masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

 中華人民共和国のことについて承知しているわけではなく、誰の文章か忘れたが、その文章によれば、毛沢東を崇拝しているらしい習近平氏は一部で今や習沢東と呼ばれているらしい。ただ毛沢東については思想性が窺えるのに対して習氏には自らはその思想の憲法化を企図しているらしいが、その思想らしいものが窺われない。それでも両者には大きな野望という点で共通するものを感じるが、対外的な野望となるとかなりの差異があるようである。習氏には武力、金力、知力、人力等を駆使して堂々と世界における中華の夢の実現に向かっている気配が窺われるからだ。その野望は北京の東西南北のすべてに向けられている。一帯一路構想や太平洋への侵出の狙いは着々と進められている。その触手がアフリカやオ-ストラリア等にも伸びていることは、それらの地域における資源や土地の買い占めだけでなく、一部の地域における職業や人や土地の支配、政権の利用等から窺うことができる。内蒙古についてはすでに掌握したといえる。習氏には中華人民共和国が西欧にとって極東の国家であったり、米国にとって極西の国家である事実を覆し、その国を正しく「『中華』人民」の共和国、否「『中華』共産党」の共和国としようとする狙いが窺われるのである。

 その触手がわが国に影響を及ぼしていることは明らかである。中華人民共和国軍機の領空接近の事例はかなり急速に増えている。その公船や軍艦の接続水域への侵入や領海侵犯の事例も漸増している。先日は原子力潜水艦がわが接続水域を潜水航行した。

少しく横道に逸れるが、長い潜航が可能な原子力潜水艦でありながら公海に出てから浮上したのは潜航が探知されてしまったからであろう。事実、我が国のマスコミは早くから接続水域を潜航通過している事実を報道していた。潜水艦が潜航をしている事実を潜航中に発見されるとは漫画でしかない。深く静かに潜航し、その所在を隠すのが潜水艦の潜水艦たる所以なのだ。フリゲ-ト艦に自衛隊の目を引きつけて隠れて潜航していた積りであったろうが、潜航していることを報道されるとはお笑いである。中華人民共和国の海軍としては赤っ恥をかいたと思っているに相違ない。彼らは自国の潜水艦の性能の悪さに気が付いたことであろう。それとも、わが自衛隊の能力の高さに驚いたであろうか。筆者もかなりに以前、P3Cに乗せて貰って東シナ海上空を飛んだことがあるが、わが自衛隊のP3Cの探知能力には素晴らしいものがあるらしい。それにしても、中華人民共和国の動きは国防予算が少ないわが自衛隊にとっては予算や人材その他の理由で制度疲労を来さないか心配であり、迷惑な話である。

その中華人民共和国は太平洋を二分する構想を有しているらしい。習近平氏の東に向けた姿勢には太平洋に関する米国と現代版トリデシリャス条約を締結する野望が存在するようなのだ。トリデシリャス条約とはポルトガルとスペインとが白人世界から見た場合に誰の領土・領海でもない海外領土を二分した約束事である。一体、かつての白人世界には欧州諸国を除けば実質的に無主地に外ならなかったのである。人が支配している地域については自分たちの力で支配を獲得すれば済むことであったのだ。欧州以外の土地は彼らにとって実質的に無主地であったから、人が支配している地域の支配権を奪い支配を勝ち得てもそれは「侵略」などではなかったのである。そのような白人の基本的な姿勢は近代的な憲法を制定し権利の章典をつくった米国においてさえ存在したのである。有名な「明白な天命」は正当化のための勝手な理由づけであった。

習近平氏の太平洋に向けた姿勢の根底には「『中華』共産党」の考え方と共に、そのようなかつての白人的な考え方が窺われる。そのような考え方に立って太平洋を二分する姿勢が確認されるのである。幸いなことに米国には現代版トリデシリャス条約の締結への動きはないが、習中華の動きには、太平洋への勢力拡大の現実の動きが顕在している。わが国や台湾はその習中華の太平洋への歩みの足蹴にされないように気を付けなければなるまい。

 最近の憲法改正論議では大して問題視されていないが、日本国憲法の前文についてはかつては色々な意見が確認された。GHQが練った原案とその翻訳とが必ずしも一致していないこともあって前文は書き出しから問題が提起されていた。この先進自由主義の主要国家の憲法の前文としては異常ともいえる程に長々とした日本国憲法の前文にはその書き出しから国文法的にも可笑しく内容的にも不可解で翻訳臭いという欠点が示されていたからだ。

 それ故、日本国憲法の前文には格調が高い日本文でなければならないという意見は識者の一部では強いものがあった。文語体的な格式ばったことばが用いられている一方では余りにも平俗なことばが用いられたところもあり、そのような点に珍妙さを感じた者もいた。論理不明な点があったり、翻訳の正否の問題もあって本来日本文が正文であるにも拘わらず、英文憲法を参考にしないと理解できないところがあったり等している点を批判する者もいた。

文章・表現については格調が高く簡潔で荘重で堂々とした日本人の文章で、それも自主的で平明なものでなければならないという者は決して少なくなかった。大日本帝国憲法には前文はなく、憲法発布の勅語の後に上諭が付されているが、日本国憲法の前文とそれらとの間には格調や荘厳さ等の面で格段の違いが確認される。

 それでも、識者の中には前文の文章など憲法を改正する理由としては気にしない者もいた。文章よりも内容というのである。文章を改めるという口実で内容が改められることを恐れた者がいたのである。尤も、このような改正反対理由は内容の改悪を前提したものであり、改悪でなければ文章を改めることを否定する理由となるものではなかった。前文が翻訳調であることに理解を示しながらも、若い世代はそれを気にしていないという理由で改正に反対する者もいた。文章を世代に合わせて改めたとしても次の世代の者には旧式で親しみのないものになるという者もいた。ただ文章や表現を改正理由とすることに反対する者たちは総じて内容を重視する者たちが多かった。それにしても、文章が可笑しい点をそのままにしたり、内容が可笑しいが故に内容が不明な点があることが気にならない姿勢には理解できないものがあった。

 その内容については前文は本文各条を総括するものであるべきであるにも拘わらず、そのようなものでないとする批判がなされた。日本国憲法本文の筆頭を飾る第一章は天皇であるが、前文にはその筆頭を飾る天皇については一言も触れず、無視している欠点が存在した。また日本国憲法では不可侵永久の基本的人権がその第三章においてだけでなく、最高法規の章である第十章の冒頭に規定されて強調されているにも拘わらず、その基本的人権についてもきちんと触れられてはいない。これらは日本国憲法前文の明らかな欠点というわけである。その前文が外国の思想を並べて宣言しているにも拘わらず、国の歴史や伝統に触れられていないことに対する不満もかなりに存在した。わが国の独自性が存在しないことに対する不平も弱くはなかった。その内容についてわが国によって大東亜戦争が起こされたという前提でその責任が追及され平和のための詫び証文を宣言させられたものと解する者もいた。

 これに対して日本国憲法前文は戦争や旧体制に対する反省、敗戦から再建へと立ち上がった日本国民の意思、国際的地位の確立の念願などを適切かつ力強く表明しているという見解も存した。しかし、このような見解はその前文が日本国民の代表によって自主的に起草され宣言されたものであれば、正解かも知れないが、そのようなものではなかったことを無視した見解であった。

 ともあれ、日本国憲法前文の最後は「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」という文章で締め括られている。「われわれ日本国民は、・・・誓う」という文章であれば、いかにも自分達で誓った気がするが、そうではなく、「日本国民は、・・・誓う」という文章であるから、日本国民が誰かによって書かれた文章を認めて誓わされたような気がする。筆者が憲法を制定したのであれば、「われわれ日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する。」と宣言するが。

最後に、GHQは日本国民をして「何もの」に対して「誓わせたのであろう」か。また、日本国民が反省や再建を力強く表明したと説く者たちは、日本国民が誰に誓ったというのであろう。さらに、わが最高裁は日本国憲法で「国」と「宗教」が分離されていると解しているが、その最高裁は「誓」った対象が天主や神でないとすれば、日本国民が「何もの」に対して「誓」ったと解しているのであろうか。

 報道によれば、従来の言行の繰り返しではあったものの、河野太郎外務大臣がカナダ・バンク-バ-で韓国の康京和外交長官に対していわゆる慰安婦問題に関する韓国政府の新方針に関連して「更なる措置をとることは全く受け入れることはできないし、協議にも応じることはできない」旨をはっきりと言い渡した由である。

報道で知る限り、いわゆる慰安婦問題に関する河野外務大臣のいうところに歯切れの良さを覚える。言っているのか否か、言ったとしても何を言ったか分からなかった前外務大臣等あるいはその背後にあった従来の外務省あるいはわが政府の姿勢と比べれば小気味良さをさえ覚える。慰安婦問題に関する対韓問題だけでなく、対中外交等に鑑みても、河野大臣の物言いぶりには目を見張らせるものがあるように思える。対内的に勇ましい感じがする言行を重ねる大臣等も対外関係になると歯に衣を着せた物言いをしているようにしか思えなかった従来の事象と比べると、もしかしたら、予てより自由に物を言っていた河野大臣は日本人ばなれしているのかも知れない。序に父君の河野洋平氏の愚行を弾劾あるいは少なくとも批判でもよいからやってくれたら、素晴らしいと思うが、これは、親子関係を大切にする日本人のかつての美徳気質を大臣が有しているかも知れないから、事は天下国家の問題であるとはいえ、望みはするものの強く要請することはしたくない。

 いわゆる慰安婦問題については、従来の政権と同様、安倍晋三政権においても何が真の問題なのか有耶無耶にしたまま、岸田文雄前外相の下で「不可逆的決着」がつけられた。その内容は当分明らかにしないのが日韓の約束事であったはずであるが、韓国側はその習性もあって、その約束事を破って明らかにした。しかも、韓国版ル-ピ-大統領といえよう文在寅氏はわが国に真の謝罪を求めるかのような発言をした由である。

この「ル-ピ-」大統領には、彼が元々格好よく「真実と正義」の法則を掲げた人物であるから、わが政府向けの発言を繰り返す以前に、震源となったわが国の朝日新聞といわゆる慰安婦問題について是非話し合って欲しいものだ。また、彼は元々弁護士でもあるから、「約束は守らなければならない」(pacta sunt servanda)という古来の格言が法的に意味するところを是非究明し直して欲しいものである。

 河野大臣は北朝鮮問題に関連して、北朝鮮が核やミサイルの開発を続けていることから目を離すべきでないこと、北朝鮮が国際社会の分断を図ろうとしていること、それ故、北朝鮮に対して圧力を弱めたり、北朝鮮の対話の姿勢に対して見返りを与えるべきではないことをバンク-バ-で呼びかけた由である。しかも、その呼びかけに成功もしている。しかし、呼びかけが叶い、それが国際社会の約束事になったとしても、国際社会には必ずといってよいほどに約束事を破る存在があることを心して欲しい。実際、韓半島に存在する二つの存在は約束事を反古にして平然としているものたちである。それらの近くにも、同様の存在があり、たとえば、条約や国際法は守るものではなく、守らせるものといった姿勢を貫いている国さえある。中華人民共和国のごとく、国際仲裁裁判所に解決を求めても、その判断を屁とも思わない国もあるのだ。国際社会は正しく海千山千・魑魅魍魎の社会なのだ。

 そのような国際社会を渡り歩いて外交を続けることは困難な作業であると思う。しかし、今までの報道で知る限り、河野大臣には英語力と共に国の姿勢を真面な方向ではっきりと発言する力も伴っているようである。英語力等を買われて外務大臣になっても、韓国による軍艦島問題対応で確認されたように、わが国が上手くあしらわれてしまわないように注意して欲しいものだ。

 筆者は、河野氏が大臣に成る前は悪しき「自由自在な人物」と思っていた。しかし、大臣就任後の河野氏に対する筆者の印象は変わった。明治期「自由自在な人物」の一人に陸奥宗光がいた。その陸奥宗光が外交で果たした功績には目を見張らせるものがあった。河野外相にも陸奥のようにあって欲しいものだ。

↑このページのトップヘ