した後、年末年始に必要なものの買い物に行った後、図書館によって、のんびり過ごす時間の友となる本を借りてきた。このブログ記事を更新した後は、今日一日と明日については、読書三昧で過ごそうかとたくらんでいる。

あらためて今年一年を振り返ると、僕自身はとても充実した良い一年であった。職場を変えたことで、僕の環境は大きく変わったが、僕のベクトルは、すべて良い方向に向かっているような気がしてならない。それもこれも周囲の人々に支えられているからだと思う。そんな中で刺激と喜びの多い年だった。本当に感謝している。

今日はこの短い記事のみアップして、明日は記事更新もお休みして、元日からブログ更新を始めようと思っている。

今年一年、このブログを通じて僕と付き合ってくれた方にも、心より感謝も申し上げたい。皆さんにとって、来るべき新年が幸多い年であることを祈っている。

それではみなさん、良いお年をお迎えください。
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間違いを犯す存在としてのこだわり


僕たちは、すべての事柄に正しい答えを出せる万能の神ではない。所詮、人の子であるのだから、完璧を求められても困る。

職業においても同様である。頑張って間違いのない仕事ぶりに努めたとしても、常に完璧な仕事はできない。結果を出せないこともあるし、失敗することもある。

対人援助においては、失敗は即、利用者の生活障がいにつながる恐れがあるため、失敗を前提にした支援は想定していないし、失敗が許されるとも思っていない。しかし時として失敗するのが人の宿命(さだめ)でもある。

だからといって人間だから失敗して当たり前であると、開き直っているわけではない。失敗するのだから、結果はそこそこで良いと妥協するわけでもない。できる限り失敗しない努力はすべきだし、失敗することがあっても、その失敗を最小限にとどめ、同じ失敗を繰り返さないことは重要だ。

しかし失敗する人間という存在を意識して、あるこだわりを持つ必要があると思っている。それは慣れた仕事にも慎重さを失わず、対人援助場面では謙虚さを失わず、常に自分の仕事ぶりに疑問を投げかけながら日々の業務に努めるということだ。

対人援助の場面では、人に対する関心を失わず、そこにいる人の喜怒哀楽に鈍感にならないということも心得ておかねばならないと思う。

失敗する人間であるからこそ、人の感情・喜怒哀楽には敏感でありたい。今年もその気持ちを忘れずに、すべての利用者の方々に相対することができたろうか。今年の仕事納めの今日、そんなことを考えている。

対人援助の結果とは、僕たちが勝手に決めた目標が達せられているかどうかという単純な判断ではなく、それに対して利用者はどう思っているか、どのように感じているかが重要である。

時としてその気持ちは、言葉では表現されず、表情でしか表現されないこともある。表情にさえ表してくれない人たちがいる。しかしそこにも隠された感情は存在しているはずだ。

だからこそ、利用者の喜怒哀楽に敏感であり、自分の失敗に気がつかないことがないようにしたい。

そのように努めることが、失敗を繰り返してきた僕としての、せめてもの償いである。

僕は決して優しい人間ではないし、自分以外の第3者に対して、媚を売ったりへつらったりすることが嫌いなので、時として自分以外の第3者に対して辛らつな態度を取ったり、無礼であったりすることを否定しない。その言動は、誰かにとっては傲慢に感じられるだろう。それは別にかまわない。

しかし対人援助のプロとして利用者に接している以上、利用者に対しては、決して傲慢にならず、真摯に向かい合う気持ちを忘れないでいたい。

様々な境遇に置かれた人々に思いを寄せるときに、単に同情するのではなく、その人がその中で抱く負の感情も含めて理解するように努めたい。喜びも悲しみも、希望も絶望も、すべての感情を理解することができれば、その思いに寄り添うことだけはできるだろう。その先にどのような結果があるのか、何が変わるのかは分からない。それは人によって異なるからだ。

しかし僕たちが、利用者に対し真摯に向き合い、その感情を理解し、思いに寄り添おうとする限り、関係は途切れることはないし、できることを続けられるだろう。だから目の前の人々に関心を持ち続けるし、小さな感情変化に関心を持ち続ける。それが僕のやり方だ。

つまらないこだわりといわれても良いが、その一線は護っていきたい。

それにしても今年もたくさんの失敗をしてきた。特に今年は職場を変えたということもあって、新しい職場に慣れずに、仕事も覚えていない期間は、ずいぶん周囲の人に迷惑をかけたと思う。仕事になれないうちは、十分な仕事ができていないことにも気がつかないのだから、閉口した人も多いのだろう。

僕自身は、周囲の人々の困惑に関係なく、新しい環境と新しい仕事内容を楽しんで過ごすことができた。そんな僕に文句ひとつ言うわけでもなく、温かく支えてくれた周囲の人々に感謝の思いを持っている。

幸いにも取り返しのつかない大失敗がなかったことがせめてものことだ。

来年は、失敗して迷惑を掛けた方に、少しでも報いることができるように自分を磨こう。年はとったとはいえ、まだまだグレードアップは可能だろう。そこを目指して頑張りたい。
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地域包括ケアシステムにおける老健の役割


老人保健施設は、要介護老人の心身の自立を支援し、家庭への復帰を目指す施設として、1986年 11月の老人保健法改正により創設された。

法の精神と目的に沿った老健の機能とは、疾病等の急性期治療を終え在宅復帰するために入所した利用者に対し、個別リハビリテーションを含んだ医学的・治療的リハビリーテーションエクササイズを中心にサービス提供して、身体機能の改善を目指すことである。その結果として在宅復帰の目的が遂げられることを目指すものだ。

この機能と目的に着目した表現として、老健は「中間施設」と呼ばれることも多い。つまり本来の中間施設とは、医療機関と自宅の中間という意味であった。

2000年に介護保険法が施行されたことにより、老健も介護保険法の中に、介護老人保健施設として位置づけられるようになったが、その機能自体は変えられなかった。

しかしこの頃から、老健の中間施設機能に変化が見られ、医療機関と自宅をつなぐ施設というより、特養入所の待機施設という色合いも濃くなり、在宅復帰率の低下と入所期間の長期化が問題となり始めた。

2002年に老健局長に就任した中村秀一氏は、戦後初めて診療報酬をマイナス改定とするなど、豪腕といわれた人であり、後に「地域包括ケアシステム」の教科書的役割を担う「2015年の高齢者介護」を作った人であるが、その中村氏が就任直後に、「在宅復帰機能のない老健は看板を下ろせ」と老健批判の狼煙を上げ、2003年報酬改訂では、老健から訪問リハビリが派遣できるようにして在宅復帰支援機能を強化した。

それは2006年の報酬改定時の試行的退所とか、在宅復帰率の実績加算の新設につながっていった。

その後、医療及び介護療養病床の廃止論議の中で、廃止後の入院患者及び利用者の受け皿としての転換先として、老健が考えられるようになり、療養型老健が創設されるなど、長期療養する老健施設も生まれた。

さらに地域包括ケアシステムは、「ニーズに応じた住宅が提供されることを基本とした上で、生活上の安全・安心・健康を確保するために、医療や介護のみならず、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で適切に提供できるような地域での体制」(平成25年3月地域包括ケアシステム研究会)と定義づけされ、要介護高齢者の暮らしの場の多様化が求められてきたことから、老健が特養や、グループホーム、サ高住等へつなぐ間のリハビリ施設としての役割も否定されなくなった。

そうした中で老健は大別して、療養型、一般型、在宅復帰強化型という分類化がされていったが、そこでは同時にターミナルケアの役割も期待されるようになり、2015年の介護報酬改定時に示された資料(改定の要点)では、「老健でのターミナルケア・看取りは、利用者の長期間の在宅療養支援の結果として行われるものであり、このような観点からターミナルケア・看取りを評価。」と解説されている。

つまり老健の在宅復帰機能とターミナルケアの機能は、相反する機能ではなく、在宅復帰を目指す先に、高齢期の終末をも支える機能を併せ持つという意味で、両者は矛盾しないと考える必要があるのだ。

具体的に言えば、在宅復帰した人に対しては、老健からの訪問リハビリなどで、退所後のフォローを行いながら身体機能維持に努めるが、加齢とともに身体機能を維持できなくなるケースも多く、そのために一定期間自宅等で過ごした後に老健に再入所し、再び在宅復帰を目指すというケースが増えてくる。こうした利用を複数回繰り返すことで、ずっと施設入所したまままではなく、一定期間は自宅等で過ごすことができる人がいる。そしてそれらの人が老衰などで回復不能な終末期になった時点で、なじみの職員がいる老健で終末期を過ごすことを求め、老健に入所してターミナルケアを受けるというケースが考えられる。

このように老健で行われるターミナルケアは、老健で過ごしている人がそこで身体状況が変化して終末期を迎えるというケースにととまらず、何度か老健を利用しながら在宅で生活していた利用者が、自宅等で終末期の状態になり、その対応が自宅等では難しいことを理由にして、ターミナルケアを受けることを目的に、老健に入所するというケースがあるということだ。

特養の看取り介護では、このようなケースはほとんど見られない。そういう意味では、老健のターミナルケアとは、住み慣れた地域で暮らし続ける取り組みを行った結果、最終的に安心・安楽の場所として選択されるという意味で、それは地域包括ケアシステムの中で求められる重要な役割といえるのではないだろうか。

そう考えると、地域包括ケアシステムの中での老健の役割とは、在宅復帰を目的とした施設内のリハビリテーション機能だけではなく、要介護高齢者が住みなれた地域に戻った後の、利用者の居所における訪問リハビリテーション機能を併せ持つと同時に、最終的には加齢等の理由で回復不能になった場合であっても、最期まできちんと対応できるターミナルケア機能を持つことが求められているといえよう。

来るべき2017年には、こうした老健の機能強化が課題となり、ターミナルケアができる老健が、より一層求められるであろう。
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認知症スケールでは、被検者をごまかす対応が求められるのか?


認知症の診断に利用される、長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)やミニメンタルステート検査(MMSE)では、検査当日の年月日と曜日を問う項目がある。

具体的には、「今年は何年ですか」と問いかけ、元号も含めて何年か正しく答えられる場合に1点、そうでない場合に0点となる。「今日は何月何日ですか」という質問と、「今日は何曜日ですか」という質問も同じように判定される。

ところでこの項目について、或るサイトでは次のような批判をしている。

この質問に正しく回答することができた高齢者は、自分の認知能力が疑われていることがわかるので、不快な思いをします。逆に、この質問に正しく答えられなかった場合、高齢者は、自信を失ってしまうのです。これは、介護本来の目的とは真逆の結果です。

その上で対策として次のようなことが書かれている

べテランがこの質問をするときは(なるべく)相手に直接的には質問しないそうです。たとえば、自分のほうが今日について忘れてしまったふりをします。「あれ?今日って、何月だったっけ?あれ?あれ?」といった状態を高齢者に見せます。その上で「何月でしたっけ?私、すっかり忘れちゃって・・・」といった質問のしかたをします。

はあっ・・・。この内容を読んでなるほどと思う人がいるのだろうか。この検査を行う立場の人は、ここで書かれているベテランの対応が優れていると思うのだろうか。

僕は全くそう思わないし、被検者をずいぶん馬鹿にした対応にしか感じられない。

検査に携わる者は被検者に対して、常に真摯に接する必要があると思っている。そうであれば検査の意味やその内容をきちんと説明する責任があり、認知症スケールであってもそれは同様で、質問内容の中に認知症かどうかを判断するために、人によっては失礼と感じる設問・問いかけがあるかもしれない場合は、そうした質問が含まれていると断った上で、その意味や必要性を十分説明し検査に当たれば、認知症ではない人が、その質問によって不快になることはない。

認知症が疑われる人がその質問に答えられなかった場合にも備えて、今できることとできないことを明らかにすることで、治療効果が挙がることを伝えれば、自信喪失でデメリットのほうが大きくなるということにもならない。そもそも後者の自信喪失に関して言えば、どのような質問の仕方をしたとしても、答えられないという結果が同じなら、質問の仕方でその結果に対する被検者の気持ちが大きく替わることはないだろう。気持ちに変化が出るのは、質問の仕方より、説明のしかたによるのだということがなぜ理解できないのだろう。

直接的には質問しないことによって、検査で問いたい意味が十分に伝わらない恐れがあることも問題だが、それより質問内容を直接的に伝えないということは、その意味するところも直接的に伝えていないということである。

この考え方はずいぶん上から目線である。被検者が検査の正しい意味や内容を理解できず、誤解するという思い込みにしか過ぎない。そうしないようにする為に行うべきことは、質問内容を間接的表現に変えて、検査質問と分からないようにすることではなく、きちんとした説明責任を果たし、検査担当者と被検者の間に信頼関係を構築することである。

検査するものが直接的な質問をしないように、日常会話と変わりない会話の中で答えを引き出そうとする場面に遭遇したとしたら、僕であれば、「検査なんだから雑談なんかしてないで、まじめに速やかに検査が終わるようにしろよ」と怒るだろう。検査の目的からしても、それは適切な方法とはいえないだろう。

そもそも検査担当者に、高度なテクニックが求められる検査法ほど、結果に信用が置けないという理屈が理解できないのはなぜなんだろうか。

そうであるがゆえに、HDS-Rにしても、MMSEにしても、あの質問項目は、検査する人によって結果に相違が出ないように、最低限の簡略な表現で回答を求めているものだ。質問者のテクニックによって答えが左右されかねない表現の間接化は、百害あって一利なしである。

質問をぼかして、ごまかしの誘導で被検者の回答を引き出すことが、いかに被検者に対して失礼であり、それは検査する者の傲慢さを現わすものでしかないことを思い知るべきである。
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街も暮れ行く


先週の木曜から金曜にかけて、北海道は各地で大雪に見舞われ、新千歳空港では欠航便が相次ぎ、雪が止んだ後も機材繰りができず、その混乱は土曜日まで続いた。

道外から観光に来た人の中には、木曜日の夜から日曜の朝にかけて、新千歳空港のロビーに3泊せねばならない人もいて、大変な状況だった。

週末に道外に出かけることの多い僕も、人事ではなかったが、幸い今年の講演の旅は、先々週で終えているので、今回の混乱には巻き込まれることがなかった。それにしてもまだ12月なのに、今後さらに降雪量が増える1月2月のことを考えると先が思いやられる。1月以降の講演に支障がないことを祈るばかりである。

そんな中で僕は呑気に暦どおりの休みをとれた。先週金曜からの3連休の僕のミッションは、毎年の暮れのルーティンをこなしながら、来るべき新年に向けた心の準備を整えることだった。

いつもより長い睡眠時間をとって、起きた後は、3日間をかけて家中の大掃除をしながら、今年一年のいろいろなことを思いだした。

今年も1月15日の温根湯講演を皮切りに、平日業務を終えた土日を中心に、全国各地で講演を行ってきた。特に4月から10月までは、大阪で定期コースの講演が入っていたので、ほぼ休みの日がない状態が続いた。新しい仲間とのつながりも生まれ、それは今年得た一番の財産である。

今年は初の外国講演も経験した。ご縁があって中国上海の研修に招待され、メイン講師として講演を行った。

原稿のない僕の講演を同時通訳する人には迷惑をかけたが、おかげで貴重な機会をいただき、国際的な人間関係もできて、本当に有意義な一年であった。来年も中国の介護関係者の方とは、様々な交流機会があることは間違いなく、中国への再訪機会もありそうで、それも楽しみにしている。

何しろ今勤めている職場から15分で行ける新千歳空港からは、上海にも北京にも直行便が出ており、季節によっては職場の業務を終えた週末の夜に、中国に飛んで、日本時間日曜の夜に帰ってくることも可能であり、特別な休みを取らなくても良いのである。

このブログの読者の皆さんも存知のように、本業の方は転職したこともあり、通勤時間が1日往復4時間となって、睡眠時間は激減した。さらに連載が最高9本にまで増えた時期があり(現在は7本)、そんな中で毎日のブログ更新なども引き続き行ってきたので、プライベートタイムはさらに削られ、たまの休みも原稿書きと校正作業に費やすことが多かった。

しかしそのことは少しもつらいと思ったことはない。通勤時間は現在、雪が降ればさらに延びてしまうが、何事も慣れで、苦痛ではなくなっている。むしろ通勤時間に、連載原稿や講演の企画・内容を考えたりしており、ある意味、その時間も貴重な時間になっている。

千歳市の職場に移ったことでうれしい変化があったのは、新千歳空港という北海道の玄関口のすぐ近くに職場があるということで、北海道に用事があっておいでになった方が、ついでの僕を訪ねてくれる方が多かったということである。ちょっとした挨拶だけでも立ち入ってくれる方が増えて、本当にうれしかった。ありがとうございます。

勿論、僕が住んでいる登別にも、僕を訪ねてくれる方がいて、今年は八戸港からフェリーに乗って、下沢さんと小泉さんが、僕と飲みたいと思って訪ねてくれたのには驚いた。(参照:ご縁を絆に

その下沢さんは、デイサービスとフィットネスクラブを融合させた新事業を八戸で立ち上げられて、その活躍はマスメディア等でも取り上げられ、今最も注目の業界人となっている。来年のご活躍を益々期待したい。

来年のことになると、僕が今楽しみにしていることがある。来年仙台で、「本物の特養」をオープンさせようとしている、志の高い方々がおられる。何らかの方とでその方々に協力して、少しでも力になって、そのミッションを実現させたいというのが、来年の僕の希望でもある。

勿論、僕には本業として老健の業務があるわけだが、こちらはあえて言う必要もないほど、頑張るのが当然なことである。今年の前半は仕事を覚えるのが精いっぱいであり、自分のカラーを出すまでには至っておらず、逆に迷惑をかけることも多かったかもしれないが、日常業務については、一通りこなすことはできるようになったので、今後はここに僕の人脈を生かしたエッセンスを加えていきたいと思う。

職場の新たなミッションとして期待されていることもあり、連休前の忘年会の席でも、そのことは頼まれているので、酒の場の話で終わらせず、しっかりとそのミッションの達成に協力するだけではなく、自分が先頭に立って、汗を流していこうと考えている。

今週は木曜日まで通常業務で、30日〜3日までが休みである。年末年始に5日も休むのは何十年ぶりかである。去年までのように緊急呼び出し待機もない休みをどう過ごそうかと考えている。

ただ新年最初の連載原稿の締め切りが1/18であるし、1月の講演も2本入っており、年明け業務が再開された後の忙しさを考えると、年末年始の休暇の最中に、連載原稿を何本か仕上げておきたいし、少なくとも1月中の講演ファイルは、休暇中に仕上げておく必要があると考えている。

今このブログを書きながら思い出したが、年明け早々に介護福祉士養成校の試験問題を作らねばならない。卒業単位に関わる問題なので、こちらを最優先にしなければならないなあ〜。

正月の楽しみにしている箱根駅伝は、ゆっくり見たいので、それ以外の時間は、やはりPCに向かいながら、原稿や講演ファイルづくりに頭を悩まして過ごしているのだろうと予測している。

どちらにしても、まだ今年の業務が残っているので、今日、月曜日もフルスロットルで日々の業務に邁進したい。
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心や愛はエビデンスにならないなんて思わない


群馬県で最初に講演を行ったのは、今からさかのぼること6年前、群馬県老人福祉施設協議会・生活相談員研究部会さんから依頼されて、平成23年6月に群馬県社会福祉総合センターで講演を行ったときのことである。

その講演が印象深く記憶されているのにはわけがある。当初はその講演は23年3月に行うことになっていたものが、同年6月に変更になったからである。

変更理由は、日付をみていただくと気づかれた方も多いだろう。そう、あの東日本大震災・3.11の影響である。

当初予定の講演がキャンセルされた理由は、未曾有の天災であるのだから、研修主催者には何の落ち度もないにもかかわらず、当時の事務局担当者の方が非常に恐縮されて、交通費のキャンセル料を支払ってくれただけではなく、図書券まで送っていただき、僕自身も非常に恐縮した思い出がある。

その後、再度研修予定を組んでくださり、僕も再び講師として招待いただいた。あの時は確か、前後に別の講演予定が入っていた関係で、新前橋駅近くのホテルに2泊した覚えがある。その際に、連日事務局の方がご馳走してくださり、講演前日はイタリア料理のお店で、おいしいイタリア料理とワインで酔っ払い、後泊の夜は新前橋駅近くの日本料理店で、日本酒をしこたま飲んで前後不覚になった覚えがある。テーブルに置けないために手に持ち続けなければならない「お猪口」を面白がって飲みすぎた覚えがある。

研修会での講演は、施設相談員の業務と役割がテーマであったと記憶している。

その群馬県老人福祉施設協議会・生活相談員研究部会さんから、再び依頼を頂き、前回と同じ群馬県社会福祉総合センターで、再び講演を行う機会をいただいた。おそらくその講演が、平成28年度の最終講演となるだろう。(参照:masaの講演予定

今回いただいたテーマは、「看取り介護」である。その中で生活相談員の役割や他職種連携、家族連携、スタッフのケアや教育などの話が聴きたいという依頼を受けた。そのため講演テーマを、「生きるを支える看取り介護から考える多職種連携」とさせていただいた。

僕の看取り介護講演を通じて学んでいただくことは、看取り介護・ターミナルケアの時期の特別な方法論ではない。看取り介護に通じる日常ケアを大切にする先に、看取り介護が存在するということを学んでいただき、そのために日ごろからどのような多職種連携が必要になるのかを考えていただきたい。だから実際に僕が経験したたくさんの看取りケースの中から、いくつかの事例を紹介しながら、その具体策を考えていただく。

僕が今まで経験してきた看取り介護の場面では、一人ひとりの尊い命と向かい合いながら、時にはともに喜び、時にはともに感動し、時にはともに涙して様々なエピソードを積み上げてきた。そこには対人援助の専門家としての専門性はなかったのかもしれない。

しかしそんなものより、人として命の尊さを思い、そのはかなさを憂い、消えゆく命の灯を哀しく思いながら、逝く人の命の光が誰かの心につながっていくようにお手伝いすることが大事だろうと思ってきた。

感情を制御して、心を震わせないでいることで、見逃してしまうものがあるとしたら、それは決して取り返しのつくものではなく、二度と手に入れられない大切なものを失うということなのかもしれない。

その中でたくさんのエピソードが生まれてきた。僕がそのエピソードを語り、耳を傾けてくれる人々が、同じような志を持って、様々なステージで看取り介護・ターミナルケアに取り組み始めている。そんな実践につながるお話をしたい。

先に紹介した僕の講演予定には、来年度以降の予定もいくつか掲載しているが、今年度全国7ケ所を回って開催した、日総研出版看取り介護セミナーが、来年度も開催される予定になっている。4月から8月まで、仙台セミナーを皮切りに、東京、札幌、大阪、名古屋、福岡、岡山と7会場で実施予定だ。今年度受講できなかった人は、ぜひこの機会に受講していただきたい。

ちなみに年明け最初の講演は、29年1月20日(金)14:00〜16:30新潟ユニゾンプラザで行われる新潟県老人福祉施設協議会主催研修にて「平成30年トリプル改正が迫る中、介護に係るすべての人々の使命と役割は何か」をテーマにした講演である。

この研修は非会員の方も、参加費3.000円で参加できるそうである。現在参加申し込みを受付している最中なので、お近くの方でお申し込み希望の方は、新潟見老施協事務局025-281-5534まで連絡いただければ幸いである。

新潟は日本酒の種類が豊富で、しかも旨い酒が多いのが一番の楽しみである。

1月はこのあと、29年1月30日(月)のALVE 秋田市民交流プラザ(秋田県秋田市)での講演になる。秋田も米と日本酒の旨いところで、新年早々から酔いどれが続きそうである。
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死のある日常風景


幼い頃、親戚の葬儀に出た記憶はほとんどない。祖父や祖母が亡くなったのも、社会人になって以後のことだから、もしかしたら本当に葬儀に出たことはなかったのかもしれない。

どちらにしても、自分の周りに「死」というものが存在することを実感することは少なく、それはずっと遠い場所にあるように考えていた。

高校生のときに、クラスメイトの親が亡くなり、その葬儀に出たことは鮮明に覚えている。親の死に遭遇する同級生がいるということで、死というものが自分達と、さほど遠くに存在するものではないという思いを抱いた覚えがある。

それ以来、葬儀に出る機会は徐々に増えていったが、葬儀に出るからといって、それが死というものを考えることにつながらず、礼を失して恥をかかないようにセレモニーをこなすような意識に気が傾いていったように思う。

そんな風にして、死というものは僕にとって相変わらず、獏(ばく)としたもので、日常に転がっているものではなかった。

僕が社会人として初めて就職した場所は、特別養護老人ホームであった。その施設は僕が就職した半年前に創設された法人が、僕が社会人としてスタートする初日に、特養をオープンさせるという新設施設であった。

特養というものが、介護が必要な高齢者施設である以上、健康な方ばかりが入所してくるわけではないことは理解していたし、設備基準として、「霊安室※下記注釈参考」がある以上、そこで亡くなる方がいるということも十分理解していたつもりであった。
(※設備基準は、その後改正され、現在の特養には霊安室を設備しなくて良いことになっている。)

しかしその特養がオープンした1週間後、ひとりの利用者が亡くなられた。入所後5日目の死であった。

決して病状が悪化しているわけではなく、特養に入所できるくらい安定していた方が急変して亡くなられた。思えば目の前で息を止める人を見たのは、そのときが始めてだったように思う。・・・ショックだった。

周囲では僕と同じようにショックを受けた、新卒の介護職員が泣いていた。

ちなみにその当時は、介護福祉士という資格もなく、男性の介護職員も居らず、専門学校で保母の資格をとった女性が介護職員として雇用されることが多かった。泣いていた職員も、保育の専門学校を卒業したばかりの二十歳の子だった。

その後、僕の回りに日常的に死が存在するようになった。職場では、毎年何人もの利用者が亡くなり、その都度涙を流すような職員も居なくなった。相談員(当時は指導員という職名だった)としての僕は、ご遺族に弔意を述べながらも、空床を埋めるための業務を淡々とこなすようにもなった。いつの間にか誰かの死に対して動揺することもなく、ショックを受けることもなくなった。

それは成長したのではなく、単に慣れただけである。慣れたというもうひとつの意味は、心が麻痺したという意味ではないだろうか。人の死に慣れ、感性を鈍らせていただけである。

しかしそれは駄目なことだと思うようになった。尊い誰かの生命の灯が消えることに、慣れて惰性で仕事をするのでは、対人援助の専門家としての成長はないように思った。

人の死を悼み、哀しく思う感情を失うことは、成長ではなく鈍化にしか過ぎないと思うようになった。感情を失うことは、他人の感情に気がつかなくなることのように思った。

統制された情緒関与の原則が大事であることは理解しているし、人の感情に巻き込まれては困るので、遺族の悲しみに同化する必要はないが、人として縁を得て接してきた一人の命が燃え尽きたとき、そのことに感情を震わせないことがプロフェッショナルだとは思えなくなった。

人として一人の命が失われたことの哀しみを持ちながら、なおかつ職場というステージで、冷静さを失わずに、自らの使命を全うすることがプロの態度と、慣れと惰性で仕事をこなすことは違うのではないのか。

哀しくない自分がそこにいるとすれば、なぜ自分が今心を震わせていないのだろうかということを考える、もう一人の自分を持っていることが必要なのかもしれない。

そんな風に思うようになった。

それは自分が親しいものを送る立場になったから持つようになった思いかもしれない。祖父や祖母だけではなく両親をも看取り、死が自分と意外と近い場所に対峙していることに気がついたからかもしれない。肉親の死というものに向き合ったことが大きいのかもしれない。

それが僕が肉親から渡された、命のバトンなのかもしれない。そう思いながら、僕は看取り介護の場面にスタッフの一人として参加し、対象者やその家族に向かい合っている。それが「生きるを支える」という意味だと思っている。(明日に続く)
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小さな瞳が見ようとしたものを読んで考えてほしいこと


9年前の夏、2007年7月11日に書いた、「小さな瞳が見ようとしたもの。」は、僕が大学3年生のときに実習先で体験した記憶に基づいて書いた記事で、2011年2月に上梓した、「人を語らずして介護を語るな〜masaの介護福祉情報裏板」にも文章を推敲しなおした上で掲載している。

その中で僕が伝えたかったことは、子供たちの真っ白なキャンパスのような、よどみのない心と、そこに絵を描いて子供たちを導く大人の責任もそうであるが、それにも増して、このような純粋な心根をもって生きている人の存在の素晴らしさ、命の尊さということだ。どんな状態でもそこに人として存在していることそのものに価値があるということだ。

このことは介護業界の未来を背負う、若い人材にも伝えたいと思っている。

今年度、僕は介護福祉士養成校で、2年生の後期授業「社会福祉援助技術演習」を受け持っており、そこでは高齢者分野のみならず、家庭生活、障がい児者、貧困、非行、医療など様々な領域の社社会福祉援助過程における援助技術指導のロールプレーイングを行ってきた。

ロールプレーイングの対象ケースは、様々な文献等から選んだケースであるが、最終授業については、前述した僕の著作本から、この「小さな瞳が見ようとしたもの。」を紹介した上で、次のような演習課題を学生に与え、グループ討議させた。

”者は、コラムを通じて何を訴えたかったと思いますか。
発見された子供たちに、どのような声をかけることができますか。
このコラムを読んで、感想をまとめてみてください。


討議内容の記録は僕の手元にあり、様々な意見が書かれている。それは今回の学生たちの思い出とともに大切にとっておくつもりである。このブログの読者の皆様も、この演習課題のそれぞれの回答を考えていただきたい。

講義の最後の10分間では、学生たちのグループ討議の場面や、実習授業の場面など、思い出の写真を使って、僕が作成した動画、「LOVE〜明日へつなぐ介護・福祉教育専門学校バージョン」を上映して
締めくくった。動画が終わったところで、学生たちから大きな拍手と感謝の言葉をもらって、授業を締めくくることができた。

1月にはこの授業の試験があり、その採点と合否判定までが僕の仕事として残っているが、卒業式典に参加できない僕は、学生たちと直接会う機会はもうない。彼ら・彼女らは、卒業後も同じ業界で働く人が多いが、それでも卒業後に出会う機会はそう多くなく、今日を限りでもう二度と逢えない人も多いはずだ。そのことを告げて、それでもずっと応援しているので、動画で送ったメッセージのように、「立派な介護福祉士になる前に、感じの良い介護福祉士になってください」・「あなたがいる場所で、誰かの赤い花になってください」と心からお願いしてきた。

この生徒達が、来春には介護福祉士として巣立っていく。

縁あって、彼ら・彼女らの職場の先輩になる皆様には、彼ら・彼女らの志が達成される素晴らしい介護サービスの場所で咲く先輩として、模範を示していただきたい。

「理想と現実は違う」なんて言って、その子達の志をつぶさないでほしい。僕が教えて、「できる」と確信している、その子達の理想は、達成目標であり幻想ではない。それさえ実現できないという自らの現実に幻滅していただきたい。

自らの職業を卑下することなく、誇れる人でいてほしい。
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地域密着型通所介護に吹く風は順風?逆風?


介護保険制度サービスに参入希望のある事業者は、一定の要件を整え、指定券者に申請することで事業指定を受けてサービス提供が可能になる。

介護保険制度開始当初は、都道府県の指定に対し市町村が介入することはできなかったが、市町村の財源や社会資源に関係なく、事業指定される弊害が取り上げられることによって、都道府県と市町村の協議制や、市町村に指定権限のある地域密着型サービスの創設などにつながっていった。

しかし地域密着型サービスだといえど、市町村に指定を届け出た事業者が一定の要件をクリアしている場合に、市町村が指定をしないということは、原則できないことになっている。

市町村が地域密着型サービスの指定をしないことができるのは、次の条件に該当する対象サービスのみである。

介護保険事業計画において定める日常生活圏域内等における必要利用定員総数に既に達しているときなどにおける、認知症対応型共同生活介護、地域密着型特定施設入居者生活介護又は地域密着型介護老人福祉施設に係る指定申請
定期巡回・随時対応サービス、小規模多機能型居宅介護又は複合型サ-ビスについて、公募指定を採用している場合における、当該公募によらない指定申請

上記2条件の場合以外の地域密着型サービスの指定については、指定の拒否をすることはできない。

しかし次期改正ではこの2条件に加えて、定員18名以下の地域密着型通所介護についても、「デイサービスのボリュームが、『介護保険事業計画』の想定を超えてしまう」など、一定の条件をクリアするケースに限り、指定を認めない判断ができるとした。(※詳細はこれから詰める)

この背景にあるのは、厚労省のデータで、全国の事業所(4万3,440ヵ所)の54.7%を占めるまでに拡大した地域密着型通所介護の数の多さが、給付費増大の原因のひとつになっているという見方である。さらに会計検査院が今年3月に公表したレポートでは、調査の対象となった183の保険者のうち37保険者(20.2%)が、「デイはニーズより提供能力が多い」と答えたとされていることも影響している。

このほか、都道府県指定の通所介護や訪問介護などについても、市町村が慎重な対応を要請できる仕組みも新設する。そして市町村の意見を聞く都道府県には、事業者に何らかの条件をつける権限を付与する。
(※現在も「協議制」があるが、これは小規模多機能などの推進を趣旨とすることが原則だが、今後はそうした縛りを無くす。)

よって再来年度以降、地域密着型通所介護の事業指定は、今以上に難しくなり、市町村によっては一定年数新規事業指定を行わない可能性もある。本来このような規制は好ましくはない。なぜならそれは、健全な競合機会を奪い、サービスの質に関係なく既存事業者が守られ、住民ニーズに対応できる質の高い事業者の新規参入を阻害する結果を生み、サービスの品質の停滞を招きかねないものでもあるからだ。

よってこのことは既存事業者にとっては、新規の競合事業者が増えないという意味でメリットとなる。

しかしこのことは小規模の通所介護事業所は多すぎるという意味で、淘汰されてもおかしくないという理屈を生んで、介護報酬の再引き下げの理由にもなりかねない。

厚労省の関係者の方々の話を聴く機会があるが、その中でよく聴かされるのは、レスパイトサービスはもっと単価を下げられるということだ。

通所介護の長時間サービスは、主としてレスパイトサービスであるとして、次も大幅に単価を下げることができると考えている人が実際にいる。単価をさらに下げた結果、事業経営が成り立たずに、事業撤退する事業者が増えても、そもそも供給過多で、サービス利用の過度な掘り起こしがされているのだから、利用者がそれによって困ることはないというのが、レスパイトサービスの低価格化を図る人々の理屈である。

しかし通所介護とは、機能訓練を行わない時間帯であっても、それは単なるレスパイトケアではない。

通所介護を利用することで、社会的交流が継続できている高齢者は多い。それは全人的リハビリテーションの一部を成すサービスといえるのではないだろうか。

例えば現在我が国で自殺と殺人を除いた病死と自然死で、死の瞬間に誰にも看取られずなくなる方で、その遺体が24時間以内に発見されないケースのうち、7割が男性であるというデータがある。

女性より平均寿命が短く、一人暮らしの人の数も少ない男性が、女性より圧倒的に数多く孤独死している現実は、女性より社交性に欠ける傾向の強い男性が、職場をリタイヤした後に、地域の中で関係性を築くことができずに孤独死につながっている姿が浮かび上がってくる。

そうした人をなくす為には、高齢期の一人暮らしの男性が通って社交性を保つことができる場が必要であり、それは安かろう悪かろうサービスでは担えない役割であり、ボランティアというサービス供給体制が脆弱で不安定なサービスでは、とって替わることができないサービスである。

健全なサービスの品質競争の結果、淘汰される事業者とそうではない事業者とに別れるならともかく、参入規制と公費の低価格化で事業者数や公費支出をコントロールする先に生まれるものはなんだろうか。

そこに広がる荒野を想像できないのだろうか。
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