masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

2016年01月

「陛下の訪比」報道と象徴の営み

 

 テレビは知らないが、購読している新聞の天皇皇后両陛下のご訪比報道は大して多くはない。それ故、当地での両陛下に対する国民の反応については承知しない。

共に万全とはいえないお体で、しかもご高齢の両陛下が厳寒のわが国から高温多湿と聞く比国を訪ねられたことにご公務とはいえそのご負担を思うとある種の痛ましさを禁じ得ない。これも、わが国およびわが国民統合の象徴としての天皇という立場に伴う、否生来の責任感のなさせるところであろう。このことに関連して晩餐会におけるアキノ大統領には、「私が大統領の座に就く際には、任期中に限っては自身を犠牲にしなければならないということを十分承知して引き受けました。その私が両陛下にお会いして実感し、畏敬の念を抱いたのは、両陛下は生まれながらにしてこうした重荷を担い、両国の歴史に影を落とした時期に他者が下した決断の重みを背負ってこられねばならなかったということです。」ということばがあった。

 思えば、先帝陛下の朝見の勅語には「人心惟れ同じく民風惟れ和し、汎く一視同仁の化を宣べ、永く四海同胞の誼を敦くせんこと、是れ朕が軫念最も切なる所」とあった。「和」をもってわが国民の心とした先帝陛下には、いわゆる支那問題に際しても、中国の主権に配意される姿勢があった。ロンドン軍縮会議問題では、必ずしも軍部の勢いに流されなかった。国際連盟脱退に際しては、国際協調主義が損なわれることに心を痛められた。日米開戦を直前にしても、東條内閣に対して内外の情勢に慎重な考察を求められた。東條首相が政府と統帥部に国策の再検討を行わせたのも、国際融和を主義とした陛下の意向を汲んでのことであった。しかしながら、わが国では、官の中でも軍の中でも新聞知識人も取り分けヒットラ-の活動に欧州の新秩序を確信するものが勢いを占めた。そのような中で、陛下のご意向と異なる決定の報告に際して東條が涙したのは陛下のご真意を察した申し訳無さからであった。当時の民意を反映したその決定は陛下の「志」に反して開戦を已む無きものとさせ、わが国をして敗戦の憂き目へと向かわせた。敗戦に際して、陛下は「終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表」され、また「臣民にして、戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れた者、及び其の遺族に想いを致せば、五内為に裂く」と宣べて陳謝された。

 今上陛下は先帝陛下の意を体してか、ご即位以来親善融和の旅を重ねられた。そしてまた、アキノ大統領のことばを藉りれば、日本の「あまねく平和を実現する敬愛の」「象徴として、善意を体現する存在として」その親善歴訪の旅に一頁を加えられたのである。

 世界最古の皇室を奢ることなく、再三、アキノ大統領のことばを藉りれば、両陛下は「飾り気のなさ、ご誠実さ、そして優美さ」をもって感銘を与え、「責務や義務を果たされ、多大な犠牲を払われて」「誰も」をも「驚嘆」させながら、両陛下の「そのすべて」が「さまざまな関係を立てなおしてさらによいものにしていきたいという、ご生涯をかけた献身の一環を成」しているのだ。

 国民の喜びとなることから、名にし負う「仁」者無敵の振る舞いにてわが国の評価を高められる公にされ得る象徴の動向を伝える報道はもっと無いものか。

放縦不羈?の裁判官(法のことばを宣べる口)

 

平成28121日最判は、「テレビジョン放送がされた番組の内容が人の社会評価を低下させるか否かについては、一般の視聴者の普通の注意と視聴の仕方とを基準として判断すべきである」としながら、問題のNHKの番組について、「一般の視聴者が,被上告人(原告・台湾人)の父親が動物園の動物と同じように扱われるべき者であり,その娘である被上告人自身も同様に扱われるべき者であると受け止めるとは考え難く,したがって本件番組の放送により被上告人の社会的評価が低下するとはいえない。」から、名誉を毀損しないとした(()及び下線は、筆者註)。

偶々外国での講演中とて、問題の番組(Japanデビュ-)を見ておらず、したがって、この事件の事実関係については、詳しく承知しないが、ネットテレビで見た被上告人側の主張と上記最判のそれとの間には、かなりの懸隔を感じ、全ての裁判官を評するわけではないが、筆者は、この事件やその他の事件で、近年一部の裁判官に真摯さを欠く放縦不羈の姿勢を感じるようになっている。憲法が裁判官に対して良心に従った独立した職権の行使を保障していることをよいことにして(憲76条)、客観的良心ではなく主観的良心に基く恣意的な見解で判断をしている気がするのだ。

問題の番組については、日台戦争とか人間動物園とか台湾の漢民族とか等一般には馴染みの無いことばや見解に基づく放送がなされたことは、帰国後耳にした。その放送に対する上告人NHKに取材されたパイワン族の人々の怒りは、ネットで見た。しかし、そのネットや弁護人の発言で確認されるが、彼らの怒りにも被上告人の主張にも、「被上告人の父親が動物園の動物と同じように扱われるべき者」と「受け止められる」よう放送されているとか、「被上告人自身も同様に扱われるべき者」と「受けとめられる」ように放送されているということが問題とされているようではなかった。にも拘わらず、最高裁は、上記のような判断をしているのである。裁判官たちは、当事者の主張について公平な審判官として振る舞う姿勢を有しているのではなく、正しく憲法76条の舞文弄法、専横的な判定でさえ何ものにも拘束されないという振る舞いをしているのである。それ故、上記最判は、争点などどこ吹く風、勝手な見解を表明しているだけで、そこには、被上告人を含むパイワン族の人々が有した自分たちのことが名高い「NHK」にインタビュ-され報道されることの喜びと誇り、放送を通じて日本人に伝えられるかつての日本統治時代への郷愁や愛着とか、依然として存続している日本人への親近感や連帯感とか等を表明できる昂揚感、インタビュ-に際して存したNHKに抱いた信頼感や期待感等が問題のNHKの放送によって裏切られ、彼らの自尊心や人格価値を蔑ろにされた想いに対する配慮は全くなかった。それどころか、上記最判は、彼らが主張もしていないことを根拠にして「社会的評価」は低下していないと結論付けて、平然としているのである。

 このような真摯さを欠く姿勢は、下級裁にも確認される。たとえば、受信料訴訟における下級裁には、受信契約や受信料を定める放送法64条は、NHKを見ることを強制していないから、「知る権利」を侵していないとして屁とも思わないような考え方が確認されるのである。固よりここで「知る権利」とは、誰でもが近づくことができる情報源に妨げられることなく「知る権利」を意味する。そのような訴訟で「知る権利」の問題は、放送法64条が他の情報源に自由に近付くことを妨げているか否かをも当然に内容としている。その場合誰もが、放送法64条が無ければ、自由に民放等のテレビ放送を見ることができることくらい理解できる。しかし現実には、放送法64条が存することから、テレビを設置しても、NHKと受信契約をしない限り、他のテレビ放送を自由に見ることはできないのである。その規定が、他のテレビ放送への接近を妨げているのである。にも拘わらず、その規定をNHKを見ることを強制していないから、「知る権利」を侵していないとする姿勢は、木を見て森を見ないにも等しい論法である。そのように説く下級裁は、ある大学講師が、NHKとの受信契約を解くために、テレビの設置を断念し、他のテレビ放送を自己の受信機で見ることができなくなった事実については、どう答えるのであろうか。「知る権利」とは、時、所および方法を自由に選んで一般的に近付くことができる情報源に接し得る権利なのだ。またそのような下級裁は、ならば、強制されず見もしない私益をも追求するNHKに何故受信料を支払わなければならないか、説得力ある説明ができるのか。見もしないNHKのために受信料をとる制度は、押し売りにも等しく、「見ること」を強制しているのと実質同じなのだ。況してや、繰り返すが、NHKは、上記事件に顕現している如く、公共の福祉の実現とは両立しない「自己の」世界観、思想、主張あるいは解釈を報道の自由等の名において享受している法人なのだ。最高裁も確認している如く、弱者救済のためを除けば、「最も少なく政治する政府は、最良の政府」という近代立憲主義を基本原理としているわが国には、国のサ-ビスを一部教育を除いて強制することなどできず、必ずしも公共の福祉を実現するものとは限らない、特にNHKの私益のために他の者の権益を侵す立法を認める憲法規定など存在しないはずなのだ。にも拘わらず、上記下級裁の如きは、憲法を無視して立法の侍女として平然としているのだ。

 ともあれ、一部とはいえ、法的正義の法服を纏った裁判官たちが、その職務の性格や法文の分析に真摯さを欠き、我こそが「法のことばを宣べる口」として君臨している現況に憂慮している者は、少なくないのではないか。

基本的人権と「自由及び権利」

 

 日本国憲法制定の審議に際して、金森国務大臣は、基本的人権を「世界的に確立されて居る言葉」「人間として当然に持つもの」と説明しながら、それでいて、それを日本国憲法12条の「自由及び権利」と同意のものと解した。ところが、日本国憲法は、基本的人権を不可侵永久のものと規定しても、「自由及び権利」を不可侵永久のものとして規定していない。実際、たとえば、日本国憲法のいわゆる参政権は、「人間として当然に持つもの」ではなく、「国民として有するもの」であって、外国人に与える必要はないし、政治的判断力のない幼児に認める必要もない権利である。それ故、最高裁は、選挙権に関しては、基本的人権と説くことなく、それを基本的権利と解している。

その最高裁は、基本的人権とは何かについて精査してはいない。それ故、たとえば、職業選択の自由や財産権や迅速な裁判を受ける権利を基本的人権と解している。しかし、不可侵永久とされた基本的人権と異なり、職業選択の自由や財産権については、金森大臣がいう「特殊なる理由に依って」公共の福祉に留保されている。それ故、これらの自由については、必要且つ合理的な理由で規制しても、違憲となることはなく、たとえば、医学の知識の無い者に医業を認める必要もなく、外国人に弁護士資格を認めなければならないわけでもない。また、日本国憲法は、迅速な裁判を受ける権利については被告人の権利であることを明示に規定し、刑事手続に立たされていない者とは無関係なことを明らかにしている。最高裁の上記の解釈は、日本国憲法が基本的人権を「侵すことができない永久の権利」と規定し、それをより具体的に後述する意味の公共の福祉のための「最小」の規制しかできない「生命、自由及び幸福追求」権と定め、個々の基本的人権規定で何等の留保もしていないことなど全く無視する姿勢から生まれたものである。

日本国憲法制定の審議に際して金森国務大臣がその草案を説明するに際しては、日本国憲法の制定についてGHQが影響を与えたことを明らかにしてはならないとしたそのGHQの規制が存したことから、はっきりと物を言えない苦悩があった。同様の姿勢は、少なくとも独立するまでのわが最高裁にも間違いなく存した。独立するまでの日本国憲法は、必ずしも最高規範ではなく、したがって、国会は国権の最高機関ではなく、最高裁判所も必ずしも「最高」裁判所ではなかったのだ。

しかし、昭和27年にわが国は独立したから、国会も内閣も最高裁判所も、独自性を示してよい筈であった。それでも、それらは被占領期の柵を脱却しなかった。それらのいずれも、基本的に被占領期の姿勢を継続しているのだ。それ故、「世界的に確立されて居る言葉」である基本的人権について、改めて精査する姿勢を怠っているのである。わが国の能吏が地位を占めているであろう国会も内閣も最高裁も、たとえば、フランスの革命後の宣言が「人権及び市民権の宣言」として「人権」と「市民権」とを二つして並べていることを承知しているだろうにも拘わらず、である。ドイツ連邦共和国基本法が、広義の基本権の中に人の不可侵の「人権」とドイツ人のための(狭義の)「基本権」とがあることを区別して規定していることを識知しているだろうにも拘わらず、である。およそ「世界的に確立されて居る言葉」としての基本的人権あるいは人権は、この問題に精通した故田上穣治法博が述べている如く、人類各個人に普遍的に認められ、自然法的な根拠を持ち、他人に受忍の義務を課すこともないものをいうのである。したがって、基本的人権とは、「自由及び権利」の中の「自由」に属するものである。論ずるまでもないが、選挙権者だけが有する投票の自由は、自然法上のものではなく、実定法上の権利であるから、上記の自由に属するが、基本的人権ではない。

日本国憲法は、そのような基本的人権として、ロックやジェファ-ソンの思想を継受して概括的にその13条で「生命、自由及び幸福追求」権と定め、また具体的には、18条で奴隷的拘束等からの自由、19条で思想・良心の自由、同20条で信教の自由、21条で集会・結社・表現等の自由および23条で学問の自由を例示的に規定している。ここで例示的と述べたのは、たとえば、すべての個々の基本的人権その他の基本権は、一般的に近付くことができる情報源から妨げられることなく「知る権利」が保障されておらず、またそれらを実現する手段としての「契約の自由」が保障されていなければ画餅に帰すから、基本的人権としての「知る権利」や「契約の自由」も、日本国憲法が暗黙に当然に保障するところだからである。その基本的人権については、日本国憲法13条は、必要で「最小」の規制がなされるに過ぎないことを明示に規定している。個人の尊厳が強調されている日本国憲法の下では、基本的人権の保全は先ずは個々人がなすところであって、国が余計な干渉をしてはならないというわけである。国は、その基本的人権が濫用されたり衝突したりして危機に瀕した場合にのみ、その基本的人権を保全するために基本的人権の規制をできるに過ぎないというわけである。もちろん、その場合、基本的人権を保全すべき国家が危殆に瀕しては、基本的人権もまた損なわれてしまうから、国に対する危険も、除去されなければならない。要するに、日本国憲法13条の基本的人権を規制する公共の福祉とは、あらゆる種類の危険の防止、より具体的には国家公共の秩序(間接的危険の防止)と安全(直接的な危険の防止)を維持することを意味し、これを換言すれば、基本的人権は、危険を防止するために必要且つ最小の規制以外に規制できないのである。

 因みに、放送法64条は、NHKと受信契約をしNHKに受信料を支払わない限り、自己のテレビで時、所及び方法あるいは態様を自由に選んで他のテレビ放送を見てはならないと規定しているに等しく、それは、国家公共の秩序および安全の維持を意味する日本国憲法13条の公共の福祉と無関係であり、国民等の「知る権利」や「契約の自由」を侵害する規定であるから、違憲となる。

NHKと公共の福祉


 NHKは、公共の福祉を実現するために設けられた法人である(放送15条)。その意味で普通の放送事業者あるいはその他の普通の法人等あるいは自然人とは異なる。普通の放送事業者等は、公共の福祉に適合する行為を営む限り、違法の問題を生じないが、NHKの場合、公共の福祉を実現しない限り、違法性の問題を生ずるのだ。その意味でNHKは、他の放送事業者が有するような報道の自由、編集の自由あるいは取材の自由を享受できない。それは、国あるいは地方公共団体が私的な利益を追求できないことに近似するのだ。
 国または地方公共団体は、不可侵の私有財産を一般的には公共の福祉に適合するように、また個別的には公共のために制限できるだけである(憲29条)。それ故、個人の財産を公共の福祉以外のために規制することはできないのだ。
 国または地方公共団体が国益または団体利益と無関係に、たとえば、国民または住民の負担(したがって、国民または住民の財産の規制)によって取得した財産を売却し、その売却収入をそれぞれ国自体または地方公共団体自体の(すなわちそれぞれの公務員の)遊興飲食に消費した場合、それは、公共の福祉に適合した行為では決してない。それは、あってはならない国または地方公共団体のいわば私益のために国民または住民の財産を侵害した行為になるのだ。一体、国民または住民の財産を規制することによって営まれる国または地方公共団体の行為は、常に公共の福祉を実現するものでなければならないのだ。
 同様に、公共の福祉を実現するために設立された放送事業者であるNHKの場合も、私益の追求は、放送法が認めるところではない。Japanデビュ-という番組における日台戦争という放送に象徴されるように、誰が見ても明らかに至極少数の見解を至極少数の見解と「断り」もなく披歴し、恰も歴史の真実でもあるかのように放送する姿勢は、公共の福祉を実現する行為であるどころか、公共の福祉に適合しない行為でもある(放送1条)。そのような放送姿勢には、政治的に公平であり、事実を枉げない放送を求める放送法4条に反し、普通の放送事業者であれば認められる報道の自由や編集の自由等を悪用した私的目的の追求が感得できる。
 国または地方公共団体は、公共の福祉のためにのみ国民または住民による財産の負担を求めることができるが、その国または地方公共団体が、他に公益事業を託する場合に、その受託者のために事業からの受益者に対して負担をさせ得るのは、その事業者が、公共の福祉を実現する場合に限られる。それも、受益者に自由な受益意思がある場合で、応益負担を鉄則とするのだ。否、公益事業の性格上、その負担は、他の同様の事業者に比して安価であることが望ましい。
 繰り返すが、日本国憲法の下では、国または地方公共団体は、公共の福祉の美名の下に、私益をも追求する事業者に対する負担を国民等に不本意に課すことはできないのである。私益の追求が、一見公共の福祉と合致するように見られる場合もあるが、両者は、識別されなければならない。私益の追求が皆のためになることは、確かに存在する。しかしそれは、結果論であって、私益の追求は、飽くまでも個人的なことであり、皆のためは、それに付随あるいは連動したものに過ぎない。価値観が多様に存する中で、自由で民主的な社会の公共の福祉は、民主制の論理に則った総和から導き出されるものなのだ。それ故にこそ、公共の福祉を実現すべきNHKの場合、報道にも編集にも取材にも、自由を有する他の報道メディアと異なる慎重さが求められるのである。そのことを反映して、人はしばしば、「NHK(の職員)が・・・」という噂をし合う。
 放送事業を国営とする場合も、その事業は権力行為ではないから、国は、その事業の負担を強制し得ない。わが国は、イギリスやドイツと憲法事情を異にするのだ。わが国には、日本国憲法29条の問題だけではなく、不可侵永久の基本的人権、より具体的には、最小の規制が認められるだけの「生命、自由及び幸福追求」権の問題があるからだ(憲13条)。

 

貧乏人は、テレビを見るな?

 

 わが国には、「貧乏人あるいは弱者は、テレビを見るな」といわんばかりの国策があるようだ。

 年金暮らしの貧しい老人や病人等が「なけなし」の金でテレビを買っても、NHKに受信料を払わないとテレビを見ることができない実情にあるからだ。消費税率の3%の上昇にさえ怯えた国民が多い中で、貧者にとって毎月の受信料が負担であることは、容易に想像できる。月3万円を食費に充てると述べていた主婦が、そのための900円の消費税増を嘆いていたのを記憶しているが、55千円足らずの国民年金受給者等の受信料支払いの痛手は、それ以上である。その者等がテレビを持っていれば、国は見るとも限らないNHKのために受信料の支払いをさせているのだ。ただでさえ、交際範囲が限られるようになる年金受給者あるいは病人は固より、特に貧者にとっては、テレビは数少ない楽しみの一つであるはずだ。そうでなくでも、時に政治や経済等の情報はもとより、文化、娯楽あるいはスポ-ツの情報等には接したいものである。そのような情報は、民放のテレビ等がふんだんに無料で提供してくれているのである。しかし、国は、NHKに受信料を支払わない限り、自分のテレビでそのような情報に接することができないようにしているのだ。それらの者は、誰でもが接することができる情報源から妨げられることなく「知る権利」が行使できないのだ。最高裁が、「知る権利」すなわち「知る自由」(最大判昭591212民集三八-一二-一三〇八)を認めているにも拘わらず、である。

 その最高裁は「意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由」(最大判58622民集37--七九三)とか、「情報等に接し、これを摂取する自由」を認めた(最大判平元・38民集四三-二-八九)ているのだ。「およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないもの」「民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要」としているのである(最大判58622民集37--七九三、傍線は筆者)。一体、「知る権利」すなわち「知る自由」は、民主主義社会とは無関係にも、「生命、自由及び幸福追求」のために必要なのだ。

 放送法64条は、そのような国民の「知る権利」あるいは「知る自由」をNHKを維持運営するために規制しているのだ。日本国憲法がサ-ビスの強制については、一部教育を例外として(憲26条)禁じているにも拘わらず、である(同13条)。日本国憲法が、弱者救済という社会国家原理を導入しながらも(同25-28条)、「最も少なく政治する政府は、最良の政府」(最大判昭23929刑集二-一〇-一二三五)という近代立憲主義を最高の原理としているにも拘わらず、である(憲13条)。

 国は、NHKの維持運営をしない者は自分のテレビで時、所及び方法あるいは態様を自由に選んでNHK以外のテレビを見てはならないという基本姿勢に立っているのだ。他に娯楽遊興の機会を得ることの少ない年金受給者その他の貧乏人等弱者は、「なけなし」の金で「せめてもの」テレビを買ってはならないという姿勢を取っているのである。NHKを維持運営しない者は、テレビを利用した「知る権利」など行使してはならないというわけである。そのような状況でも、下級裁は、「知る権利」は侵害されていないとして平然としている。その下級裁には、上記の最高裁の見解や日本国憲法の原理など、何処吹く風なのだ。その憲法解釈の姿勢は、余りにもいい加減である故に不法行為を感じさせるほどなのだ。

 ともあれ、そのような弱者いじめの立法、行政及び司法の国を上げての姿勢?に呼応してか、NHKは、一部をNHKから締め出している。受信料を支払っていない者あるいはそれに関連して、「紅白」に申し込めないように、あるいは「子供番組」に参加できないようにしているからだ。テレビを持てない者とか、受信料を支払っていない親を持つ子供をそれらに接近できないようにしているのだ。

 租税でもない負担を貧乏人等弱者に限らず、理不尽にすべてに課してはならない。立法も行政も下級裁も、放送が国の支配服従の権力行為でなく、非権力のサ-ビス行為の一部であり、「知る権利」のような精神的自由権である基本的人権が、経済的自由権である基本権と異なり、国による政策的な規制などできないことを思い起すべきと思うのだが。

 

 

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