masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

2016年02月

国によるサ-ビスの押し売りの説明責任

 

 日本国憲法12条は基本的人権を含むその憲法が保障する「自由及び権利」(以降、「基本権」という。)について「不断の努力によつて」保持されなければならないことを規定している。しかしながら、わが国が独立して久しいにも拘わらず、国民の身近のところで占領軍の残滓が放置され、基本的人権を含む基本権が侵害されている状態が続いている。

自由主義圏における憲法が保障する基本的人権を含む基本権はフランス国法学にいわゆる憲法の論理に立脚しており、多数の意思からもそれを保護されるものである。それ故、それは立法によっても侵害されない。

ところが、国はこれもフランス国法学にいわゆる民主制の論理を偏重しているのか、多数の意思を論拠にサ-ビスの押し売りをしている。現在わが国はNHKが無くても自分のテレビで時、所および方法を自由に選択してテレビから情報を得られる状態にある。しかしながら、国は立法によってNHKと受信契約をして受信料を支払わなければ自己のテレビで自由に民放の放送局のテレビ放送を見てはならないように仕組んでいるのである。そのような国の姿勢を後ろ盾として、NHKはテレビ、パソコン、携帯電話およびカ-ナビを持っている者に対して受信契約や受信料を請求している。財産権の保障は財産の取得、使用、収益、処分の自由の保障を内容とするが、現実には、国民等はNHKと受信契約をして受信料を支払わない限り、自己のテレビに係る財産の取得あるいは使用等財産権は制限され、また最高裁も認めた「知る権利」あるいは「知る自由」(最決平1811・2、最大判昭441015)をはじめとする基本的人権を含む基本権を享有できないのである。

一体、日本国憲法は弱者救済の原理を例外として「最も少なく政治する政府は、最良の政府」とする近代立憲主義を基盤とした社会的法治国原理に立脚している(最大判23929)。それ故、国によるサ-ビスの提供そのものは違憲ではないが、その強要は厳禁されるのである。NHKが弱者救済と無関係であることはテレビを買えず受信料を支払っていない者を紅白の直接観覧から締め出し、受信料を支払っていない親を持つ子供を子供番組から締め出していることから明らかである。

サ-ビスとしての公共放送が「必要」であるか否かは論者によって異なろう。そのような存在が「望ましい」とする者も少なくはあるまい。しかし、「必要」と「望ましい」とが異なることは、かつてアメリカ合衆国(以降、「合衆国」という。)で第一次合衆国銀行の設立に際してジェファ-ソンらが主張したところである。合衆国では、連邦議会は「必要かつ適切」な立法を行える(憲法1816項)ものの、合衆国銀行設立が「望ましい」というだけでは合憲とならないというわけである。にも拘わらず、ハミルトンの強弁によって合衆国銀行は設立されたが、それが最終的に廃止されたその根には、違憲論が底流に存したこともあったのである。

わが憲法には、「必要かつ適正」というような立法権の幅を広げた規定はない。にも拘わらず、NHKが存在したのは超憲法的に存在したGHQの威光が存したからである。しかし、日本国憲法下、一部教育を除いて国がサ-ビスを強制できることは認められていない。経済的自由権については、政策的な公共の福祉に適合するように規制できる(憲法22条、29条)が、その政策のための財産の公用には正当な補償が必要である(同29条)。したがって、国民が財産権を奪われるのは公共の福祉を実現するために正当な補償を伴った場合である。もとより基本的人権については、政策的な公共の福祉による規制は認められない。ところが、公共の福祉を実現すべきNHK(放送法15条)は偏向報道に確認されるごとく、報道の自由とか表現の自由等私権を享受しているから、その維持運営が政策的な公共の福祉を実現するものとは限らない。にも拘わらず、放送法64条がそのNHKの維持運営のために国民等の基本的人権を含む基本権を制限するのは明らかに違憲である。

日本国憲法下、権力を持たないNHKとその他の国民等は対等であり、自由な意思に基づく契約によって両者の関係が生ずるが、国は国民等の基本的人権を含む基本権を憲法に反して規制し、NHKの放送を強引に押し売りする法制を設けている。ならば、国(あるいはそれを立法した国会議員たち)はその法制の合憲性を説明する責任がある。またその法制を後ろ盾にして国の意向を実現しているNHKも同様に説明責任を果たさなければならない。最早、GHQの威光は通じないのである。日本国憲法が文字通り最高規範となっているこんにち、ただ単に放送法64条が定めているから受信契約をして受信料を支払えという姿勢は取り分け基本的人権が強く保障されたその憲法の下では絶対に容認されないのである(憲法11条、13条、97条、98条)。

浮石沈木を許すな-小山和伸教授とメディアに関する講座-


 2月4日、PCでメディアに関する社会人講座を行なわれているそうな小山和伸神奈川大学教授のネット放送を見て、30年以上前の出来事を思い出した。

かつては貧乏暇なしとて、NHKのラジオもテレビも余り視聴することがなかった。

そのNHKに関連して、何時の頃からか、独協大学故中村粲教授であったかあるいは教授の関係の組織からであったか記憶が鮮明でないが、NHKの報道を糺す情報が時として届くようになっていた。しかし以前は、「天下のNHKがまさか」という気が何となくしており、事実を確認するという作業は怠っていた。

ところが昭和571982)年、中村教授の想いを確認させる出来事が起きた。その年、教科書検定で「侵略」を「進出」と書き改めさせたという報道が一斉になされたのを契機として、である。そのような報道が誤報であることは、渡部昇一上智大学教授(当時)が逸早く指摘されていた。筆者は、実証的に発言されていた渡部教授の指摘に従い、講義中の成り行きで時事問題に触れた際、検定に関して誤報が罷り通っていることに言及した。途端、学生からかなりの反論が上がった。その反論は、NHKがニュ-スで教科書で改竄がなされた部分を示しながら報じていたというものであった。その報道がNHKの何時の報道かについて学生に確認したわけではなかったが、NHKの午後9時から一時間なされていたニュ-スであれば、筆者も偶々視聴することができた。しかし、そのニュ-スでは、原稿本と検定本とが並べて報じられていたわけではなかった。筆者が視聴した範囲では、ただ単に「ここが改竄された部分」として検定後の教科書がクロ-ズ・アップされるという報道の仕方であったのだ。そのことを学生たちに確認すると、反論は直ちに消えた。しかし、そのことによって学生たちのNHKに対する信頼が失われたわけではなかった。それ故、筆者の言辞に対する疑いは依然として残ったようであった。否、表情からして、天下のNHKの報道を覆そうとする人士など変人どころか、侮蔑の対象でしかないというようでもあった。

小山教授の講座では、NHKの誤報を指摘し事実の問題を繰り返す教授に対する受講者の不満が顕現したらしかった。詳細は不明であるが、思うに、メディア講座であればこそ、事実の問題は頗る重要である。虚報あるいは誤報を放置して事実の問題を語らないメディア講座など、全くもって瓦の鶏に等しい。況してや、NHKは公共の福祉に適合すれば済む民放と異なり、公共の福祉を実現すべき公共放送である(放送法15条)。公共放送が報道の自由とか編集の自由といった私権を行使して、誤報や虚報を重ねることは明らかに違法行為なのだ。日本国憲法に反して民放の放送を自己のテレビで時、所、方法を自由に選んで視聴する権利を妨害して、NHKと関わらない限りテレビ情報について自由に知る権利を行使してはならないように仕組み、放送の押し売りをしているに等しい放送法が定めた公共放送であればこそ、その姿勢は、常に監視され正されなければならないのである。

影響力あるNHKの報道を常に真に受けている者は決して少なくない。「NHKが報じていた」とか、「NHKに取材された」とか、「NHKに出演した」とか等NHKを畏敬し評価する者は非常に多いのだ。誤報虚報を構わずそのNHKに信倚して自己の見解とし、それをこそ絶対とする見解が漸次一般化して幅を利かして威力となり、その批判をも罷りならぬとして他を許さない、石を浮かし木を沈めようとする状態を惹起しては決してならないのだ。メディア一般についてはもとより、とりわけ公共放送についてはその事実報道の問題を蔑ろにしてはならないのである。


 

 

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