人生の意味

何のために生きるのか

ひきこもりたい40男です。人と関わるのが苦手であり、将来に対しても不安だらけです。こんな自分の生まれてきた意味を日々求めています。 ニート、いじめられっ子、ひきこもりの方々が読んで、「自分だけじゃないんだ」と共感してくれたら幸いです。

夢の中で夢と認識することができる。
それと同じように、現実の生活の中でも、こういう自分そして世界、そしてこれらを含め全部を考えている自分という風に、限界のさらに限界を越えたところを俯瞰することができる。

夢は日中覚醒時の記憶の再整理に役立つらしいが、その時に意識ある自分が夢の解釈をすることができるというのは、何を意味するのだろうか?それとも明晰夢というのはイレギュラーでレアケースで、言ってみればバグに近いものなのだろうか?


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「剃刀の刃」の主人公ラリーが、親友グレイの片頭痛を催眠術で治してあげる場面があった。この治療法はインドでヨギについて習ったらしい。いかにも東洋思想に傾倒している西洋人らしい奇蹟礼賛であるが、この箇所は小説の流れに何の意義があるのか疑問に感じつつ、それよりも、僕がこの箇所を読んで思い出したことがある。

腕を挙げようと思っても、動かせない状態がある。しかし、普通は動かせる。自分の意志で動かそうと思ったら動かせるわけだ。しかし、脳卒中や認知症になったらそういうこともできなくなるのだろう。そうえはなく、正常な状態でも動かせないとき、脳の中ではいったい何が起こっているのだろう。残念ながら、検索しても、こういう現象をfMRIとかで研究した論文は見当たらない・・・僕の検索方法がうまくないのだろうが、それよりも、もっと大事な事は、

ヒステリーや被暗示性の高い人が催眠にかかる時、それは一体精神のどういう働きで行われているのか、、、、



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ビルマーレイ主演の映画を見終わった。
「剃刀の刃」は、1946年にも映画化されて、それも以前見たことがあったが、すこし物足りなかった。
そして今回、ビルマーレイ主演のを見たのだが、まったく違う趣だった。
ハッキリ言えば、主人公に感情移入しづらい、少し不愉快な内容だった。なぜかと言えば、放蕩生活をしながら、時に怒りに任せて物を壊したりと、あまり理性的とは言えない主人公の言動と、そして、映画の結末に、監督やプロデューサーの自己満足しか感じられなかったから・・・

唯一印象に残っているのは、第1次世界大戦でヨーロッパを支援するアメリカの余裕さだ。やはり、人が死んだり苦しんだりしている同じ時に、裕福に平和に楽しく暮らしている人もいるというギャップが、考えさせられる・・・



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何を食べるかとどう生きるかは同じかかもしれない。何を食べれば脳に良いとか何を食べれば痩せるとか何を食べれば癌になりにくいとかあるいは粗食が一番とかしかし、痩せても癌にならなくても認知症になってしまったり食の楽しみがなくなってしまったり一体何が大切なのかわからなくなるし、知らず知らず有害物質を摂取してる可能性もある。タモリは一日一食の粗食派だ。若手の芸人にも、そんなに食べてたら疲れちゃうぞと助言したりするらしい。つまり何を食べるかではなく、いかに食べないようにするかぎ大事なのだ。人生をどう生きるかも同じかもしれない。何をすべきか、焦っていろいろやろうとするのではなく、なるべく何もしないようにするのがベストなのかもしれない。なるべく余計なことをせず、余計なことを考えず、とにかく、何もしようとしないでいるうちに、それでも考えが頭に浮かぶことが一番大事なことなのかもしれない








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許すというのと、諦めるというのと、どっちでも良いのだろうか?相手から理不尽な嫌なことをされても、気にしないでいたり、仕方ないと諦めたりするのと、憤りを感じつつ相手を許すのと、どっちが正しいのだろうか?きっと、動物は諦めて物事見ていることだろう

うっかり忘れてしまっていたが僕自身の小さい頃はどうだったろう。諦めていただろうか?基本的には恨みやつらみがあった。しかし、親に対しては諦めていたような気がする。こういう世の中に失望していたような気がする。そして、苦しいことや大変なことはできるだけ避けるように生きて学校をサボったりしていたように思う。

今から思うと、僕という人間の人生の課題は、理不尽なことに不満を持たず、不安や恐怖を抱かず、全ての出来事は受け入れることだったのかもしれない誰かに理由もなく叩かれようと詰問されようと叱られようと。そして、大事なことは、親や神を呪わず恨まず、むしろ、親や神の機嫌の悪さを刺激しないようにして、うまく難局を打破する方法を考え続けることだろう。

もちろん、小さな子どもにはそこまで求めることはできないがイサクは抵抗せずにただじっとしているしかできなかったし


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僕は死を恐れる人の心理が共感できない。まるでインフルエンザ予防接種を怖がる子供を見ているようだから。(もちろん、痛かったり苦しかったりするのは僕も嫌だ)


死を恐れる人は、生きている間、一生懸命生きているのだろう。あるいは、楽しく平凡に生きているのだろう。そんな人生のなかで自分が築き上げたものや、自分の存在価値、楽しい思い出、平凡だが安寧とした自分の人生が、死によって無に帰することが耐えられないのだろう。
一所懸命やっても、死んだら終わり。そんなことはとても受け入れられないのだろう。
執着というか、自分中心というか・・・
きっと真面目なのだろう。
律儀なのだろう・・・
自分に対して。


利他的に生きている人は死を恐れない。
そもそも人間は生きている間、他者の迷惑になることばかりしている。そういう申し訳なさを抱いている人は自分の死を恐れない。


ここまでは前置きだ。

生きることを苦しいと感じて自殺を考えている人は、自分のために自己中心気味で構わないから、一生懸命自分を大切に、自分に対して律儀に生真面目に、生きてみればいいかもしれない。自殺どころか、死ぬことを忌避して、少しでも長く生きるようになるかもしれない・・・・


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配偶者や子供を愛するとき、それは無条件の愛であろう。ただただ、相手のプラスの為に、自分を捨てて尽くす。

家族以外の他人、困っている人に対しても愛をもって接するようにキリスト教はいう。


同じように、
人生の意味を考えるのも、
無条件の愛で尽くすように、考えてあげたい・・・



人を愛するように、人生を愛したい・・・


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前回は仕事に熱中する人のことを書いたが、そういう僕自身は、人生の意味を考えることに人生や生活の時間の多くを費やしてしまっている。しかし、人生の意味を考えることは楽しいものではない。おそらく、何一つ不自由なく不幸な出来事を経験することもなく平凡に生き将来への心配もなかったなら、人生の意味を考えることはなかっただろう。そして、不幸や不運の多い人生を送っている今の僕でさえ、これから何一つ心配することもなく幸せに生きれることになるとしたら、人生の意味を考えることを放棄してしまうかもしれない・・・

キリスト教圏では労働は神からの罰という認識で、アメリカ人は老後の資金を充分貯めたら早期リタイアしようと思って働いている。

僕の、人生の意味を考えるというのも、神からの罰なのであろうか?

禁断の果実を食べてエデンの園から追放されたアダムは神から額に汗して労働せよといいつけられた。

僕も罰として神から額に汗して人生の意味を生きている間ずっと探し続けよと命じられているのか?


仕事以外の愛や規律を守るなどの行為は、仕事とは違って罰ではないのだろう。これらは、仕事と違って、やらされているのではなく、やることによって、自分自身の幸福感・安心感に直結するのだと思う。
人生の意味を考えることも、答えが見つからなくても、探求していくこと自体に何らかの幸福感を得られたらどんなに良いだろう・・・
結果が出ないのに・・・
いや、むしろ、結果が出たら、もう探求しなくなってしまう・・・

結果が出なくても、人生の意味を追求することで、唯一充実感を得られるのは、神に会った時に堂々と議論できる栄光にあずかれることを期待できることだろう・・・

この期待が、たんなる希望に終わる可能性があることに不安や失望や諦めを抱いてしまいがちだが・・・




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仕事が楽しくて仕方ないという人がたまにいる。そういう人は、きっと、仕事を通して色々な人と出会えることが楽しいんだと思われる。やはり、人間、一番生き甲斐を得られるのは人と出会って相性が良く、そういう人間をより多く持ち、人脈を広げて、公私共々、多くの仲間を持つことであろう。しかし、それは、歌手やプロ野球選手になるのと同じくらい、単なる夢に過ぎない。


現実は、とにかく生活費を稼ぐために好きでもないことだけど我慢して勤めている人が圧倒的多数であろう。


しかし、つまらないことを奴隷のように働かされている現実をまざまざと見せつけられてしまうと、民衆はやがて反乱を起こす可能性があるわけで、生き甲斐・やり甲斐ある仕事という価値観を世間は浸透させようとしている。とくに、今の世の中、女性の社会進出に伴って、ごく一部の有能な女性が男まさりの素晴らしい活躍を見せるようなキャリアウーマンとして、あるいは、我が子を乳児の時から保育園や実家に預けて仕事と家庭の両立をうまく行っている姿などをみせて、世の多くの普通の女性は、そういう素晴らしい活躍を見せる女性に憧れ、そこまで有能ではない自分自身に焦りを感じながら、結婚や妊娠出産を遅らせ、仕事に邁進しようとするが、気がついた時はもうアラフォーの寂しい独身者で、自分自身というものがなく、他の人の真似だけしていた哀れな存在であることにやっと気がつくようになる


男性も含めて、人はみな、仕事の意義をもっとしっかり認識しないとダメだろう


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僕は人生の意味を考えてばかりいる。
自分という意識の存在の謎の本質からはずれていそうなことは、どんどんそぎ落として、核心だけを追究していこうとしている。

しかし、これは視野が狭窄しているのだろうか?

もちろん、世界全体や他人の存在のことも(他人の存在の真偽はわからなくても参考になるかもしれないし)、重要なことだから、考えることは少なくない。

現実的な俗世間のことはあまり考えないが・・・







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教会に行ってると、毎週、聖書朗読や説教を聴きながら、人生の意味について思索を巡らすことができる。



人間、歳をとればとるほど、人生の意味について考えなくなっていく。毎日毎日同じようなことの繰り返しに慣れてしまって、考えることをしなくなる。だから、認知症になっていくんだと僕は思う。





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前回の記事で、働くことも大事だといったが、現実的に忙しくなると、人生の意味を考える時間が取れなかったり、あるいは、そもそも考えることを忘れてしまったりするものだ。それでいて生活が充実していると勘違いしてしまうものだ。

忙しくなるのも、お金を得るのも、人生を過ごすうえで、本末転倒になってはいけない。どんなときも、人生の意味を考える。最低でも、頭の片隅にでも置いておく。



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他の人のブログを見ると、無職で何もしていないと周りの人、とくに親から、仕事に就け、努力しろなどと非難されるというのが書かれている。

僕も同じように肩身の狭い思いをしていた。

もちろん、ブラック企業に勤めて心身ともに疲弊して健康を害してしまうかもしれないし、仕事をしていればそれでいいというわけではないだろう。

大事な人生の時間を切り売りして、わずかな給料をもらい、老後の保障もないようなら、ただ働けばいいのか疑問に感じるだろう。

とにかく、時間を無駄にしてはいけないと思う。とくに、趣味。今の時代、スマホで無料のゲームやアニメなどに時間を大幅にとられたりしては、大事な人生の時間をあっというまに浪費してしまう。

人生は最大の暇つぶしという人もいるけれど、早く死ねればそれもいいだろうが、必ずしも早く死ねれるとは限らないし、つらい毎日では死ぬまでの苦悩の時間があまりにも長い。

やはり、人生の意味を深く追究して、その思索の時間を1分1秒大切にしつつ、hだんの生活も忙しくやっていくしかないであろう。

元お笑い芸人が渋谷のハチ公前の清掃ボランティアをしていたが、とにかく何かしていた方が良いだろう・・・もちろん、人生の意味を考えながら・・・



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世の中にはいろんな人がいる。自分と相性の良い人もいれば相性の悪い人もいるだろう。しかし、食事と同じように、好き嫌いせず、いろんな人と付き合うことが大事であろう。人はパンのみにて生きるにあらずというように、人との関わり・交流は、身体の健康以上に心の糧として大事なことだろう。


もちろん、自分が他人を嫌ってなくても他人の方が自分を避けていることは少なくない。しかし、食料となる鳥や魚が人間を避けるのを、人間は必死に捕らえて食料とするように、人間関係も自分の方から働きかけなければいけないだろう。求めよ、さらば開かれんというように。さらに、他人に対するときそこに愛がなければいけないであろう。






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もし誰か憎い人がいたら、それは、過去世の自分自身かもしれない。

その憎い相手に、その人の問題点を自覚してもらうには、それなりの条件のもとで生きていかないと理解できないだろうから、新しく生まれ変わってその条件・状況のもとで一生かけて悟っていってもらう。


これは、憎い相手だけではない。問題や課題のある人すべてに当てはまる。理不尽な人、傲慢な人、バカな人、、、


そして、その生まれ変わって、今、おのれの課題・問題と向き合ってるのが、この自分なのかもしれない。

だから、他人の理不尽さや傲慢さや馬鹿さ加減に対して、自分自身に対して向けられた課題なんだと思って我が身を振り返ってみる必要がある。


逆に、すごく不幸な人に対しても同じように自分自身だと思ったほうがいいのかもしれない。





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先日、道を歩いてて、交差点を渡っていた時、向こうから歩いてくる親子連れ、45歳くらいの女の子とお母さんの2人の歩いてくるそばに、右折しようとしてる大型トラックこの時、僕はトラックに子どもが轢かれるかもしれないと、いつもの最悪ばかり心配してしまう癖で、ふと、僕がいつでも子どもの盾になって助けてあげられるよう気を引き締めていた。幸い、というか、当然、トラックは一時停止を守って、何事もなく、親子も僕もトラックも交差点を通過したのだが、

僕は自分がトラックに轢かれる様子を想像していた。暑い日差しの照りつけるアスファルトの硬い路面に、僕は頭や胴体を強く押し付けられながら、自分自身の血にまみれながら、身動きとれず、痛く、暑く、そして、だけど、血の気の引くような、寒気を感じながら、このまま死んでしまうのだろうと、取り返しのつかない事態に進んでいく恐怖に苛まれながら、気を失っていくんだろうなと思った。硬くて、圧迫されて、閉塞感、窮屈で、全身の激しい痛み、そして、悪寒、、、すごく怖くなったしかし、もちろん、そんな事態よりも、生きて働いて人と関わって、色々な劣等感、侮辱、絶望感、悩みなどの過酷な現実の方が、よっぽど、つらいわけで、そういう人生の真実に気づいている大人の僕には、死は決して恐れるものではないことがわかっているから、事故による痛み・死は耐えられるだろうし、耐え甲斐がある。だけど、こんな思いを、まだ、しっかりとは物心のついてない幼子に体験させてしまうのは、本当に本当に避けなければと思った

しかし、死ぬ時の痛みが想像できる自分も、まだ幼い子どもと同じようなものなのかもしれない



本題はこれからだ。



自分がこの年まで生きているのは、まだ、死ぬ時ではないからだと思う。死ぬことを受容できるだけの悟りを得たい






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最近は過去を思い出し、懐かしむことが多くなった。

年を取ったからかもしれない。しかし、年を取るとなぜ過去を懐かしがるのか?



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路上の生活者。糖尿病で足が腫れていても、それほどひどく心配する必要はない、みんなが通る道だ、神が守ってくれている。もちろん、そんな人を憐れみ、そして神の御加護に応援の想いを祈る・・・路上の人を避ける必要はない、普通の人の皮膚にだってブドウ球菌がたくさんいるから。
いつも喜んでいなさいと聖書は言っている。不幸は一切考えることなく無視し無いものと思い、それよりも僥倖を大いに感じ、大いに考え、ますます感じる。
しかし、自分の欲や他人の欲を満たそうとはしてはいけない、いつも神中心に、神の為だけの認知・思考をしていく。神のために何か考えてあげられることはないか、飢え渇くように、求める、追究する。。。
他人の悪いところを調べ上げてもダメだ。そんなことは無駄だし、良くしていくのが人生の目的ではない。他人や自分のことではなく、神の今の働きを喜び、共感し、祝福してあげるのだ。
孤独感や疎外感・被害妄想などは、自分のことを考えているときの一つの前駆症状だ。そうではなく、神のことを考えていれば、自分の立場などどうでもいいことなのだ。
神中心と言っても、当然、他人に無関心ではいけない。他人に対する神の気持ちを推し量るのだ。そして、神の御加護を喜んであげるのだ。

見えないものを確認し、希望する事実を確信するのだ。つまり、神の前で繰り広げあっれる現実の真の姿を想い、神の働きがなされる様を想うのだ・・・


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気づかないまま感染してる。どんなに綺麗にしているようでも、隠れ潜む場所はいっぱいある。



何かをすごく心配しても、そんなに悩むほど心配しなければいけないことは、多くはない。たいていは、とりかえしのつかないようなものではない。




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不幸でつらいと思っても、幸せなことの一つや二つはあるはずで、それに対する感謝がないと、不満だけだと、数少ない幸せすら、失ってしまう。 (逆に、不幸に対する不満がないと、不幸もなくなっていく、かもしれない…⁈)
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