masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

 日本国憲法1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定めている。

この規定はGHQ草案や日本国憲法の英文(The Emperor shall be thesymbol of the State and of the unity of the people, deriving his position fromthe will of the people with whom resides with sovereign power)とは一致していない。それらには「日本」ということばは用いられていないし、「総意」ということばもないのだ。それ故、この規定の日本文(すなわち正文)には、GHQ案の翻訳に際してGHQ側も容認せざるを得なかった事情があったのであろう。その翻訳の段階を通じてわが国側には「総意」ということばを徹底した程の強い想いがあったと思うのだ。

日本国憲法は本文規定第1章の冒頭を「天皇」ということばで飾っている。その規定においてわが国側は先ず、わが国の正式名称が「日本国」であることを明らかにした。そして、その日本国は天皇で表象されること、また主権者「『日本』国民がまとまった状態」が天皇で表象されることを条定化したのだ。「日本国」すなわち天皇、「日本国民がまとまった状態」すなわち天皇というわけだ。象徴ということばは十字架すなわちキリスト教、星条旗すなわち米国というように、象徴されるものと象徴するものとを一体化させることばだからだ。

 通説は、そのようにわが国側が暗黙に力を入れた天皇条項を重要視しない。それ故、日本国憲法では国民主権、国際平和協調主義および基本的人権の尊重がその三つの基本的な原則となっているとしながら、天皇制は無視するのだ。そこでは、「主権者国民の総意」が恰も憲法改正に参加する日本国憲法96条の国民の多数の意思と同様であるかのように解しているのだ。したがって、天皇の地位は憲法の改正によって廃止できると解しているのである。それ故にこそ、日本国憲法の筆頭に地位を占めている天皇主義を日本国憲法の基本原則に含めないのだ。

 シェイエスが述べているごとく、憲法制定権力と憲法によって組織された権力とは異なる。憲法改正権力はそのうち憲法によって組織された権力である。それ故、それは憲法制定権力の意思に拘束されるのだ。それ故にこそ、通説がいう日本国憲法の三原則は憲法改正の限界をなすことになるのだ。

 通常、主権と憲法制定権力とは一致した関係にある。天皇の地位はその主権者である日本国民の総意の上に存立しているのだ。この意味の主権は不可分であるから、その総意を「意思」といっても間違いではないが、しかし、わが先人たちはそれを政治的に主権者国民の間に意思の全一致という想いはあっても、したがって、分裂はないという想いを込めて「総意」という訳語に拘ったと思うのだ。そこでGHQが用いたthe willということばが「意思」という訳語に相当することなど自明であったし、その場合、分割し得ない主権者国民の意思ということとも、自明であったはずだ。それでも、わが邦の政府にはその不可分の主権者意思を問題の無い「総意」という正確なことばで表明したい想いが無意識に存したと思うのだ。

 そのように先人の強い想いで制定されたと思われる天皇条項については、慎重な解釈が必要である。それ故、憲法制定権力が天皇の地位をその「総意」に基づかせているとしている以上、憲法によって組織された憲法改正権力をもって動かすことはできないのだ。過去・現在・将来にわたって存在する国民が一体となって存在すると仮想されたものが主権者国民であるが、その主権者国民の「総意」を現在する国民の中の選挙人の「多数の意思」で廃止することなどできることではないのだ。それ故、日本国憲法の基本は三つの原則で成り立っているわけではないのだ。天皇制は憲法改正権力の限界をなしているのだ。

 日本国憲法前文第二段は「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と謳う。この文章において「日本国民」と「われら」との関係は分からない。「日本国民」が何を自覚し、何を信頼しようとそれは「日本国民」が決めることである。その場合に、「日本国民」が「彼ら」の安全と生存を保持しようと決意したのであれば分かるが、「日本国民」によって安全と生存を保持しようと決意された「われら」とは誰のことなのであろう。「日本国民」の部分を「アメリカ合衆国国民」と置き換えて見たら、「われら」が不明の理由が分かろう。その文章は明らかに可笑しいのだ。

 そこでは、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」が具体的に何を意味しているのかも、不明である。中華人民共和国のように法にも裁判にも従わず力で侵略する国が現にある中で、「日本国民」は「崇高な理想」によってどのようなことをイメ-ジしているのであろうか。「平和を愛」しているかは疑問で、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国等のように公正と信義を信頼できない国が近くに現存する中で、「日本国民」は「彼ら」なりの決意によって何者か分からない「われら」の安全と生存とをどのように守ってくれるのであろうか。

 その部分には「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」という文章が続いている。ここで、誰か分からない「われら」が、「名誉ある地位を占め」ることを目指して、また、全世界の国民の「平和のうちに生存する権利」を確認して、チベットやウイグルや内蒙古で圧制を行っている中華人民共和国のような専制国に対する関係において、必死に対抗とようとする姿勢を宣していることは分かるが、その場合に、「日本国民」は何をどのようにしようとしているのであろうか。その部分に「日本国民」ということばは全く存在しないのだ。

 日本国憲法第三段は、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務と信ずる。」と謳う。しかし、誰か分からない「われら」が各国の責務を信じていることは分かるものの、「日本国民」がそのような責務を信じているのか否かは不明である。

 前文は、最後に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」と宣しているが、しかし、「国家の名誉にかけ」「全力をあげて」とは、具体的にどのような振る舞いをすることを意味するのであろうか。中華人民共和国等や中近東やアフリカには「平和のうちに生存する権利」を奪われている人々が数知れず存在するのだ。「日本国民」は、「われら」が「平和のうちに生存する権利」があると確認しているそのような人々に対して名誉をかけ、どのように全力を尽くしてくれるというのであろう。

 正体不明の「われら」には、「日本国民」の多くは、国家の名誉を棄て、金力によって、周辺民族を抑圧している中華人民共和国等にも関わり、専ら自分たちの欲望と利益を追求しているようにしか思えないが。

 

 日本国憲法前文一段には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と宣言している。

 この部分について、宮沢俊義「日本国憲法」は、「国民の、国民による、国民のための原理」をある時代のある国家だけに通用する原理ではなく、すべての人類を通じて普遍的に通用する原理として宣言したものであり、その原理に反する一切の成文法を認めないことを宣言したものと解する。

 上記の部分は、内閣草案においては「この憲法は、この原理に基くものである。我らは、この憲法に反する一切の法令と詔勅を廃止する。」として、上記の原理の通用する範囲を新たにできる憲法の枠内に留めたものであった。しかし、それはGHQ案と異なっており、その意味が十分でないとして衆議院において上記のように改められ、GHQの了承を得たものである。

 宮沢「前掲書」は、「憲法、法令及び詔勅」のように改められたのは従来わが国にあった憲法以下のすべての成文法だけでなく、将来成立するであろうあらゆる成文法を「人類普遍の原理」に反する限り、認めないことを意図したものとしている。

 ただその「前掲書」で「国民の、国民による、国民のための」とされた部分のうち「国民による」という部分は正確ではない。その部分は「国民の代表による」と改められるべきと思うのだ。尤も、窮極においては、「国民の代表による」ということによって国民に代わることに外ならないから、基本的な狙いは同じところに帰する。しかし、その目的達成の方法が限定され、態々「代表」とされていることについては決して無視されてはならないと思うのだ。

 もちろん、上記の原理の下でも、同一法典である日本国憲法が例外として認めているものは憲法制定権力そのものの意思であるから、当然に容認される。たとえば、国民による国会議員の直接選挙(憲法43)、最高裁裁判官に対する国民審査(79)および憲法改正のための国民投票(96)はいわゆる直接民主制であって上記の代表民主制原理に反するが、同じ憲法が定める例外であるから容認されるところである。

 ところが、最高裁は裁判員裁判の合憲性が争われた訴訟事件において、代表制の部分を全く無視し、直接民主制に基づく裁判員裁判を合憲とした。そのような考え方は、国民主権原理に触れさえすれば、何でも正当化できると理解した上でのものと思われる。しかし、国民主権原理の下でも主権者の選択次第で君主政治制もあり得ることを看過してはならない。かつて存した暴君放伐論はそのような考え方に基づいたものであったのだ。日本国憲法はその原理の下でその原理と最も手を組み易い民主政治制を選んだ。それも、その原理は直接民主制と最も手を組み易いが、しかしながら、日本国憲法はその制度を避け、代表民主制を強調したのである。GHQの中心をなした人々の祖国米国には、建国のとき、アテネの直接民主制等の失敗に鑑み、国政レベルの直接民主制を避ける性向が存在した。GH案には、そのような考え方が底流にあったと思うのだ。

 しかしながら、わが国政では、日本国憲法が謳う「人類普遍の原理」は軽視されているようだ。裁判員制度に限らず、検察審査会の強制起訴制度もその例である。また、放送法64条の下で国家機関でもないNHKに対して受信規約の制定という立法への参加を認め、また税務役人にも劣らないしつっこさをもった実質的に受信契約締結の執行権を認めているに等しい現状もその例である。わが国の憲法制定権力が憲法外に認めた直接民主制は日本国憲法の発効に先立って用意された刑事陪審員のように限定されているにも拘わらず、である。

 日本国憲法前文の「人類普遍の原理」に反するものを「排除する」と宣した日本国憲法前文などわが最高裁等にとって大して意味あるものではないようなのだ。わが国の憲法に影響を与えた米国の連邦最高裁もしばしば憲法の前文に言及するが、その際に重要とされているのは「憲法によって実際に与えられた権力の性質と範囲と適用について詳しく説明することであって、それらを実質的に新たに造り出すことではない」とされている。にも拘わらず、わが最高裁や政府や国会はその権限を憲法を超えて行使し国民主権原理に重き置きその範囲を憲法に反して拡大し、代表民主政原理については等閑りにしているようである。

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