masaoka2010のblog

憲政等の問題に関する愚見の開陳

2017年06月

正直に見よう「日本国憲法制定過程」

 憲法学者の中には、歴史を直視することを馬鹿にする者が依然としている。日本国憲法を評価するのは構わないが、評価する故に痘痕も笑窪、その憲法が制定された過程をまで独特の色眼鏡で見て、それを何としてでも日本国民によって制定されたものと看做そうとし、それも、その過程を正直に見て押し付けられたと論ずる者を蔑むのだ。

そのような立場をとる者は、わが政府が提案した日本国憲法案の前文だけでも読んでみて欲しい。日本国民が自らの手でその改憲案を練ったのであれば、その前文(案)に示されたような文章をつくるはずもなかったのだ。その日本国憲法案を知らない者のためにその前文を以下に記しておく。
 「日本國民は、國會における正當に選擧された代表者を通じて、我ら自身と子孫のために、諸國民との間に平和的協力を成立させ、日本國全土にわたつて自由の福祉を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が發生しないやうにすることを決意し、ここに國民の總意が至高なものであることを宣言し、この憲法を確定する。そもそも國政は、國民の崇高な信託によるものであり、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行ひ、その利益は國民がこれを受けるものであつて、これは人類普遍の原理であり、この憲法は、この原理に基くものである。我らは、この憲法に反する一切の法令と詔勅を廢止する。
 日本國民は、常に平和を念願し、人間相互の關係を支配する高遠な理想を深く自覺するものであつて、我らの安全と生存をあげて、平和を愛する世界の諸國民の公正と信義に委ねようと決意した。我らは、平和を維持し、専制と隸從と壓迫と偏狹を地上から永遠に拂拭しようと努めてゐる國際社會に伍して、名譽ある地位を占めたいものと思ふ。我らは、すべての國の國民が、ひとしく恐怖と缺乏から解放され、平和のうちに生存する權利を有することを確認する。
 我らは、いづれの國家も、自國のことのみに専念して他國を無視してはならぬのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであると信ずる。この法則に從ふことは、自國の主權を維持し、他國と對等關係に立たうとする各國の責務であると信ずる。
 日本國民は、國家の名譽に懸け、全力をあげてこの高遠な主義と目的を達成することを誓ふ。」

この日本国憲法案の前文を読めば、それがGHQ案の翻訳故の可笑しさに直ぐに気が付くであろう。たとえば、「國會における正當に選擧された代表者を通じて」という文章は中学生でも気か付きそうな明らかな訳文である。その訳が間違っているわけではないが、法の素人がこの文章を読めば、「正当に選挙された国会における代表者」ではなく、恰も「代表者が国会によって選挙される」ように理解され兼ねないのだ。その文章は明らかに翻訳であればこそ、の文章なのだ。

「我ら自身と子孫のために」という表現は翻訳としても忠実ではなく、むしろ英文の方がよく、少なくとも日本人の書き方ではない。

「諸國民との間に平和的協力を成立させ」という書き方は「諸国民と平和的に協力し合う」ということであろうが、日本語として自然ではない。「協力を成立させ」という表現はわが国民が自然に行うところではないのだ。

「自由の福祉」という用語法は翻訳であればこそ生まれたことばであろう。このような分るようで馴染めないことばは、わが国民の独創的表現ではあるまい。

「国民の崇高な信託」という表現も決して自然な日本語ではない。「崇高」と「信託」とがしっくりと結び付かないのだ。

「専制と隸從と壓迫と偏狹を地上から永遠に拂拭しようと努めてゐる國際社會に伍して」という文章は「と」で繋ぎ過ぎており、わが国民が練った文章であればひと工夫したであろうし、「国際社会に伍して」ということばは訳語故の表現であって、内容的にも響きにおいても評価されまい。

 その他にも助詞の可笑しいところとか不自然な用語法等欠点はあるが、当然のこととして、この前文案はかなりの程度訂正された。それでも、その訂正も飽くまでもGHQの了承の下で、全的修正などできることではなかったから、日本国憲法の前文でも依然として翻訳調は払拭されていない。しかも、内容的にはほぼそのままである。その結果、日本国憲法前文は内容的に書き出しから事実に反することを維持したままとなり、また、こんにち依然としてかなりの人々の批判を浴びる宣言となっている。

 本当にわが先人が改憲案(前文)をつくったのであれば、上記のような不自然な文章ではなく、内容的にももっと主体性を帯びた宣言となったはずである。

 日本国憲法は内容的にも欠点があるが、その制定に係る歴史の事実は事実として正直に認めた方が良いと思うが。

改憲しないで改憲する米国の「生きている憲法」論

 実質的憲法の問題はさておき、文字通り「憲法」(Constitution)であることを名乗る米国憲法は形式的憲法としては世界最古の憲法である。それは至極個人主義的で自由で民主的な憲法である。それは、米国がその国土の拡大に伴う戦争や人種等の国内問題に係る内戦、遅ればせながら参加した二つの大戦、大恐慌等といったその他の国であれば大きな国家の変革を齎す出来事を重ねて来たにも拘わらず、また、取り分け20世紀に入って自由主義に対する修正原理が幅を利かすようになったにも拘わらず、その基本原理を改正もせず、依然として存えている。その改正の頻度は200年有余の歴史をもつ憲法としては少ないのである。19世紀に勢いを示した実証主義は自然の法と自然の神(天主)の法によって独立した米国でも観念論の天主が創った自然法の思想に基づく政治原理に動揺を齎したが、それでも、米国は憲法を変えることがなかった。それも、20世紀のナチズムへの勝利は再び天賦の生命、自由および幸福の追求の信念を確たるものとしているのである。

 それでは、18世紀の政治原理を維持している米国憲法はなぜその基本原理を動かすことなくこんにちもその基本的なかたちを留め、取り分けジェファ-ソンによって起草された「独立宣言」中の「生命、自由および幸福追求の天賦の権利」をその憲法によって追求し続け得て居るのであろうか。

 そのような憲法的安定の基盤にあるのは高度の思想を掲げながらもそれを巧みに目前の事態に当て嵌めようとする米国人の現実的合理主義の生き方である。それは、米国の祖国イギリスの(実質的)憲法が事に直面して臨機にとられた現実的対応の結果である伝統を継受したものである。それ故、米国は、18世紀に謳った高邁な思想から巧妙な理屈を演繹しながらその都度現実の問題を超克し、そのような解決策をもって思想の枠内でいわば新たな憲法を生成させているのである。いわゆる生きている憲法(living constitution)主義が自然に生育しているのである。ジョン・マ-シャルが司法権のために簒奪した憲法が明示に規定していないいわゆる違憲立法審査権はその顕著な先駆的一例である。取り分け20世紀になって天主が創った自然法という観念論の下で現実的合理主義の手法を上手く取り入れ、憲法の進化を認める「生きている憲法」論が成育したのである。

 法学界もその性向を先取りしたかのように、ハ-バ-ド大学ロ-・スク-ルのクリストファ・ラングデルは「独立宣言」の思想を戴きながらも、進化論の思想を法学教育に取り入れ「ケ-ス・メソッド」を導入した。

 司法が他の影響を受けることなく判例を通じて米国憲法を操作しているには理由がある。「違憲立法審査権」を手に入れた司法権を持つ連邦最高裁はその裁判官の任用に関して幾分政治的影響を受けるものの、その裁判官か終身であり、その報酬を保障されていることが、他国の司法に比して政治からの独立性を顕著にしているのだ。そのようなことから、独自の道を歩む司法は民主的な政権の意向に必ずしも従順ではなく、ジェファ-ソンはもとより、取り分けジャクソンや二人のル-ズベルト等の大統領をイラつかせたものであった。ニクソンやレ-ガン等の大統領も同様であったようだ。そのような米国で、連邦最高裁の長官の中には、憲法をして連邦最高裁の「裁判官が憲法というもの」をいうと豪語した者さえいる。いかに合憲と思った民意反映した立法をしても、米国憲法界にいわゆる「多数決民主主義」に優位する「立憲民主主義」の標榜である。国政のすべての面においてではないとしても、司法権の優位が司法に携わる者によって主張されたのである。

 このような司法に対して、近時「原意主義」(originalism)の主張が顕著である。憲法改正権を持つわけでもない連邦最高裁による憲法に明示されていなことについての見解の表明に対して憲法を制定した者たちの本来の意図に基づく解釈を求める動きである。連邦最高裁による公立学校での祈り、妊娠中絶、同性愛結婚等に不満で憲法を作った人たちあるいはその憲法を支持した時代の人々の意図による憲法解釈を求める動きである。

 米国憲法の改正手続きは難しい。それでも、憲法の改正はなされているものの、その根本に係る改正は余りない。米国は、20世紀3四半世紀経っても、男女平等を憲法化することにさえ失敗したのである。そのような中で、たとえば、婚姻といえば男女の間というのが憲法制定者あるいはその時代の人々の意図であったろうに、昨今原意主義の主張が強くなっているにも拘わらず、連邦最高裁は、憲法が明示に規定していない同性愛婚を認めた。米国は18世紀憲法の基本原理を維持したままで、今後も憲法の改正によってではなく、民意を反映しているとは限らない非民主的な連邦最高裁による「生きている憲法」論を通して現実的合理主義に基づき進化論的に時代の憲法問題を解決して連邦最高裁による改憲をして行くのであろうか。

ネットに受信料制度の動き

 「NHK受信料制度等検討委員会」(座長=安藤英義・専修大大学院教授)が従来の制度を維持しながら、新たにネット受信料制度等を検討している由である。「検討委員会」の構成員がどのような者たちから成るか承知しないが、その委員会には法的な検討を真剣にして欲しいものだ。

 上記委員会の座長には大学院教授という肩書が報じられている。それ程の者であるから、国家機関ではないNHKが放送行政を自ら決めるわけには行かないこと、および、放送行政に係る立憲主義の国家行為について、先ずは憲法問題が生じないことを前提に、その作業を進めているものと思われる。にも拘わらず、上記報道のような結論に至る作業をしているのであれば、座長をはじめ委員会には、NHKに係る法律の合憲性の検討の結果を真っ先に是非明らかにして欲しいものだ。違憲の法律の下の作業など結果的に無になるからだ。
  先ず座長ら委員会には、契約をどのようなものと解し、放送法64条の「受信契約」をどのような行為と解しているのか明らかにして欲しい。日本国憲法で基本的人権等に内在して保障されている契約の自由に係る問題である。まさか座長ら委員会がその「受信契約」なるものを附合契約と解しているわけではあるまい。「
受信契約」が契約ではなく、その実届出であるからこそ、NHKによる不正な届出(不正な「受信契約」)工作も容易にできるのである。
 次に、その座長らが現代立憲主義の中枢をなす近代立憲主義をどのように理解しているのかについても知りたいものだ。少なくとも最高裁の見解くらいは承知しているであろう。また、日本国憲法13条は基本的人権の制限が最小でなければならないことを明示しているのだ。座長ら委員会が、日本国憲法の下で良け、目的がよければ基本的人権等を制限してよいと考えているとは思えないが。

 さらに、その座長ら委員会が日本国憲法が認める権力行為の範囲をどのように考えているのかについても知りたい。情報の提供が権力行為でないことくらいは学生にでも分かることだ。まさか大学院の教授らが国のサ-ビス行為も強制できるものと思っているわけではあるまい。

 その座長ら委員会も、サ-ビスが非権力行為である以上、そのような面で国と国民でさえ対等であることを承知しているものと思う。それ故、国立大学も国立病院も郵便も国鉄も国立劇場も国立博物館等々国のすべてのサ-ビスについて強制がなかったことは、多くの者が経験的に知っているところだ。まさか座長ら委員会が、国は情報サ-ビスを尤もらしい理由で国民に押売りして良いと解しているわけではあるまい。

 座長らには、NHKが国の機関ではなく私権をも行使している事業体であることを忘れて欲しくない。法の下の平等の下、国が権力を行使する場合の地方公共団体を別として、国自体を含めて相互の関係を対等に扱わなければならないことくらい、承知しているはずだ(憲法14条)。まさか、国自ら国民と対等な分野で、国が私権をも行使する権力機関でもないNHKを他のものに優位に立たせることができるなどとは信じていまい。

 大学院教授である座長であるから、立法の意味をきちんと掌握しているものと思う。そうであるとすれば、NHK(受信料訴訟におけるNHK側弁護士)のように、立法を一般的抽象的規範の定立という趣旨で捉えれば、放送法のNHKに関する規定はすべて違憲となることに気が付くはずと思うが。世界的に通説と思われる立法を一般的に国民の自由を制限するものと解しても、他の多くのNHKに係る規定はともかく、受信契約等について定める放送法64条は違憲となるはずであるが。
 座長らも、人々の自由を奪うことができるのは法律か契約であることについては承知しているものと思う。ところが、NHKの受信規約は契約でつくりあげた内容ではなく、人々を拘束するから、実質法律ということになる。とすれば、その制定に携わったNHKの行為は、国会を唯一の立法機関とする日本国憲法41条や代表民主制を強く謳うその前文に反することになる。そのようなことには気が付いて欲しいものだ。

 委員会には座長の他にも大学教授や、あるいは法律家もしくは法に精通している者はいるのであろうか。報道を見る限り、委員会が日本国憲法が定める公共の福祉について解析しているか不明であるが、委員会には、是非その意味についても改めて分析して欲しいものだ。その際、警察的公共の福祉については確と理解し、基本的人権及び基本権との関係について考察し、また既述した如く、NHKが政策的な公共の福祉をさえ実現せず、私権を享有していることについては看過することなく、意見を述べることを望みたい。

 ネットに受信料制度を設けるのであれば、日本国憲法が保障する基本的人権やその他の基本権に潜在する知る権利や同法が明示する通信の自由等を侵害せず、その他の憲法規定に違反しないものにしなければならない。その場合にも、放送法64条が違憲の百貨店であることには気が付いて欲しいものだ。
 委員会の活動状況はほんの一寸ニュ-スで知ったに過ぎないが、国民に負担を迫る国家作業のいったんを担う委員会には、上記のような点について是非見解を示して欲しいものである。その委員会が、作業の入り口にある憲法を意識していないで作業しているとすれば、そのような機関を設置する意味はない。

 なを序に述べるが、下級裁判決には、「受信契約」を契約と解しながら、NHKの放送を受信しない装置を設置している者についても、それを外す可能性があるという趣旨の理由で、国によるNHK放送の押売りを認めたものがあるが、そのような判決が罷り通れば、すべての可能性を理由に国民の自由や権利はすべて制限できることになる。そのような者が権力の座にあり、また基本的人権やその他の基本権の制限をしている放送サ-ビスの押売りに協力をする者たちがいるからこそ、必要ないわゆるテロ準備罪について行き過ぎた運用を異常に警戒心配する者たちも出て来る。

 

日本国憲法の恥ずかしい規定

 日本国憲法前文は「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と宣している。

 それを反映して日本国憲法9条は戦争を放棄し、同18条は奴隷的拘束等からの自由を、同27条は児童の酷使の禁止を、そして同36条は公務員による拷問の禁止等を規定している。

 これらの宣言や規定は平和主義的でも人道的であったわけでもないル-ズベルトの考え方をGHQが無意識に?あるいは意識的に継承してわが憲法に規定させたものであろう。

 ル-ズベルトがわが国を巧みに戦争へと引きずり込んだことは最近ではかなりの著書によって知ることができる。彼が後に広島や長崎に投下する原爆を製造させ、わが国民の人命を大量に奪うきっかけをつくり、また、彼がチャ-チルが反対したスタ-リンによるドイツ人将校クラス5万人の見せしめの処刑の提案に賛同したことはその平和や人道に対する姿勢を如実に示したものであった。それでいて、彼がわが国に対しては太平洋の島々を奪取占領したとか、満州、台湾、澎湖島を盗取したとか、朝鮮人を奴隷状態に置いたとか等カイロで宣言したのは歴史を歪曲した全くの暴挙であった。彼には下関条約も国際連盟の委任統治契約も全く存在しなかったかのようであり、また、わが国が朝鮮半島にダム、道路、学校、大学等をつくり、歴史資料を整理し、植林を行い、ハングル文字を復活させる等々に務め、朝鮮半島で収支が均衡した一年だけを除いて1910年から1945年まで東京から半島へ毎年資金を持ち出して一視同仁の姿勢を取り続け、内地に来れば参政権さえ認めたことなど知識として無かったものと思う。

 ル-ズベルドの影響を受けたであろうGHQがわが国の歴史や制度等に生半可な知識でたとえば、奴隷的拘束の自由や児童酷使禁止の規定や残虐な刑罰の規定を設けさせたのは、自国の歴史を無視した傲慢というより外になかった。

 米国は歴史的にいわゆる人種差別の国家であり、少なくとも1808年までは連邦でさえ奴隷の制度を肯認し、南北戦争修正条項(1848年)を導入するまでは南部に奴隷を認め、インディアンを居住区にいわば追い込み、20世紀に入って日系人に対して強制収容をさえ行った国であった。戦時中に志願兵とはいえ日系人部隊の第100歩兵大隊の扱いは奴隷とは言わないとしても、苛酷に過ぎるものであった。それ故、奴隷的拘束からの自由に関する日本国憲法18条の如きは、国史に鑑み頗る米国的なもので、至極古代を除き奴隷制など存在しなかったわが国に必要な規定ではなかったのだ。

 児童の酷使に関する規定もまた、そうである。わが国で児童を酷使する制度が存したわけではないから、憲法に規定するまでもなかったのだ。日本国憲法も義務教育を制度として認めるから、まさかかつての義務教育を児童の酷使と解したわけでもあるまい。民間の労働使用のことであれば、法律で解決でき、憲法に規定する必要はない。況してや、個人の尊厳を保障する日本国憲法13条があれば、児童の酷使を認める立法などできるはずもないのである。にも拘らず、その種の不必要な規定を憲法に設けるのであれば、「児童の酷使を認めてはならない。」と規定すべきであったのだ。しかし、国が児童を酷使したり法的に認めたわけでもないわが国には不要の規定であった。

 残虐な刑罰の禁止規定も、わが国には似つかわしくない。大日本帝国憲法下、わが国に人道に反するような刑罰制度などなかったからである。

 恰も未開国家の憲法でも設けるかのように、近代国家にとって当たり前のことが憲法に規定されていることは国民としては恥辱であり、できるだけ早く削除しなければならない。

 もしわが国が勝利し、米国憲法に「用便後は手を洗わせよ」とか、「就寝前に歯を磨かせよ」等といった規定を憲法に挿入させたとしたら、米国民もまた屈辱と考えるであろう。

日本国憲法を欽定憲法と見た?日本共産党

 日本国憲法については、国民主権主義に基づいた民定憲法というのが通説である。しかし、日本共産党(以降、「共産党」という。)がその憲法の実質を君主主権主義の欽定憲法と解していたことについては、余り知られていない。

 日本国憲法の制定に際して共産党が反対していたことについても、今では忘れられていることであろう。大日本帝国憲法の改正としての日本国憲法案が提出されるや、共産党の志賀義男議員は早速「憲法改正案」審議延期の動議を提出した。その理由は、第一に草案作成に「日本人民」全体の意向を忠実に取入れる用意が政府にはないこと、第二に草案発表後も政府が各界各層に草案を徹底させる手段方法を欠いていることにあった。そのような状況における審議は「日本国国民の自由に表明せる意思」によって政府を樹立するように宣したポツダム宣言に違反するというわけである。当時の共産党には未だわが国では民主主義が十分に成育していないから、憲法改正の時期的条件が整っていないという考え方が強かったのだ。

 共産党は日本国憲法案の内容にもかなりに反対であった。その最たるものとしては、天皇制を維持していること、自衛戦争をも放棄していること、二院制を存続していること、基本権の保障の仕方等が上げられる。

 これは当然のことであったが、共産党はさらに、憲法改正の手続きにも疑問を呈していた。大日本帝国憲法73条の改正手続きについては、天皇が発議権を持ち帝国議会は改憲案に賛否の意思表明をするが、内容変更の審議をしないというのがかつての圧倒的多数の解釈であったから、第90帝国議会で修正を含めた審議をすることに共産党が疑問をもったとしても不思議ではなかったのだ。

 しかし、日本国憲法案は提出された。その案を見て、共産党はそれを主権在民主義の衣を纏った主権在君の憲法であると理解した。その理由は、第一に改憲手続きが民主的でないということにあった。この点に関する共産党の見解は正解であった。新憲法を制定するための正規の民主的手続きなど確立されていなかったのだ。実際にも、GHQに押し付けられた改憲案で、それが総選挙の争点ともならなかったことなどを考慮すると、この点の共産党の主張に誤りはなかった。第二は時期が尚早ということであった。この点も筆者と理由は異なるものの、結論は一致する。筆者の考えでは、外国勢力によって検閲や公職追放が行われている時代は真の民定憲法を制定する時期ではなかったからだ。

 共産党はまた、改憲案の第一章が主権者国民ではなく天皇に関する規定となっていること、次に、改憲案は天皇に国政権能を認めない姿勢を示しているが、実際には、栄誉権、総理大臣等の任命権、国会の召集権および解散権、総選挙に関する権限等を認めていること、さらに、改憲案が天皇を荘厳なるものとするために栄誉権を認めていることを彼らが言う主権在民の根拠としている。

 さらに、国民の権利および義務のうち権利について公共の福祉に留保されているが、これは非民主的な規定であることが指摘されている。この理由は君主主権主義を補強するものとして上げられているもののようである。また貴族院に代わる参議院の制度を非民主的なものとし、三権分立制度を官僚制度を温存するためのものと見たようだ。

共産党はそのようなことを根拠に改憲案に反対したのである。しかし、これらの共産党が示した点はいずれも日本国憲法として実現している。

 ということは、日本国憲法は実質上君主主権主義の君主制を定めた憲法ということになる。しかも、欽定憲法である大日本帝国憲法の改正手続きがとられたのだ。共産党において、日本国憲法が欽定憲法となる所以である。

こんにちの共産党支持者はこのようなかつての共産党の日本国憲法に対する見解をどのように解しているのであろうか。

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