人生の意味

何のために生きるのか

無職ひきこもり40男です。人と関わるのが苦手であり、将来に対しても不安だらけです。こんな自分の生まれてきた意味を日々求めています。 ニート、いじめられっ子、ひきこもりの方々が読んで、「自分だけじゃないんだ」と共感してくれたら幸いです。



群れを作って暮らす社会的動物である人間、初めは親の庇護のもと暮らしているが、成人して独り立ちし自立する必要が出てくると、自分一人の力がいかに弱いか改めて自覚させられるわけで、周囲に合わせて、他の人の動向に注意を払い、自分だけ孤立しないようにしていく。


しかし、果たして、それは正しいことなのだろうか?


一人で自由気ままに生きる人も少なくないけれども、基本、多くの人間は孤立を恐れる。社会から村八分にされないように、というよりも、全体の動きについて行った方が安全であり、自分だけ他から取り残されないように気をつけていく。

こういうのは、イワシが群れを作るのと同じだ。アリの群れではなく。

アリは巣の繁栄のために働きアリが自らの命を犠牲にして外敵と戦ったりするが、イワシは自らの安全を確保したくて、群れの中心に入ろうとする。


人間もイワシのような自己中心的なところがメインであるだろうし、アリのような利他的なところは一部であろう。

人間は何を求めているのだろう?

豊かな生活、充実した人間関係、愛情溢れる家族、、、

これらの獲得・維持に人より先んじて、優位になり、経済的にも政治的にも他人より有利なポジションをキープしようとするのだ。


これはいいことなのだろうか?






これを書いていた時はとても暗い気分の時だった。しかし、今は、大したことではないと楽観的になっている。

アンビバレンツ。

両価性。

考え方や認識の仕方の変動。

これは気分の波についても同じことが言えるのかもしれない。





にほんブログ村
にほんブログ村
人気ブログランキングへ


人間関係で他人と自分を比べて見ることが、全ての主体性の源なのかもしれない。


電気刺激の箱に閉じ込めらた学習性無力感に陥る一匹のネズミは主体性など出てこないだろう。


ただし、他のネズミが隣の飼育箱でうまくやってる様子を見ることができれば、ネズミに意識や主体性が出てくるかもしれない(その基盤になる脳の能力があればの話であって、残念ながら、その能力はネズミにはない


人工知能に自意識を持たせるには、苦痛と他の人工知能を観測させる環境を与えればいいのかもしれない


前向きに。

過去を懐かしんだり後悔したりすることなく。

常に前進していく気持ちが大事だ。

後ろは振り返らない。振り返っても、すぐにまた前を向く!マラソンランナーが後ろを振り返ってばかりいたら転んでしまう。

主なる神を試してはならない。



それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」

マタイによる福音書 4


主なる神を試してはならない

試せばヘビに殺される

愛する者に喜んでもらおうとする者が、愛する者を試す必要性がどこにあろう。試したらもうその愛は、、醜い偽愛に成り下がる


子どもを愛していて、子どもを試そうとする親などいるだろうか?

大岡裁きに子どもの手を引っ張る2人の親の話があるが、子どものためなら、自分が身を引くのが本当の愛情だし、子どものために自分の命を犠牲にするくらいの気持ちがあるはずだ。

子どもが自分のことをちゃんと好きでいてくれないと不機嫌になる親は、精神的に疲れてしまってるだろう。

子離れできない親もいるが、それは子どもを自分の所有物とみなしていて、まるでペットを飼ってるような気持ちなのだろう。


試してはならない





愛の定義




相手に好かれたくて何かするのではなく、相手が喜ぶのを見たくて何かすることだろう。

また、相手が悲しんでいるときに自分も悲しい気持ちになって何とかしてあげたいと思う気持ちも愛だろう。

要するに、

愛とは、自分をいたわり、楽しませ、面倒みるように、相手にも同様にしてあげたいと思うことであろう。


自分を愛するのは、やがて、限界にぶち当たり、虚しくなってくる。

しかし、他者を愛することには、限界はない。ただし、裏切られて愛想が尽きもう愛さないというような愛は、本当の愛ではないだろう

いろんな経験から、だんだん悟っていく…

それで何になるというのだろうか?

問題は、たくさん経験したかどうか経験の量ではなく、考えた 量ではないだろうか?

ダーウィンが来たを見ていた


ミーアキャットの母と娘


長女が母から一番の信頼を得て群の中でリーダーとして活躍していたのに

母の怒りを買い、群れから追い出されてしまう

過酷な放浪生活を強いられる長女


やがて再び群の中に戻ってきた長女

許す母





理不尽な親の仕打ちに意味がよくわからない

聖書の放蕩息子と真逆な物語

ミーアキャットにも意識や哀しみがあるかもしれない

ふかわりょうがパーソナリティを務める単発番組が2017年8月20日だけ放送されるらしい


こどクラ

http://www4.nhk.or.jp/P4536/


【孤独×クラシック音楽】??―【こどクラ】は、真夏の深夜、“孤独”を抱える全ての現代人におくる「新感覚クラシックバラエティー」。


すごく楽しみだ・・・・


1番大切な人生の意味について考えていきたい。たとえヒントも手がかりも全く得られず考えが進まなくても、それでも、考えてる時間は有意義な時間の使い方であるし、考えついた内容よりも、考えてた時間の方に意味があるのかもしれない


幸せになるために生きていると、人生を享楽の場として、日々過ごしていたら、幸せになれない状況のときもあるし、幸せであってもせっせと額に汗して報われたり報われなかったり先行きも不透明な毎日であるど、やがて虚しくなつてくる。


しかし、毎日毎瞬人生の意味を考える習慣があれば、その習慣に意義があると自覚していれば、虚しくはなってこないのではないだろうか?


しかし、孤独に引きこもってた時も時間はたっぷりあってさんざん考えていたつもりなのだが、、、

やはり、現実的な仕事や苦労Laborなどもしながら、人生の意味を考えるということが大切なのだろう。

とにかく、ただ単にたくさん考えるというよりも、忙しい中でも考える習慣を忘れずにいる(まるで、アダムのように平安の中で怠慢になって神の存在を忘れてしまったりするのとは逆に、ヨブのようにどんなに苦しい状況の中でも神の存在を否定せずに想い続けるようにいる)ことが大事だと自覚して考え続けるかどうかで、考える質はだいぶ違ってくるであろう。

と言っても、現実的な日々の雑用や仕事は神から与えられた労苦として日中はそれに集中し夜や休日は思索に集中し、メリハリをつけたい。仕事をしながら、非現実的なことを考えて上の空になってしまってはいけない

それにしても、引きこもって一人孤独に考え続けてた日々の記憶はいつまでも強く濃く、慌しくあくせく働いていた日々の記憶はおぼろげで薄い


人は孤独に生きていると精神的に段々病んでいくように思う


子ども独り暮らししている小学生はいないだろう。もし、独り暮らししてて、かつ、学校でも誰とも話さない遊ばない小学生がいたら、自殺してしまうくらい発狂してしまうのではないだろうか?

いや、物心ついた頃から、ずっと独りで誰とも親しく交流したことが一度もないような環境で育ったら、もしかしたら、それはそれで孤独に対する免疫がついてくるのかもしれない。そういうふうにして育った子どもが、得る悟りはなんだろうか?



神(宇宙人でもいいし、未来の人類でもいいし、サムシンググレートでもいいし)は自分自身で無から自らを作ったらしい。


ならばこの世界だって無から自らおのずから生まれ出でてもおかしくない。つまり、この世がビックバンでまったくの無から突然誕生したというのもあり得るわけだ。



しかし、実際には、どうだろう?


無から何かが突然誕生するなどということはあり得るのだろうか?


存在するものは、ずっと前から存在し続けていて、始まりなどない可能性の方が高いような気がする。



だからと言って、楽しい思い出づくりが人生の目標ではない!

楽しい出来事、嬉しい出来事は、本来苦しい試練の連続である日々において、人生をリタイアしないために時々訪れる休息としてあるのだと思う。

いろんな思い出・出来事、とくに、悲しい・辛いものこそが、人生において、日々考えるヒントとして有用なのだと思う。

人生は思い出でできている…

数々の思い出でできている

良かったことも嫌だったことも含めて… 

何かする時、してる時、それは何のためにするのかを考えていく。


何のため、さらにそれは何のため、さらにそれは何のため、、、


と延々と追究していく。


だいたい初めは楽や幸せのためというのが第一の理由になるだろう。


しかし、さらに、その先にも理由があるはずだ
 


時間や距離にはプランク時間とかプランク長というのがあり、有限の最小単位があるのかもしれないが、僕は今のところ、そんな最小単位などないと思う


時間も長さも無限に細分化されこの一瞬とかこの点とかそう指し示すのは便宜的な人間の都合に過ぎない。



だとするならば、我思う故に我ありと認識している瞬間というのは、瞬間というよりも、ある一定の期間である。ほんとに短い期間ではあるが、ある程度の長さの期間であり、時間の経過の流れの中に自分の存在を確信できる事実と言えよう。




我思う故に我あり

ということから

自分が存在することは確実な真理だと思うのは勘違いなのだろうか?

我思う故に我ありは

その瞬間だけの真理であって、時間的な流れでのことは一切考えてないのだから。


今、この瞬間に自分の存在が確かであっても

過去にも存在したかとか未来にも存在するかどうかは全くわからないのだから。


数時間前に自分は存在しなかったかもしれないし、数時間後には自分は存在しなくなってるかもしれないし、さらにその数時間後に再び自分が存在し始めてるかもしれない…

しかし、自分というものが同一性を持つものという前提条件が元々あるのだろうから、連続性のない上記のような存在のあり方はあり得ないようにも思えるし…

何故、自分は他の誰かではなく、この自分なのだろう…

不可知論的なことには沈黙するしかないのか?

人間の知性理性には永遠に知ることのできないパンドラの箱なのか?


いや、わからなくても、追い求めようとすることは可能なはずだ。


 


僕は、漫画「ガンム銃夢」の昔からのファンです。
といっても、掲載誌をリアルタイムに読んでいるわけではなく、単行本が年に1回出たときに読む感じですが、毎年今か今かと楽しみに待ってる感じです。
銃夢の続編がもうすぐ新刊出るので期待してます。


屋根をかける人
門井 慶喜
KADOKAWA
2016-12-21


武田鉄矢のラジオ番組で紹介されていたので、図書館で借りて読んでみた。
番組内で、著者の門井氏が最後のシーンを描きたくて歴史小説を書こうと決意した、といった感じのことをおっしゃっていたので、読んでみようかなと僕は興味を抱いたのだが・・・
読んでて、打算的で商才たくましく、世渡り上手で抜け目のない主人公に感情移入できず、むしろ世俗的で現実的な物語に気分悪くなってきて、全部は読めなかった・・・最後のシーンも読んだが、どこが感動的なのか全然共感できなかった・・・

僕がよく行くキリスト教の教会でも、信者さんが、あかし(証し)と称して自身の信仰の半生を語ることが少なくないのだが、僕からすると、同情できず、むしろ、恵まれているなあと羨ましく思える人が多かったので、そういう証しを聞いていると、気分が悪くなって、聞くに堪えなくなってくるのだ。それと、今回の『屋根をかける人』を読むのは似ていた・・・


人は他人の成功談を聞くと、励まされる人と、落ち込む人と、二つに分かれる。
他人の悲惨な人生を知ると、同情する人と、励まされる人と、二つに分かれる。



結論:今回もないです・・・









神は存在するのでもなく、存在しないのでもなく、空・・・
空とは、有ることも可能で無いことも可能な状態・・・
この世自体が空であり、真理がその根拠を持つことは難しい・・・
この世において人間の認識や知恵には限界があり、真実をわかろうとするのは非常に困難だ。
ならば、神がいるともいないとも決めつけないことが大事であろう・・・



このページのトップヘ