masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

高市総務大臣を疑う、放送法64条の問題

高市早苗総務大臣が、「携帯の受信機も義務の対象と考えている」と述べたそうである(時事通信 92()1151分配信)。通信の自由等をも間接規制しようというわけである。弱者や貧者のワン・セグ機能付き電話の入手(含贈与入手)・使用すなわち財産権を間接規制しようというわけである。

この権力者は、日本国憲法を無視して、国家は目的が良ければ、立法その他の権力を行使できると考えているのであろう。

日本国憲法は、不可侵永久の基本的人権について「与へられる」とか「信託される」と定めて(憲法11条、97条)、天賦のものであることを示し、それに対する「最大の尊重」を定めて、その規制が「最小」でなければならないことを明らかにしている(憲法13条)。生命、自由および幸福追求は、人々が自ら行うものであって、国(含地方公共団体)は、その行使が衝突等しないように(すなわち憲法13条の「公共の福祉」(すなわち危険の防止)のために)、それも最小の権力を行使することができるに過ぎないのである(近代立憲主義)。ただこの状態は、自由があり過ぎ、弱肉強食的になり、貧富強弱の格差が生じたことから、20世紀後半の憲法は、弱者を救済するために、強者の経済的自由権を制限するための権力の行使は認めた(憲法22条、29条、25-28条)(現代的立憲主義)。そのことを最高裁は、

そもそも、人類の歴史において、立憲主義の発達当時に行われた政治思想は、できる限り個人の意思を尊重し、国家をして能う限り個人意思の自由に対し余計な干渉を行わしめまいとすることであつた。すなわち、最も少く政治する政府は、最良の政府であるとする思想である。そこで、諸国で制定された憲法の中には、多かれ少かれ個人の自由権的基本人権の保障が定められた。かくて、国民の経済活動は、放任主義の下に活発に自由競争を盛ならしめ、著しい経済的発展を遂げたのである。ところが、その結果は貧富の懸隔を甚しくし、少数の富者と多数の貧者を生ぜしめ、現代の社会的不公正を引き起すに至つた。そこで、かかる社会の現状は、国家をして他面において積極的に諸種の政策を実行せしめる必要を痛感せしめ、ここに現代国家は、制度として新な積極的干与を試みざるを得ざることになつた。これがいわゆる社会的施設および社会的立法である。」と述べた(昭和23929日最大判刑集2101235頁)。(下線は筆者)

と確認している。尤も、日本国憲法29条が、財産権について、より広く、正当な補償を条件に公共のための使用を認めているから、その意味で公共の福祉のための政策的な規制も可能であるが。しかしこれは、公用のための国営放送には成立する可能性があるとしても(日本国憲法では不可能)、国の機関ではないNHKのように私権をも行使する法人のための規定ではない。因みに、受信料の制度は、受信料を負担できない弱者や貧者を差別し、基本的人権その他の基本権を奪うものであるから、社会的法治国原理に基づく制度ではない。

 日本国憲法下、国の権力の行使は、上記に限られているのだ。その国は、権力を行使する場合以外(すなわち非権力行為の場合)は、それ自体その他のものと対等である。また、国は、その他のもの相互間を平等に扱わなければならないのだ(憲法14条)。

高市大臣は、権力行為と非権力行為とを識別できているのであろうか。日本国憲法の公共の福祉を理解しているのであろうか。日本国憲法の平等を理解しているのであろうか。日本国憲法の基本的人権その他の基本権を理解しているのであろうか。彼女であれば、公共の福祉を理由として、義務教育以外の教育事業やかつて存した国鉄のような交通・運輸事業や郵便事業等のサ-ビス事業のためにも権力を行使して何らかの負担を課すのであろうか。非権力行為においは、国もその他のものと対等なのにだ。況してや、その国は、他のもの相互間を平等に扱わなければならないから、一方を他に優位させることもできないのだ。 

 最高裁は、選挙権やいわゆる社会権については基本的人権としていないものの、財産権でさえ基本的人権と述べているのだ(昭和251115日最大判・刑集4112257頁)。である以上、その最高裁に一貫性が(ないが、もし)あれば、財産権でさえ、公用のための最小の規制でなければならないはずだ。況してや、国の機関ではないNHKは、報道の自由を駆使し、時に虚報によってさえ国を悪者扱いする等の思想・言論の自由という私権を行使しているから、必ずしも公共の福祉を実現しているわけでもないのだ(因みに、最高裁が認めているのは、事実報道の自由)。国が自らできないことについて、権力で差別を設けることはできないのだ。

国は、取り分け19条、20条、21条および23条の真の基本的人権の規制については徒な規制はできないのだ(憲法13条、12条)。況してや、国の機関でもない特定の事業を維持するためという理由で知る権利や契約の自由といった基本的人権やその他の基本権を制限してはならないのだ。高市大臣には、日本国憲法11条や97条の基本的人権と同13条の生命、自由および幸福追求の権利並びに日本国憲法が不可侵永久としている各条の基本的人権等に関して理解があるのか、疑問無しとしない。

 ついでに、立法府の議員でもある高市大臣には、放送法64条に何の疑問もないようであるから、日本国憲法における形式的立法の原則と例外について問うてみたい。その際、国の機関でもないNHKの受信規約が官報に掲載される意味も問うてみたい。また、日本国憲法の実質的意味の立法の原則と例外についても確認したいものだ。もしかしたら、高市大臣は、日本銀行法などを実質的にも法律と解しているのではないか。放送法にNHKに関する規定を設け得る憲法的意味を理解しているのであろうか。法律で規定できるその範囲については、ぜひ確認したいものだ。

もしかしたら、高市大臣は、わが国をして形式的法治国と解しているのではないか。否もしかしたら、社会主義国家のように「人民のためであれば」、あらゆる法律を可能と解しているのではないか。尤もらしい名目で、弱者や貧者に対して実質上視聴するための受像機の入手を(したがって、貰うことをも)禁じようとしているのだ。況してや、弱者や貧者が、ワンセグ付きの携帯をもつことなど言語道断というのであろう。そしてもしかしたら、次は、カ-ナビだ。さらには、PC。そしてまた、受像機付き時計あるいは玩具等も。

恥さらしのみっともない日本国憲法18

 立派な家庭のトイレには、「用を済ませたら、手を洗おう。」などという掲示はない。用を済ませて手を洗わない者などいないからだ。そのような掲示がなされていたら、住人は、恥ずかしく、みっともないと思うであろう。

 普通の家庭であれば、「朝起きたら、顔を洗おう。」という決まりはない。起床後顔を洗わない者などいないからだ。そのような決まりができたら、家族は、恥ずかしく、みっともないと思うであろう。

 ところで、わが現行憲法18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る場合を除いては、その意に反する苦役に服せられない。」とある。その条文は、わが国にかつて奴隷制があったし、将来もまた、有する可能性があるという前提で規定されているのだ。

外国語については、承知しないが、「奴隷的拘束」の部分について、英文憲法の規定は、No person shall be held in bondage of any kind“となっている。その英文にある“bondage“を研究社の「英和辞典」で見れば、「農奴の境遇、賤役、奴隷の身分、(行動の自由の)束縛、屈従、(情欲、麻薬などの)奴隷の身分」となっている。そして、“in bondageto“について、「にとらわれて」とか「奴隷となって」と説明されている。日本国憲法18条の英文と和文との間に差異があるか否かは承知しないが、日本語の「奴隷的拘束」ということばは、他ならぬGHQの影響によって生まれたものである。独立後のわが国は、最早、英文憲法に左右される必要はないが、それにしても、「奴隷的拘束」という飛んでもないことばが、歴然と日本国憲法に現存している。

 戦時中、ル-ズベルトは、「文明国」たる米国でさえ「暴力及び強欲」によりインディアンの地を「略取」したからか(「カイロ宣言」の用語から)、「野蛮国」であるわが国も「暴力及び強欲」により「略取」した領土があると考えたのであろうか。その結果、わが国について正当な戦争に伴うわが国域、併合条約によるわが国域、統治を委任されたわが国域等の「地域から駆逐」を考え、また「文明国」たる米国でさえ有した奴隷を「野蛮国」であるわが国も有するはずと考えたのか、強引に「朝鮮の人民」をして「奴隷状態」にあると看做し、いわば奴隷の存在を認めた(「カイロ宣言」)。そのようなル-ズベルトの姿勢を反映する姿勢があったか否かは不明であるが、ともあれ、米国を中心としてできたGHQは、わが国に奴隷でもいたかのように、日本国憲法に南北戦争の落し子(米憲修正13条)の写しである上記の規定を導入させた。その結果、そのような規定があることを意識していたか否かは承知しないが、わが国民の中にわが軍が「性奴隷」を設けていたという者が現れた。これらのことに影響されて、韓国民は、わが国が国費を投じて発展させた併合期を奴隷状態の時期と考えるようになり、またわが軍が安全と衛生等を守った慰安婦について「性奴隷」化なることばで難じるようになった。そのことを象徴する如く、韓国国民を代表して、朴槿恵韓国大統領は、「千年の恨み」を公言した。
 しかし、わが国史は、長きにわたってわが国に奴隷など存在しなかったことを示している。以前に存した娼妓は奴隷ではなかったが、その娼妓もマリア・ルス号事件を契機に解放された。わが国に真に奴隷制度が存在したとすれば、マリア・ルス号事件などもあり得なかった。奴隷制度を有しなかったからこそ、副島種臣も、臆することなく「奴隷運搬船」の行為を封ずることができたのだ。そのような史実を持つわが国に上記の規定など要らないのだ。 
ところが、日本国民は、わが国に奴隷制度があったと考えているのか、日本国憲法18条を廃止する声は小さい。わが政府も、恰もかつて奴隷がいたかのように、「奴隷であった国」に高額の金銭や技術等を供与し、最近また、いわゆる性奴隷に関連して10億円も支払った。
 日本国憲法18条は奴隷制を有した米国における南北戦争の落し子の系譜であり、米国史における恥じ晒しの起請文たる憲法規定(米憲修正13条)の写しである。憲法にこのような規定があること自体、みっともないのだ。往古、「みっともない」とは、見たくもないことを意味した。
 憲法改正の意見や自主憲法制定の意見にこの恥さらしのみっともない規定について、なぜその不要を強調する声が弱いのだろうか。

「天皇陛下のお気持ち表明」に思う

 平成2888日の天皇のお気持ちを拝聴し考えさせられていた。

 天皇を戴く制度(以下、天皇制という。)が歴史的にどのようなものであったかは知らない。しかし、日本国憲法の天皇制については、かなりとは言わないが、自分なりに少しは承知している積りでいた。尤も、その理解が正しいかについては、自信はない。

 日本国憲法の天皇制については、歴史的な天皇とは異なり、その憲法が新たに創設したものと説く者がいた。天皇の戦争責任を説き、後に最高裁長官にもなった国際法学者横田喜三郎法博がそうである。しかし、昭和天皇が退位した事実はないし、日本国憲法の下で即位した事実もなかった。それどころか、ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印し、日本国憲法を公布したのは昭和天皇に他ならなかった。歴史的天皇が存在しなくなった事実はなく、新しい「天皇制」が創られたわけではないのである。

 昭和天皇の時代、憲法は変わった。その間の二つの憲法における天皇の実質に差異はないと思うが、形式的憲法上は、元首とされ国政権能を持った天皇が象徴とされ国政権能を持たない天皇へと規定の仕方が変わった(帝憲4条、憲4条、1条)。

 国王は国の象徴である(井上毅。井上は国王の属性シンボルを肖像と述べている。)が、国王に相当する天皇は歴史的に国を象徴する存在であり、したがって、大日本帝国憲法上の天皇も象徴であった。元首の意味については人によって差異はある。しかし、形式的憲法上国を象徴する独任の存在は元首であり、日本国憲法上の天皇も間違いなく元首である。

 大日本帝国憲法の天皇には、形式的憲法上、諸種権能が認められた。しかし、立法権は協賛機関である帝国議会が(帝憲5条、37条)、行政権は輔弼機関である国務各大臣(実際には、内閣)が(同55条)、そして司法権は天皇は名ばかりで裁判所が(同57条)行使した。その際、天皇には拒否権はなかったのだ。それ故、その実、国政権能を持たない日本国憲法上の天皇と変わりはなかったのだ。

 大日本帝国憲法期、内閣が機能しなくなったとき、天皇は国政権能を行使した。規定こそないが、これは日本国憲法も予定しているものと思う。たとえば、226事件の如きことが起きて内閣が消滅したとき、国は機能し得ず、滅亡を余儀なくされる。しかし、およそ憲法が国の滅亡を予定しているはずはない。それ故そのような場合、日本国憲法は通常であれば内閣の助言と承認(憲法3条、7条)を求めていても、国が衰滅しないようにその助言と承認がなくても最小限の権能、すなわち国会の召集権を天皇に認めていると思うのだ。国務大臣の任免の認証には、内閣の助言と承認が必要とされている(憲法7条)が、たとえば、野田政権が総辞職して安倍内閣が誕生するに際しての国務大臣の任命の認証にも内閣の助言と承認は(憲法の規定にも拘わらず、不可能故)無いのだ。それどころではない重大事に、日本国憲法が明文通りを要求しているとは思わない。そのような欠点を補充するための立憲天皇制なのだ。

 ところで、皇族摂政制が確立された大日本帝国憲法期以降は、それ以前の歴史的天皇と異なり、天皇の退位や譲位の制度は憲法上あり得ぬものと思っていた。皇族摂政制に伴い、天皇の行為を事実上国政権能を行使しないその一族内に留めることによって、それが皇族外摂政の場合に実質的に権力の行使となり勝ちな俗事化を防ぎ、国政権能を持たない天皇の行為の性格を維持したものと思ったのだ。また、皇位継承は天皇の崩御に限られると思っていた(旧典範10条、典範4条)。これが実質的憲法であり、皇位の継承は法事象そのものではあっても、法律行為と思っていなかったのだ。

 わが近代憲法下の皇位は即きたくて即くものではなく、辞したくて辞し得るものではないと解していた。天皇の崩御はすなわち皇太子の即位そのものを意味するものと解していた。皇位の世襲とはそのようなもので、天皇によって象徴される国の断絶を意味する皇位の断絶は瞬時にもあり得ないはずだ。それが憲法・行政法の泰斗美濃部達吉故法博の見解でもある。したがって、皇位に退位あるいは譲位の自由もまた即位の自由もないと解し、それを認めることを違憲と解していたのだ。天皇も人間であり、その尊厳・自由意思は尊重されるべきという見解はいかにも尤もらしい。しかし、同様のことは天皇に限らず、皇位継承資格者にもいわれるはずである。そこでその尊厳・意思を尊重して自由を認めれば、即位の拒否もあり得、天皇制の維持は危うくなる。法の下の平等の具現として国民平等の基準となり、国民から等距離に立つ天皇の地位は常人の世界のものではないのだ。その地位は自由に馴染んだ常人では維持が困難で、歴史的に宿命を受け入れた天皇および皇族であればこそ、公平・平穏・安泰に保持できる地位であると思うのだ。退位や譲位の意思を受け入れる制度では、当然に即位を拒否する自由をも予定しなければなるまい。天皇が即位後程なく退位や譲位を希望した場合、皇位が不安定化するからだ。事前にそのような事態を予防するのだ。繰り返すが、そのようにすれば、歴史上存えて来た世界に稀有の万世一系の制度の維持は難しくなる。況してや、男子の皇族が少ないこんにち即位の拒否を認めれば、その制度の維持は一層難しくなる。それも、退位や譲位後、否それら以前にも、数少ない皇位継承者に不可予測のことが生じないとも限らないのだ。

 今上陛下の真摯な姿勢、責任感の強さ、現実のご体調、ご心労等は理解できる。それ故、そのお気持ちに応えたい思いは強い。ただ、天皇が未成年あるいは天皇の深刻なご不例に直面して摂政が天皇の行為を営んだからといって、その行為の価値が下がるわけでもあるまい。他方で摂政を通じた天皇に対する国民の尊崇も失われることもあるまい。そのような事態への憲法体制は整っており、ご高齢になり、天皇が一見いわば無為に過ごされても、天皇の国民への想いも理解されると思うのだ。退位あるいは譲位や即位に行為者の意思が働くとすれば、その機に良からぬ民意が介入する可能性も高まる。その結果、事が政治化し、天皇制の不安定化に繋がらないか不安がある。

今、今上陛下の率直なお気持ちのご表明によって国民の気持ちは揺らいでいる。今上陛下の真面目さや正直さや真剣さが生じさせた国民の動揺である。実質的な近代のわが国の憲法は天皇陛下ご自身の行為がそのような国民の状態を生じさせることを予定していなかったと思うが。しかし現況に直面して、独立後完全に政治の主体となったわれわれ国民は、色々な事態に備えなかった無為を省み、世界に誇り得るあるべき天皇制を真剣に考究しなければならない。

 

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