死者数が増え続ける中で、看取り介護・ターミナルケアの重要性が改めて問われている。その延長線上にグリーフケアを考える関係者も増えている。

グリーフケアとは、「近しい人と死別した人が悲嘆(グリーフ)から立ち直る過程を支援する取り組み。」であり、そのことをあらかじめ見据えた看取り介護があって当然だし、グリーフケアのあり方を学ぶ機会が増えていること自体は良いことであり、その取り組みを否定する何ものも存在しない。

だが一部の関係者の中で、「看取り介護の完結は、グリーフケアがあってこそ」という誤解が広まっていることには異議を唱えたい。グリーフケアは看取り介護の延長線上に必ず存在するものではなく、それは必要に応じて、必要なスキルを持った人によって行われるべきケアである。ここを間違ってとらえている関係者が多すぎる。

僕の施設では、「看取り介護」について、独自の指針を早い時期から作り、当施設の理念に基づいた取り組みを行い、その実践も情報公開しており、けっして看取り介護の取り組みが遅れているわけではない。

しかしグリーフケアということに関していえば、先進的な取り組みを行っているわけではないし、そのノウハウを手に入れているとは言い難い状態である。(僕個人として、ソーシャルワーカーとしての基本スキルとしてのグリーフケアの知識や援助技術は持っているが、施設のシステムとして確立していないという意味である。)

当施設では、過去にたくさんの人とお別れしてきたし、その中には看取り介護を行うことができなかった突然の死という形でお別れしたケースもたくさん含まれているが、そうであっても自分の施設でグリーフケアが必要だと感じたケースに遭遇した経験はない。勿論、身内の死ショックを受けて、一時的に悲しみにくれてパニック状態になるような人もいたが、それも一時的なもので、グリーフケアが必要なケースとは異なっていたように思う。

一般的に言えば、高齢者の自然死の場合に、グリーフケアが必要となるケースは少ない。逆に、逆縁と呼ばれる自分より先に死ぬべきでない、若い人の死に遭遇した場合にグリーフケアが必要とされるケースは多いし、夫婦などの場合も、若い年齢での死別がよりグルーフケアを必要とするケースが多いと言えるだろう。

勿論、高齢者との死別に悲嘆感が伴わないわけではない。しかし「大往生」という言葉があるように、長命の末の死は、周囲の人々もその事実を受け入れやすいという現実がある。そうした中での自然死であれば、その死が安らかであることで、旅立って行かれた周囲の人々の心の安寧(あんねい)につながると言ってよいだろう。

そうであれば、我々が特養という暮らしの場で目指すべきものは、グリーフケアを伴う看取り介護ではなく、旅立っていかれる方が安心・安楽に最期の時間を過ごすことができ、その様子を周囲の人々がみつめながら、良い形で命のバトンをつなげ、グリーフケアを必要としなくなることではないのだろうか。

勿論、この意見には反論もあるだろう。しかし少なくとも僕が、自分が所属する施設で目指す意図り介護は、グリーフケアガ必要でなくなるような最期のお見送りの仕方である。

一番問題なのは、グリーフケアと称して、誰かの死後にセレモニー的な対応を繰り返すことである。

例えば、施設で亡くなった方がいるとして、その一周忌に必ず手紙を出して、かつての施設での暮らしぶりを書き綴って、あらためてお悔やみの言葉をつづることが、すべての遺族に受け入れられるとは限らないという考え方が必要だ。そのことで旅立って行かれた自分お身内を忘れないでいてくれる人がいると喜んで、心安らかになる人ばかりではなく、無機質な手紙の文章に不快感を持ったり、やっと忘れかけた哀しみを思い出して落ち込んだり、我々の想像外の状態になる人が存在するのである。

グリーフケアとは、相手の顔が見えない場所で、我々の価値観だけで勝手なセレモニーを続けることではない。それは厳しく戒めなければならないことなのである。

そうであれば、グリーフケアとは、その必要性があるかということをきちんと把握したうえで、その人にとって何がグリーフケアになるのかという個別性を考慮して行うケアでなければならないということだ。それは決して簡単な問題ではなく、グリーフケアと称したやり方が、結果的に遺族の悲嘆感を深めないような方法でなければならないという、徹底的な戒めが一方に存在しなければならない。

僕の施設では、何年も前に施設内で看取り介護を行い、旅立っていかれた方の息子さんが、何年も続けて施設の一番大きな行事の際に、施設まで寄付物品を持参してくださり、かつてお母さまが暮らしていた施設内を懐かしそうに見て歩き、最期に看取った部屋を確認し、かねてからの知り合いの利用者とお話をして帰る方がいる。

葬儀の後、身辺が落ち着いた遺族の方が、亡くなった方の部屋を最後にもう一度見ておきたいと訪問される方もいる。何年も前に亡くなられた方の遺族が、お墓詣りの途中に施設に寄って、中を見て歩く方もおられる。

これらは、我々の側が主体的に提供するグリーフケアではないが、ある意味、遺族の方自らのセルフグリーフケアになっているのかもしれない。そうではなくグリーフケアが必要ではない看取り介護の結果と言えるかもしれない。

どちらにしてもグリーフケアの重要性はわかるが、その意味を安易に理解したつもりになって、遺族の心持を斟酌することなく、何の構えもない遺族の心に土足で踏み込むようなセレモニー的な対応をグリーフケアであると勘違いすることがあってはならない。

グリーフケアに携わるには、人の喜怒哀楽の感情により敏感になって、心底人を思いやるという基本的態度がまず求められる。人の悲嘆感とは、そう簡単に癒えるものでもないし、それは心の底から共感する人によってしか、癒されない感情なのである。

そのことを自覚・自戒して関わる必要があるのだ。

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