masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

2017年01月

廃止しよう最高裁裁判官の国民審査制度

 日本国憲法792項は最高裁の裁判官に対する国民審査について規定している。この規定は日本国憲法が規定する最も馬鹿馬鹿しい規定の一つである。この規定が国民が持つ公務員の選定罷免権(憲法15条)の具現の一つであることは明らかであり、その制度の存在理由はいかにも尤もらしいが、その制度には実が無いのである。

 その制度の存在理由として司法の頂点にある最高裁裁判官選定の民主化および内閣による最高裁の長官の指名権とその他の裁判官の任命権の濫用の防止といえば聞こえは良いが、その審査権を持つ国民の殆どはその選定および監視の能力に全く欠けているのである。筆者の経験では、最高学府で法を専門として学びながら最高裁の長官の名前を上げ得た学生は皆無に近かった。況してやその他の裁判官となると余程の者でなければその名前さえ上げられず、裁判官の資質や能力や性格となると全く分からない。自分で審査をしているにも拘わらず、である。尤も、筆者も他人のことはいえないが。

 司法は基本的に政治的には無色であるべきだが、最高裁裁判官の審査制度は特定の勢力によって政治的に悪用されることがある。かつて元外交官であった裁判官が特定の思想勢力によって意図的に狙われたという事例があった如くである。裁判官も人の子、そのような結果その審査姿勢に反応し、最高裁が政治化するとすれば国民にとって弊害であり不幸でもある。

 その価値の無い制度が全国規模で行われるとなると人、物、金だけでなく時間的にも無駄である。多くの人を使い多くの資材を用いてそれらのためにかなりに高額の金を投じ、制度の運営に携わる者たちにとっては合計すると無駄な時間が膨大に空費されるのだ。その審査が衆議院議員の総選挙の際に行われることから審査する国民の時間は個々には大したことはないが、これも総計すれば多大な時間が無駄となることには変わりない。

 一体、国政のあらゆる部門を民主化すればすべてが良くなるというわけでは決してない。民衆というのは総じて耳目に入る政治部門についてさえ必ずしも判断力があるわけではないのだ。そのことは自分で選挙する被選挙人についてさえいえることである。選挙制度に選挙区制が設けられるのは選挙人が誰が一般国政について優れた人物であるか分からないからである。それでも身近の者であれば、選挙の範囲が狭ければ誰が誰よりも秀でているということが分かりそうだという淡い期待からである。しかし実際にはそのような選挙区制を採用してもその期待が実現しているかは疑問である。特に社会が相互に孤立化し移動が激しく長く定住する者が少なく隣が遠くなっているこんにちではそのような淡い期待でさえ薄れつつあるのである。隣人さえ遠い存在であるのにそれより遠い人の政治的資質や能力など分かりようも無いのだ。

 況してや、普通に暮らしている人にとっては裁判所など縁遠い存在である。それも東京にある最高裁ともなると東京以外の人にとっては知るのは名前だけという存在でしかない。

殆どの者が裁判が行われるところということくらいは分かっていてもどのような裁判が行われるかさえ知らないのである。そのようなところで働く人がどのような人であるか、どのようなことを審査の基準にしたらよいか、その審査のための資料あるいは情報をどのように集めるかなど全く分からないのだ。それも、任命されて最初の衆議院議員総選挙が審査の機会となると余程に注目を浴びた事件で余程に注目を浴びる特異な補足意見、意見あるいは反対意見でも述べない限り人々の耳目を集めないし、その場合でも多分に総選挙までの一・二回の事件では理解されるとは限らないのだ。否そのような場合でも、多くの人は最高裁に目を向けていない。多くの人にとって大谷のホ-ムランや投球が関心事であり、石川さゆりの結婚や離婚が興味の対象なのだ。総選挙後仮に上記のような特異な注目される意見を重ねて良くも悪くも少しは理解されたとしても、最高裁の裁判官は60歳を超えて任命されるのが普通であるから、定年が70歳であることから再審査されることはない。

 日ごろ税金は高いとか税の無駄遣いを嘆く国民がこのように無駄で贅沢な民主制を否定しないのが不思議だ。日本国憲法79条の最高裁裁判官の国民審査制度は民主制の無駄な飾りに過ぎなく廃止されるべきである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在の二院制は改めよ

 日本国憲法43条は「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と定め、民主的な二院制を確固とさせた規定である。ここで両議院とは国会とは異なり、衆議院と参議院のことを意味するが、そのそれぞれが等質のものであれば、二院制は著しく存在意義を失う。かつてシェイエスはアレキサンダ-に図書館を建てることに異論のあったオマ-ンのカリフが「図書館がコ-ランと一致すれば無用であり、一致しなければ有害である。」と述べたことに倣って「第二院が第一院と一致すれば無用であり、一致しなければ有害である。」と述べたが、時に参議院が第二院の存在意味らしいことを示すことがあっても審議の質を高めたものではなく単に少数のごね得で大したものではなく、わが国の二院制の大勢はシェイエスの批判の通りといえる。

 現在衆議院と参議院の差異といえば、衆議院が持つ立法、予算、条約および内閣総理大臣の指名における優越権能、両議院議員の任期および参議院の緊急集会の違いだけである。最近では最高裁もいわゆる一票の価値の平等を求める訴訟に関連して確認される如く、参議院の特殊性といったことに注目せず両議院議員をそれぞれ多数の意思を反映させる制度によって選挙することを方向づけているから、両議院議員の等質化は益々進み国政は都会人の意思で進んでいる。国会議員について衆議院議員らしさとか参議院議員らしさというものは最早無く、参議院議員は単に衆議院議員の選挙に勝利し得ない者たちであるいわば衆議院議員の落ちこぼれといっても過言ではない。参議院は国会に行き皮肉をいえば「先生」と呼ばれたい人々の名誉をつくる贅沢な民主的な制度なのだ。

 同じ二院制といっても、米国の場合、元老院議員が州(民)の代表であるのに対して衆議院議員が合衆国(国民)の代表として性格を異にし、それぞれに存在意義を示している。英国は貴族院の民主化は進んでいるものの、それでもその院は階級的な特質から漸次国家的有意な人物を集める性向を示して貴族院としての特質を備えるように仕組まれており、全国民を代表する数の政治を行う庶民院とは異質である。

 わが国の両議院はその選挙制度も地域代表制と比例代表制という基本的に等質の議員を生む制度である。それ故、両議院に時にねじれという現象が起きても、政党選挙の自然の結果として基本的には衆議院の第一党は参議院でも第一党であり、衆議院の第二党は参議院の第二党である。そして両議院のそれぞれの政党が大方の場合意見を異にするはずもないから、両議院において同じ審議が繰り返される。かつて石原慎太郎氏は参議院を衆議院のカ-ボン・コピ-と述べたが、その事象はこんにちも概ね変わりなく、ただ二院制は政権の揚げ足取りあるいは言い間違い等に目をつけて少数党が審議を唯々引き延ばしたり妨害するだけの機能を営んでいるに過ぎなく、国会の審議の質の向上とか良質の意思決定を生む制度では決してなく、時に少数の意見の反映といえば聞こえはいいが、多数の意思を反映すべき民主制で少数の我儘が実現される程度に過ぎない。

 そもそも民主政治は頭「数」の政治であって、意思決定の質の向上を高める政治ではない。政治の質を高めるには優れた知識、能力あるいは経験等を活かす外に無いが、わが国ではそれらの存在は身分が保障されて知識、能力あるいは経験等を蓄えている公務員とか、法的に比較的に秀でた裁判官等いずれも非民主的に選ばれるものだけで、国会にはそのような者を集める仕組みはない。それ故、わが国会には「数の政治」の場はあっても「理の政治」の場はないのである。現在の二院制は共に「数の政治」の場であり、それも最高裁はそれをより等質のものへと傾けているのである。

 そのような欠点を改めるには日本国憲法43条を改め衆議院を「数の政治」の場とし、参議院を「理の府」とするように工夫する必要がある。二院制が単に少数のごね得による意見反映の制度として機能することは多数の民意を反映すべき民主主義に反する。ただ民主主義は良質の政治の結果を生む原理ではないから、政治の質の向上のためには国会に「理」の政治の場も不可欠と思う。

モンロ-主義ではないトランプ政策

 トランプ大統領が船出して選挙公約の実施を始めている。失礼な表現だが、凡人の身にはトランプ大統領が馬鹿か利口か全く分からない。分かるのは「米国一」という選挙公約を守ろうとしているということだけである。新聞や雑誌のトランプ評は目にしているが、根がひねくれ者であるから、神ならぬ学者や評論家の知った風な論評に得心するわけでは決してない。

 トランプ大統領の問題ではないが、オバマ前大統領のTPPに対する姿勢には安倍首相も失望したのではないか。TPPについては良く分からないが、わが国をそれに巻き込んだのはオバマ前大統領であったはずだ。近年のわが国が取り分け対米関係において独自性に欠けていることはTPPに限ったことではなく習性化しているようであるが、菅直人民主党政権が突如として理解していたとも思えないTPP参加を表明したのは米国の御機嫌取りのためであったような気がする。当初それに批判的であった自民党が政権を獲得するや前政権の姿勢を踏襲したのがオバマ前大統領の機嫌を損なわないためであったか、それとも真にTPPの必要性に気が付いたからか筆者には不明だ。それにしても、TPPに関してオバマ前大統領を信頼している風に見えた安倍政権が熱意をもってTPPの実現に邁進したのは事実である。ところが、(正確性に信頼が置けるか問題はあるものの)最後まで世論調査で高い支持を示し、「自分であったら大統領選挙に勝てた。」と嘯いた程の肝腎のオバマ前大統領は最後までその実現に全精力を注ぐことなく任期満了を前にしてその実現を諦めてしまった。TPPは実現していないものの、オバマ前大統領からトランプ大統領にかけての米国は国際連盟を提唱してそれに加盟しなかったウイルソン時の米国のいわば二の舞を示して見せたのだ。そして安倍首相は梯子を外された。

 トランプ大統領の米国についても安倍首相には慎重であって欲しいものだ。オバマ前大統領の米国は口ではインテリ-を喜ばせる世界的な理念を掲げながらも「最早世界の警察官とはならない」と内向きになり始めていた。そのような自身喪失の姿勢はトランプ大統領にも踏襲され、金銭あるいは利益次第であろうが、大統領をして内向きにさせている節がある。

識者の中にはそのトランプ大統領にモンロ-主義を重ねて論ずる者が少なくない。しかし、両者に類似の点が無いではないが、トランプ大統領は内に籠ろうとしているわけでは決してない。かつて1812年の対英戦争で互角の戦いをした米国は「自信」とナショナリズムが広まりを見せながら、その後商業主義の擁護者となり、道路や運河等の建設を進めながら、対外的にはモンロ-主義へと走ったが、それは飽く迄も反英、反欧的な相互不干渉の政策であった。これに対してトランプ大統領の米国は「弱気」とナショナリズムとが広がりを見せながら、商業主義の擁護者となり、高速道路や空港や国境の壁等を建設しようとしながらも、対外的には金銭感覚による交流の姿勢とテロと不法入国に対する警戒等とが支柱となった政策を採っているようなのだ。それもモンロ-主義は国民の支持を得ていたが、トランプ大統領の姿勢は国論を分裂させている。他方で世界の多くの国がトランプ米国の対価関係に基づく保護主義に不満を抱いても、米国との交流を求めている現状にある。トランプ大統領は全てに米国優先による米国の復活を主眼としているようなのだ。そして「米国第一」のスロ-ガンの下に弱々しかったモンロ-大統領と異なり、成否は不明であるものの、利己的に強い米国を造ろうとしているように思えるが。安倍首相にはそのようなトランプ大統領の御機嫌取りにはなって欲しくないものだ。

 

天皇制安定のための喫緊の課題

 ネットを見ていたら、天皇のいわゆる生前退位の論議が非常に活発のようである。一寸だけ見たが、政治家もネットで自分の意見を流しているようだ。

 ネットでは、天皇のいわゆる生前退位の問題に関して天皇を憲法より上位にあると説く者とか、天皇の譲位が歴史の常態であったかの如く説き「退位」を認めなかった大日本帝国憲法期は歴史の例外のように説く者とか、占領政策で天皇を法律の中に閉じ込めたと説く者とかいろいろな意見が確認される。戦前生まれとはいえ戦後教育を受け国民主権主義を抵抗なく受け入れて来た筆者には馴染めない考え方もかなり見られるようだ。

大日本帝国憲法制定に貢献した尊王の政治家伊藤博文は天皇を超憲法的で神(God)がかり的に解する考え方には反対であった。大日本帝国憲法における臣民の「権利」に関する規定の存在はそのことを示す一例でもある。一体、天皇が神がかり的な存在であれば、権力者に対する不信から生まれた近代立憲主義などわが国では無用で憲法など制定する必要もなかったはずだ。欽定憲法とはいえ大日本帝国憲法の「権利」規定は天皇の権限を規制するために設けられたのである。ただその場合、わが国で大日本帝国憲法を制定した天皇とは君臣一如の思想の下に臣民と対峙した天皇ではなく君臣一家、臣民と一体化した天皇であった。大日本帝国憲法はそのような臣民と一体化した天皇が則を超えないように制定されたものであったのだ。その際、伊藤には基本的に宮中・府中を区別する考え方があり、宮中が政府に干渉して世俗に塗れるのを防いだり、他方で府中の宮中への干渉を排除し宮中の安泰を心した節があった。

 その後皇室の事を天皇の私事とするのは国史ではないとする伊東巳代治らの動きもあり、皇室典範は皇室の家法として制定されたものの、皇室典範の下に皇室令が設けられ、それが府中に関わる場合の国務大臣の副署の制度が設けられた。皇室を国家の要素とする動きである。

 更にその後、不幸な運命を辿ったが、昭和天皇も与した国を法人とし天皇をその国の機関とする考え方も現れた。その天皇も与した考え方を否定したのは己の考えを天皇のそれに優位させた天皇を神がかりに考えた人士たちであった。

 そのような者たちに属するのか、今また天皇のおことばに現れた「退位」のご意向を崩御のみを皇位継承の要件とした皇室典範という法律(や憲法)に閉じ込めるなと論ずる者がいる。それもその論に際して天皇の人間性という訳の分からないことを論ずる者もいる。しかも、「退位」を国史のように説きながらそれを認めなかった明治の先人の英知を国史の例外としているのだ。そのように説くに際して共産党も賛成しているとして皇室典範による皇位継承の要件の改正を主張するから理解が難しい。

一体、死を忌み嫌い崩御を皇位継承の契機とすることをできるだけ避けようとした過去の人々の歴史的な考え方を常識と解して現在の論議を行うわけには行かない。死は厳粛な事実であって決して忌み嫌われるべきものではないのだ。また、皇位継承を崩御に限った皇室典範に天皇を封じ込めるなというのであれば皇室典範の改正なども必要ないはずだ。況してや天皇の人間性とは何を言いたいのか全く不明だ。それが天皇の人権を意味するのであれば、皇族の人々の皇位継承拒否権あるいは皇族離脱の自由をも認めなければなるまい。天皇に認められようとしている願望の実現がなぜ他の皇族には否定されることになるのか。かつて多分により身近に国民のために尽くすためと皇族離脱を口にされた殿下も居られたが、それさえもママならなかった法的・現実的な事情があった。その人間性?はどうなるのか。しかしながら、天皇および皇族を安易に一般の国民と同水準で考えるわけには行かないのだ。

 日本国憲法には天皇にも憲法尊重擁護の義務が規定されている(憲法99条)。その則を超え得るのは超憲法的存在だけである。天皇は決して超憲法的な存在ではないと思う。憲法は飽く迄も実定法の「最高」規範だ。まさか韓国のように憲法の上に国民情緒法を認めるわけでもあるまい。多くの人が求めているのは法の支配であって、国民情緒の支配ではないのだ。
 憲法上国政権能を持たない国民統合の象徴である天皇(憲法
4条、1条)によって提起された国政問題が国民世論を複雑に分裂させながら、今、主権者国民を構成する現存の国民の手で解決されようとしている。天皇を超憲法的に捉える者たちにとっては不敬の極みであろう。それでいてそのような者たちも問題解決のための論議に参加しているのだ。要するに、問題が浮上した以上、皆で考える外にないのだ。

 天皇について真っ先に規定する日本国憲法上、天皇が絶えれば違憲となる。それ故、筆者には、天皇制の安定こそ日本国憲法を守ることになる以上、皇位継承の問題以前に先ずは適当な元皇族の復帰こそ喫緊の課題だと思うのだが。天皇の公務の軽減は第二次的で、万一陛下にご不例があっても代行あるいは摂政の制度が存在する。皇位継承はその後の問題のように思えるのだ。

                 内閣総理大臣が欠けたとき
 日本国憲法
70条は「内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。」と定める余りはっきりしない規定である。

 「衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。」という部分については問題はない。内閣は前の衆議院の信任の下に存立していたわけであるから、新たな衆議院が生まれた場合にはその信任による新たな組閣が必要とされるのである。したがって、総選挙後の最初の国会で内閣が総辞職するのは当然の事理である。

しかし「内閣総理大臣が欠けたとき」に「内閣は、総辞職しなければならない。」という規定には問題がある。それでも、国会開会中に「内閣総理大臣が欠けた」ときには、内閣が総辞職してもその国会で直ちに内閣総理大臣を指名できるし天皇によるその任命も可能で新たな組閣もできるから問題はない。問題は衆議院が解散されている場合あるいは衆議院議員の任期が満了した場合に「内閣総理大臣が欠けたとき」の内閣の総辞職である。それらの場合には当然に衆議院議員の総選挙が行われる。そうして総選挙後の初めての国会が召集されたときは内閣は総辞職しなければならないのである。それらの事態は原則として参議院の緊急集会(憲法54条)を求め得る緊急事態であるとは思えない。とすれば、衆議院が存在しない以上、国会は内閣総理大臣を指名することはできないから、したがって、新たな組閣もできない。日本国憲法は何ら規定していないが、それらの場合については内閣の総辞職が禁止されるような規定の仕方がなされるべきであったろう。

序に述べるが、「内閣総理大臣が欠けた」ときについて内閣総理大臣の死亡あるいは辞任のときがそれに該当することは明らかである。また、内閣総理大臣が国会議員を除名された場合については日本国憲法に規定はないが、衆議院が解散されたり衆議院議員の任満了のときのような内閣総理大臣が有すべき議員資格の例外ではなく、日本国憲法は「内閣総理大臣が欠けたとき」になることを予定しているものと思われる。しかしその場合、除名と同時にその状態になるのか、それとも内閣総理大臣の義務的な辞任を要件としているのか日本国憲法は明らかにしていない。まさか、議員の資格を欠いても内閣総理大臣としては在任できるというのではあるまい。

日本国憲法では内閣総理大臣が生きていることは明らかでも自らあるいは何者かの強制によって行方不明になった場合、どの程度の日数が経てば「内閣総理大臣が欠けたとき」になるのかについても明確に規定していない。特に後者の場合、外国勢力の行為が介在しているときには問題はより複雑となる。しかし、内閣総理大臣の地位をいつまでも実質上の空白にしておくわけには行くまい。

また内閣総理大臣の失踪宣告について民法の普通失踪や特別失踪では「内閣総理大臣が欠けた」ときとして長過ぎることは論ずるまでもあるまい。この場合には行方不明の一環として考慮すればよいものと思う。

さらに内閣総理大臣が亡命する場合も考えられないことではない。その亡命については国内政情による場合とわが国の全部または一部が外国に席捲された場合とが考えられる。そのうち後者の場合は日本国憲法が機能し得る状態と機能し得ない状態が考えられるが、日本国憲法が機能し得ない状態についてはその憲法によって解決することはできない。そのうち前者についても事態によって判断は異なろう。

余り現実的ではない想定であるかも知れないが、諸外国では歴史的にいろいろな事例が存するところである。

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