masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

 日本の近代史に関する或る著書を読んでいたところ、日本国憲法と比較してのことではないが、「なお今日では、帝国憲法の臣民の権利について、それがいずれも『法律による留保』をともなっているがゆえに、人権規定として不十分であったとの批判がある。」としながら、「『法律の留保』の規定は、ことさらに帝国憲法だけの特徴ではなく、当時のヨ-ロッパの大陸系の多くの憲法に見られた方式を踏襲した結果であった。『法律の留保』といっても、『法律』の成立は帝国議会の協賛を要するのだから、政府が任意に臣民の権利を制限できるわけではない。」とあった。そして、問題とされるべきは「包括的かつ抽象的な内容の法律を定め、それを行政権の大幅な裁量を認める第九条の行政命令で補うような事態が問題とされるべきであろう。」と続けられていた。

 因みに、大日本帝国憲法9条とは「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」という規定である。

 上記の書が「法律の留保」について述べたのは、日本国憲法の場合には国民の権利が「法律の留保」を伴っていないが故に人権がよく保障されているというかなりの者によって行われている見方を前提としたものであろう。ただその書が「『法律の留保』といっても、『法律』の成立は帝国議会の協賛を要するのだから、政府が任意に臣民の権利を制限できるわけではない。」といいながら、「「包括的かつ抽象的な内容の法律を定め、それを行政権の大幅な裁量を認める第九条の行政命令で補うような事態が問題」としている部分については理解できるようで理解し難いものがあった。

 上記引用部分で「批判」を引用した部分において、その著者が日本国憲法には国民の権利に「法律の留保」が存在しないという考え方を有しているとしたら、それは誤解であると思う。その著者は上記の説明に関連して,丸かっこ書きで「今日の日本国憲法が、その第十二条『公共の福祉』『権利濫用の禁止』という包括的な条項に即したうえで立法し制限するのに対して、帝国憲法は各権利に施された『法律の留保』からただちに立法して制限する。」と述べているのだ。その日本国憲法で「立法」は国会、内閣、最高裁判所および地方公共団体によってなされる。その成果がそれぞれ法律、政令、規則および条例である(なを、条約にも立法条約があるが、ここでは特に触れない)。しかし、日本国憲法の下、国民の権利が「公共の福祉」「権利の濫用」を理由として行き成り政令や規則や条例で制限できるわけでは決してない。日本国憲法制定時の政府の説明によれば、国民の権利は先ずは「法律」によって規制され、他の法形式はその法律の範囲でなされるとされている。筆者もその政府の説明とほんの少し違うが、日本国憲法41条は国会を唯一の立法機関としているから、立法目的が制限されている最高裁判所規則を例外として、絶対ではない国民の権利は原則として国会による立法すなわち法律に依らなければ規制できないと思う。である以上、日本国憲法にも原則として「法律の留保」が存するのである。「公共の福祉」を理由として行き成り命令や条例で規制することを日本国憲法は認めていないのである。

 次に、上記の著者が「行政命令」をどのような意味で用いているかはその著書からは明らかではなかった。大日本帝国憲法9条の天皇が「法律ヲ執行スル為」に発する命令は執行命令であって法規命令である。その著書が「包括的かつ抽象的な内容の法律を定め、それを行政権の大幅な裁量を認める第九条の行政命令で補うような事態が問題」としていることから、行政命令と法規命令とを同視している感じがする。しかし、平等思想を否定したわけでは無かった大日本帝国憲法の下で帝国議会が臣民を平等に扱おうとすれば、「法律」が常に包括的かつ抽象的となるのは必然であった。執行命令はその法律の範囲で定められるものであって、それはその命令の必然の性格で天皇の恣意的勅令を認めるわけでは決してなかった。天皇による「公共ノ安寧秩序ヲ保持」するための勅令は独立の法規命令(いわゆる警察勅令)であるが、「法律の留保」との関係で大日本帝国憲法9条を問題としたいのであればこの警察勅令だけである。しかし、その文言から警察命令は危険の存在を前提としたものであり、その範囲は限定され、また代行命令(あるいは緊急勅令(帝憲8条))と異なり、これは法律を覆すことができるものではなかった。天皇による「臣民ノ幸福ヲ増進スル為」の勅令は臣民の自由や権利を奪うものではないから、法規命令ではなくその本質は筆者らが考える行政命令である。その命令は財政等の問題が無い限り、臣民の福利を増進するためにすべて歓迎されるところである。

 文章力の無い筆者は自分の文章についても後で読み直すと理解できないところが出て来ることがあるが、それにしても他人(ひと)の文章も理解することは難しい。

 報道によれば、韓国海軍は1011日に「2018大韓民国海軍国際観艦式」を行うに先立って自国の国旗と共に太極旗を掲げるように要請した。韓国の「中央日報」はこれを解説して「これは事実上、日本海上自衛隊に向けた措置と解釈される。『旭日旗』を自衛艦旗として使用中の海上自衛隊に、旭日旗ではなく日本国旗の日章旗を使用してほしいと間接的に要請したのだ。」と述べていた。

 韓国あるいは韓国民は旭日旗に対して戦後も反発をしたことはなかった。しかし、一人のサッカ-選手の奇行に対する詭弁が韓国のかなりの人々の「正論」となってしまった。韓国のかなりの国民が突如として「旭日旗」あるいはその類似のものを見るとパブロフの犬のように反応するようになってしまったのだ。

 以前にイタリアのデザイナ-が旭日旗類似のデザインを描いたところ韓国人からクレ-ムがつけられた。これに応えたイタリア側からの反応は「ドイツ国旗はナチスも利用したから駄目なのか」「アメリカの星条旗は原爆を落とした国が用いているから認められないのか」という趣旨のものであったと聞く。

 上海のファッション・ショ-で「ディオ-ル」が扇をモチ-フとしたドレスをつくったところ、これも旭日旗に見えたらしく韓国のネット・ユ-ザ-が騒いだそうだ。

 今年、フランスの革命記念日には海上自衛隊は旭日旗を掲げて行進をしたが、韓国の新聞はその光景を無念そうに報じていた。

 韓国には現在、旭日旗禁止法を制定する動きがあるらしい。

 韓国の人々の間では西郷隆盛と伊藤博文はかなり不人気と聞く。それが真実とすれば、将来何かを契機にして「『伊藤』という姓と『西郷』という姓をもつ日本人は韓国名を名乗るか、その他の姓を名乗らない限り入国を認めない」というようにでもなるのであろうか。

 旭日旗に異常に興奮する韓国人は来日して築地にある新聞社に行った場合、旭日旗の一部である社旗に昂ぶってしまうのであろうか。

 夏になるとわが国では、高校野球が行われる全国の野球場に主催新聞社の社旗が掲げられる。夏にでも訪日した上記の韓国人はそれを見て卒倒でもするであろうか。

 わが国で朝日新聞が後援する催しものは少なくない。それ故、わが国では夏でなくても旭日旗の一部はあちこちに確認される。上記のような韓国人がわが国にくれば、その事象に気が狂ってしまうのかも知れない。

 わが国でもそうであるが、世界の各地の御来光に際して旭日旗に似た自然現象が現れる。否、旭日旗はその美しさを図案化したものである。旭日旗を騒ぐ韓国の一部の者たちにとってこの自然現象はさぞかし恨めしく嘆かわしいことであろう。

 ところで、観艦式の招待に応じて参加した国家はそれ程多くはなかった。招待に応じて参加した国も殆どが韓国海軍の要請に従わなかった。そのような事実について韓国海軍はどのように感じているのであろうか。観艦式の様子は知らないが、中には半旗を掲げた国があったと聞くから驚く。半旗が何を意味するかはある程度の小児でも分かることだ。それ故、意味なく半旗にする国や人などいないはずだ。韓国海軍にとっては面目もへったくれもなかったであろう。また露西亜は選りにも選ってメインマストに軍艦旗を掲げたそうであるから、これも驚く。余程の者ででも無い限り、メインポストに軍艦旗を掲げる意味を知らない水兵がいるとも思えない。その意図あるいは本心が知りたいものだ。有体にいえば、韓国海軍は参加国にいわばコケにされたのではないか。

 以前、韓国は同盟国である米国の原子力潜水艦の釜山入港を拒否したことがある。韓国には多くの日本人が居住している。いざ事が起きた場合、現状では自衛艦による救助はできまい。海軍が嫌味に李舜臣の旗らしいものを掲げて得意がっている国となっているのだ。旭日旗に興奮する韓国人が増えれば、自衛艦の寄港も難しくなろう。観艦式に参加した米国の原子力空母でさえ円滑に寄港できなかったのだ。

 国家の尊厳的部分はその制度の有り様によってそれに投ずる国費では報いることができないほどの効果を発揮する。とりわけ政治的合理主義者が税金の無駄遣いであるかのように評するこんにちの王制にはそれが確認される。わが国の天皇制も例外ではない。非合理の故に国家に大いなる貢献をするのだ。

 今年5月、イギリスの王室に結婚式があった。ヘンリ-王子とメ-ガン・マ-クルという米国人の女優とが挙式したのだ。その費用として49億円ほどかけられたらしい。これを無駄と評した者も少なからず存在した。しかし、多くの報道が二人の挙式に依ってイギリスには760億円の経済効果が予想されると報じた。この効果は上記の評者によって余り注目されない。経済効果だけでなく世界の多くの国がそれを報道し、事を一点に集中させる王室の重みに伴うイギリスの歴史伝統と政治の統合等を示す国威発揚、俗っぽい表現でいえば、イギリスの国益には数字に表わせないほどのものがあった。首相の子息の婚姻では同じ効果を発揮できまい。ベッカムの挙式でもそうだろう。他のいかなる存在がそのような効用を発揮し得たろうか。

わが国でも浩宮皇太子(徳仁親王)と雅子妃の結婚(平成5年)に際して3億5千万ほどの国費がかけられた。しかし、当時は国内総生産(約480兆円)の0・1%(4800億円)-0・2%(9600億円)が押し上げられると予想されていた。その婚儀は国内で非常に高いテレビの視聴率を示した。婚姻に先立つ放送も尋常ではなかった。多くの国民がそれを悦びとし寿ぎ注目したのだ。アメリカのCNNは婚儀の当日の午前10時から世界の200カ国に衛星で中継したと聞く。その他に特別番組も組まれたらしい。平成13年の愛子内親王の誕生に際しても国内総生産(約497兆円)を0・1%-0・2%押し上げるという試算があった。誕生しただけでの経済効果だ。また平成18年、秋篠宮家の悠仁親王の誕生に際しては1500億円の経済効果がいわれた。もとより、わが皇室はその他の面でも国威を発揚し国益に貢献している。
 共和制の元首と異なる国王の国家貢献の分かり易い例がある。それをブ-タン
王室の例で述べる。
 2011
年の秋大国ドイツの大統領とブ-タンの国王とが一月違いでほぼ同じ期間来日したことがあった。その際、テレビは来日前からブ-タン国王夫妻の報道を続け滞在期間は朝から夜まで連日放送を続けた。また新聞や雑誌でも旋風が起きていた。当時幼稚園に通っていた筆者の孫たちもワンチュク国王夫妻のことを知った風に話題にしていた。しかし、ドイツの大統領のことは報道も極少で、多くの者が全くと言ってよいほど知らなかった。ドイツの大統領について大学生たちでさえ訪日を知らず、中にはドイツに大統領がいることさえ知らない者がいた。正確な推測ではないが、ブ-タン国王の訪日はブ-タン国が国家を宣伝あるいは国威を示すためにわが国のテレビやラジオ、新聞や雑誌等に国費を投じた場合賄い切れたか分からないほどの効果を上げたのではなかろうか。

ブ-タンの国王が世襲という政治的に非合理な方法で即位する存在であるのに対して、ドイツ大統領は直接民主制によって選ばれた存在ではないものの、遠回しの民主制によって誕生する存在であり、政治的に合理的な方法で選ばれる存在である。しかし、人々は政治に常に合理性を求め続け、全く無駄の無い政治を喜びとするとは限らない。国王は非合理な存在であったからこそ人々を動かしたのだ。ブ-タンが共和制化し、大統領夫妻として訪日したとしたら、それ程注目されなかったであろう。来年予想される習近平主席の訪日にワンチュク国王やかつて来日したエリザベス女王あるいはチャ-ルス・ダイアナ夫妻のときのような反応はわが国民の中に予想されまい。

ウォルタ-・バショットは「下層階級は実用的なものに全心を打ち込むものと思ふのは真実ではない。むしろ逆に彼等は実用といふやうな貧寒なものはてんで好かないのである。」と述べたが、「実用的なもの」で満足しないのは下層階級に限らない。その他の者も「実用的なもの」以外のものにしばしば無上の喜びを覚えるのだ。不合理を嫌いすべてに合理を求め冷めた心で政治に期待する唯物的な者もいないではないが、「日常生活上の関心よりも更に高く深く広い関心によって人心を昂揚」させるものが実用的で無駄の無いものばかりとは限らないのだ。飾っても飾らなくても合理的な生活に関わりが無い花を床の間あるいは玄関に飾るように、国政の分野でも一見無駄に覚える非合理に人々はしばしば動かされるのだ。

否、国政に限らず、たとえば日常でも、自分の健康とは関係なく、勝っても負けても自分の生活とは関わりなく腹の足しにもならないにも拘わらず、手の届かない高度な技術を駆使するプロの世界の高給取りで別世界の者たちからなるわが国の侍ジャパンが他国に勝利したり、あるいは西野ジャパンがロシア大会で勝利したりすれば、人々はわがことのように小躍りするし、実際に小躍りした。人々は自己にかかわる合理にのみ生きているわけでは決してないのだ。

災害に際して政治家は救済のための政策のお土産をもって見舞いをする。人々はその政策の良し悪しで感謝したり落胆したりする。国政権能を持たない天皇には救済のための政策のお土産はない。現実の陛下は世襲のものにしばしば生まれる人々の畏敬の衣を纏い歴史と伝統の重みを身に着けて象徴として国家を表象しながら被災者の心を親らの心とし同情の心をもって見舞われるのである。政策のお土産が無いにもかかわらず、見舞われた人の中に涙する人がいるのは何故であろうか。

王室あるいはわが皇室も人々の日常とは無関係な世界である。ところが、その国政における効用には色々な面で非常なものがあるのだ。王あるいは天皇に象徴される国の歴史伝統の重みによる国民のまとまりにはアメリカやロシアのように国の頂点に立つ者の政策の良さによらなければまとまりがなくなり、政策が不味ければ分裂し易い国家には無いものがあるのだ。それも、理屈抜きに「君臨すれども統治せず」という近代君主制の要諦を西欧に先んじて古くから実践して来たわが天皇制の歴史と現実には世界に誇り得るものがあると思う。

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