masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

           マンチェスタ-・テロとわが国
 ネットに投稿されていたが、「昨日までテロ等準備罪に反対の論陣が張られていたテレビで、イギリス・マンチェスタ-でテロ事件が発生するや『日本は大丈夫か』と論じ合っていた」そうだ。

 そのようなテレビ放送の内容は分からない。しかし、国会では、ここ数日、テロに準備対応する法律の審議に際して「一般人」の問題が盛んに議論されていた。

 イギリスでは、テレサ・メイ首相が人々の生命、自由、安全を維持し社会の秩序を保つために即座にテロ警戒レベルを最高に上げ軍をも出動させ、およそ5千名の兵が警察を支援しているということだ。

 わが国で同様の事件が発生した場合、十分な法制が整えられた場合を仮定しても、自衛隊まで出動させることには一部から直ちに批判が出るであろう。わが国では、日本国憲法が国民の生命、自由および幸福追求権という基本的人権を守る(すなわち、日本国憲法13条の公共の福祉の)ために立法その他国政の上でその基本的人権を制約できる場合を最小としていることもあり(憲法13条)、いわゆる人権論者が権力の関与を徹底して排除しようとするからだ。況してや、自衛隊の出動となると、災害救助のためを除けば激しい批判がなされ兼ねないと思うのだ。否自衛隊の災害出動についても、かつてはただでさえ自衛隊そのものを敵視する者が少なくなかったから、被災地の者はともかく、その出動を評価しない者がいたのだ。それ故、しばしば他の組織に比して大規模に活躍する自衛隊について、プロの目による分析によれば、自衛隊の名を真っ先に上げて評価された天皇陛下によるおことばがあった東北大震災より以前には、NHKでさえ警察や消防に比して評価されないかたちの映像を流していたということである(「チャンネル桜」)。況してや、治安出動ともなると、こんにちなをそれに批判的な者は少なくあるまい。

 ところでイギリスでは、平成271月のフランス(パリ)におけるテロ事件後、政府がテロリストの攻撃後武装警察を支援するために主要な都市の重要な場所に最大5100名の兵を配備することができるようにしている(Operation Temperer)。23日のテロ事件後、警察が早速軍の支援を要請したことから、マイケル・ファロン国防大臣がそれに応じ、軍配備の作戦計画が初めて実行されたのである。イギリスでは、この度のような事態に備えて軍と警察との連携行動が迅速にとれるように良く訓練され準備されているようなのだ。

 わが国では平成271122日、韓国人が靖国神社の便所で爆弾を爆発させるというテロ事件が起きた。この事件では、テロリストが失敗に終わり、被害も小さくて済んだこともあり余り注目されているとは言えない。しかし、韓国人テロリストに技術があったとし、折しも縁日で賑わっていた靖国神社で爆発に成功していたとしたら、その被害は多数に上ったかも知れなかった。 

 その韓国人テロリストも爆弾を爆発させる以前は誰にも分からない韓国からの一旅行者「一般人」に見えたのではないか。その者は爆弾を隠し持ち込んだが、アフリカ、中近東等では爆弾を身に着けて持ち込む者が少なくないようだ。その者らも事件を起こすまでは外見上「一般人」と変わりはなく見えるのかも知れない。自爆テロには多分に普通の人と変わりない動きをしている者がいると思うのだ。

仮にそのような「一般人」と外見が変わらない人に対して何かを感じた警察官が(今もある程度やっていると思うが)偶々声掛けその他をしてみる制度ができたら、わが国は亡命を必要とするほどに暗黒の国となるのであろうか。

思えば、わが国は日米安保条約を締結して以来、米国の戦争に巻き込まれ、何度も戦争をしているはずであった。わが国には、疾うに徴兵制が復活していたはずであった。平和安全法制もできたから、わが国は地球の裏側で戦争をし、若者は今頃軍人に駆り立てられているはずであった。通信傍受法や特定秘密保護法ができているから、若者たちの恋人同士のデ-トの約束の電話が盗聴され、若者たちは彼方此方で秘密を交換し合ったとして尾行されているはずであった。そのような国の者たちが極東の緊張が言われている折りも折り、連休を利用して有事に備えて訓練されている国民から成るソウルを見て「ソウル市民は平静だ。皆は騒ぎ過ぎ」と旅行を楽しんでいる。

他方で、テロ準備法に反対していたらしいテレビが一夜明けると「日本はテロ対策は大丈夫か」と問題視していたらしい。わが国はどうなっているのだろう。

 

 

憲法学者らの「安倍改憲」反対理由

 NHKニュ-スを伝えるネット情報によれば、憲法学者らでつくる「立憲デモクラシ-の会」が安倍晋三首相の改憲意向に反対する記者会見をしたそうだ。

その会によれば「自衛隊はすでに国民に広く受け入れられた存在で、憲法に明記する改正は不要」とのことだ。自衛隊を憲法に明記すれば、「軍拡競争を推し進め国際情勢を悪化させるおそれがある」ということらしい。

 また高等教育の無償化については、「憲法に書いただけでは無償化は実現せず、財政措置が必要で、それが整えば憲法を改正する必要はない」ということのようである。

その際、その会に属する憲法学者で早稲田大学の長谷部恭男教授は、「9条の改正については自衛隊を憲法違反の存在だと言われないようにするという理由が示されているが、是が非でも9条を変えたいというみずからの願望を遂げるため、自衛官の尊厳を改正の手段として扱っている」と安倍首相の意向をも「忖度」した意見を述べたらしい。

その具体的な意見はともかく、彼らの基本姿勢について論ずる。

憲法学者のすべてに調査がなされているかどうか知らないが、報道に登場する調査の結果によれば、憲法学者の非常に多くが自衛隊を違憲と解しているらしい。「公法学会」や「全国憲法研究会」に属する憲法学者の調査をすれば、そのような結果になると思うが、「憲法学会」や「比較憲法学会」に属する憲法学者を含めた調査をすれば、少なくとも数字はかなり変わる気がするが、これは保証の限りではない。

上記の会に属する憲法学者も多分に自衛隊を違憲と解している者と思う。そうであるとすれば、自衛隊を違憲とする学者が自衛隊は違憲であるが、それが国民に広く受け入れられており、改憲の必要はないという主張は少なくとも筆者には納得できない。

会の名に「立憲デモクラシ-」を名乗ったのは米国憲法学界に論じられるそのことばとそれと対峙される「多数決デモクラシ-」を意識したものと思われる。民主国家では多数の意思に基づいて国家権力が行使されるが、「立憲デモクラシ-」はその「多数決デモクラシ-」に立脚した国家権力の行使を憲法で正そうとする民主政治をいうはずだ。ならば、その名を名乗る以上、自衛隊の現状容認ではなく、その廃止こそあるべき姿勢のはずだ。

わが国では、長い間自衛隊を合憲と解する政権が民意の支持を得ている。否、元々民意の支持を得て自衛隊が創設され、以降、自衛隊を違憲とした政権はないのだ。「多数決デモクラシ-」は常に自衛隊を合憲と解する政権を生んでいるのである。

「立憲デモクラシ-」を名乗りながら、その廃止のために戦わない姿勢はその名に値しない。違憲でも「多数決デモクラシ-」が認めているからそのままで良いとする姿勢は「立憲デモクラシ-」の姿勢ではないのだ。日本国憲法のいわゆる違憲審査規定は憲法によって「多数決デモクラシ-」を是正するためにあるのだ。

安倍首相はそのような者の存在を考慮し、「多数決デモクラシ-」が正しいか否かを国民に改めて問い、自衛隊違憲・合憲の争いに決着をつけようとする姿勢なのだ。憲法改正規定は時代遅れあるいは意味不明等の欠陥ある憲法を是正するために「多数決デモクラシ-」を実現するためにあるのだ。

安倍首相の動きを個人的な願望であるとする憲法学者は国政の何処を見て論じているのであろうか。

自衛隊員あるいはその関係者に限らず、自衛隊の地位をはっきりさせよという民意は昔から少なからず存在したのだ。筆者のような者でさえ、かつて其処彼処で講演をしていた時代、彼方此方でそのような意見に接したことがある。日本国憲法の下で自衛隊を受け入れる民意と異なり、上記の憲法学者らが普段に自衛隊を違憲と主張しているからだ。

一国の首相は法律の執行については多数の意思の通りに実行をするとしても、国策の決定については多数の意思であろうと少数の意思であろうと尊重し、自己の意思がたとえ少数に属するとしても、それを支持して民意に問うてみるということは憲法レベルでも法律レベルでもあり得るのだ。小泉純一郎首相(当時)の郵政民営化は法律レベルの行為であった。憲法レベルでは、それが憲法改正の動きとなっても現れる。

自衛隊の問題は長い間憲法の喉に刺さった刺のようなものであったし、現にそうだ。安倍首相の見解に反対するのは自由であり、会の主張の全容を知っているわけではないが、報道で知った範囲で判断する限り、その安倍首相の改憲の動きに反対する理由は余りにも幼稚過ぎないか。従来の民意とその支持を得た政権と同様、民意で自衛隊の憲法問題を論ずるのであれば、「多数決デモクラシ-の会」と改名したらどうであろう。

政府による現行防衛体制は狡知(巧知)のなすところ

 以下を論ずる契機は「チャンネル桜」で「制裁戦争」が話題になっているのをネットで見たからだ。ここで「制裁戦争」が主題ではないが、それに関連して日本国憲法の「戦争放棄」を論じたくなったのだ。

社会の中で最も完結された国、それもわが国の問題だ。国が形成される前、すなわち、権力が形成される前、支配するものがいない以上、すべて人は平等に自由を有しているはずであった。それを支配しているものといえば、欧米の学者に学べば、(天主が創った)自然の法則すなわち自然法だけであった。ところが、この法の下では、弱肉強食および自然淘汰の厳しい法則が機能する。弱者あるいは侵害を受ける者は危険に瀕するのである。そのような危険から脱却するために、人はその自由の一部を国家に与えて危険なく自由を享受する体制を築いた(憲法前文第一段)。国は人から貰ったその自由を権力に変えて、人が安心して自由を行使する、すなわち、専ら危険を防止する(憲法13条、12条の「公共の福祉」の)ためにそれを最小限に行使(自由(憲法13条の「生命、自由および幸福追求権」を制限)することになったのだ。 

このようなことから、国家に譲渡していない自由(生命、自由および幸福追求権)は人々が永久不可侵のもの(基本的人権)として維持し続ける(憲法11条、97条)。

これを換言すれば、国が権力について最小の行使ができるのは国内的には公共の秩序の維持(間接的な危険の防止)および公共の安全(直接的な危険の防止)のために局限される。また国際的には自衛戦争(但し、国際社会における安全保障体制である国連に参加する場合には、国連にのみその実行が認められる国際警察行為として営まれる制裁戦争も含まれる)に限定されるのである。人々の自由に対する危険は国内的に限られず、国際的にもあり得るから、国が自衛戦争をも放棄したものとすれば、国家をつくった意味もなくなる(憲法前文第一段、13条参照)。日本国憲法で自衛戦争を放棄したとする見解は政治論に過ぎないのだ。一体、法的にも自衛戦争か否かは高度の政治性を有するところで、最高裁も統治行為として判断を下し得るところではない。他方、国際的には、たとえば、制裁戦争は1979年に中華人民共和国が対ベトナム戦争の口実としたようなものをいうのではなく、国連加盟国が国際秩序を維持するために行動する国連に参加するに先立ちそれを認めても自ら行使できるところではない。今のところ、その行使は国際社会で唯一の世界的な存在である国連の専権なのだ。わが国も日本国憲法がそれを否定しているのであれば、そのような権限を行使する国連に加盟する資格に欠けることになる。

 日本国憲法第二章は「戦争の放棄」を章題としているが、そこで放棄された戦争は「不戦条約」でわが国にも法的意義をもった侵略戦争であって、同法第二章はそれが条約レベルから憲法レベルにまで高められたことを意味するものなのだ。国は国際警察行為(としての制裁戦争を行い得る十全の国際連合)による安全保障体制が整った状態では政策的に自衛戦争をも放棄した状態をつくり出し得るが、それでも、それは飽く迄も政策的なもので、個人に正当防衛が認められるように、国連が侵略国を抑圧するまでの間、自衛戦争をしたとしても違憲ではない。自衛戦争の放棄は飽く迄も政治の世界の話なのだ。

ところが、こんにち世界は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」し(憲法前文第二段)得る状態にない。況してや、わが国周辺はチベット、ウイグル、内蒙古等に見られるように専制とか隷従の下で戦いが無いというだけの「国際平和」の状態ではあっても、それはわが国民が希求した「国際平和」の状態ではない。日本国憲法9条が希求したのは「正義と秩序を基調とする国際平和」(憲法9条)の状態なのである。現実はわが国についてさえ、戦争にこそなっていないものの、北方領土は強取され、竹島も暴力的に奪われ、尖閣諸島には不法侵入が繰り返されている現況にある。 

 故水木惣太郎法博が「憲法の憲法」とか「憲法の生命」と述べた日本国憲法13条には、わが国民を「立法その他の国政の上で」「平和のための実験動物とする」とは規定しておらず、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(すなわち基本的人権)の規制を最小限受忍することを求めながら、それに対する最大の尊重の必要を規定しているのだ。それは国内的にも国際的にも国が基本的人権を守ってくれることを意味するのである。さもなければ、国をつくった意味もなくなるのだ。

わが国が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」で自国の平和と安全の維持にさえ努めず、国際社会に依存し迷惑と負担をかける姿勢とすれば、それは日本国憲法前文が言う「名誉ある地位を占め」ることにならない(憲法前文第三段参照)。わが国民は単に「名誉ある地位を占めたい」どころか、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」だけでなく、平和を維持しようとしている国際社会で「自国のことのみに専念して他国のことを無視し」てはならないと宣し、国際協調主義に立脚しているのだ(憲法前文第二段、第三段、98条)。

 そのようなことを内容とする日本国憲法の下、わが政府は、すべての戦争を放棄するという高邁な理想と国民を平和のための実験動物としないという現実の要請とに立脚して、一方で自衛戦争をも放棄し、他方で自衛権の行使を認めるといういわば狡知あるいは巧知によって政策的に動いている現況にある。 

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