2010年07月14日

八ッ場ダム現地で進む関連事業

 

7月4日から6日まで群馬県「八ッ場ダム」を視察してきました。
新聞報道やテレビなどによる情報は多く入手していますが、やはりなんと言っても現場が一番。この目で現地の様子や地元の状況を確認してきました。

現地で案内役をしてくださったのは八ッ場あしたの会の洋子さん。
当日はいくつかの駅で乗り換え、最後はJR吾妻線川原湯温泉で下車しました。ここで関東方面から来たメンバーと合流し、宿に向かいました。

夕食後は洋子さんを講師に「八ッ場ダム」の過去、現在、未来についての勉強会が始まりました。

八ッ場ダムは重力式コンクリートダムで堤高 131m。流域面積 707,9平方km。そう貯水容量
1億750万立方メートル。利用目的 洪水調節、不特定利水、上水道、発電。ダム建設事業費 4600億円。

昭和22年のカスリーン台風級の水害から首都・東京及び利根川流域を守るために、利根川上流に10箇所のダムを建設する「利根川上流ダム群(後の利根川水系8ダム)計画に準拠していて、1952年(昭和27年)に計画発表されました。

しかし当初は支流の白砂川や万座川から流入する強酸性の川水のために当時の技術ではダム建設ができず、計画は凍結されました。しかし1965年(昭和40年)に中和事業・「吾妻川総合開発事業」によって吾妻川の水質が改善したことから1967年(昭和42年)に現在の場所にダム建設を決定しました。

しかし現地では全国的に名高い川原湯温泉街を始め、水没地域が340世帯にもなり、又名勝で天然記念物でもある吾妻峡の半分以上が水没するため頑強な反対運動が長期にわたって繰り広げられました。

1974年(昭和49年)にはダム建設反対の町長が選ばれ、着工のめどはさらに遠のきました。一方行政側は生活再建を行うことがダム着工の絶対条件であるとの認識から、群馬県が1980年(昭和55年)から次々に生活再建策を打ち出しました。

又昭和40年代にはダム建設場所を当初予定より600メートル上流に移動させる計画を表明し、その結果吾妻峡の約4分の3が残ることになり、観光スポットの鹿飛橋も残ることになりました。

1992年(平成4年)にはダム建設を前提とした協定書が長野原町、群馬県、建設省の間で締結されました。そのご2001年(平成13年)には長野原町内のダム事業用地を買収する際の価格を決める補償基準が妥結しました。

その後は地域から流失する住民が後を絶たず、2005年(平成17年)末には半数以上の世帯が転出し、全水没地域の川原湯、川原畑では代替地への希望世帯は50世帯余りと当初世帯の5分の1以下となっています。

代替地は現地再建方式(ずり上がり方式)と呼ばれるダム湖より上の山腹部(将来は湖畔となる部分)に建設される方式が取られていますが、分譲価格が高かったことや生活するための商店等が無いため、車が無い人は生活しにくい等の理由で現在はまだ多くの世帯が入居していません。

以上のような講義を受け翌朝9時に川原湯温泉の高田屋を出発しました。
ちなみに川原湯温泉は約800年前に源頼朝が発見したといわれる温泉で、宿の前にある源泉からは硫黄のにおいがしていました。

2日目の現地見学は明日に報告予定です。

 

 

 

 



masako_hiroba at 21:18コメント(0)トラックバック(0) 

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