人生の意味

何のために生きるのか

無職ひきこもり40男です。人と関わるのが苦手であり、将来に対しても不安だらけです。こんな自分の生まれてきた意味を日々求めています。 ニート、いじめられっ子、ひきこもりの方々が読んで、「自分だけじゃないんだ」と共感してくれたら幸いです。

自分に課された重荷が、もう重すぎて、疲れて、疲れ果ててしまったときは


何とかなる
、と思い込むしかない…

いや、
何とかなるとか
ならないとか
悪くなっていくとか
もう心配するのもやめて、 

何もかも忘れて…



まるで、自殺して、全ての宿題から解放された

つもりになって…

https://www.google.co.jp/search?q=ノンフィクション+


フジテレビのMUSIC FAIRで平井堅の歌にしばらく聴きいってしまった。ノンフィクションという歌に。


「生きることを時々やめたくなる」とか

「人生は苦痛ですか」とか

「悲しみは嫌いですか」とか


http://sp.uta-net.com/song/230110/



心に響いてくる


といっても、ただ感傷に浸ってても仕方ない


世の成人男性の多くは、とくに中高年は、孤独、競争社会、人生の生きづらさなどを実感しながら、仕方なく働いているわけで、自分の伸びしろの限界を感じてmid crisisに陥るわけで、アルコールやギャンブルにはまっていくわけだ。









ある方のブログを読んでて、記事の主題とは違うことで、考えさせられるフレーズがあったので、それをもとに考えてみた。




昨日の自分に比べたら、今日の自分は成長してる。何しろ、1日分の体験・情報があるから。

しかし、昔の方が色々なことを記憶していたと、昔の自分にすら劣等感を覚える可能性もある。

でも、やっぱり、人生経験という点では、昨日より今日の方が成長してるのだろう



しかし、僕は過去に考えていたことも忘れてしまっていることが多く、ぐるぐる堂々巡りの思索の日々で、進展と後退を繰り返しながら、本当は成長も何もしてないんだろうなあとも思うことが少なくないカラ回りしてるというか、無駄な無為な日々を送ってるんではないかと落ち込んでしまう



とりあえず、自暴自棄になって堕落しないようにしてるだけでもいいのかもしれない。人間、歳とるほどに、罪深くなっていきやすい生き物だから。




孤独に生きていると精神的に病んでいく、だから、何とか外に出て人と接することが大事であろう。

しかし、それでも、買い物のレジで人と接する程度しかできない人もいるだろう・・・

ここで「とっかかり」が大事になってくる。

ネットでもいい、なんかのボランティアでもいい。とにかく、きっかけを作って、人ともう少し深く交流する努力をしないといけないであろう・・・

孤独に甘んじ、孤独でいいやと、自暴自棄になってはいけない・・・


人は孤独に生きていると精神的に段々病んでいくように思う


子ども独り暮らししている小学生はいないだろう。もし、独り暮らししてて、かつ、学校でも誰とも話さない遊ばない小学生がいたら、自殺してしまうくらい発狂してしまうのではないだろうか?

いや、物心ついた頃から、ずっと独りで誰とも親しく交流したことが一度もないような環境で育ったら、もしかしたら、それはそれで孤独に対する免疫がついてくるのかもしれない。そういうふうにして育った子どもが、得る悟りはなんだろうか?


乳癌で亡くなった小林麻央さんは病気でつらい状況でも他の人を思いやる気持ちがあったのだろう。

それはそれで素晴らしいのだが、病気という状況はそれほど辛い状況ではないように僕には思える。

病床の身よりもっと辛い状況がある。たとえば、学校でいじめにあっている状況や、知人に見られるのも避けるように引籠り買い物に出るのは真夜中2時3時、隣の住民や大家さんが訪ねてきてドアをノックしてきても不在を装って息を殺し固唾を飲む、電話がかかっても出ず、留守番電話に吹き込まれる伝言に涙する、そんな孤独な状況だとか・・・


とにかく、自分が辛くても大変な状況でも、目の前にいる困った人に思いやりの気持ちを持てることは大切であろうな、と思う・・・



神(宇宙人でもいいし、未来の人類でもいいし、サムシンググレートでもいいし)は自分自身で無から自らを作ったらしい。


ならばこの世界だって無から自らおのずから生まれ出でてもおかしくない。つまり、この世がビックバンでまったくの無から突然誕生したというのもあり得るわけだ。



しかし、実際には、どうだろう?


無から何かが突然誕生するなどということはあり得るのだろうか?


存在するものは、ずっと前から存在し続けていて、始まりなどない可能性の方が高いような気がする。



だからと言って、楽しい思い出づくりが人生の目標ではない!

楽しい出来事、嬉しい出来事は、本来苦しい試練の連続である日々において、人生をリタイアしないために時々訪れる休息としてあるのだと思う。

いろんな思い出・出来事、とくに、悲しい・辛いものこそが、人生において、日々考えるヒントとして有用なのだと思う。

人生は思い出でできている…

数々の思い出でできている

良かったことも嫌だったことも含めて… 

何かする時、してる時、それは何のためにするのかを考えていく。


何のため、さらにそれは何のため、さらにそれは何のため、、、


と延々と追究していく。


だいたい初めは楽や幸せのためというのが第一の理由になるだろう。


しかし、さらに、その先にも理由があるはずだ
 


時間や距離にはプランク時間とかプランク長というのがあり、有限の最小単位があるのかもしれないが、僕は今のところ、そんな最小単位などないと思う


時間も長さも無限に細分化されこの一瞬とかこの点とかそう指し示すのは便宜的な人間の都合に過ぎない。



だとするならば、我思う故に我ありと認識している瞬間というのは、瞬間というよりも、ある一定の期間である。ほんとに短い期間ではあるが、ある程度の長さの期間であり、時間の経過の流れの中に自分の存在を確信できる事実と言えよう。




我思う故に我あり

ということから

自分が存在することは確実な真理だと思うのは勘違いなのだろうか?

我思う故に我ありは

その瞬間だけの真理であって、時間的な流れでのことは一切考えてないのだから。


今、この瞬間に自分の存在が確かであっても

過去にも存在したかとか未来にも存在するかどうかは全くわからないのだから。


数時間前に自分は存在しなかったかもしれないし、数時間後には自分は存在しなくなってるかもしれないし、さらにその数時間後に再び自分が存在し始めてるかもしれない…

しかし、自分というものが同一性を持つものという前提条件が元々あるのだろうから、連続性のない上記のような存在のあり方はあり得ないようにも思えるし…

何故、自分は他の誰かではなく、この自分なのだろう…

不可知論的なことには沈黙するしかないのか?

人間の知性理性には永遠に知ることのできないパンドラの箱なのか?


いや、わからなくても、追い求めようとすることは可能なはずだ。


 


僕は、漫画「ガンム銃夢」の昔からのファンです。
といっても、掲載誌をリアルタイムに読んでいるわけではなく、単行本が年に1回出たときに読む感じですが、毎年今か今かと楽しみに待ってる感じです。
銃夢の続編がもうすぐ新刊出るので期待してます。


屋根をかける人
門井 慶喜
KADOKAWA
2016-12-21


武田鉄矢のラジオ番組で紹介されていたので、図書館で借りて読んでみた。
番組内で、著者の門井氏が最後のシーンを描きたくて歴史小説を書こうと決意した、といった感じのことをおっしゃっていたので、読んでみようかなと僕は興味を抱いたのだが・・・
読んでて、打算的で商才たくましく、世渡り上手で抜け目のない主人公に感情移入できず、むしろ世俗的で現実的な物語に気分悪くなってきて、全部は読めなかった・・・最後のシーンも読んだが、どこが感動的なのか全然共感できなかった・・・

僕がよく行くキリスト教の教会でも、信者さんが、あかし(証し)と称して自身の信仰の半生を語ることが少なくないのだが、僕からすると、同情できず、むしろ、恵まれているなあと羨ましく思える人が多かったので、そういう証しを聞いていると、気分が悪くなって、聞くに堪えなくなってくるのだ。それと、今回の『屋根をかける人』を読むのは似ていた・・・


人は他人の成功談を聞くと、励まされる人と、落ち込む人と、二つに分かれる。
他人の悲惨な人生を知ると、同情する人と、励まされる人と、二つに分かれる。



結論:今回もないです・・・









神は存在するのでもなく、存在しないのでもなく、空・・・
空とは、有ることも可能で無いことも可能な状態・・・
この世自体が空であり、真理がその根拠を持つことは難しい・・・
この世において人間の認識や知恵には限界があり、真実をわかろうとするのは非常に困難だ。
ならば、神がいるともいないとも決めつけないことが大事であろう・・・



今日は復活祭だ
イエスキリストが死んで3日目に蘇った日

どっかの誰かが商業目的で流行らせた意味不明の日付け12月25日よりも、もっとずっと大切な日 

人は一度死んで蘇らなければ本当の神の子にはなれない。
僕も今日をもって新たにボーンアゲインしたい…

人生の目的は、幸せになれる方法を見つけることではなく、幸せになれないことの多い人生に折り合いをつける方法を見つけることだろう・・・

生きていく中での苦労、悲しみ、失望と折り合いをつけるのだ。そんな方法が見つかったら、結局は、ただ虚しくなるだけかもしれないけど・・・

小説を読んでいても、名作は、結局は切ないエンディングが多い。哀愁や無常を痛感させられるのが、人生なんだと結論づけるような・・・

ニヒリスティックな見方・考え方ではなく、実際、現実問題、人生はそういうものだから・・・


人生の目的は、そんな現実に直面しつつ、それで納得する、受け入れる、悟りの境地を得ることかもしれない・・・


















なわけはない!!!



新年度、4月、、、五月病の前段階、、、

職場や学校で、新しい職場人との出会い、、あまり良くない出会いだと、先が思いやられて、悲観的になり、辞めたくなってくる。

しかし、思い出すのだ。
引きこもって、部屋で一人、外に出かけても虚しく、将来が不安で、死にたくなってくるほどだった過去を。

社会との接点がなく、何でもいいから、自分にできることをして、社会参加したい、社会と関わりたいと切望した、あの頃を。。。

社会貢献とまではいかなくても、社会に関われることは、素晴らしいことのはず。

もちろん、ストレスや劣等感はつきまとう。しかし、劣等感は引きこもってる時に比べたら、大したことはない!

職場や学校で受ける苦しみ不安ストレスなんて、ヤクザやテロリストの残虐無慈悲な拷問殺害に比べたら、とるに足りない、些細なものだ!




人の自意識、こんなものがなくても、生物は進化、繁栄できただろうに、何故、意識が発生したのか?
犬や猫、あるいは、鳥や虫や魚を見てれば、意識なく、深く考えることなく、生まれては子孫を残し、死んでいく生命の永続性は、微笑ましい。
しかし、人間という、喜び、笑い、哀しみ、切なくなる高度な感情を持つことには、すでにもう、生命の無邪気さ逞しさを越えた限界を感じてしまう…

後悔、哀愁、愛しさ、切なさ、これらが生物の繁茂に何の関係があるのか?余計な産物になってる。。。

しかし、犬や猿など哺乳類にも、悲しみの感情がある。。。まだ自我の発達してない2〜3歳児にもある…

2歳の子が笑ったり、悲しそうな表情をしたりした時、そこに意味はあるのか?あると思うけど。人間が感情を持ち、高度な感情の機微を発達させ、大人になって、哀愁や切なさを感じながら、人生に意味はあるのか、自問自答するようになるのは、生命の進化に何の意味があるのだろう… 他人を騙し、競争社会を勝ち抜く悪知恵を発達させるためにだけこんな感情が生まれてきたわけではないはずだ。子を想う親の愛情を逆手にとったオレオレ詐欺が生命の進化に順行した正しい道だとは思えないし、オレオレ詐欺を取り締まる社会の自浄作用を鍛えるために有用だとも思えない…




このページのトップヘ