北海道内陸別町の特養で、職員の虐待行為が明らかになったと報道されたのは先週のことである。

80代の女性入所者が、20代の男性介護職員2人から、夜勤時間帯に頬を平手で複数回叩かれ、暴言を浴びせられていた。さぞ怖かったろう・・・。

我々は、ほかの誰からも見られることがない夜間帯であるからこそ、「神のように自分の心一つでなんでも決めることができることの怖さ」を知るべきであり、人の命や暮らしや尊厳を守るものとしての使命感を持って接することが求められるはずである。それを失うことは、人の心を失うことである。

この事実を把握した法人は、4/1からこの二人の職員を出勤停止にし、その後2人は依願退職したそうである。今後は刑事責任を問われることになるかもしれない。いや問われなければならないと思う。夜間帯で、利用者と1対1で関わる場面で、利用者はそこから逃げることも、ほかの誰かに助けを求めることもできない。そうした中での暴力・暴言は卑怯極まりない行為である。それは犯罪以外の何ものでもない。

しかしこの2人以外に、別の女性介護士5人も暴力的な言葉を使っていたとして、法人はこの5人を戒告などとしたほか、施設長ら上司3人を更迭したとのことだ。

このように多くの職員が暴力・暴言という虐待行為を行っている施設の日常会話はどうなっていたのだろう。言葉遣いの教育はされていたのだろうか。

そもそも暴力的な言葉とは、どのような言葉なのだろう。暴力的な言葉とそうではない言葉は、どのように区別するのだろう。

例えば「ここで待っていてください。」という言葉を、「ここで待ってなさいね。」といったとしても、それは暴力的表現にならないのだろうか。「ちょっと待ってね。」なんていう表現は暴力的な表現とは言えないかもしれないが、少なくとも顧客に対して使う言葉としては適切ではないだろう。

僕は、そういう言葉かけには不快感を覚える。自分が利用者として使っているサービスの現場で、サービス提供に関わっている従業員が丁寧語を使わなければ不快感を覚える。それは顧客に対する暴言とは言えないのだろうか?

梨花に冠を正さずという言葉があるように、人の暮らしに寄り添う我々の職業では、暴力的な言葉・暴言と思われかねない誤解されるような言葉を、日頃から使わないようにすべきだと思う。友達同士の会話で使うようなフレンドリーな言葉遣いを、顧客である利用者に対して使うことは不適切だと思う。堅苦しさを感じないようにフレンドリーに言葉を崩すことも誤解を受けるリスクが高い。

そもそも親しみやすさを示すために言葉を崩すのは間違っていると思う。適切かつ丁寧な言葉遣いでも、真心は伝わるはずだからである。

僕は先週の朝礼で、その特養の報道記事を詳しく読み上げ、日常的に正しい丁寧語を使う必要性をあらためて職員に訴えた。

たとえば、方言はその地域にとっての宝で、素晴らしい言葉であると思うけれども、顧客サービスの現場で、一般的に顧客に対して使われない方言を使うのは間違っているし、介護サービスの現場であれば、それが許されると考えるのは大いなる誤解であると思う。同じく顧客サービスなのだから。

世界一美しいと言われる日本語を、美しく使っても、利用者に対する親しみは失われないと思う。

言葉を正しく使っておれば良いというわけでもないし、丁寧語を使ってさえおれば良いというわけではないが、言葉を正しく丁寧に使うことで、心の乱れを抑止するという効果はあるだろう。言葉を乱すことが親しみやすさと勘違いする現場では、顧客サービスであるという意識が薄れ、乱れた言葉が乱れた態度を生み出すだろう。

我々に求められていることは、乱れた言葉を使って親しみを表すことではない。

言葉の質を落とすことが、利用者に堅苦しさを覚えさせない方策であると勘違いするなと言いたい。

我々に求められていることとは、美しい丁寧語を、日常的に使いこなせるスキルである。

丁寧な言葉を自然に使いこなしておれば、その言葉で利用者に堅苦しさを感じさせることはない。丁寧な言葉を日常的に、自然に使えていれば、その言葉で十分に親しみを表現できるであろう。

美しい言葉を、丁寧に発することができる人は、誰から見ても美しい姿に映るだろう。

それは暴力的な言葉とか、暴言とかとは無縁の言葉であり、そう言う言葉を日常的に使いこなせる場所で、利用者は安心・安楽の暮らしを得ることができるはずだ。

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