人生の意味

何のために生きるのか

ひきこもりたい40男です。人と関わるのが苦手であり、将来に対しても不安だらけです。こんな自分の生まれてきた意味を日々求めています。 ニート、いじめられっ子、ひきこもりの方々が読んで、「自分だけじゃないんだ」と共感してくれたら幸いです。


インテリジェントデザインという、この世は何らかの意図をもって設計されているという仮説。これは、例えば、車を全部解体して何百万もの部品に解体してから、それらを一つの箱に入れて振って振って何兆回も振ったら、元の車に組み立っているのと同じくらいの極めてまれな確率で、人間という存在がこの世に誕生したと考える進化論に対抗する理論である。こんなに複雑な構造、そして知能を持つ人間が誕生したのは、偶然の産物ではなく、創造主なり知的生命体なり高位の存在の意図によるという説なのだ。

しかし、人間が作ったGoogle Homeという機械はコンセントに差し電源を入れ、Wifi環境下におけば、明日の天気について僕よりも精度の高い予想を教えてくれるし、どこの言葉かもわからないようなアフリカ人の発言を瞬時に日本語に翻訳してくれる。ここには神や知的生命他の意図は入ってきていない。神が人間をこういう機械をも作れるようにデザインしていて、それでこの機械には神の意図が間接的に関係しているという人もいるだろうが、無機物で魂のないこの機械がさらに進化していったら、自分自身を複製して自律行動を起こせるようになるかもしれない。やがて、機械が人類滅亡後も生き延びて、繁栄するかもしれない。


(今回の記事は思索途中・・・はっきりいって矛盾してたりして、ボツになるだろう・・・)


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生物は生きている。何の目的で、何の意味で???

ただ生きるために生きるのか?

プランクトンも虫もネズミも、あるいは、犬も悩むことなくただ生きるために生きているのかもしれない。人間もおなじ生物として同じように、ただ生きるために生きるのか?
それなら、石もただ存在するために存在するだけ。水も空気も真空も。
さらには、生物も石などと同じようにただ存在するためだけに存在しているだけで、生命活動が停止した死の状態でも、火葬されて灰になった状態でも構わないことになる。
水が外界の温度に左右されて液体になったり固体になったり気体になったりするように、生物も産まれ出でたり、生命活動をしたり、死んだりするだけのことかもしれない。。。
そしたら、存在するために存在するとは一体何の意味があるのだろう?存在するために何か特別なことをしなくても存在している。存在している状態から、まったくの無の状態になることはない、できない。
結局、意味はないことになる・・・

だから、違う!
生きるために生きるのではないのだ!
人間は他の生物とも、ただの石ころとも違って、生きている意味があるはずだ。

石と違って、プランクトンと違って、意識がある、考える力がある、いや、それ以上にもっと大事なこと、つまり自分という存在を自覚する認識がある。

なぜ自分がこの自分なのかという疑問。これが、他の生物や物質とは違う、存在の意味の大きな疑問なのだ・・・


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運命に身を任せ、自分の状況に身を委ね、好事魔多しなら、それが自分の進む道なんだと考えている自分・・・これは本当にそうなのだろうか?・・・
運命などに反抗し、逆をやったらそれは悪い方向に行くのか?
運命とかに左右されずに、その時その時でベストを選択していくしかないが、ベストかどうかわからないからこそ、運命に従ってしまうのだが。。。


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パスカルの賭けとは。神がいることを信じて死後無限の至福の天国に行けるという期待値の方が、神など存在せず死後無に帰する期待値よりも高いという論理で、神が存在する方に賭ける方が合理的だという考えだ。


僕は、逆に、人生の意味を神に問うことを死ぬまで続けて、もし神がいないとしたらそんな無意味な世界から死去しても、むしろせいせいした気分になるという考えでいる。


パスカルが人生に意味を持たせながら楽しんで生きているのに対して、僕は怒りを抱きながら反骨精神で生きている


先日の新聞の人生相談で、就活がうまくいかない大学四年生・男性の投稿があった。就活がうまくいかない原因を自分でもよくわかっているようで、非社交的で、皆と一緒に協力してやるのが苦手、働くことが嫌いだかららしい。働くことも嫌だし、そもそも苦労してまで生きるのは嫌だという。

この自殺も辞さないような雰囲気の甘ったれた未熟な若者の相談に回答したのが、哲学者の教授、、、下手に刺激してはいけないと思ってだろうが、テキトーな無難な答えでお茶を濁してた。


まるで、父親に虐待されていた少女の悲痛な訴えがあったのに高圧的な父親の要求・威嚇に怯えて、少女が書いたアンケート回答用紙を渡してしまった教育委員会のメンバーのように。


ダメなものはダメだし、不当な脅しに屈してはいけない。


人生というものについても同様のことが言える。

生を与えられた人間はこの世界からこの環境から脅されている。

苦しくても、理不尽でも、とにかく生きろ!という暗黙の脅しに。

この脅しに屈してはいけない。何故生きるのか、ちゃんとした理由を知らずして無難に事を済ませようと、茫洋と生きようとしていては問題を先延ばしにしているだけだ。

怒りというか、闘争心を強く持ち、アドレナリンの放出を全開にして、かつ、平常心で臨みたい。

差別される人種・民族は差別に対抗心を抱くものだが、これは猿においてもみられる本能であり、差別こそが人類の大きな永遠の課題となっている・・・自分が他の人から蔑ろにされているという感覚は屈辱というか、人生や世界に対する怒り・憤りだ・・・

無人島で一人で生きていれば感じることのない感覚・・・・

差別に対する憤りは、生物としての本能であり、もしかしたら、植物ですら持っているかもしれない。隣の木の花には虫がよく集まるのに、自分のところの花には虫が集まってくれないことに発奮して、より大きく目立つ色の花、より強く甘く香りを漂わせたりして、進化していっているのかもしれない・・・


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人が牛や豚など家畜を飼って牧畜産業として利用しているように、人も神か宇宙人か何かの存在に飼われている存在なのかも… 少なくとも、人類の支配者層は被支配者層の多くをうまくコントロールしてその労働生産性を利用している。 一見、国民うけ良さそうな法律や政策が新たに設けられたら、それは国民のためというよりも国民総生産を増やすためのものであろう。 日本人のように従順で勤勉な国民がしっかり働いていると国が整うし、秩序が維持される。 怠慢な人や、悪賢い人など、そういう人はいらないのだ。

今まで、人の目を見ないようにしていたのは、相手に威圧感や恐怖心を与えないようにするためだった。相手に嫌われないようにするためだった。しかし、

相手に自分が真面目に真剣に誠実に考えていることを示すために、相手の目を見つめるということが大切なことなのだろうと今は思う。

その上で、人によっては、見つめられると、責められていると感じて、嫌がる、目をそらす人もいることも理解して、そういう人の場合には、時々目を見つめるのをやすめたり、目や声で笑ってあげたりするのがいいのだろう。

逆に、見つめられて、嫌がる人には、何かやましいことがあると察してあげて、許す気持ちが大事だろう






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ケンカのときは相手の目を見るのは、少しも気にならない。
それは、相手を威圧するため。

やはり、普段、相手の目を見ないようにするのは自分が相手を刺激したくないという配慮からなのだ…
 
しかしケンカのときに相手の目を直視しても、相手は自分のことを恐れてないわけだから、 自分の視線が相手に不愉快な思いを与えてないことが多く、むしろ、真剣な思いを伝えるのに効果的とも言える…

抽象的な意志を働かせるためには極力外部からの刺激に反応せずにただ自分の存在だけを感じることが大切だ。そのために、目を閉じ静かな環境で瞑想に没入すればいいのだろうが。。。
当然、目を閉じていると眠くなってくる。
ならば、

片目を閉じるだけでもやってみるといいのかもしれない。

深夜トラックを走らせる運転手は、眠気を軽減するために、片目を閉じて運転しているという。イルカの半球睡眠のように、片側の脳が休み、もう片方の脳が働いてくれるのだろう・・・



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ブログの過去記事を読み返していた。



2017年10月19日 
演劇のように… 多重人格のように…
http://blog.livedoor.jp/masakiyuuto/archives/52284096.html




左TPJの電気刺激が自分のことをしっかり自分目線で見ることができるようにするために機能しているとしたら、

まるで、左目と右目の視線・焦点を合わせるように働いているのだろう。


焦点を合わせずに生きることは可能だ。しかし、生活に便利だから焦点を合わせるのだろう。とくに、外界の事物の遠近感を感じるのに、両眼視は重要なのだろう。


しかし、人間が現実的な意識と抽象的な意志の二つを持っているとしたら、それを別々に働かせているのは、非効率といえるのだろうか?もし、同時に働かせれれば、神のように達観した現実観を持てるのだろうか?




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偉大な画家であるレオナルドダヴィンチやレンブラントやピカソの共通点は何か?


実は、斜視だったらしい。斜視なのに絵はうまかったわけで、それ以上に、素晴らしいのは、他人を圧倒するオーラがあったことだと思う。

斜視にもいろんな種類があるだろうから、一概には言えないが、斜視でいじめられた人も少なくないだろうし、逆に他人を威圧するのがうまい人もいるんではないだろうか?


斜視の人は、他人の目をしっかり見ることができるのだろうか?つまり、会話してる時に、相手の目を正視することができるのだろうか?

(もちろん、斜視というコンプレックスで相手の目を見れない人も少なくないだろうが



普通の健常眼の人が正視すると、場合によっては相手に威圧感を与え過ぎてしまう場合がある。しかし、斜視の人の場合は、片一方の眼だけが相手の顔を正視して威圧感は半減するであろう。


また、斜視の本人自体が相手の視線をピンボケに感じるだけで済むのかもしれない。



この世は苦しいことや嫌なことばかりだが、それを直視せずにピンボケさせて見れば、苦しさは半減するかもしれない


斜に見る

うがった見方をする

世間や物事を斜めの視点で見る



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ゴキブリでも、ドブネズミでも、いや、アメーバでも、大腸菌でも、生きている意味を考えていようと考えてなくても、慌ただしく懸命に生きているうちにやがて寿命で死んでいく。

人間だけが、生きている間に生きている意味を見つける能力がある、と言えるわけではないだろう。もっと、高度な知的生命体でないとそんな能力・資格はないかもしれないし、どんな知的生命体でも無理なことなのかもしれない・・・


とにかく、人間もゴキブリと同じような哀れな存在であろうと思って、謙虚に求めながら生きるしかないか・・・
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ポドキャストをよく聴く。とくに大和カルバリーチャペルの大川牧師のインターネット礼拝を。

段々秋風が吹き始めて日の入りも早まってきている今日この頃、肌寒さが、心まで寒く何だか寂しくさせてしまうのだが、そんな夕暮れ時は、家であったかいココアでも飲みながら、机の前で一人ラジオかポドキャストを聴いていると少し寂しさが紛れる。声だけを聴いている方が、なんだか、アットホームな感じが強い。

テレビの場合、自分のイメージと懸け離れた実際の映像に、幻滅してしまう。


聴いていて、自分で想像する。暖かなぬくもりのある雰囲気

ラジオやポドキャストでは、一人の人が話している番組が好きだ。自分自身に語りかけてくれている感じがあるから。二人以上で話しているのは二人だけで親しげに盛り上がっていることが多く、いやになってくることが多い。



天国はどんなところだろう?

声だけするところだろうか?

神一人だけじゃなくても、天使やその他大勢の人がいても、うちわで盛り上がっているのではなく、ちゃんとリスナー一人一人に語りかけるような優しさがあるのだろうか?




若くして癌になった女性患者さんがTVに出ていて、その方が癌がわかった時に思ったことが「何で私が?!」ということだったらしい。

僕にはこの人の気持ちが理解できない。「何で今?」と思うならわかるが・・・

癌や病気は誰だってかかる。それが早いか遅いかは人それぞれだが。

僕にも病気はある。しかし、それを「何で私が?!」と思ったことは記憶にない・・・
幼い時からあるものだから、物心ついた時から、自分の個性と思って、自分の一部だと思っていた・・・排除したいとは何度も思ったけど。


そもそも、人間やその他の生き物は、産まれたときから不平等であり、理不尽・不条理だ。

この地球に生まれたこと、今の時代に生まれたこと、すべて、「何で?!」だ・・・


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両親や兄弟、配偶者も、良き同僚も、敬愛する先輩も、やがて、去っていく…

とくに、家族。親、兄弟、配偶者、そして、子ども…

キリスト教では、家族を捨ててキリストに従っていかないといけないと言っている。家族を愛するのは自分を愛するのと同じようなエゴに過ぎないから。

親や兄弟を捨てるのはよくある。そして、配偶者も…しかし、一番難しいのは、我が子を捨てることだ。

配偶者を捨てるのは、捨てるというまでには至らなくても、単なる友人になるということで、依存を断ち切ることで、良きことであろう。

我が子を捨てるのは、捨てるというまでには至らなくても、アブラハムのように神に捧げたり、聖母マリアのように成人した子の意志を尊重したり、自分の手から、より正しき存在に委ねることであり、自分の所有物ではないということを改めて認識することだ。



人は一人で生まれ一人で死んでいく。唯一、付き添ってくれるのは偉大で尊い存在だ。



しかし、イエスは、

自分を犠牲にして友を救うことほど尊い愛はない

自分を愛するように人を愛せよ

と言ってた。



家族以外の他人や友を自分と全く同じように愛し行動することをしていかなくてはいけないのだろう…



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